列島に於ける古代の鉄生産に関する覚書
1.はじめに
列島の古代史 2 暮らしと生業 岩波書店 2005年版 の中の論考に ”鉱物の採集と精錬工房”なる
一文がある。花田勝広氏の論述でありました。
私も、家の近くに古代のたたら製鉄跡もあり、多少興味があり、興味深く拝読させて頂きました。
特に印象に残ったのは、同書 P、222〜245の”鉄の精錬と工房”なる部分でありました。
朝鮮半島での鉄生産の事。北九州〜近畿にかけての古代鉄生産地の事。製鉄炉の構造等、成程と思え
る事柄ばかりでありました。
私なりに、この書の論点を整理し、覚えとしたく筆をとりました。
2.製鉄遺跡の分布
A、古墳時代〜飛鳥時代の製鉄工房
前掲書 P.224に図4 製鉄遺跡の分布図が載っている。それによると、北九州地区に博多群(砂鉄)
として製鉄炉 3基 鍛冶工房 3ヶ所が図示してあります。中国地区には、出雲群・庄原群・津山群・総社
群・佐用群として現 広島・岡山・鳥取辺りに製鉄炉 1〜3基程度 鍛冶工房 0〜4ヶ所程度図示されて
いる。この地域の鉄原料は、砂鉄とも岩鉄とも記載されていないが、両方であったとか。
脱稿後知りえた事ではありますが、花田氏と同一時期に研究を進められていた方で、村上恭通氏がみ
えるようです。
また、インターネット上で知りえた事でありますが、http://www.hitachi-metals.co.jp/tatara/nnp0202.htm
では、「山陰地域と山陽地区では、製鉄用原料に違いがあり、山陰は砂鉄、山陽は鉄鉱石であったと記述さ
れている。そして、この違いは、伝播ルートの違いによる。」のではとも推定されているようです。
そして近畿地区 丹後半島の日本海に面した辺りに丹後群(砂鉄)、琵琶湖の日本海に近い伊吹山山麓
より30Km程福井県寄り岐阜県との境の金糞山山麓辺りに湖北群(鉱石)、大津近くには、湖南群の存在が
確認出来ているようです。
こうした精錬炉等を出土する遺跡は、5〜6世紀代を通して多いとか。6世紀代には、列島でも鉄生産が本
格化したと同氏は捉えてみえるようです。
花田氏の論述には、残念ながら中部地区の製鉄遺跡は、眼中にないようであります。確かに、早くても7世
紀中頃の操業であり、列島の操業からみれば、かなり遅めの操業でありましょうから。
さて、同氏は、4〜5世紀を通しては、鉄の素材が大陸または朝鮮半島より大半は搬入されたと理解してみ
えるようで、鉄素材には、鉄塊・鉄(金偏に廷で一字)・鋳造鉄斧・棒状鉄素材があるとか。
鉄(金偏に廷で一字)については、冶金学的分析によれば、大陸または朝鮮半島の生産地より搬入された
物という捉え方が一般的であるとか。
B、朝鮮半島での鉄生産
同書 P、223には、「4〜5世紀初頭の忠清北道(参考までに、当地は、古代の馬韓の地であり、三国時代
前期には百済、高句麗、新羅の交界地となり、後に百済領となったとか。・・筆者注)石帳里遺跡では、砂鉄を
原料とした精錬炉が検出され、4世紀に比定されている。」とか、「慶尚北道{参考までに、慶尚とはかつての中
心都市であった慶州(新羅の古都)、尚州(古代の沙伐国であり、249年に新羅が、沙伐国を併合。)を組み合
わせた合成地名であるとか。・・筆者注}のファン城洞(ソンドン)遺跡は、鉄鉱石による精錬炉であり、分析結果か
ら使用された鉄鉱石は、達川鉱山の物(参考までに、蔚山の達川鉱山で採れる『土鉄』。これは赤鉄鉱・褐鉄
鉱の混合物・・・つまり赤土やリモナイト<リモナイトとは、鉄の酸化鉱物の通称あるいは天然の錆とでも言う物
でしょうか。・・筆者注>)と考えられる。」と記述されております。
<朝鮮半島においても、二つの違う製鉄原料を使う技術集団の存在が、垣間見られるように思える。少ない
朝鮮半島での古代の製鉄炉の発見からではありますが、百済系は、砂鉄。新羅系は、岩鉄であるように思え
るのですが・・。・・私の推測であります。>
同書 P.226には、「近年韓国では製鉄遺跡の調査が増加している。4〜5世紀初頭の忠清北道 石帳里
遺跡。6〜7世紀頃の慶尚南道(旧 新羅国が存在した地域・・筆者注) 勿禁(ムルグム)遺跡<もう少し詳しくす
れば、佳村里(カチョンリ)遺跡が5〜6世紀、凡魚里(ボンオリ)遺跡が7〜8世紀の製鉄遺跡とか。・・筆者注>
三国時代の前期には、炭素分の含有量が高い銑鉄と低い塊鉄の二つの成分を示す鉄器の存在が指摘され、
銑鉄系と塊鉄系の鉄素材を生産する二つの製鉄技術が併存していたとみなす史家もあるとか。」と記述されて
いる。
そして、「朝鮮半島の銑鉄系の技術は、列島では、8世紀以降に開始されたとする見解が有力とか。」「列島
での古墳時代以降に操業された製鉄炉は、塊鉄系の技術が導入された可能性が高いとも。」記述されており、
この見解は、現段階の発見例に基づく理解であり、西日本の鉄生産の上限は、今後の調査によりさらに遡る可
能性を指摘されていた。
3.製鉄炉の構造
先行研究により、4つに大別されるようです。
(1) 長方形箱型炉 A型
炉床の焼成面が長方形を呈し、下部に防湿構造を持つA1タイプと有しないA2タイプに細分。
A1 炉床下に土坑を有し炭層を設ける。 A2 炉床下に粘土を貼り、長側辺に石材を配する構造。
(2) 方形箱型炉 B型
炉床の焼成面下に、方形または隅丸方形に近い土坑を設け防湿構造としたもの。
(3) 楕円形炉 C型
楕円形の平面と下部構造を呈し、形態的には楕円形の炉と推定されるとか。
(4) 円形炉 D型
炉床が円形で下部に防湿構造を有する。炉の形態は、円柱状を呈す。
以上のタイプは、6世紀後半〜7世紀初頭に地域を異にしながらも出揃うとか。
参考までに、村上氏は、製鉄炉は、大別して 花田氏が4つに分けられた(1)・(2)を箱型炉とし、(3)・(4)
を一括して半地下式堅型炉の二つに分けておられるようです。
4.製鉄工房について
同書 P.230には、「発掘された製鉄炉跡の事例から推定するに、製鉄工房は、精錬に伴う炉と作業空間
の単位群があり、工人がそこに居住する場合は、2〜3棟の工房からなる。一方、集落から製鉄作業場へ臨
時的に通う場合、作業場のみと考えられる。」と。以上の見解は、津山市大蔵池南遺跡・同市緑山遺跡・島根
県邑南(オオナン)町の今佐屋山遺跡の三つの事例からの推定でありました。
6〜8世紀代の西日本においては、製鉄遺跡群のいくつかに大規模遺跡の形態が知られ、それらは、6世紀
後半より継続・連続操業するもので、更に、律令期の滋賀県草津市の野路小野山(ノジオノヤマ)遺跡のように、
官営工房内に製鉄炉が設置されるものがある。と。こうした遺跡では、製鉄炉は、B型タイプがほとんどで、精
錬工程が分業化したものであり、初期律令体制の政策的な関与が考えられていると。滋賀県草津の遺跡は、
8世紀後半の律令国家形成の宮都造成に必要な鉄素材の供給を担った施設の一つと推定されているようです。
大和和人氏は、「長さ2m以上在る細長い製鉄炉は、8世紀までに畿内周辺の律令国家の強い影響を受けた
地域に導入された箱型炉であると指摘されているとか。
こうした箱型炉は、7世紀前半〜8世紀後半までに採用された南近江において改良されたとして、この技術的
な源流は、百済であろうと推定されているとか。」
技術的な源流が、百済系とするならば、砂鉄を用いる製鉄炉の可能性が高いように思えるのですが・・。実際
は、南近江は、岩鉄を用いた製鉄炉でありました。こうした点を大和氏は、どのように理解しておられるのでしょ
うか。
5.鍛冶工房について
製鉄工房にやや先んじて存在していたと思われます鍛冶工房跡。大和周辺にて発掘されておるようですが、
羽口とか砥石の出土を含むとの事。
大和ー南郷遺跡 所在地は、葛城地域であり、5世紀代を中心にして操業がなされ、葛城氏の盛行とも一致。
鉄器(刀剣)・銅製品・銀製品・ガラス生産におよぶ総合的な金属器工房であろうと。
この葛城氏は、{
大和岩雄著 「秦氏の研究」P62〜66にも、葛城襲津彦についての記述があります。氏
によれば、葛城襲津彦の出自は、朝鮮半島の倭人集団の長(倭王)であったという位置づけであるようです。
かの魏志倭人伝に出てくる朝鮮半島にあった狗邪韓国が、実は、倭人の国でもあり、弁辰韓伝では、その
国は、弁辰狗国と記述され、同一の国であるという。即ち倭30ヶ国の一国であり、弁辰12ヶ国の一国でもあ
ったようであります。大岩氏は、この倭人の流れである国の後の長が、葛城襲津彦であろうと。}
更に「葛城という名を名乗るのも、この長の出身地が、加羅はもと弁韓また弁羅といい、弁はカル、カルラと
訓み、弁羅でカルラギと訓むは、葛城であろうと。推察されるのでありましょうか。」・・詳しくは、下記 拙稿
日本史に於ける 空白の4世紀についての覚書
を参照下さい。
大和ー布留遺跡 5〜6世紀代の鍛冶専業集落であり、南郷遺跡と同様な有力氏族直営の複合生産の様相
を呈していると。そして、史料的には、物部氏の直営工房の可能性が濃厚とも記述されている。
こうした工人には、旧来の倭鍛冶集団があり、後の渡来工人(韓鍛冶)集団もあり、対立したのではなく、協業
したかのように、武具等には連続性の所作がみられるという。
そして、同氏は、「5世紀前葉以降の製鉄・鍛冶集団の分業化が著しく進んだ結果であり、また、専業集団を掌
握する氏族が、ヤマト王権と一部の地方首長に独占され、鉄・鉄器生産の掌握が政治権力の基幹であったこと
が窺える。」とまとめてみえます。