増援部隊二八防

「ソロモンの玉砕予定部隊」本田清治著昭和1981年(昭和56年)より抜粋

 

P41

< ボ島とその北,ブカ島との間には,幅約一○○メートルのブカ海峡があった。海峡の流れは日に二回変わり,流速も最大六ノットと強かった。この島の形は,南北約五五キロ,東西約二○キロの細長いさつまいもに似ていたが,島の南部はサブト半島,シード岬の二つに分かれていた。

 ブカ海峡の西中央には,小高い緑の小島ソハナ島が,リーフの高い断崖を見せて,海峡の強い流れを北と南に分けていた。>

 

P55

< ソハナ島は,周囲二キロほどの小綺麗な島で,かって行政官庁があったところは,リーフの隆起によってできた断崖上の台地で,次に隆起した低湿地と隔絶していた。

台地の上には,芝生の美しいいくつかの瀟洒な洋風の建築物が立並び,廻りの小道には,クロトンの生垣が色とりどりの葉を陽にさらし,芝生の中にはアマリリスや,ウラシマソウの花が咲き乱れていた。

私が着任した当時,仏人宣教師三名がこの島に残っていたが,ガーガンに移り住みたいとの希望を申し出ていたので,日本軍に協力し,軍の命令に従うことを誓わせて,昭和十八年二月,ブカ島中央部,ガーガン川の奥地に移ることを許した。その後宣教師たちは,何らのトラブルもなく,終戦までガーガンで過した。>

 

P164

< 昭和十八年六月初までブカ所在部隊兵力に変化はなかったが,戦況の推移により,日本海軍は急遽ソロモン方面の航空決戦に備えるため,新たにボ島北部タリナ地区ボニス椰子林奥にブカ第二飛行場を,ツアパイ地区に第三飛行場の建設を急ぎ,第三二,二一一設営隊,第一八,二八防空隊を投入して,基地造成,対空態勢を強化し,さらに第八十七警備隊を送り込み,海軍部隊としてのブカ防備態勢が,ようやく整いかけていた。

 

 【別表第七 昭和十八年六月以降ブカ地区に増援された部隊,設営隊 より】

  二八防 指揮官:富中音治特務中尉  主要任務:ブカ第一,第二飛行場防備

        備考:昭一八,五,一五横須賀砲術学校にて編成,ラボール(ラバウル)を経て七月

            ソハナ島に進出(兵力一八○名) 一二,七糎高角砲四門,

十三粍聯装機関銃四基,探照灯,測距儀二基 >

 

P182

< ボニスの第二飛行場の一八防,ソハナ島の二八防は,対空戦闘に明け暮れながら開墾にも熱心で,まずまず心配はいらなかったが,多くの仮入隊者を抱えたハヒラ陸警科・一防・二○設は,特に病人続出して衛生状態は悪く,現地自活も立後れていた。>

 

P206

< ブカ第一飛行場はいざという時,何時でも友軍の飛行機が使用できるようにしておくということが,軍の至上命令であった。(略)

この間にあってタロキナを基地とする敵航空機の偵察,銃爆撃は連日続き,特にブカ島対空防備の要であったソハナ砲台の,二八防空隊十二・七センチ高角砲四門,十三ミリ聯装機銃五基に対する銃爆撃は,薄暮,早朝であっても一刻の油断も許されなかった。

昭和十九年十二月二十二日,対空戦闘中のソハナ砲台指揮所は敵の直撃弾を受け,対空戦闘指揮中のソハナ砲台長富中中尉始め,指揮所員数名が壮烈な戦死をとげた。一八防空隊から急遽砲台長を命ぜられた東郷少尉も又,昭和二十年春相次いで戦死され,貴い犠牲が続いた。

加藤指令はこのような時には,すぐさま現場に急行され,隊長を失った兵の士気を鼓舞し,後任の人事については思い切った処置をとられた。制空権を完全に敵に奪われた我々の頭上に,敵機はいとも安々と銃爆撃を加えることができる状態の中で,彼らが最も恐れ,一目を置いた我が防空隊の健闘は,彼らに我が軍の存在をはっきりと認識させていた。>

 

P265

< 終戦

ソハナ砲台は彼らにとっては鬼門であったようで,最も関心が強かった。軍使は砲台を一つ一つ入念に点検した。

そして行届いた手入に光っている十二・七センチ高角砲の尾栓を開かせ,一門一門グリスを拭いとらせた上,海水をバケツ一杯汲んでこさせて,それをいきなり尾栓にぶっかけて,わざと発銹させるようにと,ひどい仕打ちを行わせた。

それは,敗戦国日本の大砲が,錆一つなく見事に手入れされて残っておれば,今後訪れるであらう現住民や,一般民間人に対してイメージ上よくなく,負けた国の大砲はかくも銹びつき,哀れであったという雰囲気づくりに大童のようにも受けとれた。>

 

P266

< ソハナ島の夏草の繁みに,被爆して使用できなくなったトヨタトラックのバンバに取付けられてていた真鍮製の海軍の錨のマークを見つけてた彼は,それを両手でもぎ取ろうとして,いきなりバンバに足をかけて引っぱる等,無様な恰好を我々の前で平気でやったのにはいささか驚かされた。

何回か試みたが,それは溶接されていて取れなかった。結局,軍使ブラックウェイ少佐には,停戦交渉日本海軍ブカ島第八十七警備隊よりの記念品として,特に曳地工作隊長の手で製作された真鍮製の十山字錨の置物が,加藤指令の配慮で贈られた。>

 

 

 

読み直してみて,祖父富中音治が戦死したときの様子が書かれていることだけでなく,ソハナ島という島の様子,ブカ地区の重要な砲台であったこと,終戦後の敵軍(オーストラリア軍)のソハナ砲台に対する関心の高さなど,私にとって大変貴重な記録であるということが改めてわかりました。この書籍全体が,ブカ地区についての詳しい記録であるということもです。やはり,紹介していただいた水野俊彦さんに感謝!

 

→二十八防空隊