創立:昭和45年3月29日場所:香川県観音寺市大野原町十三塚館長:井下震二 前館長:井下経広(剣道・居合道範士)
<前館長略歴> 写真集参照
昭和4年、大森流、故小笠原兼真先生に師事、
同7年、範士故小川金之助先生に入門する。
武専卒業後、支那事変・大東亜戦争に歩兵第十二連隊に現役入隊。 軍務に服し大尉・野戦中隊長で、南京で終戦。 昭和22年2月復員後、愛知県立常滑高等学校に奉職する。
その後、香川県立観音寺第一高等学校・丸亀商業高等学校・観音寺商業高等学校・笠田高等学校に奉職し指導する。
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道場のご案内
(本来この項が最初に来るべきですが、工事中)
養心館 井下経広
中学一年、剣道は日本刀の操法で竹刀振りではないと強調され、基本動作へと進む。二年の時、高知出身の助教小笠原先生が居合をされていたので、単独指導の希望が達せられ、剣居一相だと思った。先生朝鮮へ赴任後も、中学卒業まで続けた。中国四国中学剣道大会(旧制松山高等学校主催)でチーム優勝三年生で副将。県内一般大会で一回、県下中学校丸亀商業大会では丸亀中学と優勝戦で大将決戦、当時県下は高商の二刀藤本、丸中の大浦、池田と二刀全盛で強豪揃いであった。竹刀の操作は早いが、自分の竹刀は日本刀だと思っていると、相手の竹刀の動きがわかるように思える。何故にそう思えたがわからないが、そんなに見えたような気がしてならない。
昭和7年から四年間、山内容堂公の孫の剣・居教士豊健先生に入門、居合を学ぶ。昭11年5月京都大会剣・居初出演、錬士であった。昭12年1月丸亀連隊へ現役入隊、7月支那事変起こる。13年現役満期同日臨時召集以来計四年半。その問、戸山学校将校学生半年、昭13年大晦、虎林駐屯の原隊へ内地の服装のまま追及帰隊。昭15年11月、四年半の軍務解放。昭15年12月愛知県下就職(国・漢・剣道)。昭16年10月丸亀連隊へ応召入隊、昭16年12月8日、目覚ニュースで開戦を知る。『マケタ』と思った。国家の運命を依託された立場の者は、目の位置の高さや方向を変えて審察し、僥倖や万一を期待して結論してはいけないぞ、と思ったのだ。まけたと他言したことは無かったがこの原稿で公記した。誰も母国の負けるを願う者はないが、戦力の要素を考えると、曙と幼稚園児の相撲だ。昭45年3月停年退職金全部と追加金投入で道場を設立した。旧知の職員から沢山お金が儲かるでしょうと何人もに聞かれた、有難いことである。
皇国史観と仏教・儒教を主として二千年ほどかけて醸成された日本文化の核心は要約すれば敬神崇祖と思う、これを演繹すれば忠君愛国・滅私奉公・尽忠報国に及び得る、付言すれば自由・平等・人権尊重と言った民主主義にも矛盾しない説明ができるが、戦前のことは十把一絡げに悪であるとし、敬神だ崇祖だとかは古くさい・時代遅れだ日本文化の代表的遺産と言う剣道も武士道も暴力だ野蛮だとさも文明人らしく排斥した知識人もあった、幼少年の頭を竹刀で打つことは暴力だ、非健康だと言った医者の夫人や中学女生徒に。一寸試(全力打撃して刃引や木刀が目標三センチの空間をおいた所でピタリと止まる)五分試と言った手裏の修練があったものだ。と言って肩へ手拭を乗せて打撃感を体験して打撃の心地よさを納得・理解してもらったことがある。形の演武で岩田氏の相手の時は戦々恐々である日本刀が頭髪に触れることがある。
敬神の神については宇宙創成の存在を意味し、その顕現は身近に森羅万象の生命として認めることができる、一粒の米、一片の紙すべて生命あるものが変容した存在で、その存在相互が循環輪廻している、即ち人は自個以外の生命の犠牲によって(他個の犠牲)自個の生命を維持存続させられていることを知ってて己の生命は己のものであり同時に他個(己以外)の生命共存を真に了としかくの如き観点から剣道を行ずる生命の活発により他個の生命に寄与し得れば以て冥すべきか。
束縛はしないが敬神崇祖と言う理念のもとに、剣・居を行じて八十年、道場を利用して30年その成果は各個に判をまかすが、剣・居の成果を次の如き遣歌に照らしてください。
年歳に咲くや吉野の桜花木を割りて見よ花のあるかを
以上。
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