「ソハナ砲台の迎撃戦」

「ブーゲンビル戦記」藤本威宏著昭和49年7月より抜粋

 

< 十九年三月のある日,ソハナ島の自活状況を視察するために,農耕の合(ママ)をみて,大発で島に渡った。ソハナ島は,ボニスの八七警備隊司令部からは,目と鼻の先にある小島である。一○○メートルに二○○メートル位の小島であるが,ここの飛行場には防空砲台があって,二○ミリ高角機関銃四門,十三ミリ機銃が十八基もあり,全島が防空砲台であった。これが,敵としても,なかなか厄介な存在であった。ボニス地区を空襲するにも,いつもこの砲台の弾幕に手古摺っていた。

 その日は,久し振りに空襲がない日で,ソハナ島に上陸するには工合(ママ)がよいというので,出かけたわけである。ソハナ島のブーゲンビル本島に面する東側は,切り立った断崖で,西に向かってだらだら下りになり,そのへんには椰子も点在していた。とにかく防空陣地の集団で,多少の灌木はあるが,ジャングルのようにはなっていない。あまり頭上がひらけているので,ジャングル生活に馴れている者には,途惑うほどである。断崖の稲妻型の道をたどって登ると,陣地である。こんな開闊地であるから,陣地の間に作ってある甘藷も成育がよく,われわれは,その成果について話を聞きたいのであった。

 30分もたったころ,突然空襲警報である。きょうは,予定が違ったらしい。しまったと思ったが,もう遅い。いままで話の相手をしてくれた士官たちは,さっと引き揚げて配置につく。われわれは,どうしてよいか見当がつかない。一人の下士官をつかまえて,「防空壕はどこにある」と聞くと,「ソハナには防空壕はありません。防空陣地にいかなければ危険です」という。空襲には防空壕という観念のわれわれには,これは驚いたことだし,また心細い限りであった。だが,もうボニスに帰る手段はない。また,おろおろしているわけにもいかない。案内してもらって,ようやく十三ミリ機銃の陣地に入る。

 径五メートル位の円形陣地で,二メートル位の深さの穴の中央に機関銃が置かれ,その周囲ではもう迎撃の準備に,みなキビキビと動いている。班長が,「至近弾だったら知らせますから,その横に退避してください」という。見れば,陣地のぐるりに幅五○センチくらいのちょっとした退避壕が掘ってある。しかし,それは,ほんの雨除けのようなもので頼りない。毎日の空襲に,これで戦っているのかと思うとジーンとくる。だが,今はそれどころではない。運を天に任せるしか仕方がないのだ。「防空砲台も大変だな」というと,「いや,これでも直撃弾以外は,そうやられることもありません」とすましたものである。

 そうこうしているうちに,敵の三○機ほどの急降下爆撃機編隊の機影が見えはじめた。たちまちあたりは轟音に包まれる。ソハナ砲台破壊を目的とした直接攻撃であることは,確実となってきた。編隊が解けて,一列ずつになる。爆撃態勢に入ったのだ。と見る間に,先頭機が一度ふわりと浮き上がったかとみると,向きを変えてゴーッと急降下して突っ込んできた。ふだんの空襲は,もうなんとも思わない神経になっていても,こう直接目標にされて狙われるのは,なんとも厭なものである。

 攻撃者は頭上にはっきり見え,こちらを確認して攻撃の構えである。こちらは,どこにも逃げられない。じっと待つのみである。第一番機が,われわれの陣地を狙って,真っすぐに突っ込んできた。「撃て」と号令がかかる。われわれの陣地から,十三ミリがけたたましく火を吹いた。いまやソハナ島の全砲台が,空に向いて一斉に撃ちまくっている。島中の空気が震え,轟音はあたりを圧した。

 突っ込んでくる飛行機の腹に,爆弾が小さく見えている。そして,一定点まで突っ込んでくると,その爆弾がポッと投下される。爆弾は,映画のクローズアップのように,みるみるグーッと大きくなり,一直線に陣地に向かってくる。しかし,機関銃は,爆弾を落として反転しようとする飛行機に向かって,撃ちまくっている。班長は,いまの爆弾を,その投下点から至近弾になるとはみていないのだ。爆弾は,径三○センチ,長さ一・五メートル位の二五○キロ爆弾である。爆弾はその大きさをそのままみせ,われわれの頭上をザーッと音をたてながら掠めると,陣地の後方で凄まじい爆音をあげた。

 

 恐怖の至近弾

 

 一番機は,爆弾を落とすと,腹を見せて上昇する。続(ママ)いて二番機。この爆弾も後方である。機関銃は,執拗に撃ちまくる。銃弾が束となって,急降下する敵機に向かってゆく。これが機体にバラバラと命中する。撃墜を恐れる敵機は,正確に狙わずに爆弾を早く落とすと,反転退避しようとする。敵機が反転して上昇に移るときが,撃墜のチャンスである。防空砲台は,正確に,執拗に敵機を撃っていなければ,逆に,こちらの陣地に敵の爆弾が命中することになる。いわば,喰うか喰われるかの切羽詰まった死闘なのである。

 三機,四機,突然班長が,「避退」と叫ぶ。至近弾となる爆弾が,投下されたのである。われわれは,夢中で,陣地の四囲にある土の壁にへばりつく。一秒,二秒,この間の感じは,言い表すことばもない。もし直撃ならば,それっきりである。身体中を硬直させて,この時間に耐える。ゴーッという落下音,そして鼓膜をひきちぎるような炸裂音と衝撃。五メートルと離れていない。土塊やリーフの塊が,破片とともに雨のように飛び散る。機関銃もザラザラと(ママ)る。しかし,次(ママ)の瞬間,まわりに退避していた隊員は,すかさず機関銃にしがみついた。機関銃が火を吹きはじめた。次の機が,急降下の体勢に入ってきたのである。

 一機が二五○キロ爆弾を二個ずつ積んでいるとして,六○個もの大型爆弾が,三○分間のうちにこのソハナ島に落とされたのであった。この三○分間は,私にとって,まるで痴呆になるような,恐怖の時間であった。心の中を,圧搾空気でグングン押しつぶされているような感じで,ギリギリのところになると,目といわず口といわず肛門といわず,体中の穴という穴から,内蔵が噴き出してしまうような生理的な緊迫感であった。もう我慢できず,なにかを叫び出したくなる寸前,最後の爆弾が落とされた。笑われまいとする気持ちだけで,なんとか支えていた。爆撃機は去っていった。敵機の爆音が遠ざかってゆく音は,いつ聞いてもよいものだが,このときほど,切実なことはなかった。

 撃墜はなかったが,敵も被弾が多く,傷ついた数機を,二,三機ずつが守るようにして,帰っていった。その轟音が消えたとき,ソハナは,またいつものソハナに戻ったのである。「きょうは,敵さんもなかなかやりましたな」「こちらの損害は,まずないでしょう。機銃が一挺土をかぶったので,これの手入れが大変ですよ」と彼らは,もう平気な顔で話しかけてくる。「それにしても,中尉はなかなか頑張りますね。司令部の人で,いつか腰を抜かした人もありましたよ」。戦闘を共に行ったということは,いっきょに親近感を増すものである。急にうち解けてきて,いろいろ話しかけてくるが,こちらは,相槌をうつのに精一杯である。心の中は,まださっきの恐怖の余震で,平静ではない。軍人とはつらいものだ。こんなときでも,心の動揺を見せるわけにはいかない。

「毎日大変だね。指令にもよく話します」と,ひと言ひと言ゆっくりいって別れを告げ,ソハナの断崖を下りる。見ると,ブカ水道に,魚がたくさん腹を出して浮いている。爆弾でやられたのである。カヌーが何隻も出て,浮いた魚を集めるのに夢中である。「いや元気なものですな,もうやってますね」「いやこれが楽しみですよ」などと,ソハナの士官は,来たときと違って,大変友好的である。ジャングルに潜み,洞窟に隠れている司令部に,常々反感を持っていたのが,うち解けたのであろう。「またきて下さい。ソハナには誰もきてくれないので,少々寂しいのです。こんどは魚をご馳走しましょう」といいながら崖を下り,舟つき場でカヌーの魚をお土産にくれた。その顔は,さっきの指揮をしていたときとは人が変わったように,人懐っこかった。私は,ソハナの連日の苦闘をしみじみ感じながら,大発に乗った。>

 

 昭和十九年三月ですので,まちがいなく祖父がまだ存命のころのソハナ島の様子であることがわかります。ふだんからこのような戦闘を繰り返していたことが推測され,正直驚きました。かなり激しいではありませんか。これではいつ死んでもおかしくありません。祖父は直撃弾を受けて亡くなったということですから,この書籍の描写のおかげで,その様子が想像できました。106ページにはブカ地区の地図が載っており,飛行場や部隊の位置関係がよくわかるようになっています。巻頭にはソハナ島の写真も。この島全体を統括していたのでしょうから,なかなかの部隊だったのではないかと思います。装備は横須賀を出たときと違い,機銃がかなり多いようです。島全体が砲台で武装されていたのですね。防空壕がなかったと同じ軍人である著者が驚いていることや,攻撃の標的にされていたことなど,大変興味深く読みました。よく考えてみれば,防空隊は攻撃してくる飛行機を撃つ部隊なのですから,防空壕にかくれていてはその役割は果たせません。もっと言えば,隊長をはじめ全員が戦闘に加わるので,防空壕は必要ないということだったのではないでしょうか。気になったのは,最後に出てくる士官が果たして祖父だったのかということです。もし祖父なら,祖父を知らない私にとって感慨深いものがあります。紹介して頂いた水野俊彦さんに感謝!

 

→二十八防空隊