(その2) |
話をせよとの手紙を載きまして、実は私が思いましたには、午前九時集合、十時開始、そして十二時迄との事、ロ演者五名、一人当り約二十五分と予想し準備して参りましたが今承りますと十分だそうですからその研究したうちのエキスを申し上げます。さて英信流の変遷を述べるとなりますれば 一、流祖の居合 二、英信の居合 三、大森流が英信流に編入された事 四、幕末に土佐に二派あつた事 五、明治時代初期 六、明治末から大正時代にかけての事 七、六に関連して大江先生の偉業 等申し上げるのが妥当と存じまして原稿をたくさん用意して参りましたが、その要点のみを申し上げる事に致します。
一、流祖の居合
流祖、林崎先生の時の居合を考えますに、当時は刀を差すことがなくて佩いていたので刃が下に向いていたわけです。故に下から切り上げる動作が主であつた、という事は誰が考えてもおわかりと存じます。現に林崎先生の弟子の片山伯耆守の伯耆流では、下からの抜き上げ業が非常に多い、それと同じ様に林崎先生は抜いておられただろう事が想像出来ます。又、もう一つ下から抜いたが、斬る事は、上からも右からも、左からも斬つただろうということも想像出来ます。次に納刀については鞘は佩いているので下向きで納められない、仕方がないから横にまわして横から納めただろうことは想像出来るわけです。前述の伯耆流はすべて昔のまゝ今も横から納めております。伯耆流ばかりでなく、同じ様にして、横から納める流派が沢山あります。
右に述べた所が、流祖林崎先生の居合だという事が考えられますが、要するに、林崎先生の創めた居合というものは極く原始的な居合である、そして、野戦的な居合であつたと考えられます。
次に、坐法について「すわり方も」当時の坐り方は、あぐらが正しい坐り方。当時の日本人全般の坐り方は、あぐらであつた。あぐらから斬つて行こうというのだから我々の言う立膝の姿勢から斬つたのだろうと思はれるのです。しかし当時は道場の武道は無かつた時代でありますので主として立つた居合であつたと思われます。先ず大略以上のような事を考えてよいと思います。
二、英信の居合
英信という人は、非常な武芸の達人であつた様です。居合は無論、剣道も出来たし、柔道、その他の武芸を沢山練習した記録が残つております。先生は初め林崎先生の行われたものを、そのまゝ行われたわけなんです。現に英信先生の曽孫弟子の方の伝書の写しを持つて居りますが、絵も載せてありますし、又、内容も書いてありますが、それを見て私が考えまするに、当時、林崎先生のをそのまゝで行われた様に思われます。しかし初めのうちは林崎先生のをそのまゝ習つていて、晩年になつて、或いは中年かも知れませんが、これではどうも具合が悪いと変革されたものと考えられます。当時は徳川初期で、林崎先生当時に比して社会情勢、生活様式も変化して参りまして、その時分にはじめて武士の家にも畳を敷くことが出来て、現在の正坐様式の坐法が出来てきた。かくなると同時に刀を差す「帯刀」という風が出来てきた。また今迄通り刃が下向きになつていないから下から抜いていたのでは具合が悪い、上向いているのだから、それはその通り抜かねぱならぬという大変革をきたした。 そこで上から抜くべきだが、実際には斜、又横から抜きつける方が効果的であると考えたのが、英信先生であります(それまで考えなかつた片山伯耆守は昔のままを、そのまゝ行つており、現在迄引継がれていると考えさせられます)英信先生はこれは、刀の差し方が変つたのだから改めねばならぬという考えで変えられたのがそのまゝ伝えられ現在、我々が行つている抜き方になつたと申し上げてよいのであります。
前述の英信の曽孫弟子の出した伝書を若い時の居合と考えますが、それを見ますと挿絵に極少数の形が入つております。そのうちに御覧下さつた方があるかと思いますが、去年、私が発表しました昔の伝書にある一本目の形に「面」を受けるのに柄を右手で持つたまゝ左手を物打に添え、両肘をまげ刃を上にして、額の上に横にして受ける形を図示し、それから後の動作は書いてありませんが、又、坐つた居合は書いてありません、大体、両膝をまげて、撞木足にふみ、腰を思いきり落し、抜き付けも刃、を下にして左手は鯉口を持ち右肘を上に張り、手首、をさげ掌を前に向く様柄にかけて刃が下向いているのを、下から上に抜き上げようとする構、抜き上げた姿勢は刀は刃が上向きで刀の高さは肩の高さで水平に近いこの様な絵が描いてあります。
この図示されたものより想像し得る刀法を英信先生が変えられた理由は、現在は佩刀でなく帯刀だから刃が下向き当時の如く下より抜き上げるのは不合理だ、上より抜いた方が適当と考えられたという事が判明します。
しかし坐法は、昔のままの坐法によつています。
かく考えます時、中年以降か晩年に於て「坐る」という事が多くなつた生活様式よりして今まで立居合が主であつたものを、坐つてからの動作を英信先生がつけ加えたと考えられます。そして「一つの流派を開いた」のであります、これが所謂「英信流」といわれたのだと考えてよいと思います。これ迄の要点をまとめますと、英信流に関しての「居合の形」「坐り方は昔のまゝとして坐業を多く工夫した」「抜き方は、下から抜くのを横から抜く、或いは斜上から抜く如く変えた」
次に納め方になるのですが、
従来は鞘を佩いていたので刃が下向きになつていたのを左手を外から下にまわし手首をまげて鯉口を下から握り、左横におし開いて横から納めていたのだが現在は帯刀であり鞘がだ円で刃が上に向いている故に、横から納めるのは自然でない。又、納める場所が右側も左側も広い場合は何等不白由なく横から納められるが特に大衆が居並んでいる様な中では横から納めようとしても納められない。斬るのはどの様にでも出来狭くて斬れない時は突いてもよい。要するに斬つたら納めねばならぬ、納める時もなるべくうまい具合に納めよう、いかなる場所、いかなる場合においてもという事を考えたので、「上から納める」ことを練習したものだと考えられます。故に英信流に於ては、「上から納める」と言うことは絶対に必要な納め方だと、私は考えます。次に、業ですが
下から斬り上げるという事に就いては、これは有効です。立つている時、下から斬り上げられた場合、防ぎようがないものです。上から又は、横から斬つて来るのは何とか出来る。下から斬るのは非常に有利な業であるが然し英信先生は、おそらく、土地の狭い場合とか、当時の家居様式、生活環境、坐法などの変移等を考え、武士的気質より最も卑怯な切り上げを改めて平常練習するには、横から、又は、上、斜から抜く事も練習し、いざ、となれば、下からも抜けるのだ、という様に考えられ、横から抜く或いは、上から抜くことにせられ又納めるには自分の身の入れられる処であれば、自由に納められるよう上から納めることを練習しておけばよいと考えられたのだと思います。三、大森流のこと
一応英信先生の事を終り時間の都合上急ぎ次に移ります。
大森流と云うのがありますが我々は現在大森流とは云いません。大江先生が名称を変えられて「正座の居合」とせられたのであります。正座の居合と云うのは、大森六左ヱ門と云う人が案出した居合で英信流を習つていたこの人は、九代目林六大夫の剣道の師であつて英信流を習つているうちに、これでは現在の我々の日常生活即ち正座と云う所から間に合もないと考えて正座から抜くと云う業を考案したと思はれます。正座より抜くと云う考察については省略しますが、後になつてから大森流を英信流の中に入れる時に、英信流ではないのであるが大した違いがないから英信流に入れようと云つておられます。
そしてこの大森流をどう考えたかと申しますと次の英信流或は奥居合を抜く為の準備運動として、これを入れたものと考えるのであります。この故に伝書に大森流は書いてなく、目録として立膝の居合が出ています。然し大江先生の伝書にはこれを正座の居合となつて現れています。普通の伝書にない大森流を書き加えられたのは大切な基本だからと考えて入れられたと云う事になります。
この事を念頭において我々は修業せねぱならないのであります。
この大森流即ち正座の居合はごく基本的に出来ています。
例えぱ左手をかけ鯉口を切る、そして右手を柄にかける、それと同時に膝をそろえて立つ用意をする、それが出来た、そこで右手は斬る目的の処に向つて前え出す、左手は後ヘ引くそこで抜きつけの用意が出来ている、切先の三寸かかつている。そこではじめて、左手は後へ引つぱつて鞘から切先を外してやる、同時に右手は握りしめてパット斬る、これで正しい鞘離れが出来る居合の最も大事なことは鞘離れである。抜き付けは鞘を離れる時に刃が正しく目標に向っていて刃筋正しく斬れる、この準備が出来てパツと斬るのでなければならぬ抜いて斬るのはこれは居合でないと私は考えます。だから大森流即ち正座の居合を練習する時に、最も基本的に、左手をかけた、鯉口を切つた、右手をもつていつた、膝をそろえる、そしてのぴて行つてぬく、切先三寸の所へ来た そこで.ハツと斬るその間にその鞘離れが出来体勢が出来て始めて斬れる、 その総ての事が会得出来る、そこでみつちり練習する、それから斬り下し、その他こまかい事がいくらもありますが。
納めの事、納めについてもみつちり練習をしてゆく、そして次の英信流を行う準備をする、と云う事が大事だぞと云う考えで我々の先輩は、この大森流を取り入れて下さつたと考える。
四、幕末に土佐に二派あった
途中を省略しますが次に、二派生じたと云う事について
土佐に谷村派と下村派とがあつたと云はれている。これは初から谷村派、下村派があつたわけではないのです。別れたのは十二代目からであつて色々事情があつて二つに別れ両方とも山内家へ仕へていたので隣同志で一緒にいつもやつておつた、その二つに分れてから谷村派は四代目、下村派は三代目約七十年後(徳川末期)有名な谷村亀之丞と下村茂市との二人が出て、この時に俺は谷村派、俺は下村派だとはつきり別れて明治に入つたのであります。この二派に別れた事を考えるに始め同じ人に習つたのだから同じ様にやつておつた、両方を見まわしても大休同じ事をやりますけれども我々が業を詳細に研究してみますと谷村派即ち大江先生の方は実にあつさりと刀をぬく処が下村派は何と申しますか複雑な動作になつたと云う事が出来ると思います。例えぱ我々谷村派では山颪はこうして柄を執りにきたのを下からまわして外し、上から柄頭で前額に当て直ちに後足を送つてサッと斬つて行く業になつておりますが、これを下村派ではこれ(柄)で当てないで一度右手(拳)で当てる、そうしてまだその上刀をひつくり返して鍔で相手を打つておいて又刀を元えもどしてから今度抜くと云うようにこみ入つた業をします。
又それから進んで行つて柄当てをしておいてから廻つて斬るのがありますが(行違)これも下村派では進んで行つて右手〈拳〉で突いている、手で突いておいて廻つて斬ると云う事も行つているのです。この様に非常に複雑な業を考えたのではないかと思います。
それからもう一つ大きな相違を申上げますと抜きつけた後の鞘の取扱いであります。我々は谷村派は抜付をした鞘はその位置にそのまゝにしておき左手を頭上の刀の柄へ取つて斬り下す動作をしますが下村派は抜付けて斬り下しの為に左手を頭上の柄に添えるまでに鞘を左手で廻しながら前に引き出し栗型が胸に接す如く反りをうたせていだき込む様にしてから手をはなし振り冠る柄え左手を添えて斬り下す動作をする。
納刀の時は斬り下しを終り血振に移る時胸のあたり迄抜き出した鞘をいだく如き状態で鯉ロを握り鞘を右に捻転させながら納刀すべき腰へ引き下し同時に血振いを完了して納刀する。
随分こみ入つた事をしていることがわかると思います。この前に引き出す事は合理的(まわすことはさておき)であると考えますので私のようなお腹の小さいものには鞘が安定して好都合でありますからこれを実行しております。左手を充分引いて抜付けた為にそのまゝにしてあると左手で鯉ロをさがしまわる方を見受ける事があります。この引き出して次の納刀の準備をしておく事は極めて自然だと考えます。両派の相違点を沢山挙げる準備をして参りましたが後の講演者がお話になられると思いますので両派の大体の相違はこれでおきます。
五、明治時代の英信流のこと
明治時代は居合と云うものは殆ど行はれなかった廃刀令が出まして恰も戦後我々も断然中止したと同様であつた筈です廃刀令が出るまで居合を抜かれた方が地方にも沢山ありましたがその方達は居合を抜いたかと云うと抜いた事があるとも言はず勿論抜く事もしなかったらしい,その様な時勢の中にあって一番抜かれた話が残っておるのは細川宜昌先生と申す方です。細川先生は中山博道先生に伝書を渡した方なのですが、先生は明治元年に十九才で既に免許皆伝を受けておりその後近衛の砲兵となったが明治九年土佐に帰り後最初の県議に当選、後年副議長になられ又代議士にもなりましたが専門家ではなかったのです。この方が大分抜かれているという事を聞かれた中山先生が明治四十二年入門して後年伝書をもらっております、又香川県の植田平太郎先生も入門伝書を受けたと記録されています。又大江先生の師の五藤正亮先生も、明治三十一年まで御存命でした行宗貞義先生も、大正十二年頃亡くなつた様ですがその弟子に曽田寅彦先生があり、曽田先生には私が高知一中を卒業してから後でこゝえ御見えの田岡先生達は随分お習いになつたのではないかと思いますが。その間にあって大江先生は明治三十二、三年頃と思いますが、その時分に高知二中が創立して剣道教士をされていてその二中で現在こゝにお見えの森繁樹先生が始めてお習いしたわけで大江先生の高知における一番初めのお弟子ではないかと思はれます。大江先生が二中にこられて五年間みつちり剣道部員としてお習いになられたのが森繁樹先生入れかわりに私が高知一中でお習いした事になります。
それから後はずつと年順が後になりますがこの話は余り詳しく申しますと現存者が多い事ですから支障があるかと思はれますので省略致します。
六、大江先生の偉業
最後に大江先生の偉業について考えてみたいと思います。
我々の英信流から考えると流祖は最も大切な事です、次に長谷川英信は前述の如くその時代に適応する居合に改革した事は偉大な業績であると考えます。英信をかく考えますと次は矢張り大江先生だと思います。大江先生はあの明治の始めの居合が全く影をひそめた時代に孜々と御自分で居合を抜いておいででそして晩年に居合が許される時代になつたので盛に奨励しました。
当時英信流は土佐の居合だから県外の人には教えないと云う考えが総ての人にあつたこの様な考えを大江先生は全く捨てゝ新潟へも講習に行かれました、それから大阪神戸あたりえも講習に行かれた事もあります。処で英信流が活字になつた一番最初のものは大正の初めと思います、これは新潟県で堀田捨次郎先生(明治四十二年大江先生に入門)が「剣道手ほどき」と云う本を書かれましてその附録として堀田捨次郎、大江正路の共著となつて写真入りの説明書きで、それは御無礼な事を申しますけれども大江先生自身で書かれたものでなく大江先生のロ述された事を堀田先生が記録され、原稿になつたものを大江先生に検閲願つて承諾があつたので印刷出版されたものと思はれます。それを見ますと当時の大江先生が如何様に抜かれたかと云ぅ事が充分判ると思います。
この様に書物にして出版し大江先生は沢山の弟子や孫弟子を現在まで残して下さつたという事が出来ます。
今一つは前述で英信がその時代に適応した居合に改革した事を申しましたが大江先生も英信と同じ様な事績を残されておられます。
例えば中山先生の処へ伝はつたものを見ますと昔の名前を全部使つております、処が大江先生は昔の名前を使つていては習う者が困ろうと考えられて業の名称を学習に便利な様に改めておられます。例えば大江先生がお習いになられた時にも師は「流刀」と申されたけれどもこれは受け流しだなあと大江先生は思いながら習つたものと思います。その後大江先生は流刀を「受流し」と替られた、その他の業の名称を現代に適する如く替えられております。
又形が随分沢山ある、この沢山あるのは現代人には不向だと考えられて四十数本の形をまとめて七本の形に集成、編成されたという事も申上げられます。このように時代に適合する居合に整えたそして我々が非常に習い易い居合にされた、という事は大偉業であると考えるのであります。
扨て最後に一つ、これは私の平常考える事でありますが刀を納める時、私達が習つた時には「刀は上から納めよ」と習つた
上から納めよと云う事は御理解出来ると存じます
「腰え納めよ」と申された、即ち「上から納めて腰え納めよ」ときびしく申された、それが腰え納めると云う事は一寸お気付ないのではあるまいかと思はれます、腰へ納めない方が現在沢山見かけられる、甚だしい人は肩え納める、これは具合が悪い、矢張り刀は腰へ納める、要するに刀が鞘へ入る時は左手が充分下っておらねばならぬ、そうすると腰へ入る、鯉口を握つた左手がこう上ると胸え納めた, こうやると肩え納めた事になっていけない〈左手を肩、胸にとる動作をする)腰ヘ納める、その為には刀の切先が鯉ロへ入る時には左の小指が帯へ着いていなけれぱならないと云う事が原則。そうすると右手の動きが楽に出来ますこゝが(左手〉こゝえ(帯以外の高さ)くるとこうせねばならぬ(右手を前に出し下げたり右へよせたりする)こゝが離れたら離れたで(左手小指についてと帯の関係)こっち(右手)の自由がきかぬ、これが離れていないで(小指が帯と)右手(柄〉と左手(鯉口)と鈷を一直線に近い形にして帯ぴていて鞘の方向に押し込めばよい、それでも刀が長いために一直線に出来かねて納刀が困難な時は切先が鯉口に入るまで腰を開けぱよい、そうするとこちらの手(右手)は自分の前で納める事が出来て一番安全である、こゝで納めたのでは(前以外の所即ち柄が下つたり右へよつたりする)非常に危険だ、すきが出来る、それだからすきがないように前で納めると云う事が大切だぞと申されました、
納刀については一応これでおきます。時間が経過しましたが皆様にお考えを願いたい事があります。私達は大江先生の弟子として一所懸命にけい古をしておりそして大江先生の抜かれた居合を習つた
今一つ面白い事を申しますけれども中山博道先生は細川先生に習つてお抜きになられたが中山先生の抜かれたのと我々の抜くのとでは大分相違がある、同じ流派であり乍ら違うと云う事です、それで私は中山先生も英信流の偉大な存在、大江先生も偉大な存在であるからこの二人の偉大な存在を永遠に称さんする意味に於て我々は英信流の大江派と云いたい向うは英信流中山派と云つてもらいたいと考えるものであります。
本日この大江先生の偉徳を忍んで集つた研究会の会場で皆様の御賛同を得ましてこれから先、無雙直伝英信流であるけれどもこれを英信流大江派と称してゆきたいとの願望を持つておりますので皆様後でお話合いの上でその様な事にされては如何かと思うものでございます。
まだ申し述べたい事が沢山ありますが時間が過ぎたと再三の御注意がありましたので割愛いたします
大変御無礼をいたしました御静聴有難うございました。
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