中国・朝鮮半島に於ける 鉄生産についての概略
− 「倭人と鉄の考古学」 村上恭通著より −
1.はじめに
日本での鉄生産についてあまり詳しくはなかった。上記の著書を読み、日本で使えるような鉄
は、4世紀以降ほとんど朝鮮半島 弁辰(三韓の一つ 弁韓 後任那・加耶)より入って来ていた
のかという事を知りました。弁辰国も、中国前漢と同様、製鉄技術は、門外秘密扱いであったか
のようで、鍛冶技術は、伝わってきたようであると。
とすれば、空白の4世紀という時期、垂仁期に始めて大和は、朝鮮半島と関わりを持ちえたよ
うでありましょう。大王家に匹敵する葛城氏の祖先が、倭人として朝鮮半島で、そうした事柄に接
していたのでありましょうか。
上記の事柄については、拙稿 日本史に於ける 空白の4世紀についての覚書 を参照された
い。
村上氏の著書には、中国とか朝鮮半島での鉄生産等について記述がしてあり、参考になります。
以下、著者の見解を概略まとめておこうと思います。あくまでも私の独断と偏見による解釈であり
ますから、賢明な読者の皆様は、再度著者の本を手にして確認をされるようお願い致します。
2.中国での鉄に関わる事柄
中国での鉄に関する古い遺跡の発見は、商(殷 紀元前1700〜1028年頃)代中期の河北省
藁台村(カオタイツン)出土の鉄刃銅(テツジンドウ)エツが最古の鉄の使用例とか。エツとは、金偏に戊で、
一字のようで、まさかりのようで、刑具或いは武器であると。一般的には青銅器であるようですが、
刃の部分にのみ鉄が用いられていたという。この鉄は、隕鉄(隕石)が原料であるようです。
西周代後期に登場した人工の鉄は、春秋時代(紀元前770〜403年)後期、戦国時代(紀元前
403〜221年)前期になると、武器・農耕具にも鉄が使われるようになるという。しかし、まだ青銅
器が圧倒的で、複合金属器として鉄が用いられていた状況下と。
こうした金属器の生産は、王侯・諸侯に属する専業的(氏族)集団が直接担当しており、青銅器技
術と相まって人工鉄の誕生があったとも記されている。
同書 P.30には、既に春秋後期には、銑鉄を造る鉄鉱石を高温で還元し、生産する方法を編み
出していたと記され、低温(1000度前後)での固体のまま還元する塊練鉄(カイレンテツ)法は、西周代
後期には、成立していたと。
鉄が、青銅器を越えるのは、戦国時代中・後期以降であるようで、それぞれの諸国では、城址の一
角に手工業区(鉄器の製作工房)が設けられていたようで、朝鮮半島の鉄器について影響を与えたの
は、燕国であり、一貫した鉄工房跡があり、官営的な工房跡であろうと推定されている。
また、戦国期末期では、各国では、官営のみでなく、民間の鉄業者のはたした役割も大きかったよう
であると。
前漢代(紀元前202〜紀元8年)頃には、国家による大事業で財政難に陥り、その打開策として、武
帝(紀元前141〜紀元前87年)は、鉄業における収益の大きさに目をつけ、国家による専売制を実施
し、その施行の為、紀元前140年に全国46ヶ所に鉄官という官府を設置し、生産と生産物の管理をし、
民間の鉄業者も支配したという。そして、更に国家のすみずみまで流通を可能にする均輸官を置き、流
通機構までも支配したという。
この前漢時代の国家による鉄専売制により、不均衡であった鉄器が、均等に行き渡り、地域間格差が
解消したと言う。
3.朝鮮半島での鉄器の普及
朝鮮半島西北地域は、戦国時代に漢民族(燕人)と領国を接し、燕国の長城の東端にあたり、平安北
道 細竹里(セジュンニ)遺跡では、戦国時代の土器・貨幣も出土し、燕の文化をストレートに受容していた
痕跡を示しているとか。また、同遺跡では、燕系の鉄器と共に、鉄器製作址も発見されているようで、詳
細は不明ですが、燕の鉄に関する技術が伝播していたと予想されるとも記述されていた。( 同書 P.21
参照)
前漢代では、製鉄技術の国外への流出は、不可能であった可能性が高いようで、朝鮮半島での製鉄
技術は、戦国時代の燕国の技術であり、その技術が、半島の隅々へ伝播していったと推定されると記述
されていた。とすれば、朝鮮半島でも、銑鉄系の製鉄と塊練鉄法系の製鉄の二系統は、存在していたと
思われます。
日本へは、塊練鉄法が最初に伝わり、その後銑鉄系の製鉄技術が渡来人等により伝わったものと思わ
れます。製鉄技術より先に、弥生時代頃から鉄鍛冶技術は、日本(九州地域)にも伝播していたのでしょう。
4.日本への製鉄工人の渡来
氏によれば、「鉄の普及には、二つの流れがあるのでは、と言う見解のようであります。
所謂 首長層の威信財としての鉄。祭器用鉄財の確保という側面での普及と生活必需品としての農耕具
用・実用武具としての普及を考えておられるようであります。」(同書 P.106〜120 参照)
そして、畿内政権が「、統一して工人を各地に配したのではなく、北九州を窓口にして、各地の首長層が、独
自に渡来工人を招聘した。」(同書 P.127 参照)かのように記述してありました。
実際 考古学上の出土品等からもそうした傾向を読み取れるという。
日本に於ける鉄器普及は、ドラスチックに変換したのではなく、旧来の石器製品・青銅器との兼ね合いが
高く、折り合いを付けながら普及していったようであると。ゆるやかに東進していったという。
「5世紀後半からはじまる象嵌太刀(有名なのは、九州・関東で発見された大王銘の太刀)は、6世紀代に
なって全国的に拡大し、6世紀後半〜7世紀はじめには、銘入りではない太刀が、中小古墳にまで納められ
るようになった。」(同書 P.139・140 参照)と。
前方後円墳等の大型の古墳築造に関わって、かっては、主の土堀用であったかどうかは、不明ですが、木
鍬の先端部分に鉄材を取り付ける簡便な方法であったのが、本体は、木製ですが、実用U字型鉄先を取り付
ける方法を取るようになっていくと。必要に迫られた鉄材の進化が読み取れる事を挙げて見えました。
そして、「古代国家が成立し、大型の公共事業(平城京築造等)では、働き手には、官製の農耕具が渡され、
各地からきた公民を介して新しい機具の普及にも貢献したのではないか。」(同書 P.155 参照)と。
更に、官製の道具や建築材の生産の為、在地の鍛冶工が上番(ジョウバン)し、在地の鍛冶工は、より進んだ
道具とか生産技術に触れ、またその技術を習って、帰郷することが出来た。」(同書 P.155 参照)と、これは
新しい技術の普及形態であるとも記述されていた。
「現存する世界最古の木造建築 法隆寺の最初の建立時から近世にかけての解体修理時に各時代の鉄釘が
収集されているようで、建立時の釘は、原料が、鉄鉱石の物もあり、砂鉄が原料の鉄釘もあり、両者共に、金属
組成は、高炭素鋼と低炭素鋼を最終的に鍛接して、硬度が調節され、丁寧な手作りであったとか。その後平安
時代を向かえると釘は、構造が簡略化され、製作工程の簡略化へと進んでいったと。」(同書 P.156・157 参
照)
5.製鉄炉の構造
製鉄炉は、長方形箱形炉と半地下式堅形炉の二つに大別されるという。
長方形箱形炉は、古墳時代後期の岡山県大蔵池遺跡や緑山遺跡のように構造的な炉床を持たず、溝の中に
炉底を築くタイプがベースとか。律令前後頃には、両端に排滓用の土こうを持ち、掘り方の平面が鉄亜鈴形の
炉が成立すると。こうした鉄亜鈴形の製鉄炉は、7世紀後半に北部北九州を中心に現れる。(同書 P.173〜
176 参照)と記載されている。一方の土こうが開放されるタイプは、関西から東北にかけて出現するとも。
そして、半地下式堅形炉は、8世紀初頭には、関東地方に出現し、8世紀前半代には、東北にまで及んでいる
とも記述されていた。
更に興味深い事は、確かにどちらの炉でも、各地の導入の契機は、公権力による技術の伝達が行われた事
を示しているが、武井地区製鉄遺跡群にみられるように、長方形箱形炉の技術が導入されても、ほぼ同時に、
簡略形が出現している事から、導入された技術が、工人によって強制され続けたり、新来の技術が旧来の技術
を駆逐しなかったとも解釈され、公権力による技術指導には、強制力は、さほど強くは無い事を物語っていると。
製鉄炉の全てが、国家的な事業に供されたわけではなく、自家消費的な鉄の供給も担い、時期が下って、生産
拠点的な機能を失うほどに、自家消費的な鉄生産へと変貌したとも。
国家は、決して各地の生産機構を直接管理したわけではなく、目的の生産物が収奪できれば、在来の自家消費
生産や私的な生産を妨げるものではなかったと(同書 P.179 参照)記載されていた。