尾張東部、美濃東濃地域に於ける 中世の在地状況に関する覚書

              1.はじめに

                  古代の村落は、文書の形では、なかなか把握できないようであります。それ故、村落ある所
                 には、神社がありきと考え、類推する方法をとりました。

                  こうした古代の神社の状況を知る最も適した書として「延喜式」がありましょう。この9〜10巻
                 に記載されています「神祇神名帳」(延長5年 927年) 上 下 があり、この神祇神名帳に記
                 載された神社を「式内社」と言うそうです。こうした神社は、「官弊社」「国弊社」に分けますが、大
                 した区分ではなく、主に地理的な距離の差による区分とされているようです。

                  美濃東濃地域には、式内社は存在せず、国司崇拝社として記録される「国内神名帳」には、写
                 本ではありますが、現 新羅神社の前身である、田只味(たじみ)神社として記載され、所在地は、
                 槙ヶ根(まきがね)の西南麓北畑(現 多治見市新富町、上町あたり)にあったという。これは、記
                 念橋のある土岐川左岸の高台あたりでありましょう。

                  もうひとつは、高社神社であり、祭神は、大荒田命であり、これは、尾張国丹羽県の君の祖であり、
                 丹羽氏の一族が、この地を開いた時、丹羽郡二宮村の「大県神社」を祖神としてこの地に分祀した
                 と言われています。

                                       尾張東部の式内社は、内々神社であった。

               2.古代に於ける集落の概略 ( 東濃、尾張東部地域 )

                  「7世紀後半〜8世紀前半には、土岐郡( 土岐川川南 )には、6郷があり、現 養正、昭和、市之
                 倉校区の部分を田只味(たじみ)郷と呼んでいたようであります。この郷には50戸を持って1郷(里)
                 となしていたと思われ、はなはだまばらな集落であっただろうと思われます。口分田があったかどう
                 かは不明であります。

                  ただ、土岐川川北に於きましては、現 多治見市池田町には、「大坪」なる地名も残り、これは、条
                 里制遺構の名残りではないかと言われておりますし、また、多治見市音羽町、喜多町等からは、奈良・
                 平安時代の須恵器片が出土しており、これらの平地では、大原川流域での農耕が行われていたであ
                 ろうと考えられています。」( 多治見市史 通史 参照 )

                  春日井市史によれば、「尾張一帯は、物部氏系の豪族が、支配していたのではないかと考えられてお
                 り、この尾張東部には、春日氏が古くから支配していたという。

                  日本書紀 宣化天皇元(535)年 皇室直轄領(屯倉)の米を北九州那の津(現 博多港)へ運ぶよう
                 詔が出され、尾張地域にあった間敷屯倉(後の安食郷であろうと言われております。)へ、蘇我稲目の命
                 により、尾張連(古事記伝によれば、本拠は大和国葛城地方の豪族)がその任にあたらしめられたとい
                 う。
                
                  派遣されたのは、大化の改新前であり、派遣された尾張連は、春日部郡に居住していたようです。式
                 内社である内々神社を祀ったという。その後、濃尾平野中央部に進出し、熱田神社を奉祀するに至った
                 といい、尾張国造へと地位を高めていったようであります。」

               3.律令制から荘園制への移行
                 ア、律令制下の農民の暮らし

                  現 可児市可児町 谷迫間(やばさま)で発掘された白し窯(平安末期)の工人の衣服の布目が、陶器に
                 残り、そこからその当時の衣服が、類推されたようであります。それによると、太目の麻布で、染料は、木の
                 実から取った「つるばみ」(黒色)が一般的でなかったかと、上着は、短い筒袖に、男は、ズボン式の「袴(は
                 かま)」、女は、スカート様の「裳(しょう)」を用いていたようであったとか。

                  食生活は、一日二食が普通。農民の食した物は、玄米、粟(あわ)、稗(ひえ)、豆、そば、芋等の雑穀食
                 であり、炊事は、甑(こしき)で蒸す。旅食は、干飯(ほしいい)であったという。

                  農耕に使われた道具は、鍬(くわ)、鋤(すき)、鎌(かま)などで、牛耕も行われるようになったとか。稲も
                 根刈りも始まっていたと思われます。肥料には、まだ、人糞、堆肥の効用を知らず、耕地は、連作するだけ
                 の力がなく、1年おきの収穫方法を取っていたのであろうと言われております。

                  作物は、米以外に粟、稗、大麦、小麦、豆、うり、芋、葱(ねぎ)を栽培していたのであろう。苦しい生活で
                 あり、それを補填する為、貴族や社寺の私有地を賃祖(小作)した農民も多かろうと推察されています。

                  それ故、飢饉、疫病時は、口分田の放棄、浮浪、逃亡も多くなり、戸籍の偽りも起こり、税の徴収が出来な
                 くなる弊害を取り除く為、「土断の法」を霊亀元(715)年に施行し、逃亡、浮浪人の落ち着き先で戸籍に編
                 入させ、庸・調を徴収する政策に変更したという。

                  以上の内容は、多治見市史 通史 P.167〜168に記述されていることであり、どの地域でもそうであっ
                 たのでしょうか。いわゆる一般的には、そうであろうという事ではありましょう。

                 イ、尾張東部地域での荘園

                   尾張地域には、3つの荘園が存在し、東大寺領であり、中島郡を含む広大な地域の荘園である「春日部荘」
                  山城国 醍醐寺領たる「安食荘」で、範囲は、名古屋市北区安井から現 庄内川右岸である春日井市松河戸
                  勝川、味ま一帯であり、荘官の役所である「政所」という地名が、味まの近くに在るという。

                   尾張東部地域の荘園は、「篠木荘」と言い、天養元(1144)年 美福門院 藤原得子のための皇后宮職領
                  として設置されたという。範囲は、小牧市野口、大山、大草、春日井市下原、関田、下市場、神領、大富、出川
                  、松本、玉野、高蔵寺、明知、西尾、内津一帯でありました。この荘園の持ち主は、その後長講堂領となり、再
                  度 皇室領へと移動しております。

                   春日井市史 P、124に記述されておりますが、元亨2(1322)年 荘園内に出来つつあった自然村落であろう
                  林村(現小牧市林地区)、阿賀良村(現 池之内か)両村の田一筆毎の名主が、鎌倉 円覚寺の地頭支配に対
                  し、この両村は、春日部郡司 範俊なる人物の開発地であり、彼の開発領のうち、篠木、野口、野田以下の緒村は
                  「関東御領」であり、北条氏一族の者の世襲の権利となり、正応6(1293)年執権北条貞時は、書状をもって、鎌
                  倉 円覚寺にあて、当寺造営の際、料所とする旨申し送りをしたという。(円覚寺文書)確かに、北条氏一族らしい
                  者が、地頭職を所有しているのであり、一時的にその権利を円覚寺に寄進したのでありますが、円覚寺の強望に
                  より、この後、長く円覚寺がこの地位を存続せしめる事となっていったようであり、地頭請所の権利を行使しえる立
                  場にたち続け、領家方へ一定の年貢を請負い、地頭は、手数料としての役得をえていたのであろう。が、この林村
                  (現小牧市林地区)、阿賀良村(現 小牧市池ノ内地区或いは、その近くか)両村は、「別相伝地」として、名主が、             
                  代々相伝してきた土地であり、もともと、地頭の支配の及ばない地域であった筈であったと申し述べているやに理
                  解いたします。

                   しかし、鎌倉 円覚寺は、そこへも支配を及ぼし始めてきた為、両村は、已む無く、年貢は納めるが、下地は、永
                  々知行地としたいと請書を円覚寺に出すに及んだようであります。

                   また、建武元(1334)年6月30日 国衙領 現 小牧市野口村 石丸保に対し、地頭支配を強め、円覚寺は、
                  地頭請所とするも年貢は、国衙へ差し出すよう規定されたという。( 春日井市史 P.125 参照 )

                   建武3(1336)年 篠木荘内で、武力を持ち豪族化していた荘内の社寺勢力( 大山寺、円福寺住僧 )が、刈
                  田狼藉を働いたので、篠木荘の地頭である円覚寺は、雑訴決断所へ訴え、尾張国衙に対し、両寺の住僧を出頭
                  させるよう命じたようであります。 ( 春日井市史 P.126 参照 )

                   これらの記述は、鎌倉の円覚寺が、地頭として荘園、国衙領に対し、年貢請負権をたてにして支配力を強めて
                  いる様子が読み取れますし、それに対して、旧勢力及び新興在地勢力は、支配を認めつつ、その実、下地等は、
                  確保しようとする方向とか、或いは、年貢は確保するという対策を取ろうとしていたようであり、受け入れ対処の仕
                  方は、まちまちではあったようです。

                   こうした対応の違いは、その土地に対する所有の認知の度合いの差にあっただろうか、元々所有を認定されて
                  いる立場(領家、国衙)は、年貢の取立てが重要であり、認定が弱い者(新興在地勢力)にとっては、所有の認定
                  が主であり、そのための年貢納入との引き換えが取引されたのであろうか。

                   国衙領であった現 小牧市野口村石丸保に於いては、野口村内の山側に 大山寺があり、この寺は、天台宗 
                  比叡山 延暦寺と同じ宗派でもあり、国衙とは何らかの繋がりがあったのであろうか。円覚寺の地頭請負地である
                  所の田の稲を刈り取り略奪行為を円福寺(現 春日井市に存在する。)と図って行ったようでありました。地頭とし
                  てその地の年貢を受け負っていた円覚寺としては、こうした行為は許されざる事として、中央政権に対し訴えたの
                  でしょう。どのような結果がでたのかは、審らかではありませんが、夜盗まがいの行為が堂々と行われていた事は、
                  特筆すべきことでしょう。大山寺の行為は、何らかの政治的対応だったのかも知れず、室町初期の時点では大山寺
                  は、存続しているのであり、その後、財政的に破綻したのか、何か別の事情で衰退したといえるのでしょうか。推察
                  でしかありませんが、この大山寺が、廃寺化した事は、この後、比叡山が、信長により徹底的に非武力化された事と
                  同様の何らかの非武力化対策が、比叡山より早期になされたのではないかと考えられなくはないということなのかも
                  しれません。
 
                   そして、幻の寺として、遺構のみ残し、歴史上から消え去り、現在に至ったとも推察できるのではないでしょうか。

                                          参考例 として、安食荘についても記述しておきますが、この荘園も他の荘園同様、鎌倉幕府の地頭が、ともす
                  すれば、荘園領主の年貢徴収権を侵害していたのに対して、< 荘園領主は、在地で次第に成長しつつあった名
                  主級武士に依存し、その在地支配力を利用しつつ、年貢確保を図ったようであると >と、春日井市史では記述さ
                  れておりました。

                   そして、その安食荘の税 をみてみると、
                      田 畠には、反当り 400文から500文程度かかっていたようで、
                      また、附加税として、 綿であったようですが、その当時は、代納として銭納になっていたようです。
                                   さらに、平安時代からの附加税として 三宝院元三料として 菓子 12合、そして
                                                                        酒 一瓶子を納める。
                                           以上が、尾張東部地域に於ける中世での状況であったのでしょう。

                   それでは、美濃東濃地域の状況は、どのように推移していたのであろうか。詳しい資料もなく、尾張東部のように
                  は、分かる事は少ないのでありますが、土岐川川北に於いては、池田、喜多町辺りは、伊勢神宮領であった池田御
                  厨(いけだみくりや)と呼ばれていた荘園ではありました。そうした荘園へ、土岐一族(平安時代の国司級の官吏が、
                  都での栄進が断たれ、在地での経営に力を入れ始め、在地に居住して自己の資産を増やす活動に力を入れていた
                  一族)とは、系図的には認められない源姓の在地有力者が育ってきたのではないか。 ( 多治見市史 通史 上 
                   参照 )そして、在地領主へと成長し、長瀬地内にある本土神社を祀り、新たに永保寺にも身内の者共々、先祖
                   伝来の山野等々を寄進したり、売り渡しして協力している様子が、多治見市史 通史 上 に記述されております。

                   土岐川川南地区である多治見地域では、荘園は、存在しなかったのではないかと。その代わり、土岐一族の多
                  治見国長( 国司級の在地経営から派生した土岐一族 )が、勢力を持ち、おそらく河岸段丘上の小河川流域に於
                  いて、耕地を取り込み、農業経営をいたしていたのであろうと推察できます。その耕地の前身は、国衙領ではなかっ
                  たかと。正中の変以降は、多治見の地は、多治見氏に代わって、妻木川上流域を根城にしていた妻木氏( 土岐一
                  族の流れを汲む一族。この一族の傍系には、かの有名な明智光秀の一党があります。)によりゆるやかに支配され
                  たのではなかろうかと推察いたしております。が、明治の県令であった方が、明治16年に復命書の中で、多治見国
                  長館址について「国長没後、土岐左近蔵人頼貞多治見館に居住す云々」と慶応元年に記録された文章を引用され
                  報告されていた事を知り、この頼貞なる人物が、土岐本流の総領職を継いでいた人物と同一人物であれば、その
                  後も、川南の多治見の地は、いずれにしても、土岐一族の支配化にあったのでありましょう。

                   「かろうじて、土岐川川南に於いては、川南より流入している小河川の上流域に古代よりささやかに農耕が、細々
                  と続いていたやに推察できるのであり、生田川、笠原川上流域、笠原川支流上流域であった脇郷( 現 脇之島町  
                  多治見ホワイトタウン東南地域 ) 辺りで、中世に至るまで細々と続いていたのでありましょうか。」( 多治見市史  
                  通史 上 P.184 参照 )とも記述されております。

                   全くの余談でありますが、江戸時代の脇郷( 現 多治見市平和町 )では、中世には緩やかな氏族連合たる組が
                  存在していたのではないか。笠原川下流域左岸側の氾濫原域(明治期の字名で言えば、荒田辺り)あるいは、脇之
                  島川中流域右岸側の氾濫原域辺りでの稲作が細々と行われ、いわゆる水野組、加藤組、大嶽組と言われる3組の
                  前身である何らかの集団が存在し、山裾に居住し、細々と農耕をし、脇郷内で住み分けがなされていたのかも知れ
                  ないでしょう。江戸時代に至り、そうした組のトップが、庄屋職を引き受けていたのでは・・・。とも推察いたしておりま
                  す。

                                                                                                                              平成24(2012)年5月3日  加筆改訂  
                                                                         
                雑感         
                  こうしてみてくると、荘園領主への税は、律令下の 言ってみれば 祖・庸・調といった税が、形をかえて、領主の
                 必要とする物へと庸・調の内容を変化させながらも継続して引き継がれているように推察できます。

                  荘園領主が、社寺であれば、それが、社寺修理料となっていったり、役夫工米になっていったり、様々な形態をと
                 ったのでありましょうか。それらが、古代の税としての庸・調の成れの果てでしょう。当然 祖は、田や畠にかかり、
                 江戸時代では、年貢へと名称を替え、継続されたのでしょう。

                  中世になって、出てくる地頭は、古代からの系譜を持つその祖・庸・調等を請け負い、当面の領主には、差し出す
                 (所謂領家方へ、地頭請所として、一定の年貢を送付)のでありますが、その見返りとして、在地の農民より自身へ
                 の取り分を何らかの形で取り、私腹を肥やしていったのでありましょう。次第に在地の農民の力が、強くなって行くに
                 つれ、下からの圧力で、本来名主(所謂田賭とも言う)より取り上げていた利益分が上まで行かないようになり、荘園
                 領主層は、衰退していくか、倒されていくしかなかったのでしょう。

                  何だか食物連鎖の社会現象版をみているようです。こうした状況が、延々と秀吉が、天下を統一するまで続き、 
                 太閤検地により、古い一切の税は、切り捨てられ、新たな税(年貢)として、すっきりさせられたといえましょうし、
                 在地の農民にしてみれば、耕作地の耕作主として認知され、永代に渡り保障されたともいえましょう。

                  社寺といえども、中世では、武力を持ち、豪族化していったようで、一大勢力ともなる宗教集団へと形を整えてい
                 き、時の権力と対峙するまでになったのであり、どちらかが勝つまで悲惨な戦いへと突き進んだとも言えましょう。

                  平安期に始まりし、荘園制下の在地の農民の耕作地への保障と引き換えに課された税の取り分の分配争奪戦
                 は、政治的な争いであり、下々としては、生活が成り立つように賃祖(小作)耕作に従事したりしていたのであった。
                 農民は、いかにすれば、自己の再生産が可能になるのかその方策に汗水垂らして取り組み、営々と生産に励んで
                 いたのであり、それを保障してくれる強力な力を持ちえた組織に擦り寄っていくしか手はなかったとも言えましょう。

                 先に記述した大山廃寺についての補足的な拙稿であり、中世の美濃、尾張東部に関する在地情勢の記述ではあり
                ます。