小牧市下末地区に存在する下末古墳を訪ねて

          1.はじめに
             拙稿 小牧・春日井を流下する縄文・弥生・古墳時代の大山川流域の概観 でも一部述べてありますが、
            春日井市牛山地区に流れ込んでいます西行堂川の上流域の河川流域に存在します下末古墳を一度、こ
            の目で確認いたしたく、平成26(2014)年4月3日(木)に愛車を走らせ、訪ねました。

             古代にも、西行堂川が流れていたのでしょう。現在は、この西行堂川(源流域は、小牧市下末を水源と
            する川)は、大山川より東側を流下し、自衛隊小牧基地辺りで大山川に合流しているようであります。

             下末古墳の場所は、ヤフー地図で示せば、以下のURLにて、確認できましょうか。
              ( http://maps.loco.yahoo.co.jp/maps?p=%E6%84%9B%E7%9F%A5%E7%9C%8C%E5%B0%8F%E7%89%A7%
E5%B8%82%E4%B8%8B%E6%9C%AB&lat=35.2830569&lon=136.9561787&ei=utf-8&datum=wgs&lnm=%E4%B8%8B%E6%9C%AB%E
5%8F%A4%E5%A2%B3&idx=33&v=2&sc=3&uid=c4c84efe1d47ffe7d71e61a19072aa002669d123&fa=ids
  参照)
                                 
             私は、自宅から桃花台ニュータウン内のアピタ桃花台店を東西に走る幹線道路にて西に向かって走り、
            西行堂川の源流域にあるアイリスオーヤマ(旧 椅子のホウトク)沿いにある7・8世紀頃のたたら製鉄跡
            地を右に見て、中央高速道路横を走る側道沿いを更に西に移動、155号の旧道を南に進み、下末を流
            れる西行堂川の支流であり、源流の流れが、交差する辺りに愛車を止め、そこから南西方向へと徒歩で、
            探しながら移動いたしました。左手には、水田があり、右手側は果樹園だったらしい空き地の中に、こん
            もりと盛り土状態の所を見つけ、近くで作業をされていた御婦人に、「あの盛り土は、何でしょうか。」とお
            聞きしますと、「古墳ですよ。」と教えて頂き、古墳ののぼり口まで案内して頂きました。気さくな方で、以前
            も、ここを訪ねてカメラを持った方がみえましたが、「お仲間ですか。」とも尋ねられた。「違いますが、そう
            ですか。」とやりとりしているうちに着きました。

             確かに階段状ののぼり口がありました。県道27号線より10m程高い田楽層上にある旧道が、20m先に                         
            見えておりましたが、人が通れる程の細道であり、旧道沿いには、民家が建ちこんでおり、これでは、この古             
            墳の位置は、車からでは、判らない筈であります。

                            参考までに、江戸期の下末村絵図(小牧市史 資料編2 近世村絵図編 P117 参照)で古墳を確認す
            れば、”古天神松”という記載であり、古墳とは、記載されてはいないようです。
             おそらく”古天神松”なる記載は、江戸期には、後述します式内社 魚江天神の天神が、伝承として残った
            のではないかと推測致します。

          2.下末古墳を訪ねて
             遠くからは、こんもりとした盛り土状態であり、確かに古墳の形状を残しておりました。二段構成の後期古
            墳の部類に属するかとも思いました。そうであれば、相当大きな勢力であったかと。
                            南山大学学術叢書「地籍図で探る古墳の姿(尾張編)−塚・古墳データ一覧」伊藤秋男著 人間社 2010
           年3月版 P.141には、下末古墳は、円墳カと記述されていますが、 この古墳の原型は、前方後円墳ではなか
           ろうか。

              * 「確かに前方後円式の古墳で、今は前方部は大部分破壊せられ、後円部も一本の大きな松のあるのと、
              宇江社が近年迄存して居た為(今も其の跡に小祠が残つて居る)、辛うじて破壊をまぬがれて居る。古老の
              いふ処によると、小祠の横に立てゝある大きな石を指して、この石がこの処の地中にふさつて居て、其の下
              にこの―小祠の壇に積んである―沢山の石があつたと語られた。
               思ふに石を積んで石棺式の石室を造り其の蓋に其の大きな石がふせてあり、其の上に盛土のしてあつた
              のではないかと思はれる。
               前方部の処に土器の破片が散乱して居た、拾つて見ると須恵の円筒埴輪の破片である。埴輪は普通土師
              で作られてあるが、近畿地方に限り須恵質のものがあり、東は本県の三河にまで及んでゐる。熱田の断夫山
              古墳や白鳥古墳の円筒も須恵である。
               陶主山(下末古墳の別名カ)周囲に堀のあつた痕跡も見られる。尚又附近にも塚があつたといふが、今は田
              になつて居る、小さい陪塚のあとであると思ふ。」(『愛知教育 第五百六十四号(昭和九年十二月号)』所収『郷
              土史料をあさりて』1934年(昭和9),山村敏行・伊奈森太郎 「五二一、陶主山古墳と宇江社」より引用)という
              記述。
               上記文言を直接ご覧になりたい方は、愛知県立図書館所蔵 愛知教育 マイクロフィルムとして保存されてい
              ますので自ら図書館に出向いてみてください。( https://websv.aichi-pref-library.jp/list/sz/micro.pdf  参照 )

               *  諸本集成 倭名類聚抄 外篇 (別名 日本地理志料)からみた春日部・山田・丹羽郡について の春日部
               郡内 池田郷の記述中に「乎江の神社、本国神名帳魚江天神作る、本荘村の宇江山に在り、本荘は、即ち荘
               司の宅の所」が存在する。この著者は、池田郷=平安期の味岡荘と把握されているかのように読み取れる。
               『郷土史料をあさりて』にては、下末古墳上に宇江社がかって存在していたと。

              *本国神名帳 写本(愛知県図書館所蔵)を閲覧すると「従三位 別小江(ワケヲエ)天神 1ニ(入カ或いは大カ)江ニ作
              ル 神社考燈曰乎江神社若子宿禰( 更に隣の行には、)按旧事紀物部印葉連之弟大別連カ」とある。
               若子宿禰とは、尾張馬身の子 若子麻呂の事ではなかろうか。とすれば、乎江神社と若子麻呂の間には、何らか
              の関わりがあったという伝承の存在を推測いたします。また、本国神名帳には、従三位 乎江天神 魚江天神カも別
              社として記載されています。
                                     (  詳しくは、 https://websv.aichi-pref-library.jp/wahon/pdf/1103267241-001.pdf   を参照されたい。 ) * 

            以上の事柄を私なりに推考すれば、本国神名帳には、従三位 乎江天神は、確かに存在していた筈。創建氏族の衰退
           等で江戸期には、既に廃絶されていたのでしょう。江戸期の天野氏にしろ、明治期の日本地理志料を書かれた著者にしろ
           資料等から推考された結果を記述されていると推測致します。

            この二氏を超えるには、新たな史料等がなければ、現代の私達では、かなわぬ事柄でありましょう。所詮は、辻褄合わせ
           程度にしか推論は出来ませんが、敢えて記述すれば、別小江天神は、乎江神社を意識した創建ではなかろうかと。
            尾張草香と同時代前後に在地で勢力を蓄えていた氏族の存在を推測致します。確かに尾張氏は、尾張国の国造であっ
           た事は史実ではありますが、その当時の国は、現代のような区割りではなく、支配が行き渡った範囲内に留まっていたの
           ではなかろうか。その当時は、尾張氏を中核にした連合氏族国家内の様相を呈していた可能性が高いのでは・・・。そして、
           6世紀頃、権威の象徴として、古墳と古墳での祀りを通してその支配力を維持していた。その頃の最大規模の古墳には、尾
           張国内では、須惠製の円筒埴輪を置き、陪塚を禁止していたと推測する。

            しかるに、下末古墳は、陪塚の存在カと須惠製の埴輪カが併存していた可能性が高い。熱田や勝川の古墳より若干築造
           が早いように思われます。とすれば、古代の勝川は、6世紀代のどこかで途絶え、再度7世代末頃居住されるようになった
           のは、史実であり、天変地異カ何らかの事情があったと推測出来る。この勝川周辺の遺跡を物部氏系と捉えれば、八田川
           水系及び西行堂川水系は、同氏の支配領域と推定したい。
            その理由は、二子山古墳には、物部神社が、下末古墳には、従三位 乎江天神 魚江天神カ(『郷土史料をあさりて』の
                        下末古墳上に宇江社カ・・私の推測)が祭られている事でしょうか。しかし、祖先の墓に神社を建てえるものだろうかという一抹
                        の危惧はありますが・・・・。この辺りは、後に尾張氏一族の支配領域化したと私は推測します。

            それでは、本国神名帳に記載された従三位 乎江天神をどこに比定するかですが、それは、諸本集成 倭名類聚抄 外
           篇の春日部郡内 池田郷の記述中に「乎江の神社、本国神名帳魚江天神作る、本荘村の宇江山に在り」から現 小牧市
           本庄にある「八所社」ではなかろうかと。現 「八所社」は、天正期(16世紀頃)頃の創建という謂れがあり、その場所が、
           そうであろうと。「八所社」は、山の裾野辺りに創建されている。その山が、以前の本荘村の宇江山であったのではなかろ
           うかと推測致します。そして、尾張馬身の嫡子 若子痲呂と何らかの関わりがあったのではなかろうかと。

                         * 在地の口伝を基に記述されたでありましょう東春日井郡誌内には、「小牧市大字本庄にある八所社は、式内乎江神社にて、
            氏子は、近郷田中村・文津村・小松寺村・本庄村の4ヶ村であった。然るに正慶年中(1332年〜)兵乱の為、消失して絶社。
            天正3年 肥前平戸城主 松浦肥前守の舎弟 松浦讃岐守勝政が、当地に帰農し、社殿を再興。」したという記述があるよう
            です。*

             本題に戻ります。
             戦時中は、地区の防空壕として活用されていたとか。周りは、果樹園らしい形態でありましたが、以前は、水田で
            あったとか。おそらく西行堂川の上流域であり、その水を利用した稲作が行われていたのでありましょうか。上流域
            には、与兵衛池(江戸期の絵地図では、この池は、西行堂川とつながっていた。・・私の注)が現在も残り、この池は、
            田楽地内用の池であったようです。そして、下末古墳南を流れる西行堂川の流れが、下末と田楽の境川であった可
            能性が高い。

             この辺りの水量は、現在ではあまり多くない水量かと。最初に住み着いた弥生人が、後期に住み着いて継続して
            生活できうる地域かと、或いは、牛山辺りからの移住であったのか判りかねますが、相当古い時代からこの辺りは、
            開けていたのでしょう。少し高台(田楽層)であるようで、すぐ崖になり、西側は、田楽層より10m程下がった低地に
            なっております。

             さて、古墳のぼり口から最上段の平らな所には、東向きに稲荷大明神の祠と石碑(この石碑が、『郷土史料をあ
            さりて』で古老が話された古墳内の蓋として使われていた物ではなかろうか。・・私の注)が建っておりました。下段
            の南側には、古木の切り株(もしかすると、この切り株は、古天神松の名残りの松カ)が、朽ち果てて残っており、草
            がきれいに刈られ、その形態がはっきりと判りました。

             状況としては、小牧の小木(コキ)地区とよく似ており、古墳は、段丘上に設営され、低地での稲作であったのかも知
            れません。拙稿 現 小牧市 巾下川中・下流域の 小木古墳群を訪れて を参照されたい。

             既に盗掘されたのでしょう。中には何も無いようだと御婦人は、話されました。この古墳内部に、かっていも類等を
            保管してみえて、内部を良く知ってみえるようでした。

             こうした古墳がある以上、近くには、古い神社が存在する筈。聞けば、天神社が近くにあるという。延喜式には、記
            載されていないようで、あまり古い神社ではないようです。
             とあるHPを覗けば、創建年代は不詳との事。下末天神社には、蕃塀があるようで、尾張地区での蕃塀は、伊勢神
            宮の影響なのか、尾張独特の透かし塀であるのか。よく分からない物のようで、祭神は、菅原道真であるという。
             伊勢神宮がらみであれば、この地域は、平安期伊勢神宮領の末御厨であった筈。この天神社は、平安期の建立と
            も推察出来ましょうか。

             とすれば、下末古墳を造りし者とは、関わりがなさそうに思える。むしろ、南隣の現 春日井市田楽地区にある現 
            伊多波刀神社(式内社 江戸期には、八幡社といわれていた社)との関わりの方が強いのではないかと推測いたしま
            す。古墳からは、神社までは、約800m程の直線距離であります。しかし、現在の地図には、式内郷社の伊多波刀
            神社と江戸期に八幡社であった所も伊多波刀神社として二つの神社が記載されているようです。

             しかし、前方後円墳でありながら、熱田や勝川・丹羽郡の青塚古墳等は、その全貌が残りえたのに、この地の前方
            後円墳は、前方部が削りとられている。いつ頃削られたのか不明でありますが、小牧市小木の宇都宮古墳上にも神
            社が創建されている。こうした地域では、古墳造営一族以外が、後に支配をしたのではないかとも思いますが・・。
             でも、よくぞ残ったものと思いつつその場をあとにしました。