時刻よし!19セイコー

戦前という時代                   →「時刻よし!」19セイコー

 

70 先導車には武装

 

69で触れた御料車の防御について、ご意見をいただいたので訂正しておく。御料車本体に武装が施されたことは確かにないようだが、先導車に対空機関砲が搭載されていたとのことだった。それは、戦時中にあっても天皇がお召列車で移動していたことも示していることになる。

 

調べてみると、昭和17年(1942年)に、戦勝祈願として伊勢神宮を参拝していることがわかった。この参拝は秘匿され、隣の車両には簡易シェルターも設置されていて、対空機関砲は外からは見えないように施されていたとか。沿線の通過駅や住民には通告なしで走ったそうだ。

 

この伊勢甚郡参拝は1211日に東京を出発し、13日には無事東京に到着。当時の首相、東条英機も同乗していたとある。それを公表したのは1214日で、参拝している様子の写真が大々的に新聞に掲載されている。

 

 

69 御料車の思想

 

日本の御料車は、一言でいえば、いわゆる「走る宮殿」であるという発想なわけだ。これは天皇を大切しているという思想の現れなのだろう。しかし、それは「装飾」が凝らされたもので、権威を示すものだったと言える。 

 

しかし、果たして、御料車はそれで良かったのだろうか? 「防御」に力点を置いたものにすべき、という発想はなかったのだろうか。結果的に、御料車は破壊されることはなかったようだが、逆に言うと、それは天皇が危険なエリアには出ていかなかった、行くつもりがなかった、ということを示しているようにも思える。日本国民が身を挺して国家を守ろうとし、都市が絨毯爆撃にさらされていたときに、果たしてそれで良かったのだろうか。

 

御料車の防御を強化していたら、それだけでも天皇は危険に立ち向かうという姿勢や国民を大切にしているというアピールになっていたような気がする。特に、私たちのような後世の世代が御料車を見たときに、それを感じ取れるようなものであってほしかったと思うのは私だけだろうか。残された御料車の華やかさを見るたびに、それが残念でならない。

 

 

68 明治村の御料車

 

御料車もモノである以上、いつかは使えなくなる。国鉄を悩ませたのが御料車の使用後の問題だった。解体が決まると保存運動が高まり、結局、明治村、よみうりランド、鉄道博物館に保管されることになった。

 

明治村に保管されているのは、5号御料車と6号御料車。5号は初の皇后用車両であり、シングルルーフの16m級中型2軸ボギー木造車だ。天井には橋本雅邦と川端玉章の絵画が描かれている。6号は明治天皇用として最後の車両であり、20m3軸ボギー木造車となっていて乗り心地が改良されている。装飾も明治期の工芸の粋を集めたものとなっており、「走る宮殿」の異名をもつ。どちらも新橋工場製である。

 

これらの車両が置かれている建物は、大井工場の第二旋盤職場の建物を移築したのであり、鋳鉄柱に「東京鉄道局鋳造」とあることからもとは初代新橋停車場に隣接する鉄道局内にあった工場のもの(1889年建造)と推測される。

 

 

67 10号御料車

 

 さいたま市大宮区にある鉄道博物館には、走る美術品とも呼べる木造車両の10号御料車が保管、展示されている。車両の端には洋風の展望室とデッキがついているのが外観の特徴となっており、長距離の移動の時は食堂車である11号御料車が連結されて使用された。

 

この10号御料車は国賓用の車両で、1922年のイギリス皇太子エドワード・アルバート公(エドワード8世)、1929年のその弟のグロスター公(第11代オーストラリア総督)、1931年のシャム(タイ)のラーマ7世、1935年と1940年の満州国皇帝溥儀が乗車している。

 

 

66 日本も天皇専用の御料車を製造

 

 天皇陛下が乗車する列車は、ふつう「御召列車」という。これは明治5年の鉄道の運行開始とともにはじまった。「御召列車」は通常6両編成で、天皇だけでなく、一緒に移動する宮内庁職員や警備員が乗車する車両も含めて言う。

 

天皇陛下の車両は特に「御料車」と呼び、当初は一般客車を使用していたが、1877年(明治10年)に専用の車両が登場する。記録に残る国が製造した御料車は20両あり、この他にも私鉄が製造したものもあるそうだ。

 

 

65 走る宮殿、ビクトリア女王は列車ファンだった

 

 大英帝国の女王、ヴィクトリア女王は好んでイギリス国内を列車で移動したことは有名。しかし、元々は消極的だったらしく、夫のアルバート公の影響が大きいと言われている。

 

 鉄道発祥の国だけあって、初めて移動したのが1842613日。女王が23歳のときで、ウィンザー城そばのスラウ駅からロンドンのパディントン駅までのグレート・ウエスタン鉄道だった。約30km25分で移動しているので、計算すると、平均時速で70kmぐらい。鉄道というテクノロジーが王室によって証明された瞬間でもあった。

 

 女王の車両は文字通りSaloon(特別客車)で、内装はブルーを基調とした贅沢なつくりのものだったとか。その後、女王は列車の移動が気に入り、1866年にはスコットランドに専用の駅もつくられ、1869年には私費で専用の列車を製造させたそうだ。

 

 

64 銀座四丁目 時計塔

 

初代ゴジラ(東宝映画1954年)が破壊した時計塔のこと。この時計塔の初代が建てられたのが1894年だった。朝野新聞社の社屋を改築して設置したもので、5階に時計、さらにその上に鐘が配置された、15mを超える高層建築だった。

 

この時計台は服部時計店のものであるので精工舎製かと思いきや、横浜居留地10番にあったコロン商会(J.ColombCo)がスイスから輸入したものだった。精工舎の創立は1892年ではあるが、当時はまだそれだけの力はなかったと見える。この時計のことを、コロン商会製と表記しているHPを見るが、コロン商会は時計を製造していたわけではない。フランス人のコロン兄弟が設立した商会でスイスから時計を輸入・販売していた。当時の服部時計店にも製品を納入している。

 

 

63 日本のCM第1

 

日本のCM第1号は、大阪のMBSラジオ(毎日放送)の開局日である195191日午前7時の時報、「精工舎の時計が、ただ今、7時をお知らせしました」とされている。つまり、戦前〜終戦直後に広告がなかったのは、NHKしかなかったからだと私は思っていた。当たらずとも遠からずだが、どうやら複雑な事情があったようだ。

 

内地では確かにNHK放送しかなかったのだが、それはNHKだから広告はなしという単純なものではなく、実際は広告放送が禁止されていたから、というのが正解のようだ。理由は広告主の利益を優先した放送がなされる恐れがあるからということであり、実際に店の名前が出るたびに放送が遮断されたというのだ。他方、戦前の台湾、満州国ではすでにCMが流されていたという。(HP『NHK放送文化研究所』)

 

 

62 鉄道神社

 

かつての鉄道省本社の屋上に建立された神社。鎮座祭は昭和13年(1938年)。従業員からの寄付を浄財とし、戦没者を含む、国有鉄道の仕事で亡くなった方を殉教者として冥福を祈り、功績をたたえるために建立された。そのため、祭神は既存の神々ではなく、殉職者霊とのこと。現在はJR東日本東京支社ビル建っている敷地のなかにあり、一般の人は参詣・参拝はできないようだ。

 

 近代技術の象徴である鉄道が、このような神社を建立しているのは興味深いが、霊を慰めるためのものということで納得。ちょうど戦没者を祀っている靖国神社と同じと考えられる。ただし、鉄道神社はここだけではないようであるし、それらの祭神や祀り方もさまざまなようだ。

 

 

61 テスラ

 

 テスラという名前にピンとくる人は多いはず。電気自動車を製造している自動車メーカー「テスラモーターズ」が有名だ。しかし、この会社は2007年創業で、社長はイーロン・マスク。かなり新しい会社だ。実は、この社長のイーロン・マスクが尊敬した技術者が、二コラ・テスラだったのだ。60に紹介した、エジソンに電流戦争を仕掛けたその人だった。会社名のテスラは、この二コラ・テスラに由来する。

 

 

60 電流戦争

 

電車に直流方式と交流方式がある。小学校で学習する電流は主に直流なのに、家庭の電流は交流になっていることの違和感はだれもが抱く。エジソンは直流派だし、電気製品は基本的には直流仕様になっている。ところが、コンセントや送電は交流なのだ。なぜか。

 

19世紀の末に、アメリカで直流システムと交流システムの争いがあった。直流によるシステムの構築を目指すエジソンに対し、交流発電機を発明したテスラが、ウェスティングハウスの助力を得て交流システムを構築。いわゆる電流戦争と呼ばれた。そんななか、交流変圧器が進歩したこと、送電損失が直流システムの方が大きいことなどにより、交流システムが採用されるようになったのだ。

 

 

59 枕木

 

 鉄道はイギリスから必要な設備施設を一括でイギリスから輸入したと言われる。しかし、この枕木に関してはそうではなかった。

 

 枕木も当初は鉄製のイギリスのものが輸入されるはずだった。しかし、イギリス人技師エドモンド・モレルが木材の仕様をすすめたと言われ、日本では木材の枕木が当初から使用された。この時の規格は、2100×230×115mmで東海道線にも使用された。明治40年に改めて規格が決められ、2100×200×140mmが今でも標準の規格となっている。

 

 つまり、枕木に関しては、当初から国産化がなされていたことになる。

 

 

58 ディッカー社

 

正確には「ディック・カー・アンド・カンパニー(Dick, Kerr & Co. )」という。1854年に、イギリスのグラスゴーでウィリアム・ブルースディックによって設立された「WBディックアンドカンパニー」が、1883年にジョン・カーの会社と合併してできた会社。路面電車機器と鉄道車両を製造した。

 

1888年には「グリフィン・エンジン」というガス・エンジンを製造。これは固定式のエンジンだったが、安価な燃料で稼働したため、主に発電用に使用された。1890年代後半には蒸気機関車の蒸気機関を手がけ、その後すぐに、電気路面電車でも最大のメーカーの1つになった。

 

1919年にイングリッシュ・エレクトリックに買収され、1968年にはイングリッシュ・エレクトリックがゼネラル・エレクトリック・カンパニーに買収された。

 

 

57 東洋電機製造

 

正式には「東洋電機製造株式会社」という。実は、東洋電機というよく似た名前の企業が他にあることから、東洋電製とも呼ばれるとか。法人番号7010001034857。証券コード6505であることに注意したい。1918年(大正7年)に渡邊嘉一が創業。その創業理念は、「鉄道車両用電機品の国産化」であると当社の社長のメッセージでも紹介している。

 

 

56 パンタグラフの国産化

 

 パンタグラフは集電装置の1つ。発明者は不明だが、BOでは1895年(明治25年)には設置しているという紹介がある。「パンタグラフ」の語源は、製図などで複製するときに使う菱形をつないだ形の道具であるパンタグラフ (Pantograph)が似ていたためという。

 

 日本において開発したのは東洋電機製造。同社はイギリスのディッカー社との技術提携を軸に発展し、社史のよると1921年(大正10年)に初の国産パンタグラフを完成したとある。これは、ゼネラル・エレクトリック社製の原図を元に阪神急行電鉄向けとしてデッドコピーしたもののようでA形という。そして、国鉄向けは、A形を改良したC形を1923年(大正12年)にPS2形として制式化した。現在のパンタグラフは、この東洋電機製造と工進精工所が製造している。

 

 

55 電気機関車の国産化

 

 信越本線のアプト式区間である横川 ― 軽井沢間(碓氷峠)用の電気機関車、ED40形電気機関車がそれで、大正8年(1919年)のことだった。大変特殊で、ラック式鉄道(歯軌条鉄道)で、いわゆるアプト式直流用電気機関車となる。このED40形電気機関車の投入で、碓氷峠区間の蒸気機関車が廃止(1921年)された

 

開発当時(1919年)は内閣鉄道院、1920年から1924年にかけては鉄道省の大宮工場で、計14両が製造された。10000形式(EC40形:ドイツのAEG製)を手本として開発された。今年(2019年)は製造開始からちょうど100年目にあたる。現在、大宮工場でED4010ED40形の10号:大正10年製)が展示されている。

 

 

54 貨物用蒸気機関車の国産化

 

 536700形は軽旅客用だったのに対し、本格的な貨物列車牽引用の蒸気機関車として国産化されたのが、9600形だった。「山親父」(ヒグマのこと)、「キューロク」の愛称で親しまれた本機は、1913年(大正2年)〜1926年(大正15年)までの製造だったが、その使用は蒸気機関車の運用末期の1976年(昭和51年)までと長かった。

 

ドイツの8850形を参考に、火室を台枠にのせることで巨大なボイラーを積んだ。そのため重心が高くなり速度はあまり出せなかったが、レールへの粘着力が強かったため軸重が軽い割に牽引力が大きく、扱いやすかった。そのため、運用線区を選ばず、幹線、亜幹線、支線に使われ、戦時中は陸軍の要請で大陸へも送り出されて運用された。なお、セガサターン用「サクラ大戦」(1996年)のエンディングでさくらが乗って途中で飛び降りる旅客列車の機関車が本機とか。

 

 

53 蒸気機関車の国産化

 

運転士が国産化するまでには13年で済んだが、蒸気機関車を完全国産化するまでには42年もかかった。それは、1911年(明治44年)のことであり、6700形と呼ばれるその車体は、2B4-4-02軸式)形テンダー(炭水車を積載)機関車だった。鉄道院総裁の後藤新平が奨励したことから始まったとされる。

 

製造企業は、汽車製造合資会社と川崎造船所。1906年に鉄道国有法の発布され、私鉄を国有化して全国的な鉄道網を官設鉄道に一元化したこと、1908年に鉄道局と帝国鉄道庁とを統合して内閣鉄道院を設けたことをきっかけとしている。1911年は、日米通商条約が発効した年でもあり、輸入蒸気機関車にかける関税が5%から20%に引き上げられたことも国産化を助けることとなった。

 

 

52 運転士の国産化

 

日本人で初めて運転士になったのは、平野平左衛門、落合丑松、山下熊吉である。当然のことながら、当時はお雇い外国人の運転士しかおらず、3人は火夫見習い(石炭を補給する機関助手)から始めている。その後、選抜されて教育・実地訓練を受け、1879年(明治12年)9月に、新橋―横浜間の旅客列車の運転士となった。1880年(明治13年)の末には、新橋―横浜間の運転士はすべて日本人になった。

 

 

51 戦前の「国産品愛用運動」

 

現在、国産化で検索すると、これでもかというほどフッ化水素の頁が出てくる。実は日本もかつて必死に国産化に取り組んでいた時代があった。

 

 俵商相は「政府は商工省において、国産台帳を作り国内消費について多数輸入品中国産品にて代用し得るものが幾何あるかを調査したところ、昭和四年度中において国産品を以て充分に代用し得るもの二百七十一種、その価格実に六億六万余円の巨額に達することを知ったのである」というている。  東京日日新聞 1930.5.27 (昭和5) 【神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 産業(一般)(5-006)

 

 昭和5年の新聞記事である。当時の国家予算が15億円と比較すると、政府の問題意識が大きいことがわかる。ただ、この目的は、「国際貸借の改善に、また失業の緩和に相当資するところがあるであろう。」というものだった。そして、間接の引き金は<関東大震災><震災不況><昭和恐慌><世界恐慌>だった。19セイコーの鉄道時計指定は、この運動の中で行われたのだった。

 

 

㊿ 釜石製鉄所の前史

 

 ㊽以前にも釜石製鉄所には歴史があった。HPNIPPON STEEL」(日本製鉄公式HP)には次のようにある。

 

「釜石は、1857年(安政4年)、南部藩士大島高任(たかとう)により日本で初めて高炉法での出銑に成功した、わが国の近代鉄産業発祥の地です。」

 

南部藩というのは、盛岡藩のことを指し、岩手県中部から青森県東部にかけて存在した藩。南部氏が治め、城が盛岡にあった。外様大名。奥羽越列藩同盟に加わり、反新政府側に立った。大橋(現釜石市)に様式高炉を建設し、鉄鉱石による連続出銑に成功している。初めて出銑した日が121日だったので、日本鉄鋼連盟が1958年に鉄の記念日に制定した。

 

 

㊾ 民間に払い下げられた釜石製鉄所

 

工部省は、1884年(明治17年)、田中長兵衛に製鉄所の一部設備の払い下げを行った。高橋亦助が中心となり、苦労に苦労を重ね、1886年(明治19年)、49回目に初めて出銑に成功。これを受けて1887年(明治20年)に田中製鉄所を設立。1894年(明治27年)には、日本初のコークス銑の産出に成功した。

 

しかし、第1次世界大戦後の不況、労働争議、関東大震災による東京本店の焼失などが重なり、経営が破綻。1924年(大正13年)には三井鉱山に売却された。その後も経営は好転せず、1934年には政府が主導した日本製鐵株式會社に統合されている。

 

 

㊽ 官営釜石製鉄所

 

 1880年(明治13年)に創業した、明治政府工部省の官営の製鉄所。ゴットフレーの提案を採用し、当時の最新鋭の高炉2基などすべての施設をイギリスから輸入。日本で3番目となる鉄道も敷設し、イギリス人技師が製鉄所の運営にあたった。

 

この製鉄所では主に木炭を使用。しかし、この木炭の供給が不足し、鉄鉱埋蔵量も見込み違いが明確となり、操業停止が続いたとされる。スウェーデンでは木炭による高級銑鉄が製造されており、釜石の品質も決して劣っていたわけではなかったとされるが、連年の損失計上などの問題から、とうとう1883年(明治16年)には操業停止に追い込まれてしまったとか。

 

 

㊼ レールの国産化

 

ネットを見ていると、レールの国産化は、初めての近代製鉄所である八幡製鉄所でなしとげ、明治34年(1901年)2月としている記述をよく見る。しかし、実は、この記述には、2つの誤りがある。1つは、初めての近代製鉄所は八幡製鉄所ではないということ。もう1つは、明治342月の第1次火入れでは、銑鉄は製造できなかったということだ。

 

確かに教科書には、日清戦争を勝利し、兵器の原料となる鉄の国産化をめざして八幡製鉄所をつくり、順調に経営を始めたように書いてある。しかし、当時の製鉄・製鋼は、文字通り先進国の最先端の技術であり、入れ物だけつくっても鉄を製造することはできなかったのだ。八幡製鉄所の前にあった近代的な製鉄所は釜石製鉄所であり、八幡製鉄所がはじめて銑鉄をつくることができたのは明治37年(1904年)の第3次火入れだったのだ。

 

 

㊻ railの訳語

 

では、railはどのように訳せばいいのだろうか。今ではレールとそのままカタカナで表現することも少なくない。しかし、かつては翻訳として「線路」「鉄道「軌条」が使われた。もちろんどれも正しい。しかし、モノとしてのレールrailとなると、イメージに近いのは、「軌条」だろうか。「軌」は、わだち、クルマの通るべき道と言った意味があり、「条」は、細長いもの、筋といった意味になる。ただ、この「軌条」なる用語は、日常会話としてはほとんど使わない。

 

一般的には、やはり「線路」だろうか。「鉄道」はレールそのものよりも、その上を走る車両、あるいはその企業体のことを指すことが多いようだ。しかし、製造している新日鐵住金では、今でも八幡製鉄所軌条工場という名称を使っているようだ。

 

 

㊺ railroad か railway か

 

戦前の19セイコーの個体の名前はRAILWAY WATCHであるが、アメリカ鉄道時計はRAIROAD WATCHと書く。ただし、イギリスやスイスの鉄道時計はRAILWAY WATCHと書く。さて、どう使い分けているのだろうか。

 

これについては、アメリカ人同士でも論争があるようで、根拠は歴史に求めるしかないようだ。大雑把に言うと、鉄道黎明期であったイギリスと、その影響を強く受けている国や地域ではRAILWAYが主流で、19世紀〜20世紀初頭のアメリカと、その影響を強く受けている国や地域はRAILROADが主流、となるようだ。しかし、アメリカの鉄道会社はRAILWAY派も少なくない。

 

 日本は、JRJapan Railway Company、国鉄はJapanese Government Railways、南満州鉄道はSouth Manchuria Railway、近鉄はKintetsu Railway、と圧倒的にRAILWAY派だ。ただ、名鉄はNagoya Railroad Co.,Ltd.となっており、統一されているわけではない。

 

19セイコーは、比較するものがアメリカの鉄道時計だったり、日本最初の鉄道時計がウォルサムだったりするので、ついついRAILROAD WATCHと勝手に思い込んでしまいがちだが、実はそうではないかもしれないと思わせる話題ではある。

 

 

㊹ 神戸駅

 

 大阪駅と同時明治7年(1874年)に開業。現在の神戸の中心地は三ノ宮であり、神戸駅はそこから大きく外れているように見える。しかし、当時の神戸は外国人居留地と兵庫港こそが中心地であり、神戸駅はその中間に設置されたのだ。

 

 現在の駅舎は、1930年(昭和5年)に駅の高架化に先立って建設された三代目である。神戸駅は、東海道本線の終点で、山陽本線の起点でもあるため、0キロポストがあり、天皇陛下のための貴賓室が設置された。開業当時の駅舎はレンガ造りで イギリスから輸入したものが使用された。東海道本線が全線開通する直前、1889年(明治22年)3月に二代目駅舎がとなる。やはりレンガ造りだったとのこと。

 

 

㊸ 大阪駅

 

明治7年(1874)年に開通、営業を開始している。元々は堂島(市街地に近かった)に予定されていたが、火事が起きることを理由に、もう少し北にあった梅田千日という墓地を取り払って建設された。

 

駅舎はレンガ造りの洋風であるが、屋根は日本瓦葺切妻屋根(軒破風)だった。イギリス人技師ウイリアム ロジャースが設計したと推測される。開業当時は駅舎が完成しておらず、開業後も工事が行われていたという。また、堂島に予定されていた時は頭端式ホームが予定されていたが、京都―神戸間の運用を見通して梅田に変更されたため通過式ホームが採用された。

 

 

㊷ 関西地区の東海道本線

 

 東海道本線は、関西では、新橋−横浜間が開通したわずか2年後の1874年(明治7年)には、大阪−神戸間が仮開業した。開業当初の途中駅は西ノ宮駅と三ノ宮駅。全長32.7km。所要時間は1時間10分。そして、1877年(明治10年)には、京都−大阪−神戸間が正式に開通している。

 

 大阪−神戸間は、1870年(明治3年)に建築師副役ジョン・イングランドが主任となって測量を開始。当初、起点は福原、終点は堂島と予定していたが、結局神戸はもう少し南へ移動し、大阪はもう少し北の梅田になった。工事はダイアックが指導。京都−大阪間は、1871年(明治4年)に、ブランダーが測量に着手した。起工は1873年(明治6年)12月末で、やはりダイアックが主任だった

 

 

㊶ 品川駅

 

新橋−横浜間が開業する前に、横浜駅と仮開業をしていた駅がこの品川駅だった。つまり、横浜駅とともに日本で最も古い駅ということになる。開業当初は途中の駅がなく、直通の往復だった。

 

新橋駅が開業する前に川崎駅、神奈川駅が開業しており、新橋−横浜間の開業当日は、新橋−品川−川崎−神奈川−横浜の5駅だった。ちなみに、新橋−横浜間の運賃は375厘だった。鉄道唱歌にある鶴見駅は翌日に川崎と神奈川の間に、大森駅は4年後に品川と川崎の間に開業している。

 

 

㊵ 横浜駅

 

 新橋−横浜間開通時の駅ではないということでは、横浜駅も同じである。当時の横浜駅は、現在の桜木町駅となっている。1915年に2代目横浜駅が開業されているが、これも現在の横浜駅ではない。現代の横浜駅は、1928年に開業された3代目なのである。

 

1914年の東京駅開業に合わせ、東京−高島町駅間として京浜線(東海道本線)が開通。1915年に高島町駅が廃止され、2代目横浜駅が東海道本線の通過駅とされた。ところが、1923年に関東大震災が起き、2代目横浜駅は倒壊してしまう。そこで、北側に3代目横浜駅が建造されたという経緯がある。

 

 

㊴ 新橋駅

 

㊳で触れた日本初の鉄道路線の起点となった新橋駅は、木造石張り2階建ての西洋建築の駅舎として、イギリス人のリチャード・ブリジェンスが設計した。この駅舎は、実は横浜駅舎と同じデザインとされている。

 

1914年(大正3年)に東京駅が開業すると、汐留駅と改称。貨物駅となった。なお、烏森駅が2代目新橋駅と改称し、旅客駅として新橋駅を継承した。つまり、現在の新橋駅は、新橋−横浜間開通時の新橋駅ではないことになる。

 

汐留駅は、1923年(大正12年)の関東大震災で焼失。1934年(昭和9年)に鉄筋コンクリート2階建ての駅舎が建てられた。戦後も貨物列車のターミナル駅として活躍したが、宅急便の登場により貨物輸送が振るわなくなり、1986年(昭和61年)111日 に廃止された。現在、「旧新橋停車場」として整備され、鉄道の起点であった「0哩(マイル)標」が再現されている。

 

 

㊳ 東海道線

 

 東海道線は、一般に、東京と大阪を結ぶ鉄道として計画されたと言われている。ただし、当初は、中山道(中央本線)とどちらにするかが議論され、結局は東海道線が推し進められることになる。1872年の新橋−横浜間の開通を皮切りに、各地の路線が開通していく。

 

 東海道本線は、東京−大阪間かと思いきや、実は新橋−神戸間を指し、1889年に全線約600kmが開通している。ちなみに東京駅が開業するのは1914年。全線が電化されるのは1956年で、新幹線が開業するのは、1964年のことだった。この年は、もちろん東京オリンピックに合わせて開業されたのだが、くしくも東京駅開業50周年でもあったのだ。

 

 

㊲ 世界初の路面電車はベルリン

 

 世界初の馬車鉄道はイギリスであり、都市を走る馬車鉄道もニューヨークが速い。馬車鉄道は、馬が馬車を引っ張るのは馬車と同じだが、馬車が線路の上を走るため乗り心地がよかった。ベルリンで馬車鉄道が走ったのは1865年であり、に「ベルリン馬車軌道会社」が運行した。日本でも1882年(明治15年)に東京で馬車鉄道が走っている。

 

しかし、この馬車鉄道を電車に代えたのが最も早かったのは、ベルリンだった。1879年のベルリン見本市にジーメンス・ウント・ハルスケ社が電気を動力に動く電気機関車を初めて展示。1881年、同社によって、客車自体にモーターを積んだ電車を導入した世界初の電車路線となった。創業者はヴェルナー・フォン・ジーメンスであり、社は後にドイツの多国籍企業シーメンス(ドイツ語読みはジーメンス)となる。

 

 

㊱ ガソリンカーの不思議

 

 下の㉟のように書くと、なるほどもっとも、とつい思ってしまうが、よくよく考えてみると不思議である。例えば、昭和15年(1940年)と言えば、飛行機は当然ガソリン内燃機関だったし、戦車も自動車もそうだ。軍艦も重油を使ったにしても内燃機関へ移行していた。自走する機械は、ほぼ内燃機関になっていた。

 

 ところが、鉄道に関しては、相変わらず蒸気機関車が幅を利かせていたわけだ。もっとも、バスは、有名な木炭車というものがあったので、これはガソリンの不足していた日本独自の特殊な事情というものかと思いきや、蒸気機関車はドイツも、アメリカも、ソ連も使っていた。世界の潮流だったわけだ。しかも、蒸気機関車の後継は、ガソリン車ではなく、ディーゼルだったり、電車だったりしたのだ。

 

 モータリゼーションで、これだけクルマにはガソリン車が普及したにもかかわらず、鉄道に関してはついにガソリンとは縁がなかったのだ。

 

 

㉟ ガソリンカー

 

 一般に、エンジンを積んだ列車である「気動車」の一種で、ガソリンエンジンを積んでいたものをガソリン動車(ガソリンカー)という。このガソリン動車は、かつて名鉄味鋺駅−新勝川駅を結ぶ勝川線で走っていた(1931年〜1937年の6年で廃線)。

 

 このガソリン動車については、昭和15年(1940年)に、大阪の鉄道省西成線で大きな事故を起こしている。脱線してガソリンに引火。火災によって死者189名という痛ましい事故となった。この事故によってガソリンの危険性が指摘され、以後、ディーゼルカーの開発へシフトしたとか。

 

 

㉞ 絵本『きかんしゃ やえもん』

 

昭和34年(1959年)に刊行され、現在も小学校の国語の教科書(教育出版)に紹介されている。文は作家の阿川弘之氏(阿川佐和子さんの父親)で、絵は鉄道・飛行機マニアで有名だった岡部冬彦氏。

 

この「やえもん」のモデルが1号機関車と言われている。日本がイギリスから輸入した蒸気機関車第1号で、明治5年(1872年)開業の新橋−横浜間を走った。製造は、バルカン・ファウンドリー社。後に、マチルダII歩兵戦車を製造したメーカーである。この戦車はガルパンにも登場している。

 

「やえもん」が煙突から出した火の粉で火事を起こしてしまう場面が出てくる。実際、明治6年東京北鎌田をはじめ、昭和16年の秋田、昭和27年の鳥取の大火も蒸気機関車からの火の粉が原因と言われている。当時の日本は藁葺や茅葺の屋根の家屋が多かったためと思われる。そのため、煙突から出る火の粉を出さないための網を設置するよう通達が発せられ、各鉄道会社は「回転式火ノ粉止メ器」を採用したとか。

 

 

㉝3C政策と3B政策

 

 イギリスとドイツの植民地政策の衝突と第一次世界大戦の原因として論じられることが多い。どちらも未完の政策であるにもかかわらず、なるほど当時のイギリスとドイツが鉄道の敷設を目指した政策として、わかりやすく整理・表現されていることは間違いない。

 

 しかし、この2つだけで世界をとらえようとすれば、それはあまりに単純化されすぎていると言わざるを得ない。イギリスの@ケープタウン−カイロ間、つまり、アフリカ大陸におけるイギリスの相手はフランスだった。また、Aカイロ−カルカッタ(コルカタ)間、つまり、中東におけるイギリスの相手はロシアだった。そこへ新興国としてドイツが現れ3B政策をぶち上げたので、3C政策と衝突したことになる。

 

@  は、一般にアフリカ分割のなかで展開される。イギリスのアフリカ縦断政策(ケープタウンとカイロ間)とフランスのアフリカ横断政策(ダカールとジブチ間)が衝突したのだ。2つの政策の交差点がファショダであり、両軍があわや衝突となった事件がファショダ事件である。これはフランスが譲歩し、英仏が接近するきっかけとなった。

A  は、いわゆる南下政策を推し進めるロシアとそれを阻止しようとしたイギリスという動きの中で展開される。両者の衝突が、露土戦争(クリミア戦争含む)であり、日露戦争だった。特に日露戦争は、英露協商のきっかけとなり、三国協商が成立したことでイギリスはドイツと対抗していく。大変大きな影響があったことになる。

 

 

㉜ロケット号

 

㉔で紹介したリバプール−マンチェスター間の鉄道で客車を引っ張った機関車は「ロケット号」だった。製作者は、今では蒸気機関車の先駆として有名になったスティーブンソン親子。産業用機関車の原点となる機関車と言われる。最高速度は時速46.6kmだが、平均時速22.4kmで走り、リバプール-マンチェスター間を約4時間半で走った。

 

このロケット号は、開通の前に、1829年レインヒルで行われたコンテストで優勝した機関車だった。優勝というと、一番早く駆け抜けたような印象をもつが、そうではない。コンテストの前に要求される性能が示され、どれだけそれを満たすかが競われた。その性能とは、重量は6.1t以下、蒸気圧力3.5K以下、20tの列車を時速16km以上の速度で牽引する、だった。参加した機関車は5両で、2両は性能が満たされず失格。他の2両は故障というものだったそうだ。

 

このロケット号は、開通式で世界初の鉄道人身事故(死亡事故)を起こしたこととしても記憶されている。

 

 

㉛総統専用列車「アメリカ号」

 

 2018427 () 22:002250 ドキュランドへ ようこそ!」で、『走る要塞 ヒトラーの専用列車』が放送された。走る要塞とは総統専用列車のことで、司令部の機能を持っていた。その名も「アメリカ号」。

 

 ナレーションが<その名は皮肉にも「アメリカ号」>と紹介している。「アメリカは先住民を全滅させ、征服した土地を意味した」ことに由来するという。ヒトラーは、ヨーロッパ征服の野望を込めていたのだという。そして、<長さ430メートル、総重量は1200トン。SS部隊のエリート兵士が列車内を防護し、移動時には、軍が線路脇に待機して橋やトンネルを重点的に警備。> まさにエアフォースワンというのも頷ける。

 

機関車のなかで最も有名なのはBR52で、いわゆるドイツ国鉄52形蒸気機関車と呼ばれる戦時機関車だった。これを重連させて牽引させていたのだ。理由は故障対策。真珠湾攻撃の後、ドイツがアメリカに宣戦布告してからは、名称は「ブランデンブルグ号」と改められた。

 

 

㉚日本初の鉄道はイギリス人技師

 

 周知のとおり、新橋−横浜間が開通したのは1872年(明治5年)1014日であり、この日は「鉄道の日」となっている。当初、鉄道の敷設についてはアメリカとイギリスが争っていたが、アメリカは南北戦争が勃発。イギリスの駐日公使パークスとの間で進められることとなり、彼の推薦でエドモンド・モレルが敷設の指導をした。

 

 彼は、1870年(明治3年)に横浜港に到着。彼は、伊藤博文、大隈重信らと相談の上、日本の軌道を狭軌(1067mm)にすること、当初、枕木はイギリスの鉄製を使用する予定だったのだが、国産の木材にすることを決定している。ただ、彼は、開業を目前にして、1871115日(明治4年旧暦923日)に横浜で亡くなっている。結核だった。

 

 

㉙アイルランド人と中国人が尽力したアメリカ大陸横断鉄道

 

 1869510日、最初のアメリカ大陸横断鉄道が開通した。議会が承認したのは南北戦争の最中の1862年に、リンカーン大統領の署名で太平洋鉄道法が制定された。このアメリカ大陸横断鉄道は、ネブラスカ州のオマハ以西の鉄道のことを言い、総延長2,826 km、カリフォルニア州のサクラメントまでを指す。同法によって、2つの国策会社が設立され、連邦政府からは支援策と融資が決定されている。会社は、1つはユニオン・パシフィック会社で、オマハから西進し、もう1つはセントラル・パシフィック会社で、サクラメントから東進し、1869年、ユタ準州のプロモントリーサミットで接続された。

 

ユニオン・パシフィック会社はアイルランド人移民を、セントラル・パシフィック会社は中国人移民(クーリー)を、大量に動員し完成にこぎつけた。有名な「線路はつづくよどこまでも」はアメリカ民謡ということになっているが、このときのアイルランド人移民の間で歌われた歌で、I've Been Working on the Railroad<俺は線路で働いている(邦題:鉄道稼業)>という過酷な労働を歌ったものだったという。

 

 

㉘封印列車

 

 特殊な列車の利用と言えば、レーニンをスイスからロシアに運んだ「封印列車」が有名だ。レーニンは、1917年の2月革命後のペトログラード(現サンクトペテルブルク)に現れ、紆余曲折はあったものの10月革命を起こす。これをロシア革命という。

 

 レーニンはペンネームで「レナ川の人」という意味。本名はウラジミール・イリイチ・ウリヤーノフといい、社会主義の運動家としてボルシェビキの指導者だった。レーニンは一刻も早くロシアに帰還したかった。当時のドイツは第一次世界大戦真っ最中で、レーニンをロシアに送れば、東部戦線で対峙していたロシアを革命で混乱させることができるかもしれなかった。両者の利害が合致し、ドイツ政府は、レーニンがドイツ人と一切接触しないことを条件に、列車でドイツ領内を通過することを認めた。

 

この列車のことを封印列車という。3つの乗降口は封鎖され、残り1つの乗降口の側にはドイツ将校が詰めるという厳戒ぶりのためこう呼ばれたようだが、ドイツ軍将校の寝室に通じるドアは施錠されていなかったという。また、列車に乗ってきた人に話しかけることができ、駅ではビールと新聞を買いに列車を降りることもできたらしい。妻のクルプスカヤも同行し、スイスのチューリッヒからドイツ国内を通り、スウェーデン・フィンランドを経由してロシアのペトログラードへ到着したのだった。

 

 

㉗鉄道の軍事利用

 

 鉄道の軍事利用で有名なのはドイツのヘルムート・フォン・モルトケ(大モルトケ)であり、彼は、電信と組み合わせ、1848年と1864年の2度にわたるシュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争(デンマーク戦争)、1866年の普墺戦争、1870年の普仏戦争で証明し、ドイツ統一に導いた立役者である。

 

 しかし、鉄道の有用性に気づいていたのはプロイセンだけではなかった。㉔で紹介したリバプール−マンチェスター間の鉄道は、発足後間もなくアイルランドで起きた内乱の鎮圧へ連隊を輸送している。1848年には、ロシアが、ハンガリーで勃発した暴動を鎮圧するオーストリアを支援するため、ワルシャワ=ウィーン鉄道を使って軍隊を送っている。1860年に勃発したアメリカ南北戦争は、鉄道が活発に利用された戦争でもあった。

 

実は、最初に鉄道の軍事的な有用性を指摘したのは、ドイツの経済学者フリードリヒ・リストだった。彼は、ドイツで蒸気機関車のみの最初の鉄道であるライプツィヒ−ドレスデン間の敷設(18371839)に貢献し、ドイツ国内の鉄道網の整備に力を尽くした。実は、EUの発端となったと言われているドイツ関税同盟の提唱者でもある。

 

 

㉖世界初の地下鉄は蒸気機関車

 

 ロンドンは、産業革命以後19世紀になると、人口が増大。道路での郊外からの通勤は混雑を極め、鉄道で都心部(シティ)へ輸送するには、密集した建物地帯が障害となった。それを解決する手段として考え出されたのが地下を走る鉄道だった。1863年、パディントン−ファリンドン間(全長約6km)に世界初の地下鉄が開通する。

 

 使われた機関車は、メトロポリタン鉄道Aクラス蒸気機関車であり、ベイヤー・ピーコック社製だった。地下で走るために、復水式(蒸気を水に戻す方式)で、石炭も初めは黒煙を抑えるためのコークスを使用したが、後に煙の出ない無煙炭を使用したという。駅は吹き抜けとなっていたうえ、路線の一部も掘割で、かなり換気を確保するものとなっていた。しかし、それでも煤はいかんともしがたく、評判はかんばしくなかった。

 

これを解決したのが電化である。ロンドンの地下鉄は1905年に電化され、メトロポリタン鉄道の5号電気機関車「ジョン・ハムデン」(ロンドン交通博物館所蔵)は初期に投入されたものである。ただ、面白いことに、地下鉄の電化はロンドンが最初ではない。1896年にハンガリーのブダペストで、世界初の電化された地下鉄が開業した。そして、1898年にアメリカのボストン、1900年にはフランスのパリと続いた。

 

 

㉕馬車鉄道から蒸気機関車運行へ

 

 イングランドのダーリントンとストックトン・オン・ティーズを結んだ鉄道で、路線は約40kmだった。ストックトン・オン・ティーズは農村地帯の市場町として発展し、17世紀には農産物を運搬する拠点となっていた。ダーリントンには、石炭と鉄鉱石の産地があり、それらをストックトン・オン・ティーズに運ぶために敷設されたのがストックトン・アンド・ダーリントン鉄道である。

 

 開業は1825年で、ジョージ・スティーブンスンのつくった蒸気機関車ロコモーション1号が走った。しかし、ロコモーション1号は信頼性が低く、馬が牽引する馬車鉄道用の貨車が多く使われ、すべてが蒸気機関車になるには1833年までかかった。そのため、軌間は馬車鉄道用の貨車に合わせて4フィート8.5インチ(1,435mm)が使われ、以後、これが標準軌となっていく。

 

 

 

㉔世界初の鉄道

 

 18世紀に入った頃のイギリスは、北アメリカ大陸(西インド諸島)からの砂糖と、西アフリカ大陸からの奴隷、ヨーロッパからの武器や日用品との三角貿易で繫栄しており、その中心地がリバプールだった。この貿易によって資本蓄積を果たしたイギリスは、産業革命を発展させていく。

 

 19世紀になると、その産業革命の一角としてマンチェスター近辺の諸都市を含むランカシャー州が綿織物で発展し、当初、運河が整備されて原料の綿花と商品の綿織物が運ばれた。ところがその運賃が高騰し、発展の足かせとなりはじめたため、商人たちが発起人となって鉄道の敷設をすすめることとなった。土地の買収や測量などで紆余曲折はあったものの、とうとう1830年に開通、営業を開始した。

 

 実は、当初、蒸気機関車の信頼性はまだ低く、反対も多かった。そのため、様々な検討が繰り返され、最終的に一部ケーブル牽引となったものの、ほとんどの区間で蒸気機関車が走ることとなった。そのため、このリバプール−マンチェスター間の鉄道が、世界で最初の実用的な蒸気機関車を用いた鉄道とされている。 

 

 

㉓アジア初の鉄道

 

 かつてのインドは伝統的な綿織物の産地であり、ポルトガル商人によってヨーロッパに多くの綿布を輸出していた。産地はカリカットだったためキャラコなどと呼ばれていた。イギリスも多くのインド産綿布

を輸入した。

 

 このインド産綿布は肌触りが良く、洗濯もできるので、イギリスの都市住民の必需品として綿布の需要が高まった。すると、国産化が試みられ、そこに産業革命がおこり、今度はイギリスが機械製綿布(ランカシャー綿布)の輸出に乗り出す。すると、安価なイギリス産綿布がインド産綿布を駆逐し、インドは綿花の原料供給地として位置づけられ、植民地経営に組み込まれていく。

 

 1837年にスエズ地峡とのルートを確保したムンバイ(ボンベイ)は、定期蒸気船航路が開設され、すでにインド最大の貿易港として発展していた。イギリスは、このムンバイと綿花の産地であるデカン高原の入口に位置していたターナーの間約34kmを鉄道で結んだのだ。これがアジアで初めての鉄道で、1853年のことだった。

 

 

㉒中国初の鉄道は「呉淞鉄道」

 

 日本初の鉄道は、「新橋−横浜」間であることは周知の事実である。これは明治5年(1872年)であるから、アジアではきっと早い方だろうとは思うが、実際はどうなっているのだろうか。

 

 日本よりも早く開国した中国は、実は日本より遅い。1876年に長江沿いにあった呉淞鎮から上海へつないだ「呉淞鉄道」と言われている。上海の租界は、長江の支流である黄浦江という河川の河畔にあった。黄浦江は川幅が約400mで深さは9mほどであるのでそれほど小さな河川ではないが、上海には大きな港がなく、欧米の大型貨物船が荷物の積み下ろしをすることができなかった。そこで、呉淞鎮を外港とし、上海まで鉄道を敷設して輸送するという話が持ち上がった。

 

 距離は約15kmで、軌間は30インチ (762mm)の狭軌鉄道だった。発案はイギリス商人だが、アメリカ商人も一緒に動いている。しかし、清国政府からは敷設の許可が下りなかったので、道路を建設すると偽り許可を得て敷設、運行までこぎつけた。しかし、現地の反対にあい、清国政府からも中止要請が出され、結局、清国政府が買い取る形で撤去されることとなった。その間、16か月という短い期間だった。

 

 しかし、1898年には「淞滬鉄道」として、今度は中国人の政治家盛宣懐によって再び敷設されることになる。この鉄道は、1932年の上海事変、1937年の第二次上海事変で、日本軍と中国軍の対峙する最前線となり、戦火で焼かれた。

 

 

㉑東清鉄道が日本へ、そして中華民国、中華人民共和国へ

 

 日露戦争が終結してポーツマス条約が結ばれ、長春〜大連・旅順の南満洲支線は日本に譲渡されることとなった。その鉄道施設と附属地の経営のために日本がつくった会社が南満州鉄道(満鉄)だった。

 

 東清鉄道の本線の方は、ロシアによってその利権は継承されていたが、ロシア革命がおきたため、現地で管理することとなった。すると、1920年に中国軍が占領し責任者は追放された。その後、ソ連は経営を放棄し、日本とアメリカが経営に関与して立て直しを図った。ところが、1924年に中華民国とソ連が北京協定を結んで、ソ連の権益が認められることとなった。ただ、その後も張作霖が介入したり、ソ連の協定違反などがあったりした。張学良は武力行使に出たが(中ソ紛争)、ソ連の勝利に終わり利権の回復が行われた(1929年ハバロフスク議定書)。

 

 中華民国はこれを認めなかったが、東清鉄道の利権をソ連に売却する方針で臨んだ。そこに勃発したのが、1931年の満州事変であり、1932年に満州国が成立すると(ソ連は満州国を認めていなかったが)、1935年にソ連が満州国に売却することで決着をみた。東清鉄道は、満州国の国有鉄道となり、経営は南満州鉄道が請け負うこととなった。

 

 終戦時に、ソ連がソ満国境を越えて満州に侵攻し、接収。ソ連と中華民国との間で中ソ友好同盟相互援助条約が結ばれ、30年間の共同使用を認めさせた。しかし、1949年に中華人民共和国が成立すると、中ソ友好同盟相互援助条約が改定され、ソ連は返還に応じた。

 

 

S東清鉄道は三国干渉の見返りだった

 

 日清戦争の直後、清国から日本への遼東半島の割譲を阻止したのが、仏・独・露三国による三国干渉だった。ロシアはその見返りとして、様々な権益を要求したが、そのうちの1つが東清鉄道(露清密約)だった。

 

 東清鉄道は、当時建設中だったシベリア鉄道の満州におけるショートカット・ルートである。満州里から綏芬河までを言うが、実質は、チタ〜ウラジオストックまでをつなぐ路線だった。ロシアは、後に、東清鉄道の哈爾浜から大連・旅順までを結ぶ南満州支線の敷設権をも得たため、極東地域における重要度は飛躍的に増した。

 

 この鉄道は、表向き露清合弁とされていたが、実質はロシアに経営権があり、清国は経営に参加できなかった。資金も、露清銀行からの融資で、実質はフランスの投資家からロシア政府への貸付でまかなった。完成は1904年の日露戦争勃発直前だったという。

 

 

RK2形蒸気機関車

 

ガールズ&パンツァー劇場版に、知波単学園が蒸気機関車で駆け付ける場面が出てくる。この蒸気機関車はシルエットしか出てこないが、その特徴ある形はK2形蒸気機関車のようだ。

 

K2形蒸気機関車というのは、Qで紹介した陸軍鉄道連隊が使用した作戦用機関車のことである。ドイツから輸入されたE形蒸気機関車の国産後継機種であるK1形蒸気機関車の改良型である。神戸の川崎車輛で設計・製造され、当初はソ満国境の野戦軽便鉄道への配備を目的としたが、多くは内地で払い下げられ鉱山や工場への引き込み線などで使用された。

 

 

Q陸軍には鉄道連隊という部隊があった

 

 鉄道連隊は、終戦までに第一連隊から第二十連隊まで編成され、戦地に渡って鉄道を敷設・架橋・保線することをはじめ、破壊された鉄道の復旧を行った。日清戦争で輸送に苦労した陸軍が、ドイツを範にとって鉄道大隊を1896年(明治29年)に陸軍士官学校内に創設したのが始まりとされ、1907年(明治40年)10月に連隊に昇格した。連隊は列車も保有し、運行するために修理なども行った。シベリア出兵以降は、必要に応じて敵国の鉄道の破壊を任務にも当たったという。

 

 鉄道連隊の前身である鉄道大隊は、日露戦争時に、朝鮮半島の京義線、南満州の安奉線を建設し、旅順を砲撃するのための28センチ要塞砲を大連から鉄道で輸送している。主な派遣先は、満州や華北・華中であるが、フィリピンやフランス領インドシナにも派遣されているという。有名な泰面鐡道で建設に当たったのは、第九連隊と第五連隊だった。そして、実際には訓練や研究を兼ねて国内でも活動していたようだ。これら鉄道連隊も19セイコーを使用したのだろうか。

 

 

Pシベリア鉄道建設に果たしたフランスの役割

 

 クリミア戦争(185356)でパリ条約、いわゆる狭義の露土戦争(187778)でベルリン条約が結ばれた。その結果、ロシアはバルカン半島や中東からの南下が阻まれ、より東方へ目を向けることとなり、シベリアの開発が急務となった。

 

 シベリアは、タタール語で「眠れる大地」を意味し、15世紀〜16世紀に存在したシビル・ハン国に由来するという。当時、世界の制海権はイギリスにあり、国際貿易決済機構もロンドン金融市場に独占されていた。これに対抗するために考えらえたのがシベリア鉄道であり、ヨーロッパとアジアを陸路で直結しようというものだった。しかも、シベリア鉄道は、ロシアの大陸軍をヨーロッパから東アジアへの移動を可能とする。さらに、ウラジオストクから香港に至る東アジアに、ロシアの制海権をうち立てイギリスを脅かすことができるかもしれないという、戦略上重要な案件となっていく。

 

当時、ヨーロッパではドイツがフランスの孤立化を狙ったいわゆるビスマルク外交が崩れ、ロシアとフランスが急接近して露仏協商の締結をみる。シベリア鉄道は、このときのフランス資本をバックに着工されることになったわけである。

 

 

Oシベリア鉄道

 

 太平洋戦争末期、ナチスドイツが降伏し、残るは日本だけとなったとき、ソ連が戦車など大量の兵器と兵隊を満州国境付近に輸送したのが、シベリア鉄道と言われている。89日時点の、兵隊158万人、戦車6000両、火砲26000門が、およそ3か月で運ばれたことになる。

 

 フランス資本から資金援助を得て、1891年に工事を開始。5フィートの1524mmの広軌を採用し、当初は1903年完成の東清鉄道経由で、1904年に一応の完成を見る。しかし、1916年にバイカル・アムール鉄道(バム鉄道)が完成し、9,297kmの全線開通となった。もちろん蒸気機関車で、FD型に代表されるソ連時代の正面に赤い星をしつらえた巨大な機関車が有名だった。

 

開通当初の軌間1524mm1971年に公式に1520mmとされ、2001年にはルートを変更して全長9,259kmとなった。そして、2002年に全線電化完了。機関車は、4つの区間をそれぞれ交流と直流の電気機関車が牽引している。かつては、チェコスロバキアのシュコダ社製のものと、ソ連(ロシア)製のものとを併せて使っていたようだ。現在、モスクワ−ウラジオストック間を、67日(6日と2時間)で走り抜ける。極寒のため、信頼性から石炭ストーブが使用されているのは有名。マニアでなくとも、ぜひ一度は乗ってみたい路線ではある。

 

 

N張作霖が乗っていた列車は、西太后のお召列車だった

 

 昭和3年(1928年)、奉天(現在の瀋陽)近郊で、軍閥張作霖の乗った列車が満鉄の橋脚をくぐったときに爆発が起きた。列車は大炎上し、張作霖は絶命。爆弾はロシア製だったが、電線が日本の監視所に引き込まれていたことなどから日本側の工作であったとされている。

 

 しかし、日本は張作霖を重視していたこと、殺害するメリットがなかったこと、などから、現在でも、息子の張学良説、ソ連説などがささやかれている。

 

 この張作霖が乗っていた列車が、実は、清朝の西太后(慈禧大后)が乗っていたお召列車だったことがわかっている。満漢全席で有名な西太后は、お召列車も破格で、16輛のうち、カマド50基を常時用意した厨房車が4輌連結され、料理人は100150人だったとか。

 

機関車は、アイアン・デューク型蒸気機関車(鋼鉄の侯爵)で、イギリスのグレート・ウェスタン鉄道のスウィンドン工場で1900年に造られたものだった。名前を「龍鳳号」といった。清国総督の李鴻章が、1903年に西太后の誕生日に献上したものだったという。

 

 

M金報国時計はいわゆる「金属回収令」とは関係ない

 

 懐中時計の裏蓋に、「皇紀2599金報国」とか、「金報国2599」とか、刻印されている時計を見ることがある。皇紀2599年は、昭和14年(1939年)のことで、戦争の直前となる。

 

 この時計の説明として、「金属類回収令」をあげて金属の供出から説明するものを時々見る。しかし、これは、公布が昭和16年であり、時代が合わない。

 

「大阪毎日新聞」 <昭和14年(1939年)712日>を見ると、見出しが「金の買上げに対し国債で支払う」とある。そして、下のように書いている。

 

「政府は金集中の意義を徹底効果あらしめるためこの際政府へ金を売却する者に対しては

その代金により国債を購入する等の方法で金集中と同時に貯蓄奨励運動を大々的に並行

することに決定」

 

つまり、金の供出は、戦争の金属不足のためではない。

 

戦前に、軍備拡張のために基礎資材の輸入増加と輸出不振から外貨不足に陥ったことから日本銀行の金準備高が底をつき、民間から金を買上げるための運動を展開した、というのが真相である。

 

そして、政府は、金を買い上げるにあたり、次の3つの方針で臨んだという。

@「取扱店は支那事変国債を準備し金の売却者に対し金報国記念として金売却代金をもって国債を

購入するよう勧奨」

A「特別銀行及び普通銀行等の取扱店においては金報国記念預金帳を、貯蓄銀行等の取扱店にお

いては金報国記念金銭信託証書を準備して置き金売却者に対し金報国記念に金売却代金で預

金、貯金又は金銭信託をするよう勧奨」

  B「取扱店は今後金売却代金を受取るべき者に対してのみならず既に受取った者に対しても同様国

債購入、貯金奨励」

 

つまり、金を買い上げる代わりに、国債か信託証書の購入、あるいは預金・貯金をしてもらうこととしたわけである。金報国の刻印は、金の時計ケース(金張りか金無垢)を売却した印というわけである。

 

国家的な危機のために金を供出したことには間違いないが、いわゆる鉄などの供出とは異なることがわかるだろう。193741 年の間に民間から回収された金は約100dにものぼり、この間の海外現送分の約1/3に相当していたとか。

 

 

L弾丸列車計画

 

 通称「弾丸列車計画」。正式名は「広軌幹線鉄道計画」で、標準軌を新しく敷設する計画である。東京〜下関〜釜山〜新京間を39時間20分で駆け抜けるという、当時としては壮大な計画だった。

 

 昭和13年(1938年)に鉄道省内に計画が持ち上がり、1940年には帝国議会で正式に承認されている。それによると15か年計画となっており、完成は昭和29年(1954年)となっていた。ただし、戦争激化のため、一部を除いて昭和18年(1943年)に工事が中止されている。

 

 その全体像をここで紹介するにはあまりに膨大であるが、基本のみここで紹介しておく。

 

 ・在来線とは別の複線とし、標準機(1435mm)を採用する。

 ・旅客駅は18とし、列車は蒸気機関車と電気機関車とする。

 ・機関車はドイツの蒸気機関車と電気機関車をもとに設計し、流線形とする。

 ・最高速度は、蒸気機関車で時速150km、電気機関車で200kmを目指した。

 ・路線は一部を電化(直流3000ボルト)し、幹線道路との交差は立体とする。

 ・旅客列車だけでなく、貨物列車・郵便列車・荷物列車も運行する。

 ・下関〜釜山は連絡船とするが、客車をそのまま積み込めるようにし、将来はトンネルとする。

 

 戦後の新幹線計画の元になった計画であると盛んに紹介されている。間違いではないが、直接の繋がりはなく、異なる点も多い。また、あくまで計画であったので、どこまで実現できたかは未知の領域だった。しかし、戦後、新幹線が開発に成功したことから、絵空事ではなく実現可能だったものとして、よく比較されているととらえておくと間違いがない。また、計画には、軍部からの戦争における攻撃の想定を加味している点も見逃せない。

 

 

K三六軌間と弾丸列車

 

 現在でも日本のほとんどの鉄道で採用されている軌間(レール幅)のことで、一般に「狭軌」とも言う。3フィート6インチという幅で、日本ではメートル法で1067mmと表示することの方が多い。

 

 この軌間は、イギリスから鉄道を導入した国で採用されることが多く、「Cape gauge」(ケープ植民地で導入された)などとも言う。日本に鉄道が導入された時には、すでにイギリス本国では「標準軌」である4フィート8.5インチ1435mmに統一されていた。また、主要先進国では標準軌を採用している国が多い。しかし、日本では結局狭軌になった。理由は、日本の経済事情、山地の多く平地が少ない地形、狭軌の流行などだ。

 

 ただ、日本では狭軌を標準軌に変えたらどうかという改軌論争が何回も起きている。その論争は「建主改従」か「改主建従」かという言葉で表現されることも多い。しかし、現在でも狭軌がほとんどであることが示しているとおり、それらは立ち消えになってきたというのが現実だ。

 

 これに一石を投じたのが、満州と朝鮮、あるいは中国の軌道だった。当時、東海道〜山陽線は輸送能力が逼迫、しかも、東京から朝鮮・満州に至るには下関から釜山を経由し、鮮鉄・満鉄へ乗り入れることが必須だった。ところが、鮮鉄・満鉄は標準軌だったのだ。

 

 そこで計画されたのが、別路線の標準軌を新しく敷設するという、いわゆる「弾丸列車」計画だったわけである。 

 

 

Jあじあ号

 

 戦前の日本の鉄道で、「あじあ号」に触れないわけにはいかないだろう。

 

 あじあ号は、南満州鉄道(満鉄)が1934年(昭和9年)に運行を開始した特急列車で、特に「超特急」と呼ばれた。運行区間は大連−新京(満州国の首都で、現長春)であり、78駅中3駅にのみ停車した。701km8時間30分で走り、最高速度は120km超という。ただ、1935年には、哈爾浜まで延長し、パシナ形ではそのまま入ることができず、機関車を交換したという。

 

 機関車は、満鉄の自社設計で、当時高速鉄道として流行していた流線形蒸気機関車だった。その名も「パシナ形」過熱テンダー機関車。パシフィック形の第7形式ということで、パシフィック(アメリカ式の分類)のナナバンメからこの愛称、パシナとなった。車軸配置が2C1というから、車軸が2-3-1本で、先輪−動輪−従輪が4-6-2個である。つまり、大型の火室を支えられる従輪を備えていた。この型を開発したアメリカの製造会社への初期の注文先が、ニュージーランドとミズーリ・パシフィック鉄道だったことから、太平洋にちなんでパシフィック形とされた。

 

テンダーとは、炭・水の置き場を機関車の後ろに炭水車として外付けしたことを指し、過熱式とは、ボイラーから出てきた蒸気をさらに沸点を超えて加熱し、凝結水を取り除くことで出力を上げる方式のことで、一般に大きなエンジンとなる。

 

 製造は、南満州鉄道沙河口工場と川崎車輛で、12輛製造された。機関車・手荷物郵便車・3等車2両・食堂車・2等車・1等車の7両編成で、全長174mだった。また、1等車と2等車にはリクライニングシートがあり、冷暖房を完備していた。そして、シベリア鉄道に連結しており、ヨーロッパにまで行くことができたという。

 

 当然のことながら、このあじあ号でも19セイコーが使用され、運行に貢献している。ただ、このあじあ号、1943年(昭和18年)には戦争が激化したことから運転を休止した。 

 

 

I自動連結器の導入

 

 1925年(大正14年)716日、日本国有鉄道は、1日で、全国一斉に自動連結器への切り換えが行われた。

 

 それまでの列車は、螺旋並連環連結器を使用しており、熟練が必要なうえ、危険が伴うことから大変時間がかかった。実際、連結作業で命を落とす作業員が多数に上ったとのこと。

 

 この切り替えについては、鉄道における国際的な課題となっていたのだが、費用・時間・技術的なことから二の足を踏んでいる状態だった。それを日本が世界に先駆けて実施したのだ。

 

 この自動連結器は、前後に同じ連結器でよいことから取り付けが比較的容易、しかも、連結そのものは自動で行うので人手が要らず、危険もなかった。そして、車両の向きは前後どちらでもよく、強度も増したというから、貨車の数も多くできたことになる。鉄道運行の効率がアップしたの間違いない。

 

 この時代、他にも、エアーブレーキの全車輛への採用もあり、日本の鉄道の技術革新の象徴と言える。

 

 

 

H関東大震災

 

 この流れに冷や水を浴びせたのが関東大震災だった。

 

1923年(大正12年) 9月に起きた関東大震災によって、工場や営業所などが全焼し、生産・販売は中止となった。翌10月に営業を開始し、精工舎は翌年3月からは生産を再開となった。

 

このとき、精工舎は、「精巧な時計を作る」という精工舎創業時の原点に立ち返り、新しいブランドである「SEIKO」を立ち上げた。(「SEIKO MUSEUM」より)

 

19セイコーを収集していると、SEIKO表示は昭和34年からとわかってくるのだが、実はSEIKOブランドそのものは戦前、しかも大正時代からあったのだ。

 

 

G第一次世界大戦

 

 時計に関する書籍やHPを見ていると、かつての時計の先進国は、フランス、イギリス、スイス、アメリカ、ばかりが出てくる。もちろん、それらの国の時計は称賛に値するものであり、否定するものではない。しかし、もう1つ忘れてはならない国がある。ドイツである。

 

 19世紀末に新興工業国として躍り出たドイツは、時計産業でも輸出に力を入れていた。日本も第1次世界大戦の前は、輸入時計のかなりの部分をドイツが占めている。また、精工舎自身も、ドイツの時計を模した製品も開発している。

 

 そんな状況をチャンスに変えたのが第一次世界大戦だった。当時、イギリスとフランスはドイツから目覚まし時計をかなり輸入していた。ところが、大戦で、ドイツが敵国になると輸入することができなくなってしまう。その分を穴埋めするように精工舎が大量受注するのである。

 

 イギリスが60万個、フランスが30万個というから半端な数字ではない。また、ちょうどこの頃、精工舎は懐中時計が黒字化する。「エンパイヤ」の大ヒットが貢献したようだ。

 

 

F日本初の標準鉄道時計はウォルサム

 

この経緯については、交通公社新書の『鉄道時計物語』がわかりやすく書いているので、触れておきたい。

 

キプトンの悲劇が1891年であるのは周知の事実として、それは日本の鉄道ではどんな時期だっただろうか。

 

東海道線全通が1889年(明治22年)であり、新橋−神戸間が20時間10分で走ったというから、日本の鉄道関係者は、時間管理の重要性はまだそれほど認識していなかったかもしれない。

 

私鉄の日本鉄道では、遅延が30分未満であれば遅延ではなく処罰されなかったそうだからなおさらである。

 

しかし、定時運行の必要性は認識されていたようで、日本鉄道は1893年(明治26年)に「時計貸与規定」が制定され、懐中時計の携行が義務づけられたとある。

 

そんななか鉄道運輸局(後の国有鉄道)が、標準鉄道時計、いわゆる「鉄道時計」としてウォルサムを採用した。機種はクレセント・ストリート。ローマ数字の文字盤で、7石の懐中時計である。

 

この時計は、裏蓋が2重になっており、「鐵道院」とか「帝国鐵道廰(庁)」という刻印が入っているものが人気だ。しかし、この時計は、よくできた復刻されたレプリカがある。購入には注意が必要だ。

 

E特急列車の時代

 昭和の初期から戦争半ばまでは、特急列車の草創期と言える。そして、それらに先立って行われた改革があったればこそとも言える。

 

 改革のなかで重要なものは、何といっても「国有化」だろう。日露戦争における運用の不便さから、軍部から国内基幹の輸送を優先することが要請されることになった。そして、1906(明治39)には「国有鉄道法」が可決され、大手私鉄の買収が行われた。これが、長距離列車の設定を可能としたのだ。

 

昭和初期には「燕」(昭和4年)・「富士」(昭和5年)・「鴎」(昭和12)の特急列車が現れる。

 

大陸では1934年(昭和9年)に、南満州鉄道による「あじあ号」(大連-哈爾浜間)という超特急も運行された。

 

そして、昭和15年には、「弾丸列車」と呼ばれる「東京・下関間新幹線増設に関する件」の計画も可決されることになる。(この計画は戦争激化のため中断され、戦後の新幹線に引き継がれる。)

 

それら特急の登場と時期を同じくして開発されたのが19セイコーであり、それら特急列車の運用を立派に果たした。

 

 

D19セイコー、ついに鉄道時計に指定される

 

当時の『報知新聞』 1930.10.17-1930.10.21 (昭和5)<神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 機械製造業(02-081)>に

  セイコーの懐中時計が鉄道省の乗務員の時計に指定されたことを報じている。

 

「懐中時計の領域では、だから現在精工舎の『セーコー』が国産愛用運動の流れに乗って勇敢に組立工場に向って挑戦を続けているわけである、鉄道省でも昨年(昭和4年)から最も正確を尊ぶ乗務員の時計についてウォルサムを廃めて『セーコー』二十型を指定した例もある、」( )は私

 

ここでは、鉄道時計を「乗務員の時計」と呼んでいるが、これは鉄道時計のことだろう。

つまり、Cの国産品の懐中時計は、「セイコー」の懐中時計であることがわかる。

 

残念なのは、指定された時計を「二十型」としている点である。これは明らかに間違いであり、19型のことである。

そして、19セイコーに間違いない。

 

当時はケースまで含めて20型としていたのだろうか。

それとも単なるまちがいなのだろうか。

 

 

 

C国産品の懐中時計が鉄道時計に指定された報告

 

「鐵道省に於ける國産品使用奨励委員会經過報告」 (昭和五年三月 鐵道省)

 

p37

チ、懐中時計

 鐵道乘務員用懐中時計は特に正確を要するものなるが故に、從来外國品をのみ採用したるも當省の如く大量需要者が國産品を採用せざれば内地製品の進歩もまた期待し得ざるを以て進で之を採用し、製品の進歩とともに順次國産品に代ふべき方針なり。目下試用中のものは米國ウオールサム會社に比し遜色なきものの如し。

 

鉄道省が発行した国産品使用の経過報告書である。

   ・いわゆる「鉄道時計」のことを「鐡道乗務員用懐中時計」と呼んでいることがわかる。

・また、従来は、「外国品のみを採用」としており、その理由が「特に正確を要するものなるが故」としている。

・そして、順次国産品へ代える方針としている。

・試用中(試験を繰り返していたことを示しているのではないか)のものは、

アメリカ製のウォルサムに比して「遜色なきもの」としている。

鉄道省は、国産品の懐中時計をかなり高く評価していることがうかがえる。たぶん、これが19セイコーなのだろうが、残念なことに、明記はしていない。

 

 

B国産品愛用運動

 

当時の新聞である『時事新報』 1930.6.28 (昭和5) <神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 産業(5-030)> を見ると、

昭和5年6月27日の定例閣議における「国産品愛用問題」について各大臣の言葉が紹介されている中で、江木鉄道相の言葉が目を引く。

 

「昨年(昭和4年)八月から省内に国産品使用奨励委員を設け調査を進めたが十一月頃迄は何等成績があがらなかったが十二月以降に於て始めて数字の上に証明し得べき事柄が出てきた、昭和四年十二月より本年五月に至る半年に於て外国品を購入したもの三十一万円で前年の同期間に於ける二百六十九万円に比すれば約八割八分を減じている」<( )は私>

 

さらに、財部海相の言葉

 

「陸海軍は従来と雖も主として国産品を使用していたのである鉄相の報告を聞いて満足に思うがこの上国産品愛用を満鉄等植民地方面迄徹底して貰いたい」

 

つまり、国を挙げての「国産品愛用運動」が行われており、特に鉄道省ではその効果が上がっていることを紹介しているわけだ。そして、さらに満鉄等植民地方面まで徹底する方針を確認している。19セイコーはこの流れのなかで生産・販売が開始され、鉄道時計として指定されたことになる。

 

では、国産品の懐中時計であれば何でもよかったのだろうか? 

 

19セイコーの名前の由来である19型というムーブメントの大きさは「鉄道時計」の大きさに適合しており、生産・販売そのものは鉄道省内に国産品使用奨励委員が設置された昭和4年8月よりも前の4月である。ということは、19セイコーは、国産品使用奨励委員が設置されてから開発されたのではなく、初めから鉄道時計の指名をめざして開発されていたと推測できる。

 

 ただ、鉄道省による鉄道時計の指定は、この国産品愛用運動の流れのなかで行われたことは間違いなく、服部金太郎が政治の流れを読んで開発をしていたことは否めない。しかも、性能としては「精度誤差の許容範囲」(『精工舎 懐中時計図鑑』)「性能に差がない」(『鉄道時計ものがたり』)という程度のものであり、輸入品(この時代までは舶来品と呼んでいたらしい)に肩を並べる、とか、凌駕する、とかいうものでなかったことは明らかだ。そのため、『鉄道時計ものがたり』では、「むしろスペックダウンとなっている可能性も否定できないはずで」という表現になっている。

 

しかし、そのムーブメントや機構を大きく変更することなく、昭和46年まで生産されたのであるから、いくつかの特急列車、そして、新幹線でも使用が可能だったわけだ。ということは、開発された昭和の初期の段階で、19セイコーは現場の使用に十分耐える性能を有していた、と言うことはできるのではないだろうか。

 

 

 

A鉄道省の誕生

 

 他方、鉄道所轄官庁が、鉄道事業の権限強化・独立を果たし、大正9年(1920年)に「鉄道省」に昇格した。初代大臣は元田肇となり、昭和18年(1943年)の八田嘉明まで24人の大臣を輩出し、鉄道の近代化、戦時における効率化などに取り組むことになる。

 

 そんななか、19セイコーが鉄道時計に指定されたのが、第8代鉄道大臣 江木翼(えぎ たすく)のときだった。このときのエピソードが、『精工舎 懐中時計図鑑』の100頁に紹介されている。それまで鉄道時計は、アメリカのウォルサムやエルジン、スイスのゼニス(ゼニットとも)といった外国製が使用されてきており、国産の鉄道時計が指定されたということは画期的なことだった。

 

 

 

@19セイコーにとっての「戦前戦中」という時代

 

 ここでいう戦前戦中は、いわゆる歴史学において評価をしようというものではない。そういったものは他のHPや書籍に譲るものであり、ここでは「19セイコーにとって」戦前戦中はどういった時代だったのかについて少し考えていきたい。

 

 19セイコー(19型SEIKOSHA)が誕生したのは昭和4年4月。鉄道時計として認められたのが、同じ昭和4年11月。

 

奇しくもこの昭和4年はという年は西暦1929年であり、世界大恐慌の端緒となった「ウォール街大暴落」の年として記憶されている。そして、いわゆる「暗黒の木曜日」と呼ばた、昭和4年10月24日(木曜)に、最初の株価暴落が起きた。

 

日本では、その前、大正12年(1923年)に関東大震災が起き、昭和2年(1927年)3月には昭和金融恐慌、そして、追い打ちをかけるようにウォール街大暴落直後の昭和5年(1930年)に金解禁を行ったという、激動の時代だった。そんななかで誕生したのが19セイコーだった。