塩の道 再考

            1.はじめに
               私が幼少であった頃、我が家のお勝手場(カマド・調理場・水場等を備えた場所)に俵に入った荒塩が無造作に
              置かれ、そこから塩水が垂れていた事を思い出す。昭和30年代前後頃であろうか。
               どこから塩俵を購入してきたのかは聞きもしなかったから不明であります。

               わが国の塩の専売は、明治38(1905)年〜1997年(平成の世)の間であったかと。それ以前では、自由販売で
              あり、各自は、無くてはならない塩をあらゆる手立てで入手していたのでありましょう。
               それ故、塩がなかなか入手し辛い状況も地域ではあったのでありましょう。
               そうした状況を明治10年 東京から北海道まで旅をしたイザベラ・バード(イギリス婦人)さんが著した「日本奥
              地紀行」(平凡社・東洋文庫)では、東北地方の人達の不潔さ・きたなさ・吹き出物の多いことを、目の悪い事等を
              あげておられる。女史は、非難的に記述されているのではなく、日本人の優れた素質を理解されたうえで、触れて
              いるようです。

               原因は、色々ありましょうが、風呂へ入らない事も原因の一つでしょうし、塩分不足が絡んでいたのではあるま
              いか。吹き出物が、減少していったのは、明治38年以降でありましょう。塩の専売制が施行され、隅々まで、塩が
              充分行き渡るようになってからでありましょうか。

             2.宮本常一著「塩の道」について
               製塩の歴史
                現在の歴史学では、東北地域青森の太平洋側の沿岸では、縄文期には、海水から塩を作っていたという事が
               知られるようになっている。

                弥生期では、東北地域の太平洋沿岸地域・津軽海峡に面した青森県沿岸部でも、朝顔型に開いた製塩土器で、
               海水を煮詰めて塩を作っていた事は、考古学の分野から知られる。こうした製塩土器は、全国から発掘されている。
                それによると、日本各地の沿岸部の自然浜で土器による塩焼きが、行われていたのでしょう。(同書 P.25の自
               然浜の分布図 参照)

                そして、内陸部からもこうした製塩土器が発掘され、塩は、煮詰めた土器のまま運ばれたようです。狭い地域間
               交易が、想起されるという。弥生期からしばらくはこのような方法であったのでしょう。

                宮本氏は、戦前の事として、新潟県の山の中の古老からの聞き取りとして、「塩の入手方法は、冬に山へ行って
               木を切り、それを川のほとりまで持ってきておく、雪解け時、川の水量が増える頃一軒一軒の者が、自分のうちの
               木に印を付けておき、木を流し、川に沿って海岸まで出て行き、河口には、綱が張ってあり、流れ着いた木を引き上
               げ、その浜で一軒一軒が塩を焼く。そして出来た塩を持って再び山の中へ帰った。」と。しばらくは、この方法で行う
               のだが、不便だということで、海岸の人に焼いて貰う為、以前の倍の木を流し、半分は、海岸用に木を渡し、残りの
               木で山用の塩を焼いて貰い互恵関係で塩を手に入れるようになったと。

                江戸期になり、瀬戸内の塩が出回るようになると、地域での塩焼きが廃れ、山の中の人は、瀬戸内の塩を購入す
               る為、薪として、海岸で船に積める形にして、船に積み、新潟の町屋の燃料として売り歩き、そこで得た金で塩を買
               って帰るようになったと。

                また、同氏は、山形県の山の中の古老からの聞き取りとして、「ここでは、自ら浜へ出かけて、塩を焼く話は聞け
               なかったが、塩木を送り、塩を焼いて貰った。」と。その後、川沿いの海岸より奥手に鶴岡という町が出来、そこで
               鶴岡で、木を引き上げ、薪にして、売る。その金で、海岸まで行き、塩を購入するようになったと。

                                更に同氏は、昭和18年頃の事として、美濃の山中を聞き取りされた時「昔は、やはり海岸まで塩木を出して、旧
               揖斐川河口辺りで塩を焼いていたものだが、瀬戸内の塩が、入って来るようになってからは、塩木を塩木ではなく、
                              薪として売って、その金で塩を買う習慣が残っていた。」と。

                氏は、以上の聞き取りから、どんな山奥に住んでいる人でも、自分が必要としている物は、自分で採りにいく以外
               方法が無かったのだと感じられたようです。

                製塩土器を使って塩を作る作業は、平安時代までみられたろうと同書 P.24で述べてみえた。
                その後、もっと効率的に塩を作る方法として、古式入浜式。二つの方法があり、揚浜(アゲハマ)式と入浜式であり
               ましょう。やや揚浜式が古く、自然浜で行われていた方法とか。煮詰めるには、土釜が使用されていたかと。

                揚浜は、海岸よりやや高くなった所を粘土で固め、その上に砂をまき、そこに海水をかける。天日で海水を蒸発さ
               せる。それを繰り返し、濃いカン水を作り、煮詰める方法。
                入浜は、河口に出来る三角州のような潟で、塩の干満を利用し海水の蒸発した砂を集め、更にその集めた砂に海
               水をかけて、濃いカン水を作り、煮詰める方法とか。(瀬戸内に多いとか。)ー>塩浜(人工的に石垣を築いて作る)
               へ。

                土釜ー>鉄釜へと移行したようだと。鉄釜の欠点は、錆び。白い塩が出来にくいと。片麻岩を利用して、片麻岩は、
               雲母のように薄く平ぺったく割れる特性を利用した小さな岩の板を敷き並べ粘土で固めてその上に粘土を置き、大き
               な釜にして塩を焼いたとか。(これが、土釜であろうか。)
                少量生産から大量生産が可能になっていったようだという。

                大量生産が可能になった頃は、生産者が自ら売り歩いていたと。そうした例として、日本海側の越前浜・角田浜・五
               ヶ浜・角海浜の村々は、揚浜式の製塩をしていたようで売り歩いていたと。

                江戸時代の中頃あたりから瀬戸内の塩がたくさん入って来るようになると太刀打ち出来なくなり、生産を止めたとい
               う。
                それに代わって、毒消し売りの商売替をしたという。塩の商圏を、毒消しの商圏に切り替えることで生計が成り立て
               たという。この記述までが、氏の「塩の道」であります。

                しかし、その後も細々とではありますが、揚浜式の製塩は行われていたようです。明治期になって製塩は、完全に
               消滅したと。明治の塩専売制の施行によるようです。毒消しの振り売りには、村落の女性がになったと。
                                詳しくは、https://www.jstage.jst.go.jp/article/jrs/11/2/11_56/_pdf  を参照されたい。

             3.信長の頃の塩販売
                詳しくは、http://repository.ul.hirosaki-u.ac.jp/dspace/bitstream/10129/2094/1/BunkaKiyo_26_31.pdf
               及びhttp://repository.ul.hirosaki-u.ac.jp/dspace/bitstream/10129/2162/1/AN00211590_91_15.pdf を参
               照されたい。

                上記論文より、瀬戸大市における永禄6(1563)年 瀬戸宛て信長制札から、この当時の商人の様子が垣間見ら
               れる。
                中世の頃には、畿内では、塩座・塩魚座・淀(京都市内)魚市の塩・塩相物座の座役徴収権は、十河民部大夫が知
                              行していたが、信長が畿内を統一した頃 堺の豪商 今井宗久に与えられたと。
                その当時、座役は、公家衆の東坊城家・三条西家・西園寺家が、本所(所有権者)であり、その本所へ納められてい
               たという。
                上記論論文でも、瀬戸窯は、猿投窯以来の古い歴史と大きな規模を持った陶工集団であり、中世では、瀬戸窯は、
               熱田神宮を本所とする座であったのか、幕府を本所とする座であるかは、今後の研究課題としつつ、永禄6年には、
               瀬戸窯は、既に加藤市左衛門尉景茂等に信長より裁可されている。市場については、瀬戸市品野在住の加藤新右
               衛門方に残された信長制札(永禄6年12月)より知られる。

                戦国時代の瀬戸陶工は、戦乱を避ける為、信長制札を持参して、美濃 可児地域の山奥へ移住し、製作している
               ようで、詳しくは、拙稿 脇郷での鎌倉時代末、室町時代の山茶碗窯についての覚書 及び 下記の拙稿を参照され
               たい。拙稿 伝承としての昔話にひそむ 中世末から近世初頭の多治見村脇郷を垣間見て  

                東濃地域の山茶碗が衰退したのは、瀬戸の陶工等が、大挙して美濃入りし、自然淘汰された可能性がありましょう
               か。しかし、そうした時期でも瀬戸では、高級品の茶碗と共に日常品の山茶碗類が盛んに造られ、この市場にて、売
               買されていたのでありましょうか。また、瀬戸物は、生産者が、販売をもしていた事は、可児市史 通史 第1巻 第5
               章 P.470〜471から類推できましょうか。詳しくは、同書参照。

                 「戦国時代の可児の大平の陶工集団(加藤家の大平窯由緒書 「可児町史 史料編所収」に書かれていることでは
                あります。)が、慶長5(1600)年 関ヶ原の戦いの折、西軍の岩村城主 田丸具忠が、東軍の千村・山村両氏(徳
                川方)を討とうと五斗蒔街道を北上した。その時大平の陶工集団は、これを迎え討ち、東の口で撃退した。その結果、
                木曾衆や妻木氏から褒章をを受け、ねぎらいの言葉を受けたとある。陶工集団は、日ごろ馬術(陶器運搬の馬で)や
                弓や鉄砲(狩猟のためであろう)の練習、剣術の稽古などに励んだのが報われたと、喜んだことが記されていたという。
                 生産と販売が分離される前の戦国時代では、命を掛けて集団で消費地に向かわねばならなかったのであり、自衛の
                ために武器を持っていたのであろう。」と。
                 製品運搬中に盗賊や野武士たちに襲われても負けないだけの戦力を身につけていたと思われる。                              

                永禄6年は、稲葉山城を攻略する4年前であり、ほぼ尾張を統一していた頃でありましょうか。この瀬戸宛て制札で、
               瀬戸物商人(男の商人)と「白俵物・塩相物」商人(女の商人)とが相反しており、女の商人は、瀬戸市に於いて商人宿
               内での市(イチ)での瀬戸物購入が出来ず、市(イチ)の横道で、密かに購入していた事を停止、双方が自由に市にて売
               買する事を許し、市場の支配下に塩等の商人を入れた事でしょうか。通行自由・関(セキ)税撤廃は、いうに及ばない事
               柄ではあります。

                それまでは、それぞれの商人(瀬戸物商人・篠島商人等々)は、独自の商圏を持ち、独占流通圏を主張して対立して
               いたし、中世の座は、一商品一座制度であり、古代の市(イチ)の制度を引き継いでいたのでしょうか。
                古代の市(イチ)が衰退したのは、生産者による振り売り(行商)が行われるようになったからともいう。そして、再度市
               (イチ)が復権したのであろうか。

                白俵物・塩相物商人は、そうした意味では、鋸(ノコギリ)商法であり、行きに塩商品を運び、帰り馬で空になった馬に瀬
               戸物を積み商いを行う別個の商人であったようです。
                しかも、塩は、「中世商品の大宗」とも言われ、塩・塩相物流通網が、日本社会の隅々まで毛細血管のように張りめぐら
               されていたと言われるほどの商品ではあったからでしょう。

                中世の座では、徒弟制度が貫徹し、生産者が強い権限を持ち、販売人は、下人的な扱いであったと言う。この信長の
               瀬戸宛て制札で、下人的な販売者の立場が開放されたとも解釈されているようです。
                しかし、市場の管理下に全ての商人は置かれ、支配されていったようだとも。

                更に上記論文では、市(イチ)が開催される日以外にも、日常的に商人宿の1階部分で交易が行われもしたし、飲み屋
               でもあり、博打・男女の密会も行われていた盛り場であったとも言われるようであります。日常的な食料品等々の交易の
               主体は、女性であったとも述べてみえた。
                とすれば、日本霊異記に記述された岐阜の長良川右岸に出来た「小川市」も日常的な食料品等々の市(イチ)であった
               のであろうか。古代でも郡司の保護下での市開催で、市場税を取っていたのでありましょうか。尾張大隅が、関ヶ原に別
               業(別荘)を有していた事も陸路の交易を含んでいたともとれましょうか。

                果たして史実はどうであったろうか。

             4.江戸期に於ける東濃地域の塩の道
               拙稿にも、江戸期の多治見地域の塩の道を記述致しました。 
                  「牛がばんば」の考察    −木曾谷中馬(中牛)との関わりを求めてー であります。
               しかし、江戸期では、下街道が主の塩の道であったようです。江戸中期頃では、尾張国 内津峠の名古屋寄りに内津があ
              る。そこの住人が、商人となって運送・販売・行商をしていた。
               詳しくは、拙稿 江戸時代における東濃での生活必需品購入についての一考察 を参照されたい。

               尚、多治見側には、池田町屋があり、江戸時代初期頃は、藩士の祭地であり、言い伝えによれば、馬市・市場が開催され
              たともいう。下街道に近い所であったでありましょうか。

             5.むすび
                こうして見てくると、塩という商品は、縄文時代からの隠然たる価値を持った品であり、この塩が運ばれた道が、塩の道
               であり、河川沿いに開けていったようです。小さな流通圏から次第に大量生産が可能になってくると広域な流通圏へと変
               貌していったのでしょう。

                河川を利用した船での運搬・河川移動が不可能な地点へは、馬・牛による俵物移送。それも不可能な峠移動には、人に
               よる移動で移送されたようです。


                                                                    平成27年4月19日   脱稿