時刻よし!19セイコー

戦中・終戦直後という時代                   →「時刻よし!」19セイコー

 

外地仕様の19セイコーで注意すること

 

外地仕様の個体は、満州や中国大陸などで使用されることが多かった。その変わり種として、HP『今宵もジュークセイコーの夢をみる!』に興味深い個体が紹介されている。文字盤はこの外地仕様なのだが、ムーブメントがCCCP製(ソ連製)というものだ。

 

外地だけに、精工舎の純正の部品が届かなかったり、整備できる時計職人がいなかったり、設備がなかったりすることもあっただろう。そんな環境のなかでつくられたのが、この個体、ガッチャだったのだろう。文字盤がこの19セイコーの外地仕様であっても、中身が違う恐れがあるということだ。よって、やはり、19セイコーを入手するときには、ムーブメントの確認が必要だ。

 

 

これらの外地の鉄道が使っていた時計は?

 

浅学ながら私が見たことがある19セイコーは、満鉄、華北、華中、鮮鉄、朝鉄だ。そして、恐らくありそうだと思われるのが、規模や管轄から勘案して、台湾、樺太だろう。しかし、サイパン、テニアン、ロタ、スマトラ、ジャワ、は、規模やその歴史の浅さ、管轄などから19セイコーを使っていないのではないかと思われる。もし、台湾以下の19セイコーが出てきたら、それらは全くレアというほかない。

 

 

ジャワの鉄道

 

スマトラ鉄道と同じく、オランダの降伏に乗じて日本が制圧。それまでオランダ植民地政庁が敷設した鉄道全てを、日本軍の下、鉄道局が管理することとなった。そのなかで、サクティ−バヤ間の路線が整備され、バヤ炭鉱から石炭が搬出されたとのこと。

 

以前からマンドゥル山で石炭が産出することは知られていたことになっているが、その規模は小さく、地元で消費される程度だった。しかも、その品質も良くなかったということだが、日本はこの89kmにもおよぶ路線を整備した。その間、20か所の橋、9か所の駅があったという。他にもマウロ−パカンバル間の路線もあったようだが、完成が遅かったためにこちらは使われることはなかった。

 

 

スマトラ鉄道

 

 インドネシアには宗主国であったオランダがすでに鉄道を敷いていた。しかし、本国オランダがドイツに降伏すると、日本軍が19423月に制圧。陸軍第25軍のもと鉄道省の技師が鉄道建設の調査に入っている。

 

 この鉄道に関しては謎が多く、軌道すら定説はなく、その敷設の目的もはっきりしていない。推測では、マレーの製鉄所へスマトラ島の粘結炭を輸送することが目的だったのではないかと言われている。

 

 スマトラは日本本土から遠く、資材もままならなかったらしく、線路も引きはがしたものを使用したり、機関車も使えるものは何でも使用したりした跡がある。証言によれば、現地のものを使用したのはもちろん、ジャワ島の鉄道工場からも分解されて持ち込まれたもの寄せ集めだったようだ。

 

 

華中鉄道

 

日中戦争は、729日に通州事件、89日に大山事件が発生し、812日には中国軍が日本海軍陸戦隊へ攻撃を開始。第二次上海事変が勃発して、日中が全面戦争に突入した。このときローマ法王は日本を擁護したが、米ソは日本を非難。12月には南京が陥落。

 

これら戦闘のなかで、中国側は車両や鉄橋、レールなどの施設を破壊。そのため日本は、1939年に中華民国維新政府と南京国民政府との合弁特殊法人としての華中鐡道股份有限公司を設立(本社は上海)した。日本軍は派遣された国鉄(鉄道省)職員たちとともにレールや施設を復旧し、日本本土から蒸気機関車や客車、貨車を持ち込み、狭軌から標準軌に改軌して使用した。

 

 ネットには、「華中鉄道の新両列車」なる動画がアップされている。農村を巡って住民に診療を行っていると紹介しているのが興味深い。

 

 

華北交通

 

1937年に日中戦争が勃発すると、満鉄が日本軍の勢力下に派遣され、鉄道の管理、運営を行った。華北における事務局は天津に置かれた。しかし、1938年には日中合弁会社として華北交通が発足。事業は満鉄から華北交通に引き継がれた。

 

華北交通は戦時であり、ゲリラの工作に悩まされながらも営業距離を延ばし、貨物輸送も拡大した。この間、急行列車である「大陸」「興亜」が北京-釜山間で運行された。関連会社として自動車部門の「華北汽車公司」が設立され、バス・トラックが運用された。また、水運部門もあり、済南・天津付近で汽船やジャンク船が運用された。

 

 

日中戦争の前哨戦 済南事件

 

中国の北伐軍が北上し山東省に接近したのを警戒して、日本は第2次山東出兵を行い、済南に陣を構えた。そこに北伐軍による日本人虐殺事件である済南事件が発生。日本は第3次山東出兵を行い、済南城を陥落させて済南全域を占領した。この済南事件の写真が、731部隊の人体実験として中国によってプロパガンダに利用され、それをテレビ朝日がそのまま誤用したことは記憶に新しい。

 

日本の世論は暴支膺懲に傾くも、中国では反日機運が一層高まるという皮肉な状況を生み、北伐軍は北京に入城して中国統一を果たして欧米から歓迎されたのだった。

 

 

58 山東半島の鉄道

 

意外と知られていないのが、中国の山東半島の鉄道である。山東とは太行山脈の東という意味で、遼東半島の南に位置する。東洋艦隊の母港として目をつけていたドイツが、宣教師殺害事件を口実に1989年に占領。99年間の租借権を獲得する。青島市はこのときにドイツが建設した港湾都市であり、1901年には済南市へとつなぐ鉄道(膠済線)を山東鉄道公司が開通させている。

 

これに先立つ1898年にイギリスとドイツの資本家が、天津から鎮江(南京市の隣)まで鉄道を敷く計画を決め、1908年に天津から浦口区(南京市)に変更し着工。1912年に津浦(シンポ)線として完成した。済南駅はその中継駅となったため、交通の要所としてその重みを増すこととなった。

 

日本は第一次世界大戦で1914年に山東半島を攻め、膠済線を占領。山東半島の権益については、21か条の要求の第5号として日本が継承することを要求。1919年のヴェルサイユ条約で一旦認められたが、五四運動にも押されて中国が調印しなかった。ワシントン会議では再び協議され1922年に日本の放棄が決定され軍は撤退した。ただ、膠済線は日本の借款鉄道とされ、沿線の鉱山は日中合弁会社に移譲された。

 

 

57 サイパン・テニアン・ロタの鉄道

 

 現在、いずれの島にも鉄道はないが、日本の統治時代には鉄道があった。第一次世界大戦でドイツが敗れた後、国際連盟・委任統治領となった。実質、日本が統治することとなり、南洋興発株式会社が進出し、製糖業を開始した。南洋興発株式会社は「海の満鉄」と称され、南洋諸島の統治に力をふるった

 

 その際、サトウキビ畑と製糖工場を結ぶ軽便鉄道を敷設し、薪を燃料とする蒸気機関車でサトウキビや物資を運んだという。客車も引っ張っていたようだが、無蓋だったらしい。

 

 どの島も海岸のそばに工場が建てられ、海岸線に沿って軌道が敷設された。社宅街はその背後に構える構造がとられたようだ。

 

 

56 樺太の鉄道

 

 樺太の鉄道は、日露戦争直後の1906年に開通した。ポーツマス条約によって北緯50度以南が日本領となり、軍需物資の輸送が必要となって軍用鉄道を敷くことになった。軌間は600mmで、大泊(コルサコフ)−豊原(ウラジミロフカ)の43.3kmで営業が開始された。冬にはマイナス10度を下回る極寒のなかを、無蓋の車両がジョギング程度の速度で走ったという。

 

 1907年には樺太庁が発足。鉄道も軍部から樺太庁の交通課に移され、1910年には軌間を内地と同じ1067mmに直され、1923年には稚泊連絡船が通った。

 

 1943年には樺太が内地に編入され、鉄道省に移管。樺太鉄道局が設けられた。終戦の年1945年にはソ連軍が侵攻し、鉄道も接収されてしまう。

 

 

55 朝鮮の鉄道2

 

 朝鮮総督府の鉄道とは別に、朝鮮には私鉄があった。1923年(大正12年)91日、それまで別々に営業していた、朝鮮中央鉄道、南朝鮮鉄道、西鮮殖産鉄道、朝鮮森林鉄道、朝鮮産業鉄道、両江拓林鉄道の6社が合併して発足した。名前を朝鮮鉄道株式会社(朝鉄)という。

 

 本社は京城で現在のソウル。資本金は5450万円。免許線は、京畿、全北、平北、平南、江原の五道を除く他の八道内で、当時の日本の私鉄のなかで最大の営業線を有した。

 

 元々は南朝鮮鉄道、西鮮殖産鉄道、朝鮮森林鉄道、朝鮮産業鉄道、両江拓林鉄道の5社で無条件合同のはずだったが、総督府の指定により、朝鮮中央鉄道を存続させ、これに他の5社を合併する形をとった。

 

 

54 朝鮮の鉄道1

 

朝鮮初の路線は、現在、京仁線と呼ばれる区間である。ソウル(京城府)と仁川を結ぶもので、日本の提案で李氏朝鮮時代に計画されたものだった。

 

当初、日本からの借款で建設するはずだったが、18963月にアメリカのモールスに売却。日本は抗議するも受け入れられず、モールスはアメリカで出資者を募る。しかし、資金難に陥り、結局日本に売却。渋沢栄一が社長となった京仁鉄道合資会社が、1899年に一部開通にこぎつけ、1900年に全線開通させるも、1903年には京釜鉄道(私鉄)へ吸収された。

 

1906年に、統監府鉄道管理局が買収。1909年には日本国内の鉄道院に移管し、韓国鉄道管理局が引き継ぐ。1910年に韓国併合が行われると、朝鮮総督府が設置され、朝鮮総督府内に鉄道局が置かれる(鮮鉄)。1911年には鴨緑江橋梁が架けられると南満州鉄道と接続した。

 

 

53 台湾の鉄道2

 

  臨時台湾鉄道隊から台湾総督府民政府通信局臨時鉄道掛へ引き継がれていた間、台湾縦貫鉄道の建設が民間鉄道によって画策されたが、進展はしなかった。理由は、難工事であることと鉄道と一体化して開発する港湾の整備は小資本では無理と結論づけた。

 

 そのため、1899年に正式に台湾総督府に直属の鉄道部を組織。総督府が本格的に鉄道経営の基礎を固め、縦貫鉄道に直接乗り出すこととした。公債を発行し、国有化を行い、1908年、ついに基隆から高雄までの404.2kmが全通した。

 

 このとき台湾の東部の鉄道路線の調査も開始。花蓮から玉里(璞石閣)まで軽便鉄道が敷設され、1919年に完成。それ以南は民間によって進められるが、その企業を結局、台湾総督府が接収して花蓮から台東までの171.8kmの台東鉄道が1926年に完成する。

 

 

52 台湾の鉄道1

 

 台湾の鉄道は、清朝政府が始めた。清の軍人だった劉銘伝が台湾巡撫(地方長官・皇帝直属)として赴任し、設立した全台鉄路商務総局鉄道が創業。基隆から台北、台北から新竹、の2つの路線があった。

 

 1895年に日清戦争に日本が勝利すると台湾は日本に割譲され、臨時台湾鉄道隊(陸軍省と逓信省の混成)が編成されて軍用鉄道として運用された。その後、1896年には一般人にも使用が認められたが、この臨時台湾鉄道隊は1897331日をもって活動を停止。台湾総督府民政府通信局臨時鉄道掛に引き継がれた。

 

 

51 吉野信太郎(よしの のぶたろう)

 

満鉄の技術者として有名なのが「あじあ」号をはじめ十数種の機関車を設計した吉野信太郎だ。「あじあ」号の社議決定が昭和8823日、運転開始が昭和9111日だったことから、機関車パシナ(パシフィックの7番目)に決定してから設計図完成までわずか3か月余だったという。

 

吉野は大正7年に旅順工科大学堂を卒業し、アメリカのアメリカン・ロコモティブ社で機関車の設計や製造について学んで満鉄でも設計の経験を積んでいた。そして、彼が機関車係主任をしていた満鉄鉄道部工作課があじあ号の設計を任され、自前で製造したのだった。アメリカの記者団はそうとは知らず、日本人がこれほどの機関車を製造できるはずがないと思い、どこから購入したのか尋ねたという。

 

 

㊿ 満鉄の鉄道工場

 

満州における鉄道車両はアメリカ製や日本製のものが多く、満鉄の鉄道工場は当初は整備や修理を行っていた。しかし、設備が整ってくると、大連工場(遼陽工作分工場を併合)や沙河口工場で車両を製造し始めた。

 

1914年の貨物列車用の機関車(6両)を始め、客車や貨車も製造。満州事変後には特急列車パシナ型機関車を1934年から製造。他にも装甲車両、保温車、冷蔵車、通風車などの特殊車両も製造したようだ。

                                           『満鉄における鉄道業の展開』(林采成)

 

 

㊾ 満州飛行機製造株式会社

 

あまり知られていないようだが、満州重工業開発株式の傘下には飛行機を製造・修理した「満州飛行機製造株式会社」があった。設立は昭和13年(1938年)であり、満州重工業と中島飛行機の支部だった。主工場は当初ハルビンに置いていたが、太平洋戦争が始まると米軍の空襲があり、もっと内陸の白城市に疎開し、終戦を迎えている。

 

この会社は2196機の機体と2168基のエンジンを製造している。そのなかには一式戦闘機(隼)、二式単座戦闘機(鍾馗)、四式戦闘機(疾風)が含まれていた。ただし、中島飛行機のものだけでなく、川崎航空機・三菱重工業・立川飛行機の飛行機も製造しており、独自設計のものもあったようだ。

 

 

㊽ 日産自動車

 

 戦前の自動車メーカーとして挙げなければならないものの1つが日産だ。1933年(昭和8年)に鮎川義介によって設立され、翌年、日産自動車株式会社となる。

 

 1937年(昭和12年)に、鮎川が、経営破綻に瀕していた日本産業を譲り受け、満州国に満州重工業開発株式会社を設立。初代総裁に就任する。持ち株会社として日産コンツェルンを形成し、満州全土の鉱工業を統制の確立を目指す。傘下には、現JXTGホールディングス、日立製作所、日産自動車などがあった。

 

 1945年(昭和20年)、日本の敗戦とともに満州国も崩壊。満州重工業株式会社は事業を停止したが、日産自動車は戦中、1944年(昭和19年)に東京に本社を移転し、日産重工業株式会社として活動していたため、戦後すぐに生産を再開している。

 

 

㊼ 東京瓦斯電気工業

 

 九五式装甲軌道車㊹の設計と試作を行ったメーカー。1885年(明治18年)に、東京府から瓦斯局の払い下げを受けた「東京瓦斯会社(後の東京ガス)」が、機械部門を1910年(明治43年)に独立させてガス器具の製造をさせたことが嚆矢(東京瓦斯工業)。その際の砂型鋳物の技術を発展させ、エンジンなど製造を手がけるようになった。1913年(大正2年)には、電気器具も製造するようになり、東京瓦斯電気工業と改めた。

 

 第1次世界大戦時には軍需に進出。トラックやバスなどの試作を開始。特に軍用トラックTGEが成功をおさめ、TGE-N型から車名を「ちよだ」とした。1937年には「自動車工業」と合併し、東京自動車工業、そして、ヂーゼル自動車工業となった。

 

 

㊻ 石川島自動車製作所

 

㊸で取り上げた九一式広軌牽引車を製作した石川島自動車製作所は、いすゞ自動車の前身だ。現在はトラック・バスを得意とするいすゞだが、その名は、1933年(昭和8年)に鉄道省と当時の自動車メーカーと共同開発したトラックに与えられたものだった。

 

 創業は古く、当社HPには1916年(大正5年)とある。東京石川島造船所(設立は1929年だが創業は1853年<嘉永6年>)から分離したのだった。1933年にはダット自動車製造株式会社と合併。自動車工業株式会社となった。つまり、今では日産自動車の商標になっているダットサンは、このいすゞから譲渡されたものだった。その後、東京自動車工業株式会社、ヂーゼル自動車工業株式会社となり、1949年(昭和24年)に いすゞ自動車株式会社と改称している。

 

 

㊺ 一〇〇式鉄道牽引車

 

 ㊸㊹以外に、鉄道作業者として開発され、鉄道の応急運転として軽機関車のかわりに各種軍用貨車を牽引したり、戦場において緊急に鉄道を敷設するときなどに使用された。軌道上は鉄輪、道路上は鉄輪外側にタイヤを装着して走行し、狭軌・標準機・広軌のいずれにも対応した。

 

 当時の軍用トラック九四式六輪自動貨車を基に設計。ディーゼルエンジン空冷式直列6気筒で、排気量7980cc90馬力だった。戦後も国鉄や各私鉄、各企業の工場などに払い下げられ、線路のメンテナンス等に使用された。

 

 

㊹九五式装甲軌道車

 

 1935年(昭和10年)に制式化した鉄道用装甲車。軌道用鉄輪を備え、狭軌・標準軌・広軌のいずれにも対応できた。また、無限軌道(いわゆるキャタピラ)にも切り替えが可能で、軌道から降りても走行可能だった。空冷4サイクル6気筒ガソリンエンジンで84hpを発揮。

 

 見た目は砲塔を備え、戦車に似ているが、軽機関銃を装備していた。つまり、書類上戦車扱いではなく、あくまで工兵車両とするためである。鉄道の警備や鉄道沿いの侵攻作戦に使用するため、日中戦争から鉄道連隊に配備された。

 

 

㊸日本にもあった鉄道用装甲車

 

正確には満州など大陸の鉄道連隊や独立守備隊に使用された。鉄道をゲリラ等から守るために、イギリスのウーズレー装甲自動車をもとに石川島自動車製作所が製作した。水冷複列16気筒ガソリンエンジンで6輪、大型ジャッキで、ゴム製のソリッドタイヤと軌道用鉄輪を交換して使用。しかも、鉄輪は広軌と標準機のどちらにも対応できるようになっていたとか。その名も、九一式広軌牽引車。陸軍が1931年に制式化した。

 

 

㊷鉄道用装甲車というものがある

 

ある雑誌に目を通していたら、ドイツ軍の「1/35 ドイツ鉄道装甲車 P204(f)」のプラモデルが掲載されていた。「鉄道()装甲車」<( )は私>という聞きなれない用語とともに、見慣れたゴムタイヤやキャタピラ(無限軌道)ではなく、軌道(線路)を走ることが可能なように鉄輪をつけた見慣れない車体が目に入った。

 

タミヤ(TAMIYA)の解説を読むと、19406月にフランスを占領したドイツ軍が、4輪装甲車AMD35を約200輛接収し、そのうち43輛を改造して軌道を走れるようにしたものだそうだ。主に東部戦線に投入され、鉄道の防衛のため強行偵察や索敵、線路状況のパトロールなどに利用されたとある。砲塔に25mm戦車砲と7.5mm機関銃を搭載を備えたその車体は、なるほど小回りが利き使い勝手も良さそうだ。

 

 

㊶ 鋼だった動力ぜんまいへの影響

 

19セイコーの動力ぜんまいは、DIAFLEXが出てくるまでは鋼だった。鋼のぜんまいは、当時から切れやすく、懐中時計の弱点だった。ということは、アメリカからの屑鉄が禁輸となってから終戦後しばらくは、日本の鋼の品質を考えると、特に動力ぜんまいの性能は推して知るべしというところだろう。

 

個人的な感想ではあるが、終戦直後の出車式中三針とPRECISIONはぜんまいを巻く感触が滑らかではない。そして、修理やOHの頻度が多い。これらの個体は特に慎重に保管し、丁寧に扱うべきと思う。

 

 

㊵ アメリカの屑鉄は単なる鉄ではなかった

 

鋼は、他の金属が混ぜられて合金にされて付加価値を高める。ニッケル、クロム、モリブデンが代表的な金属だ。それらはいずれも、日本での産出はわずかであり輸入に頼っていた。

 

ニッケル鋼は強靭で耐食性が大きくなる。クロム鋼は焼き入れ性・焼き戻し軟化抵抗性・耐摩耗性に優れる。ステンレス鋼はこのクロムを10%以上含ませたものである。モリブデン鋼は高温強度・耐磨耗性などが増す。戦前のアメリカの屑鉄にはそれらが添加されていたのだ。つまり、禁輸になった日本は、㊴の技術不足と相まって、ニッケル、クロム、モリブデンを加えることができず、脆い鋼しかつくれなかったことになるのだ。

 

 

㊴ 戦前の精錬する技術

 

 鉄鋼は、いわゆる鋳物(いもの)と鋼(はがね)がある。鋳物はもろく割れやすい。鋼は粘りがあり、強い。兵器や工業製品の多くはこの鋼でなければ使い物にならない。そして、その品質の差は、精錬の段階で炭素、リン、硫黄、ケイ素などの不純物をどれだけ取り除いたかで決まる。

 

 日本が使っていた鉄鉱石は満州や中国産で、リン・硫黄・ケイ素が多く、それらを除去する技術が未熟だったのだ。そこで、リンや硫黄が少ない銑鉄をスウェーデンやイギリスから、ケイ素の少ない銑鉄をインドから、そして、すでに鋼であるアメリカの屑鉄を大量に輸入して製鋼していたのだ。

 

日本では、精錬の段階で、その少なくない量が鋳鉄や不良品になっていたとも言われている。そのため、日本の銑鉄に輸入銑鉄やアメリカの屑鉄を混ぜて品質を向上させていたというのもあながち嘘ではない。屑鉄の禁輸や銑鉄の輸入途絶はまちがいなく、日本を苦しめたのだ。

 

 

㊳ 屑鉄禁輸についてのさらなる疑問

 

アメリカの屑鉄の禁輸の影響は、単に量やコストだけの問題だったのだろうか。もし、そうであれば、満州や朝鮮半島の鉄鉱石や石炭の埋蔵量は豊富だったわけであるから、日本としてはコストはかかっても、それらの輸入(移入)を増やせば戦争遂行はできそうに思える。しかし、それでは対応できないだろうということをアメリカは知っていたから屑鉄の禁輸を決定し、実際に日本は苦しんだのではないか。

 

では、何が問題だったのだろうか。それを考えるヒントは、日本の製鉄技術が世界に通用するようになったのは戦後になってからということと関係があるのではないか。戦前の鉄鋼の品質は推して知るべしというところだろう。では、戦前の日本の製鉄技術はどんなレベルだったのだろうか。

 

 

㊲ 産業構造に問題があった

 

なぜ屑鉄禁輸で困るのか。教科書だけ読んでいてはわからない。明治以来、日本なりに製鉄に力を入れ、育ててきたはずだったが、それを大きく変えてしまったのが、第一次世界大戦とその後の不況だった。

 

ちなみに、一口に製鉄といっても、高炉で銑鉄を生産する製鉄業と、電気炉などで鋼を生産する製鋼業とに分けられる。一般に、高炉をもっている製鉄業者は製鋼まで一貫して行う大手で、銑鉄をつくり、その銑鉄から製鋼までしていた。また、製鋼のみを行う業者は民間が多く、輸入してきた屑鉄と銑鉄はこの製鋼の部分で使用していた。

 

第一次大戦で大きく儲けた日本の製鉄業・製鋼業だったが、その後の不況で多くの企業が廃業。そこへ、戦争が終了して生産が回復したうえに高品質だったイギリス産の銑鉄(実際はインド産)が一気に日本へ入ってきた。そして、世界恐慌で行き場のなくなったアメリカの高品質の屑鉄がやはり日本へ流入してくることとなった。そのため、日本の企業が整理されしまい、生産力が小さくなったうえに、それら高品質の原料で製造する産業構造になってしまっていたのだ。

 

製鉄業の方は、インド産の銑鉄が入ってこなくなったので、その分を補うように大増産をかけなければならなかったが、当然限度があった。また、製鋼業の方も高品質の銑鉄も屑鉄も大激減したわけだから、量的にも質的にも大変困ったわけだ

 

 

㊱ 屑鉄禁輸

 

昭和15年(1940928日に、アメリカは日本への屑鉄全面禁輸に踏み切った。実はいきなりの禁輸だったわけではなく、8月に鉄・屑鉄の輸出許可制をとっており、日本への警告になっていたわけだ。

 

これは教科書でよく見る、ABCD包囲網の一環の説明である。ここで疑問がわく。

 

石油であるなら日本が困るのはよくわかるのだが、なぜ屑鉄なのか。日本は近代製鉄をとうに成し遂げ、多数の軍艦・兵器を製造していたのではなかったか。なぜ、屑鉄を止められることが日本にとって苦しいことになったのだろうか。

 

 

㉟ IBMWW2

 

 原爆開発をめざしたマンハッタン計画にIBMのパンチカードが使われたとか。また、歯車式デジタル計算機(プログラム可能)であるハーバード・マーク1も原爆の製造に使用されたという。有名なENIACは戦後の完成だったが、こちらは世界初の電子計算機。水爆開発で使用されたとか。他にも、一見専門分野以外に見えるM1カービン銃(騎兵銃のこと)やブローニングM1918自動小銃の製造も手がけていた。

 

 

㉞ パンチカードと鉄道運用

 

 日本は戦争中に鉄道運用に苦労したことが偲ばれるが、ドイツではどうしていたのだろうか。実は、ドイツの戦争中の鉄道運用は、IBMのパンチカードが援用されていたことが知られている。列車を定刻通りに運行させ、積み荷であったユダヤ人を登録することにも使われたという。

 

IBMのパンチカードシステムであるホレリスシステムは、ドイツが支配したヨーロッパの鉄道を精密に運行させたという。各地への貨車と機関車の配備を割り出すのに、ホレリスの計算能力を使ったのだとか。全ての貨物車両の効率を最大限し、運行することができたというから驚きだ。

 

 

㉝ 駅の子

 

2018年(平成29年)812日に「NHKスペシャル “駅の子”の闘い 〜語り始めた戦争孤児〜」が放映された。戦争によって孤児なった子どもは12万人とも言われている。彼らは頼る親戚がなければ施設に行かなければならなかったが、施設でさえ十分に整えられていたわけではなく、事実上放置された状態だったという。そこで、身を寄せたのが駅舎だった。そのため彼らは「駅の子」と呼ばれたのだ。

 

昭和21年、GHQは、戦争孤児を東京から一掃するよう指示し、子どもを保護する専門の施設を設置するよう求めた。ようやく昭和2211月に児童福祉法が成立し、児童養護施設に必要な運営費が割り当てられるようになる。また、朝鮮戦争が勃発すると日本に特需がもたらされ、駅の子もしだいに姿を消していったという。

 

 

㉜ 戦争が時計産業にもたらしたもの

 

1948(昭和23)年に、商工省が実施した第1回の品質比較審査会(時計コンクール)の結果を見てみよう。そのとき、止まってしまう故障が極めて多かったようだ。

 

ウオッチ 34%   

クロック  28.7

 

1949(昭和24)年の第回品質比較審査会はというと、

ウォッチ 21.6

クロック 14.9

 

改善はしているものの、全般的に戦前の水準には及ばなかったという。かなりの割合で故障していることがわかる。コンクールでの結果がこうであれば、流通品は押して図るべきだろう。これらが改善されていくきっかけになるのが、一般に1950に始まった朝鮮戦争と言われている。

 

 

㉛ 時差出勤

 

最近フレックスタイム制も珍しくなくなり、公務員も時差出退勤が法整備されてきているなか、東京都がオリンピックをにらんで「時差Biz」をすすめようとしている。今のところ、顕著な効果は出ていないようだが、これからの働き方を考えると1つの方向を示しているかもしれない。

 

実は、この時差出勤・時差退勤は、日本では戦争も激しくなってきた昭和19年(1944年)4月に導入されている。このとき、日本は戦局が悪化し、アメリカ軍の潜水艦からの攻撃に加えて、それに備えた日本側の機雷敷設などから内海航路が封鎖されていた。また、軍需工場への動員も拡大され、鉄道による通勤は増加の一途を辿っていた。そのため、鉄道はその役割がますます重要になっていたが、もちろん輸送量には限度があり、これを解決するために打ち出されたのが時差出勤・時差退勤だった。しかし、国家総動員体制にあった当時でさえ徹底はできず、効果は限定的だったようだ。

 

 

㉚ 大山口列車空襲事件

 

 ㉙の病客車を繋いだ列車が米軍機3機に機銃掃射され、死者44名を出すという事件があった。昭和20年(1945年)728日、鳥取発出雲今市(現出雲市)行きの下り、第809列車がそれだった。蒸気機関車C5131が、客車11両を牽引する列車で、前2両は病客車だった。

 

もちろん、この病客車には赤十字標章が大きく描かれていたとのことだったが、機銃掃射とロケット弾による攻撃を30分間受けた。病客車と客車に攻撃が集中していたとか。

 

 

㉙ 病客車

 

 ㉘以外にも「病客車」がある。㉘のような専用列車ではなく、列車の一部を傷病兵の輸送のための客車として連結して運用したものをいう。外部には、やはり赤十字のマークが描かれていたという。軍港、軍の病院の近くの駅から発車する列車に組みこまれた。

 

担架のまま乗り降りできるように出入口を広く改造しており、中央に病室を配置し、これを挟むように客車が配置されていた。客車は座席が撤去されたものやロングシートを配したものがあったようだ。日中戦争が勃発すると大量に整備された。この病客車は復員兵の輸送が落ち着いたころ廃止されたが、朝鮮戦争が勃発すると復活した。傷病兵だけでなく、遺骸の輸送やハンセン病患者、精神疾患者の搬送にも使用されたとか。

 

 

㉘ 病院列車と患者列車

 

 どちらも、車側や屋蓋に、標識として白地に赤十字が描かれて、赤十字条約の適用を受けた。どちらも資料が少なく、ここはウィキペディアを参考に紹介しておきたい。

 

 病院列車は、戦地で運用され、まさに走る病院だった。「管理室、病室、薬室、手術室、滅菌室、消毒室、包厨室、倉庫などに区分され、患者の収容、治療および看護に従事する軍医、看護長および看護兵が衛生材料を携行」した列車のこと。「重症患者・伝染病患者・精神病患者等」を輸送した。患者列車は、戦地・内地共に運用され、「軽症患者」を輸送することを目的とした。時に重症患者も輸送した。

 

 

㉗ 飛行時計と航空時計

 

『精工舎 懐中時計図鑑』をもとに、精工舎の飛行時計・航空時計の開発・製造された年から、使用された飛行機・航空機を整理してみる。その他の信頼できそうな資料も含め、はっきりと確認されたという飛行機・航空機はゴシック体、それ以外は明朝体にしておく。

          

●陸軍航空本部時計23号(初期型飛行時計)93式飛行時計以前 7石 甲式4型偵察機・88式偵察機・91式戦闘機・93式戦闘機・

93式重爆撃機等

●陸軍  93式飛行時計      昭和8年(1933年)  15石・795式戦闘機・97式重爆撃機・97式戦闘機・98式軽爆撃機等

●陸軍 100式飛行時計      昭和15年(1940年)  9石・71式戦闘機「隼」・2式単座戦闘機「鍾馗」・100式重爆撃機「呑龍」

                             3式戦闘機「飛燕」・4式重爆撃機「飛龍」・4式戦闘機「疾風」等

●海軍 航空時計(自動車時計) 昭和7年(1932年)  15石のみ 96式艦上戦闘機・零式艦上戦闘機・艦上戦闘機「烈風」・

艦上攻撃機「天山」「流星」局地戦闘機「雷電」「閃電」「天雷」

「紫電」「紫電改」等

 

 

D51にもあった戦時設計

 

 D51と言えば、戦前から戦後にかけて蒸気機関車の代名詞的な存在と言える貨物輸送用の蒸気機関車である。鉄道省が設計し、昭和11年(1936年)から製造された。製造総数の記録が現在まで更新されていないとか。

 

特に戦時中の製造が多かったとのことだが、この戦時中の車体は、戦争が激しくなるにつれて本来の設計に比べて代用品や省略がなされいったのだ。特に1001番以降のものは昭和19年(1944年)から製造されており、木材などが多用されていて、材料を削るためにデザインの簡素化が行われたのは、前出のD52と同様である。

 

 このD51は、戦後、ソ連の領土となった樺太に、そして、朝鮮戦争中に韓国政府にも輸出されている。戦後の日本では、電化がすすむまで復興を支えた貨物列車として記憶に残る。また、C61のようにD51のボイラー等を流用して客車用蒸気機関車に改造されたものもある。

 

 

EF13形電気機関車

 

これも戦時設計で、1944年(昭和19年)に導入された貨物用直流電気機関車。決戦形機関車などという呼称が使われたり、「木とセメントで造った機関車」と揶揄されたりすることもある。EF12の機能を簡略化した機関車として開発され、凸型の車体で使用する金属量を減らしている。しかも、薄くし、木材になっている部分もある。さらに、重さを補うためにコンクリートを積み、機銃掃射からの防御用に運転台の周りに砂箱を積んでいた。

 

安全上必要な装備まで削っていたため、現場職員には不評だったが、その独特の外観と生い立ちなどから現在のマニアにはかなり人気がある。EF13形の模型も盛んに開発されている。

 

 

㉔モハ63

 

1944年(昭和19年)に、国鉄が戦時設計で製造した通勤輸送用電車のことである。兵器生産をするために工場のある都市部に労働者が通勤するため開発された。戦後の通勤電車のスタンダードとなる車体で、全長20m、片側4扉という形だった。

 

 換気の効率が上がるよう3段窓が設置され、座席はほとんど設置されないか、されても板の腰掛であり、照明は裸電球、天井は骨組みが露出、といった具合だった。1951年(昭和26年)まで製造されたが、戦後の内装は徐々に整備されていったという。

 

 安全性を犠牲にした車体であったため、1951年(昭和26年)に桜木町駅付近で火災を起こし、多くの死傷者約200名を出すという大惨事を起こした。そのため63系は改造を受け、72系と改称され、63系は消滅した。

 

 

㉓不要不急路線

 

 国家総動員法にもとづいて出された1941年の「金属類回収令」は、鉄道にも大きな影響を与えている。これは、武器生産に必要な金属資源の不足を補うことを目的としていたからである。軍事輸送の重要度の低い路線は、廃線としたり、単線化したりして、レールが供出されたのだ。これを「不要不急(路)線」という。

 

 

㉒アンネ・フランクと鉄道

 

 20171031日の「AFP」の見出しに、<新型車両は「アンネ・フランク」号? ドイツ鉄道の計画に批判殺到>という文字が躍った。ドイツ鉄道が高速列車「ICE」の新型車両の名前を公募し、アンネ・フランクの名にすると発表したという。これに反発したのが、オランダの「アンネ・フランク財団」という。アンネ・フランクといえば、あの『アンネの日記』の著者である。鉄道計画の名前になるということであれば名誉なことと考えそうだが、そこには複雑な思いがあるのだ。

 

アンネ一家は194484日に連行され、194488日にアムステルダム中央駅からオランダ北東のヴェステルボルク通過収容所へ列車で移送され、さらに194493日にはアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所へ列車で移送されていたのだ。これはアンネ一家だけでなく、多くのユダヤ人が記憶していることであり、その列車の多くが貨車であったり、すし詰めであったりしたようなのだ。しかも、ドイツ鉄道の前身が、ユダヤ人を輸送したドイツ帝国鉄道だったとなれば、その心痛は推して図るべきなのだろう。

 

 

㉑ブライトシュプールバーンBreitspurbahn)と超広軌原子力鉄道計画

 

 ナチスドイツが独ソ戦の後に計画していた鉄道網のこと。「Breit」は広い、「spur」はレーン、「バーン」は道・専用路となるので、普通は「広軌鉄道」と訳す。しかし、並みの広軌ではない。3000mmというから、いわゆる広軌(1524mm)の約2倍となる。

 

 時速250kmで走る機関車(全長70m、幅6m24000馬力)を8両連結し、2階建ての客車(全長50m)を15両連結するというものだった。ベルリンとミュンヘンを起点とし、最終的にはウラジオストックまで結ぶことを考えていたという。これが実現していたら、ベルリンは文字通り世界首都ゲルマニアとなっていたかもしれない。しかし、それはスラブ民族を奴隷化し、東ヨーロッパをドイツ民族の移住地に変え、資源の供給地として確保するためであり、とんでもない計画だった。

 

もちろん、これはドイツの敗北で立ち消えになったのだが、なんと1950年代のソ連科学アカデミーが「超広軌原子力鉄道計画」としてリバイバルしていたという。軌間は、ブライトシュプールバーンの1.5倍の4,500mmというからさらに驚く。鉄道技師モーラレヴィッチ、ソ連科学アカデミー会員の工学博士ゲオルギー・ポクロフスキーとアルカジー・マルキンの3人が構想したようだ。

 

 

S蒸気機関車のスピード記録

 

映画『バックトゥーザフューチャー3』の中で、蒸気機関車がデロリアンを押し、時速88マイル(時速約140km)に達してタイムスリップするという場面があった。この機関車は、映画ではLocomotive 131となっていたが、機関車自体はSierra No. 3と言う。SF映画で時速140kmであるので、実際はもっと遅いのだろうか。

 

すると、1936年に、ドイツ国営鉄道の05形蒸気機関車が時速200.4km/hを達成していることがわかった。また、1938年には、ロンドン・アンド・ノース・イースタン鉄道のマラード号が時速203 kmに達している。

 

正式でない記録は、ペンシルバニア鉄道のS1形の蒸気機関車(「The Big Engine」)のものがある。この機関車は、それまでの最大の旅客機関車で、長さが約43mもあったという。2組のシリンダーがあり、それぞれが2組の駆動輪を駆動する二重機関車だった。194112月のPopular Mechanics誌には、時速214.7 kmに達したという紹介記事がある。他にも複数の証言があり、最も速いものは、フォートウェイン - シカゴの走行時の時速251 kmに達したというものだ。

 

 

Rアルミスティス号

 

 1940622日、ドイツ軍はフランスのコンピエーニュの森に、鉄道の客車を設置し、フランス代表使節団と独仏休戦協定を締結した。ドイツ軍がフランスへ侵攻した510日からわずか6週間後のことだった。

 

 この客車、名前を「アルミスティス号」と言った。フランス語で「休戦」という意味で、特に「第一次世界大戦休戦記念日」を指した。このアルミスティス号は、19181111日、 第一次世界大戦が終結し、ドイツ帝国と連合軍が休戦協定を調印した会場となった列車だったのだ。しかも、そのときの場所もコンピエーニュの森だったという。

 

 

Q日本にもあった列車砲

 

 列車砲と言うと、ドイツの「グスタフ」と「ドーラ」が有名で、映画やアニメなどに出てくることがある。実は、日本にも列車砲があったことがわかっている。その名も「九〇式二十四糎列車加農」であり、満州国の虎頭要塞に配備され、ソ連軍に対して配備された。

 

 口径は24センチ(240mm)で最大射程50.12kmとなっている。口径については、戦艦大和の46センチの半分ほどしかないが、最大射程については、戦艦大和の42kmを大きく上回った。文字通り、日本最大の最大射程をもった火砲であり、日本唯一の列車砲となる。

 

 フランスのシュナイダー製の砲身が到着すると、すぐに組み立てられ東京湾の防備に充てられていたようだ。太平洋戦争が始まると、東海道線で神戸まで運び、そこから大連まで貨物船で搬送した。

 

 しかし、その活躍ぶりはほとんど知られていない。大戦末にソ連が侵攻してきたときには、満州の首都防衛のために再設置することになっており分解されていたとか。戦後、ソ連に接収されたはずであるが、行方はわかっていない。

 

 

P19SEIKOSHAの「恩賜時計」

 

 129日に落札された「恩賜時計」が239,000円で落札された。コレクター仲間の方が知らせてくださり、入札が始まったばかりの頃から注目していた。出品者はたくさんの写真を細かく掲載していたので、私も興味津々で見入っていた。私も本当のところ真贋はわからなかったが、いくつか気になる点があったので、入札は見送ることにした。それが、まさかの高値で落札となり、正直驚いた。だが、この時計が本物かどうかとは別である。

 

 恩賜の時計は、「銀時計組」と呼ばれるように、本来は「恩賜の銀時計」と呼ぶのがふさわしい。その多くは、文字通り銀時計が使われ、明治40年から「12サイズEXCELLENT(エキセレント)、昭和5年から「17SEIKOSHAナルダン形」が指定された。ただ、ナルダン形は、昭和19年に製造が中止されたため、19SEIKOSHAの「恩賜時計」も若干存在することがわかっている。

 

『精工舎懐中時計図鑑』のp157には、三島由紀夫が拝受した恩賜時計のぼやけた写真が紹介されており、これが19SEIKOSHAのものではないかと推測している。ネット上にも、同型の19SEIKOSHAの恩賜時計がアップされている。だた、残念なことに、どちらもムーブメントの写真がない。また、一般的に、裏蓋の「恩賜」の刻印は真贋の決め手にはならないという。つまり、恩賜時計そのものの資料が少ないため、時計だけを表面から見ていたのでは、やはり決め手にならないとか。

 

そうなると、やはり出所、由緒のしっかりした時計でなければならないということになる。学校であれば成績表だったり、授受の式典の文書だったり、決め手となる附属品だったり、ということになるのだろう。また、本物であれば、大変な名誉の品であるので、持ち主は大切に保管していることが多く、傷んだものは少ないということが多少の手掛かりになるかもしれない。

 

恩賜の時計のコレクションは、投機的であり、リスクが伴うということを、承知の上でなければならない、と改めて感じた。

 

 

Oカタカナ・セイコー

 

 腕時計の文字盤にカタカナで「セイコー」と表示されているものがある。通称カタカナ・セイコー。マニアの間では高い人気を誇る。シチズンだけでなく、セイコーも敵性語規制による影響を受けたものとして、一般に説明される。

 

 ただ、このセイコーは、日本語の「精工舎」が元であるので、単に表示の仕方、アルファベットがけしからんということだったことになる。

 

 ところが、同じ戦争中に生産された懐中時計は、そのまま「SEIKOSHA」表示が通されている。もっとも、これらは一般販売用ではなく、軍用だったようだが…。

 

 大日本時計株式会社同様、どういう経緯でカタカナ・セイコーになったのか、興味がつきない。

 

 

N大日本時計株式会社

 

 シチズン時計株式会社のことである。昭和13年に、シチズンが敵性語であるとして、社名を変更した。残念ながら、シチズンの公式HPにはそれらの沿革は紹介されていない。 

 

 敵性語は、戦時中に敵国が使用している言語のことであり、特に英語を「軽佻浮薄」として排斥した社会運動のことを言う。「巨人の星」では、審判のコールが日本語に変えられたエピソードが紹介されている。

 

しかし、特に法律があったわけではなく、運動も徹底はしていないとのこと。軍内部では「エンジン」や「ボルト」など工業技術に関するものについては割と寛容だったことも伝えられている。しかも、興味深いことは、東条英機が国会において、英語教育は戦争において高等教育に必要であると述べていることである。また、「ナショナル」、「シャープ」といったブランド名はそのまま使用したという。

 

なぜ「シチズン」は変更したのか。ウィキペディアには「軍部の意向による敵性語規制により」、とある。果たしてどんな経緯があったのか興味がつきない。

 

 戦争が終わり、昭和23年には社名をもとの「シチズン時計株式会社」に戻している。

 

 

M大東亜縦貫鉄道計画(構想)

 

 弾丸列車計画(「広軌幹線鉄道計画」)が俎上に上り、現実味が出てくると、今度は「大東亜縦貫鉄道計画」が持ち上がった。これは、弾丸列車の将来の目的地「北京」から、漢口(武漢)、バンコクを経てシンガポール(昭南)までをつなぐ構想だった。

 

出所は南満州鉄道東京支社調査室(調査課としているものもある)で、昭和17年(1942年)の「大東亜縦貫鉄道ニ就テ」である。

 

これは、フランス領インドシナ進駐から、太平洋戦争(大東亜戦争)のマレー上陸、シンガポール陥落の後に構想されたものだ。支線として有名なのが、バンコクからビルマ(現ミャンマー)のラングーン方面へ敷設しようとして、一部完成した泰緬連接鉄道だった。

 

 

LD52形蒸気機関車

 

 有名な貨物輸送用蒸気機関車「D51」の後継機にあたるが、戦時中の貨物船喪失を補うべく輸送量の増大に応えるために設計・製造された蒸気機関車が「D52」である。

 

設計上はD51を上回る最高出力1660馬力であったが、実際には物資不足から材料の粗悪化、装置の簡略化が行われ、熟練工の徴用なども重なって質の低下は免れず、ボイラーなどの重大事故が発生した。

 

486が最後の番号となっているが、欠番が多く、実際には285両の製造にとどまっている。これら製造の経緯は、陸軍の九九式小銃のものと重なり、大変残念に思う。

 

ただし、このD52形蒸気機関車は、戦後、GHQの指導もあり、C62として生まれ変わる。D52のボイラーを使用し、足回りはC59形とされるが実際は新造となっており、動輪をDからCへ、つまり、4軸8車輪から3軸6輪へ変更したことになる。これで車輪を大きくすることができ、高速走行が可能になったわけだ。

 

そのため、最高速度は時速75kmから100kmに向上し、東海道本線で、東京−大阪間の特急「つばめ」や特急「はと」の牽引機として活躍することになる。

 

つまり、C62型蒸気機関車は、元はD52形蒸気機関車であることを理解しておかなければならない。

 

 

K中央アジア横断鉄道

 

 Newsweek』(日本語版)201715日(木)は、中国当局が、中国東部の都市・義烏とロンドンを結ぶ直通列車が運行を開始したと発表したことを記事にしていた。貨物列車が、カザフスタン、ロシア、ドイツ、フランスなどを経由し、18日間かけて約12000キロを走るというものである。これを「一帯一路鉄道」という。

 

 かつて日本は、戦時下に『中央亜細亜横断鉄道』を計画したことがあった。

 

「日本政府には,(略)ソ連の南側を通ってアジア大陸を横断し,ナチス・ドイツと

結ぶ鉄道の建設計画が鉄道関係者から進言されていた」(世界大百科事典)と

いう。

 

 実際に、1941年(昭和16年)11、帝国鉄道協会にその調査部が設置された。これは、「弾丸列車」計画の一環で、東京〜下関〜北京〜バグダッドまでを結び、さらにベルリンまでを結ぶという計画だった。別名「防共鉄道」。これは、ソ連のシベリア鉄道に対抗するものでもあった。

 

 実は、1938年(昭和13年)に、鉄道省の湯本昇鉄道監察官が発表しており、1941年(昭和16年)6月には、ドイツ技術家オット・レーマンも発表している。

 

 もちろん、周知のとおり、戦況が悪化したため、この計画は頓挫しているし、当時も揶揄する発言はあったという。しかし、現にシベリア鉄道があり、運行されていたわけであるから、政治的には難しくても、技術的には全くの荒唐無稽というわけにもいかないだろう。

 

 そして、この冒頭のニュースによれば、この計画が中国によって実現したことになる。約75年たって航空機が発達した今日に、どれほどの効果があるかは疑問ではあるが、かつて日本が夢見た鉄道を実現させたことは、素直におもしろいと思う。

 

 

J大井川鐡道のジェームズ号は「出征機関車」

 

 今年(2017)も子どもたち?を喜ばせている話題になっている大井川鐡道のきかんしゃトーマスのなかま「ジェームズ号」は、戦争中にタイへの出征機関車だった。

 

 国有鉄道のC56型蒸気機関車、愛称シゴロクは、太平洋戦争初期に、90両が陸軍に接収されタイへ送られた。あの泰緬鐡道、映画『戦場にかける橋』にでてくるあの鉄道にである。

 

 やはりそのままでは使えず、軌道1000mmを走れるように改造し、燃料も石炭でなく薪で走るようにしたとのこと。映画にも描かれていたが、突貫工事に継ぐ突貫工事で線路を建設し、しかも戦場を走ったわけだ。

 

 あのインパール作戦後、ビルマで使われたり、復旧したタイでも使われた車両があったとのことだが、そのうち2両が1979年(昭和54年)に日本に帰還した。

 

 うち1両が上のジェームズ号。もちろんそのままでは走れず、改装・復元がなされるが、現役で生還したただ1両の車両となる。しばらくは、タイ国鉄仕様で走っていたようだが、日本仕様に戻され、2015年(平成27年)にジェームズに改装されて現在に至っている。ちなみに、もう1両は遊就館に保存されている。

 

 

I世界初の鉄道海底トンネル

 

  本州と九州を結ぶ海底トンネル、「関門トンネル」は、戦時下の1942年に下り線が、1944年に上り線が開通した、世界初の鉄道海底トンネルである。

 

 ここには、元々連絡船が通っており、本州側の私鉄山陽鉄道と九州川の私鉄九州鉄道を連絡していた。それが、鉄道国有法によって、1906年に山陽鉄道と連絡船、1907年に九州鉄道が、それぞれ国有化された。

 

 貨物については、積み荷の積み替えに手間がかかることから、アメリカの鉄道にヒントを得て、まずは貨車を船舶で運ぶ(貨車航送)ようになった。しかし、旅客については乗り換えとなり不便は解消されなかったため、トンネル案が浮上する。そして、紆余曲折を経て開通と相成る。

 

機関車は、蒸気機関車が使えず、最初から電化され、外板をステンレスして防錆処理を施した電気機関車EF10形(直流専用)が走った。おかげで、かなりの時間短縮が実現した。

 

 戦争が激しくなって、アメリカ軍による飢餓作戦(機雷敷設による封鎖)やバーニー作戦(潜水艦による通商破壊)が実行され、しかも日本の側は深刻な船舶不足が起きていたが、本州-九州間の旅客・貨物は大きな影響を受けなかったとか。

 

 

H戦争・終戦と鉄道

 

鉄道は、戦争中に多くの出征兵士を送り出した「出征列車」、軍需品を輸送した「軍用列車」、日本では満州など外地で武装した「装甲列車」、等々、戦争とは切っても切り離せない多くの悲喜劇のドラマを生んだに違いない。他方、鉄道は多くの人命を救ってきたようだ。

 

広島も長崎も、それぞれ原爆を投下されたその当日から「救援列車」が運行され、負傷者を収容していたという。広島では蒸気機関車D52型が救援列車を牽引し、爆心地近くの広島駅北側軍用線路から東方へ発車し、長崎では蒸気機関車C51型が救援車輛を牽引し、爆心地に向かったそうだ。

 

また、大阪大空襲のあった昭和20年3月13日には、心斎橋から梅田に地下鉄の電車が走ったという。これはNHK連続テレビ小説『ごちそうさん』にも描かれている。

 

 終戦記念日となっている8月15日も鉄道は運行されていたという。

 

そして、敗戦した日本の戦後の生活の大混乱を支えたのも鉄道だった。「買い出し列車」はテレビドラマや映画でもよく目にする。乗客が窓や屋根にしがみついて走っている、あの列車だ。このときは、さすがに定時運行などということは言っていられない状況だったことが伝わってくる。みんな、生きるのに必死だった時代だったのだ。

 

日本の近現代の歴史を掛け値なしで目撃してきた、それが鉄道だった。

 

 

G第二精工舎と空襲

 

 『精工舎懐中時計図鑑』 p119に「東京大空襲で第二精工舎は焼失しています」 という記述がある。

 

  第二精工舎とは、金太郎氏が亡くなった後、長男の玄三氏が、腕時計の製造部門を「第二精工舎」として分離し、1937年に東京・亀戸につくった工場のこと。その後、1942年に長野県諏訪市の「大和工業」と同地で腕時計の製造を始めたが、1944年には第二精工舎が会社ごと諏訪に疎開して諏訪工場を開設する。戦後、大和工業と諏訪工場が合併して「諏訪精工舎」となって、1985年には社名を変更して「セイコーエプソン」となったという経緯がある。(当時、精工舎は東京・錦糸町にあったが、こちらは埼玉県旧庄和町南桜井駅付近に疎開していた)

 

  疎開先は、他にも、桐生、富山、仙台があり、 終戦後、1945年9月に各工場は生産を再開した。

 

桐生工場では、1945年10月から、19型SEIKOSHA(19セイコー)の生産を再開とある。『精工舎懐中時計図鑑』 p102には、戦後SEIKOSHAの祖型になった金属の文字盤の19セイコーの写真が載っている。

 

ただし、HPTIMEKEEPER」にも、19セイコーの出車式中三針(SEIKOSHA中三針)のところで、194510月から生産開始と紹介している。これは、メーカーを「精工舎」と書いてあるだけで、工場はどこか書いていない。また、100式航空時計と同じムーブメントと書いてあるのでこれを引き継いだであろう第二精工舎と思われるが、はっきりしないのが残念。そもそも『精工舎懐中時計図鑑』にはこの出車式中三針の19セイコーが1つしか載っておらず、しかもそれも一般によく見る中三針SEIKOSHAの19セイコーとは異なっている。

 

仙台工場では、1946年から、17型エキストラフラットの生産を再開した。戦中に陸海軍用カラフ(クロノグラフ)のストップウォッチ機構を省いた懐中時計だった。

 

さらに、桐生工場では、1947年から、16型ゼルマを生産・販売。これは戦前のミニスターの部品をもとに開発した懐中時計だった。

 

 

 F管理工場とは

 

 このページの@に書いた「管理工場」とは何か。

 

  昭和12年(1937年)7月の日中戦争勃発により、9月『軍需工業動員法ノ適用ニ関スル法律』が公布され、関連法規として『工場事業場管理令』(1937924日,勅令第528号)が制定された。これによって、民間工場が軍需工場として指定されることになった。

 

「第六条 主務大臣は其の管理に係る工場事業場に於ける総動員物資の生産又は修理に開し当該工場事業場の業務に付事業主を指揮監督す」

 

「第七条 主務大臣ハ其ノ管理ニ係ル工場事業場ニ付監理官ヲ置キ当該工場事業場ノ業務ノ監督ニ従事セシム」

 

とあり、陸軍や海軍の管理の下、軍需生産を最優先させた民間の工場を「管理工場」と呼ぶ。

 

 

さらに、1938年(昭和13年)41日に『国家総動員法』(法律第55号) が制定されて、新しい『工場事業場管理令』 193855日勅令第318号)が制定された。初の国家総動員法が発動と言われる。新しい『工場事業場管理令』は、内容に大差はないが,適用される工場 事業場数はかなり拡大されることになった。

 

  精工舎はこの管理工場に指定され、民需の時計よりも、軍需の時計関連の兵器や精密機械を優先して製造することになるわけだ。そのため、民間における時計が不足するという事態を生み出していた。

 

19セイコーについても、鉄道時計や交換時計よりも、軍用時計が幅を利かす時代だったと考えられる。

 

 なお、戦争が終わると、『工場事業場管理令等廃止ノ件』  ( 昭和20年10月24日勅令第601号  )が制定され、『工場事業場管理令』は廃止された。

  

 

E高射砲(陸軍)・高角砲(海軍)の砲弾の信管

 

 時計を使った兵器といえば、まず頭に浮かぶのが「機械式時限信管」だろう。精工舎はこの機械式時限信管を製造していたことがわかっている。

 

所望の時期と場所で弾薬を作動させるための装置を信管と言う。上空を飛ぶ飛行機を火砲で撃墜するために、タイミングよく砲弾を爆発させなければならない。その爆発するタイミングを計測していたのが械式の時計(機械式時限信管)であり、砲弾はこれを内蔵していたわけだ。その火砲を高射砲(陸軍)・高角砲(海軍)と呼んでいた。

 

この機械式時限信管は第2次世界大戦で各国の軍隊で使用されたが、アメリカ海軍が近接信管(いわゆるVT信管)を開発したことから、大戦後はこの機械式時限信管は姿を消した。

 

  

D陸軍精密時計(24型)、海軍甲板時計(24型)という19セイコー

 

 航海に必要な時計ということで、日差±3秒以内に調整された19セイコーがムーブメントになっている標準時計。大きさは24型で、直径がおよそ6cm。

 

主に、天体を観測するためのもので、艦船の位置を計測するために用いた。陸軍の精密時計の方は、電話交換手が使用したという交換時計の24型と外観はほぼ同じ。海軍の甲板時計は、文字盤の数字がローマ数字になっているので、区別はつきやすい。しかし、海軍の甲板時計は、酷使されて残存数が少ないことがわかっており、マニアの間では高額での取引になりやすい。

 

また、どちらも鍵付きの二重木箱に入れて使用したため、ヤフオクでこの木箱付きの時計が出品されると、やはり高額な取引になりがちである。ただ、木箱なしや木箱が棄損した状態でも出品されることがあり、その場合は、比較的安価に落札できる。

 

陸軍で、なぜ航海用の時計が必要か。

 

実は、日本陸軍は海軍と折り合いが悪く、海軍と一緒に動けないときのために、独自に艦船を保有していたことがわかっている。また、民間船も多数徴発していたことは周知の事実である。そのため、海軍と同じ使用目的の標準時計をもっていたというわけである。

 

  

C失明者用懐中時計という19セイコー

 

 軍務による失明した軍人へ、皇后さまから下賜(光明皇后にあやかったものと思われる)されたという懐中時計。 製造開始は昭和14年(1939年)。

 

 日本軍は、もともと夜襲、突撃などの白兵主義が得意で、特に自動小銃や重火器が登場するまでは重要な攻撃スタイルだった。当然、傷痍軍人が多く、失明する者も少なくなかったことが推測される。戦前では、特に「名誉の負傷」などとも呼ばれ、国家による救済支援制度が整備されることとなり、この時計の下賜もその一環ということだろう。

 

 『精工舎懐中時計図鑑』では、これを「盲人用懐中時計」としている。もちろん、もともと盲人だった人も使ったことは考えられるが、本来は、もともと盲人だった人というわけではなく戦争によって視力を失った人が主な対象だったことから、私は「失明者用懐中時計」の方がふさわしいと言えると思う。

 

 失明者がこの時計を触って時間がわかるようにしている、「触読式」となっており、秒針はない。時針・分針が短く、いわゆる文字盤の範囲の外に、5分毎の目盛りが凸型の立体に設置されている。また、蓋は12時の位置に蝶番があり、6時の位置のボタンで開くようになっている。そして、竜頭は3時の方向に位置するという、独特のつくりになっている。

 

 ヤフオクで、メーカー名は間違いなく他社製(輸入品)のものなのだが、この19セイコーの失明者用にそっくりの懐中時計を出品しているのを見たことがある。当時は、失明者用はこの触読式が一般的だったことを物語っていると思う。ただ、精密機械であるので、触り方にもコツがあったのではないか。

 

  

B自動車時計という19セイコー

 

 自動車用・航空機用の軍用時計。航空時計と同様、振動防止装置付きとなっている。

 

 スモールセコンド方式で、「6」のすぐ上に配置されている。

 

 ここで疑問に思うのが、戦車には時計がついていなかったのだろうか、ということだ。自動車や飛行機についていたのであれば、戦車にもついていて何の不思議もない。

 

しかし、『精工舎懐中時計図鑑』には掲載されていない。ただ、p119にあるように、「戦時中は軍需品の生産情報は極秘」ということと、空襲などの戦災のために詳しいことはわかっていないのかもしれない。

 

  

A飛行時計・航空時計という19セイコー

 

 陸軍の飛行機用が「飛行時計」であり、海軍の飛行機用が「航空時計」と呼ばれる。

 

 19セイコーのムーブメントを使った飛行時計は、93式と100式の2種類がある。

 93式は、スモールセコンド方式で、「12」のすぐ下に配置されている。昭和8年(1933年)に制式採用。

 100式は、出車式中三針のセンターセコンド方式で。昭和15年(1940年)に制式採用。

 

 19セイコーのムーブメントを使った航空時計は、スモールセコンド方式のみで、「6」のすぐ上に配置されている。

 振動防止装置付きだが、『精工舎懐中時計図鑑』には坂井三郎氏の指摘が紹介されている。それによると、「強烈な衝撃を十分に吸収できず次々に故障」したため、 

 パイロットは「計器盤から航空時計を外し首から提げるのが通例となった」という。

 

  

@軍用時計という19セイコー

 

 19セイコーがそれまでの鉄道時計・交換時計の他にも姿を変えて登場してくる様は、時計というものが戦争にとって欠かせない精密機械ということを教えてくれる。

 

 それらは一般に「軍用時計」と呼ばれ、さらに細かく分類される。飛行時計(陸軍)・航空時計(海軍)をはじめ、自動車時計、盲人用懐中時計(失明傷痍軍人用)、陸軍精密時計(24型)、海軍甲板時計(24型)などがあり、19セイコー自体も15石の将校用などが生産された模様。

 

 昭和13年(1938年)には、精工舎が陸海軍の管理工場に指定され、時計をはじめ時計に関する精密機械を使った兵器などを生産するようになる。

 

 その一方で、鉄道は軍事輸送が優先されるようになり、旅行も制限が始まった。それにあわせて特急列車も徐々に廃止され、昭和18年(1943年)には「燕」も廃止されている。