時刻よし!19セイコー

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女真族の国家 渤海国

 

女真族の国家は、これら高句麗、大清帝国以外に、渤海国と金がある。ここではまず、渤海国について見ておきたい。

 

渤海国は、698年〜926年に、沿海州のあたりにあった国だ。「渤海」そのものは、黄海の奥、遼東半島と山東半島の内側にある大きな湾状の海域を指す。なぜ沿海州の渤海国が、渤海の名を呈しているかというと、それは建国者の大祚栄が唐から渤海郡王の称号を得ていたからだ。

 

渤海国は、一般に高句麗が滅亡した後にその遺民が建てた国家とされる。このころ女真族は靺鞨と呼ばれ、『新唐書』に記録がある。この渤海国は、華夷秩序のなかの序列を新羅よりも上にする要請をしているところから、新羅人とは区別できることを示している。面白いのは、韓国・北朝鮮はこの同じ記録から渤海国を朝鮮族の国家とみなすとしていることだ。しかし、これはあまりに強引というものだ。 

 

 

女真族とは

 

この女真族、中国や日本の歴史に繰り返し出てくる。これが面白い。清朝を建国したのだからよほどの大民族なのだろうと思いがちだが、その歴史は複雑だ。そもそも「女真」とは、中国人に対して「民」(ジュルチン)と名乗ったところから、同じ音の女真を当てはめたことが語源という。この女真族がつくった古代の国家が高句麗という。

 

中国が、これを根拠に高句麗を中国の地方国家であるとするならば、同じ論法で清王朝は中国人の国ということになる。しかし、中国人はそれを認めないだろう。

 

そして、同じく韓国・北朝鮮は高句麗を朝鮮の古代国家と主張する。その根拠は、高麗は高句麗の後継国であるとするものである。しかし、高麗の建国者、王建はこの女真族だったとか、中国人の末裔だったという説がある。しかも、この高麗の後継国、李氏朝鮮の建国者である李成桂も、女真族説、中国人説があるのだ。

 

 

中國は満州国を認めていない

 

溥儀が迎えられた満州国という呼称は様々なことを考えさせられる。戦後はソ連に占領され中華人民共和国が成立すると中国に返還された。そして、満州国は日本の傀儡政権(偽満州国)だったとして、現在は満州の呼称は禁止され、中国東北部と呼ばれる。

 

この満州という漢字も本来は「満洲」が正しく、これは水に関係していることが由来という。よって、現在の日本の教科書に満州とあるのは誤りとなる。そして、古くから使われてきた女真・女直は中国の属民を意味した族称だったことから、清の創始者ホンタイジが禁止し、満洲にしたという経緯もある。そもそも愛新覚羅の愛新は金を意味するとか。そういえば、清は後金だった。

 

このように清朝、満州、溥儀を巡っては、様々な歴史観が垣間見えるデリケートな歴史ということがわかる。

 

 

天津租界のくらし

 

中国では19274月に蒋介石が上海クーデタを起こし、南京国民政府を樹立。7月に国共合作が破棄され国共内戦が始まると、1928年には北京に入城。袁世凱から始まった北京政府打倒を目指した孫文の遺志を果たしたことにより北伐が完了。これらの混乱の中で、東陵事件が起きる。軍閥孫殿英の軍によって乾隆帝と西太后の陵墓が略奪を受けたのだ。この事件で孫殿英は罰せられなかったため、溥儀は国民政府に激怒。清朝復活を誓うのだった。

 

そのころ日本政府の保護下に入った溥儀は、正室婉容、第2夫人の文繍とともに日本租界のあった天津で過ごしていた。しかし、1931年には第2夫人の文繍との離婚が成立。中国の皇帝のなかで初の離婚だった。そして、文繍は溥儀の堕落的な生活を暴露。平民に落とされた。正室の婉容はアヘンに手を出していた。

 

一連の事件の後で1931年に始まったのが満州事変だった。この後、溥儀は数奇な運命をたどることになる。

 

 

宣統帝溥儀のその後

 

一般に、大清帝国第12代皇帝、愛新覚羅溥儀と呼ばれることが多いが、元号が宣統であり、正式には宣統帝という。1912212日に大清帝国皇帝を退位し、清国は滅亡した。溥儀は中華民国との取り決めで、退位後も大清皇帝の尊号と生活を保障されていた。

 

ところが、袁世凱が共和制を廃止し、191611日に中華帝国と定め、自ら皇帝と宣言した。元号は洪憲。しかし、323日には帝政が取り消され、帝位はわずか83日間だった。

 

191771日には溥儀は清国皇帝に復帰する。中華民国の立憲君主派に担ぎ出されたのだった。これを張勲復辟事件という。ところが、13日で頓挫、退位。この後、1922年に正室と側室を迎え、1923年の関東大震災では日本政府に対し義援金を表明。日本政府に感謝されている。

 

1924年には、北京政変というクーデタが発生。溥儀は紫禁城から退去させられる。困った家庭教師のジョンストンがイギリスやオランダに庇護を頼むも拒否され、北京の日本公使館は困惑しつつも、最終的には庇護を引き受けることとなった。

 

 

15年戦争」という呼称について

 

 満州事変の勃発した年は1931年であり、ここから1945年の終戦までを「15年戦争」と呼ぶことがある。この名称は鶴見俊介氏が1956年に『中央公論』のなかで使用したのが初見であり、愛知大学の江口圭一氏がライフワークとして取り組み、広める役割を果たした。

 

 しかし、15年と言うものの、実際は14年に満たず、しかも、満州事変以後から日中戦争開始までの4年間は大規模な戦闘がなかったこと、そして、対米戦争は自衛のための戦争でありアジア解放の戦争だったという主張があることなどから異論がある。

 

 

他にもある注意すべき日

 

 中国の反発が予想される日は、この7/7以外にもまだある。

 

 ・5/9 第一次大戦中に日本が突き付けた「21か条の要求」を、中華民国(袁世凱)が受託した日

 ・9/3 抗日戦争勝利記念日。日本が太平洋戦争の降伏文書に署名した翌日

 ・9/18 柳条湖事件。満州事変勃発の日

 ・12/13 南京陥落の日。当時、南京は中華民国の首都だった

 

 他にも、3/15 消費者権益保護デー、7/1 中国共産党成立記念日、8/1 人民解放軍成立記念日があるという。今回のソニーの事件よりも随分前からこのことは指摘されていた。

 

 

ソニーが踏んだ地雷 7/7

 

ソニー中国が100万元(約1770万円)の罰金を科された事件は記憶に新しい。これはソニー中国が新製品を発表した日が問題とされた。なんと、日中戦争の発端となった1937年の盧溝橋事件の発生が77日だったからだという。

 

「なぜ、よりによってこんな特別な日に新製品を発表するのか?」という声があるという。日本では七夕の日であり、星まつりという五節句の一つでもあるため、むしろおめでたい日と認識していたようだ。しかし、中国のとらえ方は違っていた。それほどまでに日中間にはデリケートな問題が存在するのだ、ということをまざまざと見せつけられる一件だった。

 

 

第一次世界大戦の賠償完済は2010

 

第一次大戦でドイツが背負った賠償金は1320億金マルク(金47,256トン相当)で、17000円で計算すると330兆円となる。ドイツはこれを30年間に分割で外貨で支払うこととなった。交渉中はもっと高額な要求だった。

 

しかし、ケインズは支払いが困難と分析して、連合国首脳に減額を要求。実際、マルクの暴落となり、ドイツは支払い不能を宣言。フランスとベルギーはルール占領となる。マルクはさらに暴落し、インフレは1兆倍に達したという。これがいわゆるドイツのハイパーインフレだ。

 

これを受け、アメリカがドーズ案、ヤング案で救済策を出したが、そこへ世界大恐慌がおき、ナチスが台頭して支払いを拒否。支払いを再開したのは戦後の1953年。2010103日に7500万ユーロが支払われ、残り2000万ユーロは無効が見込まれ、完済となったのだった。

 

 

ドイツ側の復讐

 

 193991日、ドイツ軍がポーランドに侵攻した後、フランス軍が西部戦線から積極的に攻撃しなかったため膠着状態となった。ドイツ軍は19405月にオランダ・ベルギー・ルクセンブルクに侵攻。手薄だったアルデンヌの森を突破。包囲されたイギリス軍とフランス軍はドーバー海峡から逃れるという展開となった。フランス政府はパリを放棄、ボルドーに移った。614日にはドイツ軍がパリに無血入場を果たし、フランス政府からドイツ政府に休戦を申し出た。

 

 ドイツ側は、第一次世界大戦の休戦協定を締結したコンピエーニュの森を指定。しかも、そのときに会場として使用した客車アルミスティス号を博物館から出し、同じ場所に設置させることを要求した。622日、ヒトラーは、前回のフランスの元帥フォッシュが腰かけた椅子に座ったという。それほどにドイツ側の復讐の念が強かったことが窺われる一幕だったのだ。 

 

 

数奇な運命をたどるアルミスティス号

 

 第1次世界大戦の事実上の終結協定はフランスのコンピエーニュの森で締結された。いわゆる「休戦の客車 Wagon de l'Armistice(アルミスティス号)」と呼ばれる2419号食堂車(2419D)がその会場となった。

 

 2419号は元々食堂車で、フランス国内で運用されていた。しかし、第1次世界大戦末期には西部連合国の総司令官が司令部として列車(2418号)を使用しており、それと同型の2419号を191810月にフランス軍務省が会議用車両としてワゴン・リ社に改造を命じたものだった。

 

 調印後、19199月にワゴン・リ社に返還。10月にはフランス政府の博物館へ展示するという要請に応じて政府に寄贈。しかし、クレマンソー首相によってその前に大統領や国賓用に使用することとされ、政治的に利用されたのだった。そして、19214月にやっとパリのオテル・デ・ザンヴァリッド内の軍事博物館の中庭に移送されたのだった。

 

 ところが、このアルミスティス号は再度歴史の表舞台に立つことになるのだった。

 

 

さらにもう1つの628

 

 実は628日は、第1次世界大戦にもう1つ因縁があった。講和条約のヴェルサイユ条約が調印された日(1919.6.28)だった。講和の内容は、ドイツに対する過酷な結果となった。

 

 しかし、それに先立つ19181111日に事実上の休戦協定が結ばれていた。3月にロシア革命が起きていて、このとき東部戦線は消滅していた。そして、11月にドイツ革命が起きて、西部戦線を残したままの休戦協定となった。そのためドイツ国内では「背後から一刺し」と言われ、しかもスペイン風邪が流行して戦争以降が難しくなったことを反体制勢力のサボタージュととられ、不満が残る形となった。

 

 そのため、ドイツ共産党による蜂起は鎮圧されて社会主義革命は免れたものの、ナチスドイツが台頭する下地となった。

 

 

628日という日

 

 「ゾフィー、ゾフィー!死んでは駄目だ。子どもたちのために生きてくれ」

 

 オーストリア皇太子フェルディナントと妻ゾフィーは貴賤結婚だったと言われる。皇帝ヨーゼフは、2人にできた子ども、自分から見れば孫が皇位を継がないことを条件として結婚を承認したそうだ。

 

 1914628日は、皇太子夫婦がセルビアの青年(プリンツィプ)によって暗殺されたことがきっかけとなって第一次世界大戦が勃発した、サラエボ事件として記憶される日だ。この日は、実にいわくつきの日だった。

 

 オスマン=トルコ帝国が、バルカン半島を支配するためにセルビアと戦ったコソボの戦い(1389年)で、スルタンのムラト1世がセルビアの貴族ミロシュ・オビリチに暗殺された日だった。

 

 そして、1881年、オーストリアとセルビアの間で密約が結ばれ、セルビアがオーストリアに保護国化された日であり、1900年、フェルディナンドとゾフィーが結婚した日でもあった。

 

 

日露戦争で時間の止まった国 モンテネグロ

 

 日露戦争は、一般に日本とロシアの戦争として扱われる。しかし、実はもう1国、この日露戦争で日本に宣戦布告をした国があった。モンテネグロ公国である。この国はバルカン半島にあった小国で、ロシアとの協調を外交の基軸としていたため、義勇兵を満州に派兵していたのだ。ただ、戦闘にはなっておらず、宣戦布告は無視され、講和会議にも招かれていない。

 

 その後、第一次大戦ではオーストリア・ハンガリー帝国の占領下に置かれ、君主ニコラ1世はフランスへ亡命。1918年にはセルビアに併合され、ユーゴスラビア王国に属することになる。第二次大戦ではイタリアの占領下に置かれ、戦後ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の共和国の1つとなった。

 

冷戦が終了すると、1991年にユーゴスラビア紛争が勃発したが、モンテネグロ共和国はユーゴスラビア共和国にとどまる。1999年のコソボ紛争ではセルビアから独立する動きに出て、2006年の国民投票により独立宣言。EUからも承認された。

 

この間、100年以上、実はずっと日本とは戦争状態だったことになる。

 

しかし、2006年の衆議院で鈴木宗男による質問主意書に対する日本政府の答弁書では、宣戦布告の根拠が否定され、日本はモンテネグロの独立を承認した。現在は国名をモンテネグロという。

 

 

習近平氏の時間観

 

   「中華民族の偉大なる復興」

 

 習近平氏が、2013年の全国人民代表大会で演説したときのフレーズである。1840年のアヘン戦争以後、日清戦争にも敗れ、屈辱と化した歴史から復興し、いつか世界最強の国を目指すというものだ。

 

 中華民族とは何か、復興とはいつを目指しているのか、という議論はあるものの、これは「時計の逆回し論」である。その第一段階は、1894年の日清戦争であり、日本からアジアナンバー1を取り戻すとしている。日清戦争は中国の歴史にとって大変大きな出来事だったことを改めて思い知らされる。

 

 

日清戦争の時間観

 

  「今次の日清戦で清国が長い間の迷夢を日本によって破られたことに感謝する」

  「今後は西洋列強の圧力に対し、日清両国は兄弟のごとく連携しなければならない」

 

清国全権大臣、李鴻章の下関条約締結時の言葉である。日清戦争の目的は、一般に朝鮮の独立問題と言われている。それは間違いではない。しかし、この李鴻章の言葉は、清と日本の立ち位置が変わったことを明確に表している。日本と中国は対等になり、東アジアにあった華為秩序が崩壊した。いや、日清戦争の結果は、むしろ日本の国際的地位の向上と中国の地位低下を引き起こした。

 

つまり、数千年の長い間に東アジアに構築されてきた中国中心の国際秩序がご破算にされたことを示している。それは言い換えれば、東アジアにおいて、近代国家日本を含めた西洋列強による新しい国際秩序の始まりだった。

 

 

ペリー提督とオールコック公使の予言

 

「日本人が一度文明世界の過去及び現在の技能を所有したならば、強力な競争者として、

将来の機械工業の成功を目指す競争に加わるだろう」

 

「もし日本の支配者の政策がより自由な通商貿易を許し、日本人をしてバーミンガムやシェフィールドや

マンチェスターなどと競争させるようになれば、日本人もそれらにひけをとらず、シェフィールドに迫る

刀剣や刃物類をつくり出し、世界の市場でマクリスフィールドやリヨンと太刀打ちできるだけの絹製品や

縮緬製品を産出するだろう、とわたしは信じている。」

 

 これらは、お雇い外国人の力を借りて文明開化や殖産興業を成し遂げていく明治維新後のことではない。なんと江戸時代末期の日本人が、模型を見たり書物で学んだりして独力で蒸気機関や反射炉、アームストロング砲、電信機を瞬く間に習得、製作していったことを指しているのだ。歴史学習ではこの時代のことをもっと取り上げてもよいかもしれない。

 

 

五箇条の御誓文の時間観

 

正式名は「御誓文」。明治元年(1868年)314日に、三条実美が御所の紫宸殿の神前で読み上げた。これは、明治天皇が天地神明に誓約する形をとっており、公卿・諸侯以下百官を集めたという。国民には太政官日誌によって布告された。

 

この御誓文は西洋の立憲主義を体現しているものとして、明治7年の板垣退助らが作成した「民選議院設立建白書」、明治8年の立憲政体の詔書、昭和21年の昭和天皇の人間宣言「新年ニ當リ誓ヲ新ニシテ國運ヲ開カント欲ス國民ハ朕ト心ヲ一ニシテ此ノ大業ヲ成就センコトヲ庶幾フ」に立ち現れている。小泉純一郎が平成13年(2001年)に出版した書籍の題は「万機公論に決すべし」だった。

 

この御誓文については色々な議論があるようだが、明治日本が新しい国づくりの出発点として掲げたのは意味深い。しかも、日本の大事な局面で復活して唱えられてきたのも感慨深いものがある。未来へ向けての希望を感じさせるからだろう。

 

 

蘭学者の時間観

 

 江戸時代の学問の流れはもう一つある。かつて(南)蛮学と呼ばれたスペイン・ポルトガルから渡来した学問であり、吉宗のときに蘭学(オランダから渡来した学問)に取って代わられ、幕末から明治に洋学(西洋から渡来した学問)と変わっていく。いずれも日本にはなかった西洋の学問を指す。

 

 それらは自然と社会の真理を探究する学問であり、西洋の教養だった。つまり、現在を客観視し、改善し、未来を変えようというものだった。日本が明治になって、西洋に伍して発展したのは、この蘭学の理解度と受容度が高かったからではないかと思うのである。

 

 

江戸時代の儒学者の時間観

 

『日本永代蔵』と同じぐらいの時期に書かれた歴史書に『本朝通鑑』がある。林羅山、林鵞峯父子を中心に編纂したもので、江戸幕府の修史事業だった。2人は儒学の朱子学派であるので、仏教の排斥が特徴と言ってよく、神儒合一の見地から日本の神話を儒教的に解釈した。

 

そして、この『本朝通鑑』の「日本(天皇)の祖先は呉の太伯である」という記述に、徳川光圀が憤慨して編纂したと言われるのが『大日本史』である。この件については論争が続いているが、『大日本史』が水戸学派という儒学(陽明学)に立脚し、国学の影響が色濃かったため尊王攘夷派の思想の基盤になっていくところを見ると、さもありなんというところか。

 

封建制を強化したと評される両書だが、そのことが倒幕運動に収斂され明治政府の構築に貢献していく。つまり、過去の解釈が未来を指し示すという逆説的な運動になっていったのは歴史の皮肉というところだろうか。

 

 

78 コメ相場の時間観

 

日本永代蔵と言えば淀屋の豪商ぶりは目を見張る。そしてこの淀屋が起点となって発生したのがコメ(米)相場だ。世界初の政府公認の先物取引市場と言われる。江戸幕府の公認が得られるのは1730年(享保15年)である。

 

先物取引は将来の価格の変動に対する保険というのが基本的な考え方であり、いわゆるヘッジだ。しかし、利益目的の投機が行われるようになるとマネーゲーム、ギャンブルの色彩が強くなる。実際、幕末には混乱が引き起こされ廃止されている。

 

先物取引は、現物取引と異なり鮮度が問題とならない。将来の特定日に取り決めた価格で現物を売買することを約束することであるので、ヘッジだけでなく、倉庫費や管理費なども軽減にもなる。言ってみれば、未来を買うということなのだろう。江戸時代の商人は未来を予測して取引していたのだ。

 

 

77 日本永代蔵にみる時間観

 

言わずと知れた井原西鶴の浮世草子だ。歴史の教科書にも出てくる有名な作品だが、中身を語る人は意外と多くない。しかし、この作品は江戸時代を知るうえで大変参考になる。

 

『日本永代蔵』は日本史上初の本格的な経済小説と言われる。親の相続などで得た財ではなく、自分の商才で稼ぎ出した商人の話が扱われているのだ。しかも、桁外れの豪商も出てくる。商人の社会は、閉塞感どころか立身出世の世界であり、下剋上だった戦国時代の武士の時間観に通じるものがある。

 

 

76 奉公構(ほうこうかまえ)にみる時間観

 

下剋上や奉公先を変えることは、天下が統一されてくると秩序を乱すものとして認めず、奉公構という刑罰が下されるようになる。改易や出奔等で主人の元を去った家臣を、他家・他の主人が雇用してはならないというもの。

 

そもそもは戦国時代の分国法などに定められていたが、天下を統一した豊臣秀吉が全国に広げたという。それが江戸時代になると武家諸法度に明文化され、主従関係を強化、統制するものとなり、幕藩体制の礎としたのだった。いわゆる転職・再雇用の否定であり、滅私奉公を美徳とする気風を生んでいく。

 

それは血筋や家柄といった、自分のあずかり知らぬ過去が自分の現在・未来を決めてしまう(縛る)、閉塞感漂う世の中になっていったことを示している。

 

 

75 戦国時代は転職の時代

 

現在放映中のNHK大河ドラマ『麒麟がくる』の主人公、明智光秀を見ればわかるように、主人を次々と変えて出世していく。下剋上の時代で、主人が倒されたり自分から見限ったりしたときに、他の主人に雇われることは普通のことだった。

 

運もあったことだろうが、能力のあるものは職場を転々と変えていくことが可能な開かれた世の中だったのだ。そういった意味では、今この瞬間の現在が未来を決める世の中だったと言っても差し支えないだろう。

 

 

74 下剋上にみる時間観

 

信長は、下剋上の典型と見ることができる。信長は尾張下四郡の守護代だった主君織田信友を倒し、尾張上四郡守護代の織田信安も追放。尾張を統一する。桶狭間の戦いで、海道一の弓取りと呼ばれた今川義元を破ると、足利義明を将軍に就任させて権力の正当性を確かなものとした。そして、義昭の裏切りが明らかになると追放し、次に皇室の権威を利用して事実上の天下人となった。

 

 宣教師フロイスの『日本史』によれば、さらに明を武力で制圧し、子どもたちに治めさせる構想をももっていたという。しかし、その信長も明智光秀に討ち取られ(本能寺の変)、自分の子どもではなく家臣の豊臣秀吉が後継者になっていく。

 

生き残り、あわよくば権力を奪取して手中におさめていく。しかし、自分自身も倒される対象となる。これらは過去(現在)の権威を否定し「今を生きる」ことを体現したものであり、戦国武将の気風を表していると言えるだろう。

 

 

73 武士の時間観

 

   <此時、信長敦盛の舞を遊ばし候。人間五十年 下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。

一度生を得て滅せぬ者のあるべきか、と候て、螺ふけ、具足よこせと仰せられ、

御物具召され、たちながら御食をまいり、御甲めし候ひて御出陣なさる。>

 

『信長公記』の一節である。桶狭間の戦い(1560年)の前日に、尾張に向かって侵攻してきた今川義元軍を迎え撃つにあたって、織田信長が清洲城で謡い舞ったとされる。強大な敵を相手にしなければならなかった信長の心情を表しており、この世の儚(はかな)さをも表している。「今を生きる」や鎌倉武士のいわゆる「一所懸命」にも通ずる心持ちと思われる。

 

 

72 不定時法の前は中国式定時法

 

      「時奏(じそう)する、いみじうをかし。いみじう寒き夜中ばかりなど、

こほこほとこほめき、沓(くつ)すり来て、弦打ち鳴らして、…」 (枕草子275段)

 

ここにいう「時奏(じそう)」とは、宮中で行われた夜中の時報のこと。陰陽寮の漏刻による時刻を知らせたことをいう。ここで使っている時間は中国式の定時法である。しかし、田舎びている人は不定時法らしく、時奏をまちがえて捉えていることを面白がっている。

 

鎌倉時代になると、寺院で日の出や日の入に鐘を打つようになり、これが、不定時法が定着していくきっかけとなる。戦国時代になると西洋から機械時計が入り、不定時法の和時計もつくられるようになり、江戸時代には城中や町中で太鼓を使った時報が整えられていく。

 

 

71 無常観と川の水と言えば…

 

ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。

よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。

世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。

 

『方丈記』である。鴨長明は、元々は名字が示しているように加茂神社(下鴨神社)の禰宜の家の生まれで、道元よりも少し前に生きたようだ。彼は人生に失望し出家。京都を襲った天災や飢饉が詳細に記録されており、末法思想の影響が見て取れるという。

 

変わりつづけるのに、川(河)はありつづける。人の人生もはかないものだが、そんななかでも生き続けることになる。平家物語の冒頭よりも悲壮感が漂うが、それでも人は生きていかなければならない。では、どう生きるのか。「一身をやどすに不足なし」は、道元の「今を生きる」に相通ずるものがあるように思うがどうだろうか。

 

 

70 禅宗の時間

 

禅宗は仏教であるゆえ、6667と基本的に同じ時間観と言える。それは時間の経過、つまり過去―現在―未来へと流れる時間が前提となる。それは縁起を元にしているからだ。

 

ところが、この時間観と異なることを説いているのが道元の曹洞宗だ。「刹那に生滅する現在の一瞬」という言葉から、現在が瞬間に生まれ瞬間に死んでいくのだから、「今を生きる」ことが大切だという時間観だ。これは、未来―現在−過去への時間が流れることをイメージするとわかりやすい。

 

水に例えると、時間が上流(未来)から流れてきて下流(過去)へ流れていく。その間に今の位置(現在)がある。「水に流す」、過去にこだわらず未来志向で行く、というのはここから来ているのではないだろうかと思うのである。

 

 

69  律令制における時間

 

古代日本の統治機構の八省のひとつ、中務省の中に陰陽寮という部署があった。そこでは、占い・天文・暦・時を担当した。それらの担当はそれぞれ、陰陽博士・天文博士・暦博士・漏刻博士が行使し、学生などに教授していたとされる。

 

このなかで広い意味での時間に関するのは天文博士・暦博士である。天文博士は占星術に近いもので、天体を観測して異変を記録、吉凶を占った。現代の天文学とは異なる。平安中期にあらわれた安倍晴明は天文道を継承し、972年に52歳で天文博士に就いている。暦博士は毎年暦を作成した。日本の暦博士は観勒という僧侶(百済出身で、日本最初の僧正に任命された)が伝えたとされる。日本で最初の暦は聖徳太子が604年に採用した。

 

狭い意味での時間に関するのは、もちろん漏刻博士である。漏刻と呼ばれる水時計を警備し、時刻を計った。そして、定時には鐘を鳴らしたという。ただ、他の博士とは異なり、学生の教育する権限はなかった。漏刻で有名なのは近江神宮。小倉百人一首のかるたの聖地となっている。

 

 陰陽師として名高い安倍晴明は、陰陽師博士のさらに上、陰陽助(おんようのすけ)まで登ったが、長官である陰陽頭(おんようのかみ)にはなれなかった。

 

 

68 塞翁が馬の時間

 

人の吉凶・禍福は転々として予測できないというたとえ。これは、前漢の武帝の時代の『淮南子』(えなんじ)が出典となっている。淮南子は当時の淮南(わいなん)の王、劉安が学者たちに編纂させた思想書。いわば古代中国人の宇宙観、無為自然に基づいた処世術を説いた老荘思想でもある。無為はありのままを表す。

 

「有為」(うい)は仏教用語で、「因縁による生滅するあり方」(浄土宗大辞典)であり、6667で示した通り、この世は変化し、崩壊し、無常なものであるので、変化しないものを望むのは虚しく、苦しむだけだという諸行無常と説く。この有為の対義語が仏教用語の「無為」であり、涅槃を指し、因縁による輪廻からの超越を意味する解脱=覚醒のことを指すので、当然のことながら扱う時間は長大なものとなる。

 

他方、塞翁が馬の時間は、やはり昔から未来へ流れるもという言う意味では同じだが、目の前の禍福に振り回されることなく、この宇宙から命を受け、日々楽しく精一杯生きようということになり、せいぜい人の一生の時間を扱っていることになる。

 

 

67 仏教の時間観2

 

さらに同じく『平家物語』の冒頭。

 

   沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす

 

これは諸行無常と同じく、世の無常観を表している。しかし、これは平家物語のオリジナルであり、平家に対する特別な感情が込められていることは論を待たない。それはこの後の言葉である、奢れるもの、猛きものという表現にも表れている。そのような者でも、この理(ことわり)を確かにくつがえすことはできなかったのだ。平家は栄華を誇り滅びるまでの時間があまりに短かったために、よけいに悲哀を感じさせた。

 

ここに流れる時間は昔から未来へ流れるものではあるが、発展史観とは異なり、他の時代にもあてはまるもので、いつか来た道とか、デジャブとかいう表現がぴったりと当てはまる。そこには歴史は繰り返すという史観に近いものがあり、いかにも日本的な情緒を表しているように思う。 

 

 

66 仏教の時間観

 

 仏教における時間の見方を端的に表しているのが、あの『平家物語』の冒頭だ。

 

   祇園精舎の鐘の声   諸行無常の響きあり

 

 出典は、北宋の時代の『景徳伝燈録』(道源)。この書は禅宗の歴史書であり、師から弟子へ、そしてそのまた弟子へ、と燈(仏法)を伝える形で編纂したもの。それによると、釈迦が入滅する際に、弟子に向かって説いたと伝えられている。意味は、この世のあらゆるものが、一瞬一瞬の間に変化を繰り返しているというもの。これは仏教の根本思想であり、人は必ず滅する存在であるにもかかわらず、それを不変なものであると妄想を抱くから苦しいのだというわけだ。

 

しかし、この諸行無常には、暗にもう1つの解釈も含まれている。それは、唯一仏のみが不変と位置付けているということだ。この場合、仏とは悟り(真理)を得た者をさし、仏は輪廻などの苦しみを脱して自由の境地に達するという。これを覚醒という。

 

 

65 time off のtime

 

 time offの訳は「休暇」「休み」だ。ということは、timeは単なる「時間」とは訳せない。いったい何なのか。ロングマン現代英英辞典によると

 

  time when you are officially allowed not to be at work or studying

 

とある。ということは、仕事や学習など、何かやらなければならないことがあり、それらをしなくてもよいと公式に許可されている「時間」ということになる。労基法にいう職務専念義務の免除に近いのではないか。つまり、timeには、単に流れている時間だけでなく、意味づけられた時間があるとういうことなのだろう。

 

 

64 minute の意味

 

 分の英語であるminuteはそもそもどういった意味だったのだろうか。調べてみると、瞬間、ちょっとの間、〜した瞬間に、〜するやいなや、微小な、微細な、詳細な、精密な、ささいな、などとなっている。つまり、より小さく分けた部分というのが元の意味らしい。

 

時間の分:minutusは、ラテン語の極めて小さなものから転じて、時間の小さな単位という意味で分になったそうだ。

 

 

63 角度の分・秒

 

分と秒については、時間の単位だけでなく、角度の単位としても使用されている。

 

1度=60分、

1分=60秒、

1秒=1000ミリ秒

 

秒までは60進法で、それ以下は10進法がとられている。これは実は時間も同じである。時間の単位と角度の単位は密接な関係があることは推測できる。しかし、

 

      1周=1時間=60分(時間)=360度(角度)

                  1分=1/60時間  1/360×60)周(角度)

                                                1秒=1/3600時間  1/360×60×60)周(角度)

 

 360度(角度)も、地球の公転が1年≒360日と関係がありそうだが、1/3601日=1度としても、その下の角度と時間は一致しない。また、地球の自転が124時間=360度であるので、1時間=15度となり、1分(時間)=0.25度(角度)=15分(角度)であり、これも一致しない。単位の大きさだけを見ると、分・秒は時間と角度は全く連動していない。

 

 

62 分の出典は『アルマゲスト』

 

「分」についてのネットにおける記述は実に様々である。権威のある研究所などのHPでも確固とした根拠があるわけではないようだ。それらを整理すると、大まかに3つに分けられる。

 

   @やはり、古代バビロニアの60進法=分・秒とするもの

   A1213世紀のアラビアやヨーロッパにおける概念上の分・秒

   B1617世紀につくられた機械式時計における分・秒

 

しかし、やはり、どれも決め手に欠ける。ただ、出典がしっかりしているものについては、国立天文台の「暦Wiki」のページを見つけることができた。それによると、西暦2世紀ごろのプトレマイオスの著書『アルマゲスト』に記述されているとか。該当部分を引用しておく。

 

1時間=60分、1分=60秒という概念は、プトレマイオスにより確立しました。

〇これらの小さな時間の単位は正確な時計がないと測れません。最初は計算上の概念として誕生したものです。

〇実際、プトレマイオスの著書アルマゲストには「時」の単位だけではなく「日」や「°」の1/60なども出てきます。」

 

 

61 我々は 1 分を 5 秒ごとに分割した

 

 有名なタキ・アルジン(1526–1585)の言葉。彼は、オスマン帝国の主任天文官。イスタンブール天文台で使用された天文機器について『帝王の収集した観測装置』に記載しており、そのなかの「観測時計」について述べた言葉である。

 

もう少し詳しく見ると、「 時間、分、秒を表示する3つのダイヤルを備えた機械式時計 」とあり、時計が正確であったかはともかく、「分」、「秒」の単位があったことは間違いない。しかし、「5秒ごとに分割」とはどういうことなのか? 1分=60秒で、12分割したということなのか、それとも違うのか? 実物はあるのか? 興味がつきない。

 

 

60 分針を付けたのはトンピオン しかし…

 

SEIKOミュージアム」によれば、時計に分針を付けたのはイギリスのトーマス・トンピオン(1639 - 1713年)と紹介している。シリンダー脱進機を発明し、それまでの時計よりも正確になったので分針(長針)を付けたとか。ということは、それまでの時計は時針(短針)しかなく、このとき以降に「分」を測定する必要が出てきたことになる。ただ、「SEIKOミュージアム」には、トンピオンが分を決めたというような記述はない。

 

時針のみの時計は、1700年代後半のイギリスのものが残っている。トンピオンが生きた時代よりも半世紀も後になる。その時計は、文字盤は現在と同じ12時間表示であり、壁掛けタイプのクロック。ということは、この時代までトンピオンの付けた分針(長針)は定着しなかったことを示していると考えられる。よって、トンピオンが付けた分針の単位はどんなものだったのかは不明だ。

 

「分の単位」は、この1700年代後半以降に決められたことになる。そして、112の目盛りで1周することを基本とすることになるので、12の倍数となる。候補として、12×112分・12×224分・12×336分・12×448分・12×560分が考えられたはずだ。このなかでわかりやすく、使いやすいのは、1210の最小公倍数でもあり、2でも、3でも、4でも、5でも、6でも割れる、60ということになる。60というと半端で、一見使いにくそうなのだが、むしろ1時間を100分とする方が、時針の1目盛りをきちんと分割できず不合理であることがわかる。

 

バビロニア人うんぬんというよりも、こう考えた方が現実的と思うがどうだろうか。

 

 

59 分の解説は皆無

 

58につづいて腑に落ちないことがもう1つある。それは、ネットを見たところ、秒についての解説はやたら詳しく、そして大量にあるのに、肝心の分についての解説はほとんどないのである。

 

理由を考えてみるに、秒については資料が多いのに比べて、分については「ない」のではないか。秒は英語でsecond minuteと呼ばれ、分はprime minute、略してminuteと呼ばれている。そこから素朴に思うのだが、秒よりも分の方が上位概念ではないのか。分があっての秒なのではないか。時計の歴史を見ても分が先に登場しているのではないのか。

 

 

58 1時間=60分はバビロニア人が考えた、は本当か

 

 以前から疑問に思っていたことがある。時計の60進法が古代バビロニアの数学によるものだという言説である。これは何も奇をてらったものではなく、時計に関するHPを見ると、ごく一般的に述べられている。一般社団法人日本時計協会のHPにも、次のようにある。

 

古代バビロニア人が数学・天文学で使用していた「12進法、60進法、円周360度」

から時間の単位は作られたと言われています。

 

私は素朴に思う。これは、確かに60進法に関する研究の結果なのだろう、と。しかし、機械式時計の60進法、特に1時間=60分の説明にはなっていないのではないか、と。

 

 

57 過集中

 

最近注目されているのが「過集中」である。なぜかというと、発達障害の特徴の1つとして取り上げられることが多いからだ。いわゆる集中する状態がその程度や時間が過度であるものを指す。よって、人によっては他の活動とのバランスを崩したり、他の活動への切り替えがうまくいかない場合があるようだ。

 

しかし、これまで取り上げてきたフローやゾーンと通じるものがあり、高い生産性を発揮する場合がある。周期的にくる双極性障害の躁状態も近いものがあるが、過集中は自分でコントロールできると、創造性(クリエイティビティ)で業績を残すことができると言われる。

 

 

56 夢中

 

無我夢中のこと。我を忘れ、夢の中にいるかのように没頭する様。好きなことや目標に集中している様子を最も的確に表現する言葉ではないか。この言葉に通じる心理学的用語がミハエル・チクセントミハイの提唱した「フローFlow」だ。ゾーン、ピークエクスペリエンスなどとも呼ばれる。

 

夢中になると寝食を忘れ、日常を忘れてしまう。しかし、尋常ではない能力を発揮したり、活躍をしたり、成長したりして、ポジティブな活動を引き出す。そのため、創造性が発揮され、充実感が満ちる。そして、人によっては意図的にこのフローに入ることができる人がいるとか。

 

もちろん、これも肯定的な見方をした場合のことだ。身を亡ぼすこともあることは忘れないでいたい。

 

 

55  マニア

 

特定の分野・物事を好み、関連品または関連情報の収集を積極的に行う人(大辞林)。ギリシア語の「狂気」が語源とか。ただし、英語のmaniaは精神病、maniacは狂人、という意味になる。英語では、geeknerdfanがふさわしい。要するに、このマニアは和製英語といって差し支えない。

 

52では、マニアは生産的な方に入れているが、その場合、特定の知識が多く、博学という面を肯定的にとらえた誉め言葉になる。専門家の多くは職業であり、その場合は収入に結びついているわけだが、好きでその職業についている場合や趣味が高じて玄人はだしになって副収入を生んでいる場合は、マニアと専門家は紙一重と言える。他方、行き過ぎて生活を破綻させたり、没頭しすぎて社会生活に影響があったりことがある。そういった没頭する様が病的だったり、マイナスに働いたりすると、これも依存症と紙一重ということになる。

 

 

54 釣りキチ

 

カーキチ、事務キチなどと使い、いわゆる比喩であり、人並み以上に没頭する様子を表した言葉である。かつては日常語としてごく普通に使われていたのだが、語源がよろしくないとのことで、テレビ界での言葉狩りの対象になった。

 

ところが、少年マガジンに連載された漫画の「釣りキチ三平」(矢口高雄)が、子どもだけでなく大人にも強い支持を受け、この釣りキチなる言葉が市民権を得ることになった。魚釣りが自然と接する高尚な趣味と認められたのだ。

 

 

53 本の虫

 

 書物・本など活字媒体が庶民のものになりつつあったとき、今のネット依存と同じように見られていたという。活字から受ける精神的な影響、情報の影響が大きかったことと、没頭することで健康を損なう人が出てきたことと関係している。ましてや当時の社会風潮からしていかがわしいと見られていた小説などとなれば、なおさら良いイメージではなかったにちがいない。

 

 つまり、今ではどちらかというと良いイメージの本の虫も、かつてはそうではなかったのだ。また、虫という言葉のイメージも決して誉め言葉ではない。本人が謙遜して使う言葉であり、他人のことを本の虫などと言ってはいけないし、言う時には多少見下げた意味が含まれていると覚えておく必要がある。役に立つ本に没頭している場合は、勉強の虫という表現もあるようだ。

 

 

52 依存症でも評価が分かれる

 

同じ依存症でも、ズバリ、良い依存症と悪い依存症がある。

 

いわゆる依存症というのは、非生産的で、身体や精神に悪影響を受けるものだったり、本来立ち向かわなければならないことから逃げている状態だったりする多い。ギャンブル、ネット、スマホ、ゲーム、薬物などがこれらに入るのだろう。

 

逆に、同じ依存症でも生産的な依存症は、違う言葉で表現されることが多い。本の虫、釣りキチ、好学の士、愛好家、マニア、夢中、打ち込む、明け暮れる、情熱を傾ける、没頭する、などだ。

 

 

51 依存症

 

脳に負担がかかり、理解ができなかったり、面白くなかったりすれば、すぐにやめるはずだ。ところが、新しい情報に接してはいるものの、適度な負担負荷であるがために、それが楽しくてやめられない、ということがある。例えば、遊び、趣味、ギャンブル、ゲームなどだ。特にインターネットやオンライン・ゲームは、新しい情報が脳を興奮させ、ドーパミンを大量に分泌させつづける。そして、その間、人は快感・高揚感を味わい、過度の集中状態に陥る。

 

すぐにやめてしまえば、害はそれほどでもないにちがいない。しかし、利用者を飽きさせないコンテンツの豊富さとやめさせない様々な工夫がそれを許さない。本人は夢中になっているため、中断されることを嫌う。それは、つまり、脳に負荷がかかっていることで、ただでさえ時間を忘れがちなのに、さらに快感によって集中状態が長く続くため、輪をかけて時間がたつのを忘れてしまう。これを依存症という。依存症になると、時間の優先順位が変わってくるから要注意だ。

 

 

㊿ 思考の減速

 

私たちは、反対のことも経験しているのではないか。時間が思いのほか速く過ぎてしまう、時間がたつのが速い、という感覚だ。

 

1つめは、身体の不調のために脳に負荷がかかる状態だ。例えば、疲労、病気、怪我、昏睡などだ。頑張っているのだが能率が上がらず、時間がかかってしまう状態。思考の減退が原因。2つめは、新しい情報に接して、脳の処理に時間がかかっている状態。例えば、学習、旅行、出会い、恋愛、挑戦などだ。こちらは思考の能率には問題はないが、慣れた状態とは異なるため時間がかかる状態。こちらは快感や楽しさを伴うこともある。

 

どちらも、脳に負担がかかり時間がかかってしまう、という状態だ。つまり、これは㊽や㊾とは逆で、思考のなかで処理する時間がいつもよりもかかっていることに自分では気づいていないのだ。そして、気がつくと実際の時間は思ったよりも過ぎていた、という状況が起きているのだ。これは、思考の減速現象と言ってもいいのではないだろうか。

 

 

㊾ 集中力という思考の加速

 

思考の加速は、なにも難しいことではなく、私たちもよく体験しているのではないか。

 

切羽詰まっているときに、頭が冴え、ふだんではできない思考ができるときがある。〆切が近くなったりすると、考えがまとまったり、答えが出たりするときがあるのだ。そういったときはやはり呼吸や鼓動(脈拍)がはやくなっている。気がつくと、時間はそれほどたっていない、なんてことがままある。これも一種の思考の加速ではないかと思うのだがどうだろうか。

 

 

㊽ 思考の加速現象

 

SFには、時間を扱うものが多いが、それらはおおまかに言うと未来や過去へ行くといったものが多い。しかし、人気のラノベの中に「思考の加速現象」なるものを提案している「アクセル・ワールド」という作品がある。バーチャルな世界で、加速世界を実現しているという設定。現実世界の時間が、加速世界では1000倍になるので、1秒が1000=1640秒になるというもの。それを実現するのが<ブレイン・バースト>なるソフトで、BB2039.exeというコマンド・ファイルということになっている。

 

根拠としているのが、「脳の思考の速さは心臓の拍動が作り出すクロックによって左右される」というロジック。もちろん、この作品に登場するようなレベルで、心拍数を上げることによって思考が加速するというのは空想の産物にちがいないのだが、本川達雄氏の「絵とき ゾウの時間とネズミの時間」(93年、福音館書店)が頭に浮かんだ人も少なくないのではないか。いわゆる「時間」は、絶対的なものではなく、相対的なものかもしれない、という意味では興味深い考え方と言えるかもしれない。

 

 

㊼ 購入できない時間

 

㊻では購入できる時間があることを指摘した。しかし、今のところは、どうしても購入できない時間がある。それは、睡眠、食事、排泄だ。それらはつまり、他人には成り代わってもらえない行動、欲求である。

 

 睡眠時間を減らして他のことに使ってしまうと健康を損ねてしまうだろう。食事の質を落とすことは可能だが、食べないことはできない。しかも、質を落とせばやはり健康を損ねてしまう。排泄は質を落とすことさえ不可能だ。人が体をもち、体によって生活している間は、どうしても自分でしなければならないことがあり、それに使う時間は削れないし、購入することもできないのだ。

 

 

㊻ 時間は平等か

 

時間はすべての人が24時間であり、平等である、というような言説をよく見る。確かに、1日はすべての人にとって24時間であることは間違いない。また、それに異を唱えるにしても、寿命は人によって違うから、時間は平等ではないのだ、とか、過ごし方が大切で、金持ちは時間をぜいたくに使えるのだから平等ではない、というようなことを主張している人が多い。

 

しかし、私はもっと明確に言いたい。時間は平等ではない。なぜなら、時間は売買ができるからだ。人は、お金を出せばタクシーに乗れる。新幹線や飛行機にだって乗れる。それは歩いていたら気の遠くなるような時間を買っていることになるのだ。労働力を買うこともできる。1人ではできなくても、何人か雇えばできることがある。機械を購入してもよい。昔は手紙しか通信手段がなかったのに、パソコンやスマホでメールを出せば、あっという間にやり取りができるようになる。これもお金で時間を買っていることになるのだ。

 

ところが、おもしろいことに、買い物というものは必ず損得がある。その時間の購入は得だったのか、損だったのか、価値があったのかどうか、考えなければならない。メールでやり取りすることが逆に時間の浪費になっていたら、あるいは、いやな思いをするようであれば、それは無駄な買い物、価値のない買い物だったということになる。しかし、時間の節約になっていたら、愉快であったなら、それは有益な買い物にちがいない。

 

認めたくはないが、時間は売買できるのだ。ということは、お金持ちほど時間を購入することができるのは厳然たる事実。しかし、購入した時間に価値があったかどうかは、後になってからでなければわからないという面白さがある。

 

 

㊺ 歴史を語るときの「最近」

 

近代や現代の歴史を語っていると、「最近」という言葉について、若者や子どもたちは違和感を覚えるようだ。語っている人の年齢が高齢になるほど、この「最近」は長くなる。人によっては30年や40年であることはザラであるからである。逆に、「大昔」も人によってかなり差があることがわかる。これは、その人が実感した時間、生きてきた時間が基になっているからと推測される。

 

これらに限らず、もっと広く歴史について語るときは、100年から数百年、場合によっては数千年のスケールを念頭にしていることが多い。このときの「最近」は、もっと長いことがある。日本の歴史から見れば、戦前や大正時代は「最近」かもしれない。中国の歴史から見れば、清時代も最近のことかもしれない。歴史を語る場合、時間のスケールは独特の長さを示していることがある。

 

 

㊹ 時間が体重の4分の1乗に比例

 

 1992年に刊行された、本川達雄氏の『ゾウの時間 ネズミの時間』は大きな注目を浴びた。「体重が2倍になると時間が1.2倍長くゆっくりになる関係です。体重が10倍になると時間は1.8倍になるんです。」という。

 

その理屈はこうだ。心臓が1回打つ時間は、ヒトはおよそ1秒。ハツカネズミは、1回のドキンに0.1秒。ゾウだと3秒かかる。つまり、大きな動物ほど周期が長く、ゆったりしているということになる。そして、哺乳類の心臓は一生の間に15億回打つという計算になることから寿命が算出される。ハツカネズミは23年、インドゾウで70年となるそうだ。ヒトは26.3年となるが、様々な条件で長くなっていると補足している。

 

 これらのことを見ると、次の本川氏の言葉は重い。<時間というものを1秒とか1分、1時間、1日、1週間、1か月、1年・・・といったように、物理的、絶対的な単位を基準に考えますが、(略) われわれは物理的な時間だけが絶対だというように思い込んでいるところがありますが、それはいわば、人間だけの決めごとであって、他の動物にはそれぞれ独自の「時計」があるというわけですね。>

 

 

㊸ 体内時計(生物時計)

 

㊶と㊷を補正するかのように注目を集めるようになったのが「体内時計」である。1960年ころから生物学者の関心が高まってきた。細胞のなかでタンパク質が生成されたり分解されたりすることが振り子の役割を果たしているとのこと。この周期が約24時間ということからズレを補正しているそうで、日照であるとする考え方と、食事のタイミングであるとする考え方がある。

 

 この補正については、一般には太陽光そのものを浴びることを奨励しているものが多い。しかし、武田薬品のHPを見ると、「肝臓の時計は光ではなく食事によって調整されていることがわかってきました」とある。また、「攻めの間食」を奨めているのも興味深い。実は、この食事の考え方は、民俗学の調査と一致しているのだ。

 

 

㊷ 不定時法なら「健康的」なのか

 

不定時法を称賛する根拠としてあげられている「日の出とともに働き、日没とともに休む」といったことがよく言われる。では、不定時法で生活することは健康的なのだろうか。

 

名古屋を例にとって日の出と日没の時間差を確認してみる。太陽が南中に来るのを正午とするのは夏至も冬至も同じであるので、日の出と日没の時間差を計算すればいいだろう。

夏至 日の出 4:38 日没 19:10         →日の出の時間差 2時間19

冬至 日の出 6:57 日没 16:44         →日没の時間差  2時間26

 

文字通り、単純に比較すると、朝食も夕食も夏至と冬至では2時間あまりもズレてしまうことになる。また、睡眠時間も、4時間半も違いが出てしまうことになる。これでは規則正しい生活からはほど遠いと言わざるを得ない。また、㊶で取り上げた、感覚とも大きくズレるに違いない。となると、規則正しい生活でもなく、感覚に従って生活することにもならないのだから、全く不健康な生活となってしまうのではないだろうか。

 

 

㊶ 「規則正しい生活」を推奨するとは

 

学校の健康指導だけでなく、現在の健康ブームでも、基本は「規則正しい生活」である。決まった時間に起床し、決まった時間に食事をし、決まった時間に就寝する。季節に関係なく、定時法の時間で決まった時間に合わせて生活をすることを指す。これは科学的にも認められた健康法だろう。

 

ということは、一見、健康そうに見える、空腹になったら食事をし、眠たくなったら寝る、という生活が、全く不健康に見えるから不思議だ。「定時法の時間」のことを、マクルーハンが「抽象的な時間」などという言葉を使うから何か悪いことのように感じられるのだが、「規則正しい」生活というと、全く逆のイメージになる。

 

こう考えると、「時間と感覚の分離」も、「脱埋め込みのメカニズム」が働き続けていくことになり、人は感覚から益々解放されていくのだろうか。そして、それは「近代的な時間」として成立すると考えていいのだろうか。

 

 

㊵ 抽象的な時間

 

 マクルーハンは『メディア論』の中で、「抽象的な時間を作り出し、空腹のときにでなくて、「食事の時間」になったときに、人が食べるようになったのは、時計自体のせいでなく、時計によって強化された文字文化のせいであった。」と言っている。この「抽象的な時間」は、ギデンズの言う「定時法の時間」のことである。

 

 人は、かつて、空腹になるという具体的な感覚になったとき(具体的な時間)に食事をしていたとすると、それは感覚と時間が一致した状態だったと言える。しかし、定時法の時計が出現すると、人は、空腹になったかどうかという感覚に関係なく、「食事の時間」になったとき(抽象的な時間)に食事をするようになったということを示している。

 

 これは、ギデンズ風に言えば、「時間と感覚の分離」ということになるだろうか。となると、時間と感覚の縛り(埋め込み)から超越していることになり、ルーティンとの関係が再構築されることになる。これも「脱埋め込みのメカニズム」といえるのかもしれない。

 

 

㊴ グローバリゼーションが生むローカリゼーション?

 

「脱埋め込みのメカニズム」が進展するほどに、人、金、物、情報が国境を超えて活発に移動し、経済、産業、文化、市場の統合が進み、益々短時間のうちに今までにない大きな影響を受けるようになる。ふつうの人がそれらを身近に感じることができるのは旅行やインターネットだ。投資はもっと切実かもしれない。そうなると、益々時間と空間の分離がすすみ、私たちの生活もグローバリゼーションの影響を大きく受けることになる。それを享受ととらえればハッピーということになり、生活も向上していくのだろう。

 

他方、日本は世界の文化を吸収するときに独自の解釈を加え発展させてきたと習ってきた。仏教しかし、儒教しかり、中国の社会制度しかりだ。しかし、この脱埋め込みのメカニズムが働けば、世界の文化は直に日本国内に取り込まれることになり、世界とのズレもなくなっていくのではないかと予想される。

 

ところが、「ハロウィン」では日本の特殊性が世界に発信されることとなった。確かに、日本も世界と同時にハロウィンを楽しんだ。それは間違いない。しかし、それはオリジナルとは似ても似つかぬハロウィンだった。つい最近、現代のことなのに、である。脱埋め込みのメカニズムが進展しても、日本の独自性は損なわれないようだ。

 

 

㊳ 脱埋め込みのメカニズム

 

 ギデンズは、㊱で述べた「時間と空間の分離」していくと、人間同士の行為が、具体的な場所の特定の事象から切り離され、時間と空間のローカルな縛り(埋め込み)から超越し、今度は、グローバルな世界との関係が再構築されるという。

 

その再構築の際には、抽象的な調整機構と呼ばれるものが必要で、それは、貨幣と専門家システムであるとしている。これらは特定の時間と空間に縛られなくするための拠り所となり、それらによって人間はローカルな縛りから益々解放されていくことになる。このメカニズムを「脱埋め込みのメカニズム」という。

 

 貨幣は、様々な価値の交換を可能とするため、空間や時間を超えて色々なものを手に入れることができる手段となる。また、専門家システムは、自分の知識や経験を超えたものであっても高速鉄道に乗り、ネットを利用することで、空間や時間を超えられる手段となる。

 

反対に、それまで伝承されてきた伝統は、正当性が問われ、これも脱埋め込みのメカニズムのなかで問い直され、再解釈、再構築されたものだけが、新しい正当化された伝統として残ることになるのだ。

 

 

㊲ 定時法の機械時計

 

 ㊱で定時法の時間は、言い方は様々だが、「ニュートン時間」、「天文学の時間」、「物理的時間」のことを指す。これらは、どれも同じ時間のことを指し、単一で、際限なく分割可能で、連続的であるとされた。そして、時間の問題は、社会学においてはそれまで当然視され、学問の対象とされてこなかったのだ。

 

 しかし、ギデンズは、時間問題を等閑視してきたことを批判。「近代的時間」を、近代に固有の社会的時間として対象化し、問い直そうとした。すると、社会学において、にわかに機械時計が注目をあびることとなる。ルイス・マンフォードの「蒸気機関でなく時計こそ近代の産業時代の鍵となる機械である」という言説もその一つだったのだ。

 

 

㊱ ギデンズのとらえる不定時法と定時法

 

 定時法の社会は、不定時法の社会とはどこが、どう違うのだろうか。このことをズバリ考察しているのがイギリスのギデンズである。彼はそれを「時間と空間の分離」と呼んでいる。

 

 不定時法の社会は、日の出と日の入りを基準とした時間で動いている社会である。つまり、場所が変われば、日の出・日の入りは変わる。東京と大阪ではそれぞれ異なるわけだ。時間と空間は切り離せず、その土地その土地の時刻があった。よって、人は時計がなくても、太陽の動きを見ていれば大体の時間がわかり、地域によっては太陽以外の時間を知る手立てさえあった。これは時間だけでなく、季節にも当てはまる。そして、生活はその上に成り立っている。これが時間と空間の一致した状態であり、前近代社会という。

 

 それに対して定時法の社会は、東京も大阪も時刻は同じである。つまり、太陽を見なくても、東京の人も大阪の人も、定時法の時計を見ることで時刻を確認できる社会のことである。日の出・日の入りに関係ないので、場所が変わっても同じ時刻で人が動くことができる。季節もカレンダーが重要な基準となる。場所を移動した場合はその違いに感じ入るようになる。この状態を「時間と空間の分離」と呼び、近代社会としているのだ。

 

 

㉟ 歴史は発展する 歴史は繰り返す 

 

 歴史は発展するといった場合、それは生産手段や生産システムなど経済的側面の発展をいう場合が多く、学校で教えている歴史も特に説明がなくても、人間社会は発展してきたことが前提になっている。これは技術や科学も含んでいるため、ごく自然なこととして受け入れられている。しかし、そのなかでも弁証法、特に唯物史観となると、それは少し様相が変わる。人間社会は決められた発展の仕方を踏襲するという考えになるからだ。もっとも、それは、冷戦の崩壊でご破算になっている。

 

 それに対して、歴史は繰り返すとも言う。それは、発展とは切り離された、人間の行動や国や社会のあり方について評したものになる。いわゆる、広い意味のデジャブというやつである。言葉そのものは、古代ローマの歴史家クルティウス・ルフスの言葉であると紹介しているものが多い。しかし、はっきりした出典はよくわからないようである。そして、似たような諺や言葉は他にも多くある。

 

 人が歴史に関心をもつ理由は、ビスマルクのように、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ。」と信じているからである。つまり、目の前にある課題に対して、過去に解決する糸口があるのではないかと期待しているのである。その場合、歴史は繰り返すのであるなら、何かの手がかりがあるかもしれないので、大いに学ぶ意義がある。しかし、歴史は発展するというのなら、未来のことは本当は誰にもわからないはずである。もし、予言めいたことをいう人がいれば、それはイデオロギーか宗教がかることになり、胡散臭いと言うほかないことになる。よって、学ぶときにはそれを自覚しなければならないと私は思う。

 

 

㉞ 不定時法・和時計の評価

 

ネットのなかを見ていると、不思議なことに不定時法と和時計の評価があまりに高いことに驚く。その理由が太陽とともにくらしていたから理にかなっているとか健康に良かったというものが多い。また、和時計を紹介しているHPは、いかにも和時計がヨーロッパの時計と同等か、いや、HPによってはそれ以上に高度であったかのように錯覚させるような記述があるのである。アンティークとしては価値があることはわかるのだが、果たして不定時法や和時計はそんなに優れたものだったのだろうか。

 

一見、昼と夜の時間をそれぞれ6等分していることが、ひょっとすると定時法よりも難しいのではないかと錯覚してしまう。私は和時計の実物を外側から見たことあるだけであるし、その仕組みをしっかり把握しているわけではない。だから的外れなことを思っているのかもしれないが、この昼と夜をそれぞれ6等分していることが日本の時計の発達を阻害したのではないかと考えているのである。つまり、時計技術の発展が袋小路に入っていた、と言えるのではないかと想像するのである。

 

時計の役割は一定の長さの時間を正確に刻むことである。それは、現代社会の時間、そして、時計の役割を見れば明らかである。そして、定時法と時計はこのことを愚直に追求してきた結果、この現代社会を成立させていると思う。そして、この不定時法の和時計が正確に6等分できていたとは思えない。良くて、だいたいの時刻を示していたという程度なのではないか。つまり、正確でなくても仕方がない、という前提になっているようで仕方がないのに、何かものすごく正確であるかのように紹介しているHPがあるのには唖然とする。

 

日本の技術史を見ると、悲しいかな、1つのことが定められると一直線に進み、他の発想が出てこない場合がある。一旦、火縄銃が優れているとなると、いつまでも火縄銃を作っている。ヨーロッパでは、火縄銃を発展させてミニエー銃というライフル銃を造り上げ、今度は前装が不合理と見るや後装に変えてしまう。やっぱり、発想がちがうとしか言いようがない。つまり、和時計も同じことが起きていたのではないか、というのが私の思いである。

 

 

㉝  トワイライト

 

1983年のアメリカ映画に『トワイライトゾーン/超次元の体験』というものがあった。オムニバス形式の不思議な話の映画だった。トワイライトというのは、日の出前や日没後の薄明かりのこと。トワイライトゾーンは、「昼」でも「夜」でもない時間帯のことであり、特に夕暮れ時は、怪異が起こる時間という意味で使われる。これらは、元々はアメリカのSFテレビドラマが語源とされているとか。

 

日本には、昔から似たような言葉がある。夕方の6時ごろは、「暮れ六つ」「酉の刻」のことであり、逢魔時(おうまがとき)とか、黄昏時(たそがれどき)と言った。逢魔時は、昼と夜の移り変わる時間帯であり、魔物に遭遇する時間という意味になる。黄昏時は、「誰そ、彼」からきており、相手の顔が誰かよくわからないことから転じて、怪しいものに出会いそうな時間の意味である。

 

 これだけ時間が正確になり、街のなかも煌々と明かりが灯る現代にあっても、これら不思議な時間帯というのは消えないものなのかもしれない。

 

㉜ 大英帝国を支えたマリン・クロノメーター

 

 スチーム・パンクがもてはやされるには理由がある。それはかつての大英帝国の繁栄だろう。産業革命を世界に先駆けて成し遂げ、いわゆる七つの海を支配したというイメージが根底にある。それを支えたのがイギリスの正確な経度の測定法だった。

 

経度の測定方法が確立する前は海難事故が多発した。船舶が自身の位置、特に経度を把握できなかったことが原因だった。この経度の測定方法として使われていたのが、日食と月食の観測だった。しかし、日食・月食の頻度は極端に少なく、観測も難しかったため、木星の衛星食が考案された。木星の衛星は大きなものが4つあり、しかも頻度もそれぞれ年間1000回というから申し分ない。ガリレオやカッシーニが木星の衛星観測で有名なのはこのためだったのだ。しかし、海上の船から測定するには不向きだった。

 

もう1つの方法は、正確な時計を使った算出法だった。しかし、当時の時計技術では、海上の船に設置した正確な時計を製作することはまだできていなかった。これに臨んだのがジェレミー・サッカーであり、ジョン・ハリソンだった。彼らの時計はマリン・クロノメーターと呼ばれ、ジョン・ハリソンがH-1H-4を製作し、特にH-4の複製K-1がラーカム・ケンドールによって製作され、ジェームズ・クックの航海によってその精度が確認された。そして、18世紀の末にジョン・アーノルドとトーマス・アーンショウによって大量生産が可能となったのだった。

 

 

㉛ スチーム・パンク

 

 1980年代のアメリカで生まれた文学のサブジャンルで、蒸気機関が動力だった19世紀ごろのイギリスをイメージしたSFを「スチーム・パンク」という。ヴィクトリア朝のころのファッションや架空の機械・技術が登場することが特徴。ケヴィン・ウェイン・ジーターが、ジェイムズ・P・レイロックやティム・パワーズとともに考え出したと言われている。

 

 スチーム・パンクの影響として、アートやファッションが挙げられる。特に、工業製品や日用品などでは、現代のデザインに飽き足らない人が、個性を演出する手法として注目している。当時に入手可能な材料を使い、当時のデザインや機械的要素を加えるのである。懐中時計は、スチーム・パンクと親和性が高い。

 

 愛好家は、本当の歴史とはちがう、もしこうだったらと思いをはせることを楽しみ、心を遊ばせる。そこには、ちょっとしたクセがあり、他とは少し違う個性がにじみ、不便さをあえて楽しむなど、ある意味、時間旅行的な要素がある。

 

 

㉙  キプトンの悲劇の時計は、4分遅れか、それとも、4分止まっていたのか

 

 1891年に起きたキプトンの悲劇と呼ばれる事故は、車掌の持っていた時計が原因だったと、言われている。実際は時計の正確さだけでなく、時間管理のずさんさも指摘されているのは周知の事実である。これが元になって、鉄道時計が誕生し、鉄道の運行システムが見直されることとなる。

 

 しかし、ネットにあげられている解説をよく読むと、車掌の持っていた時計について、大きく3つの異説があることに気づく。それは次の3つである。

   @4分遅れていた

   A4分止まっていた

   B4分くるっていた

 

ボールウォッチを紹介する多くのHPにはAの「止まっていた」とする紹介を書いているものが多い。

ボールウォッチを販売している系列の事業所や歴史を紹介しているHPがそれである。

セイコーミュージアムはBの「くるっていた」としており、遅れていたとも進んでいたとも書いていない。書籍「鉄道時計ものがたり」も同じくBのくるっていた派だ。事故の経緯はボールウォッチの歴史を紹介しているHPと同じことを書いているが、遅れていたとも進んでいたとも書いてはいない。

 ところが、面白いことに本家本元のボールウォッチのHPには、@の「遅れていた」と明確に書いてある。雑誌「サライ」のHPも@の「遅れていた」と紹介している。

 

 よくよく考えてみれば、4分間止まっていたというのは不自然ではないか。ここは、遅れていたと考えたいがどうだろうか。

 

 

㉘ 捨てている時間は無駄か

 

 19セイコーのセコンド・セッティング機能で時刻合わせをしていると、秒針が12の位置に来るまでの時間、親時計の秒針が12の位置に来るまでの時間が、とてもまどろっこしい。無駄な時間のように思えてしまう。似たようなものに、コーヒーを淹れるときにコーヒーを蒸らす時間がある。やはり、待っていると何か他にできることがないかと、つい考えてしまう。

 

 どちらも必要な時間ということはわかっている。コーヒーを美味しく淹れるための時間であり、時計を正確にセッティングするための時間である。決して無駄になっているわけではないことは重々わかっている。この数十秒の時間がなければできないことなのである。

 

 しかし、わかっているはずなのだが、この待っているわずかな時間が、とてもまどろっこしい。なにか他にしようと思ってもできない。いや、何かしようものなら、ちょうどよい時間がすぎてしまい、失敗したり、よけいな時間がかかってしまったりする。

 

 ここは、「時計よ、正確にな〜れ」「コーヒーよ、おいしくな〜れ」といったところが関の山か。この数十秒の時間の有効活用法を生み出すことが幸せなのか、それとも、こういった一見無駄に見える時間をもてることが幸せなのか。

 

 

㉗  大の月 小の月

 

 月齢が29.5日となると、実際の暦はどのようにしていたのだろうか。0.5日は暦としては使えないからだ。

 

 それを解決していたのが、大の月 小の月 である。大の月は30日、小の月は29日としていた。しかし、新月の関係で、大の月と小の月、閏月がいつなのかは年によって異なっていたという。

 

 それを示してしていたものが「絵暦」であり、絵や絵の中に大の月小の月を表記していた。いわゆる浮世絵の元と言われている。

 

 

㉖ 1日の始まり

 

 もうすぐクリスマス・イブ。このイブは、eveningeveとされています。

 

 一般には、このクリスマス・イブは前夜祭のことと説明されていますが、実際は文字通り「クリスマスの夜」です。キリスト教では、1日の始まりは、日没ですから、クリスマスの夜は24日の夜ということになるわけです。これは、ユダヤ教の影響と言われています。

 

 イスラム教は、純粋な太陰暦であるイスラム暦が基本とされており、1日の始まりはやはり日没からです。

 

 江戸時代のふつうの日本人(農民)の1日の始まりは、何といっても日の出(夜明け)です。これは労働と関係があると思われます。しかし、暦では、1日の始まりは、現代と同じ夜中の12時(午前0時)です。ということは、日本が暦を導入した先である中国も同じでした。 

 

 

㉕ 月齢

 

 現代は太陽暦を採用し、時計が発達した社会であるので、月とういものに無頓着になりがちです。ましてや、現代社会のなかでは、月と関連する生活や仕事をしていないと、月そのものを見ることさえほとんどないという人もいるはずです。

 

しかし、自然現象のなかには月に関係しているものが少なからずあり、お月見などの情緒面の楽しみだけで片付けられないものであります。月の満ち欠け(月齢)は、かつて規則正しさから太陰暦として確立され、死と再生も重ねてイメージされて、文化に多大な影響を与えてきました。よって、月齢について「理科年表」をもとに少し整理しておこうと思います。

 

月齢は、その日の「正午」のものが使われます。新月(これを暦では朔<さく・ついたち>という)の瞬間を0とする。そこからの経過日数を数値で表したものが月齢ということになります。

 

 つまり、

 

@月齢0.0(新月)になる瞬間を含む日が1日(朔日<ついたち>と読む)となる。

  地球と太陽の間に月が入り、太陽と月の黄経が一致した状態のことを言う。

  このとき、月は見えない。

A月が満ち始め、三日目の月が「三日月」。人の目には、実際にはこの月からはじめて

見える状態になるので、特にこの呼称がある。もともとはこの月を新月と呼んでいた。

Bさらに月が満ち、半月となる。これを「上弦の月」という。月が太陽より90°東にきた

瞬間となる。月齢は7前後。

C月が完全に満ち、満月となる。これを「望」(ぼう)という。月と太陽が180°、太陽と

反対側になった瞬間となる。単純に計算すると29.5÷214.75となるが、冒頭の

ように、月齢は正午のものを使うので、月齢は14.0を含む日とする。そうすると、

これが毎月16日の夜よりも、15日の夜中〜朝方に満月に近くなる。よって、望は

毎月15日ということになる。

  D月が欠け始め、半月となる。これを「下弦の月」という。月が太陽より90°西にきた

  瞬間となる。月齢は22前後。

E@の状態の新月となる。月齢は29.5前後。

 

これを12回繰り返すと、29.5×12354日となり、36535411日という差が出て

しまいます。1か月の周期と1年の周期がぴったりとは一致していないため、こういった

ことが発生する。これにどう折り合いをつけるかが暦の特徴となる。

 

太陰太陽暦では、この11日×3として33日分を、3年に1度の割合で、13月(閏月)

として設定することになる。

 

 

㉔ 秒の変遷 時間は一定ではなかった

 

 人は、時間は不変のものであり、決まりきった長さと認識している。しかし、秒の歴史を見ると、決して固定しているわけではなかったことがわかる。

 

 23でも述べたように、1日は、太陽の南中から南中が単位になっている。太陽日は一定と考えられていたのだ。ところが、実際は太陽日が季節によって異なることがわかり、1年における太陽日の平均値である「平均太陽日」が、1日とされた。

 

 しかし、この平均太陽日も一定ではなく、徐々に長くなっていることが発見された。つまり、地球の自転を使って「1日」を規定すると、それを基準にする秒・分・時も長くなり、齟齬がでてくることがわかったわけだ。

 

 そこで、より変化の少ない地球の「公転」を基準とすることとなった。1956年の国際度量衡委員会で、新たな「秒」が定義され、1960年の国際度量衡総会で決定された。19001012時から1太陽年(地球の公転)の値が基準となった。

 

 つまり、これまで1/864001秒だったのだが、このときから86400秒=1日と決められたのだ。

 

 そして、今度は、まさしく一定の時間を測定できる「セシウム原子時計」を使って秒を定義することとなった。これは原子核の周波数を用いたもので、1955年にイギリスの国立物理学研究所 が実用化に成功し、1967年の国際度量衡総会で「秒」が決定された。これを国際原子時と呼び、1958110時が基準となっている。

 

 現在は、このセシウム原子時計以上の精度をもつ原子時計が開発されつつある。

 

 

㉓ 地球の自転1回転≒23時間564.1秒? 1日ではない

 

機械時計が誕生してから、1日の長さの基準(始まりの基準ではない)は正午となった。それは、見ることで明らかな太陽の動きを基にしており、太陽の南中から南中が1日の単位になっている。(しかし、実際は太陽の中心を測定するのは困難であるので、恒星の動きを観測して計算しているという。これを「太陽日」という。)

 

この南中〜南中というのが曲者で、地球が1回転しただけでは次の日に南中にはならないということなのだ。なぜなら、地球は太陽の周りを回る(公転)するため、自転を1回転して、+1/365度を余分にまわったところで南中になることになる。

 

つまり、地球が自転を1回転だけだと、

365/366×24×60×6086163.9…秒    これを1日の24×60×6086400秒からひくと、

      8640086164236秒=356秒      これが1回転して、そこから南中までの差。

      24時間−356秒=23時間564秒   …と、見出しのような時間になるわけだ。

 

 地球の自転1回転は、1日ではない。よって、24時間でもない。

 

 

㉒宗教と利子   

 

 宗教と時間と言えば、「利子」の扱いを知っておくと色々なことを理解する糸口となることは、これまで様々な指摘がある。

 

 利子は、「他人に金銭を預けまたは貸した場合に、その見返りとして金額と期間に比例して受け取る金銭。利息。 」(大辞林)である。つまり、利子は時間と大きく関係している。

 

 この利子は、多くの宗教で嫌われてきた。旧約聖書でも新約聖書でも利子を禁じている。特にキリスト教では、時間は神のつくったものであり所有物であるという教えがあり、その時間を使って他者の財産を奪い取るものであると批判した。そして、利子をとると「破門」の対象とされるほど厳しく罰せられた。

 

 イスラム教も、仏教も、ヒンドゥー教も、元々は利子を禁じている。イスラム銀行は今でも利子をとらない(出資に対する利益の分配はある)とか。日本で江戸時代に商人の身分を低く置かれたこととも関係がある。マルクス主義も、利子や地代は余剰価値を源泉としたものであるとして批判し認めていないのは面白い。

 

 ところが、旧約聖書では異邦人への利子を禁じていなかったことと、、ユダヤ人は生産活動から締め出されていたことから、キリスト教信者から利子をとった。これがユダヤ人と言えば高利貸しというイメージと結びつき、実際、金融業を営む人が多かったという。

 

 キリスト教徒の間でも、実際は、禁じていたのは高利であり、利子そのものが禁止されていたわけではなかった。そして、1215年、第4ラテラン公会議ではローマ教会もキリスト教徒に利子を認めた。そこから重商主義、資本主義が生まれてくるわけだ。

 

 つまり、時間は経済と深く結びついた概念であり、それを体現したものが利子だったのだ。

 

 

㉑ソビエト連邦暦もあった

 

 Pで10進法に基づいたフランス革命暦を紹介したが、他にもソビエト連邦暦というものがあったことがわかっている。

 

192910月1日から、5日周期の週となり、色で曜日が分けられた。日曜日はなく、自分の色の曜日が休日となったようだ。休日が多かったが、家族が一緒に休めなかったため、不評で廃止となった。

 

193112月1日からは、事実上の週6日制とし、休日は国民共通のものとなった。しかし、変則的な勤務が多く、相変わらず不評だった。

 

結局、1940年に、もとのグレゴリオ暦にもどされ、ソビエト連邦暦は廃棄された。

 

このソビエト連邦暦にしてもフランス革命暦にしても、宗教色を排除するためのものだったということだが、時間と言うのは「宗教」、特にキリスト教と大きくかかわっていると見られてきたことがわかる。

 

 

Sニワトリの鳴き声と時刻

 

「日本経済新聞」2017年(平成29年)13日朝刊の文化欄に、吉村崇という方が、ニワトリの鳴き声が時を告げることについて研究したことを紹介している。

 

ニワトリの鳴き声が時を告げる現象は、洋の東西を問わず、世界で共通しているとか。しかし、その仕組みについては定説はなかったそうだ。

 

様々な実験の結果、その仕組みは「体内時計」であり、周期は23.7時間で、外が明るくなったのを察知して鳴くのではなく、自分の体内時計で夜明けを察知していることを突き止めたという。

 

しかもニワトリの発声は、遺伝的な獲得であり、聴覚障害のあるニワトリも自然に発声するのだとか。

 

体内時計の仕組みそのものはまだ謎だが、人や動物の行動を解明する端緒となるに違いない。

 

 

R時刻・時間を同期・共有する手段

 

 時刻・時間は、同期・共有すると効果が大きい。

 

一人で時刻・時間を守ることにも意味はある。自分の生活、生産活動、健康等、枚挙にいとまがない。その時刻・時間が理にかなったものであればあるほど、自分で時刻・時間を守ることには大きな意味がある。かつての自給自足の生活には特に大切だったことだろう。

 

社会生活では、それを複数人で、あるいは社会全体で同期・共有する必要がある。それを可能にしていたのが、太陽の日の出・南中・日の入りであり、月の満ち欠けだったことだろう。しかし、社会が複雑化、高度化・広域化してくると、その同期・共有はもっと緻密になっていく。

 

特に近代では、それを担っていたのが「電信」だった。鉄道の駅や郵便局は電信で結ばれ、時報による時間の同期・共有が行われた。日本の明治期には鉄道と同じか、それよりも早く電信が発達し、文字通り全国に電信柱が立てられた。戦争遂行や事件の把握、御行幸の安全確保などはそのよいきっかけだったにちがいない。

 

現代ではさまざまな通信の発達のおかげで時間の同期・共有化が行われている。

 

 

Q原子爆弾の起爆

 

 プルトニウム型原爆は、プルトニウムの周囲から点火し、中心部に圧縮をかけて爆発させる必要がある。そのためには32の点火位置から同時しないと、プルトニウムは核分裂を起こさずバラバラに飛び散ってしまうとのこと。

 

 では、その同時の精度はどの程度か。それは、誤差0.1マイクロ秒以下という。

 

 1秒の1/1000がミリ秒。その1/1000がマイクロ秒。0.1マイクロ秒はそのさらに1/10であり、1/10000000秒になる。

 

これを可能にしたのが「起爆電橋線型雷管」と呼ばれるものだった。ただ、この雷管は大きな電源が必要だったので、ファットマンは大きくなったと言われている。

 

 

P10進化時間の裏にある非キリスト教化運動

 

 フランス革命まっさかりの王政が廃止され共和政になったときに導入された暦で使われた時間のこと。

 

1週間を10日とするので、1か月は30日。1年は12か月なので、360日となり、残りの5日は休日。

1日を10等分するので10時間。正午が5時になる。1時間は100分。1分は100秒。

 

時計も十進化時間のものが制作されたという。しかし、十進化時間は、それまでの習慣・慣習に合わず、普及しなかったという説明が一般的である。

 

では、なぜ習慣・慣習に合わなかったのか。これは推測ではあるが、次の2つを挙げている人がいる。@休日の少なさ。A宗教的な理由。休日については10日で1日が休日だったとのこと。しかし、これは10に1日が少ないというだけなら、5日に1日にすればいいだけの話である。ここで重要なのは、やはり宗教的なことだろう。

 

フランス革命のなかでは、確かにキリスト教への迫害が行われた。それはカトリックだけでなく、プロテスタントに対しても、である。これを非キリスト教化運動という。その一環として、グレゴリオ暦が廃止され、フランス革命暦が採用されることになったのである。

 

 民主主義、自由と聞くと、信教の自由が保障されているので、市民革命のなかでも宗教は手厚く保護されたような錯覚を覚えるが、事実は違う。そのころのキリスト教、特にカトリックは旧体制側だったのだ。

 

 そんななか、信仰を取り戻すべく、しかし、キリスト教の神ではないものへの信仰を創作すべく動いたのが、恐怖政治で有名なロベスピエールというのだから驚く。その後もキリスト教への迫害は続くが、それを終結させたのがナポレオンだったというわけだ。

 

 政治の支配者は、時間をも支配することを望むのは、この市民革命でも例外ではなかった。

 

 

O前髪は長いが後頭部が禿げた美少年 

 

「前髪は…」は、チャンスの神の容貌だそうだ。名前を「カイロス」。ギリシャ神話の「時刻の神」「瞬間の神」だそうだ。だから、チャンスはすぐその時につかまなければ、後からではつかむことができない例えでよく話題になる神。転じて、「感覚的な時間のことを指し、長く感じたり短く感じたりする時間」を指す。最近よく使われる「ゾーン」につながる時間のことだろう。

 

それに対して、「時間の神」を「クロノス」という。「同じ速度で流れ続ける客観的な時間」を指し、クロノメーター、クロノグラフ、クロニクル、シンクロナイズの語源になっている。ゼウスの父もクロノスといい、ゼウス以前の最高神を指すが、別の神。

 

ギリシャ神話には、他にも、アイオーン(時代・歴史・期間・永遠)、ホーラ(季節・秩序)といった時間神がある。

 

時間はクロノスが基本であることに変わりはないのだが、クロノス以外にもあることを発見したという哲学であり、その痕跡ととらえるとわかりやすい。

 

 

Nクロックポジション

 

 方位の表し方で、時計と密接な関係をもっているものに、クロックポジションがある。

 

 戦争映画などで、「10時の方向から魚雷2発」などと表現しているアレである。この10時とは何か。

 

 床に、大きな時計の文字盤を置く。その中心に人が立ち、12時を進行方向として方位を示す。

0時の方向というのは、文字盤の中心から文字通り10時の方向を指す。

 

この10時の方向を別の表現で伝えようとすると、これは難しい。それを10時の方向とするだけで、言いやすいし、聞き取りやすい。おまけにイメージもしやすい。きっと生死を分けた戦場のなかで発達してきた発想なのだろう。

 

 ネットで検索すると、このクロックポジションが福祉の場で使われている様子。視覚障がい者にも、この方がわかりやすいようです。

 

 

M方位も干支 時刻と関係あり

 

 ご存じのとおり、江戸時代方位も干支を使った。しかし、これは独立してあったわけではなく、時刻と一致していた。

 

 北から東へ向かって初めて1周すると、北を子として丑寅辰巳…となる。南は午である。

 

 つまり、太陽は0時に北にあり、それから東に動いて、昼の12時は南にくる。これは午となる。

 

 12時は午の正刻であるので、「正午」となる。

 

 ちなみに、子午線は、北-南の線であるところからである。この北と南は不定時法でも固定されている。動くことはない。だから基準になりうるのである。子午線なる用語そのものは、これは、現在の社会科で地球儀や時差を学習するときに触れられるので、子どもたちもよく知っている。

 

 ちなみに、「取り舵」「面舵」も、この方位の干支から来ている。取り舵は本来「酉舵」で西、転じて左に曲がること。

面舵は本来「卯の舵」で東、転じて右に曲がること、となる。

 

 

L干支で表す時刻

 

 明治時代に西洋式の時刻表示(12進法)が導入される前は、日本では干支が使われていた。

 

 子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥の12支である。つまり、1日を12等分していたわけだ。

 

 すると、1支は約2時間となるので、その真ん中を正刻として、このときに鐘を鳴らした。

 その時刻は、0時、2時、4時、6時、8時、10時、12時、1416時、18時、20時、22時となる。

 

 子で言えば、0時が正刻で、23時〜1時になる。この23時を初刻といい、2時間をさらに4つに分けた。

 丑で言えば、2時が正鵠で、1時〜3時になる。1時が初刻で、2時は丑3つ時となる。

 

 注意したいのは、この時刻は不定時法なので、昼と夜の長さが季節で変化することである。

 

 

K(回春型)桃太郎の時間

 

 子どもが慣れ親しんでいる、お婆さんが大きな桃を拾ってきて、その中から桃太郎が産まれてくる『桃太郎』が一般的な話である。

 

しかし、お婆さんが拾ってきた桃を食べたお婆さんとお爺さんが若返り、桃太郎を文字通り産むという、『桃太郎』もあるという。しかも、明治時代の初めごろまでは、こちらが主流だったという。

 

つまり、I浦島太郎やJ竹取物語・八百比丘尼とは明らかに時間の流れが異なる。

 

遅い、速いなら、時間はどちらも一方通行であることに違いはない。しかし、この桃太郎は「逆行」している。桃は不老不死どころか、若返りの薬の役割を果たしているのである。

 

この後、お爺さんとお婆さんは、一体、何歳まで生きたのであろうか。また、そのお爺さんとお婆さんを両親に持つ桃太郎も、一体、何歳までいきたのであろうか。興味のつきない話である。

 

 

J竹取物語の時間

 

 最古の物語と言われるが、その完成度の高さは唸るほどであり、現代にまで読み継がれている。そして、この『竹取物語』には、浦島太郎とは、またちがった時間の流れが示されている。

 

1つは、かぐや姫の成長の仕方。3寸で生まれ、3か月で娘に成長してしまう。しかも、この世のものとは思えぬ美しさで、家のなかは暗いところがないくらい明るい。

 

2つは、娘になって求婚されて月に帰るまでの3年間は、年をとっていない。

 

3つは、富士山の由来は「不死」で、かぐや姫が帝に贈った「不死の薬」がその由来。

 

つまり、急速に成長しながら、その後は老化しない。そして、不死の可能性がある。

こんな都合の良い、不思議な時間の進み方があるだろうか。

 

実は、この時間の進み方を暗喩しているのが「竹」だ。竹は、木と草の境目の植物であり、草と比べても成長が異様に速く、ある程度大きくなると木のように幹は太くならない。しかも、竹は生命力が大変強い。

 

全くのいいところどりで、かぐや姫は、人類よりも優れた存在であることを示している。

 

これに似た時間の進み方は、八百比丘尼(人魚の肉を食べて不死になる話)にもあてはまる。ただ、八百比丘尼の方は、不老不死であることが「悲劇」となることを示しており、そこが対比となって面白い。

 

 

I「万葉集」の浦島子

 

 『万葉集』巻九の高橋虫麻呂作の長歌に次のような歌がある。

 

「水の江の浦島の子が7日ほど鯛や鰹を釣り帰って来ると、海と陸の境で海神(わたつみ)の娘(亀姫)と出会った。二人は語らいて結婚し、常世にある海神の宮で暮らすこととなった。3年ほど暮らし、父母にこの事を知らせたいと、海神の娘に言ったところ「これを開くな」と篋(くしげ・玉手箱のこと。もともとは化粧道具を入れるためのもの)を渡され、水江に帰ってきた。海神の宮で過ごした3年の間に家や里は無くなり、見る影もなくなっていた。箱を開ければ元の家などが戻ると思い開けたところ常世との間に白い雲がわき起こり、浦島の子は白髪の老人の様になり、ついには息絶えてしまった。」

 

これは、今の浦島太郎にかなり近い話になっている。「日本書紀」の別巻の話も、実はこれと同じということになると、浦島太郎の話は、かなり古いことになる。「日本書紀」は720年成立だから。

 

時間は、過去から未来へと、どの場所にあっても常に等しく流れるものというのがニュートン力学の概念だが、この浦島の子は、場所によって時間の流れに遅い速いがあることを示していることになる。これは相対性理論を援用すると面白いお話に変えることができると言われている。

 

 

H浦島太郎の初見は「日本書紀」

 

 時間についての不思議な話の代表格と言えば、何といっても浦島太郎。この話は、ふつう「御伽草子」のものが有名。しかし、その元ネタは、なんと、あの「日本書紀」。

 

 雄略天皇22年(478年)秋7月の条に「浦島子」が登場する。

 

「丹波国与謝郡の筒川の人、水江浦島子が、舟に乗って釣りをしていた。そして、大亀を得た。それがたちまち女となった。浦島は感動して妻とした。二人は一緒に海中に入り、蓬莱山に至って、仙境を見て回った。この話は別の巻にある。」

 

ここでいう蓬莱山は「常世の国」のことであり、不老不死の世界と言われている。しかし、この最後にある、「別の巻にある」というのが不明とのこと。

 

ただ、面白いことに、この浦島子の話は、万葉集にもあるとか。

 

 

 

Gグレゴリオ暦以前の西洋はユリウス暦(太陽暦)

 

 共和政ローマで、あのユリウス・カエサルによって採用され、紀元前45年1月1日から始まる暦をユリウス暦と言い、これは太陽暦だった。今と同じく、1年を366日とする閏年が採用された。

 

 ユリウス暦はローマ暦を踏襲しており、遡るとさらに古代ギリシャ暦になる。この古代ギリシャ暦・ローマ暦はすでに太陰太陽暦だった。ローマ暦は最初、いわゆる3月から12月までしかなく、1月2月は日数は存在するも、それらには名前がなかったとされる。

 

 その後、1月と2月が加えられ、1月1日が1年の始まりとされた。しかし、閏日が政治的な理由で不規則となり、季節と暦が一致しないことが常態化したため、カエサルが太陽暦である新暦を導入した、ということになっている。

 

 

Fグレゴリオ暦(太陽暦)以前の日本は太陰太陽暦

 

 日本では、グレゴリオ暦に改暦したのは明治5年のことであり、12月2日までが明治5年、よって本来なら12月3日なるところを1月1日として明治6年とした。 

 

「來ル十二月三日ヲ以テ明治六年一月一日ト被定候事」

 「太陰暦ヲ廃シ太陽暦ヲ頒行ス」(明治5年太政官布告第337号、改暦ノ布告)、

 

 ここに示されているように、これ以前は、日本では一般に太陰暦(旧暦)と言われることが多いが、実際は「太陰太陽暦」であり天保暦が採用されていた。太陰とは「月」のことであり、月の満ち欠けによって作った暦を太陰暦と呼び、太陰太陽暦は、太陰暦に太陽の動きを加味して、閏月を入れた暦のことである。太陰暦では、1年は月の満ち欠けで数えると、354日となる。実際は、365日と少しであるので、この誤差を13か月目(閏月)として計上したのだ。 

 

 この天保暦は、京都の真太陽時によって計算していた。採用は、1844年12月18日をもって天保15年1月1日としているので、わずか29年間しか採用されていない。しかし、この天保暦、なかなかのすぐれもので、太陰太陽暦で最も精密と言われ、1年の誤差が太陽暦のグレゴリオ暦よりも少ないとか。

 

 しかし、2033年問題と言って、9月の次が11月になってしまい、天保暦では暦を決定できなくなってしまう問題が持ち上がっているという。

 

 また、現在の天保暦は、現代天文学を元に計算されているので、わずかだが誤差があるとのこと。

 

 

E時刻の表記

 

時刻は1日の太陽の動きが基準となっているので、暦と時刻は直接には関係がない。しかし、時刻の表記には、暦が大きく関係していると考えられる。

 

時刻に使用される表記の方法は、12進法、60進法、100進法。

 

まず、1年を基準にして12か月が設定されている。これは太陰暦の月の満ち欠けの周期が元になっている。現代日本では馴染みがないが、この12が英語の数え方からみても色々な基準になっていることがわかる。暦では、太陰暦の影響で12が優先したことは想像に難くない。

 

そして、一昼夜を、それぞれこの12で分割し、1日を24時間とした。さらに、1時間を60で分割したものを1分とし、さらに60で分割したものを1秒としている。

 

この60は、10と12が元に作られた数と言われている。人は、歴史の中で数を「数えるまとまり」(n進法)を、人の指の数である「10」と、月の数である「12」の両方使ってきた。60はこの10と12の最小公倍数となっている。干支がこの60で成り立っていることや、古代メソポタミアでは小数がこの60だったという表記があることからも、古代ではこの60が大きな役割を果たしていたことが考えられる。

 

面白いのは、1秒以下は100進法が採られているということである。

 

1秒以下は、「ミリ秒(1/1000)」「マイクロ秒(1/1000000)」…などと呼ばれ、メートル法になっていることがわかる。よって、これは推測であるが、1秒までは、それまので歴史が関与しており、変える必要がなかった、あるいは変えられなかった。しかし、1秒以下が必要になった時代には、すでにメートル法が導入されており、100進法が採用された、ということではないだろうか。だから、角度も、分以下は同じになっていると考えられる。

 

 

D現行の暦のルーツは

 

 現在の日本の暦はグレゴリオ暦と呼ばれる「太陽暦」となっている。グレゴリオ暦は、地球が太陽を1周する時間を1年とし、1年を365日、そして、うるう年を366日としている。そして、キリストの誕生年を紀元としており、西暦とも呼ばれる。グレゴリオ暦は1582年に、ローマ教皇グレゴリウス13世が制定した。

 

こう書くと、地動説を迫害したキリスト教が、地動説をもとにつくった太陽暦を制定したのか、という疑問が湧いてくる。

 

 確かに、コペルニクスが著した『天体の回転について』は1543年である。しかし、実は、ケプラーとガリレオが地動説を唱えるのは、グレゴリオ暦が生まれた後であり、いわゆるガリレオ裁判ももう少し後ということになる。

 

 ということは、現行の暦であるグレゴリオ暦は、この現代でも大きな問題もなく使用できるが、地動説を元に作成したものではない、ということになる。

 

 

C鉄道時間

 

 日本では、この地方時は標準時によって統一されたが、欧米、特にイギリスでは、この地方時を同期していったのが「鉄道時間」と言われている。

 

 鉄道発祥の地イギリスでは、地方時による鉄道運行の不都合が問題になっていた。効率が悪い上に、事故の恐れもあったからだ。そこで、「1840年、Great Western Railwayという鉄道会社がロンドン時刻を採用したのをきっかけに、他の鉄道会社もロンドン時刻を採用するようになりました。」(HP『国立天文台』)とある。これが「鉄道時間」だ。

 

 つまり、近隣の都市が、大都市ロンドン時間に合わせて鉄道を運行し始めたため、徐々に時刻が統一されたものになっていったのだ。そして、「1847922日、Railway Clearing Houseグリニジ時刻を用いるように提言、多くの鉄道会社で121日から採用されました。」(HP『国立天文台』)とあり、1880年には法的にもグリニッジ時刻が採用された。

 

 他にも、海図・航海図もグリニッジ時刻を採用していた旨が紹介されている。

 

 そして、それらが下地になって、1884年の国際子午線会議でグリニッジ王立天文台を通る子午線を本初子午線とすることが決定され、世界がグリニッジ時刻を採用することになった。現在は、これを元にして、協定世界時を採用している。

 

      ※面白いのは、同会議に出席していたフランスは、あくまでパリ(天文台)時刻を採用するよう主張し、

グリニッジ時刻を認めなかったとか。

 

 

B地方時

 

では、標準時が設定されるまでは、どのように時間を決定していたのだろうか。

 

HP『国立天文台』のなかで「地方時」を解説している。

・視太陽時では正午に太陽が南中し、逆に太陽が南中する時刻が正午になる。

・視太陽時のもとになる太陽の動きは一定ではなく、季節によって変動する。

したがって、視太陽時も季節によって変動する。

・経度の差に応じて補正した時刻を地方時という。

つまり、太陽が南中する時刻は経度によって異なるので、当然、地方によって正午は異なる。この正午を元にその地域の時刻が決められるので、これを「地方時」と呼ぶ。すなわち、同じ日本でも、標準時が決められるまでは、東京、名古屋、大阪、博多など、主要都市で時刻に時差があったことになる。

 

実際、このHP『国立天文台』でも、「明治6年暦から明治20年暦には、東京を基準とする各地の時差が掲載されていました。」とあり、「日本で鉄道の敷設が始まったばかりの明治初期には、東京に始点を持つ鉄道は東京時刻で運行し、京阪神間の列車は大阪時刻で運転されていました。」(HP『明石市立天文科学館』)とある。

 

日本にも地方時があったのだ。

 

 

 

A日本の標準時を決定しているのは明石天文台では、ない

 

日本の「標準時」の基準は、確かに明石を通る東経135度の子午線。もっと正確に言えば、本初子午線の時刻を9時間すすめた時刻を世界協定時と言い、東経135度は日本標準時子午線であることは間違いない。これは、1886年(明治19)の勅令第51号「東經百三十五度ノ子午線ノ時ヲ以テ本邦一般ノ標準時ト定ム」が根拠になっている。

 

一般に明石天文台と呼ばれているものは、正確には明石市立天文科学館と言い、戦後の昭和35年(1960年)に開館したもので、ここで観測や時刻の決定をしているわけではない。

 

1895年(明治28年)の勅令167号「標準時ニ關スル件中改正ノ件」で、標準時のことを「中央標準時」と呼ぶことにした。理由は、中央以外にも標準時を定める必要ができたからである。それが第2条の「西部標準時」であり、八重山列島・宮古列島と日本統治下の台湾・澎湖諸島の標準時とされた。

 

その後、1937年(昭和12年)の勅令第529号「明治二十八年勅令第百六十七号標準時ニ関スル件中改正ノ件」で、前の明治28年勅令第167号の第2条(西部標準時に関する条)の条文が削除され、再び日本の標準時は一つとなった。その際、「中央標準時」の言葉は残ったとのこと。よって、法令上は、この「中央標準時」が正式な名称となっている。

 

日本の標準時を決定・維持しているところは、「情報通信研究機構」というところで、総務省所管の国立開発研究法人(東京・小金井)。戦後の昭和23年の電気通信省→郵政省→総務省と引き継がれたことになっている。

 

他方、日本の中央標準時を決定しているところは、国立天文台の水沢VLBI観測所本館内の「天文保時室」(岩手県奥州市)である。天文保時室のHPでは、「国家事業としての日本の標準時の決定、報時に関する事業を遂行」とある。天文保時室は国立天文台の部署であり、海軍水路寮と東京大学の星学科に遡るものの、その性格は研究所や大学の共同研究利用機関ということになる。

 

となると、標準時=中央標準時 となるはずだが、現実にはそうはならないらしい。

世界協定時+9時間(9時間すすめたという意味)というのはどちらも同じであるにもかかわらず、だ。

強いて言うなら、政治的には標準時、科学的には中央標準時、といったところか。

 

面白いのは、原因が、どちらも原子時計を使って計測しているところだ。

正確さの究極の時計である原子時計であるにもかかわらず、一致しない、ということ。

要するに、原因は、標準時と中央標準時を決定している権威が異なっているということだろう。

 

さらに、ややこしいのは、日本標準時は、正式には存在せず、あくまで「日本の標準時」というのが正しい。そして、この標準時はNHKやNTTの時報に使われている。にもかかわらず、情報通信研究機構のHPでは「日本標準時」という呼称を使っている。混乱の一端がここにもあるように思う。

 

 

 

@24時間表記

 午前0時から次の日の午前0時までの24時間を、0〜24までの時間で表現する時間の表記の方法。19セイコーのなかにも、戦前の外地仕様にこの24時間表記のものがある。

 

 24時間表記は、午前と午後の混乱を防ぐためのもので、交通関係、医療関係、軍事関係、IT関係、天文関係で使用されている。

 

 日本では、1872(明治5)年の旧暦119日に太政官達第337号が発令され、時刻制度が導入された。このときの表記は、午前は「零時」から「12時」まで、午後は「1時」から「12時」までとする12時間制となっている。これに従うなら、昼の12時は「0時」となるはずだが、実際は一般に「12時」と表記されることが多い。しかも、昼の12時1分は、午後12時1分ということになるところから、昼の12時は「午前12時」が正しいことになり、一般表記の「午後12時」と異なってしまう。

 

 自明のことと思われがちな時間表記であるが、実は混乱を招きやすいことがわかる。これでは時計がいくら正確であっても、人的要因でミスを招く態勢になっていることに気がつく

 

鉄道省部内においては、1942(昭和17)年9月26日に時刻の呼称方法を24時間制に改めた。同年10月11日からこれを施行し、鉄道省編纂の『時刻表』は1942(昭和17)年11月号から24時間表記に改めている。

 

これを伝えた当時の大阪毎日新聞によると、24時制はすでに満鉄、鮮鉄、華北(北支)華中(中支)の外地鉄道や陸海軍部ではすでに実施していると紹介されている。

 

陸軍内でも、国内では1943(昭和18)年8月11日に軍隊内務令の第73で「時刻ヲ示スニハ24時間制ニ依ルモノトス」とあるが、支那事変(日中戦争)勃発後の1938(昭和13)年九月作戦要務令の改正が行われており、外地ではすでに24時間制をとっていたことがわかる。

 

 19セイコーの外地仕様のなかの24時間表記がいつからかというのは、一筋縄にはいかない。この1938(昭和13)年以降と考えたいところだ。しかし、『精工舎懐中時計図鑑』では15石の24時間表示の19セイコーが1932(昭和7)年〜1934(昭和9)年に発売開始としている。では、7石の24時間表示はいつからなのか判然としない。しかも、満鉄では、すでに1929(昭和4)年7月のダイヤ改正から24時間制を採用していたのだから。

 

 しかし、戦後、19セイコーが12時間表記にもどっているということは、鉄道も基本的に12時間表記にもどったということなのだろう。

 

     ※19セイコーの24時間表記は、12時間表記を基本としており、その内側に

       24時間表記を抱き合わせている形式をとっている、つまり、1周目が0〜

12時、2周目が12〜24時という形になっているわけだ。しかし、アメリカの

軍用時計などは、短針の示す時刻が24時間表記となっているものがあり、

正真正銘の24時間表記の時計となっているわけだ。