教科書に於ける 元寇勝利の要因 ”神風”について

         1.はじめに
            私の元寇に関する知識は、私が、中学生の頃にまで遡る。要するに、神風による勝利という記述の
           教科書であるようです。

            私は、中学生当時、偶然その当時、台風が吹いたのであろうと思って納得していたと思います。
            私達世代(戦後の第一次ベビーブーム世代かと)は、概ね台風による偶然の勝利程度の理解であ
           ったと推測いたしておりました。

                           史実は、この当時台風は、吹かず、何らかの低気圧による強風であったようだという。元寇襲来時
           は、強風の吹きやすい時期であり、ほんの一時風の止む時期にしかこの当時の船は、移動できなか
           ったようです。

         2.元寇に関するウイキペデイアの記述から
            「1910年(明治43年)の『尋常小学日本歴史』に初めて文永の役(1274年)の記述が登場して以来、
           戦前の教科書における文永の役(1274年)の記述は武士の奮戦により元軍を撃退したことが記載さ
           れており、大風の記述は無かったという。その後、第二次世界大戦が勃発し日本の戦局が悪化する中
           での1943年(昭和18年)の国定教科書において、国民の国防意識を高めるために大風の記述が初め
           て登場した。
            以来、戦後初の教科書である『くにのあゆみ』以降も大風の記述は継承され、代わって武士の奮戦の
           記述が削除されることとなったままであったという。

            戦後の教科書において、文永の役(1274年)における武士の奮戦の記述が削除された背景として
           は、執筆者の間で武士道を軍国主義と結びつける風潮があり、何らかの政治的指示があったためか
           執筆者が過剰に自粛したのではないかとの見解があるようです。

            また、戦時中や現代の教科書においても文永の役(1274年)において元軍は神風で壊滅したという
           言説が依然として改められなかった背景としては、戦時中は「神国思想の原点」ゆえに批判が憚られた
           ことによるという見解がある。この観念は戦時中の神風特別攻撃隊などにまで到ったとされる。

            戦後は敗戦により日本の軍事的勝利をためらう風潮が生まれたことにより、文永の役(1274年)に
           おける日本の勝因を神風ゆえによる勝利であるという傾向で収まってしまったのではないかとの見解で
           あります。

            そして、文永の役は大風で勝利したという戦後の常識を支えたのは、寺社縁起『八幡愚童訓』における
           記述がベースになっているといわれている。」という記述に接した。
            この部分の記述の抜粋は、下記 HPによります。詳しくは、下記 HPを参照されたい。
           (http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%AF%87 元寇 最終更新 2013年10月18日 (金) 22:14 参照)

         3.元による侵攻の根源
            {南宋遺臣の鄭思肖も「元賊は、その豊かさを聞き、(使節を派遣したものの)倭の主が来臣しないのを
           怒り、土(南宋)の民力をつくし舟艦を用意して、往きて攻める」と述べており、クビライが日本の豊かさを
           聞知したことを日本招諭の発端としている。

            他方、モンゴルによる日本招諭は、対南宋攻略の一環であったという説もある。モンゴルは海軍を十分
           に持っていなかったため、海上ルートを確保するためもあったという見解である。ただし、クビライは日本
           へ使節を派遣するのと同時期に「朕、宋(南宋)と日本とを討たんと欲するのみ」と明言し、高麗の造船
           により軍船が整えば「或いは南宋、或いは日本、命に逆らえば征討す」と述べるなど、南宋征服と同様
           に日本征服を自らの悲願とする意志を表明している。}(上記ウイキペデイア 参照)ようであり、”元”の持
           つ膨張政策の一環であったかのようでありましょうか。

            * 中国は、強大になると必ずこのような膨張政策を取る傾向が、発現するのかも。唐の時代もしかりであ
            りましょう。周りの国々を属国扱いにするか、蔑んだ国名で呼ぶのが、習いであったかも知れません。強
            大であれば、あるほどの事ではありましょうが・・・・。*

            「クビライは、途中で引き返すなど日本に未到着のものも含む合計6回、日本へ使節を派遣したが、服属
           させる目的が達成できなかったため、武力侵攻を決断する。」という記述もあり、真意は、やはり大国であ
           る元国は、服属させる事が、本意であったのでしょうか。日本からの返書の無さ、無礼さ、6回目には、返
           書でなく、日本が、使者を遣わす事となり、”元”に到着しましたが、日本による”元”の敵情視察と思われ、
           歓待はされなかったかと。
 
         4.元に対する日本の対応
            鎌倉時代、外交に関する諸事項は、一応畿内の朝廷の専権事項であったのでしょうか、鎌倉幕府は、元
           からの国書を朝廷に回送したという。

            朝廷は、日夜審議を尽くし、返書を書き上げ、幕府に送ろうとしたようですが、時の執権は、拒否したようで、
           元への返書はされなかったという。

            その当時の”元”からの国書の内容が、記載されていた.

                          蒙古国書の内容は、次の通りであった。(上記 ウイキペデイア より引用)

天の慈しみを受ける
大蒙古国皇帝は書を
 日本国王に奉ず。朕(クビライ)が思うに、いにしえより小国の君主は
 国境が相接していれば、通信し親睦を修めるよう努めるものである。まして我が
祖宗(チンギス・カン)は明らかな天命を受け、区夏(中国)を悉く領有し、遠方の異国にして
 我が威を畏れ、徳に懐く者はその数を知らぬ程である。朕が即位した
 当初、高麗の罪無き民が鋒鏑(戦争)に疲れたので
 命を発し出兵を止めさせ、高麗の領土を還し老人や子供をその地に帰らせた。
 高麗の君臣は感謝し敬い来朝した。義は君臣なりというが
 その歓びは父子のようである。
 この事は王(日本国王)の君臣も知っていることだろう。高麗は朕の
 東藩である。日本は高麗にごく近い。開国以来
 また、時には中国と通交している。朕の代に至ったが
 一度の誼みを通じようという使者もない。なお恐れるは
 王国(日本)はその事を未だ審らかに知らないのではないかと。ゆえに特に使いを遣わして書を持参し
 朕の志を布告させた。願わくは、これ以降、通交を通して誼みを結び
 もって互いに親睦を深めたい。かつ、聖人(皇帝)は四海(天下)をもって
 家となすものである。互いに誼みを通じさせないというのは一家の理と言えるだろうか。
 もって、兵を用いることは誰が好むことであろうか。
 王よ、その点を考慮されよ。不宣。

   至元三年八月 日


            その後二回目の”元”からの書が届けられたようでありますが、朝廷は、返書を先回の物に手を加え書き上げ、
           幕府に送致しようとしましたが、今回も幕府 執権の拒否にあい、今回も元への返書はされなかったという。

            このような形で、数回使者が、訪れ親書を携えて来朝したようであるが、全て返書を持たせず帰朝させてい
           たようです。当然、幕府は、南宋(中国本土 南側に存在した国)とは、通商もあり、当国の禅僧の来朝もあり
           そうした者達より元についての情報は、知りえていたでありましょう。

            「幕府が、防衛対策を次々と行いえた背景には、日本側が大陸の情勢に関して積極的に諜報活動を行って
           いたことがあげられるようで、『高麗史』によると、日本側が高麗に船を派遣して、諜報活動を行っていたと思わ
           れる記述がある。」ようです。

            九州上陸は、直ぐに行われたのではなく、九州と朝鮮半島の間にある対馬へ侵攻、次いで元軍は壱岐に上
           陸し、多くの捕虜を本国に連れ帰ったとか。

            文永の役(1274年)では、九州の地に上陸されたようですが、元軍の陣地へ白装束の者共が、矢を射かけ、
           元軍は、退散。戦況が不利であった時期でのこの戦闘で、日本側は、勢いずき、元軍は、副大将の一人が、
           弓の名手に射られ負傷したようで、海上の船へと退散。そこで会議を開き、一時帰国の方向でまとまり、帰朝
           の途に就く頃大風が吹き、難破したり、打ち上げられたり、沈没したりと大打撃にあったという。

            これが、元寇の真実であるそうな。明治期の教科書には、こうした事柄は、記述されていたとか。

            この白装束の者達は、いったい誰であったのか。幕府より遣わされた御家人衆であったのか。違うのか。或い
           は、山伏の一群であったやも・・・・。真相は、謎のままではあるようです。
            その当時、寺社は、外敵退散の祈祷が、盛んに行われていたようで、元軍退散後は、論功行賞で寺社の姦し
           さが、想像出来そうであります。

            こうして、九州沿岸地域に、鎌倉御家人等の所領がある者達は、幕府より派遣され、防衛網を築き、その後
           当地に滞留するようになっていった者も出たようであるという。

            元寇の件一つにしても、教科書の記述は、時の政治情勢によって、記述がかえられたりしたようです。やはり、
           史実は、一つ。どのような政治情勢下であろうと、正しい歴史認識に基づいた記述である事が、必要であろうと
           思います。