律令時の東海道(主に中部地方の経路)についての覚書 
          
             1.はじめに
                古代の幹線道は、現代と違い、第1は、山陽道であり、次いで古東山道。東海道は、その次
               位の道ではありましたでしょう。

                雄略天皇の御世(5世紀末頃)に、埼玉辺りまでやっと大和朝廷の支配地となっていったようで
               あり、大和の支配が及ぶようになってから、順次こうした基幹道が整備されていったと思われます。

             2.古代の東海道
                律令時代の東海道は、東海道の諸国の国府を駅路で結ぶもので、各道に派遣された官人が諸
               国を巡察する為に整備された路を指す。律令時代に設けられた七道の一つで、中路である。律令
               時代の東海道の道幅は、中世や江戸時代の物より広く、直線的に建設された。中世に大半が廃
               れたため、正確な道筋については議論されているが、以下の箇所を除いては近世の東海道とおお
               むね同様の径路と考えられている。

                ・ 平城京(奈良)から東に伊賀国府を経由して鈴鹿関に至る経路。近江朝時代と平安時代初期
                 には近江国を通り現在の杣街道から伊賀国に入る経路がとられたが、886年(仁和2年)に現在
                 のように鈴鹿峠を通り、鈴鹿関へ至る経路に変更された。

                ・ 現在の浜松付近から静岡市付近に至る経路。旧東海道よりも海岸線に沿ったルートを通って
                 いたとみられ、国道150号や東海道新幹線、東名高速道路に沿った経路を辿っていたと思われ
                 る。特に焼津市と静岡市の境は日本坂峠と呼ばれ、日本武尊の東征伝説や万葉集の歌にも詠
                 まれている。

                ・ 沼津から御殿場を経由して足柄峠を越え、関本に至る足柄路。元々足柄路(矢倉沢往還)は「東
                 海道」の本筋であった。800年頃、富士山の噴火によって足柄が通行不能になって「箱根路」が拓か
                 れた。しかし箱根路は急峻なため、足柄路が復興されると、中世までは主要な街道筋であった。

                ・ 相模国では、多摩川を渡る地点までは現在の国道246号に近い矢倉沢往還の経路にあたり、律令
                 時代の東海道の道筋がそのまま現在でも用いられている箇所がある。

                ・ 相模国府以東。海を渡ってから房総半島を北上し、常陸国から菊多関を経由して陸奥国に入り、今
                 の宮城県中部の名取郡で東山道に合する。

               *  若干 江戸時代の東海道とは、異なっていたようです。
                上記の記述は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%B5%B7%E9%81%93 最終更新 2012年10月
               21日 (日) 12:12  ウイキペデイア フリー百科事典からの引用であります。     

                         3.古代の東海道の桑名郡榎撫駅と馬津駅について 
               「伊勢の国 桑名郡榎撫駅(イナブエキ 東海道の駅)と津島は、水路移動。そして、三宅川を遡上し、稲沢国府に至る
              通路は、古代の尾張国の幹線路であった。」と一宮市史 第5節 沖積平野の小地形と環境に記述されている。
               では、桑名郡榎撫駅は、どこに比定できるのでしょうか。桑名郡榎撫駅については、諸説あるようですが、{「日本後
              紀の記事その他から桑名郡多度町戸津」であろうが通説となっている。}(沢田 金康著「尾張国の渡来文化を探る」
              1985年4月発刊)ようですと。3十数年前の記述ですから今は、どのようになっているのでしょうか。
 
                                 *  桑名郡榎撫駅(江奈駅ー>江之津駅カ)が、現 桑名郡多度町戸津とすれば、古揖斐川河岸であった筈。美濃国
                赤坂にも渡津の名残りがあり、ここも古揖斐川河岸であり、現 揖斐川は、更に東に寄ったと推測出来ましょう。古揖
                斐川が伊勢湾に面する所には、桑名の津が、古くから存在していたと思われます。その古揖斐川桑名よりやや上流
                の現 戸津に古代の桑名郡榎撫駅があったようだと。
                 佐屋町史 第6巻 史料編 平成4年版 P.9には、桑名郡榎撫駅は、桑名市から多度町の間(員弁川沿い)かと
                考えられ、未だ確定されていないと。*
                                
               「桑名郡榎撫駅(江奈駅ー>江之津駅カ)は、駅馬十匹と記載しているが、伝馬については、ふれていない。」弘仁3(
              812)年5月8日の日本後紀に「伊勢国司自桑名郡榎撫駅、達尾張国、既是水路。而徒置伝馬、久成民労、伏請一従
              停止」とあるように当駅には、渡津の機能があるので、徒に伝馬を置いて住民に負担をかけて苦労をかけるのはよくな
              いというので廃止したと。9世紀初頭以前には、伝馬が置かれていたとも取れましょうか。

               では、馬津の渡しが記述されている 永延2(988)年  尾張国郡司百姓等解文 第19条には、口語訳ではありますが、
              「 裁定されん事を請う。馬津の渡しには、官船の備えがないので、郡内の少ない船を用い、郡内の渡し場に居住する人達
              にも渡しについて煩いをかけている事 (中略) この馬津の渡しは、東山道と東海道を結ぶ間道の一番の難所であり、官吏
                               の往来が滞る所です。ここに多くの往来者を乗せる船を購入して渡らせれば、郡司百姓は、何の煩わしさがありましょうか。
                                  しかしながら、官帳にその用立てた事を記載していますが、まったく購入する気持ちがありません。(略)」と。

               10世紀後半の馬津の渡しは、「東山道と東海道を結ぶ間道の一番の難所」と述べている点、かっての古代の東海道(東海
              に所属する国の意カ)の馬津駅とは、やや位置が違うようにも取れましょうか。永延2(988)年頃の馬津の渡しは、古代の頃の
              馬津駅とは違うのかもしれません。とすれば、この10世紀後半の馬津の渡しは、現 津島と推測致します。古代の馬津駅も津
              島より上流域に置かれたのであろうか。

               * 上記の時代からは、2〜300年後の鎌倉期にも、大きな流域変化がないとすれば、そこを移動し旅をされた書物が存在する。
               「海道記」(作者不詳 貞応2年 1223年出立)なる書物です。
                中世(鎌倉期)の日記「海道記」にも、津島の渡りを渡って、尾張国に入り、小篠(オザキ)が生えた原でこの海道記の作者は、
               駒を見ている箇所があるようです。
                この著者は、鈴鹿の関屋から市腋(イチガエは、現 愛知県海部郡佐屋町とか。・・小学館 中世日記紀行集の頭注)は陸路と
               水路カ。この当時、市腋から津島は、陸続きか。であれば、津島で乗船し渡河、萱津宿(庄内川と五条川が合流した辺り)に泊
               まるコースを行ったようであります。
                しかし、鈴鹿の関から津島に至る間には、古揖斐川・古長良川・古木曽川が合流して流れていた筈。市腋島カから津島(古木
               曽川の左岸でありますから)へのルートは、陸路であったのか水路であったかは不明。
                鎌倉時代とはいえ古代と概ね近い所を経由したのではないかと。

                                『海道記』によると「夜陰に市腋といふ處に泊る。前を見おろせば、海さし入りて、河伯の民、潮にやしなはれ、見上げれば、峰
               峙ちて(ソバタチテ)、(中略)(市腋出立時には、道連れの友が出来たかと。)市腋をたちて(陸路であるか水路であるかは不明・・
               私の注)津島のわたりといふ處、舟にて下れば(中略)渡りはつれば尾張の國に移りぬ。片岡には朝陽の影うちにさして、焼野
               の草にひばり鳴きあがり、小篠が原に駒あれて、(略)見れば、又、園の中に桑あり、桑の下に宅あり。(中略)萱津の宿に泊り
               ぬ。」と。

               この記述を素直に読み取れば、市腋(イチガエ)は、河川が海に流れ込む辺りか。後ろには、峰(この峰は砂丘)、前を見下ろす
              と入り江が見えるやや高台の場所のようにも取れましょうか。長島と同じ、河川が運んできた土砂等で出来た中州が発展した市
              腋島カ。

               * 吉田東伍著 「大日本地名辞書」 富山房よりの引用 市腋とは「今 市腋村、東市腋村の二つに分つ、旧 市腋島と言い、津
               島日置の南に一洲嶼(シュウショ 洲と島の意カ)を成したるとぞ。此の地は佐屋川木曽川合流の処にして、其水浜に砂丘あり、高さ
               十メートル、村の北側にも砂丘横たはり、近世の新地にはあらず。」云々と。

               そして、陸路なのか、水路なのか分りかねますが、津島に至ったのでは、この津島の渡りでは、乗船している。古川(三宅川と日
              光川が合流した河なのか、三宅川単独の木曽派流であり、大河でありましょうか。)を下り(東行カ・・私の注)て、渡河し、尾張国に
              至り、小篠(ヲザキとは、メダケ カ)が生えている原(ハラ)でこの海道記の作者は、駒を見ている。この風景は、乗船している所からみ
              ているのか、上陸して見たのかは判別し難い。そして、庄内川付近の荘園の風景(富田荘カ・・私の注)であろう所を見て、萱津泊
              まりかと。津島から乗船し、舟にて古川を下り(東に向かい、)(再度乗船して、庄内川を遡上し、萱津湊着も推測出来ようか。或い
              は、陸路。)そして、萱津宿(東宿カ西宿カ)泊まりであったようです。
               時代が違いますから比較は出来かねますが、古代も概ね近い所を経由したのではないかと推察致します。

               只、鈴鹿の関(4月5日泊)から市腋(4月6日泊7日出立)までは、一日行程。そして、市腋から萱津宿(庄内川と五条川が合流した
              辺り)までも、一日行程。萱津宿(4月7日泊)この宿は、現 甚目寺町カ 東関紀行(作者不詳 仁治3年 1242年頃の出立)には、東
              宿とあり、西宿もあった可能性が高い。

                                  「中世の庄内川は下河原村の北側を流れていたと考えると、下河原村北側を流れる庄内川は五条川と合流し大きく蛇行し、稲葉
              地村と日比津村付近へ向かう。そして再び大きく蛇行し南流していたと考えられる。」と。更に結びでは、「中世萱津は、蛇行する庄内
              川と五条川の合流点の両岸に設けられた集落であり、文献から西岸集落には日蓮宗や時宗などの寺社や海上輸送を行う船が入る
              港湾が、東岸集落(東宿)には茶屋などの歓楽施設や定期市が想定される。すなわち、中世萱津の両岸集落には都市としての性格
              に違いがあったと考えられる。このような性格の違いが、西岸集落のみが近世まで萱津として生き残り、東岸集落(東宿)は廃絶し小
              字名に名残りを残すのみとなった背景となったとも考えられよう。(加藤博紀)」と。(この記述は、下記 (中世の萱津宿を考える) 
              愛知県埋蔵文化財センターの萱津宿発掘調査を踏まえた中世の萱津宿の位置及び復元についてからの抜粋です。詳しくは、下記
               http://www.maibun.com/DownDate/PDFdate/kiyo08/0806kage.pdf を参照されたい。*

                              * 豊臣秀吉の時代に木曽川は、連続堤防になり、かっての木曽派流への水の供給は滞り、現在の川の流れに近くなっていっ
               たと思われます。信長の頃は、津島には、古川と呼ばれる木曽派流(三宅川と日光川が合流した川か、或いは三宅川単独の
               川か)の大きな流れがあり、現 天王川公園の池は、その名残りであるようです。その池の規模は、現在相当縮小しているので
               はないかと。天王川公園の池の中には、島が出来ているが、かっての古川が造りし中州の名残りでありましょうか。

                現 津島の天王通1の南北は、一段と低い地形であり、そこを古川が流れていたのでしょう。木曽本流は、津島より更に西側
               を流下していたと思われます。
                                   木曽派流については、拙稿 縄文期・弥生期・古墳期に於ける 木曽川本流及び派流についての覚書 を参照されたい。

                この津島より更に東、旧 佐織町諸桑町では、古代の舟が出土(江戸時代末頃)した満成寺があり、そのため池から出土
               したという。詳しくは、http://www.nendai.nagoya-u.ac.jp/ja/tande_report/1993/ishida1993.pdf を参照されたい。
                この舟の木片は、名古屋大学で、C14年代測定がされたようです。材質は、楠の木カ。7〜9世紀の新旧の木。或いは弥生
               中期頃の木片であるかのような結果であったと。ここにも木曽派流(古五条川カ)の流れがあったと推測できましょうか。

                                    鎌倉期から3〜400年経た江戸初期 5街道を整備した江戸幕府は、東海道の難所 木曽三川を越える為に熱田〜桑名
               までの七里の渡しを整備、その航路は、現 長島スパーランドのある長島(その当時長島は、中州状態から発展した輪中カ)の
               南側を渡航している。木曽三川からの土砂の流入は、鎌倉期からも継続的に続いていた筈。鎌倉期では、津島より南が、中洲
               状態の発展した輪中(島)であり、長島は、どのようであったのだろうか。

                 「尾張国の渡来文化を探るー馬津駅(湊)を中心にしてー」沢田金康著 1985年4月刊 (株) 東海共同印刷 P、75からの
               引用でありますが、「尾張西南部が木曽川のデルタ地帯として長い間濃尾平野と通称されていたように、幾回ともなく繰り返され
               た洪水と氾濫、幾条とも知れない派川の混流による低湿地帯であったことは忘れてはなるまい。
                長島、市腋島、津島、中島等々群小の島々から構成されていたようで、馬津駅は東に向かって伊勢湾沿いに萱津、古渡、熱
               田、鳴海と海上を船で結んでいたばかりでなく、旧木曽川本流の佐屋川、兼平川、三宅川、五条川などの派川を遡って深く内陸
               部と結ばれていたことも事実であろう。」と。
            
               沢田氏によれば、「律令制大宰府が6世紀以来1世紀以上の前史をもつ制度で飛鳥浄御原令で成立の第1歩を印し、次の大
              宝令で確立されたもので、7世紀以前の実態については検討すべき多くの問題があり、北九州ばかりでなく、全国各地の主要
              港津に残存するであろう大宰府的遺跡の調査こそ肝要である。
               そこで、馬津駅(古代の国津カ)は、

                @ 木曽川河口伊勢湾岸の港町として海上交通と管理に重要な役割を果たした事
                A 海部族の拠点として、木曽材の利用による筏舟などの造船、水夫の養成など殷盛をきわめたであろう事
                B 暴れ川木曽川の治水を兼ねた屯倉の開発がいち早く実施された事 (尾張西部開発の拠点の地であった事)
                   継体天皇と目子媛{尾張草香の娘・尾張凡(オオ)の妹}の子 後の安閑天皇2年(535年)には、入鹿屯倉・間敷屯倉を尾張
                  国内に置いた。(全国には、26ヶ所とか。)入鹿屯倉は、丹羽郡。間敷屯倉を沢田氏は、中島郡カに比定されていましょうか。
                C 駅伝馬に不可欠な放牧地の跡を物語る大牧・小牧などはじめ馬飼村が近くにある事
                D 筑紫大宰府長官と同格の儀仗が尾張守に与えられていた事(軍事施設でもあった事)
                E 対岸三重県榎撫駅が多度山麓桑名郡戸津と比定され、付近一帯が古墳をはじめ歴史的遺跡に富んでいる事

               と。」想定されているようです。更に「史跡として今では、その所在地も定かでない馬津駅もかっては想像以上に壮大な
               諸施設をもった地方行政の拠点であり、畿内防衛の第一線級基地として重要な政治的役割を果たしていたであろう。」
               と結ばれていました。

            4.尾張の国府への道
                 「伊勢の国 桑名郡榎撫駅(東海道の駅)と津島は、水路移動。そして、三宅川を遡上し、稲沢国府
                に至る通路は、古代の尾張国の幹線路であった。」と一宮市史 第5節 沖積平野の小地形と環境に
                記述されている。東海道からの支線であり、小路であったと思われます。陸路であれば、駅には、馬が
                置かれた筈。水路となれば、馬ではなく、船が置かれていたのでしょうか。そうした記述はありませんか
                らこの船は、推量であります。古代では、この部分の水運を尾張氏が、握っていたのでしょう。
                 伊勢湾内と伊勢湾に流れ込んでいる大河への水運が、握られていったと推察できましょうか。

                 律令制度下では、駅路の規定はあるようですが、水路については、別段規定はないようです。水路の
                運用は、在地に任せられていた可能性が高いと思われます。

                 5世紀頃は、雄略朝の頃ですが、書記のヤマトタケルの話に出てくる 弟橘媛 は、悲劇のヒロインであり
                ます。この話の真実は、下記のようではないかと。
                 {「相模」から「上総」に向かい、そこから上陸したのは後世の雄略、「焼津」のそれは、「草薙剣」伝説の
                                  発祥地ですから、タケイナダネです。 タケイナダネは、「焼津」の帰路、遭難死したのではないでしょうか。

                     内々峠で、嘆いた人物は、タケイナダネに随行した別働隊の長ではなかろうか。
                愛知県小牧市田県町に田県神社がありますが、ここはタケイナダネの妃であった「玉姫」を祭神としてい
               ます。この父は、すぐ近くの大縣神社の祭神である「大荒田命」といいますが、「大荒田命」が統治していた
               愛知県丹羽郡の人々も、タケイナダネの配下として、遠征に参軍していました。}(小椋一葉著「伝承が語る
               ヤマトタケル」中日新聞社)と記述されております。

                {タチバナヒメは、「穂積氏忍山宿禰」(ほずみのうじおしやまのすくね)の娘として記されています。「穂積」
               なのだから、「美濃」の出身なのだろうと漠然と思っていたところ、これがなんと愛知県知多郡東浦町だった
               のです。東浦町緒川に入海神社があります。境内の中にある国指定史跡の入海貝塚が良く知られています
               が、そこにタチバナヒメ伝説が残っています。
                その伝説とは、「 父穂積氏忍山宿弥命は海路帰途につき緒川に凱旋するが、この時父の乗った船の後を
               追って、弟橘比売命の形見の櫛が、緒川の紅葉川を遡って緒川宮(入海神社)に漂着した。」というものです。

                東国を目指すには、「伊勢」から伊勢湾を横断して、渥美半島を海岸伝いに進んだほうが、移動距離が短く
               安全なのです。つまり、「尾張」を経由する必要はありません。「忍山宿禰」はその住居地からみても、「尾張氏
               」配下の豪族でしょう。
                「大和」からの初回の渡航時は、「尾張氏」へ礼を尽くすために、「尾張国」経由であったであろうと思いますが
               (非礼は戦争になりかねませんから)、以後は、「尾張氏」の承諾もあって、直接伊勢湾を横断したものと考えら
               れるのです。そのとき力になった人物が「忍山宿禰」だったのでは、ないでしょうか。}

                知多半島の対岸である三重県亀山市には「忍山神社」があり、祭神こそスサノオ尊ですが、神社は「押山宿禰
               」が祀られており、娘は「弟橘媛」であったという噂もあります。}(詳しくは、下記URLにて 
                 http://www2.plala.or.jp/cygnus/st2.htm 参照 )あくまで民間伝承ではありましょうが。

                 この氏族が、尾張氏の配下として、伊勢湾の海上交通を実質的に管轄をしていたのではないでしょうか。また、
               東海道の伊勢の駅からの尾張国府への支線をも差配していたとも考えられましょうか。

             5.奈良・平安時代の東海道の道幅について
                列島の古代史 4 人と物の移動 岩波書店 2005年版「道と駅伝制」中村太一氏の論述には、現在の発掘成
              果をふまえた古代の道路のまとめが載っている。
               それによると「奈良時代の駅路では、9〜12m、特に12m前後のケースが多い。平安時代の駅路やその他地
              方官道の場合は、6m前後ないしそれ以下であったという傾向を指摘することが出来る。」(道と駅伝制 P.19参照)
              と。

               更に、「畿外に於ける幅12m級の駅路網は、おそらく天智朝頃に建設され、それは少なくとも九州から関東地方
              にまで及んでいたと考えられる。」(前掲書 P.20参照)とも述べられています。

               同書では「8世紀末〜9世紀初頭を境に道路の属性が大きく変化する。」と「この変化以前を”前期駅路”(東海道で
              言えば、古東海道にあたるのでしょうか。・・筆者注)、変化以後を”後期駅路”と呼ぶとすれば、前期駅路は、幅11m
              前後で、国府等を真っ直ぐに目指す道、後期駅路は、幅6m前後で、郡家等地域拠点も結ぶ道、と整理する事ができ
              るだろう。」と。

               前掲書の筆者は、「後期駅路への変化は、前期駅路が崩れたものと理解出来なくもない。しかし、この一連の変革が
              同時期に行われている点などから、後期駅路もまた意図的・計画的に導入されたとみる方が正しい。」(前掲書 P.23
              参照)と述べられている。

              また、氏は、前期駅路については、河川には、橋を架けなかったと記述され、物流・人流への配慮より、幅10m強の
             直線道路となし、国家の威信の発露であったのではともされており、後期駅路からは、物流・人流への配慮、及び幅を
             狭める事により、経費上の対策等が計られ、実用的な傾向が見られるのではという見解であるようです。

              氏の見解は、現在までに発掘された駅路等の考古学的見地の入った事柄ではあります。残念ながら、この見解の元
             となった駅路の発掘は、九州・畿内・山陽道が多く、東山道・東海道といったその当時の主要駅路ではない発掘は、未
             完であり、まだまだ、文献による概説が、東山道・東海道では、主流ではありましょうか。
                            推定の粋を出ていない事柄ではありましょう。
                 
                                                         平成29(2017)年3月16日  最終脱稿
                                                         平成29(2017)年3月21日 一部訂正加除