ブーゲンビル島北端の戦い ブカ地区警備隊の敢闘
局地戦とはいえ、劣勢な日本軍が豪州軍相手に勝利をおさめた巧妙、放胆な戦闘の数かず
本田清治 元八十七警備隊副長・海軍大尉
『丸別冊 太平洋戦争証言シリーズ1 空白の戦記 中・北部ソロモンの攻防戦』潮書房
p412
豪軍に勝った日本軍
昭和二十年正月以後、終戦までにブーゲンビル島(以下ブ島と略称)北部地域においてくりひろげられた日本軍と連合軍(豪州軍)との戦闘の特異点は、日本軍には最初から精兵といわれる者は一人もなく、飢え衰えた、補給もない部隊であったことである。
すなわち、昭和十八年十一月一日、連合軍のタロキナ上陸によって、日本軍はブ島への補給を断たれ、しかも、その後のタロキナ総攻撃に、その保有食料のほとんどを使い果たしてしまった。かくて食べる米もなく、 一年余がすぎ、飢えた部隊はすでにその半数を失っていた。
そして、痩せ衰えていた体力をふりしばって、うつうつと空を覆う巨本と、その下に丈余の草や樹木が立錐の余地もなく密生した、原始の大ジャングルに、銃剣Lスコップでいどんでいった。そうした血と汗のにじむ開墾によって甘藷を植え、細々と現地に自活して、ようやく命をつなぎとめていた。
それでもなお、毎日、栄養夫調やマラリア病で斃れる戦友は跡を絶たず、それをどうすることもできなかった。これがブ島およびブカ島(ブ島の北端)の日本軍の実体であった。
これにひきかえ、連合軍は、ありあまる物量と、多数の航空機に支援され、最新の近代兵器を駆使して、つねに新手と交代して攻撃してくる恵まれた状態であった。
このように、この戦闘は、まさに恵まれた豪州軍(以下豪軍と略称)と、 一機の飛行機さえない劣悪な装備の、しかも、ようやく生き永らえ、痩せ衰えた日本軍人・設営隊の軍属との間に繰りひろげられたものであった。しかも、何とこの劣勢な日本軍が、豪軍にたいして勝利をおさめた戦いであった。
このブ島北部熱帯密林内での彼我の戦闘は、地域的にも、内容的にもまた、大きく二つの段階に分けられる。まず、その一つは、昭和二十年初頭より四月末までの、ソラケン半島以南地域での防御戦闘であり、陣地攻防戦であった。これは陸軍部隊を主体とした戦闘でもあった。
そして、いま一つは、同年五月ょり終戦までのタリナ半島地域(ブカ地区)での、海軍設営隊員をふくめた海軍第八十七警備隊単独の戦闘であった。このときには、あらゆる創意工夫を生かして豪軍を苦しめ、かつまた、ポートン海岸に揚陸した敵を撃退するという敢闘ぶりを示した。
十九年末までの情況
さて、本論に入る前に、読者のみなさんにわかりやすくするために、 一応、ブカ航空基地のそれまでに果たしてきた役割と、セ号作戦以後、昭和十九年末までのブ島北部地域の陸海軍の情況について述べておきたい。
昭和十七年八月、 ガダルカナル島(以下ガ島と略称)飛行場の喪失直後には、ソロモソ群島にはわが軍の飛行場はなく、ガ島攻撃はもっばらラバウル基地からおこなわれた。しかし、この攻撃は遠距離攻撃となり、滞空時間もきわめて短く、効果はあがらず、不時着場もなかった。
そこで急遂、ブイン(十七年九月、第十六設営隊)、ブカ(十七年十一月、第二十設営隊)、ムンダ(十七年十二月、第十七設営隊)、コロンバンガラ(十七年十二月、第十九設営隊)に飛行場の建設が行なわれた。なかでもブカ第一飛行場には、いち早く第十一航空艦隊第六航空隊の戦闘機二十一機が進出し、それ以来、重要性を増したソロモン列島線、珊瑚海方面の索敵哺戒機の発進基地となった。
くわえて七五一空中攻隊、二五三空、二〇一空、二〇四空など、各航空隊のガ島攻撃基地等として重視され、その果たした役割はきわめて大きかった。また、波静かなブカ湾は、駆逐艦の絶好の燃料補給基地として、油槽船が常泊し、ガ島をはじめ、中部ソロモン群島での艦隊作戦にはまことに重要な存在となっていた。
海軍は緊追するソロモン群島方面の航空決戦に対処するため、十八年六月、ブ島北部のタコナ半島ボニスに第二飛行場(第二十二設営隊、完成)、 同年八月、ッァバイ地区に第二飛行場(第二百十一設営隊、未完成)の建設を急いだ。
そして、既存の部隊にくわえて新たに第十八、第二十八防空隊を急派して、これを対空防備に当てた。さらに九月、第八十七警備隊(十八年八月十五日編成、司令海軍大佐加藤栄吉)を進出させ、ブカ航空基地ならびにブカ港湾の防備強化をはかっていた。
一方、陸軍部隊は十八年二月、ガ島を撤退してブインに軍司令部をおいた第十七軍(軍司令官・陸軍中将百武晴吉)は、急選、その電下に派遣された南海第四守備隊(十八年七月二十二日、タリナに上陸)を一時、ブ島北部の警備に当たらせた。
だが、八月、その兵力をショートランンドに転用し、ガ島撤退後、ブイン、 エレベンタ地区にいた野戦独立高射砲第二十八大隊を、同年九月十八日、タリナ地区ソロム付近に移転配備した。
セ号作戦により、 コロンバンガラ島より撤退した日本軍のうち、陸軍部隊は、ブイン、エレベンタ地区の原隊に復帰した。
しかし、艦艇に収容してラバウルに後送できなかったムンダ、コロンバガラ両飛行場建設設営隊員、および同基地整備兵など約五千名の後送は、ブイン泊地が使用不可能となったため、急遠ブカ湾に変更となり、ここがラバウルヘの後送基地となった。
これらの隊員は敵機の跳梁下、その執拗な銃爆撃にさらされながら、夜を日についで、ブ島東岸のジャングルや湿地、けわしい山岳地帯、大小数多くの河川を徒渡り、二十余日もかけて縦断北上し、体力を消耗しつくして、やっと十月末、ブカ地区に集結して来た。
一方、タロキナ揚陸の意図をもった連合軍は、十月以後、ブイン、ブカ基地の壊滅を期して、機動部隊の艦上機等をもって、連日、数百機におよぶ熾烈な波状攻撃を行なった。
ブカ地区防空隊は、猛反撃によってその数十機を撃墜破する多大の戦果をあげたが、基地の機能はいちじるしく損われた。ついに二〇一空戦闘機隊は、基地整備員を残してラバウルに引き揚げ、制空権はまったく敵の手にわたった。
十月三十一日夜、敵機動部隊はブカ等に近接し、猛烈な艦砲射撃を行なったため、 一時はブカ島上陸などの誤報もあったが、翌十一月一日、連合軍はタロキナ ぐに大挙上陸を開始した。
ブカ島進出直後の海軍第八十七警備隊は、前述したような思わぬ多数の後送人員の収容と、敵上陸対策に多忙をきわめた。
十一月二十一日夜、味方駆逐艦による第一次在ラバウル陸軍第十七歩兵団のブカ地区増援とラバウルヘの人員後送、および大発五隻によるグリーン島経由基地整備員のラバウルヘの後送作戦が実施された。
つづいて二十四日夜、第二次陸軍増援部隊のブカ輸送が行なわれ、これは成功したが、その帰途、人員後送中の第十一駆逐隊等の駆逐艦五隻は、敵艦隊の待ち伏せによるレーダ射撃をうけて、その三隻を失った。
これで、ついに雨後の輸送は中止となった。
唯一のたよりであった潜水艦も、敵機の夜間爆撃、敵艦艇の攻撃を受けて沈められ、十九年一月八日、イ一八五潜を最後に途絶えた。
しかも、ブカヘの小型舟艇中継基地であるグリーン島に連合軍が上陸し、十九年二月十五日、同島守備隊は玉砕した。連合軍はたちまち同島にラバウル攻めの飛行場をつくったので、ブヵ地区への補給はまったく断たれた。当然、残余の人員の後送は絶望となり、否応なしに第八十七警備隊各隊に配属された。
タリナに上陸した陸軍増援部隊の第十七歩兵団(木村袈裟雄陸軍中将、歩兵三個大隊、砲兵一個大隊、千六百八十九名)は、司令部をタスイにおきその主力である歩兵第八十一連隊(連隊長・金子篤陸軍大佐)の第二大隊(大隊長・奥谷陸軍少佐)をクヌポポに、第二大隊(大隊長・井上陸軍少佐)をその南方ブト付近に配した。これでタロキナの連合軍に備えるとともに、ブカ第二飛行場地区にあった独立高射砲第三十八大隊等を掌握した。
十九年二月、第十七歩兵団は、第二次タロキナ攻撃の陽動部隊として、その第三大隊をラルマ河畔に進出させた。また、主力は軍命令によリヌマヌマに集結し、けわしいタロキナ峠を越えて、タロキナ基地攻撃に出撃して激戦を展開した。
しかし、味方の損害も多く、攻撃中止命令によって、西海岸のスン地区警備に一個中隊(歩兵第八十一連隊第十中隊、中隊長・河上滋陸軍大尉)、 および砲兵一個中隊を残し、主隊はヌマスマにおいて部隊の再編成と現地自活に取り組んだ。
陸海軍守備地域の協定
一方、ブカ地区の海軍部隊は、予想もしなかった多数の後送人員を抱えて、たちまち倍以上の七千名となり、またたく間にその糧食は底をついた。しかも、第二次タロキナ作戦に協力して、陸軍にその糧食の一部を供出したので、事情はさらにきびしくなった。
タロキナ、グリーン島敵基地の完成にともなうラバウル攻撃により、ブ島、ブカ島はまさに南海のこととなり、食うに食なき悲惨な戦いとなった。
とくに、対空戦闘に活躍した各防空隊や、タロキナ作戦に、重い弾薬糧食を担い、峠を越えて第十七歩兵団と苦労をともにしたブカ地区の各設営隊担送隊員の多くは、過労と病いに斃れ、余力のなかった現地自活態勢の立ち遅れは、直接飢えにつながった。
飢餓は容赦なくブカ地区をおそい、栄養失調、マラリア病患者が続出して、若い、体力の弱い者からばたばたと斃れていった。
そのころの悲惨さは言語に絶した。夕方、となりに寝ていた戦友が翌朝には冷たくなっており、その亡骸を埋葬した戦友がもう夕べに斃れた。
各隊は、それぞれ食糧収集班をつくって、椰子林やジャングル内から食べられるあらゆる物をけんめいにかき集めた。そして、必死になって原始の密林を開墾し、甘藷を植え付けていった。
ブカ部隊は日々失われていく戦力を、 戦力をなんとしても食いとめ、 一日も早く甘藷の連作によってこの飢えと病い、開墾の重労働から抜け出し、自活態勢を確立して、眼の前にせまっている敵のブカ地区進攻に備えなければならなかった。
甘藷の連作によって食糧を確保するには、日当たりのよい広大な畑を必要とした。しかも血と汗のにじむ密林を開墾した甘藷畑は、当初、坪当たり二十キロあった収穫が、連作による地力の低下によって、坪平均ニキロまで落ちたところもあった。
それゆえ、 一人あたり一日必要摂取量ニキロの確保は、とりも直さず一人が一坪の畑を食い、植え付け三ヵ月後の収穫時までには、 一人九十坪の畑が必要であり、そのうえ、植え付け、収穫には相当の手間がかかった。
いまや海軍部隊にとって、いざ決戦というときの、 一週間分の米以外の備蓄食糧はまったくなく、現地自活の成否に部隊の命運がかかっている。
このことは、部隊の単なる移動でさえ藷畑がなくては死活問題となった。これが作戦を制約し、戦術上も、戦略面からも部隊の運用には頭の切り換えが必要となり、農園確保という問題がつねにつきまとった。
十九年六月、現地陸海軍の守備地域に関する現地協定が行なわれ、ツアパイーダブツを結ぶ線以北のブ島地区およびブカ島は海軍の守備担当地域とし、それ以南のブ島およびタコフ島は陸軍の担当区域となった。この協定により、独立高射砲第二十八大隊はシアラ、タスイ地区に移動した。
同年七月上旬、陸軍第十七歩兵団は、独立混成第二十八旅北部の陸軍タリナ地区警備隊長は、独立高射砲第二十八大隊長中村泰三陸軍中佐が継承した。
海軍第八十七警備隊司令加藤栄吉海軍大佐は、上記陸海軍現地協定にもとづき、プカ海軍部隊の勝備計画を再塗討したなその結果、ツアパイ2ダブツの線にすみやかに防御陣地を構築防御することを第一義とし、ジャングル内でねばり強く反撃をくり返したあと、ブカ海峡で決戦し、繭後、日本海軍の最終陣地をブカ島ロキヤ。ポパゲン山一帯の山岳地帯として頑強に反撃して、最後をまっとうする方針を定めた。これによりただちにロキヤ農場の開墾と、設営隊員の陸戦訓練、陣地構築の指導など、諸般の準備を進めた。
十月一日、第八艦隊司令長官鮫島具重海軍中将の命により、ブカ地区決戦体制が発動され、それまで銃をとったこともなかった軍属の設営隊員が、海軍第八十七警備隊員として部隊編成されることになった。
ブカ地区海軍第八十七警備隊の決戦体制部隊編成表は、別表のとおりである。
豪軍の反撃はじまる
昭和十九年十二月三十一日、「ソラケン港以南のブ島北西岸の日本軍を撃破掃討せよ」との任務を受けた豪軍第十一旅団第五十一連隊第三十一大隊は、二十年一月はじめ、北上作戦を開始した。クヌア海軍見張所は、 一月九日、その南方の岬に豪軍部隊の北上を発見し、以
後、陸軍部隊と行動をともにした。戦闘は一月十七日、スン高地の前衛陣地であったクヌアにたいする豪軍の攻撃にはじまり、激戦がつづいた。
スン地区警備隊長河上滋陸軍大尉は、逐次、前衛部隊を、わがスン高地に収容し、歩兵第八十一連隊第十中隊、および旅団砲兵第四連隊第二中隊山砲四門を指揮して、頑強に反撃した。
タリナ地区警備隊長中村泰三陸軍中佐は、ただちに独立野戦高射砲第三十八大隊、野戦重砲第四連隊第中隊等より兵力を抽出した。さらに、海軍にも援軍を要請して、落合(第十八防笙隊)、常松(第二十、第二十二設営隊)二個小隊の派遣を受けて歩兵部隊を編成し、増援部隊としてスン高地に急行させて、河上大尉の指揮下に入れた。
豪軍は一月二十一日、陣容を立てなおし、優勢な山砲の支援をうけてスン高地を攻撃したが、撃退された。二十四日の攻撃も、日本軍の善戦により成功しなかった。戦闘は激化し、味方の損害も増大した。
翌二十五日、豪軍はゲンガ川を越えて対岸に侵入し、日本軍の右翼を包囲する陣形をとった。しかし、わが軍は執拗な反撃を行ない、その攻防は三十日までつづいた。
二月六日、豪軍は山砲・重迫撃砲の強力な支援をうけて、スン高地の攻撃を再開した。東側より高地の背後への進入をくわだてたが、阻止され、戦闘は激烈となった。 一部の日本軍陣地は奪われたが頑強に反撃し、主陣地を死守した。
ついに九日、豪軍は航空機の爆撃支援によって、ようやくスン高地を手中におさめた。
この戦闘後、交代した豪軍第二十六大隊は、海岸道に沿って、連日、日本軍と小戦を交えながら、二月下旬からじりじりと北上した。
タリナ地区警備隊長中村中佐は、ふたたび海軍に増援を要請し、高砂義勇隊一個小隊が、二月十一日夜、ソラケン半島頸部北側のマングローブ湿地帯に増援された。
豪軍は日本軍の拠点をさけ、その後方に迂回滲透する戦法をとり、二月十二日夜、ソラケン半島西海岸に二波の上陸を行なった。
このころから日本軍の軍用電話を盗聴した豪軍の待ち伏せ攻撃が多くなった。
三月下旬には、ソラケン半島はほぼ豪軍の手に落ち、下サボサ諸島は占領された。
タスイに進出した野戦重砲十五招一門は、タポパナツの観測所を活用して、三月上旬より四月上旬にかけ、味方第一線陣地間に火力閉塞戦法をとり、敵の侵入を防いだ。その威力はすさまじく、豪軍に多大の精神的打撃をあたえる効果をおさめた。
とくに四月七日の十五相・山砲による二方向からの急襲射撃による敵砲兵陣地壊減作戦、および十八日の敵弾薬集積地域への射撃は、胸のすくような戦果をあげた。
三月中旬以後、戦闘はソラケン半島頸部北部の攻防となり、密林内で連日死闘がつづいた。
これより先、ヌマヌマに在った陸軍独立混成第二十八旅団司令部は、味方の損害も増大し、戦場がしだいにソラケン周辺に移るにおよび、プ島北部所在部隊の戦線の整理を決意し、部隊にヌマヌマ集結を命じた。
四月上旬、豪軍は第五十三連隊第五十五大隊と交代し、さらに北方に進撃することを命ぜられた。四月中旬、戦場は広大なラツア湿地帯背後の瞼しい山麓地帯に移り、ポロポロは三十日に占領された。
陸軍タリナ地区警備隊長中村中佐は、四月中旬、海軍第八十七警備隊司令加藤大佐にあて、ソラケン半島の戦況の急迫を告げ、命により戦線を離脱してヌマヌマに集結することを電文で通告した。あわせて海軍の絶大な協力支援を感謝し、派遣された部隊にはすでに原隊復帰を命じたことを告げて、ヌマヌマに転進した(陸軍戦史では、シアラ発五月五日となっている)。
豪軍に脅成を与えた地雷攻撃
陸軍部隊のこの転進は、ブ島北部タリナ地区における陸海軍守備担当地域現地協定にもとづくものであったが、海軍側としては、ダブツーツアパイ防御陣地の前方に進出することをよぎなくされた。命とたのむツアパイの第二百十一設営隊(以下、二一一設と略称)農園は、陸軍守備地域にあったからである。
海軍第八十七警備隊司令加藤栄吉海軍大佐は、第三大隊(宮近信一海軍大尉、第三十二設営隊)と第四大隊(坂明海軍大尉、第二一一設営隊)に、すみやかにバニウ(豪軍はルレとぃぅ)2ラツアの線に進出して、防御陣地を構築することを命じた。
そして、第一大隊より三富。千葉の両少尉、おょび豊少尉の指揮する各一個小隊、ならびに前線より原隊復帰した高砂義勇隊一個小隊を、それぞれ第二、第四大隊に編入し、さらに五月中旬いロノハンの高砂義勇隊一個小隊も前線に増援した。
睦軍部隊が引き揚げた空自地帯には、潮が満ちてくるように、はやくも四月下旬、豪軍の姿がタスイの密林やラツアの湿地帯にあらわれはじめた。
豪軍はジャングルを切り開き、湿地に原木の丸太を敷きならべ車道を建設しながら、タスイ土人道沿いにバニウ方面へと進出しはじめた。
五月四日、第四大隊のラツア暉地が豪軍の攻撃を受け、中隊長松尾勲海軍大尉が戦死した。
豪軍は、たくみにわが陣地の間隙をぬい、密林内を日本軍の後方に進出して円形障地をつくり、攻撃するという作戦をとった。わが軍はフラシン椰子林まで後退をよぎなくされたが、それ以後、陣地側面のジャングルにかならず数組の潜伏斥候を配し、連日、待ち伏せ攻撃によって多大の戦果をあげ、その後、豪軍の進入をゆるさなかった。
第三大隊のバニウ。シアラ陣地は、五月上旬、連日のソラケン半島豪軍重砲陣地よりの砲撃(十招)と、航空隊の銃爆撃により破壊され、小隊長以下、多数の戦死傷者を出し、シアラ陣地に後退した。本部付の小池幹之助海軍中尉が、ただちにシアラ守備隊長として急派された。加藤司令は五月はじめ、池田海軍大佐を長として、本田大尉(筆者)、入江中尉ほか下士官六名の前線指揮本部をツアパイに進出させ、第一線の指揮に当たらせた。
密林では、しばしば彼我の斥候の交戦が起こった。透視のきかない密林内の交戦はほとんど至近距離での戦闘であり、先に発見して先制攻撃を行なった側が勝ちを制した。したがつて、目と耳を極度に駆使し、八方に眼を配り、細かい音ひとつ聞き洩らしても命とりとなった。
また、敵は交戦後は、きまって腰につけた手櫂弾の安全針をぬき、落としながら逃走し、その炸裂によって、日本軍の急追から逃れた。遺棄された自動小銃は、弾倉とともに日本軍に活用された。豪軍の攻撃はかならず観測機をともない、迫撃砲の地域射撃にはじまるが、歩兵と砲兵の連携はきわめてよかった。わが反撃をうけるとすぐ、ソラケン重砲陣地から、毎回、千発を越す猛砲撃を行なった。
これで陣地一帯は、たちまちハダカとなり、緑の樹海に、そこだけぽつかりと穴があいた。
樹木はたおれ、惨惜たる光景になったが、わが勇士たちはたくみに倒木の下に陣地をつくった。そして、よくその猛砲撃の苦痛に堪え、執拗に反撃し、そのつど豪軍を撃退した。また、陣地前に電池式砲弾改造地雷を埋設して、近接する敵を大いに痛めつけた。
さいわいなことに、ポートン奥地の旧陸軍弾薬集積所跡には、手入れをすればまだ使用できる多数の山砲・野砲弾が放置されていた。しかも各設営隊は、飛行場建設用としてダイナマイト用電気雷管を多量に保管していたので、加藤司令はさっそく、工作隊長曳地一海軍中尉に、これを地雷として使えるように改造を命じたのである。
この砲弾改造地雷は、シアラーラツア前線で活用された。陣地前に埋設することにより、あるいは港伏斥候の待ち伏せ攻撃などに用いて多大の戦果をあげた。
とくに豪軍のパニウ陣地(ルレ)にたいする密林内の敵補給路は、いたるところ絶好の襲撃場所であった。わが潜伏斥候は早暁、地雷を道床原木間に埋設して待ち伏せし、連日、ジープやトラックをはじめ、多数の人員を殺傷して、豪軍に精神的、肉体的、物質的な大打撃をあたえた。
豪軍はこの地雷攻撃に脅威を感じ、道路わきにさらに警戒間道をつくるなど、警戒はきびしさを増した。しかし、日本軍は被害を乗り越え、毎日の戦訓を生かして、つねに敵の意表をついた。多数の人員損害を受けた豪軍の進撃はとまり、五月二十一日、新たに第二十六大隊と交代した。
豪軍は四個中隊の兵力をラツアーバニウ線に展開して、進撃を開始した。しかし、左翼中隊はワラシン椰子林周辺、およびその北方で日本軍の強力な反撃にあった。東部のパプア偵察隊は、シアラ周辺で強力な日本軍陣地を発見して激戦を展開したが、撃退された。六月二日、豪軍は第二十六大隊を支援するため、さらに第五十一連隊第二十一大隊(二個中隊欠)を投入した。各大隊は野砲一門、大型迫撃砲小隊の支援をうけたが、日本軍は手強く戦った。
敵前線後方の補給路は、潜入したわが潜伏斥候によって連日攻撃を受け、被害が続出した。豪軍はこの剛胆で巧妙なわが地雷攻撃に根をあげて、前進は停滞した。かくてシアラ~ラツア戦線は、膠着状態となった。
このときまでに豪軍はタヨフ島、トロコイ島を占領し、タヨフ島に監視、観測所を設けた。
ポートン海岸の撃減戦
五月はじめから、ポートン海岸地域にたいする豪軍ソラケン重砲陣地、ならびに航空機による砲爆撃が執拗に激しくなり、ひと月以上もつづいた。
五月中旬には、ツアパイ奥の指揮本部が猛砲撃をうけ、板橋峠に指揮所を移したが、さいわいに一名の負傷者もなかった。
五月下旬、ソハナ砲台(第二十八防空隊)の十二・七センチ高角砲一門が、わが第一線を砲撃中の豪軍ソラケン砲兵陣地の射撃を行なったが、弾着観測はできなかった。この砲撃は、豪軍の軍需品集積所に多大の損害をあたえ、かつ豪軍に精神的脅威となった。
豪軍は前に述べたごとく、その補給路が、日本軍による絶えまない待ち伏せ地雷攻撃によって恐怖にさらされていた。それは、日本軍の戦法が従来とちがっていたからだ。また、堅固なシアラーラツアの日本軍防御陣地も、いままでのように抜くこともできず、いたるところで前進を阻止され、いら立っていた。
そこで過去二回の作戦で成功したように、闇夜を利用して、ひそかに日本軍陣地の背後のポートン椰子林桟橋に、 一個中隊百九十名の兵力を揚陸して、その夜のうちに橋頭堡を確保し、翌朝、航空機と砲兵支援のもとに、さらに増援部隊を送りこみ、膠着状態におちいった戦況をいっきょに有利に展開させる作戦をたてた。
六月七日正午ごろ、ポパグン山のわが樹上見張所は、その二十センチ双眼報遠鏡で、下サボサ島に敵上陸用舟艇多数が集結し、その動きが激しくなったことをとらえ、つぶさに加藤大佐に報告した。
司令はただちに全軍に、敵部隊の上陸にたいする厳重な警戒措置を命じた。
そして、第二大隊(下方徳次郎大尉、第十八防空隊)から一個小隊を、第四大隊ポ―トン地区に増援することを決意した。
六月七日は闇夜で月はなかった。午後十時、ポートン海岸第四大隊下士哨は、前面の暗黒の海上を、 エンジン音を消して北上する六隻の敵舟艇を発見した。
この報告を受けた指揮本部は、ただちに第四大隊長坂大尉に、豊政雄海軍少尉のひきいる一個小隊をもって、ツアパイからポートン桟橋にいたるマングローブ海岸線の偵察を命じた。
原住民の水先案内を乗せた豪軍の上陸用舟艇は潮に流され、第一波のライフル部隊三隻は、予定地点のポートン桟橋北方約百メートル、距岸約二十メートル沖おんみつりのリーフに座礁し、上陸部隊は隠密裡に珊瑚礁を徒渡った。
第二波の三隻(重火器、予備弾薬、糧食搭載)が着岸した十分後、偵察中の豊小隊はこれを発見し、ただちに攻撃を開始した。
時刻は正子(午前零時)であった。
豊小隊のこの攻撃は、この戦の鍵をにぎった。
対戦車砲―重追撃砲等の重火器、予備弾薬、食糧等の荷揚げを不可能にしたことは、豪軍上陸部隊にとっては致命的な傷手となった。
加藤大佐はただちに第二大隊に緊急出動を下令し、大隊長下方徳次郎海軍大尉に、敵上陸部隊攻撃隊指揮官を命じた。
下方大尉は第十八防空隊全員をひきいて、ポートンに急行した。
加藤司令は、さらに第一大隊(太田助三郎海軍大尉、陸警科、第一、第四防空隊、第二十設営隊)から菅原小隊、警備隊本部から出し得る兵力全部を抽出し、増援部隊としてひきつづきポートンに送った。
下方大尉くはツアパイの第四本部に到着し、逐次、部隊を掌握したが、最初のあいだはハッキリした敵主力の所在がつかめなかった。
新たに数組の斥候が出され、ジャングル内で彼我斥候の交戦がくり返された。
六月八日、夜明けとともにはじまった豪軍の援護砲爆撃は激烈であった。また十数機の敵機がジャングルに急降下をくり返しては、空を圧した。
この腸をえぐるような爆弾の炸裂音がやっと終わると、つづいてすぐ、ソラケンの豪軍重砲が砲撃をあびせてきた。それは数千発におよび、その凄まじさに味方は全滅するのではないかと思われた。しかし、これに味方はよく耐え、しだいにジャングルの敵を包囲していった。
下方大尉は軍通跡(ポートン東方ニキロ)に進出し、フラシン椰子林への敵の退路を断った。そして、その主力である第二大隊(第十八防空隊)を要として南から、北方ツアパイ側からは豊小隊を、中央には二一一設営隊、菅原小隊、高砂義勇隊を配して、旬旬肉薄して、じりじりと包囲網をせばめた。
海岸に座礁したままの二隻の敵舟艇には、その後も攻撃を続行し、その夜、焼き打ちを決行した。
指揮本部は、シアラーラツアの第一線兵力には、そのまま任務の続行を命じた。そして、新たに三大隊本部主力を予備隊として、ダブツ、ツンダワンの中間丘陵地に進出待機させた。また命により入江中尉を作戦指導のため第二大隊に派遣した。
敵の砲爆撃は終日、依然としてはげしかった。
味方の損害を最小限にするには、敵の前線に近接密着している以外にすべはない。それは同士打ちを避けるため、豪軍はその前線至近距離にたいしては砲爆撃をやらなかったからである。
豪軍の上陸部隊指揮官は、重火器、弾薬類の揚陸不可能のため、弾薬等の投下補給を要請した。
タヨフ島の豪軍観測所は、豪軍司令部にたいして、ブカ海峡を日本軍大発が多数の兵力を乗せて移動中とつたえ、また上陸部隊指揮官は、日本軍がぞくぞく増強されていることを報告している。昼間および夜、豪軍舟艇が増援のライフル一個小隊、火炎放射器小隊、軍需品
等を乗せてポートンに強行着岸を試みたが、海岸から、日本軍の激しい反撃にあい、揚陸できなかった。
夜になると敵は、日本軍の夜襲を極度に怖れ、終夜、近接防止に、眼がくらんで真昼のような明るさになる手招弾を、陣地前面で使用した。
敗走する豪軍
明けて九日、豪軍は再度、増援を計画したが、結局、その夜に撤退が決定された。
敵の主力は、ポートン海岸一帯の、無数にできた爆弾による橋鉢状の穴にひそんでいた。これをたたき出すには、頭上で破裂する迫撃砲、都弾筒射撃が最適であったが、わが海軍は迫撃砲を持っていなかった。
小数の擲弾筒を発射してみたが、日本軍の弾薬は防湿が十分でなく、不発が多くて効果をあげ得なかった。くやしかったが、どうにもならなかった。
このとき、下方隊はボニス十八防機銃陣地に、二十五ミリ打殻薬奏がたくさんあることを思い出した。漁撈隊の経験が思わぬときに役にたったのである。
これに飛行場に残っている六十キロ爆弾の下瀬火薬を分解してつめ、ダイナマイト雷管をつけた手投げ弾を至急つくって送るよう要請した。
下方大尉は、翌十日午前十時を期して総攻撃を敦行して、いっきょに敵を撃滅しようと決意し、準備を急がせた。
六月十日、北、東、南から、いっせいに総攻撃を決行した。敵の砲爆撃は熾烈で、その抵抗はあなどりがたかった。日本軍は地形を利用して、敵の顔がすぐそこに見えるところまで旬旬肉薄した。この戦いで豪軍は、付着すれば骨まで焼けただれる残虐な黄燐手欄弾を使用した。
激戦は、まさに山場にさしかかっていた。
このとき、十二時すぎに八十七警本部で急造した手投爆弾と火縄が戦線についた。凄まじい炸裂音で爆発するこの手投爆弾に驚愕した敵は動揺し、穴から一這い出す者もあらわれた。このころから豪軍は、ポートン海岸水際一帯に発煙弾多数を撃ち込んで、煙幕を展張しはじめた。そして、上陸用舟艇八隻´(四隻は武装兵満載、残り四隻は人影なし)をソラケン半島からポートンに急行させたが、ポパゲソ見張所の杉本一曹たちは、いち早くこれを発見報告した。
敵の意図が果たして増援か、撤退か、判断はむずかしかった。煙幕は風に吹き流されて、さほどの効果はなかった。
ソハナ砲台の十二・七センチ高角砲二門がただちに射撃したが、弾着観測ができず、その効果はわからなかった。
いまは迫ってくる豪軍舟艇群の接岸を阻止することが、先決であった。敵舟艇群は、ポトトン海岸に殺到してきた。ポートン椰子林南側を制圧していた下方隊は、急きょ海岸に移動し、突っ込んでくる舟艇を遂撃した。
彼我の戦闘は熾烈で、まさにブカ地区日本軍の勝敗と運命は、この一戦にかかっていた。機銃が真っ赤に焼けると、小水をかけて、冷やしながら撃ちまくった。味方に戦死者や負傷者が出たが、ひるまなかった。
着岸できなかった武装兵満載の敵舟艇は、猛烈な援護射撃を行ない、カラの舟艇四隻が海岸に突っ込んできた。
「敵の撤退だ!」
戦闘はますます激しくなった。舟艇が接岸すると、浮き足だった豪軍上陸部隊は陣地を捨て、算を乱して敗走し、舟艇めがけて必死に走った。
逃すまいと吠えるわが機銃、海上から撤退を援護する敵舟艇群の重火器音、絶えまない敵重砲の援護射撃の炸裂など、音、音、音でうずまった。
敵上陸部隊は壊滅状態となって、われ先にと舟に向かった。弾にあたって斃れる者、動き出した舟にやっと飛び乗ったものの、被弾して、海中に転落する兵など、ポートン海岸は修羅の巷と化した。
敵は海中にも遺棄死体をのこして遁走し、舟に乗れなかった者は、泳いで沖の島に逃げた。海岸に座礁したまま遺棄された舟艇に少数の敵がたてこもり、機銃を乱射して最後の抵抗をつづけた。
海に逃げおくれた十二~三名の豪州兵は、ジャングルの友軍の間隙をぬって、フラシン椰子林方向のマングローブの密林に逃げ込んだ。ただちに追跡捜索したが、見失ってしまった。
夜になり、 ″特攻隊員″が泳いで海側から座礁舟艇に、水上機の夜間着水用照明恒を投げ込んで、焼き打ち攻撃を行なった。川田修上曹、堀義雄一曹、山本兵長らはカメーを使って艇尾によじ登り、機銃を撃ち込んで敵を斃したが、堀一曹は壮烈な戦死をとげた。
深夜になって、座礁舟艇を救出すべく敵舟艇三隻があらわれ、強行着舷した。激戦の結果、敵は遣棄死体多数を座礁舟艇にのこして、撃退された。
明けて十一日早朝、豪軍はフラツン椰子林近くのマングローブ海岸などにゴム浮舟数個を投下して、陸路遁走する兵の収容をはかった。
板橋峠洞窟内にたいせつに保管さいた第二一一設の応急用戦闘糧食の乾麺包は、この危急存亡の味方を救った。
三日四晩の激戦で、敵上陸部隊一個中隊をポートン海岸より完全に撃退して、勝利をおさめた。
一粒の米の補給もなく早や一年半、あの痩せ衰えた第八十七警備隊軍人と軍属が、日本海軍の面目にかけて、海軍魂を発揮して、優勢な敵を撃退したこの勝利は、おそらく、近代戦における戦史にも類をみないものではなかろうか。
ポートン遂撃戦において敵にあたえた損害、ならびに味方の被害は、つぎのとおりであった。
一、敵一個中隊撃退
戦死者=約四十名(推定)、豪軍発表二十三名
負傷者=約百名(推定)、同右百六名
(内士官戦死二〈指揮官を含む〉士官負傷二)
二、鹵獲兵器等
ライフル銃 七十五梃
同弾薬 一万三千発
機関銃(二十ミリ) 五梃
自動小銃 一一十梃
同弾薬 多数
通信機械 一式
黄燐手溜弾 若干
その他糧食等 多数
三、破壊兵器等
擱坐炎上(焼き打ち)
上陸用舟艇 一二隻
大砲(対戦車砲) 一門
重迫撃砲 一門
機関銃その他重火器 若干
四、その他 ブーゲンビル北部軍用地
図(将校用)一枚
五、味方の被害
戦死四十名、重傷者二十名、兵
器異状なし
“特攻隊”による敵幕舎攻撃
上陸した敵を完全に撃退したポートンの大勝利は、ブカ地区海軍部隊の士気を一気に高めた。
おそらく豪軍は、ポートン揚陸作戦に呼応して、シアラーラツアのわが前線陣地に、大規模な攻勢をとるのではないかと懸念された。そこで、わが陣地は厳重な警戒態勢をとっていたが、豪軍は上陸作戦が思いもかけぬ苦戦となり、大攻勢に転ずる余裕がなかったようである。
わが第三、第四大隊の潜伏斥候は、ポートン戦の最中もますます活発に敵補給路を攻撃し、ジャングルで大活躍していた。豪軍はこの戦以後、前線での動きがにぶく、しばらくなりをひそめ、ふたたび味方の後方に上陸する気配は見えなかった。
士気があがった海軍部隊は、このころから特別攻撃隊(決死隊)をもって、敵幕舎の夜間地雷攻撃を開始した。敵の哨兵線には、密林の本にたくみに登つて、見張り任務につくパブアニューギニア土人兵があらわれた。彼らは得意の眼と耳で、日本兵の動きをとらえようL警戒しており、油断はできなかった。
ところが、樹上の土人兵は、ときどき地上の豪州兵と連絡をとるので、敵の哨兵線はむしろ発見しやすく、わが特攻隊は彼らに見つけられることはなかった。
特攻隊員はこれらの吟所をさがしだすと、その近くにじっと潜んで日暮れを待った。密林に夕闇がせまると、彼らは吟所を撤し、本から降りて宿合に帰っていった。この警戒心のまばらになった虚につけこんで、たくみに全身を偽装した特攻隊員は、発見されないよう用心深くこれを尾行した。暮れゆくジャングルもさいわいした。
つけられたとも知らず、宿舎に帰った白人兵や土人兵はやがて夕食をとり、音楽にくつろぎ、幕舎のまわりの警戒など気にもとめなかった。この油断を見きわめたわが特攻隊員は くバナナの業で、さらに顔が見えないようにかくし、暗闇のなかを十メートル進むのにも一時間もかけるという慎重さで幕舎に近づく。そして大胆にも、あらかじめ用意した、木の枝などにしっかり縛りつけた砲弾改造地雷を、そっと幕合に押しつけ、電線をそろりそろりとのばして後退し、寝静まるのを待った。
待つこと二時間、深夜、熟睡時をねらって特攻隊員はマグネット地雷を操作した。地雷は爆発し、幕合はたちまち吹き飛んだ。
突じょ起こった爆発に、敵は大あわてで、まわりの暗闇に向かってめくら減法に自動小銃を乱射したが、そのときにはすでに、わが特攻隊は戦果をあげて帰途についていた。
ジャングル内の行動は、夜はほとんど不可能であったが、夜眼が効き、方向感覚の鋭い高砂義勇隊員が一―二名特攻隊にいたので、迷わず味方陣地に帰ることができた。
幕舎攻撃は成功し、敵の被害は続出した。敵はそれが日本軍の砲撃によるものでないことに気づき、幕舎の周囲を刈りとり、鉄条網を張りめぐらすようになった。
特攻隊員は昼間から敵幕舎近くのジャングルにひそみ、敵が帰るとき、鉄条網のどこから出入りするかを辛抱強く見張って、暗くなってからそこから侵入するというやり方で攻撃した。なかでも、平林寛兵曹のように、通信装置を破壊し、糧食集積所にひそんで食糧を持ち帰った剛胆な者もいた。
恐れをなした敵は、宿舎のまわりのジャングルを五十メートル余も切り払い、鉄条網も、二重、三重にして警戒を強めスシアラーラツア街道の敵補給路も、つねに敵の意表をつく、たび重なるわが潜伏斥候の地雷攻撃に、いたたまれなくなったようだった。林間を五十メートル幅に伐採するなど、対策に狂奔するようになり、その進撃は止まってしまった。
敵戦車を壊滅
敵はこうした戦局を打開しようと、シアラーラツア戦線に、新たに戦車二両を投入してきた。ところが、わが前線には鉄条網はおろか、夕榔弾(小銃口に榔弾筒の弾丸を装損し、小銃の火力で発射して戦車の装甲を破壊する弾)、 対戦車攻撃用破甲爆雷さえなかった。
戦車壕を掘るひまもなく、また、東海岸第二大隊方面はリーフの岩盤が堅く、早急には掘れなかった。しかも、いままで敵補給路に埋設して効果をあげてきた砲弾改造の踏み抜き地雷やマグネット地雷では、戦車になんらの被害もあたえることができなかった。特殊鋼飯の敵戦車の装甲は厚さが十センチ以上もあり、少々の砲弾等の爆発ではびくともしなかったのである。
戦車は草原地帯の道路を走り、わが前線陣地には悲壮な空気が漂った。この報告を受けた加藤司令は、ただちに曳地工作隊長に、ブカ第一飛行場にある航空機用六十キロ爆弾の信管を至急、踏み抜き地雷用に改造するよう命じた。
ブカ海軍第八十七警備隊工作隊の活躍ぶりや、その果たした役割は大きかったが、こんどもまた工作隊は、短時日でみごとにそれをなしとげた。この爆弾地雷二個は、その夜のうちに大発でポートン桟橋に輸送され、ただちに担送で最前線に送られた。
この強力な地雷はみごとに成功した。シアラ戦線第二大隊正面に北上してきた敵戦車一両が、まんまと、わが潜伏斥候が埋設したこの六十キロ爆弾地雷に触れ、見るも無残な姿となった。右側のキャタピラは切れて五十メートル余りも吹っ飛び、車体はもののみごとに仰向けにひっくり返った。また、爆圧で底が天蓋にくっつき、戦車兵は悲惨にも粉々になって砲塔の覗き窓から飛び散っていた。
転覆した戦車のすぐ前には、直径約二十メートルの指鉢状の大穴があき、爆発の凄まじさを物語っていた。戦車が行動するときは、通常、敵の歩兵約一個小隊が警戒兵として行動をともにするので、そのほとんどが爆風によって瞬時に死傷したものと思われた。
戦車出現により憂慮された前線の士気は、またしても高まった。
しかし、もう一発は、不幸にも埋設直後になんらかの原因で爆発し、潜伏斥候全員が跡形もなく爆砕して、壮烈な戦死をとげた。
戦車豪や、対戦車火器もない日本軍陣地を蹂躙撃破できると信じた切り札のこの戦車の喪失は、豪軍にとって大打撃であったにちがいない。また、この凄まじい爆弾地雷の威力に恐れをなしたのか、他の一両はなすこともなく戦場から姿を消した。
敵の戦意は落ち、バニウ(ルレ)の陣地を放棄して、急きょ後退した。
遺棄された敵の幕舎には缶詰類が散乱し、敵の退却のあわただしさをしのばせたが、食糧に飢えていた日本軍をよろこばせた。
カヌーによる敵舟艇基地攻撃
かねてポパゲン見張所よりの報告で、豪軍は毎週一回、タロキナより下サボサ島の補給基地に、小型輸送船二隻で海上輸送をおこなっている事実を熟知していた。そこで第八十七警備隊本部は、水上特攻隊を編成し、六月中旬、敵の意表をついて、カヌーをもって長駆、下サボサ島の敵舟艇基地の攻撃を行なった。
これはカヌーの軽快さ、隠密性、水深二十センチの浅い海面でも楽に行動できる利点を活用しようというものである。夜間、ひそかにブカ湾を渡り、ソラケン半島の敵陣地間近かをすり抜けて、豪軍の虚をつき、その本拠である下サボサ島基地の舟艇を奇襲破壊し、今後の敵の上陸作戦を阻上しようとの大胆な企てであった。
対馬武雄海軍中尉の指揮する水上特攻隊・カヌー六隻(隊員十八名)は、それぞれ時限装置として、導火線をつけた砲弾改造爆弾を積んで出撃した。
カヌーはボニス本部基地を離れ、ぶきみに眠る夜のブカ湾を、水音を消して南下していった。そして、いくつかの小島のわきを音もなくすべり抜け、さいわいにも一気にブカ湾を渡ることができた。
敵重砲陣地のあるソラケン半島をまわると、上サボサ、下サボサ諸島が外洋のうねりのなかに、黒々と浮かんでいた。敵の上陸用舟艇は、この島かげの基地で深い眠りについていた。
敵は油断して気づいていない。すばやくそれぞれの舟艇に横づけしたカヌーから、特攻隊員は、ひそかに敵舟艇に乗り移った。そして、機械室にもぐってエンジンに爆弾をしかけ、導入線に点火してふたたびカヌーにもどり、急いで舟艇を離れた。
暗闇をたくみに利用して、極力、音をたてないように力漕して帰途についたとき、大爆発が起こり、敵の舟艇は破壊炎上した。
作戦はみごとに成功し、全員がぶじ帰還した。ブカ島のポパゲン見張所も、その眼鏡に、その夜の爆発をとらえた。敵は日本軍が、まさか海上から来たとは気がつかなかった。第二回日も大成功であった。
ひきつづいて、第三回日の特攻攻撃が決行された。しかも、このときは陸上兵合の攻撃も計画された。しかし、二回にわたる奇襲をうけて、さすがに豪軍も警戒を強めていた。
不運にも第二次は、特攻隊員が爆弾を艇内に持ち込んだところを、発見されてしまった。敵はアラム(警報装置)を鳴らし、投光器をつけて、暗夜の海面を捜索し、カヌーを見つけて機銃を乱射した。
山本兵曹以下歴戦の勇士が、無念にもこの攻撃に斃れ、特攻隊の過半を失ってしまった。生還したのは対馬中尉艇(対馬中尉、中条重吉一機曹ほか一名)、神田富吉艇(神田富吉兵曹、浜田水兵長)の二隻、五名だけであった。
シアラーラツア戦線四百名の食糧は、後方の現地自活による甘藷でまかなわれていた。しかも敵制空権下とあって、その農作業、炊事、そして前線への担送は、いずれも昼間はまったく不可能であった。すべて設営隊員による夜の作業に負っていた。それは苛酷な作業でもあった。
日没後、うす暗くなるのを待ちかねて隊員たちは作業にとりかかった。甘藷を掘り起こすあとから、すぐ畝をたて、苗を植え付けてゆく。
そのかたわら、藷を集めて袋につめ、炊事場に運んでふかす。前線には、さらにこれをつぶして腐らないように塩を混ぜ、バナナの葉で包んで弁当をつくる。それを担送隊が運んだ。
その忙しさは、弾こそ飛んでこなかったが、戦場以上のものがあった。畑を掘ったらすぐ苗を植えないと、自活できない。
しかも、夜が自む前にどうしても作業を終えなければならない。そうした切迫感から、誰もが暗い畑でただ黙々とけんめいに働いた。
煙は部隊の所在を示すので、炊事は夜に限られた。したがって、前線への担送は、日没後、および夜明け前の二回だけで、それが前線の命をつないだ。しかも敵前の夜のジャングルでは灯はつけられかづらないので、密林の小道に張った葛や夜光木を頼っての担送であり、なみなみならぬ苦労があった。
夕ロキナに収容さる
七月十日午後二時、敵補給路ぞいに出ていた第三大隊潜伏斥候は、テンプツ方向の密林から目の前の切り開かれた街道に出てきた陸軍将校斥候の姿を認め、思わず「陸軍じゃないか」と声をかけた。彼らは偽装して軍刀を腰に差し、異様に目をぎらつかせていた。
この出合いは、まことに焼倖であった。海軍部隊は、先に旅団命令によリヌマヌマに集結を命ぜられて転進していった独立高射砲第二十八大隊中村部隊が、加藤司令の要請により、ふたたびタリナに復帰を命ぜられて反転したのを知らなかったからである。
中村部隊の百名は、ひと月分の食糧を支給されて、六月十日に、ヌマヌマをたち、 一ヵ月かかってようやくバュウの近くまで到着した。その途中、いくどか敵性原住民の襲撃を受けて、五名の戦死者を出すなどしたが、夜間に行動することで敵の目を欺いてきたのである。
さいわいなことに、将校斥候がラツア街道に出た地点が、たまたまわが潜伏斥候の鼻先であった。
こうして中村部隊は敵につけられることもなく、ただちに第二大隊本部にぶじ誘導された。
陸軍が帰ってきたということは、たとえその数が百名足らずであつても、ブカ地区海軍部隊にとっては百万の味方を得たような喜びであった。
部隊は休養をとったあと、第四大隊正面に配備された。八月十五日、ソハナ砲台はソラケンの敵重砲陣地をふたたび砲撃した。さらにブカ島第一大隊砲隊立花輝彦海軍中尉の指揮する山砲一門を前線に移動し、篠原草原林縁に陣地をおいた。そして、八月十七日、宵闇せまるころ、ソラケン重砲陣地にたいし射撃を開始し、やつぎ早に十七発を撃ち終えた。
思いがけない日本軍の不意打ち砲撃に敵はあわてて反撃してきたが、百発程度であった。これはいつもにくらべ、数がまことに少なかった。
八月十八日の朝がきた。この朝、胴体に日本降伏という日本文字をつけた敵の飛行機が、ジャングルすれすれに何回となく飛びまわり、ビラを散布した。われわれは気にもかけず、第二回目の山砲射撃の準備を終わった。
その日の夕方、私たちは、『御聖断により戦は終わった』ことを知らされた。
ジャングルはふたたび静寂な太古の昔に帰り、さんさんと降り注ぐ太陽がまぶしかった。私たちは第八艦隊司令長官の指示により、武器を処理し、戦闘記録を焼却した。
ブカ地区部隊の停戦交渉は、九月二十日に開始された。部隊は逐次、タロキナ収容所に収容され、十月二日、海軍第八十七警備隊本部を最後に、すべての部隊がブカ地区に眠る戦友の英霊に別れを告げ、ボニスを離れた。
かつてブインからの転進後送部隊をふくめて―昭和十九年はじめには約七千名を数えた海軍軍人、設営隊員も、いまや総数二千九百名となり、ほかに陸軍九十五名を数
えるのみであった。
この戦記では、第二十八防空隊はあまり出てきませんが、「豪軍の軍需品集積所に多大の損害をあたえ、かつ豪軍に精神的脅威となった」と活躍の様子が伝わってきます。また、終戦の日(8/15)にソラケンの敵重砲陣地を砲撃したというのも印象に残りました。
十二・七センチ高角砲が威力を発揮したようですね。それから、ブカ地区(第八十七警備隊)における苦労の様子や部隊の編成表はとても参考になりました。