名古屋コーチン 誕生秘話
1.はじめに
私も鶏の肉は、大好物であります。特に、足のもも肉の丸焼き、手羽先を甘辛く焼いた物等は、見た
だけでもよだれがでそうであります。
幼少期には、我が家でも鶏(名古屋コーチン)を飼っていました。ほんの数羽だけですが、勿論孵化も
させていました。
貴重な蛋白源でもありましたから。しかし、いつも食べれたかというとそうではありませんでした。特別
なお客さんが、来られる時のみ使用済みの卵を産まなくなった雌鳥が、その標的となり、鶏もそれが分
かるのか必死に逃げ回りますが、とうとう御名御璽。捕らえられ、頚動脈を鎌で切られ、足を縄で縛られ、
柿の木に逆さ吊りにされ、血抜きをされていたようです。
その後、おじいさんは、おもむろに毛を抜き取り、産毛は、なかなか抜けませんので、藁の火で焼いて
なくしていました。
それが済むと、解体作業です。一部始終をおじいさんの傍でみていました。肉を全て取るとガラが残り
ます。その骨もしっかり利用していました。骨を砕いて細かくし、骨だんごとし、スープ等に使ったかと思
います。
その日は、夜遅くまで起きています。お客さんが帰った後の残り物は、子供達でも食する事ができるから
です。兄弟が多ければ、取り合いになること必定。早い物勝ちではありました。早く食べなければ、無くなっ
てしまいますから、早食いは、必然的に身につきます。お陰で現在でも、食事は、早い方かと。
普段は、畑で取れる野菜類等が多く、めったに肉類は食しませんでした。卵類は、家で賄えましたから、
しょっちゅう食していました。そうそうたまに、すきやきがありました。肉は、牛肉でありましたが、そのおい
しい事。ほっぺが落ちるとはこの事なのでしょう。それが、幼少期の唯一のごちそうでありました。
それと、お寿司。寄り合いやら、会合等が、輪番で各家で行われ、そうした時は、会合が終われば、残り
物のお寿司が食べれました。さしみで食するようなにぎり寿司は、全て大人の人が食してしまい、僅かに、
海苔巻き寿司やおいなりさんが、残っているのみ。私は、大人になるまでさしみを食した事が、ありません
でした。
今の子どもには、分からない事ではありましょうが・・・・。
2.名古屋コーチン発祥の地
明治以前の日本の養鶏は、農家の片手間仕事であり、本格的な養鶏は、皆無であった。しかし、尾張藩
では、かなり貧しい下級武士が、内職として卵や肉を売る為に鶏を飼っていたという。
安政年間(1854〜60年)には、名古屋藩士の中に藩務の傍ら副業として、邸内に百〜二百羽くらいの
養鶏を営んでいる者が、十数名いたといわれ、五百羽以上の鶏を棚飼いしている者もいたという。
こうした養鶏武士の中には、地鶏やシャモを改良し、卵をよく産む雑種をつくった者もいたとか。
明治以後、尾張藩の士族の中には、養鶏を本格的に始める者が、多く出たようで、名古屋の「サムライ養
鶏」は、当時でもかなり有名であったという。しかし、経営は苦しく、多くは失敗していったようであった。
名古屋コーチンの生みの親は、海部荘平・正秀兄弟であり、尾張藩の元士族であった。兄は、明治5(18
72)年に、同僚の平井一家、姉婿の海部久蔵一家とともに池之内(現 小牧市池之内)に移住。尾張藩士で
あった頃の給地が、この地にあった事が所以であろうという。弟正秀は、城下の南桑名町居住の海部市朗の
養子となり、家督を相続し、同地で養鶏を始めたようである。
兄は、池之内で雑貨よろずやを開いていたが、資金繰りに窮し、商売の見切りをつけ、弟正秀の勧めもあっ
て養鶏の道へ進んだという。
明治10年前後には、養鶏を開始していたようです。
池之内の海部養鶏場は、明治20年代に最盛期を迎え、鶏舎9棟44室、雑穀貯蔵庫、調理場等16棟、1反
歩余りもある鶏糞乾燥所、広い運動場、そして2千数百羽の当時としては、日本一の大養鶏場であったという。
その当時、順調に行った時は、百五十円、三百円と儲かったという。それ程、うまみのある商売であった。
その養鶏場のあった場所は、現在の池之内2243番地、今は、十軒ほどの家と桃畑になっている所であると
いう。
平成になって、宮崎県では、飛来した渡り鳥にでしょうか牛が感染し、種牛を含め屠殺が行われ、大打撃にな
ったことは、記憶に新しい。明治期にもそうした被害があったようで、病名は違えど、家禽コレラであったとか。飼
料用のアラからの伝播であったようでありました。その為、一時海部養鶏場の鶏は、全滅したという。頼母子講(
百三十余円が村人からの拠出金)により、資金を得て、再起されたとか。この失敗から、荘平は、養鶏に必要な
科学的?な経験を積んだと言えましょう。まず、卵を良く生ませるには、貝殻等のカルシュウム類を与えなければ
いけないこと、えさ代の掛からない鶏が必要な事、病気に強い鶏、大量の養鶏では、糞の始末も必要な事等、今
後の養鶏に必要な事柄を全て経験上から知りえたようであります。その当時は、こうした事柄は、殆ど認知されて
いなかったし、むしろ、多くの人は、養鶏に懐疑的な方々ばかりであったのでしょう。
荘平は、現行の養鶏をしつつ、粗食に耐える鶏つくりに挑戦し、試行錯誤を繰り返し、鶏の種類を集め(弟正秀
が尽力)、明治15年頃、巨鶏である中国産九斤(その当時、一匹の鶏の重さが九斤であった事からこの名が付き、
バフコーチンとも言われていた。)と地鶏を交配し、改良を加え、理想に近い一鶏種を作り出したという。
その品種を「海部種」あるいは、「薄毛」と称したという。初期の鶏種は、安定した品種ではなかったという。後の
名古屋コーチンの別称でもあった。その後、この品種は、安定した品種となり、粗食であり、よく卵を産み、大きか
ったといい、明治38年日本家禽協会が、一新品種として取り扱うに至って、日本中に広まっていったという。通称「
かしわ」とも言う鶏が、これであります。初期の海部種は、当時つがいで10円程で売れたという。残念な事に、こうし
た結果を、荘平氏は、聞かれることなく永眠されたという。
荘平氏は、明治28(1895)年10月1日、食中毒(名古屋コーチン作出物語では、過労死)とかで48歳の生涯
を閉じられたと聞く。合掌。
この名古屋コーチンは、幼少時、尾張藩藩士の兄弟として、近くの藩士が、鶏の養鶏をしていた事で、興味を持っ
て、見ながら育った事と父 尾張藩砲術師としての実務に実直な実践方法を父の背越しに見て育った兄と弟の共同
作品以外の何物でもないと言えましょう。
以上の情報は、松浦舜次氏(平成5年当時 70歳)、入谷美波留氏(海部元首相姉 65歳)、伊藤進氏(この
方の父が、元池之内養鶏組合役員であった。59歳)の方々からの聞き取りにより、小牧の産業史話にまとめら
れたようです。
参考文献は、愛知の養鶏史 愛知県畜産養鶏農協連合会 1987
愛知の養鶏 愛知県養鶏組合連合会 1926
池之内にあった海部養鶏場 駒来第234号 小牧市文芸協会 1993 であったようです。
付記
現 桃花台ニユータウンの中央高速道路が走る北側、高速バス停留所付近一帯に一大養鶏場があったとか。
この養鶏場の移転等が、うまく話し合いがついたので現在のタウンが出来たともいえましょう。この地での養鶏業を
追い出してしまったとも言えましょうか。
この桃花台ニュータウンの地は、荒れた雑木林であったり、伐採されて荒地になっていた所であり、痩せた土地
であったようです。戦後、食糧難解消の為、入植者に払い下げられて、17戸入ったようですが、結局収入の少な
さに負け、出て行った人もあったようで、更に15年後にも二回目の入植者の募集がなされたようでした。そして、
二年後にも愛知用水がこの地に引かれたことで、入植者募集が行われたようであるという。そして、昭和26年に
出来た篠岡開拓農業協同組合は、小牧ヶ丘開拓農業共同組合と名称を替え、1回目に残った人と2回目に入っ
てきた人、愛知用水の為に入植した人を合わせて49戸が開拓に取り組んだという。
土地が痩せていた為、食糧増産の経営が成り立たないようで、畜産・養鶏に切り替えたようですが、えさ代等の
高騰で、やっていけなくなり土地を名鉄に売って出て行く人が多くなったという。こうした2回目以降に入植した人達
は、昭和34年の伊勢湾台風で、家等を失くした人達であったという。こうした人は、十年と住まない内に出て行った
という。残った人は、大変な苦労をして養鶏・ぶどう園で生計が立てられるようになったということです。
昭和39年9月 小牧市大草地内(現 中央道 桃花台停留所付近 一帯)にこの小牧市内で養鶏が困難になった
17名の養鶏業者が、移住して共同養鶏場を立ち上げていた。愛知中央養鶏共同組合であった。が、ニュータウン
構想が持ち上がり、立ち退きすることになってしまったようであります。
代替地として、岐阜県瑞浪市日吉町と中津川市千旦町に広大な用地が確保でき、一大養鶏産地は、県外へ移動
していったという。
明治期、この地の養鶏業を後押ししたのが、ふ卵業(ひよこ生産業)であった。愛知県ふ卵業の祖は、長野県伊
那出身の大江辛太郎であるという。
味岡で、最初にふ卵業に手を出したのが、倉知鎌一氏であった。独力でふ卵器を開発されたとか。同じ頃、味
岡出身の玉置庄五郎氏が、御器所の東、名古屋市中区広路町(現 名古屋市昭和区)でふ卵業を始められた。
その教えを受けたのが、現 春日井市桃山町で現在もふ卵業を営んでおられる稲垣利幸さんの父上であった
とか。現在でも名古屋コーチンのふ化に務めて見えるようです。私も、30代の頃、そのふ卵場の見学に行った
事がありましたし、名古屋コーチンの受精卵を購入したこともありました。そしてふ化に成功いたしました。
小牧市には、ふ卵場が出来ており、岩崎山付近には、倉鎌ふ化場(倉知鎌一氏が創設されたところでしょう。昭
和40年廃業)、小松寺には、玉置庄五郎氏のふ卵場(昭和55年廃業)が、味岡には、横井ふ卵場(昭和45年廃
業)が存在していたというが、、既に過去の出来事ということになってしまいました。
現在まで、ふ化場を営々と継続されているのが、上記春日井市桃山町でされています稲垣利幸さんのみであり
ます。
桃花台ニュータウンでの養鶏場の移転に前後して、ふ卵場も廃業を余儀なくされたのでしょうか。
参考文献
・ 小牧叢書15 小牧の産業史話(2) 平成8年 小牧市教育委員会発行
・ 名古屋コーチン作出物語 入谷哲夫著 平成12年
・ 篠岡百話 第10集 篠岡の産業
・ 続・名古屋コーチン誕生を助けた池之内村の人々 入谷哲夫( 元教員、後愛知文教大学講師)
「街づくり・ふるさと百話」 第85回
・ 誘致工場物語(4) − 桃花台ニュータウンの建設で職住一体化は実現したが・・・ −
服部博昭氏 (元 中部経済新聞社記者)
「街づくり・ふるさと百話」 第88回
平成24(2012)年10月18日 脱稿