「 牛がばんば 」 の考察
- 木曾谷中馬(中牛)との関わりを求めて −
この言葉は、先の私の拙文「旧 脇之島地区の道標」のなかにでてきます。道標の聞き取りをした古老は、昭和45年当時、水野半一
さん(明治25年生)と言い、半一さんの祖父常介さん(没)は、江戸時代末に生を受けたのではなかろうかと推察されます。その常介さん
が生まれた時には、既に道標は建っていたそうです。「その道標の所在地点の二十メートル手前に5坪程の平地があり、その昔、檜の古
木が数本立って日陰を作り格好の休み場所が設けてあったと言う。里老は、ここを、「「 牛の番場 」」 と呼んでいたということです。」
(多治見市史 通史 上 )
東濃新報 昭和45年7月15日(水)の今昔日記では、「「 牛が番場(うしがばんば) 」」と表記されている。この記事の聞き取り の古
老が水野半一さんであり、番場(ばんば)であれば、中仙道の醒ヶ井近くの宿場の地名であり、番場の忠太郎で有名なところでもある。
とすれば、この平坦地に牛がいて、暴れ牛と感じて、「 牛が番場 」となずけたやも知れぬ。もしくは、番場(ばんば)は、当て字で、馬場
(ばば)の変形した読み方であろうか?そうであれば、そこには多数の牛が群れていたと解釈できそうである。
いずれにしても、牛がその場所にいたであろうことは、容易に推察しうる。この牛がいかなる牛であるのか、里の者の所有せる牛であれ
ば、それでよいが、現存する文化7年の多治見村明細帳には、確かに当村には、牛がいないという記述を見い出せるのである。が、いずれ
にせよ、江戸時代全期を通して、多治見村に牛が皆無であるとは未だ証明できてはいない。それは、江戸時代の後期天保13年には、多治
見村本郷庄屋が、焼き物を手牛にて名古屋まで付け通し、帰り牛で、塩を運ぶ計画をするも、40余ヶ村より反対の文書(多治見市史 窯業
資料編 P.401、402、403)が存在しているからである。しかし、「牛での輸送は、陶磁器であり、木曽川河畔の今渡であった。」(多治見市
史 通史 上)ようで、脇之島の山道を通るようなことは無かったと思われる。知りえる限りでは、この脇之島の山道を通る牛で、近在の牛の
存在は、今の所確認できてはいない。市之倉村の牛についても同様である。とすれば、その牛は、どこの牛であるのだろうか?
中馬は、主に馬ではあるが、牛もまた中馬の範疇に入れられていた。道が険しく峠が多い所では、馬では、運びにくい為、木曾谷では、中
牛(ちゅうぎゅう)が活躍した。また「牛は、朝草を食わせれば半日乃至一日えさをやる必要もなく長距離の移動が楽で、餌費用、手間がか
からない長所を持ち、登りは苦手であるが、馬より下りは速いようで重宝がられた。」( 中馬の習俗 文化庁編 )
さて、中牛を持ち、信州から名古屋まで荷を背をわせはるばるやってきた者に、「 尾州岡船 の焼印を押した鑑札を持ち、尾州御用 と印
した小田原提灯をぶらさげた木曾谷の牛方がいた」ことは、(木曾の庶民生活 風土と民俗 生駒勘七著 P.399)に詳しく述べられている。ま
た、江戸時代 尾張藩の隠密 岡田善九郎が天保9年 木曾谷をくまなく実地検分した報告書として(木曾巡行記)を書き上げている。が、そ
の中にも、中牛稼ぎをしていた村々が記録されている。
それによると、奈川村(現南安曇郡)、宮越村(中仙道 宮越宿のある所で、神谷部落、砂ヶ瀬部落、徳音寺部落),馬篭村(中仙道 馬篭
宿のある所で、峠部落ー島崎藤村の夜明け前の牛方騒動に出てくる 峠牛ー)の三ヶ村であり、それ以外の村々は、山稼ぎ、木材の加工
稼ぎを生業(なりわい)にしている村々であった。山家であり農業はほとんどできず、葉タバコの葉の生産、子馬等の預かり放牧飼育、山で
の賃稼ぎ、木材の加工(お六櫛、檜笠等)、子馬の飼育をすること位しかできなかった。それでも生計をたてることができたのは、中牛稼ぎ
をする牛方が、木材板、木材の加工品、葉タバコの葉を牛に積み、名古屋等の大都市へ運び、商品として流通させ、木曾谷の民に賃金を
払う役割を果したからであろうし、馬(木曽駒)の飼育を冬場行い、その後大きくして飼育料を受けとっていたのであろう。しかし、飢饉となれ
ば、賃稼ぎの者は、食べ物に困り多くの餓死者を出したのも木曾谷のこれらの村々であった。
その奈川村の中牛は、当国(信州)、越後、甲州、上州、飛州へ出向き、馬篭村の中牛は、福島、松本、濃州今渡へ、宮越村の中牛は、
名古屋、福島、伊那、松本などへ出向いたと(木曾巡行記)では述べている。
中馬稼ぎをしていた明治の生き証人の聞き取りをまとめられた(塩および魚の移入路 田中啓爾著 P.129
)には「木曾の日義村に神谷部
落があり、そこの住民は木曾と名古屋および上田、時には上州までの間の運送を行い、各戸少なくとも2頭、多きは5頭の牛を持っていたと、
土地の古老が語っている。」と記述されているし、また、(同書 P.156)には、「神谷の牛方などは、名古屋から塩を運んでいた。」と記述されて
いる。このことより、木曾谷から牛の背に荷を積み名古屋に来ていたのは、宮越村神谷部落の牛方であった。もしくは砂ヶ瀬部落、徳音寺部
落の牛方もきていたのであろうか。
では、宮越村の中馬(実は中牛・・筆者注)の牛方は、どの道を通って名古屋まで来ていたのであろうか。普通に考えれば、宮ノ越から大井
まで中仙道を通り、その後中仙道大井宿の西にある槇(まき)ヶ根峠で下街道に入り釜戸、高山、戸狩(現土岐)、多治見、池田、内津、坂下、
鳥居松、勝川、大曽根、尾張名古屋に至っていたであろうと考えられるのである。
さて、中仙道は、公営の荷継ぎ街道であり、下街道より優位性を幕府、尾張藩より認められていた。「その中仙道宿々よりの元禄2年(16
89年)商人荷物減少の訴えで、尾張藩より下街道 中馬通行禁止という強い裁定が下されるに至り、木曾谷(宮越村・・筆者注)の中馬達
は、元禄以降、公には、下街道を通行出来なくなり、そのため下街道よりさらに南の中馬中街道 (大井ー佐々良木ー小里ー駄知ー下石
−多治見)を通行し、中仙道筋より離れた所で、下街道(池田−内津ー坂下ー勝川ー大曽根ー名古屋・・筆者注)へ合流し、中仙道筋の者
に目をつけられない心配(こころくば)りをし、移動するようになったのである。」( 瑞浪市史 ) と記述されている。が、よくよく瑞浪市史を
読み深めると、木曾谷の中馬達がこの隠れ道を通ったであろうことを実証する古文書はいまの所確認できていないようである。僅かにこの
通り道に点在する道標類(馬頭観音を含む)が根拠になっているようである。それ故、通ったであろうという域をでていないものと考えておか
ねばならないでしょう。また、木曾谷の中馬達の牛方全てがこの隠れ道を通過したことも実証はされてはいない。
元禄以降、木曾谷の中馬達は、中仙道から木曾街道経由での公道名古屋往復ルートを利用したとも、隠れ道経由を利用したとも考え
られるのである。
「中馬は、田や畑の畦以外の道であれば、自由に移動をすることが建前であり、そのことを、船の難破に例えてもいる。」(中馬の習俗 文
化庁編)が、これは、あくまで中馬の意思で移動をする例えにすぎないのであり、瑞浪市史に記述されている移動方法の変更も中馬達の意
思で決定したことであろう。
なお、元禄2年の強い裁定以降の中馬達の行動は、尾張藩が出した裁定の一時(いっとき)の出来事であったのではないか。元禄期のど
れだけ後になるのかは不明であるが、一例として、寛政7(1795)年の一年間における土岐郡高山宿の荷継ぎ問屋の上下の荷移動の記
録が残っている。
それによると「名古屋より1820駄、松本より1600駄あり、このうち高山問屋継ぎ立て分は、1100駄、素通りする分が2320駄となって
いる。」(庶民の道 下街道 −善光寺街道ー P.21 参照)ようであり、中馬達は、また便利な下街道を通行するようになっていったので
はないか。そのため、「幕末期に再度尾張藩より商人荷駄下街道通行禁止の裁定が、出されるのである。」( 明和期の下街道と木曾街道
の争い 45号 櫻井芳昭 春日井市HP 郷土かすがい または、庶民の道 下街道 ー 善光寺街道ー 春日井市教育委員会 参照 )
が、それが、その証左となるであろう。
「下街道 戸狩村(現土岐市)まで山間の中馬中街道を行く場合、下半田川から市之倉、脇之島を経て多治見へ出る場合など下街道と合
するには何通りかの道があった。」(庶民の道 下街道ー善光寺街道ー P26)と述べられている。これは、矢田、庄内両河川が増水した場
合に下街道は勝川への渡河ができないので水野道へ迂回して中馬中街道に出て下街道の戸狩村に出る、あるいは、下半田川から市之倉、
脇之島を通り、多治見から下街道へ出るなど下街道に合流するには何通りかあると述べてみえるのであり、木曾谷の中馬達が、この脇之
島の山道を通るようになったのではないかと推測するのは、おそらく、この宝暦期以降に通行できるようになったこの水野道が関係するの
ではなかろうか。矢田、庄内両河川が大水で、下街道の勝川へ渡河できなくなり、名古屋から木曾谷への戻り牛の時にこの通り道を知り、
通ったのではなかろうかと考えるのである。しかも、一度でも通れば、そこは夏季には、暑さを凌(しの)ぐ木陰があり、涼しくなるまで休憩
できる利点があり、仲間達に口伝えに知らせもしよう。それからはこの山道の存在を知り、夏季の間利用するようになったのかも知れない。
木曾谷の牛方が、確かにこの脇之島の山道を通ったということを実証する確実な証拠は無い。しかし、江戸時代末期に生を受けた古老
より以前から 脇之島の道標近くの平地を 「 牛がばんば 」 と誰が言うとはなしに言い伝えられたことが推測の基になっているのである。
例えば、名古屋に住む俳人横井也有翁(72歳)は、尾張藩内津村の三止(さんし)の誘いで、安永2年8月18日丑三つ過ぐる頃に庵を出、
多治見の虎渓山を目指す旅に出た。(鶉衣 内津草 参照) それによると、夏の丑三つ過ぎに庵(いおり)を出ているので、午前1時45分過
ぎであろうか。深夜に旅に出かけているようである。夏でもあり、暑いさなかの出立は避け、夜もふけて涼しくなってから出たのであろう。夏の
旅行は、こうした夜の行軍が普通であったのか、はたまた翁の年齢による出立であったのかは不明であるが、夜の行軍でも不安がない街道
であったからであろう。木曾の中牛の牛方達も、夏季は、昼間は休んで、夜、涼しくなってから行動したのではなかろうか。
参考までに、名古屋から下街道経由大井宿までの行程は、<「東海木曾細記」 の明和2(1765)年における宿間里程を合計すると14里8
丁(約15里=60Km)>(庶民の道 下街道 −善光寺街道ー P,3 参照 )であり、中牛の牛方が牛を連れて移動するのに、一日約5里
(20Km)程進んでいたようであり、名古屋から大井宿までは、3日間の行程であったであろう。大井宿から中山道を通り宮ノ越宿までは、里
程約19里6丁(78Km)程であり、ほぼ行程4日位であり、片道合計7日間(約一週間)の旅程であったと考えられる。また、この当時下街道
を旅行した旅人の行程で、参考にするとすれば、「五十槻園旅日記」があり、それによると、名古屋を3月12日五つ時に立ち、宮ノ越には、3
月16日に通り過ぎ、16日は、にへ川泊となっていた。約5日程の行程であった。また、「楠町史」 第六節 昔の旅には、文化8(1811)年2
月に、あじま村の庄屋格徳田弥吉が、夫妻、縁者、友人等女2人男4人計6人にて、善光寺詣りへ、妻籠まで、下街道その後飯田街道、三州
街道を通り、善光寺に至る片道254、9Kmの旅を10日間でしていた。途中、女の人の為に馬を利用した部分もあったが、一日約25Km程
の速さであろうか。あじま から妻籠まで、97.9Km程であり、約4日程の行程であったろう。もし仮に中仙道を通行したとすれば、妻籠から宮
ノ越までの道のりは、52,1Km程であり、約2日間程度の行程であり、合わせて6日間の旅程になろう。ほぼ、中牛の旅程と同程度になること
が知りえる。( ”牛に引かれて 善光寺参り”とは、よく言ったものであります。それほど、街道には、運搬用の牛が、通行していたのでしょう。)
こうした経緯で、宮越村の牛方が、名古屋へ行く牛を、あるいは、帰り牛の背に塩俵を積み、脇之島の道標の近くの「牛がばんば」と呼ば
れるようになった所で休んでいるのを里の者がたびたび目撃し、その場所を、誰言うとなく「牛がばんば」と口伝し、伝承されてきたのではな
かろうか。
そして、現 平和町の明治の生き証人であった水野半一さん(明治25年生まれ)により昭和の時代にまで語り継がれたようで、平成の御世
に我々も、知りうることとなった。
では、宮越村の牛方がこの「牛がばんば」を通過したとすれば、いつ頃からであろうか。恐らく宝暦以降と考えられる。が、下街道を利用す
る者にとって、水野道は、宝暦以降常時通行できた道ではあるが、矢田、庄内両河川が増水して渡河できない時にしか利用されていないよ
うであった。とすれば、木曾谷の中馬達も、宝暦以降に両河川が渡河できない時のみ、「 牛がばんば 」 を通過していた可能性が高くなる
のであり、夏季の暑い昼間の時期に、「 牛がばんば 」 で休憩しながら通過していた可能性が高いと考えられるのである。
牛方一人で、2〜5頭の牝牛を一本の綱で引いて、二人以上の牛方と連れ立ち、一日5里(20Km)程、山道を街道を歩いて往復され、脇
之島の山道を通過されていたかと思うと、その当時の運搬手段とはいえ、生きる為に懸命に働いておられたのだと思わざるを得ない。この
中牛稼ぎも、中央線の開通後(中央線が全線開通したのは、明治44年である。)、急激にその役割を鉄道へ譲り、見られなくなったという。
しかし、奈川村の中牛だけは、大正から昭和にかけてなお利用されていたという。
付記
「 江戸時代中ほどには神谷部落で牛行司(中牛の肝いり現代風に言えばまとめ役・・筆者注)をしておられた古畑権兵衛さん
は、権兵衛峠を開き、木曾谷へ伊那から米を運びこむようにされたと言う。( 伊那節 の歌詞にも表現されている。 )飛騨鰤(ぶり)という
魚が、奈川牛により糸魚川あるいは高山を経由して木曾谷に移入され、中継地(神谷地区)から権兵衛峠を越え伊那へ運ばれたという。牛
行司 古畑家には、飛騨鰤、干鱈(ひだら)の送り状が現存しているという。 今尚、その権兵衛さんの子孫に当たる方が、神谷地区で、居
を構えていることも知りえた。」(塩尻市 HP参照 )
参考文献
・ 塩および魚の移入路 田中啓爾著 古今書院
・ 日本の塩道 富岡儀八著
・ 僕等の愛知 (尾張編) 栗原光政著 原田屋書店
・ 歴史の道調査報告書 第4集 下街道 脇道 岐阜県教育委員会
・ 笠原町史 かさはらの歴史
・ 多治見市史 ( 通史 上 、窯業史料編 )
・ 瑞浪市史
・ 庶民の道 下街道 −善光寺街道ー 春日井市教育委員会
・ 図説長野県の歴史 古川貞雄責任編集 河出書房新社
・ 木曾の庶民生活 風土と民俗 生駒勘七著
・ 中馬の習俗 文化庁編
・ 尾張旭市誌
・ 日本食塩販売史 鶴本重美著
・ 藤村全集 第15巻 (大黒屋日記 抜粋)
・ 春日井市 HP 郷土史かすがい 「明和期の下街道と木曾街道の争い」 45号 櫻井芳昭
・ 楠町史
・ 五十槻園旅日記
・ 「 内津草 」 ( 鶉衣 上、下 横井也有著 岩波文庫 )