多治見等にあった あんまき屋(別名 おだまき屋)について
1.はじめに
私が、幼少の頃(昭和30年代)には、昭和橋を薙の下方面に少し下った所に、あんまき屋があった。
今でも店舗は、そのまま残っている。(平成24年時)開店休業中のようであり、営業されていないようで
あります。
その当時は、繁盛しており、お茶菓子用として、20本、30本と買っていくお客さんで賑わっていた。つ
い数年前まで、営業してみえ、懐かしさのあまり、お袋が、病院に入院していた時、見舞い用として持っ
ていった事もありました。
2.あんまき=おだまきという事について
・ あんまきの由緒
あんまきで有名なのは、国道1号線沿いにある「藤田屋」でしょうか。知立の大あんまきで名が通って
います。
{ いわれは、江戸時代 東海道53次の一つ 「池鯉鮒(ちりゅう)」宿に、知立神社があったそうで、この
参拝客に振舞ったのがはじまりとか。}その当時、なんと言う名前の食べ物であったのかは、分かりませ
ん。 ( 藤田屋 HP 参照 )と記述されております。
{
あんまきの元祖は、ここだという記述もありました。元祖あんまき「小松屋本家」です。創業は明治22
年頃で「小松屋」が知立の現在のあんまきの発祥らしいという。この小松屋さんは、知立神社の近くだと
いう事です。}
( 詳しくは 知立市観光協会公式HP http://www.chiryu-kanko.com/detail.html?id=25 参照 )
次のような記述もあります。{ 明治用水ができる前の池鯉鮒付近は畑が多く、麦が多く作られていました。
その小麦粉を延ばして焼き、二つ折りにして畑で採れた小豆を塩あんにして中にはさんだのがあんまきの初
めであると伝えられています。おそらく江戸時代頃でしょうか。
明治中期、東海道を行き交う旅人の疲れを癒し、次なる旅路への活力を与える食べ物として、「あんを巻い
たもの」が名前の由来です。}という。 餡を巻いた物という意味での「あんまき」という謂れは、理解できると
言えば、できます。しかし、岐阜県内には、「あんまき」の事を「おだまき」と言っているようであり、その謂れを
調べていますが、よく分からないのです。
・ おだまきの由来
おだまきとは、岐阜県内でのあんまきの別称でしょうか。私が幼少の頃も、「あんまき」とは、言わない
で「おだまき」と言っていた記憶があります。幼少時は、この地域には、小田(おだ)町という所があり、おだ
で作られたあんまきだから「おだまき」と言うのだとばかり自分勝手に思っていました。ただ、多治見では、
あげおだまきはなく、おだまきのみ売り出されていました。
所が、おだまきの発祥地は、岐阜市忠節橋近くではないかというHPでの書き込みもあり、それは、「 忠
節橋の北に大野春堂があると思いますが、その交差点から忠節橋方面に三軒ほどの西側に「おだまきの
きたがわ」があります。(まだあると思いますが・・・)新入社員当時(40年ほど前)から営業して見えます。」
という書き込みであります。今から40年前というと、昭和の40年代頃でしょうか。
その近くには、おだまきのさかえやさんもあり、その店は、創業54年の老舗であり、メニューは創業以来
変わらず「おだまき」と「天ぷらおだまき」の2種類。値段もずっと変わらず、おだまき60円、天ぷらおだまき
70円という安さで、心休まるお店です。(店は、忠節橋の近くです。)という書き込みもあります。創業54年と
いう事は、昭和33(1958)年ということになりましょうか。多治見の店も、昭和30年代頃には営業してみえた
かと推察します。多治見の店は、現在、店はありますが、まったく営業をしてみえません。
大垣にも、揚げおだまきが存在していたという。幼少の頃食していたという書き込みもあるようです。元は、
おだまきでありましょうか。
何故、あんまきを「おだまき」と命名したのでしょうか。その謂れを聞きたいものです。それで、直接、さかえ
やさんに尋ねましたが、よく分からないという返事でしたし、織田信長まき、の織田まきではないとは、言われ
てみえました。ご店主さんも謂れが分かれば知りたいとか。また、岐阜市内には、昭和30年代には、もっと沢
山のおだまき屋さんがあったとか。それ以上古いお店やさんは、現在知られていないようでもある。昭和30年
台は、戦後10年程経った頃でしょうか。砂糖も十分行き渡る状況になった頃かと。商売として成り立つ条件を
満たすようになって、甘い物に飢えていた世代に一気に浸透していったのでしょうか。
とすれば、おだまき屋さんは、その頃、岐阜県内でブームであったかも。もしかして、知立のあんまきと同じ
名前では、という意識が働いたとも考えるのですが・・。あくまで大胆な推測以外の何物でもありません。
余談になりますが、あんまきとは、形がちがいますが、使われている材料は、同じではないかと思われる物
に、今川焼きがあります。この謂れは、江戸時代中期の安永年間に、江戸の神田「今川橋」近くの店で、
この
焼き菓子が売り出されたことによるようで、この商品が評判になったため、今川焼き
という商品名が一般化し、
各地に広がったという。決して戦国時代の今川氏からきているのではないようです。
また、同じような形ではありますが、大判焼きという商品もあります。大判焼き の由来は、.
愛媛県の松山丸
三さんが「大判焼き」の呼び名で1957年(昭和32年)頃に発売し、あんこが
たくさん入った大型サイズの『大判
焼』は景気がよいと喜ばれ大ヒット。みるみる間に、
四国、中国地方から全国へと広がったという。似たような物
に、近畿では、回転焼き、太鼓饅頭、二重焼きとも呼ばれている物もあるとか。
参考までに、今川焼きは、各地で何と言われているか調べた方があるようで、転記させて頂きました。
<青森県出身>
・おやきでしょ? 他の言い方なんて聞いた事無い。
<福島県出身>
・きんつばかな
<兵庫県出身>
・御座候! 兵庫の人はみんな御座候って言うよ!
<東京出身>
・今川焼ですよ。たまに大判焼きって言う人もいるけど。
<熊本出身>
・蜂楽饅頭って言いますが、ほかの呼び方あるんですか?
<大阪出身>
・回転焼き
同じ関西でも御座候(ござそうろう)と回転焼きなど、県によって異なる場合があるとのこと。また、
九州ではほとんど回転焼きと呼ばれているとか。
中国地方では「二重焼き」と言われる方が多く、その語源や地方での呼び名を紹介しているサイ
トを見てみると、なんと10種類以上の●●焼きの呼び名があるではありませんか!
( http://logsoku.com/thread/hato.2ch.net/news/1297310350/ 参照 )
今川焼きについて調べていくと、全国には、多種、多様な焼き名がついておりました。以上から次のような見解
を述べて見えるかたもありました。「ただ、この今川焼きが全国に広がっていったと考えると、名称の多さ、形状、種
類の多さが説明できません。今川焼きを食べたり、見た人が真似をして作っていったようにも思えますし、同時期に、
似たようなお菓子が発生したとしても不思議ではありません。多分、ルーツを探すのは難しいのでしょうね。」
( 引用は http://japandaisuki.web.fc2.com/Food/ImagawaYaki.html です。 参照下さい。)
確かにと納得できてしまいます。
こうしたどら焼きの皮を餡に巻きつけたような商品(あんまき)は、愛知と岐阜だけで売られていたのでしょう
か。あんまきも、今川焼きと同様に、ルーツは、江戸時代まで遡れるようです。が、実際に大々的に売り出され
たのは、昭和30年代以降ではなかったでしょうか。
関東では、今川焼き、四国・九州では、大判焼きとして・・・。
参考までに、私自身の勝手な解釈になるかも知れませんが、知立 藤田屋の大あんまきが、一番大きいか
なと。多治見のおだまきは、大あんまきに比べ、ほんの少し小さいような気がしましたが、見た目にはほとんど
変わらないような大きさであったように思います。私は、どちらも食しておりますから。一番小さいのが、岐阜の
おだまきのさかえやさんでしょうか。多治見のおだまきの横幅の、二分の一程度。縦幅は、三分の二位でしょう
か。大きさは、店により、まちまちのようです。
調べれば、調べる程分からない食べ物のルーツではありました。いったい、誰が、いつ、そのように命名した
のでしょうか。(おだまきの命名の由来について)
似たような物に、これほどまでにいろいろな名前が付くという事は、商標権が設定されない時代であったという
事でしょうか。昔は、おおらかな時代であったのでしょう。
3.まとめ
調べて分かった事を概略すれば、材料は、日本全国ほぼ同じ素材であり、形、名称に違いはあるものの、爆発
的に売れ始めたのが、昭和30年代ではないかという事。こうした物のルーツは、江戸時代末期にいわれを持つ物
があり、そうした物が、時代の要請もあってリバイバルしたのかも知れません。面白いのは、日本の東西では、円
形であり、真ん中の中部では、巻物となっているという点に、独自性が出ているかと。