室町中期頃の遠隔地商業に於ける利益と尾張円覚寺所領富田荘の在地構造の特質と変遷

        1.はじめに
           「荘園の商業」 ( 佐々木銀弥著 吉川弘文館 昭和39年版 )のP.231に、「矢野庄 那波浦市(いち)
          における米和市(こめわし)=相場は、東寺の下行桝(京桝とも違う、商品流通専用の桝カ)一石当たり600
          文前後で停滞していたという。一方京都の米和市は、次第に上昇し、永享10(1438)年には、最高値 一石
          当たり1貫429文に達したという。」( この事例は、史学雑誌 66−1 百瀬今朝雄氏の研究成果から引用
          されたという。)事のようであります。

           通常 江戸期では、米 一石と言えば、成人男子が一年間で消費する量に相当すると言われておりました。
           現在は、おそらく一石を切っている消費量ではないかと推測いたしますが、その当時は、副菜も少なく、米さ
          え食えば、生存出来たのでありましょう。一方では、米さえ食せられない階層の方々もあったやに思いますが・・。

        2.相場差から生まれる利益
           室町中期頃には、遠隔地商業も行われ、畿内の有力商人は、遠隔地へと出向き、地方の荘園内の市場で、
          放出される米等を買い上げ、水陸運送業者に委託するか、自ら運送し、畿内(京都)市場・港湾市場にて、売
          り出していたと思われます。

           先述の永享10(1438)年の京都の米和市=相場 一石当たり 1貫429文であったようで、100石の米を
          売れば、元手一石当たり 600文とすれば、粗利益 82貫900文程になり、200石であれば、160貫文近く
          の粗利益になりましょうか。運送費・手間賃等を除いても相当な額が、手元に残る事になりましょう。

         3.円覚寺地頭職(所職)からの年貢等の収納高と支配する在地構造の変遷
           少し時代が古いのですが、尾張 富田荘で、地頭請をしていた鎌倉円覚寺は、弘安6(1283)年時、この荘園
          からの上がりは、「年貢米 1428石8斗、年貢銭 1506貫868文」であったようです。

           そして、この円覚寺の一年間の寺費用は、寺用米 1373石7斗 寺用銭 1745貫文であったようで、一つの
          荘園の上がりだけで、鎌倉 円覚寺は、まかなう事ができえていたようであります。その上に、篠木荘からも地頭
          請にて、実入りはあったようであり、不足した場合には篠木荘から補填できえたようであります。最高所持分は、
          5ヶ所であり、南北朝期には、3ヶ所に減じていたという。
           足利時代初期にも、かろうじて富田庄・篠木荘等の地頭職を保持しえていたようです。

           参考までに、この富田荘の荘園から実質年貢等として地頭が受け取っていた分は、、「年貢米 1428石8斗、
          年貢銭 1506貫868文」であり、それを負担したのは、富田庄の名主16名。番衆20名でありましょうか。
                        単純計算でも、年貢米 1428石を名主と番衆計 36名で納めたとすれば、一人当たり 約40石相当(鎌倉市
          史 史料編 2の14号文書 「円覚寺米銭納下帳」にも、政所個所の下に 斗上米 47石2斗2升と記述があり、 
          この意味が不明でありますが、この数値に近い値であり、もしかすると賦課率でありましょうか。・・筆者注)であり、
          年貢銭 1506貫文を納めていたとすれば、一人当たり 約41貫文強となりましょうか。それでも、在地には、まだ
          幾分かの剰余があったのでありましょうか。

           「円覚寺領としては、富田庄( 伊麦・新家・草壁・得真・富田・服織・鳥海・春田・稲村・横江・上下稲真の12里と
          16の名からなっていた。)の外、成願寺、隣接する富吉庄の河辺・牛踏・蟹柳・鷲尾の4郷からなる加納分も含め
          て円覚寺領」( 「尾張国内 円覚寺領について」 大三輪龍彦氏の論文 学習院大学所収 参照 )とされていた
          ようでありますから。この実入り分は、富田庄だけではないかも知れません・・・。 

           幸いその富田荘の絵図が存在し、それをトレースした絵図が、HP上に存在していた。それは、愛知県埋蔵文化
          センターの報告書であり、http://www.maibun.com/DownDate/PDFdate/kiyo05/0505chuk.pdf  であります。

           その絵図には、一番右側に川が記入されており、庄内川であるようです。その上流域で、流入している河川が、
          五条川でありましょうか。萱津宿もあり、更に上流には、萱津神社があったのでは・・。

           そして、庄内川は、分流が2つでき、最初の分流が、西側へ流れ大きくカーブしながら海へと流下していたようで
          す。その中間流下左岸辺りに 蟹江なる里が存在していたようです。現在の蟹江辺りなのでしょうか。

           庄内川は、そして、かっての成願寺(明治の地籍図上では、砂子村北部辺りが比定されている。愛知県埋蔵文化
          センター報告書 参照)を過ぎると大きく二分して分流し、東側の流れが一番蛇行が強く、西側の流れは、蛇行がほ
          とんどない流れになっている。元々の富田荘は、西側の流れの右岸側であり、一部左岸側に春田・上稲真・下稲真
          と一部服織里が存在していたようであります。

           富田荘の政所は、横江里にあり、西側の流れの右岸よりの富田荘最下流域にあったようです。

           更に、南側にも土地が存在しているようですが、弘安6年頃には、富田荘ではなかったのでありましょうか。その当
          時には、使用できるような土地ではなかったか。(塩入り干潟状態であったのであろうか。)或は、葦原であったかも
          知れない。

           東側には、一楊御厨(伊勢神宮の荘園。)があり、鎌倉期以降、北条氏の力を背景に、富田荘は、押領を繰り返し、
          支配地を広げて行ったのかも知れません。鎌倉幕府が倒れて以降、かっての後ろ盾が無くなり、押領した地域を奪
          われていく事になったのでありましょう。
        
           その当時の領家への支払いは、不明でありますが、45年後の嘉暦2(1327)年の再度の地頭請契約時には、
          「地頭方が、毎年11月中に請料 110貫文を京進する事」になっていた。領家方の一つの荘園からの上がりは、一
          年間で、110貫文であり、この一つの荘園だけではない筈でありましょうから、一年間で一体何千貫文の実入りが領
          家方にはあって、成り立っていたのでありましょう。 

           仮に、一石当たり 600文とすれば、110貫文は、米 183石分に相当しましょうか。在地相場での換算であり
          ますから、京都では、もう少し少なくなるのでありましょう。一つの庄園からの上がりで、まず1年間 100人は賄え
          る量ではありましょうか。考えてみれば、この上がりは、現代で言えば、親の七光りの預貯金が、利子を生んでいる
          ようなものでしょう。京都に住む庄園の寄進を受けた方は、働かなくても実際には、待っていれば、入ってくる物であ
          りましょうか。

           尾張における中世の禅寺円覚寺は、所詮所領を一円支配する事はしなかったようで、いわゆる地頭職という
          所職の上での利益を享受していたのであり、その下部では、在地領主層(有力名主等)を包含している構造とな
          っていたのでしょう。守護等の侵略{ 14世紀中ごろには、派手な衣装に身なりを整え、既成の権威、道徳をも
          のともせず、平気で好き勝手なことをする連中を婆沙羅(ばさら)と言っていたとか。或いは、悪党とも呼称されて
          いた者達による押領等}の前には、無力であったようです。

           美濃・尾張・伊勢の三国守護であった土岐頼康の弟が、尾張の富田荘の北側飛び地( 五条川と庄内川の最
          初の分流で囲まれた地域)を押領し、再三訴えられ足利幕府より停止命令が出されたにも拘わらず、無視を決
          め込んで引き続き押領をしていたようですが、何らのお咎めもなかったという。

           兄 土岐頼康との共謀の上での出来事ではありましょうが、実質は、弟の単独行動とされ、美濃の土岐氏の傍
          系も篠木荘へ侵略し、押領していったようであります。

           こうした事柄が一因でありましょうか、三代将軍 足利義満は、謀略を持って、この土岐一族同士で争いを起こ
          させ、足利将軍に逆らったという理由により、三国守護を解任し、協力した土岐一族の者を美濃一国守護に任命
          したようであります。(  多治見市史から垣間見える美濃、東濃地域における土岐一族の動向についての要約
          詳しくは、拙稿を参照されたい。)