古代豪族 大伴氏についての覚書

               1.古代豪族とその系譜の重大性について
                 「 現在の我々には想像さえし難いことであるが、支配者層にとって、氏姓制度が最重要
            視された時代では、その氏族の出自、系譜の類は最も重要な物だったようである。
             即ち、系図は、大和朝廷への任官、大和政権内での自分(自分の属する氏族)の地位、
            生活の基盤、何等かの権力を握る根源的証拠物件であったらしい。
             逆にこれが無いと、全くチャンスさえ与えてもらえなかった訳である。
             各氏族には、氏の首長がおりその支配下でしか生活は成りたたなかった。その氏長と
                        血族であるかそうでないかでもその立場は大きく変わる。
                         日本全国の末端までの住民が、どれかの氏族の配下にいたと考えても過言ではない時
                        代が間違いなく過去にはあったのである。
                         その氏族の頂点に立った首長氏族が、いわゆる「古代豪族」と呼ばれた氏族である。
                         どこまでを豪族と呼ぶべきか筆者も定かではないが、少なくとも記紀に登場し、大和
                        王権の中又は地方において、その時代時代で中心的な役割を演じたと思われる氏族は、
                        そうであろう。
                         途中で滅びたものも多数ある。記紀には今では全く知られてない氏族についても系図
                        上での記録が示されている。

                         当時としては、非常に重要だったからこそ、この国家的事業の重要部分に記録として、
                        残したのである。
                         各氏族もその作成・保存・次世代への継承を必死で行った。
                         これを総て意味のない創作にすぎないとすることは、逆に日本の歴史を歪めることに
                        なるんではないか。
                         総てが正しい訳ではない。(意図的な人物の積み上げ・創作の類はあるに違いない)
                        当時から系図の類には、偽物が横行していたとされる。
                         だから官撰の正確な系図を作成する目的も記紀の編纂の狙いとしてあったとされてい
                        る。」という趣旨の文章もあります。
           ( 非常に長い引用ではありますが、http://www17.ocn.ne.jp/~kanada/1234-7.html参照)
            

               2.古代豪族 大伴氏について
                  古代豪族のなかで、大伴氏ほどしぶとく活躍した氏族は、藤原氏に次いでは、いないのでは・・。
                  確かに、継体天皇期以前より代々、大和朝廷内において軍事氏族として君臨していたのは、
                 事実であり、その後、蘇我氏により512年の任那4県を百済に割譲した事を問われ、大和朝廷
                 内での地位から失脚したようであります。

                  {大伴氏は、天忍日命(アメノオシヒノミコト)を祖とする神世時代からの古い軍
           事氏族である。
            天忍日の裔の日臣命は、1神武天皇の東征に従ったと伝えられている。
            熊野から大和への道案内を行ったことにちなみ、道臣命の名を与えられた(神武
           東征の時の最大の功臣という扱い)。その後大伴武日は、日本武尊の東国遠征に従
           った。など物部氏、阿倍氏、中臣氏などと同じく大王家(天皇家)と共に歩んでき
           た氏族と言われている(大伴氏は、中臣氏、物部氏と違い、宮廷の祭祀には殆ど関
           与しなかった)。

            その本拠地は、大和盆地東南部(橿原市、桜井市、明日香村付近)であったらし
           く、皇室、蘇我氏の本拠地と隣接する。古くは、難波地方を本拠とし、和泉、紀伊
           方面まで勢力を張っていたかと思われる。

            これが、5世紀半ばまで大王家と共に各地の豪族との戦乱を勝ち抜き、21雄略
           天皇の頃葛城氏、吉備氏の没落により、これに替わって、物部氏と共に、中央での
           覇権を確立した。
           「大伴室屋」は、”大連”を賜り、その孫「金村」にかけて、政権を掌握した。金
           村は、「平群氏」を平定し26継体大王を担いで、王位継承戦に勝った。
            その後大伴氏は、26継体天皇の子27安閑天皇、28宣化天皇の擁立者となり、
           一方蘇我氏は、29欽明天皇を推して政権争いをし、大伴氏は敗れた。

            これ以後蘇我氏の台頭により一時勢力は落ちたが、大化改新後「大伴長徳」が、右
           大臣に就任した。
            しかし、37斉明、38天智朝で再び沈潜し、「壬申の乱」で40天武天皇側とし
           て戦功を挙げ復活。宿禰を賜姓された。

            以来多くの人材を世に出してきた。特に万葉歌人として有名な大伴旅人・家持父子
           を中心とした多くの女性を含む宮廷歌人の活躍がこの時代を彩った。
            家持は万葉集の編纂者の一人にも目されており(本当は不明)、473首の歌(万
           葉歌人の第一位)を残した。
            しかし、朝廷内では、藤原氏の進出に伴い、大伴氏の地位は、次第に低下した。
            50桓武天皇の成立にも大伴氏は、陰に陽に色々活躍したが、「藤原種継の変」で
           徹底的に沈み、その後、藤原氏の陰で天皇家と関わった。

            伴善男が54仁明天皇の時大納言になったが、「応天門の変」で藤原氏に陥れられ遂
           にさしもの古代豪族も命運つきて、これ以後中央政界に復帰することはなかった。

            しかし、その係累は、富士浅間神社社家(現 富士吉田市)、鶴岡八幡宮社家など
           日本全国にその血筋を残した。特に、近江(甲賀)、三河、甲斐、大隅地方に伴氏の
           係累が多く分布したとされる。}という。
          ( 詳しくは http://www17.ocn.ne.jp/~kanada/1234-7-11.html を参照下さい。
            併せまして、上記 HPには、大伴氏の筆者独自の観点より作成された系図も添付
            されております。参照下さい。)

            大伴氏については、私の記述すべき事柄は、既に記述され尽くされております。よ
           って、上記 HPの先達の記述を引用させて頂きました。どのような方なのかHP上に記
           載されておりませんので、引用の許諾も出来ないでおります。ご無礼をお許し下さい。