時刻よし!19セイコー

懐中時計のメモ             時刻よし!」19セイコー

 

デジタル表示の懐中時計もある

 

 懐中時計というと、アナログ表示の文字盤を思い浮かべる人が多いと思う。実際、「懐中時計」で画像をググると、出てくるのはアナログ表示の文字盤のものばかりだ。最近、私が検索した時も、例外は1つもなかった。これは、懐中時計というキーワードがレトロチックなニュアンスを含んでいるからだと思う。

 

しかし、懐中時計には、デジタル表示の物もある。いわゆる針のある文字盤ではなく、液晶などで数字を表示するタイプのものだ。たいていのものは、時刻の表示が真ん中に一番大きく表示される。ただ、数はそれほど多くはないようだ。そして、アナログの文字盤に加えてデジタルの表示もあるというハイブリッドタイプのものもある。

 

 

鉄道時計の認知度はまだまだ

 

私の職場では、私が机の上に置いて普段使いしているために、時々声をかけられるようになってきた。一番簡単で、的確な表現は、「鉄道の車掌や運転士が使っていた時計」というものだ。それ以上に興味を示すようなら、詳しく説明しても大丈夫だが、そうでなければ引いてしまう人がいる。たかが時計なのだが、マニアックな趣味ということを感じさせる。

 

その時に、残念と感じるか、そのレアさを喜ぶかは、19セイコーとの付き合いの長さ、深さによるだろうか。普段使いできるかどうかも、結局は、便利と感じる使い方をしているかどうかにかかってくる。私の仕事上で一番便利と感じる時は、電話を受けたときの時刻確認のときだ。程よい大きさと身近さ、そして、視認性の良さが役立っている。

 

 

時計は家の外から肌に近いところへ

 

初め家庭の外にあった電話が、玄関から応接間、台所、居間へと家庭の外から中心部へ入り込み、寝室、子ども部屋と個別化が進んで、ついには携帯するようになった、と言ったのはマクルーハンが火つけたメディア論だったように覚えている。電話は今や11台は当たり前で、大容量化・多機能化・小型化が競われ、いつかは攻殻機動隊が想定する近未来のように体に埋め込む時代が来るかもしれない。

 

機械時計も似たような経緯を辿っている。修道院や時計塔に設置されていたのが、家庭に入り、それが徐々に家庭の中心部へ、そして、個別化が進んだ。さらには携帯できる懐中時計の登場。ただこれは電話に比べて意外と早かった。登場すると、首、懐、そして、ポケットへと変わり、ついには腕に取りついた。現代社会では通信などと一体になり、今やどこに時計が入っているのかさえわからないぐらいになっている。

 

 

高級時計の贈り物は贈与になる

 

高級時計になると思わぬトラブルが発生する場合がある。110万円を超えるような高級な時計ともなると、それはプレゼント扱いにはならず、「贈与」になる。すると、当然のことながら贈与税が発生する。

 

贈与税は受け取った翌年の2月1日〜315日までに納めなければならない。もし申告しなかった場合、追徴課税もある。しかも、それらが不要だからと売却すると今度は所得税が発生する。ところが、婚約や結構のお祝いごととなると贈与税がかからない場合もあるようだ。高級なものは、受け取る側もそれ相応の覚悟が必要な理由だ。

 

 

時計の贈り物に関するトラブル

 

時計のプレゼントで発生した有名なトラブルは日本でも起きている。2016年に起きたアイドル刺傷事件だ。自称ファンという男性からアイドルに交際の申し込みや求婚として時計を贈ったが、アイドルがそれに応えられないとして送り返していたという。

 

贈り物としての時計には、家族や親しい人であればお礼や励ましとして受け取られる。しかし、そうでない場合は予想外の重い意味が込められていることがあるのだ。それはずはり、時計は人が身に着けて使ったり飾ったりするものだからだ。時計そのものに意味がある場合もあるが、他に、婚約指輪ほどではないにしても、何かの場面で身に着けたり、意思を受け容れたりすることを期待している可能性があるわけだ。

 

 

中国での時計の贈り物

 

 中国では時計の贈り物はタブーと言われている。時計は中国語で「zhōng」(鐘)という。そして、時計を贈ることは「送 Sòng zhōng」といい、葬送が「送 Sòng zhōng」と同じ発音。よって、時計を贈ることは死を贈ることとも取られるわけだ。この場合の時計は置時計や掛け時計のことを指し、懐中時計や腕時計は対象外という指摘がある。

 

 しかし、2015年にイギリスの閣僚が台北市長に、会った記念にと懐中時計を贈ったとのこと。もちろん、その時計は格式のある立派なものだった。しかし、マスコミで報道されて閣僚が謝罪に追い込まれたとのこと。せっかく贈り物にするなら、よく調べてからにしたい。

 

 

ファブルブラントの恩賜の時計

 

私のHPを見ている方が、興味深い情報を寄せてくださった。商館時計の恩賜の時計の存在である。写真を見ると、カタカナで「ファブルブラント」と刻印されており、裏蓋に特徴ある字で、確かに「御賜」とある。

 

商館時計は、文明開化のシンボルであり、明治初期というイメージがあるが、実際には明治時代の30年代までは販売されていた。商館時計はいくつか有名なものがあるが、特にファブルブラント商会については、精工舎がここからスイス時計を購入していたことがセイコーミュージアムで紹介されており、信頼できる商館だったのだろう。

 

 ちなみに、セイコーミュージアムは「ファブル・ブランド」としている。一見すると、ファブルというブランドと勘違いしてしまいそうだ。創業者はJames Favre-Brandtとあるので、ブラントとするのが正しいのではないかと思う。

 

 

三島由紀夫の恩師の時計拝受から見えること

 

 三島由紀夫の恩賜の時計拝受が昭和19年であったことは、学習院大学だったことを考えなければならない。学習院大学は今でこそ一私立大学だが、1884年(明治17年)に宮内省管轄の特殊な官立(国立)学校となっていたのだ。戦前の国立大学の代表は、いわゆる旧帝国大学であり、恩賜の時計を拝受していた大学は、1899年〜1918年に設立されていた、東京大学、京都大学、東北大学、九州大学、北海道大学となるが、学習院大学も同列、いや、正確には東京大学と同格かそれ以上だったとか。

 

東京大学で1919年に廃止された後も、学習院大学では恩賜の時計が続けられていたことになる。『精工舎懐中時計図鑑』に、三島の記事のなかで「戦後学習院大学にて使用された記録のある、裏二重蓋の19型セイコーシャ(7石)と思われる。」とあるのは、このためだったのだ。では、いつまで続いていたのだろうか。それは今後の課題としたい。

 

 

恩賜の銀時計の廃止

 

恩賜の銀時計について調べてみると、その実施期間が意外と短いことがわかる。1899年〜1918年のわずか20年間というのだ。『精工舎懐中時計図鑑』に、昭和19年に三島由紀夫が恩賜時計を拝受したという記事が載っているので、少なくとも終戦ぐらいまでは実施されていたのだろうと考えていたので、大変意外だった。

 

制度上、開始時期は、1899年のことで、東京帝国大学卒業生に明治天皇が下賜したことという。終了は1918年で、1919年の卒業式に廃止されたというのだ(HP『今日は何の日?歴史辞典』)。しかも、教師と学生たちの声からというからさらに驚いた。

 

 

恩賜の時計の機種

 

 そもそも恩賜の時計は、アメリカのウォルサム、スイスのゼニット(ゼニス)が選ばれた。精工舎では、このウォルサムを視察してモデルとし、明治35年(1902年)に14サイズ米利堅式懐中時計(メリケン・システム:メリケンはアメリカンの発音に似せた呼称)を開発。すぐに小型化・改良を施して12サイズとし、翌年の明治36年(1903年)にはこの12サイズ(17型)をエキセレントと改名。そして、7石から15石にグレードアップさせて、明治40年(1907年)に宮内省から恩賜の時計の指定を受けた。

 

このエキセレントはさらに明治44年(1911年)に17石までグレードアップされ、昭和4年(1929年)まで製造されている。そして、昭和5年(1930年)には17型ナルダン型が登場し、恩賜の時計もこのナルダン型に取って代わられることになる。さらに昭和19年(1944年)には19セイコー(裏二十蓋7石)となるようだ。

 

つまり、精工舎はモリスとユリス・ナルダンを手本とする前には、ウォルサムを手本とし、性能を上げることに心血を注いでいたのだ。

 

 

懐中時計を贈る習慣

 

ヨーロッパ、特に西ヨーロッパでは、懐中時計を贈る習慣がある。スイス時計のブランド、ピアジェのHPには、創業者ジョルジュ・エドワール・ピアジェが妻エマに自分で作った懐中時計を贈ったエピソードが紹介されている。懐中時計は時間を測る機械という存在であり、ふだん身に着ける機械ということで愛着がわく存在であるのは確かであるが、ルビーなどの貴石が使われたりケースが貴金属だったりしたので、宝石に準じる資産価値があるものとしてとらえられていたのも事実である。実際、いざというときには換金も可能だった。そのため、懐中時計を贈り物にしたというエピソードは多い。

 

日本で有名なエピソードは、1860年(万延元年)に 日米修好通商条約を締結するため訪米していた遣米使節一行に、ブキャナン大統領が将軍徳川家茂あてにと贈ったウォルサムの金時計のもの。表蓋にはブキャナンの肖像、裏蓋には翼を拡げた鷲の米国の国章が刻まれていたとか。その時計は、1984年(昭和59年)に外交史料館に寄贈され、今も大切に収蔵されている。(実はもう1つあったという話もある)

 

恩賜の時計は、こういった時計を贈るという習慣を昇華させたものだったと考えられる。

 

 

恩賜の金時計 銀時計

 

 「恩賜の時計」と呼ばれるもので、時計の裏蓋に「御賜」(ぎょし)と彫られたものがそれである。いわゆる御下賜品(ごかしひん)として時計が贈られた。御下賜品とは皇室や宮家から贈られた品物のことで、皇室に対して何らかの功績があったときや、皇室のために勤めをしたときに賜った。

 

金時計は明治時代の元勲など政府高官に限られ、銀時計は軍関係の学校や帝国大学の成績優秀者に下賜された。もともとは明治天皇が収集されていた懐中時計を私的に記念品として賜ったというエピソードに由来すると言われている。

 

 

モリス

 

HPの「19セイコーのメモ」のページで書いた<モリス>は、精工舎がお手本としていた割にはweb上には資料が少ない。そんななかで見つけたHPadvintage』とHPANTIWATCHMAN』を参考にまとめてみる。

 

モリスは、スイスの時計メーカーで、フリッツ・モーリ(FRITZ MOERI)とフレデリック・ジャンヌレ(FREDERIC JEANNERET)が、1893年にスイスのサンティミエに設立した時計工房、「モーリス&ジャンヌレ(Moeri & Jeanneret)」を嚆矢とする。ムーブメントを自社開発するメーカーとして発展。1910年代にはクロノグラフやストップウォッチなどにも進出。しかし、ジャンヌレが亡くなると、モーリが事業を引き継ぎ、1920年代に「モリス」として再スタートする。1930.年代にはドイツ陸軍や空軍に採用され、軍用時計メーカーとしても知られるようになる。精工舎はユリスナルダンと並んでこのモリスをお手本としていた。

 

 

電波時計の懐中時計

 

クォーツだけかと思ったら、実は電波時計も出ている。シチズンのREGUNOシリーズだ。自動的に電波を受信して時刻合わせをおこなう。電波は福島と佐賀の標準電波送信所からのもの。ソーラーシステムも内蔵しているので電池は不要だ。しかし、懐中時計はポケットなどにしまいこむことが多いので、意識的に充電をわすれないようにしなければならないことが欠点と言えば欠点か。ということで、ほぼ放置状態でもとても正確という優れもの。

 

直径は43mmで重さは65gというから、戦後7石の19セイコーのなかの小さな機種と同じくらい。竜頭は3時の位置にあるので、慣れるのに時間がかかるかも。文字盤は鉄道時計に似ていてこちらは馴染みやすそう。日付のみとはいえカレンダーが付いているのは便利かも。通常価格は19,800円。このREGUNOシリーズは、シチズンのスタンダードウォッチという位置づけで腕時計が主なのだが、懐中時計もこのようにラインナップしているのは嬉しいかも。

 

 

クォーツの懐中時計

 

懐中時計というと古色騒然としていて多少の不正確さは致し方ない、という偏見がある。しかし、懐中時計は、機械式でも正確なものがあるし、ましてやクォーツ式であれば全く正確といって差し支えない。その正確さは、新幹線の運行を支えているほどだ。

 

東海道新幹線は、1日に365本であり、36分間隔で運行していることになるとか。新幹線の最高速度は時速320kmにも達する超高速走行ときている。それを文字通り分単位・秒単位で運行しているのだ。これを可能にしているのが、ATC(自動列車制御装置)と19セイコーの後継機クォーツなのだ。

 

リニア中央新幹線では、自動運転システムが導入されるそうだ。このシステムは指令室の管理下に置かれるらしい。そうなると、そのときが19セイコーの役割が終了するときかもしれない。しかし、制御そのものはもはや運転士の手を離れるのかもしれないが、安全上乗務員は必要なのではないかと思う。であるならば、しばらくは延命するのではないか。

 

 

腕時計は実用で新しい

 

日本人にとって、そもそも着物に比べて時計は新しいのは周知のとおりだ。ましてや腕時計は明治の末期にやっと登場した。ということは、腕時計をしないというマナーそのものも新しいこととわかる。そうであるなら、腕時計のなかった時代の着物の出で立ちに基本を置くのは自然なことで、着物のときに腕時計が見えるところにしない、という発想になるのだろう。

他方、腕時計は、もともと軍用というその登場の仕方からして機能重視のものだ。すぐに見ることができるという機能が、何より選ばれた理由なのだから、フォーマルとか正装とかとは元々無縁なものだったのだろう。

 

 

着物に腕時計がタブーな理由

 

これについては、着物店が盛んにHPを上げている。主な理由は、@着物が傷む A公式な会では時間を気にしているととられ無粋 となっている。ということは、@にしてもAにしても、それらがクリアされていれば問題ないということになり、それを提案しているHPもある。

 

@については、着物が傷まないような着け方、そして、傷まないような時計をつければよいことになる。手首に着けるのではなく、そでからもう少し入ったところに着ける。金属ベルトなど角張った時計でなく、皮ベルトなどの表面がなめらかな時計ならよいということになる。Aについては、私的な生活の場で着けるのであれば腕時計でよいということになる。あるいは、公式な場でも高級な着物であれば、高級な時計でバランスがとれることもある。

 

逆に言うと、着物なら懐中時計、で正解ではなく、その着物に合った懐中時計でなければならないことになる。

 

 

和装と懐中時計

 

着物のときに腕時計をするのは賛否両論あるようだが、しないほうがマナーにかなっているというのが一般的な意見として通っているようだ。その理由はいろいろ語られているようだが、腕時計が登場した当初には、腕時計は懐中時計に対して略式とみなされたことがその根底にあるようだ。

 

 では、着物に腕時計はタブーなのか? なぜ、タブー視されるようになったのか? 等、少し調べて述べてみたい。

 

 

ナース・ウォッチ

 

 世間様に意外と知られていないのが、このナース・ウォッチだ。言葉どおり、看護師が使用する時計のこと。つまり、看護師の仕事に直結した機能をもつ。腕時計では、感染の原因になったり、患者や機器を傷つけたりするため、首からかけたり、ポケットから吊るしたりして使う。そのため、12時と6時の位置が逆になっていて、上から見て、下に12時がくる文字盤を備えている。その他の機能は次のようなものがある。

 

   @秒針がある。  …婦人用の時計は秒針のないものが意外と多い。点滴の速さや脈拍を測るのに必須。

                そのため、心拍数を測るための計算尺(目盛り)がついているものが多い。

   A防水機能    …看護師は消毒を常に行い、清潔にしなければならないため、水に強いものが望ましい。

   Bチェーンやピン …首からかけたり、胸に留めたりするため。

   Cバックライト   …夜勤や暗いところでの仕事中でも時計を見るには必要。

   Dキャラクター  …小児科では子どもとのコミュニケションのためにイラストなどが入っていると親しみやすい。

   Eクォーツ     …看護師は忙しい。メンテナンスが必要なく、正確な時計となると、今はクォーツが最適。

 

 

ペンダント・ウォッチ

 

 ネックレスとしても時計としても使えるようにした、おしゃれなものを言う。どちらかというと宝飾品扱いだったり、カジュアルファッション扱いだったりして、時計そのものの性能を追究したものではない。しかし、そのバリエーションは豊富で、実にさまざまな形のものがある。

 

懐中時計をそのまま小さくしたようなものもあれば、カメオの下が時計になっているもの、貴金属のケースに細かく装飾を施したもの、一見宝石のような風防ガラスのもの、猫や家・ハートや翼など遊び心をくすぐるもの、などがあり、見るだけでも楽しい。

 

 

レディース用懐中時計

 

懐中時計はアンティークのジャンルとなるので、言葉としても敢えて「婦人用」懐中時計と言いたい。懐中時計は女性も効果的な使い方がある。次のことを参考にして使いこなしていただければ幸いだ。

 

【おしゃれさをアピールしたいとき】

・金製・銀製なら高級なアクセサリーとして申し分なし。宝石のようなあからさまなアクセサリーとは一線を画す。

・エナメルで絵や模様が描かれているもの(アンティーク)は人目を惹く。

・大きなスケルトンの懐中時計は、機械の動きが楽しめる。理系女子っぽさをアピール。

     【さりげなく人に見せる】

・ペンダント・ウォッチをネックレスとして掛ける。小さな懐中時計なら自然。

・バッグのアクセサリーとして。落とさない工夫が必要だが、さりげない時間の確認もできる。

・浴衣・着物で帯の間に差し込む。紐がふさわしい。腕時計は不釣り合い。

【仕事や役に立つ使い方】

 ・机の上などに置いて時計を見ながら仕事をするときに使用する。スタンドを利用して置く。

 ・美容師や調理師、看護師など水を使う仕事の場合に使用。ナース・ウォッチという専用の懐中時計がある。

 ・八角形など珍しい時計であれば、人とのコミュニケーションのきっかけになる。

 

 

B&O鉄道博物館の鉄道時計

 

『線路まわりの雑学宝箱』に、アメリカ最大の鉄道博物館「B&O鉄道博物館」の鉄道時計展示室のことが紹介されていた。そこのパネルの説明文が入手できたので、その英文と日本語訳(私訳)を載せておきたい。

 

POCKET WATCHES

Train crews relied on pocket watches to maintain a safe and accurate schedule.Employees purchased their own watch,which had to meet strict standards set by the railroad.These watches had to be accurate,operate reliably in all kinds of weather conditions,and be durable enough to endure the rigors of daily use on the railroad.The B&O required employees to submit their watches to the Time Service Department for inspection twice a year and cleaning every eighteen months.Employees took great pride in and care of their pocket watches,often purchasing the highest quality watch they could afford.

 

懐中時計

列車の乗組員は、安全で正確なスケジュールを維持するために懐中時計を信頼していました。従業員は、鉄道によって設定された厳しい基準を満たすことができるような時計を自分で購入しました。これらの時計は、正確でなければならず、しかも、あらゆる悪天候でも信頼性のある作動をしなければなりませんでした。そのため、BOは、年に2回の検査と、18か月ごとのクリーニングのために、彼らの時計をタイムサービス部門に提出することを要求しました。従業員は大変誇りに思っていて、彼らは懐中時計を手入れしたり、しばしば性能に余裕のある最高品質の時計を購入したりしました。

 

 

東京駅開業100周年記念アニメ

 

2014年に、開業100周年を迎えた東京駅を記念して、アニメ『時季(とき)は巡る〜TOKYO STATION〜』が制作されている。このアニメの小道具として登場するのが懐中時計であり、アニメのなかでははっきり言っていないが、これが鉄道時計の「19セイコー」なのだ。

 

このアニメ、残念ながら、どうもあまり話題にならなかったようだ。ストーリーがややベタすぎたかも。ただ、アニメのなかで描かれている19セイコーそのものはよく描かれている。19セイコー・マニアとしては嬉しいところだ。ただ、主人公が転倒して19セイコーを投げ出して床に落とした場面では、19セイコーがほぼ無傷なのはちょっと釈然としないかも。これからも、19セイコーがどんどん取り上げられて、もっと知られるようになると嬉しい。

 

 

ティファニー

 

 LVMH(モエヘネシー・ルイヴィトン)が買収を打診したニュースが駆け巡ったことは記憶に新しい。ティファニーは、映画『ティファニーで朝食を』で有名になった宝石、銀製品などの装飾品を扱う店というイメージ。ティファニーの時計の歴史は古いが、本格生産はほんの一時期だった。

 

 創業は1837年で、ブロードウェイにチャールズ ルイス ティファニーと友人のジョン・B・ヤングが共同で文房具と装飾品の店「Tiffany&Young」を開いたのを嚆矢とする。時計に関しては、1851年にパテック フィリップの時計をアメリカで初めて販売したのが始まりだった。1874年にはジュネーブの工場で自社時計の製作を開始している。しかし、その期間はわずか20年ほどであり、工場はパテック フィリップに売却したのだった。

 

その後は、デザインウォッチを製造。200296日、ティファニーのウォッチ・コレクション「ティファニー マークTM」が発売開始となる。スイス・メイドのコレクションで、メンズ・ウォッチへの本格参入だった。

 

 

ロレックスは?

 

ここまで紹介してきた老舗の時計メーカーに入っていてもおかしくないのに、名前が挙がっていないメーカーがある。ロレックスである。人気ランキングでは常に上位に入っているブランドであり、日本では特に知名度が高いようだ。007シリーズで、ジェームズ・ボンドが身に着けていたのがロレックスのサブマリーナだったことや、男子ゴルフなどのスポーツや各種カー・レースの公式タイム・キーパーであることが大きく影響しているかもしれない。

 

このロレックスは、実は1905年創業で、時計産業のなかでは比較的新しいメーカーとなる。株式会社ではなく、財団法人組織ということから情報等が公にされていない。そのため、その全貌については確かなことがわからず、さまざまなデマも流布しているという状況だそうだ。公式HPなどもそうだが、創業当時から先見の明があったことを示すために、当初から腕時計を製造していたかのように記載している。しかし、実際は懐中時計も残されており、懐中時計メーカーであったことは間違いない。

 

 

ブルガリ

 

敢えて、異色のメーカーとして取り上げておきたい。ブルガリは懐中時計の歴史をもっていない。創業は1884年で、ローマ。19世紀であるのは間違いないのだが、そのスタートは宝飾メーカーだった。創業者はソティオ・ブルガリで、彼はギリシア生まれの銀細工職人だった。ブランド名はBVLGARI。オードリー・ヘップバーンで有名になったと言えば言い過ぎだろうか。

 

時計をつくり始めたのは1940年代だが、本格参入したのは1970年代と言われる。洗練されたおしゃれなデザインと高級感から愛されているようだ。1980年にはスイスにブルガリ・タイム社を設立し、自社開発する体制を整え、ムーブメントも本格化。スポーツ・ウォッチやクロノグラフもラインナップしており、現在はLVHM傘下となっている。

 

 

ブライトリング

 

 ナビタイマーなるフラッグシップにブライトリングの思想が盛り込まれている。パイロット時計で発展してきたブライトリングは、文字盤の周りの目盛りが計算尺(航空機用計算盤)として機能するように設定されているのだ。1915年に世界初専用プッシュボタンで機能するクロノグラフ腕時計を発表。1934年にはリセットボタンを付け、現行のクロノグラフの原型をつくりだした。

 

創業は1884年。スイスのジュウ渓谷にあるサン・ティミエに、レオン・ブライトリングが工房(G. レオン・ブライトリング)をつくったのが嚆矢。1892年にラ・ショー・ド・フォンに進出し、社名をレオン・G・ブライトリングとしている。息子ガストン・ブライトリングのときに、クロノグラフ「ヴィテス」を発売。孫ウィリー・ブライトリングのときに、イギリス空軍にコックピット・クロックを納入。1952年には本社をジュネーブに移し、ナビタイマーを発表。航空時計・パイロット時計の代名詞とまで言われるようになる。

 

ただ、世界恐慌をものともしなかったブライトリングも、クォーツショックの洗礼を免れず、1970年代には経営危機に陥った。それを救ったのが、アーネスト・シュナイダーであり、その息子セオドア・シュナイダーだった。

 

 

パネライ

 

 映画『トランスポーター』で、主人公が時間厳守であることを示すための小道具として身に着けているのがパネライのルミノール・クロノ。機械式なのに電子音が鳴るシーンは演出としてご愛敬か。一般には、デカ厚時計として有名。

 

 しかし、このパネライは一般に知られるようになってからまだ日が浅い。なぜなら民生品としてデビューしたのが1998年と20年ほどしかたっていないからだ。パネライは長い間、軍用時計として軍事機密の制限がかけられてきたため、冷戦が終了するまで民間への時計を製造・販売できなかった。

 

 パネライは、1860年、ジョヴァンニ・パネライがフィレンツェで創業。正式名は、オフィチーネ パネライ。現在はリシュモングループの傘下。元々は精密機器メーカーでクロノメーターも製造していたが、イタリア海軍から潜水部隊用時計(軍用ダイバーズウォッチ)の依頼を受け、戦後はエジプト軍やイスラエル軍からも制式時計として受注していた。

 

 

ジャガー・ルクルト

 

 裏返しにできる時計で有名。その名もレベルソ。ポロをするときに、風防を守るための機能だそうだ。それから、1000時間も厳格な品質検査を行う時計もある。その名はマスター。意外な機能と高品質な時計メーカー。それがジャガールクルト。

 

1833年、ジャック=ルクルトとアントワーヌ=ルクルトが、時計製造の小さな工房を開いたことが嚆矢である。場所は、ジュウ渓谷のル・サンティエ。このルクルト家の祖先がフランスのユグノーだったため、宗教上の迫害から逃れるためスイスに逃れてきていたのだった。

 

1903年、カルティエと密接な関係にあったエドモンド・ジャガーの依頼に見事に応え、以後、ルクルトがジャガーの時計のムーブメントを製造し、カルティエに納めることとなった。それを受け、1937年にはジャガー・ルクルトのブランドが正式に誕生した。なお、ジャガーは、高級車で有名なメーカーのジャガーでもある。

 

 

ユンハンス

 

スイスに近いドイツのシュバルツバルト地方のシュランベルクで創業されたドイツの時計メーカー。シュバルツバルト地方はもともとは鳩時計(ドイツではカッコウ時計というらしい)などの壁時計の生産地だったところで、ユンハンスは、1861 年にエアハルト・ユンハンスが義兄弟と始めた部品工場だった。

 

このメーカーが腕時計を製造し始めたのは比較的新しく、1927年だった。第2次大戦ではB-Uhr(偵察機用ナビゲーション・ウォッチ)を、1946年にはクロノグラフを製造。1951年には、自社製のクロノグラフのムーブメントCal.J88を開発し、後に西ドイツ空軍に採用された。1972 年のミュンヘン・オリンピックでは、公式タイムキーパーとしてストップ・ウォッチが採用されている。今も、手ごろで、無骨なデザインがドイツらしさを表しており、人気を得ているメーカーだ。

 

 

IWC

 

 International Watch Companyの略。日本ではインターの名で親しまれてきた。本社はドイツに近いシャフハウゼン。スイスメーカーであるが、ドイツ風の気風がある。かつては高級時計のメーカーとして知られていた。このメーカーも永久修理を唱っている。現在、リシュモン・グループの傘下。

 

創業は1868年。アメリカ人技師のフロレンタイン・アリオスト・ジョーンズがアメリカ市場向けの懐中時計を製造する。社名が英語であることもこのことが由来。第1次世界大戦中に腕時計に参入。パイロット・ウォッチを得意とした。しかし、クォーツ・ショックでエタのムーブメントを採用するようになり、かつてのイメージを失う。ただ、エタに独自の改良を加えてきており、逆にエタに影響を及ぼしてきたと言われる。最近は独自のムーブメントも開発している。

 

 

パテック・フィリップ

 

パテック・フィリップと言えば、一生モノの時計として有名。同社の時計であれば古い時計でも修理をすると謳っている。また、世界一高価な時計を制作するメーカーとしても知られている。

 

パテック・フィリップの創業は1839年とされ、創業者はポーランド人のアントニ・パテックとフランチシェック・チャペック。2人とも軍人で、1830年に起きたポーランドの11月蜂起により軍功を挙げるがフランスに亡命。後、スイスに移住して、Patek, Czapek CieCieはフランス語で、Co会社と同じ)を開業。1845年に、ペンダント・セットを完成させたフィリップを招き入れ、Patek Cieと改称。1845年にはチャペックが去り、1851年にPatek & Philippe Cieとした。しかし、1929年の世界恐慌で経営が悪化し、1932年にはスターン兄弟に売却され、Patek Philippe S.A.となる。これが現在の社名。

 

パテック・フィリップの時計はどれも、シンプルで控えめでありながら美しいという評価を得ている。高貴なデザインとさえ表現されている。そういった意味で最も著名な製品は、Ref.96だろう。1932年に販売されたカラトラバモデルの元祖でロングセラーとなった。この時計は、1982年にRef.3796が後期機種として発表・販売された。

 

 

オーデマ・ピゲ

 

 オーデマ・ピゲと言えば、ロイヤル・オークが有名。同名のイギリスの軍艦にとりつけられていた円形の小さな窓(舷窓)にちなむという。ステンレス製の「高級時計」という、それまでにない風貌で大人気となった。八角形の文字盤、周囲には8本のネジという、スポーティなのに洗練された時計だった。

 

1875年、ジュール・ルイ・オーデマとエドワール・オーギュスト・ピゲが、スイスのジュウ渓谷にあるル・ブラッシュで創業。元々複雑機構を得意とし、1892年には、世界初のミニッツ・リピーターを搭載した腕時計を開発。1972年には「ロイヤル オーク」が誕生した。

 

 

19世紀創業の時計メーカー

 

ここまでも色々な時計メーカーに触れてきたが、19世紀に創業したメーカーにまで広げるとまだまだある。オーデマ・ピゲ、パテック・フィリップ、IWC、ユンハンス、ジャガールクルト、パネライ、ブライトリング、ブルガリが挙げられるだろうか。

 

 19世紀に創業したということは産業革命で産声を上げ、2度の大戦を潜り抜け、クォーツ・ショックにも耐えたということになる。時計メーカーにとって100年以上生きながらえたというのは並大抵のことではなかったはずだ。これらメーカーは何をウリにしてきたのだろうか。ここで少し整理しておきたい。

 

 

ペルレ

 

 現在の腕時計の自動巻きの機構を発明した時計メーカーというのが最もわかりやすい紹介だろう。自動巻き機構は、大きな半円形の錘を中央に取り付け、時計本体を軽く振ってこのローターを回転させてぜんまいを巻く仕組みになっている。これまで、これを超える自動巻きの仕組みはまだ出てこないとか。ただ、この仕組みは腕時計にこそ向いており、懐中時計ではその性能を十分発揮できなかったらしい。

 

 ペルレは、他の時計メーカーのような工房の創業でなく、1777年にこの自動巻き機構を発明したことを嚆矢とするようだ。発明者は、創業者のアブラハム・ルイ・ペルレ。工房はル・ロックルだった。孫のルイ・フレデリック・ペルレがスプリットセコンド・クロノグラフで、さまざまな国際的な評価を受けるも、その後は忘れられた存在だったようだ。

 

 1995年に、世界初のダブル・ローターを採用した自動巻き機構の機械時計で復活を果たし、高級時計メーカーの一角を占めるまでになっている。現在の本社はオメガと同じビール(ビエンヌ)。

 

 

ブレゲ

 

スウォッチ・グループの傘下であり、高級時計のブランドである。本社はスイスのラベイ。途中、ブレゲ一族の経営は途絶えたが、現在、ブレゲの7代目エマニュエル・ブレゲも参加し、歴史的な継続性にも根拠をもたせようとしている。複雑時計「ブレゲNo.160」が特に有名で、フランス海軍御用達時計ともなった。

 

 かの有名なアブラアンルイ・ブレゲが1775年にパリで創業した。ブレゲの死後、息子、孫と引き継がれたが、孫ルイ=クレマン・ブレゲが時計師エドワード・ブラウンに工房を売却。1970年にフランスのショーメがブランドを買い取り、その時計師のダニエル・ロートらによって復興を果たし、1999年にスウォッチ・グループに買収された。

 

創業者ブレゲは、次々と革新的な技術を開発したことで有名。トゥールビヨン、自動巻き機構、ミニッツリピーター用ゴング・スプリング、パラシュート(耐衝撃機構)、永久カレンダーにその名を残している。

 

 

バシュロン・コンスタンチン

 

バシュロン・コンスタンタンともいう。マルタクロスと呼ばれる十字をかかたどったマークを社章(ロゴ)とし、文字盤や竜頭などにつけている。現存する時計メーカーのなかで3番目に古いことでも有名。また、最高級の時計メーカーの1つとしても知られている。

 

創業は1775年のジュネーブで、ジャン=マルク・ヴァシュロンの工房を嚆矢とする。孫のジャック・バルテルミーが、営業の腕を買ってフランソワ・コンスタンチンを招き、社名をヴァシュロン&コンスタンチンとした。現在のバシュロン・コンスタンチンとなったのは、意外と新しく1970年のことである。

 

複雑機構の時計の製作を得意とし、その美しさも定評がある。2015年には、史上最も複雑とされる「リファレンス57260(Reference 57260)」という懐中時計を発表し、大きな話題となった。

 

 

 

 

ファーブル・ルーバ

 

 1975年(昭和40年)に、田部井淳子氏が、女性として、世界で初めてエベレスト登頂に成功した。彼女が身に着けていた時計が、ファーブル・ルーバの腕時計ビバークだった。ファーブル・ルーバは、1962年に、史上初となる高度計を搭載した腕時計「ビバーク」、1968年には、やはり史上初となるデプスゲージ(深度計)を搭載した腕時計「バシィ」を発表している。

 

 日本にはあまりなじみのないメーカーだが、1737年にアブラハム・ファーブルが工房をル・ロックルに設立したことを嚆矢とする。現存する世界で2番目に古い時計メーカーである。現在の本社は、スイスのゾロトゥルン。クォーツ・ショックで影響を受け、転売が繰り返されたが、現在はインドのタタ・グループの傘下になり、再び意欲的に機械式時計を発表している。

 

 

創業の古い時計メーカー

 

時計には世界5大メーカーなるものがあるようだ。しかし、それを主張している人や、その根拠について、今のところまだつき留めていない。そこで、18世紀に創業したメーカーに目を向けてみたい。それらは、ブランパン、 ファーブル・ルーバ、バセロン・コンスタンチン、ブレゲ、ペルレ、ジラール・ペルゴの6つである。18世紀と言えば、日本では江戸時代の半ばというとこだろうか。ブランパン、ジラールペルゴはすでに取り上げたので、残りに4つについて書いてみようと思う。

 

 

フランク・ミューラー

 

このメーカーについても訂正が必要である。創業者フランク・ミューラーの生まれは確かにラ・ショード・フォンなのだが、本社はジュネーブ。ブランドの立ち上げは1991年と新しい。社名にしたのはさらに新しく1998年。大阪のフランク・三浦との商標を争う裁判で敗れたことが記憶に新しい。

 

フランク・ミューラーは、ブレゲの再来と言われ、トゥール・ビヨン、ミニッツ・リピーター、パーペチュアル・カレンダーを組み込んだ高級時計や複雑時計の製作を得意としており、大変な人気がある。デザインにも特徴があり、もともとアンティーク時計に魅せられてきたその生い立ちが影響しているようだ。

 

 

ブランパン

 

ラ・ショード・フォンのところで、本社があると表記したが、間違いであったのでここで訂正する。ブランパンの本社はル・ブラッシュ。現在はスウォッチグループに属している。クォーツ時計はつくらないブランドとして有名。

 

創業は1735年で、最古の時計メーカーとしても知られている。ジャン・ジャック・ブランパンがジュラ渓谷のヴィルレに工房を開いたことを嚆矢とする。当初は部品を製造していたとのことだが、まもなく懐中時計を製造し始める。19世紀後半には高級機も製造するようになり、1926年に世界初の自動巻腕時計を商品化した。

 

クォーツショックにより経営難に陥ったが、現存の最古の時計メーカーと言われているように、この時期は廃業ではなく休眠という表現が用いられる。1983年にジャン・クロード・ビバーによって買収され、複雑機構の時計メーカーとして復活を果たす。1992年ウォッチグループに買収されている。

 

 

オメガ

 

現在の本社はビール(ドイツ語)【フランス語ではビエンヌ】にあり、オメガ・ウォッチ・ミュージアムもここにあるのだが、オメガの出発点はラ・ショード・フォンだった。創業者であるルイ・ブランが1848年に時計を組み立てる工房を開いたのが嚆矢で、ハンドメイドだった。1877年には、長男ルイ・ポールとともに、ルイ・ブラン&フィルズ(filは息子)という社名にしている。1879年には三男ルイ・セザールが加わり、量産化のために1880年にビールに会社を移している。

 

 

コルム

 

ラ・ショー・ド・フォンに本社を置く時計メーカーとしてこのコルムは外せないだろう。ブランドの立ち上げ当初からユニークな時計を製造しているが、高度な技術を要するその時計は多くの支持を受けてきた。コルムとは、コルムの公式HPを見ると、<「議会で議決をとる為の絶対多数」という意味を持つラテン語の「Quorum」という言葉に由来>とのこと。また、エンブレムの鍵は、<新たな扉を開ける「革新」を象徴>しているとか。

 

ブランドの創立は、1955年で、ルネ・バンヴァルトが、叔父ガストン・リースとともに立ち上げた。アドミラルズカップ、コインウォッチ、ロムルスなどが有名で人気が高い。前身は、ガストン・リースが1924年に設立している。現在は、中国海澱集団傘下となっている。

 

 

タグ・ホイヤー

 

映画「栄光のル・マン」(1971年)のなかで、スティーブ・マックィーンが着けていた時計が、ホイヤーの「モナコ」という角型防水の腕時計だった。その後、F1レースでフェラーリやマクラーレンのスポンサーをしたこと、そして、特に日本人としてはマクラーレン・ホンダで活躍したアイルトン・セナの印象が強いようだ。

 

1860年、エドウアルト・ホイヤーが、スイスのサンティミエで創業。当初からスポーツ・ウォッチを得意とし、ストップウォッチやクロノグラフが有名。1916年には、世界初の1/100秒のストップウォッチを開発(マイクログラフ)。1920年にはアントワープ・オリンピックで公式計時を担当した。

 

しかし、1985年、TAGグループの資金援助を得て、ホイヤーからタグ・ホイヤーに社名を変更。現在は LVMH(モエ・ヘネシー・ルイ・ヴィトン)の傘下にあり、F1の新興勢力であるレッドブル・レーシングのスポンサーになっている。

 

 

ジラール・ペルゴ

 

現在のクォーツ時計の世界規格である周波数32,768ヘルツを決めたメーカーであり、1880年に、ドイツ海軍の士官用に腕時計の注文を受けて開発、量産型の腕時計を世界で初めて製造したメーカーとしても有名である。高振動化に積極的で、1966年には世界ではじめて機械式腕時計に36,000振動を採用したことでも世界を驚かせたという。

 

創業は1791年で、ジャン=フランソワ・ボットがジュネーブで時計を製作したことが嚆矢である。ジュネープの時計は宝石・貴金属工芸品として名高く、彼もその伝統を受け継ぎつつ工場には180人の従業員が働き、120人の在宅職人を抱えていたとか。彼はパリとフィレンツェにも店を構えた。彼の死後、息子のジャック・ボットと義理の息子ジャン・サミュエル・ロッセルが後継者となっていたが、1906年にジラール・ペルゴに工房を買収され、現在のジラール・ペルゴになっている。

 

ジラール・ペルゴは、ラ・ショー・ド・フォン出身のコンスタン・ジラールがマリー・ペルゴと結婚したことにより1856年に会社名をジラール・ペルゴとし、ラ・ショード・フォンに工場を設立。1872 年に独特の設計によるトゥールビヨン脱進機つきの懐中時計を製作して、ニューシャテル天文台に提出し、最高精度賞を受賞。1889年にはパリ万国博覧会で、スリー・ゴールドブリッジ トゥールビヨン、ラ・エスメラルダが金賞を獲得している。

 

つまり、ジラール・ペルゴは時計の精度にこだわったメーカーであるというだけでなく、宝飾品の伝統も引き継いでいる高級時計メーカーとして人気があるのだ。ただ、2013年にはケリングの傘下になった。

 

 

ラ・ショー・ド・フォン

 

 ル・ロックルと並ぶスイスの時計産業のメッカの1つ。『資本論』に登場しており、分業を分析する際の一事例として取り上げられているとか。ジラール・ペルゴ、タグ・ホイヤー、コルムなどが本社を置き、オメガ、ブランパン、フランク・ミューラーなどが大きく関係している。

 

 国際時計博物館があることでも有名。スイス最大規模の時計博物館で、4,500点以上もの時計コレクションを所蔵し、16世紀ごろの古い時計もほとんどが稼働しているとか。もと時計学校が小さな時計博物館を19世紀に開設した施設がはじまりという。

 

 

ユリス・ナルダン

 

 19セイコーの製造開始より1年遅く、1930年に製造を開始した「ナルダン形」(17型高級懐中時計SEIKOSHA)の祖型とし、これが恩賜の時計としても採用されたことから、精工舎がいかに高く評価していたかがわかる時計メーカー。この2種類の時計を区別するため、ユリス・ナルダンの方を「スイス・ナルダン」、精工舎の方を「セイコーシャ・ナルダン」と呼ぶことがある。

 

 この時計メーカーは、1846年に、ユリス・ナルダンがル・ロックルに創業したスイスの時計メーカー。山国であるスイスにあって、当時の海軍国であり時計先進国だったイギリスを抑え、船舶用クロノメーターを得意とし、当時の各国の海軍に多く採用されていた。もちろん、日本海軍も採用しており、戦艦三笠が記念艦となっていることから今もその姿を確認できる。

 

 クォーツ・ショックにより衰退。しかし、1983年にロルフ・W・シュナイダーに買収され、天文三部作によって復活する。手掛けたのはアストロラーベの研究者、ルートヴィヒ・エクスリン博士だった。確かに、どれもマニア心をくすぐる複雑時計だった。2014年にはフランスのケリングに買収されて現在に至っている。

 

 

ティソ

 

 オートバイの世界最高峰のロードレースである「モトGP」のオフィシャル・タイムキーパーがティソと言えば、その存在感がわかるだろうか。ほかにも自転車のプロ・ロードスポーツであるツール・ド・フランス、北米の男子プロ・バスケット・リーグNBAなど、多くのスポーツ競技のタイムキーパーでもある。

 

 1853年に、スイスのル・ロックルで、シャルル・フェリシアン・ティソとシャルル・エミール・ティソの父子が創業。エミールは海外販売に力を入れ、アメリカ、帝政ロシアに販路を拡大した。オートメーション化、耐磁時計、ワールドタイムウォッチ、超耐震性時計、完全防水、タッチセンサー等、その技術の革新性には定評がある。しかし、クォーツ・ショックで打撃を受けたスイス業界が、巻き返しとして1983年にティソやオメガを主体にしたSSIHと、ロンジン・ラドーを主体にしたASUAGを合併して、SMHを設立。これが現在のスウォッチ・グループに発展している。

 

多くのHPで、2012年に、標高3,454mのユングフラウヨッホ駅(ヨーロッパ最高地点)を終点とするユングフラウ鉄道と公式パートナーシップを結び、唯一の公式時計として選ばれた、ということが紹介されている。しかし、このティソは鉄道時計としての歴史をもっているのかどうかはよくわからなかった。

 

 

ル・ロックル

 

 ラ・ショー・ド・フォンと並ぶスイスの時計産業のメッカの1つ。ジュラ渓谷に伝わる伝説が、時計産業の興りを教えてくれる。その主人公の名はダニエル・ジャンリシャール。FHHのHPには次のように紹介されている。

 

 「彼の生涯の記録はわずかしか残っていません。1766年に書かれた記録に彼の逸話が載っています。少年ながらも手先の器用さで知られていた彼は、15歳の時にイギリス製時計の修理を頼まれました。すると彼は時計を動くように直しただけでなく、自分用の時計を作る決意を固めます。まず最初に必要な工具を作る事から始め、そして時計製作に取りかかりました。その才能は誰の目にも明らかで、彼の元にはさらに多くの時計が修理に持ち込まれました。そして時計は彼の職業となったのです。彼は一時期ジュネーブにいた様で、そこで時計に対する理解を深め、後にル・ロックルに移って5人の息子に時計技術を伝えています。」

 

2009年には、「ラ・ショー=ド=フォンとル・ロックル、時計製造業の都市計画」として、世界遺産リストに登載されている。ル・ロックルで有名なメーカーは、ゼニス、ティソ、ユリス・ナルダンなどである。

 

 

チュチマ

 

 チュチマと言えば、第2次世界大戦中のキャリバーUROFA59の軍用クロノグラフや戦後のレマニア5100NATOクロノグラフなど、空軍の軍用時計クロノグラフで有名。この時計メーカーは、確かに戦前のグラスヒュッテで創業しているが、グラスヒュッテ・ウーレンベトリープ(国営時計会社)<GUB>に吸収されていない点でユニーク。

 

 1926年にエルンスト・クルツが創設したUROFA社とUAGF社が嚆矢。「チュティマ」は元々UFAG社で最高品質モデルにつけたブランドだった。ドイツが第2次世界大戦に敗北したとき、グラスヒュッテからアメリカの占領地域のメンメルスドルフに逃れ、クルツ時計会社を設立。1951年にガンダーケッセに移っている。

 

 ただ、低価格競争に勝てずクルツは破産。ヴェルナー・ポーランが会社を買い取りNUFOFA社とするもこれも長く続かず閉鎖してしまう。そこで、ディーター・デレカーテがブランドを取得し、ディター・カーテ時計製造会社をおこし、1983年に社名をチュチマへ変更したのだ。そして、2011年に念願のグラスヒュッテへ復帰を果たしている。

 

 

ノモス

 

ノモス(NOMOS)は、1906年に、グラスヒュッテにグイド・ミュラーが創業した。懐中時計の製造メーカーで、ノモスとはギリシャ語で「秩序・規律」のこと。しかし、わずか4年後の1910年には閉鎖している。

 

現在のノモスは、1992年に、ローランド・シュベルトナーとスージー・ギュンターが起こした時計メーカー。高性能自社ムーブメントながら、リーズナブルな価格帯で人気を博している。ムーブメントナンバーにそれぞれ「DUW」という単語が与えられ、地板にもそれが彫られているのが特徴。

 

ウニオンと同じく、現在のノモスと戦前のノモスの関係をほのめかす記述をみることがあるが、実際は直接は関係ない。

 

 

ミューレ

 

 かつてドイツのティーガー戦車のメーター類を製造していたミューレ。元々、測定機械や精密機器を製造していたメーカー。現在も船舶用測定機メーカーである。しかし、1995年には腕時計にも参入。グラスヒュッテの名を冠することについて法廷闘争があったことでも有名になった。

 

 1869年、ロベルト・ミューレがグラスヒュッテに精密機器メーカーとして創業。時計産業が隆盛しつつあったグラスヒュッテで、時計製造に必要な計測機器の製造メーカーだった。つまり、時計そのものを製造していたわけではなかったので、第二次世界大戦後もグラスヒュッテ・ウーレンベトリープ(国営時計会社)<GUB>には吸収されなかった。しかし、1972年に統合され、1994年にミューレ・グラスヒュッテとして復活した。

 

 腕時計も計測器であるという方針のもと腕時計の創造にも乗り出し、セリタ社のムーブメントであるETAの供給を受け、独自の機構を組み込んで使用している。しかし、ETAの供給制限に備えて、ミューレは独自のムーブメント製造にも乗り出している。

 

 

シュトラッサ―&ローデ

 

レギュレータという、それぞれ独立した3針で時刻を示す時計で有名。かつて、時計メーカーが製造した時計を検査するマスタークロックを、独立3針時計の柱時計や懐中時計にしたことがこの会社のオリジナル。非常に正確な時間が要求される天文学の分野など、科学の場でも使用されていたとか。現在もグラスヒュッテ・オリジナル・ブランドの1つとして、レギュレータの腕時計が製造されており、高い評価を得ているようだ。

 

 1875年に、ルートヴィッヒ・シュトラッサーとグスタフ・ローデが設立。逆回転脱進機が特徴で、精密振り子時計を得意とするメーカーだった。1879年にシュトラッサーはドイツ製時計製造学校に専念し始め、その後ローデは引退。経営はその後、ヴィルヘルム・クライス、ポール・ヴァイスとわたり、1959年に最後の振り子時計がギリシアの展望台に据え付けられたエピソードがよく出てくる。登記所では1993年に削除されているが、会社そのものは、戦後グラスヒュッテ国営時計会社に吸収されていた。

 

 

ウニオン

 

ヨハネス・デュレンシュタインが1874年に創業した、時計の卸業デュレンシュタイン商会が嚆矢とされている。商会は、A.ランゲ&ゾーネの時計を多く扱っていた。しかし、ヨハネスは安価な時計も望み、ブランドとしてスイスのウニオンを導入。鐘の周りに5つの星が刻印されている。

 

1885年に兄のフリードリッヒがパートナーとなり、1893年にはウニオン時計製造会社を設立。スイスから生産の大半を移して、時計製作を始めた。このときウニオン・グラスヒュッテ時計製造会社となり、ギリシャのパルテノン神殿を模したマークを刻印している。世界の最も複雑な時計の1つである「グランド・コンプリケーション」は、1893年にシカゴで開かれた世界コロンビア博覧会で、コロンブスのアメリカ発見400周年を記念して展示された。

 

しかし、第一次世界大戦とヴェルサイユ条約の影響と経済的な混乱のなかで、腕時計への潮流に乗り切れず、業績が悪化。1926年には閉鎖され、1936年に登記所から削除されている。

 

現在、UNIONを名乗るメーカーが2つある。1つは、東西ドイツ統一後、グラスヒュッテ・オリジナルの子会社として独立した、ウニオン・グラスヒュッテ。今は、スウォッチ・グループに属している。もう1つは、スイスにあるユニオン・オルロジェールという時計メーカー。どちらのメーカーも、名前は同じウニオンであり、戦前のウニオンとの関連をほのめかしている記述を見ることがあるが、実際は直接の関係はないようだ。

 

 

A.ランゲ&ゾーネ

 

グラスヒュッテ国営時計会社に、戦後、統合された時計メーカーは、アドルフ・ランゲに由来することがわかる。なかでも、色濃く継承しているのは、アドルフ・ランゲから4代目のヴァルタ―・ランゲが再興したA.ランゲ&ゾーネと戦後東ドイツでA.ランゲ&ゾーネを吸収したグラスヒュッテ国営時計会社の後継であるグラスヒュッテ・オリジナルである。

 

A.ランゲ&ゾーネは、ドイツを代表する時計メーカーであり、世界五大高級時計メーカーの一つとして知られている。創業は、1845年にアドルフ・ランゲが開いた「A・ランゲ・ドレスデン」という工房である。しかし、A.ランゲ&ゾーネは200周年式典を2015年に執り行っている。1815年は、アドルフ・ランゲの生誕年であり、アドルフ・ランゲの師であるヨハン・クリスティアン・フリードリヒ・グートケスが工房が開いた年でもあったのだ。

 

アドルフ・ランゲは、グートケスの工房で修業中に、当時の時計先進国だったスイス・フランス・イギリスに出かけ、製造方法を学び、『旅の記録』を残しているとか。ドイツと言えば工業先進国というイメージがあるが、歴史上はアメリカ・ロシア・日本と同じ19世紀における新興国だったことがわかるエピソードである。

 

 

グラスヒュッテ・ウーレンベトリープ(国営時計会社)<GUB

 

第二次世界大戦後、1951年(昭和26年)に設立された東ドイツの国営の会社。グラスヒュッテ時計産業公社(GUBVEB Glasshutter Uhrenbetrieb)とも訳される。このときに、当時、ドイツの時計の生産の中心地であるグラスヒュッテにあった時計メーカーを統合して発足したものだった。統合されたメーカーは、ランゲ・アンド・ゾーネ、シュトラッサー&ローデ、ミューレなどで、それぞれ歴史をもったメーカーばかりである。

 

それが、1990年の東西ドイツ統一後、時計工場は民営化されてグラスヒュッテ・ウーレンベトリープ有限会社(時計製造会社)<GUBGlasshutter Uhrenbetrieb GmbH>となると、まず、フランスの部品メーカーと民営化を試みるも失敗。1994年にミュンヒェンの実業家ハインツ・W・ファイファーとニュルンベルクの宝石店アルフレッド・ウォルナーがトレウハンド(東ドイツの代理店)から買い取り、高級化路線少量生産をとり、「グラスヒュッテ・オリジナル」ブランドを立ち上げた。さらに、ウニオン・ブランドの価値も上げることに成功し、2000年に両者をスウォッチ・グループに売却したのだった。

 

 

ドイツ グラスヒュッテ

 

 ドイツのザクセン州にあるドレスデンの郊外に位置し、かつて銀鉱山として栄えた。しかし、資源が枯渇したため、新たな町おこしとして始めたのが時計産業だった。今では、A.ランゲ&ゾーネとグラスヒュッテ時計製造会社(ブランドはグラスヒュッテ・オリジナル)という高級時計メーカーの本社がある街として有名。

 

 グラスヒュッテの時計産業が繁栄するきっかけをつくったのが、A.ランゲ&ゾーネの創始者、アドルフ=ランゲだった。Aはアドルフ、ゾーネは息子(Sohn)の複数形で息子たちという意味になる。このA.ランゲ&ゾーネとグラスヒュッテ時計製造会社の歴史は、戦争と政治に翻弄された歴史と言っても過言ではない。今後、少しずつ整理していきたいと思う。

 

 

パリ シテ島

 

アブラアム=ルイ=ブレゲは天才時計師の一人で、その業績は『セイコーミュージアム』でも詳しく取り上げられているほどセイコーも大変高く評価していることがわかる。ブレゲに関係する、スイスのヌーシャルテルとパリのシテ島はどんなところだろうか。

 

スイスのヌーシャルテルは、ブレゲの生まれ故郷である。母親が再婚した相手がジョゼフ=タテといい、時計製造業を営んでいた。ブレゲは、この義父のもとに時計師の修業を開始している。ヌーシャルテルは州であり、スイス時計産業の中心地である。そのなかに有名なラ・ショー==フォンもある。ブレゲが子ども時代にヌーシャルテルで過ごしたことは、その後の人生に大きな影響を与えたはずだ。

 

 15歳でフランスにわたり、ヴェルサイユの時計師のもとで修業。その後、パリで科学を学びながら時計師の修業を続けている。28歳でパリのシテ島に独立開業。シテ島はセーヌ川のなかにある長さ1km中州である。パリ発祥の地とされ、市民(英語citizen)の語源とも言われている。開業した場所は、ケ・ド・ロルロージュ河岸(時計河岸)39番地で、ロルロージュとは大時計の塔のこと。フランス国王が1350年に建てた最初の公共の時計塔だった。

 

 

パワーリザーブ

 

 動力ゼンマイの残量を示す機能のことで、今では時間単位のものと日単位のものがある。ただ、主流は時間単位で、4080時間が多い。しかも、商品の説明などを読むと、60時間や80時間を誇っているものが多い。日単位のものでは8日や31日というものまであるが、これらは少数派のようだ。

 

 アメリカ鉄道時計のレイルロード・アプルーブドを見ると、「精度は1週間に±30秒以内」とある。それを見て、私はアメリカ鉄道時計の稼働時間は少なくとも1週間はあるのだろうと思ってしまったのだが、どうも違うらしい。当時のアメリカ鉄道時計のパワーリザーブを見ると、せいぜい60時間程度ということに気がついた。ということは、2日半もてばよいということになる。

 

 19セイコーにはパワーリザーブがついていないので、自分で稼働開始時刻を覚えておいてゼンマイを巻く、あるいは毎日決まった時刻にいっぱいまで巻くというのが基本となる。しかし、このパワーリザーブがついていれば、0にならないように巻き足していけばよいといことになるので、大変便利ではある。ということは、アメリカ鉄道時計も1週間というのは巻き足したときの勘定ということになるのだろうか。

 

 

機械式時計のアピールポイントは?

 

時計の機能は、人に時刻を知らせることのみである。それ以上でも、それ以下でもない。機械式時計は、そのために、ほぼ毎日時刻を確認するという手間が必要があり、3年ぐらいに1度のペースでオーバーホールをするというコストが必要だ。これができるということは、考えてみれば大変贅沢なことだ。

 

 だから、機械式時計を普段使いするなら、この手間とコストがかかっていることを猛アピールしたいところだ。電気仕掛けではなく、機械仕掛けであるため、それだけの保守・点検が必要なのだと。いやいや、ちがう、ちがう。機械仕掛けで電気仕掛けと同等の性能を発揮させようとしているのだから、それだけ緻密なのだと。だから、細心の配慮が必要なのだと。だから、けなげに動いている機械が愛おしいのだと。

 

 さて、それらを知らない人に、どうやって伝えたらいいのだろうか? 説明する? 聞かれもしないのに? 聞いてくれるといいのにね。 なんで聞いてくれないのかな。 

 

 機械式時計の愛好家は、まずは自分がその良さをわかっていればよいのだ。うんうん。

 

 

ユニタス・ムーブメント

 

 時計の書籍を見ていると、「ユニタス」という言葉をよく見る。これは一般にムーブメントの名前として使われている。ムーブメントには、自社開発製品と汎用製品がある。自社開発製品は、それぞれの時計メーカーが社運をかけて開発し、自社ブランドに恥ずかしくないものに仕上げられている。それに対して、汎用製品は、時計メーカーが、ムーブメントのメーカーから購入して時計に仕上げるためのムーブメントということになる。

 

 ユニタスは、かつて1898年に創業したオーガスト・レイモンド社のムーブメント部門だった。それが1930年代にエボーシュ(30社の独立系時計製造業者が合併した企業集団)に入り、機械式ムーブメントをそれぞれの時計メーカーに供給したという経緯をもっている。そして、1983年以降は、ETA社の傘下となった。

 

 ユニタスが供給したムーブメントの中でも、特に64976798は特に優れたものとして有名で、ETA社が現在まで引き続き製造し、時計メーカーに供給しているムーブメントなのだ。

 

 

ギョームテンプ

 

 100年ほど前の機械式懐中時計では、バイメタル切りテンプが一般的だった。バイメタルとは、真鍮と鋼のように2種類の金属を張り合わせたことを意味している。このバイメタルによってつくられたテンワによって温度補正を行うようにしたテンプに、切れ目をいれたものをバイメタル切りテンプという。

 

 このテンワの鋼の部分に、熱膨張の低いインバーを使ったものをギョームテンプ(ギョームバランスとも)という。これもバイメタル切りテンプの一種ではあるが、精度がより上がった。

 

 その後、ギョームがエリンバーという熱弾性が低い合金を発明することがきっかけとなって、熱弾性が低いうえに弾性に優れているという合金が、他に発明されるようになった。それらがひげゼンマイに使われるようになり、また、バイメタル切りテンプがインバーのみで切り込みのないモノメタルテンプとなると、バイメタル切りテンプはほとんど姿を消した。

 

 

インバー

 

Invariable. Alloy(不変合金)のことで、不変鋼ともいう。常温ではほとんど熱膨張をしない合金のこと。精密機械は、金属の熱膨張が精度に大きな影響を与えるため、それを抑えることが課題だった。1897年に、スイス人シャルル・ギヨームが発明。鉄64%、ニッケル36 %に、マンガンと炭素が微量含まれるため、36Ni-Fe合金とも呼ばれる。

 

インバーよりも熱膨張係数を低く抑えたものに、スーパーインバーというものもある。こちらは、鉄63.5%、ニッケル31.5%、コバルト5%(32Ni-5Co-Fe合金)となり、熱膨張について過酷な環境にさらされる機械の部品等に用いられる。

 

 

ルバロイド

 

 ニッケルシルバーに似たものに、シルバロイドがある。これも誤解を受けやすいようで、銀が含まれているかのように記述されているものを見る。しかし、やはり銀は含まれていない。シルバロイドは銅 54%、ニッケル 45%、マンガン 1%の合金。つまり、亜鉛の代わりに、若干マンガンが入っているということになる。硬度、耐磨耗性に優れ、やはりアメリカにおいて鉄道時計等に使用された。

 

 

ニッケルシルバー

 

 洋白、洋銀、ジャーマンシルバーともいう。誤解を受けやすいようで、HPなどによっては、銀が含まれているかのように記述されているものを見るが、実は銀は含まれていない。銀によく似た銀白色の輝きをもつことからこの名がある。

 

 材料は、真鍮の銅・亜鉛に、ニッケルを加えたものと覚えるとよい。銅が50%を超えるものを特に言うが、それぞれの金属の割合は用途によって様々である。真鍮よりも硬く、強度に優れる。その分、加工は難しくなる。時間が経つと黄金色の酸化膜ができて味わいが出てくる。19世紀半ばからアメリカの時計メーカーは、真鍮に代えて、硬いが酸化しにくい、このニッケルシルバーを使うようになった。そのため、時計のムーブメントは銀色になっている。

 

 

真鍮

 

懐中時計の材料としてニッケルを使用した合金が登場するまでは、この真鍮が主に使われた。黄銅とも呼ばれ、金に似た美しい金色をしており、古代にはつくることが難しかったことから、一説にアトランティスの幻の金属「オリハルコン」と目されているとか。銅と亜鉛の合金で、亜鉛を20%以上含むものを特に真鍮と言う。適度な強度と加工がしやすいことから、金属の部品の材料として使用される。身の回りでは、金色の仏具や金管楽器、現在の5円玉が真鍮製。

 

19世紀のイギリスやフランスの懐中時計のムーブメントの材料として使用されていることは有名。ギルト仕様といって、金を溶かした水銀(アマルガム)を塗り、水銀を蒸発させて金をメッキする方法で、真鍮の上から金メッキを施している。アマルガムを滅金と呼ぶことから、鍍金ともいう。さらに、表面を、梨の表面のようにザラザラした状態に仕上げたので、梨地仕様ともいう。

 

 

鎖引き

 

鍵巻きの懐中時計には、鎖引き(フュージー)という、鎖を用いてぜんまいの動力を伝える機構が備えられている。ぜんまいがほどけるときに変化するトルクを一定に保つ仕組みのことである。「三銘堂」のHPにわかりやすい説明があるので引用してみる。

 

「鎖引きとはとんがり帽子の様な部品(フュジー・円錐均力車)に香箱からの鎖を巻き付けてトルクの変動を緩和させる機構です。

捲き上げ直後の力の強い状態では円錐の上中心近くを、トルクが緩んできた状態では下外側を引っ張ります。」

 

 自転車の変速機を思い起こすとわかりやすい。変速機は円錐型になっており、小さい歯車にチェーンがかかっていると重く、大きい歯車にチェーンがかかっていると軽い、つまり小さな力でも回すことができる。この機構を、時計のぜんまいと鎖で回していると思えばよい。ぜんまいがほどけるときにトルクが減っていくが、フュジーの半径がおおきくなるため必要なトルクも少なくて済んでいく。そのため、時計の動力が一定に保たれるという仕組みということになる。

 

考案された当時は鎖ではなく、猫や羊の腸を紐状にしたガットを使っており、鎖になったのは1664年とされる。簡単で優れた機構だが、厚み必要なことが欠点と言える。イギリスの鍵巻き懐中時には、このフュジーが組み合わされている。

 

 

鍵巻き

 

イギリスの懐中時計には、時計の他に小さな鍵が付いていることが多い。私たちは竜頭巻き式の時計を見慣れているため、この鍵巻きについては注意を要する。それはマニアだけでなく、時計屋も同じらしく、それほどに古く、珍しい機構とも言える。

 

この鍵は、2種類の使い方がある。1つは動力ゼンマイを巻くこと、もう1つは時刻合わせに使うこと、である。たいていは裏蓋を開けると内蓋があって穴が開いている。そこに鍵を差し込んでゼンマイを巻くようになっている。ものによっては、穴が2つあるものがあり、香箱の上あたりにある方がゼンマイ巻き用の穴で、中心にある方は時刻合わせの穴となっている。逆に1つ穴のものは、時刻合わせは表の文字盤側で行う。風防を開けて、針の中央の部分に鍵を差し込んで使う。

 

当然のことながら竜頭巻きの方が便利なのだが、レトロさを楽しむために鍵巻き好むマニアも多い。

 

 

ントは創業者の名前

 

 イギリスと言えば「デント」である。ビッグベンはデントの時計であるし、ダーウィンの研究やリビングストンの冒険にはデントのクロノメーターがお供し、ヴィクトリア女王、ニコライ二世、明治天皇、エリザベス2世はデントの時計を愛用したと言われている。

 

 デントは、1814年にエドワード・ジョン・デントが創業。デントのHPによると、特にクロノメーターの評判が高く、1829年のグリニッジ標準時で第1回プレミアム賞を受賞している。1871年にはグリニッジ天文台の標準天文時計を製造しており、日本帝国天文台の標準天文時計もデントなのだとか。

 

 

鉄道用時計のルーツはイギリス

 

鉄道時計というと、どうしてもアメリカの「レイルロード・アプルーブド」が話題となる。しかし、鉄道用の時計は、元々はイギリスが発祥だ。それは、やはり産業革命や鉄道網の発達と無関係ではない。懐中時計の機構がほぼ完成するのが、イギリスの時計産業全盛の1819世紀前半と重なるのは偶然ではない。

 

では、イギリスの時計メーカーというと、これが困ったものでアメリカやスイスの時計ほどには日本人には馴染みがない。日本の明治期にはすでにアメリカやスイスの時計が入ってきていたことが大きな要因であるが、他にも理由がある。1つは、イギリスはアメリカのメーカーほど大量生産できていなかったこと、そのため、イギリスの時計は当時の日本人にとっては高価だったことなどである。また、当時のイギリスは海洋国家だったこともあり、クロノメーター等、船舶用の時計が盛んに開発され続けたことも無視できない。

 

振り返ってみれば、イギリスの時計は、船舶用(その多くは海軍の兵器)として、あるいは、上流階級の趣味性の強い装飾として発展したため、庶民の手に届くものではなかったのだ。つまり、一部の人たちの所有物にとどまっていたということになるのだろう。ところが、19世紀後半〜20世紀初頭にかけて、鉄道時計はアメリカやスイスのメーカーに、マリンクロノメーターもスイスのユリスナルダンにお株を奪われていってしまうのだった。

 

 

オメガはキャリバーの名前

 

 オメガも高級時計で有名なスイスのメーカーである。現在はスウォッチ・グループの一翼を担っている。鉄道時計に関しては、このオメガは、他の鉄道時計のメーカーとは少し異なる。

 

オメガは、1848年にルイ・ブランによって設立された懐中時計の工房に端を発する。1889年にスイス最大手のメーカーに成長した。1894年には「究極」を意味するキャリバー「オメガ」(Cal.19)を発表した。このキャリバーは、ネットの中では大変優れたものとして絶賛されているが、どこが優れていたのかという説明はほとんどない。他のメーカーのキャリバーについては技術的に優れた点が事細かに書かれているのに対して、完成度の高さを褒めたたえる表現に終始しているのが残念。1903年に「オメガ」という社名を採用するほどの自信だったことは伝わってくる。

 

 また、肝心の鉄道時計についても、『精工舎懐中時計図鑑』にも戦後、1951年(昭和26年)にGHQの要請で大量に緊急輸入したことが載っているのみで、19セイコーが採用されるまでに使われた他のメーカーの鉄道時計とは明らかに異なる。これは、マスターシリーズの1つである「レイルマスター」の発表が1957年(昭和27年)であることも頷ける。もちろん、ロサンゼルス・オリンピック公式時計としての地位やその後のオメガのモデル群を考えると、戦前にも鉄道時計として使用するに足る時計を造っていたことは間違いないとは思うが、残念ながらそれらの資料はネットの中にはほとんどない。

 

 

エルジンも地名

 

 エルジンはウォルサムと並ぶアメリカ最大の時計メーカーで、1864年にJ.C.アダムスらがシカゴ市長らに出資を依頼し、イリノイ州のエルジン市にウォルサムの技術者を招いて創設したナショナル・ウォッチ・カンパニーが発端。1874年にエルジン・ナショナル・ウォッチ・カンパニーと改称した。ちなみに、エルジン市の名前は、スコットランドの讃美歌「エルジンの歌」からだとか。スイス時計に押され、1968年にエルジン・ブランドは消滅した。

 

 鉄道時計としてB.W.レイモンド、ヴェリタス、ファーザータイムが有名で、やはりマニアには垂涎の的となっている。B.W.レイモンドは、出資者になった当時のシカゴ市長の名前。ヴェリタスは、ラテン語で「真理」を意味するローマ神話の女神。ファーザータイムは、長い白髭の翁として描かれる「時の神」のこと。

 

イリノイ州エルジン市にあったイリノイ・ウォッチ・ケースカンパニーというケースメーカーのケースにはエルジンとの刻印があるため、混同に注意したい。

 

 

ウォルサムも地名

 

1850年に3人の時計師エドワード・ハワード、アーロン・デニスン、デーヴィッド・デーヴィスの出資によってマサチューセッツ州ロックスベリーに創業。1851年にアメリカン・ホロロジー・カンパニーとして出発した。ところが、財務の悪化のために何度も経営危機に陥り、会社の名前が何度も変わる。ただ、業務拡大のために1854年、 工場をボストンのウォルサムに移転し、会社名をウォルサム・ウォッチ・カンパニーにした後、再び1906年、1925年、とウォルサム・ウォッチ・カンパニーに戻している。1958年には、一般向けの時計販売から撤退し、ウォルサムの商標は売却されている。

 

エピソードは豊富で、アメリカを代表する時計メーカーらしい。リンカーン大統領も1863年製のエレリーを愛用。鉄道時計としても優れており、アメリカの鉄道会社をはじめ50か国以上で採用されたとか。1897年には、日本でも標準鉄道時計としてクレセント・ストリート(7石)を採用している。ちなみに東京帝国大学の恩賜の銀時計もウォルサムだった。

 

 鉄道時計は、ヴァンガード、リバーサイド、リバーサイド・マキシマが有名であり、今でもマニアには大変な人気のようだ。ウォルサムの時計の名前は、会社の理事会員や投資家、著名人からつけられている。

 

 

ロンジンは土地の通称

 

ロンジンは、かつてスイスを代表する高級時計メーカーだった。1832年にオーギュスト・アガシらによって創業されたアガシ商会に端を発する。ロンジンの名前は、1867年に建てた工場がスイスのサンティエミで、ここの通称が「Es Longines」、<細い野原>と言ったために、これを社名とした。

 

特に、リンドバーグの逸話は有名で、高い技術力でたくさんの賞を受賞している。「セイコーミュージアム」にも、「鉄道時計ものがたり」にも、「レイルロード・アプルーブド」を満たす鉄道時計を製造したことが紹介されている。

 

ところが、このロンジンの鉄道時計について調べようと思っても、良い資料がなかなか出てこない。ネットのなかは、復刻版、しかも1960年代の時計のスーパーコピーとかいうものがたくさん出てくるのだが、肝心の19世紀末から20世紀初頭のものがわからない。かろうじて、2012年発行の『るるぶスイス』に、

「その正確さからスイス鉄道に時計を納めていたこともある。」とあるのを見つけたのみだった。

 

 

ハンプデンも地名

 

 ハンプデンは18771927年に、ほかの鉄道時計メーカーと並んで質の高い懐中時計を製造していた鉄道時計メーカー。1890年までに23石の懐中時計を初めて世に出したメーカーとして記憶されている。レイルウェイ、ニューレイルウェイ、そしてスペシャルレイルウェイというグレードがある。

 

 このハンプデンの歴史はなかなか複雑である。前身は1864年に設立されたモーツァルト時計会社で、創設者はイタリアのドナルド・モーツァルト。1866年にサミュエル・ライスの助力を得てニューヨーク州プロビデンスに移転し、ニューヨーク時計会社と改称した。その後、マサチューセッツ州のスプリングフィールドに移転し、1877年にハンプデン時計会社と改称している。ハンプデンは、このスプリングフィールドのあった郡の名前である。

 

1886年には、時計ケースメーカーのデューバーが反トラスト法対策として1888年にハンプデン時計会社を買収。オハイオ州のキャトンに移転し、デューバー・ハンプデン時計会社となる。1925年にウォルター・ブレットマンに売却したが、ブレットマンが1927年に破産したため、すべての機器をソ連のアムトルグ貿易会社に売却。アムトルグはデューバー・ハンプデン時計の21人の職人も雇い、モスクワ第一時計工場としたという経緯がある。

 

Lost New England」というWEBには、チャールズ・D・ルードが紹介されている。彼はハンプデン時計会社の創設者の一人であり、1924年に83歳で再びハンプデン時計会社の社長に就任したことが紹介されている。興味深いことに、彼は、イリノイ州のオーロラ時計会社とペンシルベニア州のランカスター時計会社を購入し、それらをハミルトン時計会社に統合したとある。このランカスター時計会社はキーストンスタンダード時計のことだろうか。

 

 

イリノイは地名が由来

 

 アメリカの高級時計メーカーの1つにイリノイがある。ただ、このメーカーについての情報は少なく、ネット上では「Cocoon Watch 店長ブログ」と「マサズ パスタイム」が詳しい。「Cocoon Watch 店長ブログ」にはアムンゼンが極地探検に使用したというエピソードや国立海軍天文台が実施した時計の精度テストで11個中10個がイリノイ製だったという紹介が書かれているが、出典や時期が書かれていないのが惜しい。

 

 2つのWEBを総合すると、1869年に、ジョン・C・アダムズが設立した「スプリングフィールド・ウォッチ・カンパニー」が元であり、この会社は1873年に起きた金融パニックで再編されることになったとか。そして、 1885年にジェイコブ・バンのもと、イリノイ・ウォッチ・カンパニーと社名を変えていることが紹介されている。

 

 このイリノイは、エルジンから機械工たちを引き抜き、息子のジェイコブ・バンJr.が引き継いで鉄道員向けの時計に注力し、サンガモ・スペシャルやバン・スペシャル、リンカーンのような、いまとなってはマニア垂涎の高級時計を生産した。ところが、Jrが亡くなると、1927年にハミルトンに買収され、1932年にはイリノイの起源だったスプリングフィールド工場が閉鎖、1939年にはイリノイの名前も消えてしまった。

 

 イリノイはスプリングフィールドのあった州の名前。諸説あるようだがネイティブ・アメリカンのイリノイ族が由来のようだ。ちなみに、サンガモはスプリングフィールドのあった郡の名前で、リンカーンはもちろん大統領のことで、彼はイリノイの州議員だったのだ。バンについては、ジェイコブのバンではなく、ジョン・W・バン(初期の制作者であり、出資者)のバンであることが紹介されている。

 

 

ハワードは創業者の名前が由来

 

 ハワードは19世紀のアメリカを代表する高級時計メーカー。シリ−ズの全てがハイグレ−ド品という。1903年に時計ケースメーカーのキーストンがハワードというブランド名の権利を買収した。しかし、同じハワードでも技術等を継承したわけではなく、名前のみの継承だったので、それ以前をオールド・ハワード、それ以後をキーストン・ハワードと区別する。一般にハワードと言えばオールド・ハワードを指す。札幌の時計台の機械はハワード社製で、1881(明治)14年に設置されたので、オールド・ハワードということになる。

 

 創業者のエドワード・ハワードは、1850年に起業したウォルサムの創業者3人のうちの1人ということで有名。しかし、このウォルサム、1857年に一旦倒産している。ハワードは1857年に自分の時計製造工場であるハワード社を設立し、スワンネック緩急針など特許を取得し、1882年に引退というのが一般的に知られている経歴だ。ただし、ハワードはそれ以前の1842年に創業と紹介しているものもある。

 

 このハワードは、最初の鉄道時計を製作したということが、『鉄道時計ものがたり』でも紹介されており、記憶にとどめておきたい。ただし、キーストン・ハワードも、ウォルサムからムーブメントの供給を受け技術的にはしっかりしており、多くの鉄道時計を手がけている。オークションで出てくるハワードの多くは、このキーストン・ハワードであることに注意を要する。ちなみに、キーストン・ハワードも1927年にハミルトンに買収されている。

 

 

ゼニスは懐中時計用ムーブメントの名前が由来

 

 ゼニスは、現在もスイスブランドを代表する老舗の高級時計メーカー。一時、クォーツ・ショックで経営危機に陥り、クォーツへ傾注したが機械式時計を復活させ、現在に至る。

 

1865年にジョルジュ・ファーヴル=ジャコがル・ロックルに創業。1900年のパリ万博に出品した懐中時計用ムーブメントが金賞を受賞。その名も「ゼニット」(天空の頂点:フランス語)。1911年には、会社名もこのムーブメントにちなんで、「Fabriques des Montres Zenith SA」に変更した。

 

 日本では、昭和2年に、日本国有鉄道が鉄道時計として正式採用した歴史があり、名前はそのまま「ゼニット」と呼んだ。当時の広告も、「時計の王者 ゼニット」などと表示している。戦後、いつの頃からか英語読みの「ゼニス」に変わり、今はもうゼニットとは呼ばなくなっている。

 

 

ハミルトンは人名が由来

 

 現在ハミルトンは軍用時計で有名だが、かつては鉄道時計でも有名だった。設立はあのキプトンの悲劇の1年後の1892年あり、その1年後には他社に先駆けて正確な時計である「ブロードウェイ・リミテッド」を生産開始している。ちなみにハミルトンの最高峰の鉄道時計は「950」というグレードになる。

 

 このハミルトンは、アメリカ・ペンシルベニア州のランカスターが発祥の地である。この地は、独立戦争のときにフィラデルフィアがイギリスに占領されたため、1777年に1日だけアメリカの首都となった所として知られる。この土地の所有者であり、ランカスターを起こしたジェイムズ・ハミルトンが社名の由来となる。

 

ただ、このアメリカのランカスターの名前の方は、初期開発者のジョン・ライトがイギリスのランカスター出身であったことに由来するそうだ。アメリカのランカスター市が市章を赤薔薇にしているのも、薔薇戦争時の中世のイングランドの王朝ランカスター家が赤薔薇だったからという。

 

 

錆びないゼンマイ

 19セイコーで錆びないゼンマイと言えば、DIAFLEXのことだが、採用されたのは昭和32年。その10年前に、錆びないゼンマイがすでに世に出ていた。

 

 1947年(昭和22年)、エルジン社が、新合金「エルジロイ」(Elgiloy)を使った切れないゼンマイ「デュラ・パワー」(Durapower)を発表している。エルジンは、かつてアメリカにあった高級時計メーカーで、天文台を自前でもっていた世界唯一の企業だった。

 

 第二次世界大戦後、兵士たちから、戦場で時計のゼンマイが錆びついてしまったという苦情が寄せられたとか。そこで、エルジンでは、過酷な環境にも耐えられる、時計のゼンマイ用の合金の開発に取り組んだそうだ。それがエルジロイ。発明者は、ハーダー(O.E .Harder)で、コバルト40%、クローム20%、ニッケル15%、鉄16%、そしてモリブデン7%を含んだ合金となっている。

 

 エルジロイがあまりに優れものだったので、腕時計のゼンマイ用としてだけでなく、船舶や航空機のスプリングや制御ワイヤーなどにも使われるようになり、後に「スーパーアロイ(Superalloy)」 と呼ばれる。直訳すれば「超合金」だが、日本ではおもちゃですでに商標登録されていたため、今はそのままスーパーアロイと呼ばれている。もちろん、現在でも、高級時計のゼンマイとして使用されている。

 

 間違えてはいけないのは、合金名はあくまで「エルジロイ」であって、エルジロイからつくったゼンマイのことを「デュラ・パワー」(dbと表示することもある)ということ。

 

 

文字盤の数字

 

 時計の文字盤の数字は、大きく分けて@ローマ数字、Aアラビア数字、の2種類がある。(目盛りのみの文字盤もあるが、これは数字ではない)

 

 ヨーロッパの時計の歴史を見ると、先にローマ数字で時計が作られ、後に、アラビア数字の時計が出てきたようだ。アラビア数字の文字盤がいつから出てきたかはよくわからないが、ブレゲ数字と呼ばれる数字がアラビア数字であることは興味深い。

 

 時計の書籍を見ていると、多くの時計コレクターにはローマ数字の方が好まれているように感じる。それは、きっと見た目はスマートだからだろう。しかし、鉄道時計の基準にこのアラビア数字があることもよく知られていることである。(日本初の標準鉄道時計であるウォルサムのクレセント・ストリート7石はローマ数字だったが…)

 

 アラビア数字の優れている点は「0」(位取り記数法)であると言われている。しかし、時計に関して言えば、アラビア数字は万国共通であり、1つ1つの数字がはっきり異なっているので見間違いが少ないということだろう。確かに、ローマ数字は、時計の向きや見方によっては勘違いが起きやすいように思うし、読み取りにも時間がかかるような気がする。ましてや、目盛りのみの文字盤ならなおさらである。

 

では、アラビア数字の書体がすべての鉄道時計に共通しているかというと、そうでもない。時計メーカーによって特徴のある書体になっているし、同じメーカーでも、グレードや時代によって書体が異なっている。19セイコーでいうなら、戦前はほぼ直立の数字の書体(例外はあるし、同じ直立数字でも大きさや形が微妙に異なる)であり、戦後はほぼブレゲ数字(もちろん例外がある)になっている。

 

私は個人的には戦前の直立数字の書体が、上品で、大きく見やすいと感じるので、こちらの方が好みであるが、このあたりの好みは、きっとコレクターによってそれぞれなのではないか。

 

 

時刻の表示 o'clock

 

 中学校の英語の復習である。「今、7時です。」は、It's seven o'clock now.と書く。私の周りでは、このo'clock の意味を教えてもらったという人は少ない。このo'clock、アポストロフィがついているので、何かが省略されていることは明らかである。

 

 では、正しくはどうかくのだろう。

 

実は、of the clock だそうだ。つまり、「今、7時です」は、正しくは、It's seven of the clock now. となる。つまり、「clockでは、7時を指している」という意味になるだろう。これは、watch が登場した後も、ずっと変わらずclock が使われてきたことになる。

 

これについては、きっと英語の専門家、あるいは、時計の専門家がどこかで解き明かしているのだろう。推測するに、修道院や都市が clock を中心に動いていたころの権威、あるいは、当時、正確さについて、watchに比べて信頼の高かった clock の権威といったところだろうか。

 

だからこそ、It's seven o'clock now by my watch. などという回りくどい表現まで覚えさせられたのではないだろうか。

 

 

watch と clock

 

セイコーミュージアムを見ると、時計は、修道院の塔にしつらえた時計のことを指したようだ。錘を動力としたため、できるだけ高い位置にと設置されたのだ。この時計の役割は、修道士に決まった時刻を「鐘」で知らせることが目的とか。そこで、ラテン語の「Clocca」(鐘)が転じてclockとなったと紹介されている。そのため、ヨーロッパでは、定時法と相俟って、鐘を鳴らす機械時計が発達したというわけだ。

 

では、watchの語源は何なのか。

 

これについて、明確に答えているものを探すことはできていない。しかし、いくつか示唆するものがあるのも事実。

 

 watchをGoogleで翻訳してみると、確かに「時計」と出てくる。しかし、他7件の翻訳もあることがわかる。名詞のところを見ると、「衛兵」とある。また、動詞のところには「見張る」という意味もあることがわかる。

 

 日本大百科全書を見ると、「旧日本陸軍で衛兵といえば通常内務衛兵をさし、(略) 内務衛兵は司令、衛舎掛、歩哨掛、歩哨、らっぱ手より編成」とある。ヨーロッパでもだいたい同じと考えるられる。つまり、任務を果たす場所にclockはないが、正確な時刻に、見張など割り当てられた仕事をこなさなければならない兵隊ということだ。

 

 では、彼らは何を見て時刻を確認していたのだろうか。それは間違いなく時計だったはずだ。

 

推測するに、それが携帯できる時計、転じてwatchだったのではないか。

 

 

鎖(チェーン)・組紐(くみひも)で固定すること

 

 どちらでも構わないのだが、これは懐中時計の必需品である。

 

 私はすでに2度、懐中時計を落として壊している。どちらもチェーンをつけていたのに、である。理由は、ズボンの所定の位置に、しっかりと固定していなかったためである。

 

 懐中時計は衝撃に弱い。特にアンティーク時計は注意しなければならない。ムーブメント関係では、「天芯」が折れやすく、ここが折れるとテンプが動かなくなる。これが一番痛い。しかし、他の部分でも、文字盤が瀬戸・ポーセリンだったりすると、ヘアーラインが入ったり、クラックが入ったりする。これも見た目が悪くなり、時計の価値を大きく落としてしまう。

 

 個人的にはチェーン派だが、時計にキズが入りやすいと指摘する人もいる。気になるなら、時計の専用のカバーを併用するか、組紐にするとよい。小さな巾着袋も意外と便利であると紹介しておきたい。

 

 

テンポとリズム

 

 機械式懐中時計の特徴に「音」があるのは述べた。しかし、機械式懐中時計の音は、単なる音ではないのではないか。

 

 たとえば、メトロノームは周知のとおり「テンポ」を刻む機械である。テンポとは音楽における速さのことであり、それは単に機械的な速さを指している。

 

 しかし、メトロノームのテンポを速くしたり、遅くしたりすると、妙に心地よい速さがある。逆に、速すぎたり、遅すぎたりして落ち着かない速さがあるのも事実だ。そして、それは単に速い遅いだけのことにとどまらず、メトロノームの2拍子というリズムと相俟って心地よさや落ち着かなさを現しているように思える。

 

 機械式時計の「音」も2拍子である。そして、19セイコーの速さは2.5ヘルツ。これがリズムとして心地よいのではないだろうか。後継機の17石や21石は3ヘルツ。こちらを心地いいという人もいるに違いない。クォーツになると機械音はわからないので、針の動きということになるのだろう。すると、拍子はないと感じるか、自分で心地のよい拍子をとることになる。逆に、自分のリズムと合わないと、それは落ち着かないリズムということになるのではないか。

 

 懐中時計の音のリズムとテンポは、自分に合ったものを選ぶ大切な要因の1つなのではないだろうか。

 

 

新幹線の運転士が大事と言ったもの

 

ナレーション

「まず一番にするのは、懐中時計を1秒のズレもなくあわせること。」

備え付けの時計に持っている懐中時計の時刻をあわせている。

 

運転士

「時計をきっちり合わせないと、秒単位まできっちりつけないと。いや、これはなくてはならないものです。

絶対必要なものです。もし万が一手が滑っても落ちないように、ここの穴に通せと、 先輩にきつく言わ 

れた。それぐらい大事なものです。」

 

ナレーション

「3分前にはホームの立ち位置につかなければならない」

「乗り込んだらすぐ、大事な懐中時計を運転台にセット。」

 

「間もなく終点の岡山。到着予定時刻は131715秒だが、

 おしい、2秒早かった。(懐中時計が131713秒をさす)」

 

運転士

23秒ぐらい早かった。23秒ぐらいはというのは、許しください」

 

とあるTV番組で紹介された場面。秒単位で運行する新幹線の運転士が、鉄道時計を大切にしていることが伝わってきた。懐中時計はもちろんクォーツであったが、時代の最先端で懐中時計が使われているのだ。そしてその誤差は数秒というのだから大変だ。

 

懐中時計の呼称

 

HPSEIKOミュージアム』に、次のような記述があるのを見つけました。

 

<初期の携帯時計は大きすぎてポケットに入れることができず、クサリをつけて、首から胸のあたりに 

ぶら下げて使用しており、ドイツでは「首時計」、イタリアやフランスでは「胸時計」と呼ばれていまし

た。>

 

有名な「ニュールンベルクの卵」も、重さが約5kgといいますから、確かにポケットには入りませんね。ネットのなかには、懐中時計を首からさげている女性の写真を掲載している時計店のHPを見かけることがありますが、あの時計がもっと大きかったら…。

 

でも、昔はこうしていたんだと思うと、何やら面白く感じます。ましてや、当時の時計は高価だったはずですので、貴族や王侯がしていたと思うと、なおさらです。

 

 

高級鉄道時計で評価の高いアメリカは、なぜ日本の鉄道運行より正確でないのか

 

  鉄道時計を知って、すぐに思いつく疑問がこれだ。 アンティーク懐中時計に関する掲示板を見ると、アメリカの鉄道時計は絶賛されている。確かに、ハミルトンやウォルサム、イリノイなどは確かに素晴らしいのだろう。

 

ところが、なぜか、書籍やHPを見ると、日本の鉄道運行は世界一正確とある。おかしくないか。

 

確かに、日本の鉄道運行が元々正確だったわけではないことは周知のとおりである。そのころのアメリカやイギリスの鉄道運行はそのころの日本に比べれば、きっと正確だったのだろう。しかし、そうなると、さらに、2つの疑問が湧いてくる。

 

@アメリカやイギリスの鉄道運行は、衰退とまではいかないまでも、20世紀初頭のレベルから進歩していないということか?

A19セイコーは、初期とはいえ新幹線の運行を可能にしたところを見ると、それまでの鉄道運行に十分使用できた。

 

  となると、20世紀初頭のアメリカの鉄道時計は、オーバースペックなのではないか。

 

つまり、アメリカの鉄道時計は、実際の鉄道運行に見合う正確さ、豪華さを大きく逸脱しているののではないのだろうか? という疑問がわくわけである。確かに、金無垢や金張りなどの鉄道時計が盛んにつくられ、美術品と呼ぶにふさわしいにちがいない。現在の日本におけるアメリカの鉄道時計の評価の高さは、一体、何に向けられた高さなのだろうか。 

 

パテック・フィリップ「キャリパー89

日本経済新聞の「NIKKEI THE STYLE」に、パテップ・フィリップのニューヨークで開催された展覧会の様子が掲載されています。紹介されている時計は、とても庶民の手の届くようなものではありませんが、世界の最高峰と言われる時計を知ることはできます。

 

そのなかに、「キャリパー89」というパテック・フィリップの150周年を記念して製作された懐中時計もありました。

 

紙面には1モデルしか載っていませんでしたが、実は4モデル存在するそうです。直径9cm、厚さ4cm、重さ1.1kgで、33の複雑機構。9人の時計技師が9年かかったのだそうですから、その力の入れようがわかるというものです。

 

こうなると、実用というよりも、製作の限界に挑戦!という趣旨のようです。一種の芸術品なのでしょうね。

 

 

懐中時計の使い方

ネットで懐中時計の使い方を検索すると、懐中時計の簡単な解説と、種類、扱い方、発条の巻き方、身に着け方などで完結しているHPをよく見る。確かに、こういうことを知りたいと思っている人も少なからずいることはわかる。しかし、これは、総じて「扱い方」「取り扱い方」と言った方が近い。

 

懐中時計は「時計」であるので、時計として使うのはもちろんである。では、時計として、どんなシーンで使うことができるのだろうか。第1は普段使いだろう。そして、第2に普段使いする時計の補助として使うのも、ごく普通の使い方ということになると思う。他はどうだろうか。

 

特定の場所に置いて時間をみる                                   …これも本来の使い方

自己満足の範囲で、眺める。                          …結構楽しい

部屋などを飾るオブジェとして、来客に何気なく見てもらう。       …人によっては話題づくりになる

懐中時計を知る実物の資料とする。                      …意外と知らないことが多い

時計の仕組みを理解するための資料とする。                …リアルにわかる

分解したり、組み立てたりする実物とする。                  …見るだけじゃね

特定の種類の懐中時計を研究する実物の資料とする。          …本やネットだけじゃね

時計メーカーについて知るための資料とする。               …時計の素性がわかる

時計の歴史を知るための資料とする。                    …人類の英知の積み重ねがわかる

歴史などを研究するための資料とする。                   …時計から見た歴史

コレクションする。                                 …集めてわかることもある

写真撮影やイラストの対象とする。                       …魅力を伝える

贈り物にする。                                   …気に入ってくれるといいね

自分の誕生年と同じ年の刻印のある時計を愛用する。          …愛着

自分の覚えておきたい年に購入(刻印)し、記念とする。         …思い出

ステイタスシンボル                                …自己満足

コミュニケーションの小道具                           …友達ができるかも

故障を修理する                                  …生き返る

 

他にもきっとあるのでは?

 

 

機械式の懐中時計はお得

一口に趣味は「時計」といっても、様々な時計があります。

 

そのなかでも、現在の主流は何といっても「機械式時計」です。なぜかという話は周知のことと思いますので、敢えて触れません。ただ、議論の分かれるところではあると思いますが、機械式時計は、時計自体が最新のものであっても、そこには懐古趣味が働いている、と私は思います。

 

そして、機械式時計と言っても、腕時計と懐中時計があります。どちらがメジャーかと言えば、断然、腕時計でしょう。本屋の雑誌コーナーに行くと、腕時計の雑誌はあっても懐中時計の雑誌は皆無です。懐中時計はそれだけマニアの層が薄く、人気がない、と言えます。

 

しかし、そこは、懐中時計であっても機械式時計です。機械を楽しむのであれば、懐中時計でも十分です。

 

しかも、人気が今一つだからこそ、背負ってきた歴史が大きいので、時計そのものはたくさんあります。となれば、値段が安く済むのは道理でしょう。文字通り、桁が違ってきます。

 

機械式時計は奥が深いので、行きつく先は腕時計だったり、独立時計師の複雑時計だったりするのかもしれませんが、入門としては、懐中時計が適していると私は思います。

 

注意することは、人気がないということはマニアが少ないということですので、身近なところに仲間を期待するのは難しいかもしれないということです。でも、心配は無用です。そんなとき威力を発揮するのは、やはりネットです。世の中には、コアなマニアがいるもんだと感心するぐらいです。

 

 

懐中時計は時間がまったり流れるって、ホント?

懐中時計に関するHPのなかに、懐中時計だと時間がまったり流れる…、なんて紹介しているものがあります。

 

言いたいことはわかります。それぐらいの心持ちの人が懐中時計に向いていますよ、あるいは、そんな生活にあこがれる人に懐中時計をすすめますよ、ということなのでしょう。

 

でも、ちょっと待ってください。なにか、違和感を感じてしまうのです。

 

ノスタルジーに訴えてアピールしているのでしょうが、懐中時計も、腕時計も、ましてや、機械式時計も、クォーツ時計も、時間は同じですよ。懐中時計だけが、なぜまったり時間が流れると言うのでしょうか。それは、懐中時計という形が古いから? それとも、懐中時計の機械式は正確じゃないから? 正確じゃなければ、それほど時間を気にしなくてもいいんじゃない? ということなのでしょうか。

 

それは、懐中時計に対して、何か誤解を植え付けてしまいそうで、ちょっと怖い。

 

懐中時計でも、ふだんの生活では気にならないぐらい正確な時計がけっこうあります。いや、むしろ、それが普通の懐中時計ですよ。機械式の懐中時計でも、クォーツほどではなくても、ちゃんと使えるレベルなんです。鉄道時計なら、なおさらね。

 

 

懐中時計の実用性

懐中時計は、正確性においてはクォーツ時計や電波時計、スマホ(携帯)にはかなわない。しかし、全く使い物にならないかというと、実はそうでもない。

 

普段使っている腕時計などが故障や電池切れで動かなくなってしまった場合、その代わりの時計が何もない状態では大変不安だ。もりろん、現代では時計はあちこちにあるので、その気になれば、それらの時計を見たり、周りの人に聞いたりするのも可能だ。

 

しかし、実際問題として、ある程度の時刻がわかればよいということは、ままある。そんなとき、この懐中時計は使える。懐中時計を見ているところを、周りの人に「どうしたの?」と聞かれても、「腕時計がね…」と言えば、だれも不思議がることはなく、むしろ、懐中時計が良い意味でその場の話題になる可能性が大きい。

 

特に、19セイコーは鉄道時計だったということもあり、その正確さは意外と頼りになる。日常生活において必要な正確さは十分に備えているのだ。そういった意味で、普段使いの時計の「代用」として使うのは、「あり!」 だ。

 

…もちろん、正確さは個体差がある、というのも、懐中時計の弱点と言えば弱点なのだが…。

 

 

懐中時計を、月並みなファッションで語るのは無理

ネットのなかで、懐中時計をファッションの道具として紹介しているものをよく見かける。しかし、懐中時計をファッションとして語るのはいかがなものかと思う。

 

下にも書いたが、懐中時計の「懐中」は、現代では、携帯「できる」という消極的な意味でとらえた方が無理がなく、ポケットなどから出して時間を見ようものなら、きっと変人扱いされるか、妙にこだわりのある人と決めつけられかねない。懐中時計が中二病のアイテムとして挙げられるのにはそれなりに理由があるのだ。

 

ましてや、その懐中時計が年齢や社会的地位と乖離していようものなら、まず間違いなくレッテルを貼られることになるだろう。

 

子どもがアンティーク時計など持っているのは不釣り合いだし、きっと激しく動作するにちながいない生活スタイルで故障させてしまうだろうし、いい大人が廉価な懐中時計をもっていたらそれこそ残念に見られるにちがいない。ましてやアニメの記念時計などとなったらもう救いようがない。

 

社会人として恥ずかしくない携帯する時計は、やはり腕時計であり、スマホ(携帯)などだ。懐中時計を普段使いするには、それなりの心遣いをしないといけない。

 

どういったシーンで懐中時計を使うとよいのか、その使い方はどのようにするとよいのか。このネット社会でも不自然さのない、便利な使い方を検討したり、議論したりできるとうれしい。

 

 

懐中時計の便利さ

懐中時計は、一般に過去の遺物ととらえられがちだし、実際、普段の生活でほかの人が使っているところをほとんど見ないことが証明している。それは、腕時計に比べて持ち運びに不便だし、フィット感は腕時計に全くかなわないからだよね。

 

じゃあ、腕時計を腕からはずして、机の上にのせて使うとなったらどうだろう。ベルトがじゃまで安定しないし、文字盤が小さくて、案外見づらいのじゃないだろうか。

 

腕から外さないで何回も見るというのも、実は腕を上げたり、袖を引き上げたりと、これも案外面倒くさいよね。

 

そういったときに便利なのが、懐中時計なわけだ。確かに持ち運びするには気を使うし、フィット感はないけれど、机の上に置いて使うにはけっこう便利だったりする。ベルトがないから安定しているし、何より文字盤が大きければ見やすい。専用の時計台があれば、なおさら安定度は増して、見る角度もぐっとよくなる。

 

時計を使う場所に運んで、そこに置いて時間を何回も確認するという使い方なら、実は腕時計よりも懐中時計の方が、ずっと使いやすいことがわかる。

 

映画やアニメみたいに、チェーンをジャラジャラと出して、懐中時計の蓋を開けて時間を見る、というのは、かっこうがいいかもしれないけれど、現実的じゃないし、使いづらいじゃないか。懐中時計の使い方としては、昔はこれでよかったのだろうけど、それは腕時計にはかなわないよね。鉄道員が運転席に鉄道時計を置いて使うというのが、実はオーソドックスで、便利な使い方だったわけだ。

 

となると、特に今は、「懐中」という言葉の解釈を変えた方がいいのではないだろうか。懐中は、常に懐中に入れておくというのではなく、今は、目的地に運ぶまで、懐中に収めておく、という意味で、懐中時計ととらえると、懐中時計の良さがひきたつのではないだろうか。

 

 

懐中とは

懐中とは懐(ふところ)の中ということ。では、懐とは、ウィキペディアによると、@「衣服の胸の辺りの内側の部分である。」 A「仮に何も身につけていなくとも、前に出した両腕と胸とで囲まれる空間も、懐と呼ばれる。」とある。懐中の懐がどちらかとなると、Aでは懐「中」にならない。@がふさわしいことになる。他の辞書を確認すると、この衣服を「和服」としているものもある。

 

つまり、懐中という表現自体が、着物の時代にルーツをもつことになる。簡単に言えば、着物の胸の内側をいうのだろう。懐中時計は、文字通りの解釈なら着物の胸に入れる時計ということになる。

 

しかし、英語では、ポケットウォッチ(pocket watch)と言い、文字通りポケットに収めて携帯できる時計ということになる。そもそも機械式時計は西洋での歴史が長く、watchとclockがある。日本時計協会によると、ウオッチ(どんな姿勢でも作動し、かつ携帯することを目的とした時計)とクロック(一定の姿勢で使用する時計)という定義をしている。

 

ということは、watchには、もともと「携帯できる」という意味があったことになる。つまり、poketは後付けの語句になるのではないかと推測ができる。また、最近よくみるポータブル(portable)が「携帯できる」という語句であるので、ポケットはあくまで携帯するための代表的な場所を表しているととることができる。

 

後に腕時計が誕生すると、むしろ、腕時計=watchとなり、懐中時計を単なるwatchにできず、区別する必要が出てきたはずだ。そこで付けらえたのがpocketという語句であり、pocet watchになったのではないだろうか。

 

この考えが正しいなら、「懐中」にもどると、英語が伝えられた頃には、まだ腕時計がなかったので、最初はwatch=懐中時計ではあっても、「懐中時計」と呼んでいたとは考えにくい。そのころは単に時計とか、watchと呼んでいたのではないだろうか。そこへ、腕時計=watchという実物と言葉が一緒に入ってきたときに、それまで使っていた時計 watchを、pocket watchに倣って、腕時計と区別する必要が出てきたのではないだろうか。

 

ただ、和服にはポケットはないので、英語から推測するに、「懐中」は携帯するための、あくまで代表的な場所を示した訳語であるとするなら、和服の懐に固定されるわけではなく、「携帯できる時計」という意味になるのではないだろうか。

 

となると、懐中時計はいつも携帯している時計というよりも、やはり、「携帯できる」時計というとらえ方の方が、より実態に合っているのではないかと思うが、どうだろうか。