中世 小牧・春日井周辺の荘園領域についての覚書
1.はじめに
私の居住している桃花台は、中世の荘園では、篠木荘内でありましょうか。既に拙稿にて、荘園名は、
おおよそ確認できております。( 中世に於ける尾張北部地域
の主要荘園等についての覚書 参照 )
しかし、それぞれの荘園の荘域については、確認しておりませんので、ここで記述し、確認しておきた
いと考えました。春日井市史やら小牧市史には、既に概略が記述してあり、その記述に準拠して記述
したものである事をお断りしておきます。詳しい事を確認される場合は、上記市史にて再度確認して下
さい。
2.尾張・美濃地域に於ける皇室領荘園等の領域について
皇室領( 11世紀末〜12世紀にかけて成立していったという。小牧市史 P89 参照 )
稲木荘( 現 犬山 )、味岡荘( 現小牧 )、篠木荘(現 小牧、春日井 )、柏井荘(現 春日井)
山田荘(現 小牧、春日井 )、狩津荘(現 名古屋北部 )の存在が知られる。
( 上記荘園名は、尾張の歴史 展示解説U 中世 名古屋市博物館 P.14 尾張の荘園・国衙領の分
布図より抜粋 )
A.
篠木荘の荘域
野口、大山、大草、下原、関田、城内、名栗、下市場、神領、下大富、足振、久木、神明、出川、
松本、外原、玉野、高蔵寺、白山、庄名、上野、和泉、一色、神尾、明知、西尾、迫間、内津、桜
佐、牛毛、野田村の計 34ヶ村 <張州府志による>ではなかろうか。
・ 領家の推移
美福門院ー>後白河法皇領ー>長講堂領ー>宣陽門院(後白河法皇皇女)領ー>承久の乱後
一時鎌倉幕府に没収ー>宣陽門院に返還ー>後深草天皇領(後嵯峨院が管領)ー>1267年
後深草院領ー>1285年 後深草院妃 東二条院(藤原公子)領であり、主に皇族領として推移し
ていったようです。
B. 味岡荘、熊野荘(別名 六師荘)の荘域
1.ア、熊野荘(別名 六師荘)の荘域 ( 春日井市史 P.130 参照 )
張州府誌等によれば、徳重・鍛冶一色・藤島・熊庄・薬師寺・田楽・板場・大気・小木・小針・一久
田・西島・小牧・上末・下末・本荘・大手・文津・林・池内・小松寺・河内屋新田・春日原入鹿新田・間々・
原新田・岩崎・三渕・二重掘・村中・北外山・南外山・牛山等33カ村が比定されるという。
しかし、この荘園の中心が、六師村であったということから、時の経過と共に現 師勝町から藤島・小
木・小牧・小針辺りの領域へと縮小していったのではなかったかと推測いたしますが・・・。どうであろうか。
この村には、延喜式内社である牟都志(むつし)神社があり、所在地は、現 西春日井郡師勝町六つ師
にあり、創建は、白雉2(651)年8月と伝えられているという。西春日井郡誌に「古説によれば、風の神
か、水の神か、然らずんば小治田連の祖六見命を祀られるにあらざるかといへり。」と記されているとい
う。
続日本紀 神護景雲2(768)年12月甲子の日に、尾張国山田郡の小治田連の薬等八人に尾張
宿禰の姓を賜ったという。とすれば、やはり、この神社も、小治田連の一族の氏神を祀ったものと言
えましょうか。早くから開けた地域ではあったようです。
参考までに、北名古屋市の高田寺と牟都志神社というHP がありますが、ここには、高田寺(天台
宗)・白山神社・牟都志神社が、コンパクトにまとめられ、記述されていました。そして、この記事には、
牟都志神社(式内社)の祭神が、菊理姫命(くくりひめのみこと)とされていた。近くには、白山神社が
あるというのに・・・。確かに、天台宗と白山社は、密接な繋がりがあるようにも私は、思っていますが、
事もあろうに、式内社のこの神社の祭神におさまっていようとは・・・。何かの間違いではなかろうかと
思えてなりませんが・・・。詳しくは、http://okuromieai.blog24.fc2.com/blog-entry-2081.html なるHP
を参照されたい。
イ、領家
熊野荘(別名 六師荘)の初発の領家は、不明でありますが、嘉吉元(1441)年6月6日条によれば、
万里小路大納言家雑掌の申すには、尾張六師荘(別名 熊野荘)の領家に、代官職を直務していた織
田氏被官人 坂井七郎右衛門入道が乱入し、年貢を催促するに至ったという。この頃の領家は、万里
小路大納言であったようです。
この出来事は、守護代織田伊勢守敏広の父 郷広の被官坂井七郎右衛門入道性通(広道)が万
里小路時房の領地六師
荘を守護代請としての代官と称して横領した事。時房は郷広の推挙で性通
を代官としたが横領行為をやめなかったといい。被官人一人に手こずっていた織田郷広は、一族及
び尾張守護より絶縁されたという。 この坂井某は、この辺りの国人であったのだろうか。
15世紀中頃の事柄でありましょうか、この当時でも、まだ領家職は生きているようであり、守護代の
織田伊勢守敏広の父 郷広は、守護代請として、この荘園の実質管理を任されたようです。このよう
にして、旧来の慣習を守りつつ、在地支配を貫徹しようとする方策であったのでしょう。室町幕府の基
本方針に則っての施策ではありましょうか。それを守らない被官人(郷広の家臣カ)の存在があった事
が、述べられているようです。そして、郷広は、守護代失格の烙印を押され、逐電したかと。
小牧市史・春日井市史共に、この荘園の初期の頃の領家主を記述していませんが、熊野荘という名
称からは、熊野権現辺りの所領かとも推測いたしますが、いかがであろうか。
残念な事に、この尾張に名称として残る熊野荘は、現在まで熊野権現領という記述の市史等は無い
ようです。
只、岩崎山の中腹には、熊野神社が、存在しますし、味岡近くの小松寺近くにも熊野神社はあります。
こうした熊野神社の創建に関わる伝承は、残っているのであろうか。一度確認したいものであります。
2.ア、味岡荘の荘域
春日井市史・小牧市史共に、荘域は、不詳となっていますが、春日井市史には、安政4年下原
村諸記録留書によれば、「下原村の西方に石塚あり、これが、篠木・味岡両荘の境と古くから伝
承されていた。」という。また、伊多波刀神社境内社 津島神社棟札にも、「味岡庄田楽邑」という
記載もあり、時代を隔てて、熊野荘とも一部重複し、味美付近から大手・田楽付近までその荘域
が及んでいたものとおもう。と記述されている。
同じく春日井市史 P.103には、田楽の伊多波刀神社は、この辺りでは最も社格の高い由緒
ある神社として、味岡庄17ヶ村の総産土神として、毎年の祭礼には、この17ヶ村から神馬を献上
していたという。江戸時代には、神社名が、八幡社となり、神宮寺が常念寺であり、流鏑馬の神事が
江戸時代末まで続いたという。明治になり、廃仏毀釈にて、神宮寺は、廃寺となり、現在は、藪地と
なっていて、往時を偲ぶことさえ出来ない状況であるという。八幡社は、明治になって再度 伊多波
刀神社と名を改めたという。所で、この17ヶ村とは、どの村々であったのかは、市史には記述され
ていないのが惜しい。大胆な推測をすれば、現 本庄から南へ田楽、大手近くまでの領域ではなか
ろうか。
小牧市史にも、味岡荘についての記述はある。P.89には、江戸時代の地誌に、「春日井郡小針
南・北外山、一ノ久田、小牧、岩崎、久保一色、二重掘、文津、小松寺、本庄、間々、西ノ島、三渕の
各村と河内屋新田の15ヶ村」と記されていたと記述してある。
こうした上記春日井市史・小牧市史等の記述を勘案すれば、味岡荘17ヶ村或いは、15ヶ村という
村々の記述から、味岡荘とは、「春日井郡小針南・北外山、一ノ久田、小牧、岩崎、久保一色、二重
掘、文津、小松寺、本庄、間々、西ノ島、三渕の各村と河内屋新田と田楽、上・下末近辺を含む荘園
であったのではなかろうか。所謂 西条と呼ばれし地域であったのではなかろうか。」
参考までに、網岡氏の「日本中世土地所有制度史の研究」によれば、春日部郡は、条里制に基づ
いて東と西に分割され存続していったと記されている。それが、東条(おそらく 篠木荘に相当)の地
であり、西条(おそらく 味岡荘に相当)の地であったのでありましょうか。「東条の地は、勝川・味美
辺りの醍醐寺領荘園(安食荘)も含まれる可能性が高いように思います。」(荘園志料 上 参照)
こうした上記推測地域は、熊野荘の領域とも重なり、熊野荘が、早くから成立した有力神社領では
なかったか。初期荘園は、有力寺社領としては、東大寺領・有力神社領には、当地では伊勢神宮領
も存在しているようであり、畿内の有力寺院等は、侵出していないかのようであります。
この地は、12世紀頃には、丹羽郡司 良峯家の所領地域であったのでしょう。尾張国守 平忠盛
の仲介を受けて、皇室へ寄進され、荘園として立荘された筈。熊野荘より新しい荘園ではあった筈で
ありましょうから。
イ、領家の推移
味岡荘については、康和3(1101)年9月25日中宮職庁は、中宮大進 平時範をして、中宮御領
尾張味岡荘の雑務を執行させたとあるのが、史料の初見であるという。これは、堀河天皇の中宮(
堀河天皇の2番目の皇后の呼称)で後三条天皇の皇女(陽明門院)の猶子{他人の子供を自分の子
として親子関係を結ぶこと。ただし、養子とは違い、子供の姓は変わらないなど親子関係の結びつき
が弱く擬制的な側面(その子の後見人となる)の関係}となった篤子内親王の所領であるようです。
元弘2(1332)年に報恩寺へ、後宇多天皇の皇女 祟明門院は、味岡本荘を割いて、母 永嘉門院
の為に建てた同寺へ、寄進したという。これが、味岡新荘の始まりであるという。
暦応3(1340)年には、僧良悦は、従来の万寿寺と報恩寺を合併し、万寿寺とし、味岡新荘の領家
とした。
康正2(1456)年 上杉礼部なる者が、東国の上杉一族を助ける為の資金集めに、味岡新荘に押し
入り、一時横取したようであるが、荘民等であろう者達が、弓矢を雨霰の如く放ち、軍声を上げたので、
礼部は、気が動転して自殺を図るが、左右の者が止めようとすると、切りつけ殺してしまう事となり、従
軍の士は、この状態をみて、四散。礼部も、味岡新荘を棄てて退去したという。
その年の造内裏段銭並国役引き付けによれば、8貫260文は、「万寿院領尾州味岡新庄段銭」と記
載されていたという。同じく5貫80文は、「嵯峨大雄寺尾州味岡段銭」と記載されていたようで、味岡本
荘は、康正2(1456)年 15世紀中頃には、嵯峨大雄寺領であった事が知られる。
C.柏井荘の荘域
張州府誌等では、松河戸・中切・下条・上条・上条新田村等としている。
領家の推移
八条院領(鳥羽天皇の第三皇女で、母は、美福門院 )ー>春華門院領{後鳥羽天皇の皇女 建暦元
(1211)年に伝領}−>順徳天皇領(実際は、後鳥羽上皇が管領 建暦元年伝領)−>承久の乱後 幕
府に没収ー>守貞親王に返進 承久3(1221)年7月ー>後宇多上皇領ー>半分は、熱田神宮領として
幡屋大夫政継が、代官職を安堵されたようであります。 建武4(1337)年の事。ー>等持院領 応永34
(1427)年以降
D、山田荘の荘域
かって尾張には、山田郡があった。{山田郡が、存在していた最終年は、一般的に「史料上で山田郡の名
が見えるのは、1548年(天文17年)2月14日付け瀬戸市熊野神社棟札に「尾州山田郡八事北迫菱野村」とあ
るのが最後である。1570年(元亀元年)の亀屋天王社鰐口銘文では「春日郡山田庄小幡長谷村」とあること
から、16世紀中頃に分割されたと考えられる。(上村喜久子説)}ようであります。その山田郡にあった荘園で
ありましょうから 山田荘と付けられたのでありましょう。東大寺領山田荘として。山田荘は、一時 八条院領
(11世紀末か12世紀初頭頃〜1184年 )となったようです。
八条院とは、ワ子内親王{あきこないしんのう、保延3年4月8日(1137年4月29日)
-
建暦元年6月26日(12
11年8月6日)}は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての皇族。初めて后位を経ずに女院となり、「八
条院
」と号した。
尾張の歴史 展示解説U 中世 名古屋市博物館 P.14 尾張の荘園・国衙領の分布図では、山田荘は、
現 小牧、春日井であるような記述であった。とすれば、小牧市史 P、70の図2−7 春日部・山田郡境域
図 (2) には、山田郡に置かれた式内社の分布から、山田郡域は、師勝町より西よりの地域を含み、豊山・
師勝・牛山等々の北側、現 小牧市南西部域まで伸びていた。そして、山田郡の端境には、上末・下末が含
まれるように図示されていた。まだ、確定はしていない事柄ではありましょうが・・。
この山田荘の荘域の北限は、下末・上末を含む春日井・師勝の西側辺りになるのでしょうか。とすれば、こ
の山田荘は、東大寺領山田荘であり、一時期皇室領(八条院領)とも言われていた荘園でありましょう。
しかし、春日井市史P.134には、「安食荘には、荘官として安食氏がいたという。張州府誌には、安食二郎
重頼なる者、安食荘の荘官級の武士であったという。」また、尊卑分脈によれば、安食氏の系図は、「重遠の
子に 河辺重直・葦敷二郎重頼があり、河辺重直の弟 葦敷二郎重頼は、安食荘に土着し、荘官級豪族とし
て勢力をたくわえ、兄である河辺重直は、庄内川を挟んだ安食荘とは対称的な位置にあった山田荘の荘官と
して勢力を拡大していた。」という記述もみえ、山田荘は、庄内川の左岸側にも存在していたでありましょうか。
とすれば、山田郡は、庄内川左岸 現 名古屋市側沿いに存在していたのでしょう。東大寺領山田荘は、旧
山田郡一帯に存在した荘園であったでありましょうから。
東大寺領山田荘は、延暦4(773)年カ 6町歩の広さであったが、天暦4(950)年には、36町歩に拡大し
ていたという。初期荘園であったようです。
領家
東大寺と皇室領であり、しかし、春日井市史では、断片的ではありますが、在地武士化した荘官級豪族の名前
があがってきており、上記河辺重直(安食氏一族 東大寺領山田荘の荘官カ)。また、春日井市史 P.129には、
「永享3(1431)年7月12日 室町幕府より、尾張守護代(織田氏)あて、尾張山田荘(東大寺領山田荘カ)を一
万部御経料所として指定し、徴発の為、蜷川越中守を現地に派遣する。もし、百姓が強訴・逃散を企てたりした場
合、これを受け入れたりした場合は、罪科に処するので、逃亡場所及びその所の領主名を注進するよう命じ、同
日付けで、尾張各地の領主達に対して、山田荘からの逃亡百姓を受け入れたら処罰する旨の申し付け状を配布
していた。
その申し付け状は、柏井・市辺・井戸田の荘園領主である等持院(柏井荘の荘園領主)に宛てられていたようで
あります。
とすれば、現 春日井・小牧辺りの荘園に対して申し付け状は、出されていると推測でき、この当時は、尾張守
護代は、庄内川左岸側まで押さえていたのであろうか。むしろ、駿河守護 今川氏の勢力が、三河から知多郡に
浸透していた可能性が高い。やはり、尾張山田荘を一万部御経料所として指定した永享3(1431)年7月12日
の尾張守護代宛ての内容は、東大寺領山田荘であったのでしょうか。しかし、東大寺領は、山田荘より、中島郡・
丹羽郡内の荘園の方が、広大であったやに。
この荘園は、尾張守護代の織田氏が代官として室町幕府より任命されていくようであります。
この頃、在地或いは在京の武士達が、代官職(鎌倉期の地頭職と同様)というかたちで守護請け・或いは守護代
請けという形で在地支配を目論んでいた事は、事実のようでありましょう。
3.皇室領以外の荘園
A.安食荘の荘域
康治2(1143)年7月16日 尾張国安食郷内田畠等検注帳案(醍醐寺文書)から、この荘の範囲は、
南は名古屋市北区安井町付近から、現 庄内川右岸の松河戸より勝川・あじま一帯の地であったようで
あります。
荘園として成立したのは、延喜14(914)年。康治2(1143)年には、尾張国司により荘園の特権を無視
され、賦課を強行。前関白藤原忠実に訴え、荘域が明確にされた。
しかし、藤原惟方(コレカタ)が、尾張守となり、往古よりの証文・康治年間の宣旨に背き、安食荘を没収して
しまったという。寺から国守の横領を訴えると、院庁より布施料が寺に届けられていたというが、世情騒然
としてくると、そうした沙汰も止んでしまったという。再度国司庁宣を貰い、寺領を復活させ、文治4(1188)年
には、念には、念を入れ院庁下文を出してもらい、尾張国の在庁官人に対して安食荘を元のようにすべしと
いう対策をとったようです。
が、在庁官人の武士化、或いは在地で成長しつつあった武士層の侵略により、承久4(1222)年以降は、
新補地頭を荘官に補任すると、庄務を妨害し、年貢も支弁しなくなっていったという。醍醐寺は、鎌倉幕府
に訴え、執権北条義時は、その訴状通りの処置を行い、醍醐寺に対して安泰を保障したという。
承久の乱後、尾張国内には、新補地頭が、任命され、鎌倉御家人が補任されていったと思われます。こう
した御家人は、旧来の慣習を無視して強圧的に庄務を妨害するようであり、鎌倉の執権は、旧来の慣行を
遵守するようであったが、安食荘への地頭の横暴は止まず、醍醐寺は、安食荘内 五郎丸名主 毛受裂裟
鶴丸(メンジョウケサツルマル)を預所職として、200貫文の年貢を請け負わせる契約をしたという。
醍醐寺(荘園領主)は、在地で次第に成長しつつあった名主級武士に依存し、その在地支配力に依存しつ
つ年貢を確保しようとしていたと思われます。
* 「愛知県の歴史」 三鬼清一郎編著 山川出版 2001年版 P.80〜81には、承久の乱時の尾張国守
護職は、小野盛綱(後鳥羽院の西面近臣)であったが、乱後尾張国守護は、中条家長(鎌倉御家人で、小
野盛綱の同族)に与えられた。鎌倉末期には、尾張国守護は、中条氏から北条氏一門の名越氏に移る。
併せて、春日部郡篠木荘・石丸保・野口等も北条氏所領となったと。
更に、同書 P.94には、中島郡の地名である毛受(メンジョ)を名字とする能真(ヨシザネ)は、安食荘内
五郎丸・光弘名の開発相伝領主と称し、荘園領主醍醐寺に代わって自ら六波羅探題(この当時尾張国は
六波羅探題の差配地に入れられていた事による。・・私の注)に対して地頭の押領を訴えていると。*
領家
醍醐寺 預所職の毛受裂裟鶴丸は、名を能実から沙弥道観と改め、弘安4(1281)年〜元弘3(1333)年
まで、預所職を務め、元弘3(1333)年には、安食西荘で、横領を企てた前公文 国政以下あじま郷の左衛門
大夫 子息 太郎 同舎弟 三郎等の侵略押領を建武の新政の雑訴決断所へ訴え、尾張国衙より停止命令
が出されていた。実際に停止できたかどうかは、不明。醍醐寺の支配は、応仁2(1468)年までは、辿れると
いう。
* 「愛知県の歴史」 P.94には、鎌倉時代末期 毛受能真からの訴えで、六波羅探題は、春日部郡の地名
を名字とする味鏡(アジマ)太郎左衛門尉と朝日孫太郎(承久の乱以前からの勢力を持っていた在地武士で、
北条氏の被官カ・・私の注)両名に、地頭の押領を停止するよう命じたと。*
安食荘の事ではありませんが、近くの篠木荘の事柄ではあります。かって、「熱田神宮宮司以下、幡屋大夫
以下御供人(神宮に仕える非農耕民)が、篠木荘内 玉川郷へ押し入り、乱暴狼藉をしていた。その後、古来
の例に倣って、建武4(1337)年には、この玉川郷は、半分熱田神宮が、代官として入部する事が認められた
とか。」( 春日井市史 P.128 参照 ) 要するに実質的な下地中分が行われたようであります。
13世紀末〜14世紀はじめにかけて醍醐寺領安食荘は、応仁2年頃までは、荘園領主(醍醐寺)が、何とか
地域からの年貢を受け取っていたのであろうか。それも、在地名主の支配力を醍醐寺は、活用して預所職に任
じ、年貢を確保していたようです。その在地名主は、二度程名前を替え、沙弥道観と名乗っていた。
何だか尾張国林・阿賀良村の名主も、沙弥某と名乗っていた。こちらは、神社領であったが、安食荘は、寺院
領(醍醐寺)の違いはありますが・・・。沙弥誰がしと名乗るのは、この二つの領域だけではない、他の荘園にも
雑掌の名に、よく登場している。(鎌倉市史 史料編 2巻内に出ている。・・筆者注)
この当時、寺院・神社等の関係する荘園の荘官等は、それなりの職を得ると沙弥 某と名乗っていたのであろう
か。本来沙弥とは、一人前の僧になる一歩手前の修行僧をいう言葉であったようです。要するに、寺院・神社関係
の者は、そのように名乗る慣習でもあったのであろうか。
しかし、「日本霊異記」なる書物を読むと、その中に”自度僧”或いは”私度僧”なる言葉が頻出する。これ等は、
”沙弥 某”と名乗るその当時、公に認められない勝手に名乗った僧名であると解説してありました。
以上が、小牧・春日井近辺の中世荘園の荘域と領家についての覚書であります。
*
当時の境は、杭、石等で表示されていたかと。しかし、まだまだ開発されていない原野等も多くあり、厳密な境
は、無く、隣接荘園等では、こうした原野が、開墾され、利用されるようになると境論争の火種となっていったよ
うであります。
平成25(2013)年6月29日
脱稿
平成25(2013)年10月10日一部修正加筆
平成27(2015)年4月16日 一部加筆