三井寺と新羅明神とのかかわりについての覚書
1.はじめに
新羅明神について興味を持ちえたのは、私の生まれ育った多治見の地に新羅神社があることによります。
多治見風土記によれば、この地には、土岐一族の田只見(たじみ)神社があり、八幡社を合祀し、正中の
変(1324年)で倒れた多治見国長の頃は、小さな社殿もあったという。その後は、社殿も荒廃し、社号も失
うに至ったと言う。
室町時代に入り、応永元(1394)年8月24日 旧神職 須賀家古文書によれば、「 新羅大明神ト勧請
仕候、丸キ大石を宮ト定メ参詣仕候」とあり、別の文書には、「明応8(1499)年8月新羅宮之勧請仕三井
寺中坊大僧正より授来る也」とあり、その間には、一世紀ものズレがあり、いずれが正しいのか不詳である。
が、社守が、三井寺派修験の信ずる新羅明神を勧請して、神社の興隆を図ったことは間違いなかろうと記
述されている。(多治見市史 通史 上 P.412〜413参照 )この新羅神社の祭神は、スサノオノミコト、八
王子神、八幡神であるという。
三井寺は、仏教寺院であり、新羅明神は、神であり、相容れないように思えました。が、確か明治期までは、
神仏混交であり、明治になって廃仏毀釈運動が起こり、仏教と神道は、分離したのではなかったでしょうか。
2.三井寺の起こり
貞観年間(859〜877)になって、智証大師円珍(ちしょうだいしえんちん)和尚が、園城寺(別称 三井寺)を天
台別院として中興されてからは、東大寺・興福寺・延暦寺と共に「本朝四箇大寺(しかたいじ)」の一つに数えら
れ、南都北嶺の一翼を担っていましたが、円珍の死後、円珍門流と慈覚大師円仁門流の対立が激化し、正暦
四年(993)、円珍門下は比叡山を下り一斉に三井寺 正式名称 長等山園城寺(ながらさんおんじょうじ)に入
ります。この時から延暦寺を山門、三井寺を寺門と称し天台宗は二分されたという。( 詳しくは、三井寺 HP
参照 ) 本願寺も西と東に分かれているようであり、仏教徒といえども、その経典論争は、強烈であり、内ゲバ
もありということなのでしょうか。
ア、円珍和尚について
円珍は、弘仁五年(814)、讃岐国(香川県善通寺市)に生まれたようであり、父は和気宅成、母は佐伯氏の
娘で、弘法大師空海の姪にあたると三井寺 HPでは記述されております。
後、比叡山に登り、義真(778〜833)に師事したようであり、その当時、正式な僧侶となるには、国家試験に
受からねばなりませんでした。本当に狭き門のようで、年に二人しか合格しなかったようであるという。
円珍和尚は、その試験を19歳の春に受け抜群の成績で合格され、その後師義真和尚を拝して菩薩戒を受け
一人前の僧侶となり、比叡山の掟に従って一期十二年の籠山(ろうざん)修行に入られたようであります。
十二年籠山中の承和五年(838)冬、座禅中の円珍の前に金色に輝く不動明王が忽然と現れ、「我は金色不動
明王である。仏法の真髄を伝える汝を守護するために示現するものなり。仏の教えを究めて迷える衆生を導くべ
し」と告げられ、その尊容を描き、常に礼拝するように命じられます。これこそ大師一生の信仰を決定づけた黄不
動尊で、以後、大師に危機迫るときには必ず影現し大師を守護し続けたという。
籠山修行を満じられた円珍は承和十二年(845)、役行者の後を慕い大峯、葛城、熊野三山を巡礼し、那智の滝
に参籠されます。この事跡こそが円・密・修験の三道融会をかかげる三井修験道の起源をなすものといえましょう
か。
それでも満足されなかったのか、その後唐の国へ留学され、唐の国で修行され、沢山の経典を持って帰国の途
に着かれますが、帰国の船中で 新羅明神が現影されたという。この新羅明神もその後の円珍和尚の守護神で
あるといわれております。(詳しくは、 三井寺 HP 参照 http://www.shiga-miidera.or.jp/about/index.htm)
このようにまか不思議な現象を多く持たれるのが、教祖様と言われる所以(ゆえん)なのでしょう。
3.まとめ
室町時代中期以降に多治見の地では、新羅神社が創建され、その神社創建には、三井寺派修験が関わって
いたことが、分かり、仏教と神道が融合した三井寺ならではの所業と言えましょう。
この室町期には、小牧市野口、大山辺りに 大山寺がかって存在していたと言う。大山三千坊とも言われ、沢山
の見習い僧が宿泊する棟もあり、春日井市鳥居松には、その寺の大門があったともいわれておりました。が、忽然
とその姿を喪失していました。焼けた瓦や、木片等が存在したとも言われており、焼き討ちにあったのかも知れない
とも聞き及んでおります。この大山寺は、比叡山の流れを汲むお寺であり、西の比叡山、東の大山寺と言われてい
たとも聞き及んでおり、大山寺には、その当時、この近在の名家の子弟が、見習い修行に入山していたとも聞く。
三井寺との確執が比叡山との間にあり、もしかして、大山廃寺(大山寺は、山門派、いわゆる比叡山延暦寺系統
のお寺さんであったのでしょう。)跡は、その名残りではないかとも推察いたしますが、今後の課題でありましょう。