日本書紀にみる「ヤマタノオロチ」伝説の奥に秘められた出雲国の史実の一考察

             1.はじめに
                記紀は、壮大な歴史小説であり、壮大な由緒書きでもありましょう。地域の実情を含め、大和朝
               廷が成立した後、その正当性を述べんが為に書かれた国家的な超壮大な日本国の成り立ちを説
               く歴史読み物以外の何者でもないでしょう。

                そして、先人達の研究を読むにつけ、古代の事を知るには、神話の中に出てくる神々や、各地の
               神社の祭神を知る事こそが、最も有効な方法論であると言う事に至りました。

                とうとう私も、そのおもしろさに取りつかれたのかもしれません。まず、今回は、ヤマタノオロチ伝
               説(神話)の裏側に潜む出雲の地域の実情を考察してみようと思いました。

              2.ヤマタノオロチの形状
                 書紀原文には、下記のように記述されている。(小学館発行 新編 日本古典文学全集 2 より)
                「 頭・尾各有八岐。眼如赤酸醤、(小字にて赤酸醤、此云阿箇箇鶏知。) 松柏生於背上、
                  而蔓延於八丘・八谷之間。」

                 これを読み下すと
                 < 頭(かしら)・尾(お)各(おのおの)も八岐(やまた)有(あ)り。眼(め)は赤酸醤(あかほうず
                 き)の如(ごと)し、( 赤酸醤は、此(こ)れ阿箇箇鶏知(あかかがち)と云(い)う。) 松柏(まつ
                 かや)が背上(そびら)に生(お)いて、八丘(やお)・八谷(やたに)の間に蔓延(はひわた)れり。>

                 これを現代風に書き直せば、
                 { 八岐大蛇(ヤマタノオロチ)は、頭と尾がそれぞれ八つあり、眼は、赤酸醤(あかほうずき)のよう
                 であり、( 赤酸醤は、ここでは、アカカガチという。)松や柏(かや)の木が、八岐大蛇(ヤマタノオロ
                 チ)の背に生えているようであり、八つの丘・八つの谷の間にまたがっている大きさであります。}と
                 なりましょうか。

               3.ヤマタノオロチの出現する地域
                  書紀原文には、下記のように記述されている。
                 「 是時素箋鳴尊自天降到於出雲国簸之川上。」

                  これを読み下すと
                 < 是(こ)の時素箋鳴尊(すさのおのみこと)、天(あめ)より出雲の国の簸(ひ)の川上に降(くだ)り
                   到(いた)りました。>となり、

                  現代風に書き直せば、
                 { さて、スサノオノミコトは、天上から出雲の国の斐伊川(ひいかわ)の川上に降りつかれた。}となり
                                       ましょう。

                  斐伊川(ひいかわ)は、島根県東部を北流し、宍道湖(しんじこ)に注ぐ大河であるという。
                  8世紀頃は、神門の水海(神門郡にあった湖)に流入していたようでありますが、この水海の縮小に
                 より、直接日本海へ流出するようになったと言われているようであります。

                  ヤマタノオロチのあらすじは、よくご存知なのかも知れませんが、この蛇が、夫婦の間に出来た娘を
                 飲み込みに来るようで、既に何人かの娘は、飲み込まれていた。そこで、酒入りの壷を8つ置き、蛇に
                 飲ませ、眠り込んでいるすきに、スサノオが、剣で切り刻んで殺してしまいます。腹からは血が流れ、尾
                 を切ると、スサノオの剣が欠け、中から「天叢雲剣」が出てきた。その剣を、スサノオは、アマテラスに献
                 上した。というお話であります。書記には、おろちの話は、これ一つだけでなく、数個の神話として、並列
                 的に記述されています。

               4.実証史学からみた出雲国の状況                  
               「 四隅突出型墳丘墓(よすみとっしゅつがたふんきゅうぼ)は、弥生時代中期以降、吉備・山陰・北陸の
                各地方で行われた墓制で、方形墳丘墓の四隅がヒトデのように飛び出した特異な形の大型墳丘墓で、そ
                の突出部に葺石や小石を施すという墳墓形態である。という。

                 弥生中期後半から広島県の三次盆地に発祥したようで、 弥生後期後葉から美作・備後の北部地域や後
                期後半から出雲(島根県東部)・伯耆(鳥取県西部)を中心にした山陰地方に見られる墳丘墓であると言わ
                れる。北陸では少し遅れ能登半島などで造られている。という。」

                「 3世紀前後の時期では、島根県出雲市の大型墓西谷3号墓(最長辺約50メートル)・2号墓・4号墓・9号墓、
                小型墓として青木・中野美保・西谷1号・6号墓と前述した安来市の荒島墳墓群(宮山、仲仙寺、大型として
                塩津山6・10号墓、小型墓としてカワカツ墓)や鳥取県の西桂見墳丘墓が代表的大型墳丘墓である。大型
                墓は限られた丘陵などに累代的に築造されている。これらの大型墓の被葬者は、限られた地域を支配し
                たのではなく、その平野周辺に影響力を及ぼしたものと推測される。このように弥生後期には出雲の西と
                東に大きな政治勢力が形成されたものと考えられている。また、大規模な墳丘墓と吉備の楯築墳丘墓が
                ほぼ同時期に存在したと推測されている。そして、西谷3号墳丘墓の埋葬施設が楯築墳丘墓のそれと同
                じような構造の木槨墓であり、埋葬後の儀礼に用いた土器の中に吉備の特殊器台・特殊壺や山陰東部や
                北陸南部からの器台・高杯などが大量に混入していた。」ようであります。
                 以上の記述は、(ウイキペデイア フリー百科事典より抜粋しました。詳しくは、下記HPのURLを添付します
                ので、 こちらを参照下さい。
             http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E9%9A%85%E7%AA%81%E5%87%BA%E5%9E%8B%E5%A2%B3%E4%B8%98%E5%A2%93  )

                @ 日本海側の九州、山陰、北陸地域は、縄文以降、早くから中国、朝鮮からの陸伝いを主とした流民と、海伝
                 いを主とした流民があったのではなかろうか。
                 米つくりの技術を持った弥生人としてですが。そうした流民(弥生人)は、3世紀より前には、河川(かせん)上流
                 域で、農耕を開始したのでしょう。そうしたいくつかのヤマタノオロチ伝説の中に、斐伊川の上流域もありました。

                  3世紀以前では、河川を管理するというより、うまく付き合える地域での湿地での稲作が主であり、ひとたび大
                 雨でも降ると、洪水等で氾濫原になってしまうという状況であったと推察されます。が、3世紀頃には、古墳が造
                 られており、村から国へとこの地域でも進化発展をしていったのでしょう。

                  農耕と同時に、たたら吹きによる製鉄技術集団も育っていったのではないでしょうか。( 単に、たたらの技
                 術のみ伝わったのか、朝鮮系の流民集団と共に伝わったのかは分かりません。が、下記のブログでは、たた
                 らという言葉が、熱を表す言葉であるのに、風を起こす「ふいご」という語義にされているところから技術系の流
                 民も来たかもしれませんが、受け取る側の問題で、技術のみが、伝わったのかもしれません。・・筆者注)

                  「たたら吹き」についての大変興味深いブログでありますが、それを書かれた方には、許可を得ておりません
                 が、そのURLを明記し、その内容を抜粋させていただきました。引用について問い合わせをしておりますが、未
                 だ、その返事は、頂いてはおりません。削除等の要請があれば、直ぐに対処する所存です。
                     (  http://kn2006.blog66.fc2.com/blog-entry-331.html  より引用 )

                 {「タタラ」という言葉はもともと古い外来語で、サンスクリット語で「熱」の意味、古代朝鮮語で「もっと加熱する」
                というような意味であるそうで、製鉄法はヒッタイトからインド、シナ、朝鮮を経て日本列島に伝来したと思われま
                すので、そうした経路で伝わってきた言葉なのでしょう。

                 古代出雲においてはタタラは、製鉄用の窯の内部に風を送り込む「ふいご」のことを指したのですが、そうして
                風を送り込むことによって窯の内部の温度を上昇させる器具が「ふいご」ですから、「熱」を意味する「タタラ」が
                その器具の名前にも使われるようになったのでしょう。

                そうした製鉄作業に使われる特殊器具の名前が出雲神話の姫の名前に使われているということは、その一族は
               製鉄技術に関係する一族ということになり、父親のコトシロヌシと同一神となるアジスキタカヒコネの名には「鋤」とい
               う鉄製農具が含まれており、母親のミゾクイという名も護岸工事などの土木工事を連想させますが、土木工事には
               鉄製工具が不可欠です。そしてこうした神々を含んだ出雲神話の世界そのものに「国造り」という土木工事を連想
               させる要素があり、意宇平野を中心として土木技術集団が存在し、そのために使用する鉄器も同時に作っていた
               のではないかと推測されるのです。ただ、もちろん当初は低質な鉄器をもっぱら作っていたのであろうと思いますが。

               出雲神話には、巨人神が各地の土地を引っ張ってきて出雲国を作ったという「国引き神話」がありますが、この巨
              人神と製鉄神が合体して紀伊、大和、伊勢に「ダイダラボッチ」という巨人神の伝説が分布しています。

               この「ダイダラボッチ」の語源は「タタラボッチ」で、「片目で一本足の巨人で、タタラを操り風を起こす」とされ、暴風
              の神様とされて、このあたりは台風の進路ですから祀られているようで、桑名の多度大社の社伝ではこの神は蛇の
              形をしているともされ、出雲系の神の特徴を備えており、暴風神となるとスサノヲのイメージにも近くなります。

               ( 余談になりますが、海苔の養殖で、どこぞのテレビCMに「デイタラボッチ」という巨人が出てきて、風を起こす
               様子がありますが、それは、この話が素材でありましょうか。)

               また多度大社ではダイダラボッチは天目一箇神として祀られており、この神の親神はアマツヒコネと言い、アジス
              キタカヒコネと似た名前を持っており、天目一箇神は天叢雲剣を作った神といわれています。天叢雲剣は草薙の剣
              のことで三種の神器の1つですが、ヤマタノオロチの尻尾から出てきたのがこの剣です。

               おそらく紀伊や伊勢に出雲方面から製鉄技術を持った氏族が移住していって、この出雲地方の製鉄関連神話や
              巨人神神話を伝えて、それが紀伊や伊勢において台風に関する祭祀と習合して暴風神としての属性も持つようにな
              って台風の進路に沿って広まることになったのでしょう。

               もともとは出雲地方で製鉄が行われており、草薙の剣も出雲で作られて大和王権へ献上されたものなのでしょう。
               それは、この出雲の地が「たたら吹き」という日本独自の直接製鋼法の発祥の地で本場であったからなのです。

               タタラ、つまり「ふいご」は外来語であることからも分かるように外来物で、古代出雲が朝鮮半島経由で導入した技
              術でした。つまり器具だけではなく、その器具の有効な使用法も含めた製鉄技術全般を導入したのです。そういう技
              術も含めた総称として「タタラ」というものがあると考えればいいでしょう。

               そしてそのタタラ製鉄術を改良し、砂鉄を原料とした日本独自の直接製鋼法へと昇華させたのが「たたら吹き」とい
              う技術なのです。この技術が最も洗練された形態で完成したのは江戸時代のことですが、その原理的なものは古代
              から同じで、木炭の燃焼反応によって、銑鉄を作らずに砂鉄から直接、鋼を作る方法です。
 
               たたら吹きでは、砂鉄と木炭を交互に炉にくべながら風量を調節しながらタタラを踏んで比較的低温を維持しながら
              3日3晩の作業を行い、不純物の極めて少ない鋼を作り出すことが出来、これによって出来た鋼は硬く曲がらず粘り
              強く、研磨しやすく錆びにくいという特徴を示し、これを更に幾度も鍛えることによって刀剣の材料として最高品質のも
              のが出来上がり、これが後に日本刀を生み出すのです。

               この作業の間、炉の中の炎の色を注視して温度調整を細かに行うことが必須となり、そのため長時間にわたって炎
              を凝視する製鉄技術者は視力障害を起こす場合が多く、それゆえに製鉄神であった天目一箇神やダイダラボッチは
              片目であったのです。

               その「たたら吹き」の技術は古代出雲においてはまだ完成してはいなかったでしょうけれど、それでも技術の研鑽の
              途上において、他の地域で産する鉄よりも良質の鋼を得ることが出来るようになっていったはずです。

               また、この「たたら吹き」は非常に作業効率が悪く、わずかの良質の鋼を得るために莫大な砂鉄と木炭を消費せね
              ばならず、そのため古代においては結局、この「たたら吹き」によって大量の良質の鉄器を生み出すことは出来ず、相
              変わらず朝鮮半島からの鉄素材や鉄鉱石の利用が主流であったのですが、それらを超える最高品質の鋼を大変なコ
              ストをかけて生産するということから、かえって「たたら吹き」で産する鋼の希少価値を高め、その鋼で作られる剣は神
              宝として奉られることとなったのです。

               そういった出雲の神宝の1つが草薙の剣であったのでしょう。草薙の「ナギ」は蛇の意で、蛇の剣がその実体です。蛇
              はヤマタノオロチのことで、ちなみに草薙の「クサ」は「臭い」であり、オロチが異臭を放っていたということなのかもしれ
              ません。そうしたオロチの尻尾から出た剣だから蛇の剣だということで、もちろん本当に尻尾から出たわけではなく、水
              神たる蛇を意味する斐伊川から採集した砂鉄から作った剣であるということなのでしょう。

               あるいは製錬作業の行程で何らかのガスが発生したことを「臭い」と表現したのかもしれません。

               結局、「たたら吹き」は6世紀になって朝鮮半島から新たに入ってきた最新製鉄技術を取り入れることによっていくらか
             効率を上げることになり、その頃から朝鮮半島における鉄に関する利権を大和王権が失うようになっていったため、日本
             列島内で「たたら吹き」によって作られる鋼の需要が次第に高まっていくようになります。

              それ以前の段階の、おそらく紀元前250年から紀元100年ぐらいまでの間であろうかと思いますが、あくまで出雲の外
             の世界から見て「たたら吹き」が古代出雲の神宝を作る秘術であった時代に製鉄に関連する出雲神話世界が構築され、
             それが製鉄技術者集団と共に紀伊や伊勢方面に伝播していってダイダラボッチ神話を生み出していったのでしょう。

              そしてそれら技術者集団が200年頃の大和王権誕生にも関わっていくことになり、大和王権誕生に際して、出雲の神宝
             であった草薙の剣も、古代出雲と古代大和の同盟に際して、その「大和」たる共同体統合の象徴としての役割を担うこと
             となるのです。} 以上が、非常に長い引用の内容ではあります。けだし名文であります。が、惜しいのは、その文のベー
             スにある文献が明記されていないことでしょうか。是非知りたいと思っています。

           A 既に多くの研究者により、ヤマタノオロチ伝説の意味する事柄は推敲されておりますので、代表的な諸説を列記いたし
             ます。
              ( これらの諸説は、ウイキペデイア フリー百科事典よりの抜粋である事をお断りしておきます。詳しくは、下記を参照
              下さい。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%9E%E3%82%BF%E3%83%8E%E3%82%AA%E3%83%AD%E3%83%81 )

             ア、河川氾濫と、治水の成功と捉える説
                ヤマタノオロチについて、「洪水の化身」などとして解釈されることがある。オロチは水を支配する竜神を、クシナダ
               ヒメは稲田を表していると見做して、すなわち、毎年娘をさらうのは河川の氾濫の象徴であり、それが退治されたこ
               とは治水を表しているとする。また、大蛇が毎年娘をさらって行ったという部分について、習慣として神に対して一人
               の処女が生贄としてささげられていたということであり、治水の成功によりその野蛮な風習を廃しえたことを表すとい
               う説。

                愛知県春日井地区で言えば、「15の春」。庄内川の洪水を抑える為、堤防築堤時、人柱として、15歳の娘を人身
               御供にしたという話と同様かと。

             イ、出雲国と他の国との争いと捉える説
                「高志之(こしの、コシ-の)」の部分の解釈についても諸説あり、例えばこの当時、出雲国は実際に越国(北陸地
               方)と交戦状態にあり、『出雲国風土記』には意宇(オウ)郡母里(モリ)郷(現在の島根県安来市)の地名説話にお                
               いて「越の八口」を平定したと記されており、この出雲と越の勢力争いがこの神話の原型や土台ではないか、など
               と説く学説などがある。高志=越とみる向きでは、旧越国である福井県などに、「高志(野)」、「九頭竜(くずりゅう)」
               などという名称や地名が残っていること(例:高志高校、九頭竜川など)、また、四隅突出型墳丘墓に代表されるよ
               うに、過去に何らかの文化、権力的な関わりがあったと推定されることなどが挙げられている。

              ウ、出雲には、古代製鉄文化があったという説
                  天叢雲剣は出雲国の古代製鉄文化を象徴する、と類推する説もある。天叢雲剣は鉄製であり、十拳剣が天叢
                 雲剣に当たって欠けたということは、対する十拳剣は青銅製であったことを類推させ、また、当時としては最先端
                 の技術であった製鉄、またはその技術の結晶・産物である鉄剣を「アマテラスに献上した」というストーリーはその
                 頃の出雲と大和の関係を推し量る上で興味深いエピソードではありましょう。

              エ、砂鉄(あるいは鉱毒)で川が濁った様子を表しているとする説
                  「オロチの腹が血でただれている」の部分について、砂鉄(あるいは鉱毒)で川が濁った様子を表しているとす
                 る説がある。たたら吹きには大量の木炭を必要とするため、川の上流の木が伐採しつくされた結果洪水が起き
                 たことを象徴しているともされ、実際に島根県斐伊川流域はたたら吹きによる大量の土砂排出によって天井川
                 となり、歴史上度々洪水による被害をもたらしている。洪水後には「鱗状砂洲」と呼ばれる、蛇の鱗を思わせる
                 砂洲が幾条も構成されることがあり、これが大蛇のイメージとなり神格化された、などと説明される。

              オ、川の支流8つをオロチの頭に見立てた説
                  島根・鳥取県境にある船通(鳥髪、鳥上)山系を出発点とする日野川、斐伊川、飯梨川、江の川、伯太川など
                 の川、およびその支流を頭が8つある大蛇に見立てたとする説もあり、これらの河川を一部の研究者などは今日、
                 「オロチ河川群」と呼んでいるようであります。

              カ、八岐大蛇は火山による火砕流であるとする説
                  八岐大蛇は火山による火砕流を神格化した怪物であるとする説もあるようであります。

                            5.日本書紀に登場するアマテラス、スサノオに関する事柄の概略

                 @ アマテラスは、保食神より生まれし、稗、粟、麦、豆の種。(畑の種)稲の種。(水田の種)を、人民が食べて生
                  活すべき物と仰せになり、そして、村長を定められ、稲を天狭田(あまにさだ)と長田(ながた)に植えられたとい
                  う話。
                   ( アマテラスは、初期弥生人そのものか。稲作技術と籾を伝える化身でしょうか。狭田、長田という田の種類、
                   狭い方の田は、何やら川の上流域での水田、長田は、用水らしき水利利用が出来る田を想定しているのでは
                   ないかと推察できるのですが・・・。)

                 A アマテラスは、繭を口に含み、即座に糸を吐き出された。これより初めて養蚕の道が出来た話。
                   ( 弥生人は、蚕と養蚕技術を伝えたことのたとえでしょうか。)

                 B スサノオへの天上への来訪にみる悪心 2話。
                    ( 書記では、アマテラスは、姉。スサノオは、弟という関係。同属での争いを暗示か。)
            
                 C アマテラスの岩戸隠れ 4話
                    ア、スサノオの水田への乱暴と機織の邪魔。
                    イ、スサノオの機織の邪魔。
                    ウ、スサノオの水田への乱暴と機織の邪魔と新嘗祭の神聖さを汚した事。
                    エ、アマテラスは、良田。スサノオは、悪田。これを妬み良田への乱暴をした事。
                    ( 部族間の争いとか、部族間の争いの原因の暗示か。)

                 D スサノオの追放  ( 部族間連合からの追放を暗示か。)  6話
                    ア、出雲の国 斐伊川(ひいかわ)の川上へ、ヤマタノオロチより出でた剣は、アマテラスへ。
                    イ、安芸の国 可愛川(えかわ)の川下へ・・広島県西部(府中町付近の川カ、三次市付近を流れる川カ)
                         ヤマタノオロチより出でた剣は、尾張国あゆち村にある。
                    ウ、奇稲田媛(くしいなだひめ)を嫁にと、夫婦にいうと、オロチ退治の後でと。そのおろちより出でた剣は、
                       尾張国へ、

                    エ、新羅国にあまくだり、赤土舟にて出雲国 斐伊川の川上へ、そこには人を飲み込むオロチがいて、退治。
                       尾から霊剣が出た。アマテラスへ献上。

                    オ、スサノオは、「杉、くすのきは、舟にせよ。檜は、宮殿用に、槙は、棺に用いると良い。」と言い、スサノオ
                      の御子を紀伊国へ遣わす。

                    カ、出雲の国 斐伊川(ひいかわ)の川上へ、稲田媛を見初め、子をもうけられ、その5世の孫が大国主命。

                  *  ア〜エは、霊剣を献上するエピソード。献上が、アマテラスであれば、出雲の国と大和の国の関係を暗示か。
                       (ア、エ)、尾張国であれば、この神話は、大和朝廷成立後そうとうな時間が経ってからできた話かも。
                                                                             (イ、ウ)
                  * アマテラスの定住地よりの追放は、定住地よりの部分的転出の暗示かはたまた、部族からの追放か。(ア、イ、カ)

                  * このスサノオは、朝鮮半島からの流浪の民の存在を暗示か、赤土の舟にて、出雲国 斐伊川の川上へと言
                   う事は、初期弥生人の籾及び稲作技術の伝播をも暗示か。オロチ退治は、治水の完成の暗示とも取れます。(エ)                     

                  * 初期弥生人の籾及び稲作技術の伝播の暗示のみ。そして、その後の出雲国の後継者を暗示か。( カ )

                  * 後期弥生人の行動か、そして、中下流域での治水の完成の暗示か。( イ )
                     この神話のみ川下であり、、比較的あとの時代にできた神話かと推察いたします。

                  * このスサノオは、造船技術を伝えし民を暗示か。とすれば、初期弥生人の系列の海女(あま)人であろうか。
                     とすれば、この神話も、相当古い方の神話の部類にはいりましょうか。               ( オ )                       

                    イとウの神話は、後期弥生人の時代の話のような感じがいたします。霊剣を尾張の国へというくだりから。
                    また、イ以外は、全て川上に関係していますが、このイのみ川下へとなっております。

                    しかし、アマテラス、スサノオは、製鉄技術を持ちえていないようでありましょう。既に、出雲国では、製鉄技術
                   があり、剣を作っていたのでしょう。(オロチの尾より剣がでた事により)そして、アとエの話から、霊剣をアマテ
                   ラスに献上すると言うことは、その技術は進んでいて、アマテラスは、そうした集団(出雲国)を、傘下に加えた
                   と言う事を暗示しているのでしょうか。

                    6話のスサノオの追放神話は、並列的に記述されておますし、脈略は無さそうに感じました。そして、その伝播
                   にも、二通りの仕方があったのかと、一つは、朝鮮半島新羅からの伝播。もう一つは、造船技術に秀でた一族
                   (海流に乗っての船による直接渡来)からの伝播の暗示なのではと。

                 < 以上の事を総合的に考察すると >

                    出雲の国へは、初期弥生人が、朝鮮半島新羅より流浪の民として、米つくりの技術と共にやってきたので
                   あろうか。それも、一度とは限らず日本の地にいた初期弥生人も、やってきたようであり、その民は、斐伊川
                   上流域で、農耕を始めたのであろう。
                    三次市に遅れて、3世紀後半に古墳を築造する力をつけたのでありましょう。川筋からは、砂鉄がとれ、たた
                   ら製鉄により、赤茶けた川水が流れ、大雨後には、この地域の川の氾濫原には、蛇の鱗のような状態が出現し
                   ている事が多かったと言う。(この現象をヤマタノオロチに化身させたのかも知れません。)この夫婦は、国神(く
                   につかみ)であり、国の化身でありましょうし、さらに、この娘は、奇稲田媛(くしいねだひめ)と言い、水田と関わ
                   りを持っていると推察できます。いったい、いつ頃、この出雲の地にたたら製鉄の技術が伝わったのでしょうか。

                    {中原中也氏のHPに、「鉄とスサノオ伝説」という一文があります。氏によれば、鉄は、3〜4世紀頃大陸から伝
                   わったという認識であるようです。(いわゆる魏・呉・蜀の三国時代に伝わったかと。)
                    播磨風土記の逸文に、金屋子神(かなやごのかみと読み、タタラ製鉄に直接繋がる金属専門の神様)は、志相
                   郡岩鍋(現 □粟郡干草町)に鉄の神様が降りられ、その後、白鷺の背に乗り出雲国能義郡広瀬町に移ったと記
                   されているという。

                    また、出雲風土記では、ヤマタノオロチは、出雲土着の存在とは言っておらず、このオロチは、高志(こし=越)
                   から来ると明言しているやに聞き及んでおります。それ故、中原氏は、越の国(現 福井県 越前、越中、越後と
                   いう地名は、この越の国から来ているとも解釈される方がみえます。・・筆者注)から出雲のタタラ集団へ毎年「鉄」
                   を納めるよう督促しに来る者達が居たのでは・・・と推察されているやに読み取れました。それが、ヤマタノオロチ
                   の正体かと。}という記述にも出会いました。

                    安芸の国の可愛川(えかわ)へは、出雲の国より早く朝鮮系の初期弥生人が、入ったと推察できましょう。可愛
                   川(えかわ)は、現 広島県三次市辺りの川の上流域であったのではないでしょうか。( 3世紀中頃には、いち早
                   くこの地域で、特徴ある古墳が築造されているからであります。)そして、この地域の神話は、霊剣は、尾張国あ
                   ゆち村にあるという話にしてありますから、おそらく、そうとう時代が進んだ頃にできあがった神話ではありましょう。

                    ここまでが、出雲国のことであります。

                    こうした出雲の国の出来事は、魏志による倭国大乱時期に相当するのでしょう。その当時、九州、中国地域、畿
                   内には、それなりの諸国が、存在していたのではないでしょうか。

                付記

                  ここからは、アマテラスとスサノオの姉、弟関係から、大胆ではありますが、次のような仮説が考えられるので
                 はないかという事を述べてみえる方もあります。

                  確かに実証史学(考古学)からみれば、邪馬台国が、畿内の方が、後の大和朝廷時代の古墳より出る三角縁
                 神獣鏡の配布状況には、辻褄が合いやすいのは確かではあります。が、神話には何らかの史実が、暗示されて
                 いると考えれば、神話を全て作り話として破棄してしまっては、事の真実を掴みそこねはしないでしょうか。と考え
                 られ、それは、魏志倭人伝に記載されている 邪馬台国の卑弥呼と弟をアマテラスとスサノオに見立てられない
                 かと言う事であります。

                  神村律子さんが、このような事を既に、言われていたやに思います。
                  卑弥呼は、病死であるのか、殺されたのかわかりませんが、スサノオが何らか関わっていたのでは、天の岩戸
                 へアマテラスがお隠れになったと言う事は、古墳に埋葬された事を意味し、その後、天の岩戸から出てきたのは、
                 お隠れになる前のアマテラスと弱冠違う書き方になっているのではと推察され、出てきたのは、卑弥呼の娘では
                 ないかと考えられたようです。

                  そして、邪馬台国も、何らかの事情で、この後、畿内へと東征して行ったのではないか。かように推論されてい
                 たように記憶しております。なかなか面白い筋たてではありませんか。邪馬台国畿内説の方々には、不愉快きわ
                 まりない事ではありましょうが・・・。神村律子氏には、神話も、何らかの史実の投影と考えれば、それもありかと
                 考えられるのでしょう。決着が付くとすれば、魏より卑弥呼が貰いし、「親魏倭王」の印がどこぞより出た時に分か
                 りましょう。かの有名な金印が出たように!
                                                              平成24(2012)年6月18日 脱稿

                 参考資料
                 ・ 日本古典文学全集 2 「日本書記 @」   小学館発行
                 
                 ・ http://kn2006.blog66.fc2.com/blog-entry-331.html   引用

                 ・ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%9E%E3%82%BF%E3%83%8E%E3%82%AA%E3%83%AD%E3%83%81 引用

                 ・ http://www4.hp-ez.com/hp/picno/page10  ( 神村律子の趣味のホームページのURL )