養心館創立15周年行事より抜粋

<昭和60年8月11日(日)>



  
挨拶の辞
 
養心館長 井下経広
  
 初代養心館長恩師故妹尾武俊彦三郎先生は明治二十六年生まれですので、私が生まれた明治四十五年には二十九才です。その時すでに養心館活動がありました。前の金子県知事さんも丸亀城北小学校で剣道を恩師より学んでおります。又、木像を彫刻された森谷誠之さんも小学校時代に養心館活動による薫陶を受けたと申していますから養心館開設は約七十年を経ていると確信いたします。

 昭和二年恩師は今の観音寺第一高等学校へ香川県下唯一人の剣道と修身の教諭として赴任され、やがて養心館支部を設置され郡内の青年を合わせ指導するよう県より委任状が出され郡内各町村を指導講習し続けられました。現在養心館が再建された十五年前には、まだ、恩師の指導を受けた人達が沢山いまして、落成式に参加してくださいました。その方々は、剣道とは何か、何の為に学ぶのかを己みづから深く考えさせられたことと思います。即ち心を練れとのことです。心とは、日本人の心です。日本人の心とは 「義は君臣、情は父子」 「忠孝一本」 の心です。即ちこの心を養うことが指導理念です。

 私はこのような薫陶を受けて青年前期を成長しました。青年後期には、
 
 

   
忠君愛国の大義は武徳の本領なり宜しく平素心身を鍛練し義勇奉公の修養を怠るべからず。 

名誉廉耻は武道の生命なり苟も怯懦垢汚背信の行為あるべからず。 
  
礼譲慈憫は武道の精華なり賎しくも長を凌ぎ少を侮り他人を侮蔑するの行為あるべからず。 
  
質素は剛健の本にして浮華は惰弱の源なり宜しく相切磋琢磨し厳に軽俳淫靡の行為を戒むべし。 
  
上長に対しては恭礼を尽くし克くその命令に服従して以って規律節制の慣習を養成すべし。 

<語句解説>

 

以上の皇国史観と東洋の代表的思想の儒教で練りかたまった武士道精神が骨の髄まで浸透した武道学士の称号を持った青年が出来上がったのです。その後、支那事変当初から南京で大東亜戦争が終わるまで軍陣生活の止むなき十年間、終始一貫忠良なる日本人として時代に生きて悔いはありません。この生活態度や生活理念は立派に民主主義世相に矛盾するものではない。「武道精神」は真の民主主義。真の共産思想。とも矛盾するような偏狭な精神でないことを確固として信じており。その信念のもとに養心館の指導理念があることを本日ここに明言いたします。

 今日、世界各方面より、日本の剣道を飢渇の如く求めてやまない状況は、民主主義、社会主義文化圏の国民が国家が次の世紀へ生き延びてゆくための必要要素を保有温存していることに目覚めたからです。かく信じて、道場の青少年若人に接触指導してきたことが正しかったの証言を嗣子啓策の述懐により確認し得ました。国外での三年半ほどの生活で日本の姿が明確に認識できたからかも知れません。養心館にかかわりのある老若男女の皆様に私の本姓、本音を披瀝いたし、本館将来の進路を御誘掖下されたくお願いいたします。

 一番初めに申し述べるべきでございましたが、紙面の都合で終末になりましたことをお許しください。満十五年の行事計画に合わせて居合道範士受称祝賀のすべての計画は、私以外の仲間の同志がなさってくださいまして私は顔を出すだけでよいとの事でございまして十五年も経つともう老人だから皆の言う通りにせよというので。私は全く無我の心境でございます。つつしみ感謝いたします。尚、この計画に御賛同頂きましたご両親様にも深甚なる感謝の意を表しお礼申し上げます。

 わけても上森社長様には私の少年時代より変わりなき温容をもって御教導御支援を頂きつつしみて深く深くお礼申し上げます。又、岩田先生、白山先生は養心館同門の剣友で、陰に陽に御協助頂きました。又ご参加の方々いちいち御名はあげませんが有り難うございました。恩師故妹尾武俊先生の御名代として同門の大先輩上森社長どうか私の本姓本音を聞きとし召しくださいますよう、お願い申し上げます。

 甚だ意をつくしませぬが、所信の真実を申し上げ養心館の使命とするところが何であるかを御賢察くださいますようお願いいたしましてご挨拶の言葉と致します。
 皆様の弥々の御健勝と御繁栄をお祈り申し上げます。
 誠に有り難うございました。

追記
 設立当初の手拭いの「円相」も養心館の薫陶理念を表現する字句が得られぬまま、苦しまぎれの「円相」表示となりました。
 又、「親義別序信」の養心父母の会の手拭いの文字は日本人の倫理たる五倫ですので少年部の指導理念に添う面が多分にあると信じましたので敢えて文字表示としました。
 

(筆者注)
親義別序信
父子の親、君臣の義、男女の別、長幼の序、朋友の信
 

祝辞
 
上森農機株式会社 会長 上森  剛

 井下経廣先生おめでとうございます永年のご苦労が報われて、位最高を極められました心からおよろこび申し上げます。永い、永い修業の道をのりこえてさずかったご栄誉に対し到らぬ私が御祝詞を中し上げることは、御無禮も甚だしいと存じながら、若いときから同門のご縁で、針の穴から天をのぞく思いで申し上げることをお許し下さい。

 旧制の県立三豊中学の剣道部へ入ったころ、土用稽古を丸亀市風袋町にある恩師妹尾彦三郎先生の養心館道場で井下部員外級友六、七名と合宿訓練を受けたことがあります。「勝負は二の次である人間をつくり心を練ることを優先する」と教えられました。当時妹尾先生の稽古は、県下でも有名な荒げいこでありました。禮節、謙譲、報恩、根性、等は此の荒げいこの内にはぐくまれていったように思われます。

 妹尾先生は「剣は術ではなく道である」と説かれました。又剣の道は、宗教にも、芸術にも、商法にも、そして人の道にも通ずるものであると説かれました。剣の道の基礎を恩師妹尾彦三郎先生から学ばれた井下経廣先生は勇躍京都の大日本武徳会武道専門学校へ進まれました。剣のメッカ京都では、剣道界の最高の先生方から御指導を受けられ、又居合道は、山内容堂先生の御令孫山内豊健先生に師事されたと承っております。

 若き日の井下先生こそ、正に明朗闊達、純真無垢、豪放霧落、然も思いやりの深い好青年でありました。武専を卒業されて、間もなく大東亜戦争に応召され、実戦を経た先生は難行苦業を積み重ね、心技一体の妙法を会得し、ついに奥儀を極められたことと存じます。戦後恩師妹尾彦三郎武俊先生が満州国から帰朝せられ、高松城下に養心館を開設するや、親身も及ばぬご尽力を恩師の為に捧げたのであります。 

 井下先生が現在の大野原町に道場を新設され恩師妹尾先生のご快諾と御高弟の方々のご了承を得て養心館の後を継ぐことになったと承っております。

 このたび日本剣道連盟より居合道範士の称号を授与せられました。同門の名誉と心からおよろこび申し上げます。先生には益々御健勝で多数門弟の為又郷土後輩の育成にご尽力あらんことを心からお願い申し上げ、併せて養心館の益々の御繁栄を祈念してお喜びの言葉と致します。


門弟  大西 紘一郎
 

 確か昭和43年の秋頃であったと記憶しておりますが、井下先生宅の土地に剣道場を建設するとの話を聞き当時、私達は正直云って半信半疑であった。何故なら、その頃私達剣道する者にとって練習場らしき場所といえば、高等学校の体育館か道場位しか無かったのです。したがって一般の者が自由に練習出来る道場というのが、夢であったのです。

 井下先生の剣道と共に生きる人生感というものをその時初めて、具体的に、はっきりと私達は理解することが出来たのです。道場建設資材には、観音寺一高が使用していた旧体育館を解体保存していた材木を譲り受け、建設するとのことで話が決まり、いよいよ昭和44年3月に着工、やがて基礎工事が終わり、上棟する時大工さんの指揮のもと、井下先生以下私達も手伝いローブを引っ張り棟上げし、初めて養心館道場の外様が出来上がった時のあの感激が、今だ心の中に焼き付いております。

 そうして、念願の落成が45年3月、井下先生の師であり、「親父」であります、故妹尾先生他多数の先生方又、来賓の方々をお迎えし、盛大に行われたのが、まだつい最近であったように思われます。もうあれから15年、井下先生の変わらぬ情熱と愛情あふれる指導のもと、次々と立派な後輩の人達も育ち又、地元の小・中学生(ちびっ子)の皆さんも、剣道を通して健全な精神を養いつつ成長してゆく姿を見た時、私達は井下先生御夫妻に対し、感謝の念が甚えません。
  


  
  
[語句の解説]

名誉:めいよ「優れたものとして認められること。Honor」
廉耻:れんち(耻は恥の俗字)「恥を知ること。Sense of honor」
苟も:いやしくも、かりそめにも
怯懦:きょうだ「臆病で弱気なこと・さま。Cowardice」
垢汚:こお「よごれけがれること・さま」
背信:はいしん「信義にそむく。裏切り。Infidelity、Betrayal」
礼譲:れいじょう「礼を尽くしへりくだること」
慈憫:じびん「いつくしみあわれむ」
精華:せいか「そのものの真価を表す一番すぐれたところ、Essence」
侮蔑:ぶべつ「馬鹿にして軽く見ること。Despice」
浮華:ふか「見た目は華やかだか、実質が伴わず軽薄なこと」
惰弱:だじゃく「いくじのないこと・さま」
切磋琢磨:せっさたくま「互いに励ましあい、努力すること」
軽俳:けいはい「けいそつでふざけること・さま」
淫靡:いんび「風俗・男女関係などがみだらなこと・さま」
恭礼:きょうれい「うやうやしくおじぎ、挨拶をすること・さま」
克く:よく

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