縄文期・弥生期・古墳期に於ける 木曽川本流及び派流についての覚書
ー 気候大変動・地質形成過程を踏まえてー
1.はじめに
江戸時代始めの 幕府による尾張地域に対する”御囲堤”は、木曾川左岸全体の河川流路を変えてしまった
と言っても過言ではないでしょう。
一宮市史 本文編 上 昭和52年発行 の考古編 第1章 一宮の地形と地質を一読し、少しは考えていま
したが、認識を弱冠変更せざるを得ない状況にいたりました。
私が住んでおります桃花台ニュータウンは、過去・現在も誰いうとはなしに”亜炭廃坑があるそうだけど、大丈
夫”と、友人・知人に言われてきました。
それがきっかけで、人に頼っていても本当の事は分からない。自分で確たる事を調べようと一念発起、その結
果が、”桃花台及びその周辺の亜炭廃坑跡についての覚書”という拙文に結実いたしました。
その中に、古木曽川(遥か太古の時代の川)があり、その川が運んできた太古の木々が、この地域の亜炭層
になった事も知りえた。
その後、現在の木曽川になっていったのでありますが、それまでにも、紆余曲折がこの川にあった事が知られ
てきました。さすが、国土交通省 尾張地域の濃尾平野地下構造の特に、”沖積泥層の分布”に着目してみえる
事は、この先に来るであろう三連動の大地震対策を念頭に置いてみえたのでしょうか。地盤的には、非常に脆い
危険性を内蔵しているからでしょう。
おそらくは、大型の公共開発事業の為の事前調査の一環であったのでありましょうが・・・。
2.気候大変動
拙稿 地球上での太古に於ける大変動についての雑文 に詳しい事は譲りますが、概略、環境考古学者 安田
喜憲氏の福井県三方湖の花粉ダイヤグラムより推察する地球環境データによれば、3万3千年前からスギ・ブナ
の花粉が激減し、かわってツガ等の乾燥を好む樹木の花粉が増加し、寒冷・乾燥化が進んでいたという。
2万年〜1万8千年前が、ウルム氷河期の最も極寒の時代であったと言われる。
その結果、現在の海水面は、今より120m〜140m程低下したと考えられるようであります。とすれば、現在の
伊勢湾は、陸地化していたし、知多半島より遥か南まで陸地であり、日本海には、海流は流れ込んでいなかったの
でありましょうか。日本湖のような湖であったのでしょうか。或いは、干満の水位移動の激しい現在の有明海のような
状況であったのでしょうか。
1万2500年前より急速な温暖化(モンスーンの大変動)が始まり、氷河期は、終焉。福井県では、再度ブナ・スギ
の花粉が、1万2000年前頃より20〜30%回復してきたという結果がでているという。そして、今から1万年前に、
氷河期は終わったようであり、6000年前頃には、日本列島は、気候最適期となり、クヌギ・コナラ・クリという木の実
を取る事の出来る樹木が、東北地方にも生い茂っていたようであり、青森県 三内丸山遺跡では、縄文期の大集落
の構造をとっていたという発見があった事は、記憶に新しい事であります。
ところが、縄文末期の今から4000年前頃より寒冷化が始まり、3000年前頃よりその寒冷化が、常態化。東北地
方では、ブナ・ミズナラの冷温帯の樹木へと大きな変動をしていったという。環境考古学では、現在は、間氷期である
という。何故氷河期が来るのかは、定説はないというが、温室効果ガスにより、南半球は、寒冷化の進行が、やや鈍
っているのでは・・・とも言われているようです。
3.尾張地域の地質形成
現在の尾張丘陵に接して、熱田層(木曾御岳の噴火による軽石を含む礫層)と呼ぶ段丘(その段丘の最上面を熱
田面とも田楽面とも呼称)が存在している。この形成期は、市史によりまちまちではありますが、5万年前とも、3万5
000〜3万年前とも、言われております。そして、約10m下がって、小牧礫層ができ、小牧面と呼ばれる段丘が出来
たようで、、一宮市史では、2万6000〜2万7000年前頃に形成されたと記述。こうした地質は、最終の氷河期の時
期でありました。
更に、この小牧面段丘より約10m下がった所に、鳥居松層という礫層ができ、鳥居松面と呼ばれる段丘が、形成
されたという。形成期は、2万〜1万8000年前頃であるという。丁度ウルム氷河期の最極寒期でありましょうか。海
水面は、極度に下がり、河川の浸食で、更に低い場所に堆積するようになったのでしょう。
海面は、まだまだ下がり、そして、現伊勢湾と呼ばれる所にまで、河川の堆積物は、運ばれて居たのでしょう。それが、
現在の濃尾平野の元になった堆積であったと思われます。形成期は、1万2000年前頃でしょうか。その当時、姿をみ
せていた伊勢湾の海岸線には、濃尾弟1礫層(運ばれし礫層)が堆積し、最も海水面が下がった頃、その上に沖積底
部砂層と呼ばれる砂層が堆積していったという。現在の濃尾平野の原型が形造られていたのでしょう。
縄文末期頃には、今から1万2500年前頃より、急速に温暖化が始まり、氷河期は、終焉する事になった。極地の氷
が融け始め、徐々に海水面が上昇、最終的には、現在の海抜5mラインまで海水が進出。沖積底部砂層の上に、沖積
泥層の堆積が、始まったようで、現大垣市街地東南・羽島市街地南・尾西市南・一宮市西部・稲沢市・西枇杷島町の海
抜5mラインが、海岸線となっていったのでしょう。こうした海水面の上昇を、「縄文海進」とも言うようですが、こうした縄
文海進は、6000〜5000年前頃止まったという。
海水面が上昇した事により、先に出来た犬山扇状地の上に更に5mほどの砂の層が堆積し、現在の扇状地の状況を
作り出したようです。(あの守口漬けの2mになろうという守口大根が、この扇状地で作れるようになった環境が整ったと
いえましょうか。)
そして、今から4000年前頃より間氷期の寒冷化が始まり、海水面が、下がり始め、濃尾平野の沖積泥層の上に、沖
積砂層が、約10m程堆積したという。
以上の記述の元は、一宮市史 本文編 上 によります。
4.尾張地域の旧石器人・縄文人の遺跡について
・ 旧石器人の遺跡
尾張地域の旧石器人は、今から3万〜2万5000年前頃から、時期としては、旧石器の弟U期頃には、狩人として
姿を現すようです。( 江南市史 通史 P7 参照 )
そして、氷河期の極寒期では、海水面は、現在より120〜140m程低下しており、晩氷期には、現在の海水面より
40m内外の低位であったという。
旧石器人の遺跡は、小牧市の西ノ島(犬山面の段丘上)、小牧山東、春日井市上八田、梅が坪(田楽面の段丘上)
に散見するという。犬山扇状地上には、遺跡はないという。
・ 縄文人の遺跡
1万3000年前から縄文時代は始まるようです。土器と弓矢を特徴とします。温暖化に向かい始めた頃であり、海
水面も上昇をはじめ、縄文海進が、始まった頃でもあります。そして、その水面は、現在の海水面よりほぼ3mの上
昇をし、今から6000〜5000年前頃止まったという。
おかしなもので、海進が起こると、今まで勢いよく流れていた流れが、淀み、犬山扇状地にも、砂の層が5m程堆
積し、現在の扇状地が作り出されたという。
縄文中・後期 大口町の東藪山遺跡、小牧市の織田井戸遺跡・総濠遺跡は、犬山扇状地の東側の鳥居松段丘
面に存在し、扇状地には、遺跡はみられないという。
しかし、この扇状地上には、大口町 大御堂遺跡(弥生式土器を出土する竪穴住居跡)が存在するという。とすれ
ば、弥生時代までには、この犬山扇状地での堆積作用は、完了しているという事が言えましょうか。
さらに、6000〜5000年前からは、海進はひと段落し、今度は、海の方へと海岸線が、下がっていったようで、こ
れにより、現 濃尾平野の沖積泥層上に沖積砂層の堆積が進んでいく事になったようです。ほぼ10m程の堆積に
なったと言われております
犬山扇状地は、最初 犬山を扇頂にして半径12Kmが、扇端であったようですが、海進後には、扇端は、一宮市
極楽寺・浅井・浮野・岩倉市の八剣、小牧市船津に至る線になったと言われます。
この部分の参考文献は、既述の一宮市史、江南市史。それと扶桑町史、犬山市史の通史編 本文編を参考にし
て記述いたしました。
5.木曽川派流の流れについて
「 この木曽川派流は、弥生時代以降古墳時代までは、安定した流れの位置であり、1・2・3・4之枝川となり、弥生期、
古墳期までは、木曽川左岸一帯は、穏やかな流れであり、洪水が起こりそうのない河川であったという。そうした断定
は、この時期の遺跡の堆積物の層から推察できるという。
これは、木曽川の主流が、現 境川の辺りを流れていたようであるからだと推察できるという。<境川という河川名は、
美濃と尾張を分ける境という意味であるという。・・筆者注> 奈良時代になって、木曽川の主流の一つが、現在の木
曽川と同じ流れの位置に変えたようで、その後は、派流においても洪水を引き起こすようになったという。
木曽川という呼称は、江戸時代になってからのようで、それ以前は、広野川(川幅が、極端に広い故にそのように呼
ばれていたのでしょうか。・・筆者注)と言われていたとか。」 ( 一宮市史 通史 上
参照 )
1之枝川は、石枕川(或いは、青木川ともいう。)で、この流れは、入鹿村で、沢水が合流し、幼川(現 五条川源流)
となって流下してくる途中で、1之枝川は、五条川(ある説によれば、青木川が、五条川に流入するあたりから五条川
と呼ばれたのではと言う。その云われは、巾下川・境川・矢戸川が合流して幼川に流れ込み、その後青木川が幼川に
合流している。之で五本の川が合流した事により、青木川が幼川に合流する落合あたりから五条川と言うのでは。)に
合流し、清洲の横を流下し、現 海部郡甚目寺町の萱津(河口港)で庄内川へと流れ込み、その後伊勢湾へ。
2之枝川は、般若川(或いは、三宅川ともいう。)で、この流れは、稲沢の国府宮神社の横を通り、その上流域で分岐
し、一方は、1之枝川へ合流。他方は、大きく蛇行を繰り返しながら津島へと流下し、3之枝川と合流し、現 日光川とし
て伊勢湾へ。
3之枝川は、浅井川(或いは、日光川ともいう。)で、流下しながら分岐しては合流を繰り返し、一宮のやや上流域部
分の分岐する一方の河川が、2之枝川の流れる稲沢の上流域で合流。他方は、一宮 真清田神社横を通り、流下し、
萩原を通り、津島の前で、再度 2之枝川が合流し、日光川として伊勢湾へ。
しかし、現在の日光川は、江戸時代の早い時期から作られた人工河川であり、一宮・稲沢辺りの排水が、うまくいか
なくなった事による幕府の大規模な工事であった。平安時代にも、やはり排水が滞り、尾張国司の手で、人工河川 大
江川が造られてもいたようであります。
4之枝川は、黒田川で、途中で3之枝川に合流。萩原上流域で、領内川が分岐した一部が、4之枝川に合流し、一
方の領内川は、再度木曽川本流へと帰っていたという。
以上の木曽川派流域の概略は、こうした過去の木曽川左岸一帯の状況は、正確な古地図の地籍図より類推できる
ようで、利用させて頂いた過去の派流域の略図は、各種あり、今回利用させて頂いたのは、総理府資源調査会 「水
害地域に関する調査研究」、或いは、木曽川下流工事事務所 木曽川文庫、 一宮市史等々であります。
こうした見解を述べる方達の一方で、根拠は、はっきりしませんが、「古代の川と地名を探る 濃尾平野の歴史 二」
を著された小池 昭氏は、縄文・弥生期には、現 木津用水の流れている所に、古木津川があり、その川から上記
記述された派流の1・2・3の枝と、幼川(現 五条川)が繋がっていたと記述されていました。
幼川の流量は、最初から木曽川に繋がっていないのであれば、水量は、入鹿村へ流れ込む山々からの川水と前原
等々から流れ下る支流の水量、及び木曽川の伏流水でありましょうから、たいした量ではなかったのではないか。
幼川へ青木川が合流する辺りより上流域に、現 岩倉市の権現山遺跡が、発掘調査され、その結果等が、公表さ
れております。
「各種の調査結果がでているようであり、以下そうした調査から得られた結論のみ記載いたします。
詳しくは、権現山遺跡発掘調査報告書を参照下さい。そのURLを記載しておきます。
( http://www.maibun.com/DownDate/PDFdate/1100.pdf )
まずは、堆積物炭化物の年代測定により 約4500年前から1820年前までの年代測定値が得られたという。
紀元前2000年前頃から紀元200年頃と推定でき、縄文時代末から弥生時代末・古墳時代初期頃かと推測いたし
ますが、どうでしょうか。
花粉化石では、イネ科、アカザ科、アブナラ科の出現率が高いという。
珪酸体(プラントオパール分析法)の分析では、イネ科の検出は、500〜2200個/gと低値であったという。また、キ
ビ族型、葦族型も検出したという。
堆積物の様子から、約4500年前以降の変化について、この遺跡近くには、木曽川に匹敵する流路があり、通常時
は、網状河川でありますが、突然の河川の流路変更(洪水カ)があり、網状河川が移動し、後背湿地化したり、自然堤
防へと変化したと思われる変化が、推測出来るという。
*
やはり、五条川流域でも大きな洪水が起こったようで、長い年月の間には、河川の流路変更が起こり、土地の状
況が変化したようです。その為、同一場所の継続した発展は、望むべくもなかったと言えましょうか。
自然堤防化した時、その微高地に村落ができ、しばらくは、生活できえますが、河川の流路変更により、自然堤
防は、あっという間に後背湿地化の危険も併せ持つという危うい状況下での集落構造であったようです。100年に
一度。1000年に一度という確率で起こったことでありましょうか。
また、この権現山遺跡での水田は、稲作が行われていたようですが、稲作が、全てでは無かったかと。キビ、ア
ブラナ等の畑作も合わせて行っていたと思われます。権現山に住んでいた弥生人は、いったいどのような物を食
べ、生活を維持させていたのであろうか。縄文人とは、弱冠違った生活サイクルであったであろうが、稲作にどの
程度比重を置いていたのでしょうか。木の実等も収穫していたのではないかと・・・想像いたしますが・・・。
ここで、言いたい事は、この遺跡の近くを木曽川に匹敵する流路があり、通常時は、網状河川であったようですが、
突然の流路変更があったと考えられると。」
「また、更に、この遺跡近くに 猫島遺跡があり、この猫島遺跡は、一宮市千秋町塩尻にあり、五条川・青木川によ
って形成された微高地上(海抜7.5m)に立地する遺跡のようですが、猫島遺跡は、弥生時代前期末〜中期前葉
頃に、大規模な洪水に見舞われている。そして、弥生時代中期中葉後半〜弥生時代中期後葉頃 再度大規模な洪
水に見舞われ、そして、この猫島遺跡の集落は、終焉したようでありますという報告もあります。」
( 詳しくは、http://www.maibun.com/DownDate/PDFdate/nenpo11/01neko.pdf を参照されたい。)
こうした記述の木曽川に匹敵する河川が、近くを流れていたとすれば、この河川は、幼川か、青木川でしかない。
一宮市史 上の記述とは、弱冠食い違う結果であるようです。根拠ははっきりとはしていませんが、事実から推し量
れば、小池氏の言い分も一理あるのではとも思えてきます。木曽川が、かって広野川と言われ、幾筋もの流路で、流
れ、かって美濃と尾張の境となった境川(広野川の一部)が、その本流筋の流れであった頃(古墳時代まででしょうか。)
は、扇状地を流下した木曾派流は、通常は、穏やかな流れであったのでしょう。ひとたび上流域で大雨(豪雨)が降れ
ば、穏やかな派流も、洪水を起こす流れになったていたのでは、それが、100年単位の頻度であったのでしょうか。
現在は、10年単位で、集中豪雨が頻発するようになり、伊勢湾に注ぐ大河の人工連続堤防により、かっての自然
堤防よりは、強固でありますから洪水は、減少したでしょうが、天井川化している為、支流の小河川は、うまく大河へ
流入出来ず、内水氾濫の常習地は、常に氾濫の危険と隣り合わせの状況かと推察いたしております。
こうした派流域には、自然堤防と後背湿地帯が伴い、自然堤防上に、弥生期・古墳期の住居、古墳等が立地して
いたようであります。
「今伊勢古墳〜浅井南古墳は、日光川の自然堤防上、三宅川の自然堤防上には、国府、尾張国分寺が、日光川
と三宅川が最も接近し、水路で繋がり、二つの川の自然堤防は、一宮の真清田神社付近では、繋がっていたであり
ましょう。最も美濃寄りの三宅川の自然堤防上には、黒岩廃寺が、三宅川と浅井北古墳に挟まれて築造されていた。
桑名郡榎撫駅(伊勢国)からは、水路で津島に至り、三宅川を遡上する交通路は、古代尾張の主要幹線水路であ
ったという。また、青木川、五条川が、、庄内川に合流する辺りに、萱津(海部郡甚目寺町)という河口港があり、この
萱津と下津(稲沢市)とは、水路により繋がり、水路交通が存在していたという。また、下津と一宮は、自然堤防の陸路
でも繋がり、行き来できる距離であったという。」 (一宮市史 通史 本文編 上 弟5節 沖積平野の小地形と環境
参照)
付記
清洲の大規模弥生時代の朝日遺跡は、現 五条川の中流域でありますが、弥生時代では、もっと海岸線は、奥まで
きていたと推察され、朝日遺跡からは、貝塚も散見されている。一宮の真清田神社は、かなり遅めの時期に創建され
たのではと考えておりましたが、派流の流れは、通常時は、穏やかな流れであったのでしょう。
伊勢湾への流下河川に流れ込んでいる支流域が、弥生時代の初期の定住地ではと従来考えておりましたが、これ
なら初期から木曽川派流域での弥生初期時代でも定住可能であったでありましょうし、事実 清洲の朝日遺跡は、そ
の最たる遺跡でもありましょうから。
また、この時期は、水運が、陸路よりも良く使われていたとも知りえました。こうした当時の状況を知っておらなけれ
ば、正確な推察やら、類推も出来かねましょう。
再度、弥生から古墳期に至る遺跡、遺物をこの木曽川派流域図に置いてみて、再考する課題が、出てきたとも言え
る状況になってしまいました。
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参考文献
・ 新編一宮市史 本文編 上 昭和52年
・ 江南市史 本文編 平成13年 江南市教育委員会 江南市史編纂委員会
・ 扶桑町史 昭和51年
・ 犬山市史 犬山市教育委員会 市史編纂委員会
・ 権現山遺跡発掘調査報告書 愛知県埋蔵文化財センター
・ 猫島遺跡発掘調査報告書 ( http://www.maibun.com/DownDate/PDFdate/nenpo11/01neko.pdf )
平成24(2012)年12月18日 17:25
最終脱稿
平成25(2013)年3月1日 16:50 加筆修正