戦後という時代 →時刻よし!19セイコー
日本の円安を警戒しているのは韓国
日本の円安がはっきりし始めたころ、すかさず反応していたのが韓国マスコミだった。「円安は怖くない」というものだった。しかし、現在は、円安が韓国の貿易赤字の原因であると言い始めている。
韓国の輸出品は、日本の産業から技術移転を受けたものが土台となっているため、被ることが多い。これまではウォン安、円高のために日本の輸出品が割高だったが、この円安で、日本の輸出品が韓国製品に負けないぐらい安くなり、競争力を持ち始めたのだ。
なかなか上がらない日本の物価
1$=130円を悪い円安であると指摘する論説が多く、輸入品の価格が暴騰し、庶民の生活が脅かされるという。確かにいろいろなものが値上がりしているようだ。しかし、アメリカやヨーロッパのように物価が上がっているかというと、そうでもない。そして、今度は、これからが要注意だという。それも本当だろう。円安は始まったばかりだからだ。
その論調の多くが根拠としているのは、日本人が貧しくなる、資産が目減りするというものだ。これはこれで正しい。ドル建てに換算すると確かに目減りするからだ。しかし、上のように物価が上がらなければどうか。少なくとも日本国内での消費には影響はないということになる。円安の影響は、ひとえに物価が上がりはじめてからということになる。
歴史上も不況が通貨の切り下げを引き起こした
事実、歴史を見ても、1929年の世界大恐慌の後に起きたのが、自国通貨の切り下げ競争だった。その中で日本の円が比較的安く、不況からいち早く脱出できそうに見えた。しかし、それをさせじとイギリスやフランスなど植民地を多く持つ国によるブロック経済によって日本は締め出され、満州事変を引き起こすきっかけとなる。
つまり、他国の通貨の切り下げはどの国も認めたがらず、変動相場制にあっては為替介入もひどく嫌う。日本のマスコミは何かというとすぐに為替介入をすすめミスリードするが、為替介入をすると、韓国のように為替操作国としてアメリカ政府に監視され、しかもそれは付け焼刃の対応なので、良いことは一つもない。
ところが、アベノミクスは、日本が異次元緩和をすることを先進諸国に認めさせている。それが結果的に円安になろうともそれは暗黙の了解ということにしたのだ。別の言い方をすると、日本は事実上の自国通貨の切り下げを認められてきたのに、一向に円安にならなかったのが今回の不況の頑強さだったのだ。
戦後は円の切り上げにつぐ切り上げだった
戦後経済の骨子がきまった1949年のブレトンウッズ体制で円は360円と決められた。ドル不安がニクソンショックとして表面化すると、1971年のスミソニアン協定で、円は308円に切り上げられた。さらに1973年には変動相場制に移行し、円は260円まで高くなる。オルショックの不景気で300円に落ち着いていたものの、その後180円まで高くなる。
第2次オイルショックやソ連のアフガニスタン侵攻で再び250円近辺まで下がったが、1985年のプラザ合意で一気に円高が加速し、1987年には120円台にまで上昇。それが1989年160円程度に下落し、バブル経済に突入。しかし、冷戦が終結した後は、周知のとおり円高に見舞われ、日本経済は長い不況に悩まされることとなった。
ドル円の適正なレベルは一概には言えないものの、戦後の日本の歴史を見れば、円の切り上げが続いてきたのは事実だ。そして、これはドルから見れば、切り下げにつぐ切り下げだったわけだ。130円や140円ぐらいで不安をあおるような理由にはならない。むしろ、日銀の目標としている2%のインフレターゲットに照らしても、もっと円安でもかまわないのだ。
アベノミクスとは何だったのか
世界の国々が経済発展をするなかで、長い間、唯一日本だけが停滞したのは、日本のエコノミストがだらしなかったからだ。日本経済を復活させるために、さまざまな論客が議論をしてきた。中には得意げに語っていたエコノミストもいた。しかし、それらのいずれもが効果的な処方箋を示すことはできなかった。そのなかで、成果らしいものをあげたのは、唯一、アベノミクスだけだった。アベノミクスが成功したと言っているわけではない。それらしい解説がいくつも挙げられているが、うまくいっていたら、日本はとっくに復活していただろう。
アベノミクスの最大の成果は、実は日本の異次元の金融緩和政策を欧米に認めさせたことだ。金融緩和は、結果として通貨安を誘発する。そのため、資本主義諸国は他国の通貨安をひどく嫌う。そのなかで、元安倍首相だけがアメリカ大統領やヨーロッパ主要国の首脳に認めさせたのだ。
9年たってやっとその成果が出てきたのが今回の円安なのだ。これがしばらく続けば、日本の国際競争力が復活することだろう。騒ぐにはまだ早い。今までが日本にとって円高すぎただけなのだ。
円安は日本復活のバロメータ
これほどに凋落した日本経済だが、失われた30年を経過してようやく変化の兆しが現れてきた。円安である。日本のマスコミは今回の円安を「悪い円安」と攻撃しているが、黒田日銀総裁や安部前首相の言う通り、この円安は決して悪いものではない。
そもそもドル円の適正な値はいくらだろうか。思い出していただきたい。バブル前の、プラザ合意の1985年は250円だったのだ。これが1995年に80円を切ったのだから正気の沙汰ではない。そしてずっと100円近辺だったのだから日本の企業は苦しんできたわけだ。それがやっと適正に向かいつつあるのが現在なのだ。
サンデーモーニングの1コマ
仕上げは、韓国の文在寅大統領の「二度と日本に負けない。勝利の歴史を作る」との宣言だ。直接には、日本が韓国をホワイト国から除外した(2019年8月)ことを受けてのことだが、日韓関係は最悪な状態になっていた。竹島を巡る問題、せどりを隠すためのレーダー照射問題、慰安婦問題、徴用工問題、旭日旗問題、などなど挙げたらきりがない。
そんななか、TBSの看板情報番組「サンデーモーニング」(2019年11月10日放送)で興味深いことが起きた。韓国を擁護する青木理氏に、田中秀征氏が反論、「あんな対応されたら付き合いきれないよ」と言ったのだ。中韓べったりの番組での予期せぬ反応に、日本の転換点を見たのは私だけではないはずだ。
日本の衰退を予言した言葉
「いまの日本の繁栄は一時的なものであだ花です。 その繁栄を創ってきた世代の日本人がもうすぐこの世からいなくなりますから、20 年もしたら国として存在していないのではないでしょうか。 中国か韓国、 あるいは朝鮮の属国にでもなっているかもしれません」
中国の首相、李鵬の言葉である。時は1994年。オーストラリアのハワード首相に話したとされる言葉だ。この予言とも言える言葉は、半分当たって、半分はずれた、という感じだろうか。果たして現在、実態はどうか。日本は存在していて属国にこそはなっていないが、その内実は大変怪しい。そこに日本の戦略があってのことであることを祈るばかりだ。
とどめは2011年だった
失われた20年になっても回復する見通しがたたないなか、さらに暗い出来事があった。東日本大震災である。前代未聞の津波の被害と福島第一原子力発電所の事故は衝撃だった。
それに輪をかけて世の中を暗くしたのが電力不足による計画停電と民間企業のCMの自粛だった。そして、歴史的円高と呼ばれる1ドル75円78銭という超円高。大災害を受けて苦しんでいるのに、なぜ円高?とは誰もが思ったはずだ。それだけ海外も危機が迫っていたのかもしれないがなんともやり切れない思いが残った。
しかし、この年から2012年にかけてアメリカの日本に対する姿勢が変わったような感触があり、国内では暗いニュースが減っていく。これは大変よかったのだが、この後、競争相手が中国と韓国になったのだった。
実は1997年も大変だった
1996年は自民党が再び単独で内閣を組閣し、やれやれと思いきや、失楽園、アムラーやルーズソックスが流行するといった、世相的には怪しげな雰囲気はあった。それが表に噴出したのが、1997年だ。
1997年は正月からナホトカ号(ロシア船籍のタンカー)が座礁して福井県の海岸は重油まみれになり、3月には東海村の動燃事業所が爆発、4月には前年末からのペルー日本大使公邸に警察が突入、5月は神戸連続児童殺傷事件が始まり、6月には中学生の酒鬼薔薇聖斗が逮捕。9月にはヤオハンが倒産し、X JAPANが解散を発表。10月は安室奈美恵がSAMと結婚したかと思ったら、11月には三洋証券、北海道拓殖銀行、山一證券、丸荘証券が破綻。
今から見ても、本当に痛々しい年だった。そして、ここからしばらく日本は低空飛行が続くのだ。
国内も大変だった1995年
1995年には国内も大変だった。ウインドウズ95の発売や、野茂投手や松岡修造選手の活躍、学校五日制の試行開始など明るいニュースもあったのも事実だが、社会不安が続いた年でもあった。ざっと見ただけでも次のようなものがある。
阪神淡路大震災・マルコポーロ事件・地下鉄サリン事件・警視庁長官狙撃事件・1ドル79.75円の超円高・村山談話・金融機関の破綻・沖縄米兵少女暴行事件・坂本弁護士一家殺人事件の坂本夫妻の遺体発見・高速増殖炉もんじゅのナトリウム漏洩事故。これらは、それまでの日本では考えられないような事件・事故・災害ばかりで、戦後日本の衰退を象徴するような出来事だった。
江沢民のハワイ訪問
アメリカによる日本バッシングが落ち着いたかと思った頃、目を疑うことが繰り広げられた。
1997年に江沢民国家主席が訪米した際、わざわざハワイの真珠湾に立ち寄って献花をし、真珠湾奇襲をした日本を米中共通の敵であると印象づけたのだ。つまり、日米の分断を画策したのだ。
これは中国だけでできたはずもなく、アメリカも加担していた。少なくとも止めることはしなかった。当時、日米はそれほどどうしようもなく険悪な状況だったとも言える。
東芝のラジカセ破壊パフォーマンス
これにダメ押しをしたのが、1987年の「東芝機械ココム違反事件」である。東芝の子会社だった東芝機械(当時)が、ちょうど1982年〜1984年にソ連へ高性能な工作機械とソフトウェアを輸出していたことが明るみになったのだった。これが攻撃型原子力潜水艦のスクリュー音の静粛性に貢献したとされた。
これに対してアメリカ政府は厳しく対応。ホワイトハウスの前で、連邦議会議員が東芝のラジカセをやはりハンマーで破壊するパフォーマンスをしたのだった。
2019年に、NOJAPAN(日本製品不買運動)と称して韓国で行われた、トヨタのレクサスを破壊するパフォーマンスは、これらアメリカの影響であることは言を俟たない。それほどに韓国(人)は、このときの日本がアメリカに叩かれる様子を見て、今度は自分たちにもその資格があると言わんばかりに喜んで再現したのだ。
日本車破壊パフォーマンス
1982年、UAW(全米自動車労働組合)、つまり、自動車産業の労働者が、日本車をハンマーで叩き壊す映像が繰り返し流された。日本車は確かホンダ車だったように記憶している。
当時、日本が輸出していた自動車をめぐって貿易摩擦が起きていた。1ドルでハンマーを振り回させて募金とし、日本車のために解雇された一家のためのお金とされたとのこと。半導体のことを考えると、よくぞ自動車産業はもちこたえてくれたと感心する。
日米構造協議
日本が現在の不景気に陥った原因は一般にバブル経済の崩壊と言われるが、実際はその陰で日本の経済力を確実に削ぐためのアメリカからの強力な圧力があった。
その最たるものが「日米構造協議」である。1989年〜1990年に5回行われた2国間協議である。第2の敗戦と呼ばれる所以もここから来ている。日本がアメリカに徹底的に叩かれた姿を見て、中国も韓国も歓喜した。現在の日中、日韓のしこりはここに元凶がある。そして、アメリカがTPPには入らないという根拠もここにある。表に出てこないだけで、この関係は解消したわけではないのだ。
現在、米中の対立が激しくなり、米ソ冷戦のときと同じような国際環境ができつつある。これは日本にとってチャンスだ。日本の相対的な地位が再び上がり、経済力が復活することを願う。
トロンつぶしは国内でも
ここで興味深い話がある。トロンつぶしは日本国内でも起きていたというのだ。それはPCソフトをアメリカから輸入していた業者と先見の明がなかった日本政府のスタッフだった。
輸入業者の代表がソフトバンク代表の孫正義氏。坂村健氏によると、BTRONから次々に日本企業が脱退し、文科省の教育用PC事業も立ち消えになったとのこと。そして、BTRONを守らず手を引いた日本政府のために、現在の情報通信分野の決定的な遅れを生み出した。
現在、同じことが中国と韓国で起きようとしている。さて、孫氏と日本政府はどのような思いで見ているのだろうか。本気で日本の再起を望んでいるのだろうか。
トロンの敗北
最近、日本の半導体産業の復活を図る政策論議が話題に上ることが多くなった。そのため、なぜ日本の半導体産業が衰退したかについてもネットやテレビでよく見るようになった。原因はもちろん「半導体協定」をはじめとするアメリカの圧力だった。
第二の敗戦、第二の占領と呼ばれ、冷戦で負けたのはソ連だけではなく、我が国日本もだったことをまざまざと見せつけられた。おかげで日本は失われた30年が継続中であり、トロンOSも一旦は葬られた形になった。
最近は急にアメリカが日本の支援(に見える)をし始めたかのように見えるが、それはもちろんアメリカ半導体産業のサプライチェーンの一環としてに違いない。日本が復活の条件は全く新しい技術の確立しかありえない。
はやぶさ2もトロン
国産OSであるトロンの評価は微妙と言わざるを得ない。しかし、惑星探査機「はやぶさ2」の制御に使われていると言えば、その実力のほどはうかがい知れるのではないか。今でも主に日本で生産する家電やロボットの制御に組み込まれていると言われている。
トロン・プロジェクトは、ゴールに「どこでもコンピュータ環境、ユビキタスネットワーク社会」を掲げ、なかでもBTRON使用OSを開発したのが松下電器だったのは記憶しておきたい。そして、これを搭載したPCがPanacomだったが、教育用PC導入の競合でMS-DOSに敗れ、1990年ごろ開発を終了した。ただ、1991年にパーソナルメディアという企業が引き継ぎ、開発されたのが「電房具」シリーズだった。
54 電房具TiPO
日本の国産OSであるBTRON、B-rightを搭載したPDAが発売されたのが1997年秋。CPUはV810で、NEC製のRISC。PDAながらマルチウインドウが軽快に動作するため、パソコン的な使い方ができた。
これを開発したのがセイコー電子工業(SII)だったのは興味深い。これは、モバイルで動くBTRONというサブプロジェクトである「μBTRON」の一環だった。
53 セイコーオートマチック
1956年1月、国産初の自動巻き腕時計「オートマチック」17石が発売された。セイコーにとってエポックメイキングとなる記念すべき腕時計という。当時の手巻き式の価格がだいたい4,000円台だったのに、13,000円以上という高価なものだったという。 大変な人気で、生産が追い付かず、お詫びの広告を出したとか。これが、生産体制を見直すきっかけとなっていく。
この時計、2016年に誕生60周年、セイコー創業135周年を記念して、1956本が限定販売された。価格は86,400円だった。
52 セイコーの1950年代
では、この1950年代のセイコーはどんな様子だったのだろうか。
o1956年(昭和31年)、セイコーが初めて独自設計したマーベル、紳士用機械式腕時計を発売。
o1959年(昭和34年)、クラウン発売。マーベルを基に高精度にした腕時計。
o1960年(昭和35年)、グランドセイコー発売、クラウンを基にさらに高精度化。
つまり、精度の向上とブランドの確立に邁進していたと言っても過言ではない時期で、CMもその一環だったのだ。その一方で、若者市場の開拓は思うように進んでいなかったようだ。
51 精工舎の時報CMに19セイコー
「こちらは日本テレビでございます。
時間が世界一正確と言われる日本の国有鉄道は、
標準時に合わせた精工舎の時計で動かされています。
つばめ号も駅長さんの精工舎の時計で
9時ちょうどに東京駅を発車します。
精工舎の時計が正午をお知らせします。」
1953年のテレビCMで、精工舎の時報を知らせるCMのナレーションである。画面に出てくる時計は、なんと19セイコー。ブレゲ数字の1〜12、「SEKOSHA PRECISION」のみ、スモセコのインダイヤルは銀色の個体である。面白いことに、秒針はうまく見えないようにしてある。SECOND SETTEING機構がまだない機種だったための工夫だろうか。
㊿ テレビCM第1号も精工舎
「戦前という時代」でCM第1号がMBSラジオの開局時のもので精工舎だったことを取り上げた。実はテレビのCM第1号も精工舎だった。日本テレビの開局の正午(1953年8月28日)だったということだ。
YouTubeを見てみると、ニワトリ君のアニメのCMがアップされている。貴重なものには違いないが、よく見ると、これは7時の時報になっている。HP『テレビCM史研究拠点』によれば、CMは頻繁に新作が出ていたということで、ニワトリ君のCMも開局当日のものでもないようだ。
㊾ 5G向けPTPグランドマスタークロック
セイコーソリューションズからPTPグランドマスタークロックTSシリーズが出荷されている。モバイルキャリア向けの屋外設置用だ。4Gから5Gに移行するにあたって、より高度な通信方式が必要とされ、基地局間で高精度同期が必要なのだ。 5Gモバイルネットワーク構築に必要な絶対時刻との誤差は±40ナノ秒。これが㊾で示した0.00000004秒ということだ。
では、PTPとは何か。時刻同期プロトコルPrecision Time Protocolのことで、コンピュータネットワーク全体で時刻を同期させるための通信プロトコルのこと。ネットワークの時刻は、グランドマスターに直接同期する。PTPの時刻は国際原子時(TAI)に基づく。
4Gまで使用してきたNPT(Network Time Protocol)は、協定世界時(UTC)に基づいているため、地球の自転の影響を受ける。それを時刻のずれとして「うるう秒」で修正しなければならない。つまり、時刻体系に伸び縮みがあることになり、使いにくかったということだ。
㊽ 5Gの規格を決めている組織
「国連傘下の専門組織ITU(国際電気通信連合)と民間団体の「3GPP(3rd Generation Partnership Project)」の2つがある。3GPPが検討した規格を技術提案書として、ITUに提出して国際標準として認定するという関係にある。5Gなど世界共通で使われる無線通信システムを実質的に検討しているのは、3GPPである。」(HP『日経ビジネス』)
3Gとあるのは、3Gの規格化を機に立ち上げた経緯があり、4G・5Gも規格化している。規格は「リリース」に番号がふられており、超高速と超低遅延はリリース15、多数同時接続はリリース16となっている。㊻の0.00000004秒はコアになるシステムのもので、端末では0.001秒(1ミリ秒)の低遅延といことだ。ここに訂正したい。
㊼ 低遅延の問題
今年2020年6月24日のニュースサイト『快科技』に<なに?韓国で600万人以上が1年以上使っていたのは「偽の5G」?>という記事が掲載された。韓国は2019年4月に、世界初の5Gを商用化したと胸を張ったが、通信速度は5Gのレベルに達しておらずアメリカの半分以下という偽の5Gだったというのだ。しかも接続が切れ、使い物にならないため損害補償したというニュースも入ってきている。
5Gとはそれほどに低遅延の実現は難しく、物理的にどうしてもわずかな遅延が起きるものなのだ。だが、5Gを実現する技術は、意外にも全く新しいものということではないというのだ。低遅延を実現するために、メーカーはさまざまな技術で高性能化を図ることになるのだ。
㊻ 5Gが可能とすること
5Gのスマホが登場し始め、いよいよ次世代通信インフラが本格化してきた。5Gの特徴は、「高速大容量」「高信頼・低遅延通信」「多数同時接続」とされており、特に、「低遅延通信」というのは通信時間が短く、0.00000004秒の遅延までしか許されていないという。
これは、ほぼ同時に通信ができるということであり、それによって実現するのが遠隔制御。つまり、クルマの自動運転は5Gなしには実現できないものということだ。ということは、自動運転は常にネットに接続して可能な技術ということになる。今問題となっている高齢者の運転や過疎地の公共交通機関網が解決されることが期待されている。これはとてもいいことだ。しかし、便利さとは裏腹に、プライバシーなどというものはなくなる社会になるのかもしれない。
㊺ 5G通信にも水晶発振器
今話題になっている5G通信、身近なところでは5Gスマホにも水晶発振器が入っている。その大きさは、2019年7月に大真空とうい企業が、1.0×0.8×0.29mmという大きさの水晶発振器「Arkh.3G」を発表している。
つまり、現代でも通信機には水晶発振器が使用されているのだ。それは、信頼性でも、コストの面でも、これ以上の発振器はないということを示しており、今後しばらくそれは変わらないことが予想される。これをもって水晶発振器をはじめとする水晶デバイスは「産業の塩」と呼ばれている。
㊹ 日本における人工水晶
日本では、戦後になって研究が本格化。1953年(昭和28年)に山梨大学において国富稔教授、滝貞夫助手、浅原準平助手が開始。1954年(昭和29年)に、人工水晶を成長させる高温高圧炉(小型オートクレーブ)で、日本で初めて人工水晶を製造した。これが新聞で報道され、当時の東洋通信機が共同研究することになる。
1959年(昭和34年)には大きな結晶を製造するようになる。しかし、その品質には難があった。結晶の格子が大きく、不純物が入っていたのだ。そのため、研究を続け、1970年(昭和45年)にそれをクリヤ。天然水晶と遜色ない人工水晶をつくりあげられるようになったのだ。東洋通信機は、現在、エプソンの傘下にあり、社名を「エプソントヨコム」という。
㊸ 人工水晶
水晶というと、今ではクォーツ時計の水晶振動子が思い浮かぶが、実は戦前から有線通信機や無線通信機に欠かせない軍需物資でもあった。勿論、初めは天然水晶が使われており、大きな水晶は貴重であって、工業用に大量に入手するのは難しかった。
そのため、人工で作り出す研究は早くから取り組まれており、1845年 、Scharhaütlが. 珪酸ゲルと水を高圧容器内で加熱し,顕微鏡で確認できる大きさの結晶を得たのが最初の実験と言われている。そして、1905年にイタリアの鉱物学者ジョージ・スペチア氏が人工水晶育成(水熱合成法)に成功。ベルヌイによる人工ルビーの開発が1904年であるので、だいたい同じぐらいの時代だったことがわかる。1930年代になると、ドイツ、アメリカ、イギリス、ロシア等で人工水晶の研究が盛んになった。
㊷ 年差±1.0秒をスタンドアローンで実現
シチズンCITIZENによると、電波塔や人工衛星からの時刻情報に頼ることなく、自律した時計内部の機構だけで達成しているという。一般的なクオーツ時計の「音叉型水晶振動子」ではなく、「ATカット型水晶振動子」を使用し、8.4MHz(8,388,608Hz)という通常の音叉型水晶振動子の250倍以上の周波数を使用しているとか。しかも、光発電で駆動する。世界一の精度を誇ると言っても過言ではないだあろう。
㊶ 驚異的なキャリバー0100
クォーツ時計の精度と言えば無視できないのが、シチズンのキャリバー0100。なんと年差±1.0秒。これは、一般向け腕時計用としては尋常な精度ではない。2019年は、このムーブメントを搭載した腕時計が登場。値段も80万円・180万円とけっこうな額になっている。このキャリバー、いったいどういった構造になっているのだろうか。
㊵ 水晶振動子の選別
さらに、水晶からつくる「水晶振動子」は個体差があるのだ。そのため、水晶に90日間通電して振動させ続け、ひずみが解消されて本来の性能が出てきたもののなかから、キャリバー9Fに使用する水晶振動子を選んでいる。
水晶振動子は、温度、電源電圧、負荷を一定に保っても、長時間経過すると変化する。この変化の割合を「エージング・レート(経時変化)」という。加工時に水晶片に加えられた歪みが解消されたり、内部材料から出るガスが水晶に付着することで生じたりすると言われている。
そのため、上記のような作業をすることで、初期の不安定要因を取り除き、安定した動作をさせるのだ(エージング)。キャリバー9はこの作業を入念に行っていることになる。
㊴ グランドセイコーのクォーツムーブメント
セイコーのグランドセイコーにもクォーツムーブメントがある。その名も「9Fキャリバー」。通常のクォーツムーブメントなら月差±15秒といったところ、この時計は年差±10秒とのこと。このムーブメントは、「厳選された水晶のみを使用して高精度を実現」などと記載されている。そして、クォーツムーブメントながら、「緩急スイッチ」なる進みと後れを調整できるようになっている。
こう見てくると、やはりコンピュータの時計は、クォーツと言えども、補正を前提に使うべきものということがわかる。
㊳ クォーツ時計にも精度差がある
クォーツ時計は、「きわめて正確な一定周波数の電気振動を発生させる水晶発振器で運行を制御する時計」(世界大百科事典)という説明になっている。よって、クォーツ時計の精度は「きわめて正確」であるので、どれも同じと思っていないだろうか。電波時計等を除いた純粋なクォーツ時計の精度を、メーカーや小売店のHP等で調べてみると、不思議なことに外国メーカーのクォーツ時計は、正式な精度表示が少ない。しっかりと表示しているのは日本のセイコーとシチズンぐらいのようだ。わかったものを挙げると、下のようになった。
・セイコークオーツアストロン35SQ 日差±0.2秒、月差±5秒
・エプソン トゥルーム 平均月差 ±15秒 GPS受信が行われない場合(気温5度〜35度)
・CITIZEN 「Cal.0100」 年差±1.0秒
・オメガSEAMASTER AQUA TERRA 150 M QUARTZ 38.5 MM 日差ー0.5〜+0.7秒
・カシオGショック・モジュール(5081) 表示なし
・ブライトリング「コルト クオーツ」 表示なし 年に±10秒ほど
・BULOVA CURV 98A185 年差±10秒 通常の約3倍
・ロンジン 表示なし
クォーツ時計にも精度の差があることがわかる。
㊴ コンピュータの時計
コンピュータの時計は、コンピュータに内蔵されているものなのだから、無条件で正確なのではないかと思いがちなのだが、実際にはそうではないようだ。だいたい、スタンドアローンのクォーツ時計であれば、いくらクォーツ時計といえどもズレていく。他にも下のような理由があるようだ。
@使われている水晶そのものの質が悪い。質にばらつきもある。
A想定された室温より高かったり低かったりする。
Bパソコンから出る熱が、何かの理由で水晶振動子に影響している。
C調整が不十分なまま出荷されている。
常に正確にしておくための最も重要なことは、コンピュータ自体が時刻を補正するようにしておくことだ。コントロールパネルで「時刻を自動的に設定する」の設定を「オン」にするか、インターネット時刻を「time.windows.com」に設定しておくと便利。あとは、コンピュータを使う環境を整えることだろう。これは時計だけでなく、他の機構や部品のためにも必要だ。使うときだけでなく、使わないときも極端に暑すぎたり寒すぎたりしないようにすることだ。
㊱ エプソンのコンピュータ
エプソンというと、今では、プリンタなどコンピュータの周辺機器のメーカーというイメージがある。しかし、日本のコンピュータの黎明期には、エプソンもコンピュータを開発・製造していた。
それらコンピュータは大きく分けて4種類ある。HC-20〜HC-88までのハンドヘルド・コンピュータ。QC-10〜QC-11のデスクトップ・コンピュータ。IBMのPC互換機のEquityシリーズ。そして、NECのPC-9800の互換機であるエプソンPCシリーズ。である。
㉟ セイコー クオーツアストロン 35SQの開発はエプソン
世界初のクォーツ腕時計の名前にはセイコーとついているので勘違いしている人も多いと思われるが、開発はエプソンだった。その性能は、月差±5秒、日差±0.2秒(当時機械式時計:日差20秒)で、45万円だった。エプソンは、当時は信州精器(諏訪精工舎の子会社)といった。現在、エプソンは確かにセイコーグループではあるが、独立した会社となっている。(誤解されているのは、むしろこちらか。)
この時計は画期的であったことから、1970年1月5日にニューヨークタイムズに、「水晶装置を持ち超高精度の日本製ウォッチ」として取り上げられた。また、2004年にはIEEEマイルストーン(米国電気電子技術者協会)に歴史的偉業として認定されている。
㉞ EP-101
社名エプソンの名前の由来となった小型プリンタ。EPはElectric Printerの略。エプソンの前身である旧信州精器が開発した世界初の小型軽量デジタルプリンタの名前である。電池で動き、主に電卓の内蔵プリンタとして使われた。
元々は、東京オリンピックの公式時計用に開発したプリンティングタイマーの技術で、それを応用し4年の歳月をかけたものだった。プリンティングタイマーとは、スポーツ競技のタイムを計測する機構とそれをプリントする機構を組み合わせたシステムのことで、1000分の1秒まで計測可能だったとか。
EP-101は1968年に発売を開始し、累計販売台数144万台を記録。このEP-101の子ども達(SON)も世の中に広がっていくようにという意味を込めて、信州電器のブランドとしてエプソンを採用したのだった。
㉝ G15というコンピュータ
HP「メガエッグ」に、そのスペックが紹介されている。このコンピュータを使ったオンラインシステムは、当時、「テレプロセッシングシステム」と呼んだようだ。
「G-15は米ベンディックス社が1956年にリリースしたコンピュータ。180個の真空管と300個のゲルマニウムダイオードを使用している。メモリは磁気ドラムを使用し容量は29ビット/ワードで2,160ワード分である。」
G15の大きさは、当時としては画期的で、高さが約150cm、幅・奥行は約90cmだった。基本システムは当時、4万9500ドル。主任設計者はハリーハスキー。日本に導入された初めてのコンピュータでもある。
ベンディックス社は、1924年から1983年にかけてアメリカに存在した製造およびエンジニアリング会社。自動車や航空機、宇宙工学、ミサイル、コンピュータなどその技術は多岐にわたる。創業者はビンセント・ベンディックス。ベンディックス社のコンピュータ部門は、1963年にコントロール・データ社(CDC)に売却されている。
㉜ 世界初のオンラインシステムは日本の国鉄
国鉄は、1960年に、アメリカのベンディックス社「G15」で、東京―大阪間の貨物列車編成用のオンラインシステムを稼働している。同じ1960年に、東海道線の新型特急「こだま」の座席予約システムが運用開始。1日4列車の15日分の予約を処理。きっぷは発券できなかったので、プリントされたデータから手書きでキップを作成したとか。これが世界で初めてのオンラインシステムであり、1966年(昭和41年)に、「MARS(Magnetic Electronic Automatic Seat Reservation System)」(マルス)と名付けたのだそうだ。
東京オリンピックの運用にオンラインシステムが1964年に稼働したため、一般にこれが世界初とされることがあるが、国鉄は1959年には東京−大阪間でコンピュータによるデータ伝送に成功していた。開発者は、東京電子計算サービスから国鉄に出向していた津崎憲文氏。FORTRANとASSEMBLERで開発したという。
㉛ 電磁パルス攻撃(EMP)時の時計
最近、話題に上ることが多くなった電磁パルス攻撃(高高度核爆発)に、時計は機能するのだろうか。結論から言えば、電子機器が内蔵されているスマートフォン、スマートウォッチ、電波時計、クォーツ時計は、本体そのものが使えなくなる。そもそも社会的インフラがストップするので、正確な時刻を知る意味もなくなるだろう。前近代的な生活に甘んじなければならなくなるわけだ。
機械式時計はどうか。機構的には問題ない。電子機器が使われていないので使用できるはずだ。しかし、時刻整正が前提の機械式時計は、長くは正確さを保てないはずだ。大まかでよければ、太陽の南中を見つけ整正することは可能かもしれない。しかし、それには南を正確に測定する必要がある。
㉚ ピース・ウォール
イギリスの国境問題と言えば、もう1つ。北アイルランドとアイルランド共和国との国境だ。イギリスとアイルランド共和国がEUに所属していた間は、国境では検問がなく、国境はあってないようなものだった。ところが、ブレグジットが混迷している現在、重大な問題になってきている。
いわゆる「ピース・ウォール」の存在である。NHKBSの「関口知宏のヨーロッパ鉄道の旅 日めくり版」でも紹介された。長いものを「ピース・ライン」という。かつて紛争があったことを示す観光のための遺跡としてではあるが、今でも残されているのだ。イギリスとEUとの交渉次第では、このピース・ウォールが復活し、通関手続きをしなければならなくなるかもしれない。
これは、北アイルランドの帰属問題とも絡み、イギリス・アイルランド共和国、そして、EUはこの問題の重大性は認識しており、国境の厳格化を避けたいと考えているようだ。しかし、それではブレグジットのそもそもの意義がないがしろにされてしまう。解決策はなかなか見えてこないのも事実だ。
㉙ ユーロトンネル
㉔㉘で出てきたユーロトンネルは、正式には英仏海峡トンネルと言う。ドーバー海峡の海底下を潜る鉄道用海底トンネルである。全長は約50.5kmで、日本の青函トンネルに次いで第3位の長さとなっている。ちなみに第1位はゴッタルドベーストンネル(アルプス山脈を潜り抜けるスイスの鉄道トンネル)である。
ナポレオンも夢見たこのユーロトンネルは、1984年にイギリス・フランス間で合意に至り、1986年5月に着工。掘削には、川崎重工製のTBM(トンネルボーリングマシン)もフランス側から参加している。1991年5月22日に本坑が貫通。1993年12月に完成したのだった。
㉘ ユーロスター
日本経済新聞(2018.10.13)夕刊に、「ユーロスター運休も 合意なし離脱なら」とうい記事が掲載された。イギリスが欧州連合(EU)との合意なしに無秩序に離脱する場合、イギリスとヨーロッパを結ぶ高速鉄道「ユーロスター」が一定期間運休する可能性があるとのことだった。
ユーロスターは、ロンドンとパリ、ブリュッセルを結ぶ国際列車。イギリスとフランスの間にあるドーバー海峡の海底をトンネルで横断している。車両はTGVをベースとしてフランス・イギリス・ベルギーが開発した高速鉄道で、時速300kmで走る。ユーロスターが運休なら、ル・シャトルも同じなのではないか。
㉗ 銀河鉄道999
言わずと知れた松本零士氏の漫画を原作とするアニメである。1978年から1981年までテレビ放送され、当時、大変な人気を誇った。宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』と『青い鳥』のオマージュでもあり、この作品に登場する列車は「C62形蒸気機関車」の形をした、AI搭載銀河超特急という設定になっている。宇宙の旅なのに蒸気機関車の形をとっているのにはいくつか理由があるとか。1つはお客のための演出。もう1つは銀河鉄道の存在が公にされていないためのカムフラージュである。
宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』に出てくる列車について、<「この汽車石炭をたいていないねえ」とジョバンニは言った>という箇所をとらえて、蒸気機関車ではないという書き込みを時々見る。確かにその通りなのだろう。しかし、その形まで蒸気機関車ではないとはどこにも書いていないようだ。となると、松本零士氏の、C62形蒸気機関車にカムフラージュしたという設定が俄然生きてくるではないか。
よく考えてみれば、『銀河鉄道の夜』の列車は「天上」を走るのであるから、蒸気機関車では走れない。当然、新しい動力でなければならない。お話の中で出てくる、アルコールや電気も当時の人の推測でしかなく、それは的外れなことを言っている場面であるととらえた方が間違いがないのではないか。ましてや、ファンタジーの走りの物語であるととらえれば、蒸気機関車とその客車の形をした列車というのも、あながち的外れではないように思えるがどうだろうか。
㉖ EH10形
『きかんしゃ やえもん』にEH10形直流電気機関車が出てくる。大垣―関ケ原間の6kmにも及ぶ10‰の勾配を、それまでは蒸気機関車で越えていたのを、東海道本線の電化に伴ってこの勾配を越えるために開発された大型電気機関車だった。配置は1954年。
H形と示している通り8動軸式で、ちょうどD形4動軸式の車両を2両つないだような形だったとか。そのあまりに大きな筐体からマンモスと呼ばれた。全長22.5m、重量116 tという長大で超重量級だったため、東海道本線専用車と呼べるものだった。
『きかんしゃ やえもん』では新しい機関車として登場する。まさに電化の時代にふさわしい電気機関車であり、やえもんのことを「びんぼう汽車」と呼ぶ。つまり、下のDD12形のディーゼル機関車とこのEH10形の電気機関車はヒール役として登場しているのだ。しかし、当然のことではあるが、EH10形も昭和57年(1982年)には全車両が廃車となった。
㉕ DD12形
戦時中に、小牧飛行場(陸軍)へ航空燃料を運送するために、名鉄大曾根線(現名鉄小牧線)からの支線と、名鉄春日井駅と名鉄牛山駅の間に分岐信号所を設置する計画だった。開設は戦後となり、1945年10月に、この信号所は牛山信号所と呼ばれた(1951年に豊山駅に昇格)。当初、この支線はまだ電化されておらず、ディーゼル機関車であるDD12形(名鉄の形式名はDED8500形)が走っていた。この支線は1968年に廃止されている。
このDD12形は、終戦直後にGHQが日本に導入した車両で、ゼネラル・エレクトリック (GE) 社製。標準軌用を狭軌用に改造した電気式のディーゼル機関車だった。GHQは日本の鉄道が壊滅状態になっていると推測していたのだが、何とか稼働しているのを見て8両のみ導入。そのうちの2両が名鉄に払い下げられていたのだった。このDD12形、実は『きかんしゃ やえもん』に登場している。
㉔ ユーロトンネル・ル・シャトル
1994年に開通したユーロトンネル(イギリス-フランス)を走る列車のこと。イギリスのフォークストンとフランスのカレー間(35分)のみの運用。カーフェリーの列車版と言えばわかりやすいだろうか。
牽引しているのはユーロトンネルクラス9電気機関車で、自動車用の貨車を引っ張る。貨車へは自動車、バイク、自転車は2階建て貨車へ、バス、トレーラーは1階建て貨車へ、そのまま運転して入るという。ただし、客車はなく、クルマのなかで過ごすか、通路などへ出ることは可能とか。
㉓ 中国の高速列車 CRH
中国の高速列車は、「中国鉄路高速China Railway High-speed」といい、CRH型と表記する。2007年から開始。中国では、「和諧号」という。
@ CRH1…カナダのボンバルディア・トランスポーテーションの Regina 、Zefiro250がベース。
A CRH2… 日本の川崎重工業の新幹線E2系電車がベース。
B CRH3…ドイツのシーメンスのヴェラロ (ICE3) がベース。
C CRH5…フランスのアルストムの ペンドリーノ(ETR600)がベース。
D CRH6…都市間鉄道中距離電車として開発された車両。
E CHR380A〜D…CRH1〜CRH3をベースにしている。
CRH4は欠番のようだ。ご覧のとおり、外国の車両をベースに開発されているが、中国政府は自主開発と発表している。2011年7月23日に浙江省温州市で発生した事故は、CRH1型にCRH2型が追突した事後だった。事故後、現場の高架下に埋められた事故といえば思い出されるだろうか。
㉒ ドイツの高速列車 ICE
ドイツ鉄道の「イー・ツェー・エー」(Intercity-Express)は、都市間急行と訳す。1991年に運行開始。当時の最高速度は時速250kmで13両編成だった。2002年には、時速300kmまで向上した。
現在、5種類のICEが運行されており、ドイツ国内の主要都市間での運用に加えて、スイスやオーストリアへの乗り入れもされている。2007年にはパリにも乗り入れた。第4世代ICEのICE 3は、8両編成で、時速330km。標準軌のため、在来線へも乗り入れる。新幹線では2000年に廃止された食堂車が、このICEは健在とか。
㉑ 新幹線のライバル TGV
フランスの高速鉄道「(le) Train à Grande Vitesse」である。フランス語で、意味はそのまま「高速鉄道」。1981年というから、新幹線の開業(1964年)から遅れること17年にパリ - リヨン間が開通した。標準軌(1435mm)のため、在来線も標準機であるフランスでは、既存の駅などに乗り入れが可能という。また、はじめはガスタービン車が試行されたようだが、オイルショックのために、結局架線からの電力供給による交流電化となった。25,000ボルトというのは日本の新幹線と同じ。
このTGVは、ユーロスター(英仏海峡トンネルでイギリスと直通)やタリス(仏・白・蘭・独と直通)として一部が使用されている。また、スペイン国鉄のAVE、韓国国鉄公社のKTX、アメリカのアセラ・エクスプレスは、TGVの技術をベースにした車両となっている。ところが、このTGV、「inOui(イヌイ)」というブランド名に改称中なのだそうだ。また、フランスには、ほかにも「Ouigo(ウィゴ)」なる低価格の高速列車もあるのだとか。
S モータリゼーションと鉄道
モータリゼーションとは自家用乗用車の普及のことを指す。最も早くモータリゼーションが進んだのはアメリカで、1908年にT型フォードは発表され、1913年から量産開始。1920年代後半からモータリゼーションが始まったとされる。このとき、日本はまだ大正から昭和初期だった。
日本にも自動車そのものは19世紀末と早くから輸入されていた。しかし、自動車産業は未熟な段階で、戦時体制の下、主に軍用に注力する状態だった。戦後、モータリゼーションが進展するのは昭和30年代後半だった。徐々に鉄道離れが進み、1970以降になると鉄道の駅を中心とした従来の商店街は衰退し、大型の駐車場を備えた郊外型の大型ショッピングセンターが発展する。
新幹線は、戦後の復興と東海道線の輸送能力の限界が要因となって計画されたのであり、当時の鉄道需要の増加に応えたものだった。ところが、東海道新幹線が開業したのは1964年(昭和39年)である。ちょうどモータリゼーションが進展し始めたころで、それから間もなく従来型の鉄道の衰退が顕著となり始める。当時、「第2の戦艦大和」と揶揄されたのも無理からぬことだろう。ところが、この鉄道の衰退を救ったのが新たな需要を掘り起こした新幹線だったことと、現在の各国の高速鉄道の隆盛ぶりを見ると、鉄道への貢献は計り知れないものがあったことになる。
R リニアモーターカー
2018年3月初め、リニア中央新幹線の建設工事で大手4社が談合したとして逮捕者が出ている事件が紙面を賑わせている。正式名は「中央新幹線」で、東京−大阪間を67分で結ぶ計画を指す。2037年に完成をめざす超電導磁気浮上式リニアモーターカー(略してリニア)のことで、最高速度は505kmという。
磁気浮上を利用するアイデアは、意外と古く、1902年にドイツのアルフレッド・ゼーデンが磁気浮上列車の特許を得ており、1914年にイギリスのエミール・バチェレットが世界初の電磁誘導反発式の磁気浮上リニアモータのモデル実験を行っている。また、1922年には、ドイツでヘルマン・ケンペルにより電磁吸引式浮上の開発を始めており、1934年に基本特許をドイツで得ている。
日本では、1962年に鉄道総合技術研究所を中心に研究が始まり、1999年に山梨実験線による有人走行試験で時速550kmを達成した。
Q JRの誕生
国鉄(国有鉄道)は、それまでの巨額の赤字が原因で分割民営化され、「JR」(Japan Railways)が昭和62年(1987年)4月1日に発足した。平成13年(2001年)6月27日にはJR会社法が改正されて、JR東日本、JR東海、JR西日本の純粋民間会社(非特殊会社)化が実現した。その後、3社については株式が順次民間へ売却され、平成18年(2006年)4月に「完全民営化」が実現した。そして、平成28年(2016年)10月25日には、JR九州が「完全民営化」を果たすこととなった
JRは、当初、6つの旅客鉄道株式会社と1つの貨物鉄道に分割され、JRはこれら企業の総称であり、通称だった。社名の「鉄」という漢字は正式にはこの漢字だが、ロゴ文字には縁起をかつぐために「鉃」が使われた。(「金」を「失」うにつながるため)
世界に目を転じると、鉄道を国が所有したり管理したりする国が主流で、日本のように民営化している国はイギリス(1994)ぐらいか。イギリスの鉄道は私鉄から始まったが、第一次・二次世界大戦時に国の管理下に置かれ、戦後国有化されていた。興味深いことは、アメリカ政府は鉄道を所有したことがないという。
Pシベリア鉄道が東京まで来る?
シベリア鉄道が全線開通したのが1916年。その101年後の2017年9月に東方経済フォーラムで、非常に興味深い提案がロシア政府から日本政府にあったという。
その内容は、シベリア鉄道を日本の東京まで拡張するプロジェクトだった。ウラジオストクからサハリンに乗り入れ、サハリンから北海道までつなぐという。このプロジェクトには、プーチンも本気であるという報道が流れている。
これに似た計画は、実は今までにも何回も浮上したことがあるとか。最近も、2013年にロシア極東発展省が提案していた。もちろん、日本政府は費用対効果の点から疑問視しているが、安全保障上の問題も無視できない。つまり、これはロシアに対する日本の信頼がなければ実現しない案件なのだ。
O 自衛隊にもあった鉄道部隊 第101建設隊
1960年(昭和35年)に、陸上自衛隊内に編成された部隊で、第101建設隊という。しかし、モータリゼーションの影響でわずか6年余り(1966年)で廃止されてしまう。
任務そのものは、戦前の陸軍の鉄道連隊と同じことになるが、専守防衛の自衛隊であるので、想定は国内が戦場となった際の鉄道の復旧や敷設・保全である。当時は災害時の鉄道の復旧や国鉄のストライキ時の輸送の確保が主なものとなった。
N 石北本線の動画
「雪の鉄路を走り続けて 〜北海道 旭川・北見〜」<平成21年(2009)1月23日放送>
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NHKBSで放送された。1月26日にはNHK教育でも放送された。ナレーションは森田美由紀アナウンサーで、レポーターは石井正則氏。平成20年(2008年)12月9日の取材。
評判がとてもよかったらしく、ネットにもとり上げられているのをよく見る。わずか25分の放送番組だが、2人の運転士が協力して北見峠と常紋峠を往復する様子が映し出されており、苦労している様子が伝わってくる。機関車はDD51で、プッシュプル方式。全長260mにもなる55個のコンテナを、10時間で往復180kmを走り切る。ナレーションでは、雪は車輪がすべりやすく、雨でも油断できないと言っている。このときは何のことかよくわからないのだが、後で、列車が止まると、一旦平坦なところまで戻らないといけない。そのためにもレールに砂を撒き、前後の機関車で速度を調整しながら、とにかく止まらないように運転しなければならないと紹介している。
実際、途中で列車が止まりそうになり、走り切った後の峠のところで、これはバックしなければならないかと思ったという運転士の言葉が印象的だった。止まりそうになる原因が車輪の空転で、運転士は運転台のランプやブザーだけでなく、窓をあけて車輪の音を聞き取ろうとするシーンも出てきた。
北見峠 …標高857m。勾配がきつく、急カーブが8km。旭川駅から1時間のところ。
常紋峠 …標高390m。急こう配とS字カーブが5km。遠軽駅から30kmのところ。
この番組のなかでは、実際に列車が止まりそうになったところは、帰りの吹雪になった北見峠だった。空転が起きている先頭の機関車の出力を下げ、その分後ろの機関車の出力を上げて空転を止めようとするが…。見ている者もわかる異音がして、先頭の運転士が「あ〜!」といったところは緊張感があった。
M 二重連が有名な峠
アクティブレイドのなかで、「常紋峠」とずばり言っている。北海道の石北本線の生田原駅と金華駅の間にある峠のことで、かつて蒸気機関車D51の二重連を撮影するためにマニアが訪れ、聖地と言われた。それは、ディーゼル機関車DD51になっても変わらず、多くのマニアが訪れているという。石北本線の終点はあの網走である。
25‰の勾配とうねうねと曲がる急カーブ、そして常紋トンネルを、貨物列車はゆっくり上る。冬であれば−10℃〜−30℃にもなる難所であり、生田原駅から約10.3 kmの地点にあった常紋信号場は、急勾配での発進ができない列車のためにスイッチバック方式の配線となっているという。
この地方は、苛酷な開発の歴史を背負っている。網走に刑務所がつくられたのも無縁ではない。明治政府は、囚人を労働力として活用し、北海道の防衛と開拓を進めた。そのため、町の発展は囚人とともにあったといっても過言ではなく、常紋トンネルや隣の北見峠付近の道路の工事では、その労働の苛酷さのため命を落とした人も多かったと聞く。
この石北本線は赤字路線であり、今後もかなりの経費が掛かる見込みとなっており、存廃問題が持ち上がっている。
M DD51の二重連
アニメ『アクティブレイド』に、DD51の二重連が出てくる。「国鉄DD51形ディーゼル機関車」、通称「ででごい」。1962年(昭和37年)から1978年(昭和53年)に製造されたディーゼル機関車で、蒸気機関車から無煙化にシフトするための本格的な幹線用主力機として登場した。
最大出力1100psのV型12気筒エンジンを2基搭載し、軽量化と牽引力を兼ね備え、長い間活躍した貨物用機関車である。横から見ると凸型で、運転席が真ん中。ディーゼルエンジン2基と2軸駆動の台車が前後に配置され4軸8車輪となるので、DDとなる。
機関車を2台つなげることを「二重連」という。たくさんの貨物車輛をひっぱり、長い峠を上るための処置で、マニアにとってはたまらない情景となる。運用上の理由で、同じ二重連でもプッシュプル重連(前引き後押し)という、一番前と一番後ろに機関車を配置する形をとるときもある。どちらも雰囲気は十分である。当然のことながら、DD51が登場するまでは、蒸気機関車の二重連だった。
L旧ソ連の懐中時計
シベリア鉄道を運用するために、ソ連でも性能のよい時計(鉄道時計と言ったかどうかは不明)が製造され使用されたはずである。1990年代になると、崩壊したソ連からたくさんの懐中時計が世界に流出したと言われている。ヤフオクでは、今でも時々出品されているのを見る。
ヤフオクでは、「モルニヤ」という時計メーカーのものをよく見る。1947年に設立され、ソビエト連邦国防省が当初の顧客だったようで、懐中時計のほかにも、軍用時計や宇宙船用の時計も製造していた。
ソ連という国は、かつてアメリカと覇を競った国だ。1930年に、スターリンの命令で創設された国営工場としてモスクワ第一〜第三時計工場がソ連の時計産業の基礎になっている。それらの時計工場由来のブランド(ポレオットなど)がいくつか立ち上げられている。ソ連は周知のように宇宙開発を積極的に進め、軍事力でもたくさんの核兵器を開発したので、時計に関してもかなりの技術をもっていたのではないかと思われるのだが、流出してきている時計に関しては西側諸国の時計に及ばない。
K元号(げんごう)
「天皇陛下 再来年4月30日退位 皇太子さま5月1日即位 固まる」<2017年(平成29年)12月4日NHK>
現在の元号は、「元号法」(1979年 昭和54年)に基づいて、政令によって制定される。終戦直後、1947年(昭和22年)には皇室典範が改正され、元号の法的根拠がなくなった。そのため、この後、新元号の制定や元号の廃止などが議論されたようだが、結局、手をつけられることもなく昭和がつづいた。
元号は、中国の漢時代、武帝が定めた「建元」が最初とされる。一世一元の制(皇帝の即位の間は同じ元号とする)は、明時代の朱元璋の「洪武」から始まったとか。日本は、有名な「大化」が最初で、一世一元の制は「明治」からとなる。
皇帝は、空間(領土)と時間(暦・元号)を支配するとされ、皇帝の定めた暦と元号を用いることが、皇帝の主権の正統性を認めた(皇帝の支配を認め、臣下となる)証拠とされた。これを「正朔を奉ずる」(皇帝の統治をつつしんで承る)と言う。
よって、王朝に対して反乱した勢力、あるいは、勢力の及ばない周辺諸国は、しばしば独自の元号を建てた。日本の元号は、中国の冊法を受けなかった証ということになる。
Jディーゼル機関車
新海誠監督の『星を追う子ども』の冒頭近くに、「DD10 695」という機関車が出てくる。時代設定は1970年代だそうだ。
DD10形は、1930年代に鉄道省がドイツから輸入したディーゼル機関車DC10形・DC11形の研究を基盤にしている。色はぶどう型1号というから、暗い茶色といったところ。
しかし、このDD10形は、昭和22年(1947年)に廃車となり、昭和40年(1965年)ごろには解体されているはず。色はあっているが、車体の形が全く違う。一体、この機関車は何なのか。
機関車には、これまで取り上げてきた蒸気機関車、電気機関車のほかに、ディーゼル機関車がある。そして、ディーゼル機関車は、駆動方式から「液体式」「電気式」「機械式」に分けられ、D・DB・DC・DD・DE・DFがある。先頭のDはディーゼル機関車を表し、後ろのアルファベットは動輪の軸数を表しているのは蒸気機関車・電気機関車と同じ。DD10形は、ディーゼル機関車で、動輪の軸数が4本(8輪)であり、電気式だった。
機関車の形と年代から推測すると、どうもDE10形ではないか。ただ、『星を追う子ども』に出てくるDD10形は車両番号が「695」なのだが、DE10形には600番台はない。しかも、DE10形の駆動方式は「液体式」であり、色も「ぶどう1号」ではない。
架空のディーゼル機関車を登場させたということなのでしょうか。
I直流と交流の区間
日本経済新聞2017年(平成29年)10月25日<夕刊>に、東北線が、黒磯駅を境に直流と交流が切り替わる路線であり、これまで一旦停止させて切り替え作業をする地上式だったのだが、この日をもってデッドセクションで走りながらパンタグラフを変える車上式に切り替えることが紹介されている。
そこに「日本の鉄道は、首都圏や関西圏は直流が多い一方、東北や北海道などは変電所が少なくて済み、初期投資を抑えられる交流で電化されていった。」とある。
なるほど、東北や北海道が交流である理由はわかったが、では、なぜ、首都圏や関西圏は同じように交流にしなかったのか、という疑問は湧いてくる。
Hでも紹介したように、電化は直流から始まった。そして、電化は都市部から始まったので、都市部がまず直流で電化され、その後に電化された、地方、特に東北や北海道は、技術の進歩も相まって、効率のよい交流が選ばれた。
その証拠に、新幹線は交流である。新幹線の架線は交流25000ボルトという高電圧にして、比較的少ない電流でモーターを回している。
これを直流にすることは技術的にはもちろん可能だったはずだが、直流は電圧が低く、その分、大電流を流さなければならなくなる。となると、架線を太くし、変電所の数を大幅に多くしなければならない。これでは効率が悪い。
こう書くと、すべて交流にすればよいのではないかという疑問が新たに湧いてくる。
しかし、直流にも利点があるのだ。交流電化は、交流を直流にしてモーターを回すことが基本であるので、電車側の装置が大きくなり、コストもかかるのに対して、直流電化では、そのままモーターを回すので、電車側の装置が小さくて済み、コストも低くできるというメリットがある。
つまり、都市部の通勤電車ぐらいであれば、直流で十分走らせることができたというわけである。
H電動車と電気機関車と19セイコー
現在のいわゆる「電車」は電動車で動かしている。一番前と後ろに運転席つきの制御電動車を配置し、列車間に連結される中間電動車、そして動力のない客車をつなぎ合わせて編成している。これを動力分散方式という
しかし、かつて電気機関車というものがあった。蒸気機関車と同じように、客車や貨車を引っ張る電気で走る機関車である。これを動力集中方式という。
電気機関車には、蓄電池機関車、直流用電気機関車、交流用電気機関車、直流交流両用電気機関車がある。
蓄電池は直流であるので、電気機関車の歴史は直流から始まった。戦前の電気機関車は直流用電気機関車である。
戦後、フランスからの輸入を皮切りに日本でも交流用電気機関車の開発が始まった。しかし、モーターは基本的に直流であるので、交流を取り込んで直流に変換してモーターを回すという方式がほとんどである。(ただし、後に交流用モーターも開発された。)
直流交流両用電気機関車は、簡単に言えば、直流区間と交流区間で、機関車に積んでいる直流回路と交流回路をそれぞれ切り替えて走るということになる。
電気機関車は、Eで始まるものがほとんどで、その後ろに蒸気機関車と同じように動輪の軸を表すアルファベットがついている。例えば、EDといえば、電気機関車で動軸数が4本となる。EFとえば、電気機関車で動軸数が6本となる。ただし、ED、EF、EHはすべて電気機関車とはわかるが、これだけでは直流なのか交流なのか、はたまた交直流両用なのかはわからない。その下に付く数字を覚えなければならない。
いずれにしても、電気機関車はモーターとそれを制御する電気回路を積んだ機関車であるので、磁気が強かったと思われる。もちろん、電動車も小型ながらモーターと電気回路を積んでいる。19セイコーはそれらに影響されないように耐磁性能を備えていたのである。
G新幹線の運転士が大事と言ったもの
ナレーション
「まず一番にするのは、懐中時計を1秒のズレもなくあわせること。」
運転士
「時計をきっちり合わせないと、秒単位まできっちりつけないと。いや、これはなくてはならないものです。
絶対必要なものです。もし万が一手が滑っても落ちないように、ここの穴に通せと、 先輩にきつく言わ
れた。それぐらい大事なものです。」
ナレーション
「乗り込んだらすぐ、大事な懐中時計を運転台にセット。」
『人気お仕事ランキング』というTV番組で紹介された場面。秒単位で運行する新幹線の運転士が、鉄道時計を大切にしていることが伝わってきた。懐中時計はもちろんクォーツであったが、時代の最先端で懐中時計が使われているのだ。
F戦争に勝利したが、時計産業は衰退したアメリカ
太平洋戦争が始まると、戦時体制に入ったのは日本だけでなく、アメリカも同じだった。特に、時計産業は、軍用時計の製造に全力を挙げ、民需用の時計をほとんど製造しなかったとか。その隙をついたのがスイスの時計産業で、民需用の時計を大量にアメリカに輸出。戦争が終われば元にもどるのもそれほど難しくなかったはずなのに、実際には民需用の時計のシェアはスイスに奪われており、アメリカの時計産業が立ち直るのに時間がかかり、経営が悪化してエルジンとウォルサムは倒産。生き残ったハミルトンも今ではムーブメントはスイス製となっている。
というのが、一般的な解釈となっている。しかし、軍事用の高度な技術を要する時計をつくることができて、なぜ、民需用の時計をつくるのに苦労したのだろうか。状況は日本も同じだったはず。それなのに、精工舎は苦労はあったと思うが、戦後の混乱期を乗り越え復活しているではないか、と素直に疑問に思う。
この説明では腑に落ちないと思うのは私だけだろうか。
E進駐軍専用列車
終戦後、進駐軍がやってきた。日本の鉄道はGHQの管理下に置かれることになった。進駐軍には飛行機とジープというイメージがあるが、実際には日本には大きな飛行場が少なく、道路事情も悪かったことから、長距離移動には鉄道と船舶がさかんに使用されたという。
進駐軍の使用した列車を「進駐軍専用列車」といい、事実上の軍用特別列車だった。その目的は、部隊輸送・要人輸送・調査輸送・資材輸送などさまざまだった。
この列車は日本人は使用できなかった。終戦直後は輸送量の急増と戦時中からの車輛を酷使したことが重なって、進駐軍専用列車との格差が大きかっただけでなく、事故も多く、命を落とす乗客も少なくなかった。
1951年のサンフランシスコ条約調印、1952年に条約が発効したのを受けて、GHQによる日本占領が終結したが、進駐軍専用列車は1954年まで存続した。
D寝台列車の復活
戦争中に運行がすべて停止していた寝台列車が、復活したのが1948年(昭和23年)だった。マイネ40形という一等寝台車で、一般営業用の寝台車として新しく製造されたものということになっている。
しかし、この列車は、もともとは進駐軍専用列車に使用するため、新しく製造したものだった。ところが、GHQから製造中止命令が出たため、当時の運輸省が購入し国鉄が使用した。さすがに進駐軍用だっただけあって、冷房が装備されており、二人用個室の国鉄の車輌として最高水準の居住性だった。
冷房装置は現代のような電気式ではなく、車軸駆動冷房装置だったが、少しぐらいの停車中であれば冷房は保たれるという優れものだった。しかし、この冷房装置は大掛かりなものだったため、列車に負担が大きいことから夏の期間のみ搭載するという形だった。また、脱着に大変手間がかかったという。
この列車は当然のことながら富裕層、あるいは外国人が多く利用する寝台車となったが、戦後からしばらくたって落ち着いてくると、飛行機が復活し利用者が減少した。そのため、2等寝台車に格下げして料金を下げたとか。
Cデジタル時計 = クォーツ時計、 ではない
戦後、高度成長期に入ると、庶民の生活にさまざまな時計が入り込んできた。そのなかで、登場した時期が近いこともあって誤解を受けているものがある。その1つが、このデジタル時計である。
ここでは、デジタル時計は、誤解のないように、「デジタル表示時計」とする。そして、クォーツ時計は、「クォーツ式」とする。
デジタル表示時計は、文字通り「デジタル」に時刻を表示する時計である。ここでいうデジタルとは、「数字式」というとわかりやすい。時刻を数字で表示するすべての時計と言えばわかりやすいだろうか。
よって、デジタル表示時計には、一般的に、機械式、電気式、電子式、クォーツ式、などがある。
機械式デジタル時計は、ヤフオクでときどきお目にかかるが、懐中時計の形で、数字が表示されるものである。懐中時計というとアナログ時計(指針式)を思い浮かべがちだが、実際には19世紀には登場している。前衛的な試行品だったらしく、一般的とは言い難い。しかし、現在の複雑時計のなかにも、機械式のムーブメントで、情報の一部をデジタル表示するものがある。
電気式デジタル時計は、1960年代〜1970年代によく見た、いわゆる「パタパタ時計」のことである。正式には反転板式デジタル時計と言い、家庭電源で動くモーター駆動式の時計である。ただし、この時計も、もともとは機械式だったようで、1904年に登場している。
電子式デジタル時計は、上の電気式デジタル時計の表示を液晶や蛍光表示管などにしたもので、パタパタと時刻が切り替わるタイムロスをなくしたもの、と言える。このときに、時刻がデータとして扱えるようになり、さまざまな電子機器への応用が可能となった。いわゆるパソコンなどに組み込まれている時計であり、CPU・半導体という電子部品で時刻を計測して表示する。パソコンの時計が、意外と正確でない理由はこれである。よって、パソコンの時計は時々補正する必要がある。
クォーツ式デジタル時計は、いわゆる水晶振動子を用いた時計で、水晶に交流電圧をかけて規則的に振動する周期を利用して時刻を測り、デジタルで表示する時計。もちろん、クォーツ式アナログ時計(指針式)もある。このクォーツ式は、電流を利用することから電子時計と融合し、時刻をデータとして扱い、しかも正確な時計ということになる。いわゆる電波時計も基本はクォーツ式である。ただし、電波時計に正しい時刻を送信している時計は、原子時計である。
もうご理解いただけたと思うが、正しくは、デジタル表示時計=クォーツ時計、ではない、となる。
パタパタ時計の登場と、クォーツ時計の登場が比較的近い時期だったために、この混乱が起きたようだ。ただ、現在では、デジタル時計のほとんどはクォーツ時計と言って差し支えないほどクォーツ式が普及しているのも事実である。
※一時期、クォーツ式のことを、機械式と区別するためにデジタル式と紹介していた時期がある。それは、機械式
のように連続して動くのではなく、非連続で動く、もしくは0と1の信号で動く、ということを説明するためにデジタ
ル式と呼んでいた。このことがよけいに混乱を生じさせていたと思われる。いわゆる、駆動がデジタル式というと
わかりやすいだろうか。そのため、このCの冒頭で、デジタル表示時計とことわっておいた。しかし、最近は、この
「デジタル駆動」を表現するためのデジタル式という言葉は使われることはほとんどなくなっている。
B世界初のクォーツ時計はベル研究所(カナダ)
よく話題になることだが、クォーツ時計はセイコーが初ではない。戦前のベル研究所である。
クォーツ(Quarts)時計は、水晶振動子を原理とした時計のこと。第1次世界大戦で、フランスが実用化したソナー(潜水艦探知機)が石英結晶を使った圧電効果を利用したものであったことから、研究が一気に進み、1927年にベル研究所(カナダ)がクォーツ時計を世界で始めて製作した。
一方、日本でも水晶振動子の研究は始められており、無線通信に使う分周器が古賀氏によって発明されている。
その後、この研究が基礎となって、日本のセイコーがクォーツの研究に1958年から取り組み、1969年に市販のクォーツ腕時計を販売開始した。これの名前を「クォーツ・アストロンQ35」と言い、価格は45万円だったとか。製作したのは、諏訪精工舎(現セイコーエプソン)だった。
しかも、忘れてはならないのは、スイスのジラール・ペルゴも、同じ年1969年にクォーツ時計の開発に成功しており、1970年に生産を始めていることである。また、クォーツ時計の世界規格である周波数32,768ヘルツ(=2の15乗)ヘルツは、このジラール・ペルゴが決定したというから、さらに驚きである。(クォーツ・アストロンQ35は8,192Hzで、世界規格にはなっていない)
つまり、セイコーが世界初と言われるのは、「市販」のクォーツの「腕」時計であることを忘れてはならない。
A19セイコーの進化
戦後の復興、そして、鉄道の高速化に合わせて、19セイコーも進化を遂げていく。
昭和30年(1955年)にセコンドセッティング(秒針規正装置)の機能が追加される。竜頭を引っ張ると、秒針が12時の位置で止まり、再び竜頭を押し込むと秒針が動き始めるという機構で、これにより、秒単位で時間を整生(時刻合わせ)することが可能になった。
昭和34年(1959年)には、SEIKOSHA表記を「SEIKO」に変更し、DIAFLEXを投入。DAIFLEXは錆びにくく破損しにくい素材の発条(ぜんまい)を使用していることを示しており、よし信頼性が高まったことになる。(SIIによると、現在のSPRON100と同じ素材とのこと)
昭和35年(1960年)には、15石にグレードアップし、昭和38年(1963年)には竜頭の形状を円柱型に、そしてボウを丸型に変更している。そして、その翌年の昭和39年(1964年)に新幹線が開業しているので、当初は、この15石の19セイコーで運用したことになる。これは、やはり鉄道の高速化に対応した処置ということなのだろう。
昭和46年(1971年)には、この15石の19セイコーは生産販売をとりやめ、翌年昭和47年(1972年)に21石の鉄道時計に変更している。なぜ19セイコーと言わず、「21石の鉄道時計」と表現するかと言えば、この時計から正確には19セイコーではなくなったからだ。この時計のムーブメントは、これまでの19型ではなく、小さい腕時計のものを使用している。さらに、秒針が、スモールセコンドから、センターセコンド(本中三針)に変更されている。
そして、さらなる高速化にも対応できるよう、昭和53年(1978年)には、クォーツの鉄道時計が登場する。もちろん、19セイコーではない。しかし、見た目は21石の鉄道時計にそっくりである。正確さは格段にアップし、超過密ダイヤである新幹線の運行に一役買っていることになる。
ちなみに、クォーツ初の腕時計は、すでに、昭和44年(1969年)に「セイコークオーツアストロンQ35」が産声をあげている。なぜ、鉄道時計のクォーツ化に9年もかかっているかということになるが、そこに鉄道時計の視認性を確保する文字盤の大きさが深くかかわっているようだ。つまり、大きな時針・分針、長い秒針を安定して回すことのできるタフなトルクをもったモーターの開発が遅れたということのようだ。
@19セイコーにとっての「戦後」という時代
終戦直後の大混乱も、しばらくすると落ち着きを取り戻しはじめ、昭和24年(1949年)6月1日に運輸大臣が監督権を有する公共企業体「日本国有鉄道」が発足した(それまでの「国鉄」は同じ国有鉄道と言っても「国営事業」)。政府出資の公共事業としての「国鉄」に生まれ変わったというわけだ。
また、昭和25年(1950年)には朝鮮戦争が勃発し、特需のおかげで日本経済は復興し始める。
鉄道にもその影響が表れ、「電化」「ディーゼル化」が急速にすすむことになる。それは、蒸気機関車からの脱却を図る(動力近代化計画)もので、無煙化・高速化をもたらした。鉄道員にとっては、それは石炭をくべる必要がなくなり、運転の簡略化につながる。
東海道線では昭和31年(1956年)に電化を完了したという。中央線西線も昭和40年ぐらいまでは蒸気機関車が走っていた記憶があるが、昭和50年(1975年)には、国鉄の蒸気機関車はすべて引退することになった。
代わりに、「つばめ」「はと」「こだま」「はつかり」が登場し、昭和39年(1964年)に「新幹線」が開業し、モータリゼーションを後押しする高速道路、そして、ジェット旅客機と競争関係になっていく。「ひかり」で、東京-大阪間が4時間で運転を開始したが、翌年には3時間10分を達成し、ダイヤも過密化していく。
この過密ダイヤを滞りなく実現する一助となったのが、19セイコーであるのは間違いない。