激戦地ソハナ島の思い出

海軍第二十八防空隊 村山善策

 

 昭和18年12月8日、私は第一根拠地隊司令部附を拝命。11日に家族と別れ、呉に向かい便船を待つこと約1週間余りにして駆逐艦に便乗が決まり、陸軍を満載した1万トン巡洋艦四隻を護衛しながらトラック島着。水交社にて約一か月便船を待ち、しばらく潜水艦に便乗し、ラバウルに向かい、入港と同時に潜航、爆撃に会い戦闘の荒涼さを痛感した。

 ラバウルでは第八艦隊の宿舎に入り、毎日爆撃を受けながら待機すること2週間余りにして、また潜水艦にてブーゲンビル島部員に夜間上陸、一根司に挨拶に行ったところ、主席参謀米内四朗大佐が従兵を呼んで、小さな甘藷2個をふかしてくれと頼んでいるのを見て驚いた。

 全く食糧はないのである。それからは毎日食糧集めに奔走し、陸軍の桃太郎農園に鉛筆二本をもって行き、甘藷2個を貰い帰ったこともあった。

 夜は概ね近隣部隊の准士官以上と合流して鯛釣りに出かけ、10尾位を持ち帰り、士官室全員にふるまった。

 そのうちタロキナに上陸した敵は三か所に飛行場を造り、日本軍の輸送分断の作戦に出た。たまたま八十七警備隊加藤司令(大佐)と佐世保鎮守府との電報を傍受して私の交代を送るよう、要請していることを知り、陸路赴任するよう一根司令官に申し出たところ、「北の方も同じ情況だから気をつけて行くように」言われ、カナカ土人宣撫用の煙草をいただいて出発。主に東海岸を選び、野宿したり守備隊に泊まったりして毎日40キロ位を歩いた。ヤシ林を通過するのに丸1日を要したこともあった。土人道に入ってからはジャングルのみで非常に険しく行程もなかなかはかどれなかった。部落に着いたら大酋長に持参の煙草一本サービスするだけで泊めてくれるし、翌朝四時ごろ起床すると隣り部落までの道案内と土産物にバナナ、パパイヤ、野鶏の?等を持った若者が3、4人待っていて、次の部落まで送ってくれるので助かった。

 途中には首まで位の深さの川が10数本もあり、その川岸にも10体近くの遺体があった。これは川を渡ってマラリヤが出て、そのまま亡くなられたのであろう六師団の兵士達であった。

 このような悲惨な毎日を繰り返し2週間余りもすぎたある日、広大なA、B、草原を通りぬけたところで道が二股に分かれていて迷ったが、左の方が立派な道だったので左を選んで急いでいたところ、バナナの林の中から陸軍の将校が飛び出てきて私を引っ張り入れ、1泊させてくれた。(彼は後に戦死)そして翌日、兵員2名を付けてくれたので無事八十七警備隊に到着、加藤司令に挨拶もそこそこにソハナ島にわたり二十八防空隊に着任し、士官室に入ったところ、当日は5月5日、男の節句なので従兵が早めに昼食の準備中であった。

 富中隊長(富中音治海軍中尉)と馬場吉原両小隊長は、「これでやっと揃いましたなあ−」と喜んで迎えてくれたが、間もなく「零度方向に爆音、戦爆連合200機、当台上空に向かう」と見張り声。隊長は、「対空戦斗配置に付け」と怒鳴り、上衣と双眼鏡を肩に掛け、指揮所に行き、中央の折椅子にかけ近づいて来る敵機を睨み、泰然と非常に静かに見えた。

 やがて隊長の号令で「突っ込んでくる戦闘機、信号極限射撃、撃ち方始め」で物凄い対空砲火が続き、一時経ったころ後ろに爆弾の落下で私は前に吹き倒され、何が起こったか判らなかったが、梢があった立ち上がってみると並んで立っていた馬場小隊長と河野水兵長が倒れたまま動かないのである。

 私は茫然と立ちすくんでしまった。「このぶんでは1週間ももたないなあ−」と覚悟を決めた。

 その後も毎日数10機または100機以上の戦爆機が襲来、死闘が続くのであるが、何分にもヤシのコプラだけの食事では栄養失調者が増えるので、さしあたって私がブインから持ってきた南瓜の種を各幕舎に分け植えさせたところ、南方では育ちも早く異常な収穫で、ヤシのコプラを下に南瓜を上にして切った主食は、味はともかくケーキのようで見事であった。このヤシの実を集めるには、ブーゲンビル島に隊員が取りに行き、コプラの採集はブカ島の大酋長ロホーとNo.1酋長チェーンの二人で彼らはブカ島飛行場の修復に協力しなかった罪でソハナ島に留置していたのだが、爆撃で留置場を壊されたため、富中隊長はソハナ島では自由を認め、戦闘以外の時間は隊員と一緒に農園作業に従事し陣地を除いた高地に広大な農地ができあがり、前面に甘藷を植え付け全員が楽しみにしていたが、三か月後には180度方向から来襲したノースアメリカンB52、30機の編隊が農園のみを一斉爆撃し、完全に飛ばされてしまった。しかし、このころには不発弾の火薬を抜き取って作ったマイトを使い、漁労隊の活躍で毎日大型のヒラメやウツボ等200尾位をも水揚げしてくれたので魚が主食のようで、前のように蛇、トカゲ、蛙等を周章し獲らなくてもよくなっている。その後、タリナに進駐した敵はソラケン半島に十五糎砲4基を構築して、ソハナ砲台の十二糎4門に対抗を考えていたと思うし、視界を広めるためジャングルを伐採したが、敵に利がある羽目となったようで、朝夕の別なく撃ってきた。

 あわせて毎日のようにラバウルを空襲した大編隊がショートランド、モノ島等の基地に帰る前に、ソハナ島に来襲、爆弾は雨のごとく、一口で言うことはできません。隊員の疲労は日増しに増えた。このソハナ島にはアナフェーレス蚊の媒介による三日熱、四日熱、熱帯熱、と最悪性のマラリヤがあって、40度以上の発熱で亡くなる隊員が多くなっていた。私の配置は機銃群の指揮官だったので、島の中央部、すなわち爆弾の通り道で、島の南端まで幅10m位大川のように掘った小高い位置に、直径2m位の水槽用のドラム缶を埋め、伝令とともに軽機銃を備え、ただがむしゃらに撃った。弾が出ていれば、妙に爆弾は逸れる。こんな激闘が続く毎日であったが、死に対する恐怖は全く無くなり、戦友の死を見ても今度は俺の番かと坦々とした表情でつぶやいているのを見て、これでこそ激戦に堪えてゆけると思った。

 そして12月22日、昨年の同日、一番砲直撃で10名の戦死者を出した命日に当たり、ソハナの大黒柱でもある富中隊長他6名が指揮所直撃のため壮烈なる戦死を遂げられ、私も下の通路にいて赤土で埋められ、奥の方で5人の部下が騒いでいるのを静めて待ち、掘り出してもらった。この日の戦死者のうち、末永重郎ニ曹の遺体がないので、直撃弾の穴を隈なく掘りあげて探したが、どうしても見当たらないのでやむを得ずその所に墓標を建て士官室に戻ったが、2人は隊長もいなくなった暗い室でただ悲痛に暮れたのである。そして、20年元旦も過ぎ、四日朝8時ごろ、喜屋武長文二曹が士官室に来て、小隊長、昨夜、末永兵曹が迎えに来ましたと言うので、夢など気にせず頑張れと言ってやったが、2時間ほど後に、例のごとく大編隊の来襲で何分間の対空戦闘だっただろうか、戦闘は無我の境地にあり、ただ曳光弾の進行が敵機に食いいるか一心で見つめ、その時間は何時間もかかったごとく感ずる。戦闘が終わり、被害を報告せよと怒鳴ったところ、戦死1名喜屋武長文二曹と言う。こんな不思議なことがあるものかと吉原小隊長と唖然としたものである。

 やがて二代目隊長東城亨中尉(当時)が着任した。彼もまた故富中隊長のごとく豪気な男であった。指揮所が破壊されたので、近くにドラム缶を埋めて仮の指揮所とし、毎日のように愛犬を連れて入っていたが、ある夜、「昨夜は東京湾に敵の艦隊が大挙して入港した夢を見た」とか「直撃弾でやられた夢を見た」とか言うので、前のこともあって、そんな不吉な夢は見るなと厳しく言ってやった。空襲に加えてソラケン半島から砲撃、夜間には艦砲射撃があったりして相当に混乱と疲労があったものと思うのである。

 彼が口癖のように言っていたとおり、8月9日、指揮所に直撃、愛犬とともに壮烈なる戦死を遂げ、千人針の腹巻に一片の肉を残し、しかも終戦間近にして逝ったのだから私どもも断腸の思いであった。そして、翌日、中尾敏雄中尉が隊長として赴任したが、戦闘も遠のき夜間タリナの敵陣地で打あげ花火があり、翌日にはグラマン中爆が2機低空でビラ撒きに来た。内容は日本降伏とかソ連参戦のビラであった。ソハナではいまだ終戦の命令を受けていないので二十五粍機銃、十三粍機銃で一斉射撃で敵機の胴体に穴を開け撃退した。これまでにも2回ほど駆逐艦を先頭に大発五隻ほど兵員を満載し、ソハナ島に上陸目的で近づいたことがあったが、高角砲を平射に備えて死角に入らぬうちに撃退したことがあったソラケン半島から何百発も砲撃があり、敵の物量の差をしみじみ知らされた。何時間かして終戦の命令が八十七警備隊本部から知らされ生きたいたことを実感し、これは英霊となられた方々のご加護の賜物と深く感謝するとともに亡き戦友のご冥福を心から祈った。ちなみに、私応召の際、父より贈られた念珠が終戦の前日十四日ポケットの中で糸が切れ、ばらばらになっていた。この念珠は戦没者の埋葬に必ず持って行った大事な物であった。なお、中尾隊長が10発撃った高角砲の砲弾が31発しか残っていないかったこと、終戦と想い合わせ奇跡というべきでしょう。

 その後、タノキナ収容所からファウロ島の収容所に移り、豪軍の支給する1食ビスケット4枚と湯呑1杯のトマトジュースで、長い間飢餓の生活で苦労し、食事のトラブルである将校が「食足りて礼節を知る」と呟いていたのを今でも覚えている。年も変わり、21年2月26日、病院船氷川丸が迎えに来たのでご遺髪と爪をいっぱいに詰めた雑のうを背負い乗船、3月3日浦賀に上陸復員したが、またも愕然とした。それは19年1月6日、妻は急死して、8歳、4歳、1歳の子どもたちは、75歳の父が食糧事情はソロモン並みの当時大変なご苦労であったことは言うまでもなく、その後、私は再婚し、妻との必死の協力で子どもたちも立派に成長し、父は98歳の長寿を全うして逝き、これを期に長年の念願であった28防空隊隊員の名簿作製に着手、川崎清臣氏の長年にわたる調査支援を得て、ようやく完成。昭和59年5月15日、第1回慰霊祭を第八十七警備隊副長本田清治氏、他、来賓、ご遺族多数ご参堂のうえ、福岡市円応寺において営み、毎年このようにして続け、再来年は50回忌慰霊ご供養する予定となっております。

 地獄から生還して平和な日本で幸せな余生を送ることのできるのは、正に極楽です。愚かな戦争は極悪非道末代まで起きないよう心より祈ります。

 

隊長としての祖父音治のことが具体的に書かれていますね。命令ではありますが、音治の言葉もいくつか載っていて、ちょっと感動的でもあります。そして、やはりたくさんの爆撃機に狙われていた島であり、かなりの激戦地だったことも印象的です。その他にも、酋長の存在、ソラケン半島の十五糎砲の構築、敵によるソハナ島への上陸の試みとその撃退は、これまでの書籍にはないことのように思います。紹介していただいた家族の方に感謝!

 

→二十八防