古代 式内社であっただろうか 三明神社を訪ねて

          1.はじめに
             尾張地域の式内社に関する研究は、江戸時代元禄期から宝永期にかけ活動された神道学者 天
            野信景が、その著「尾張国神名帳集説」(本国神名帳集説)にまとめられているようです。

             延喜式神名帳には、尾張の国春日部郡には、12社が記載されているという。
             ・ 非多(ひた)神社 
                所在地は、明らかでないと言う。
                天野信景は、この非多神社を小牧市大字林にある三明神社を想定している。林には、卑田(ひ
               た)と呼ぶ地域がある故であろうか。

             「しかし、大字林の三明神社は、古老等の口伝では、その昔、大縣神社の別宮であり、この地域は、二
            ノ宮領(丹羽郡 大縣神社領であったという。・・筆者注)であったようであり、年貢等も二ノ宮に納めていた
            という。天正戦国時代、二ノ宮の社人は、放捨し、逃走したという。それ以後は、村方の祥雲寺(曹洞宗)が、
            拾ったという。」(東春日井郡誌 参照)

          2.鎌倉期 地頭円覚寺文書に現れる林・阿賀良村(現 小牧市大字林・池ノ内カ・・筆者注)について
             また、「尾張地域では、一ノ宮は、現 一宮市の真清田神社、二ノ宮は、大縣神社、三ノ宮は、熱田神宮で
            あるようです。この決定は、国司制度が確立した頃定着したものであり、国司が、その年に参拝する順序と
            いう事のようであります。」( 古代尾張氏の足跡と尾張国の式内社 加藤 宏著 昭和63年 参照 )参考ま
            でに、国府は、この当時現 稲沢市にあったのであり、参拝順は、単に距離的なものではなかったかというよ
            うに推察いたしましたが、実際、一宮は、国の祈祷所的な存在であり、古代では、天変地異・疫病等に対す
            る恐れは、現代人の比ではないようで、必要不可欠な福祉政策であったようです。当然、国府近くに置いて
            おくべき神社であったのでありましょう。            
                    
            ・ 林・阿賀良村の支配形態
             名寄帳に現れている年貢、彼岸米について
              「林村では、彼岸米として二ノ宮(大縣神社)に納め、円覚寺へは、年貢として銭貨で納めている。つまり、
             林村は、二ノ宮(大縣神社)社領であったと考えられる。

              阿賀良村については、二ノ宮神用米、領家への「郷分の米」、更に二ノ宮社へ生栗や炭等を負担してい
             るようで、ここも二ノ宮社領であろうと推量できるのであり、二ノ宮社との繋がりは、林村よりも早かったの
             ではないかと。」( 小牧市史 参照 )

              小牧市史 通史 P.98には、「この林・阿賀良村は、二つの村であっても、実質的な村落としては、一体
             であったのであろうと記述されております。また、鎌倉前期、尾張では、もと国衙の支配下にある所領を、
             在庁官人や領主達が、私領化し、国衙と関連の深い一・二・三ノ宮へ寄進する事が盛んに行われていた」
             という事も記述されています。

              林村々内には、長源寺と三明社があり、この三明社は、現 小牧市大字林字宮前の三明神社であり、延
             喜式神明帳に「非多神社」とあるのが、三明社であろうという。古老は、昔 この三明社は、二ノ宮の別宮で
             あったと伝えている。長源寺については、その所在は明らかでない。
              林村では、三明社への二季御祭料、長源寺への修正餅米は、村の全体会計から支出され、この二社の
             存在が、村の結合の核になっていたし、二ノ宮社領であった事が名主層が、在地領主の進出を阻む口実と
             なり、請書の別相伝地という記述となって言い表されていたといえるのではないでしょうか。

              この請書も、本来は、鎌倉 円覚寺が、先に地頭職を運用している地域と同様な開発経過の林・阿賀良
             村に対し、地頭職を口実に、進出してきた事柄に対する在地の名主達の、精一杯の申し立てであり、譲歩
             でもあったと解する事ができましょう。地頭が、お寺であった事も譲歩に大いに影響したのではないかと推
             察いたしました。

              この三明社の前身は、非多神社?であって、二ノ宮(大縣神社)の別宮となっている。

              こうした開発時期は、そうとう古い時期(古墳時代頃)であり、まだ、河川を管理できる状況ではなかったか
             と推察いたします。とすれば、沢水等の比較的管理しやすい地域での開発が、主であったのでありましょうか。

           3.三明神社を訪ねて
              我が家からこの神社までは、車で、僅か5分程度の所に位置しています。篠岡小学校の西側を走る昔から
             の旧道を北に向けて走り、池ノ内の交差点を右折して、大山川沿いの旧道(味岡明知線)を走ると右手に池
             ノ内の郵便局が在り、そこを通り過ぎると大山川に流れ込む支流の沢と旧道が交差する所に出る。左手側
             に津島神社があり、その左手側の奥まった所に三明神社は、木々に囲まれ、ひっそりと佇んでいた。平成2
             4年12月4日(火)の雨上がりの午前中の事ではありました。

              参考までに、この三明神社から本宮山までは、直線距離で約2Km弱。大縣神社から直線距離で、約1.5K
             m程でしょうか。一丘陵を越えればという位置関係でありましょう。本来、丹羽氏は、田縣神社側に拠点をおい
             て開発していた筈。開発が手詰まりになったのか、まだ、この辺りの河川の流れをコントロール出来えない状
             況であったのか、他所(現 多治見市)への進出を試みていた事は間違いのない事ではありましょう。

              天保12年丑6月の春日井郡林村の絵図面解読図( 小牧市史 資料編2 近世村絵図編 参照 )によれ
             ば、現在とほぼ同じ所に鎮座されているようで、北側の山の裾野に出来ている灌漑用池(雨池、上池、平野
             池)より南下する水路が、3本あり、おそらく元々の沢水の流れを利用した水路ではないかと思われました。
              これなら、水のコントロールは、容易であったでありましょうが、反面、日照りの時には、米つくりは、難しかっ
             たでありましょう。林村の再開発は、平安時代末頃からでありましょうか。

              この林村の古い家々は、灌漑用池のある山裾に建てられたようで、この天保期の絵図面でも、同様でありま
             した。

              最初にこの三明神社を見つけた時は、こんもりとした木々に囲まれており、何かしら古墳ではないかと見間違
             えました。確かに墳丘のような造りを感じました。参道は、旧道より続いており、100mもない位でした。

              直ぐに階段があり、左右には、常夜灯が二基設置されており、作製年次は、昭和であり、かなり新しい物であ
             りました。階段をあがりきると能舞台のような建物(拝殿)と右側に手水場が出来ておりました。三明社は、更に
             石段を登り、最上段に鎮座(本殿)されており、建物そのものは、比較的新しい創建であるように感じます。当然
             二匹の狛犬が鎮座しており、年次は、明治期でありました。

              聞けば、伊勢湾台風で、以前からあった木々は、根こそぎ倒れ、社も相当の被害を蒙ったとか。(納得)
              三明社本殿の右側には、大人でも一抱え半以上の切り株が、すっかり朽ち果てて2株残っていました。
              聞けば、椎の木(スダジイの木カ)の切り株であったようです。現在の木々は、伊勢湾台風以後に植林した木々
             であるという事を三明神社近くで農作業をされていた方から聞きました。

              また、能舞台(拝殿)のある平地の本殿右前側には、小さな社が数基あり、一番右端には、自然石の大石が、
             4個鎮座しており、一番大きな石には、何やら印刻されているようでしたが、かなり年数が経っているようで、殆ど
             解読出来ませんでしたが、私には、何やら「磐座(いわくら)」らしき物ではないかと思えました。原始的な、最初の
             神社形式なのではないかと逞しい想像をいたしてしまいました。

              その三明神社より北西 400mのやや高台に祥雲寺(曹洞宗)が存在している事も分かりました。鎌倉期には、
             長源寺もあったようですが、今はその存在は、分からないという事のようであります。もしかして、この祥雲寺の前
             身が、長源寺ではなかったかとも想像いたしますが、地元の方が、ご存じないのであれば、二つのお寺さんの創
             建には、連続性がなく、かなりの間隔があり、その後、祥雲寺(文正期 応仁の乱の起こる1年前頃カ・・篠岡村誌
             参照)が創建されたのでしょうか。何せ、承久の乱(13世紀)時には、この辺りも争乱の場となり、近くの小松寺は、
             その為に消失したとも聞き及んでおりますから。

              長源寺も、その時消失したのかも知れません。郡史では、天正戦国期に遁走と記述されております。
              郡史の記述通り、承久の乱でも、三明社の社人は、しぶとく生き延び、天正年間の戦国時代に、とうとう身の危険
              を感じて、遁走したのでしょう。この天正戦国期には、長源寺はなく、祥雲寺となっていた筈。