平安中・末期以降の丹羽郡 良峯家々系図を通して

      1.はじめに
         丹羽郡 良峰家の一族は、大縣社宮司職となっているようです。時は、院政期から鎌倉期に至る期間。家系図は、鎌倉期
        末期〜南北朝期に書かれたようで、その信憑性には、疑問符がつきまとっているようです。

         諸氏の論考からは、「惟光には、系図上不審な点が多く、後に、丹羽郡の荘園を知行している良峯季光の子孫(原大夫家)
        が、その正当性を主張する為に配置された人物の可能性を指摘される研究者もあるようです。」 ( 犬山市史 通史編 上 
        P、199 参照 )

         上村喜久子著 「尾張の荘園・国衙領と熱田社」岩田書院 2012年版 内の「大縣社考」もその一つであります。

      2.一宮市史 補遺 2 P.58〜 「50 丹羽郡 良峰家 家系図等」(群書類従)を通して
         一宮市史 補遺 2 P.58〜 「50 丹羽郡 良峰家 家系図等」(群書類従)があり、その家系図が示す事柄をかきだして
        みようと思います。

         良峰家の出自は、桓武天皇に行き着くようでありますが、安世{大納言左大将晴宮大夫 正三位、母百済宿禰永継女 崩御 
        光仁3(812)年か天長5(828)年と記述。とすると、安世は、8世紀末〜9世紀初め頃の人物か。

         安世の長子 宗貞は、右少将 正四位下 嘉祥3(850)年出家。36歳法名 遍照。元慶3(879)年権僧正、不歴律師僧都と
        か。

         宗貞の長子 素性{宗貞が、出家する前に生まれし子、法師子俗無由トテ、令押出家。権律師。後 石上寺良因院に住み、良
        因朝臣と号す。}という。
         宗貞の次男 玄理{四度使 1回 改姓 椋橋(ムクハシ) 尾張国丹羽郡に居住し、郡司。}−恒則ーー美並ーーー
                                                             四度使2 四度使 3  
                                                                   延長4(926)年〜天暦9
                                                                   (955)年郡務 30年。
              −−頼利ーーーーーーーーーーーーーーー惟頼ーーーーーー惟頼の長子 季光{正暦年中(990〜994年)始寄進
                四度使 4                   四度使 5       本家於法成寺、四度使 6 尾張国小弓庄本主也、           
                下総介(介とは、国司の次官の官名カ)   下総介         紀伊・伊予・尾張介、改姓良峰 上東門院勅旨田
                天暦9(955)年〜安和2(969)年 郡務                として寄進
                15年。椋橋と号す。                −−−−−−惟頼の次男 惟光
                                            −−−−−−惟頼の三男 為通(改姓 橘)−ー恒高ーーー 恒遠
                                                                       四度使 7  四度使 8
                                                                            寛治2(1088)年〜                                                
                                                                            長治元(1104)年
                 * 法成寺は、治安2(1022)年に無量寿院等の伽藍を含めて改名されている。               郡務 18年                                         
                   藤原道長晩年の頃であります。確かに受領等は、こぞって建築等の費用を捻出していた。
                                                                      −−恒貞ーーー恒通
                                                                               四度使 7 

               <参考 上村喜久子著 「尾張の荘園・国衙領と熱田社」岩田書院 2012年版 尾張「良峰氏」考 P.66には、下記の
                系図の抜粋が記載されている。
                 頼利ーーーーーーーーーーーーーーー惟頼ーーーー|ー松材 在庁 天延元(973)年〜永祚元(989)年郡務15年ーー惟材
                四度使 4                  四度使 5  |ー季光 尾張介・紀伊掾 正暦年中(990〜994年)始寄進本家於法成寺、
                下総介(介とは、国司の次官の官名カ) 下総介          |     四度使 6 尾張国小弓庄本主也、改姓良峰 上東門院勅旨田
                天暦9(955)年〜安和2(969)年 郡務  椋橋と号す。 |     として寄進
                15年。椋橋と号す。                                                |ー惟光 小弓大夫ーー惟季 従5位下 散位
                    ーーーーーーーーーーーーーーー惟松ーーーーー             |
                                         二郎大夫                 −兼季 四度使 9 天仁2(1109)年〜保安4(1123)年
                                                                             郡務 15年
                *  松材は、尾張国解文に出ている人物と同書には、記述されている。
                  拙稿  永延2(988)年  尾張国郡司百姓等解文 現代訳文の一例  第30条を参照されたい。
                                      しかし、上村氏の新田本良峰氏系図には、橘 姓での為通の記述は無い。*
                                                            
               国司(こくし、くにのつかさ)は、古代から中世の日本で、地方行政単位である国の行政官として中央から派遣された官吏で、
              四等官である守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目 (さかん)等を指す。>

             * 玄理の父 宗貞は、「嘉祥3(850)年出家 36歳 法名 遍照。元慶3(879)年 権僧正 65歳。仁和元(885)年11月23日
              元慶寺座主カ 花山僧正と号す。寛平2(890)年正月19日 入滅 74歳。慈覚大師(円仁 第3代天台座主)の弟子 安然和
              尚と称し、天台座主長老師。」と系図上には記述あり。

               しかし、「五大院安然尊者と密教 木内 央氏」によれば、遍照と安然和尚とは別人物であるようです。安然は、慈覚大師(円
              仁)の門流であり、対立する円珍流に対して、遍照は、第3極の僧正であったという。詳しくは、下記 URLにて参照されたい。
               ( https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/20/2/20_2_755/_pdf

               更に、{今昔物語19 「頭少将良峯宗貞出家語」には、宗貞は、出家前に男子1人・女子1人を産ませたる。と。
               また、「本朝皇胤紹運録」には、宗貞には、2人の息子(素性・由性)がいたと記載されている。
                *素性の幼名は、玄利はるとし と呼ばれていた。}という。
                 詳しくは、右記 URLにて参照されたい。(http://www.jiu.ac.jp/books/bulletin/2007/graduate/04_inoue.pdf ) 

                とすれば、良峯家系図の宗貞の次男 玄理は、素性の幼名と重なり、由性であるべき所が、そのように誤って記載されたの
               であろうか。*

             * 四度使とは、奈良・平安時代、国司が行政・財政の実態を朝廷に上申するため、四度の公文(くもん)を持参して上京させた使
              者。大帳使・正税使( しょうぜいし)・貢調使・朝集使のこと。しどし。よどのつかいともいう。 尾張国解文{永延2(988)年}にも
              四度の務をしたという記述もあり、そうした者は、郡司・刀禰(トネ 在地の神主カ)が、任命されていたのでしょう。*

               椋橋(ムクハシ)姓での郡務であり、玄理(由性カ)から美並までは、丹羽郡に居住か。遍照の次男 玄理は、比叡山 天台宗内の
              対立の第3極の頂点に立つ父を持ち、それなりの力を宗教界に及ぼしていたのでありましょうが、玄理は、丹羽郡という地方へ転
              出し、この地に居住したようです。父の力は、偉大であったようで、当国(尾張国にてカ)惣社123以上4社祭使を4度務めたよう
              です。
               また、郡司職にも就いたのでありましょう。それ以後は、郡務としか記載されていません。
               系図上からは、椋橋の基礎は、美並の頃確立した可能性が、高い。その後下総・紀伊・伊予国の介(国司の次官カ)として勤務し、
                                長元4(1031)年〜は、椋橋家が郡司として務めていた事が知られる。が、系図上には記載されていない。

               椋橋家が丹羽郡郡司であった頃の10世紀末頃尾張国の介(国司の次官カ)として季光が、きたのでしょうか。藤原元命朝臣が、尾
              張国国司を解任された以後に赴任した可能性が高い。(系図の年代から推測すれば・・。)
 
               それ故、季光は、椋橋とは号せず、姓を良峯としている。また、「長元4(1031)年には、太政官符によれば、尾張国丹羽郡大領に
              は、外正六位上 椋橋宿禰惟清が補任されている。」(坂本賞三著 「日本王朝国家体制論」 東京大学出版会 1972年版 P.203
              参照)とすれば、系図上では、季光の父は、惟頼(四度使 5 下総介 姓は、椋橋)として続いているようですが、実は、上記 丹羽
              郡大領 椋橋宿禰惟清が、惟頼の本当の実子ではなかったろうか。椋橋家は、椋橋家として存続し、元命朝臣の下で活動した在の良
              峰松材は、天延元(973)年〜永祚元(989)年の間丹羽郡務15年間に私領を手に入れたのでは・・。その所領を季光の代で取って代わ
              られた可能性を推測致しますがどうであろうか。そうした所領の保全を図る為、尾張氏系・椋橋系郡司(丹羽郡)時に、寄進という方法
              を取ったとも推測出来そうであります。
               
               系図上でも、丹羽郡での郡務の空白期間(965〜1087年)が存在し、辛うじて長元4(1031)年〜は、椋橋家が郡司として務め
              ていた事が知られる。また、小右記には、「長徳2(996)年10月13日条に尾張氏の一族と見られる海(部カ)宿禰某が、同国丹羽郡
              擬少領に擬せられていた事が記述されているという。」(「日本王朝国家体制論」 P.203 参照 同様に増補 史料大成 別巻 小
              右記 P.128 参照)という記述からは、椋橋家と競合していたのは、熱田社に関わる尾張氏一族ではなかろうか。

               *  小右記 長徳2(996)年 10月13日条には、「尾張国丹羽郡令擬々少領海宿禰□本擬文不注其名、又先祖尾張氏無□氏□注無
                譜違例越□、(擬カ・・私の注)」と記載されている。
                 擬少領に関わる論述は、右記を参照されたい。 https://www.kanto-gakuen.ac.jp/univer/info/pdf/liberalarts_21012 
                 『類聚符宣抄』第7諸国郡司事には,天慶2年(939)〜貞元3年(978)の間の郡司任用を申請する国解(申文や式部省奏を含む)と
                それを許可する旨の宣旨がセットで収録されている。内容としては,年官を用いた任用申請や,いわゆる違例越擬(現任少領を大領
                に転任させるのではなく,別の人物を大領に任用すること)の申請,兄弟間での相譲申請など,通常とは異なる特別な条件下での任
                用を申請したものである。異例の郡司任用であるため,通常の任用手続きとは異なる宣旨を用いた任用方法が用いられているが,                
                このこと は10世紀になっても様々な形で郡司職への就任を求める人々が存在していたことを示しているだろう。*

               この10世紀末頃には、季光が、尾張介として赴任していた時、尾張氏の一族が、丹羽郡擬少領に擬せられていた可能性がありそう
              です。

               季光が、10世紀末頃 小弓荘を藤原道長の建立した「法成寺」に寄進したと系図上では記載されているようですが、{摂関家では、
              小弓荘を「法成寺領」として扱っていない。}(犬山市史 通史 上 P.198 参照)ようです。「史料的に確実に小弓荘が現れるのは、
              12世紀半ばである。」(犬山市史 史料編三 218・219号 修理権大夫□書状 参照。)と。
               系図上季光が、正暦年中(990〜994年)始寄進と記されている記述は、尾張介として赴任している時に、蓄財した私領を道長晩年
              の法成寺建立{治安2(1022)年}に対し、諸国の受領は、こぞって建設資金を出している事柄に関わっているのかも知れません。

                                * うがった見方をすれば、「尾張氏の一族が、丹羽郡擬少領に擬せられたのは、996年以降か。」季光は、その頃官職から離れ、在で
              領主化していたとすれば、私領の保全を図る行動に出た可能性も推測出来るのではないだろうか。*

               系図上では、季光は、更に、私領を上東門院東北院領としても寄進し、勅旨田としたと。東北院の建立は、長元3(1030)年であり、
              11世紀頃の寄進でありましょうか。新修名古屋市史 第1巻 P.690に「上東門院勅旨田は、免田50町、年貢 八丈絹五疋」(鎌倉後
              期頃の九条家文書 参照)とか。免田とは、10世紀以降の国家が賦課した臨時雑役等を免じてその分を荘園領主に付与する田の意味
              であるという。
               季光の尾張国での勤務は、何年から何年であるかは系図上からは明確には読み取れませんが・・。
               * 上東門院 彰子は、藤原道長の娘、後一条天皇の母。院号は、1026年〜1074年。曾孫の白河天皇の御世87歳で没。父道長が
               建立した法成寺の内に東北院を建てて、晩年ここを在所としたため、別称を東北院ともいう。王臣家領ではありますが、広い意味での
               藤原摂関家領の一部とも看做す事も出来ましょうか。

               * さらにうがった見方をすれば、「椋橋宿禰惟清が丹羽郡司に補任されたのが、1031年以降。」季光は、手に入れた私領保全の為
                に、上東門院へ寄進をして、私領保全を図った可能性は・・・。*

               10世紀末には、小弓荘を藤原道長の建立した「法成寺」に寄進したと、上東門院勅旨田寄進が、11世紀中前後か。季光は、摂関家
              にも近づき、摂関家の衰退がみられると王臣家に近づく等、中央の情勢に敏感に対応していると言えましょう。受領の売官行為が横行し
              ていた事と関わっているからでしょう。             

               そして、系図上では、「季光の一番下の弟の末裔が、寛治2(1088)年〜長治元(1104)年までは、橘姓の恒遠なる者として18
              年間郡務している。」あくまで系図上から読み取ればであります。しかし、実際は、丹羽郡だけではなく、春日部郡の可能性もありま
              しょうか。
               恒遠の父も四度使 7、更に恒遠の従兄弟である恒通も四度使 7とあり、季光以降の丹羽郡域で権勢を誇示しているかのよう
              です。
               橘氏と良峯氏は、別系統であるかも・・。郡務=郡司と捉えるのがいいのでしょうか。一般的に、四度使は、この当時、在地の散
              位であり、郡司クラスが務めていたのでありましょう。

               ここまでが、系図上の良峯家の第1期であろう。しかし、椋橋家と良峯家は、共に在京人であった事。椋橋家は、天台宗系の刀禰
              (トネ 大和地方では、在地領主の代表に刀禰なる名称がつかわれて、神事に関わる。)的人物カ、良峯家は、国司級官人。別系統
              の家である可能性が高い。
               しかも、季光は、系図上でも、紀伊・伊予・尾張介を歴任している人物と記され、国衙に関わる人のようで、元命朝臣の国司時
              代以後の補任であったのでしょう。婚籍関係で良峰松材家を飲み込んだのか、丹羽郡辺りに私領を形成した可能性が高い。
               これ以後、季光の兄弟は、在地に根付き、権勢を誇示していったように系図上では記載されている。在地領主化した可能性が
              高い。

               「康治2(1143)年の安食荘の検注状に記載された橘 朝臣なる人物は、11世紀末〜12世紀初頭の丹羽郡の橘 恒遠カ、
              その一族の末裔の可能性が高い。」と上村喜久子著「尾張の荘園・国衙領と熱田社」2012(平成24年)3月 岩田書院 には
              記述されている。              
               康治2(1143)年の橘 朝臣なる人物は、1143年より前の巳年に、自らの郡司領を二宮へ寄進している事は、検注状案
              から読み取れます。何故この当時、格式の高い熱田社ではなく、二宮(大縣社)へ寄進したのであろうか。橘氏の何らかの意図
              を感ずる。

                 <参考> 大宝令制下以降での帯位授受から知られる尾張連氏一族の動向は、下記の通りであります。
                和銅2(709)年   外(ゲ)従五位下 愛知(智)郡大領 尾張宿禰乎己志(オコシ)・・・・大隅直系 海部直祖
                                                                     (尾張連考より)
                天平2(730)年頃             春日部郡大領  尾張宿禰人足(ヒトタリ)
                                          参考までに、郷土誌かすがい 第4号内に 「春日部郡の豪族と古
                                         寺址」と題して久永春男氏の論述があり、「春部郡を本貫としたこと
                                         の確実な豪族として、尾張連一族がある。『寧楽遺文』の歴名断簡
                                         に、尾張連牛養年廿七 尾張国春部郡山村郷戸主 大初位下 尾張
                                         連孫戸口 という記載が見られる。大初位下といえば、郡の主帳級の
                                         位階である。という記述もある事を付け加えておきます。
                                          
                天平6(734)年頃             海部郡(アマグン)郡領(?)  尾張連氏一族
                8世紀半ば頃(聖武天皇治下)       中嶋郡大領   尾張宿禰久玖利(ククリ) ・・日本霊異記の説話より」 
                                                                   
                 (以上の事柄は、「古代貴族と地方豪族」 野村忠夫著 吉川弘文館 平成元年刊 P.25 参照 )
 
                            { こうした事例は、時代は、下りますが、仁和元(885)年12月、春日部郡大領であった 尾張宿禰 弟広が二人の
            息子の庸調等を前納する申請をし、許可されるという事にも現れている。

                            *   しかし、8〜9世紀においても山田・丹羽郡域には、未だ郡司名は見い出せないでいます。
             < 100年弱経過した頃の 尾張国司・丹羽郡司の流れ >
                                                               990〜994カ
                                                    良峰季光 
                              974   975〜   985〜988 989    993・1001・1009 1008    1012    1016          1040〜1043
                               国司            藤原連貞藤原永頼 藤原元命藤原文信   大江匡ひら  藤原中清 藤原知光 橘経国          橘 俊綱
              郡司 (椋橋)美並   椋橋頼利 (空白4年)良峰松材 (空白7年)   海(部カ)宿禰某                         椋橋宿禰惟清
                  926〜955     955〜969       973〜989                996〜?                             1031〜?
                   1090〜1099 1101前後カ
              国司   藤原忠教 藤原季兼(目代)              平 忠盛
              郡司    橘恒遠     (立木田?)兼季 立木田季高  立木田高義 立木田高光
                    1088〜1104  1109〜1123    1123〜1137  1137〜1171 1171〜1216
                                                                                               春日部郡司カ
                                                               (橘 朝臣)
                                                                 1143
                                    <参考> 橘 家系図(略記)   参考URL https://reichsarchiv.jp/%E5%AE%B6%E7%B3%BB%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88/%E6%A9%98%E6%B0%8F
                   ・ 橘 好古-----為政----行資-----行家----俊清---| -敦隆
                     893〜972       |                                       |-尾張守 盛忠 
                         |       |−経国                            |-季兼
                                            |          尾張守(1016年郡司百姓に
                                                       |                             訴えられる。)
                                  ーーー 橘俊遠---養子 橘俊綱
                                         藤原頼通     尾張国司
                                         家司カ      1040〜43

               上記の流れからは、10世紀末〜11世紀中頃までは、丹羽郡域では、全域を継続して支配する郡司一族は無く。椋橋・良峰・尾張氏等々
              が競合していたのであろう。
                                  10世紀末頃までは、尾張国の多くの郡内では、尾張氏一族が権勢を誇っていたと思われます。当時尾張氏が、在地での政・祭祀権
              を保持していたのでしょう。山田・丹羽郡内には、在地勢力として尾張氏に関わる勢力は、あったのであろうか。その当時両郡は、未開地
              が多い地域であったからでしょう。10世紀末以降丹羽郡には、椋橋系の郡司が出現。勢力を拡大していたと思われます。そして、10世
              紀末 悪名高い受領 藤原元命が国司として赴任、尾張国内での旧来の郡司層等の見解では収奪を重ねたようです。国司と共に下向し
              てきた在京下級貴族を使って、そこに在庁にいた良峰松材(椋橋家の庶子カ)も加わり、尾張氏に打撃を与えた可能性がありましょう。

               その為、元命以後丹羽郡に対し尾張氏は、一族の海宿禰某を丹羽郡擬少領として擬したのではなかろうか。何年程丹羽郡擬少領で
              あったかは不明ですが・・。椋橋系も黙しておらず1031年には、椋橋宿禰惟清が、正規の手続きにより丹羽郡大領として任命に動いた
              のではなかろうか。

               その後、尾張国は、藤原頼通の子 橘俊綱が国司として赴任。僅か15歳。関白頼通の後ろ盾があったればこそでしょうが・・・。その
              当時でも尾張氏の勢いは、国司を凌ぐとさえ宇治拾遺物語 第3巻では記述されているようですが、尾張氏は、1101年以前には、熱
              田大宮司職を尾張国目代家に婚籍関係から引渡し、自らは権宮司職へと転進し、勢力の維持を図ったかのようです。

               しかし、12世紀初頭頃(私は、永久元年 1113年であろうと推測しておりますが・・。)尾張国内で大洪水が起こり、国衙に関わる田・畑
              等が自然災害により壊滅的な打撃を蒙ったと推測します。その当時の大河川{庄内川・五条川(木曽派流のひとつか)及びその支流}流域
              でありましょう。 
               それが引き金になり、尾張氏一族の力は庄内川以北で急速に衰退したと思われます。

               その間隙をついて丹羽郡域で勢力を蓄えていた橘系(系図上では立木田系)が、春日部郡域(庄内川右岸にまで迫る)へ進出してきたの
              ではないかと。「康治2(1143)年の安食荘の検注状に記載された橘 朝臣なる人物は、11世紀末〜12世紀初頭の丹羽郡の橘 恒遠カ、
              その一族の末裔の可能性が高い。」と上村喜久子著「尾張の荘園・国衙領と熱田社」2012(平成24年)3月 岩田書院 には記述されてい
              る事になるのではなかろうか。              


               繰り返しになりますが、その後、尾張国司として藤原頼通(藤原北家)の次男で、橘 家に養子として出された俊綱(宇治拾遺物語巻3 参照、
              又はhttp://www.koten.net/uji/yaku/046.html 参照)が赴任する。俊綱の赴任頃は、熱田社の宮司 尾張氏は、国司を凌ぐ勢いがあったとか。
              赴任後40年という時間は経過しているが、橘恒遠は、丹羽郡司を務めている。俊綱と何らか繋がる橘氏の一員という事は考えられないのであ
              ろうか。
               また、拙稿  永延2(988)年  尾張国郡司百姓等解文 現代訳文の一例  第30条を参照されたい。「舎人 2人 橘理信 藤原重規」の
              橘理信なる人物は、橘一族の流れを汲む者ではなかったろうか。

               その後、丹羽郡は、立木田と号する一族が、政・祭祀権を掌握し権勢を振るうようになったと系図上では、記述されていますが、新修名古屋
              市史 第1巻 通史では、この立木田系を橘系と捉えて記述されている。確かに、橘 家系図(略図)にも、名前は、逆転したかのようになって
              いる人物がいますが・・・。その可能性は高いと思えます。


               *   高光の代で、丹羽郡の郡司職は、絶えている。また、承久の乱以前の事柄であり、伊勢平氏の蜂起に、高直一族が関わり、鎌倉
                幕府より、二宮社領の地頭職は取り上げられ、安堵された所領も没収されたカ。

                 そうした記述は、「元久年間(1204〜1205年)以前、高春の子 高直の代に良峯家系図から言うと従兄弟に当たる高信が、伊
                勢平氏の蜂起に何らか関わり、元久年間(1204〜1205年)幕府より地頭職を召上げられ、御家人からも外されたようで、これ以
                後二宮大宮司として在地支配を継続したのであろう。」(犬山市史 通史 上 P.252〜253 参照)とか。
                 或いは、「良峰一族の原高直が 1204( 元久元 ) 年に伊勢で起きた平氏の反乱に関係して所領没収され、ついで1216( 建保4)年
                に立木田高光が丹羽郡司を退任後、その職は子孫へと伝承しなかった。そして、稲木庄も良峰氏の手を離れ、美濃の土岐光行の
                一族がはいることになった。」( http://www.maibun.com/DownDate/PDFdate/1460.pdf 参照 )から知られる。

                 更にそうした経緯について、上村喜久子著「尾張の荘園・国衙領と熱田社」 第1部 荘園・国衙領と在地勢力 第2章 尾張「良峰
                氏」考 P、77にも、「頼朝から高春が安堵された地頭職は子 高直に継がれたが、何らかの事由により元久年間(1204〜1206)以
                前に収公されている。二宮高直跡は、池田新次郎行重 子息 為行と中務丞国盛が競望したが、池田為行は、高直に同意し勘当を
                蒙ったという理由で退けられ、国盛に与えられた。<約10年後の建保4(1216)年 後鳥羽院西面の武士であり幕府御家人でもある
                土岐光行は、池田新次郎 子息追討の功賞によって左衛門尉に任ぜられている。>(出展 尊卑分脈 3 P.147)(中略)先に高直
                に同意したという為行の今回の行動に、高光ら「良峰氏」一族が加わった可能性もあるのではないか。」と記述されている。

                 元久以後、小弓荘代官と地頭 中務丞国盛の地頭代により、大縣社領の散在する小弓荘内の地は、管理されていく。ところが、大
                縣社領の領家が、建保3年 1215年 上皇に近い藤原兼子になり、小弓荘内の神領に対し、今までの慣習を破り、直接 京より使者
                を遣わして実地検分をしたようです。それが、下記年不詳 某申状二通であったようです。丹羽郡司 高光の所領 稲木庄(郡司家の
                基礎をなす所領)も、土岐一族の手に渡っている。建保4(1216)年以降でありましょう。

                 永仁3(1295)年頃の原高国(良峯氏系図には現れない人物)と関わりあう人物として、年不詳(承久の乱1221年以前カ)の某申
                状二通(犬山市史 資料編3 195・196号文書 P.599・600参照)によれば、高範なる者、良峯氏系図にはみえませんが、原高
                国より一・二代?前の系譜であろうし、女院領(藤原兼子)に関わったのであろう。強力な援護が大縣社に偶然とはいえ降って沸いた
                事になったようです。
                 「その女院領には、小弓荘内に散在する神畠(溝口 現犬山市羽黒)と神田(入鹿迫 現犬山市池野 7町歩)とを領有していた事が
                知られる。」(犬山市史 通史 上 P.253〜255 参照)と。犬山市史・上村氏も二宮に関わる高範・高国は、高直系の者という認識
                をされていますが、高直系の根拠として、名前に「高」を用いている事でしょう。明らかな根拠に乏しいのではなかろうか。

                 承久2(1220)年11月17日に山賊追捕の功により、時の鎌倉幕府執権 北条義時は、方県郡内の貞清郷と重次郷(石谷郷)の地
                頭職に土岐光行を補任したという。( 土岐文書 )この地域は、もともと土岐一族の同属がいるところであり、あるいは二宮に関わった
                高範・高国なる人物は、土岐系に関わる人物とも推測できるのでは・・。光行は、後鳥羽院西面の武士であり幕府御家人であり、新たな
                大縣社の領有者となった藤原兼子は、後鳥羽天皇の乳母という関係から後鳥羽院に重用された人物であり、土岐氏とも繋がりが強いと
                推察出来る点、高範・高国は、土岐系の人物ともとれそうです。あくまで仮説でしかありませんが・・・。

               * <大縣社領 領有者推移>                                                   後鳥羽天皇乳母
                藤原伊通ー>藤原兼実ー>九条院(藤原呈子)−>比丘尼顕浄ー>藤原兼子ー>兼子の猶子ー>承久の乱(鎌倉幕府領)
                (鳥羽院領大縣社領      安元2(1176)年  (兼子領成海荘と比丘尼     修明門院重子カ               
                と伊通領京都市竹田            没     領大縣社領を交換 建保3年 1215年)                       
                を交換。竹田に、鳥    * 安楽寿院創建は、保延3(1137)年と百錬抄に記述されている。             
                羽院の安楽寿院創建)                                                     

                −>九条道家 以後九条家が領有
                   (平政子の配慮カ)*

              <参考>平安末から鎌倉初期の美濃地域の土岐氏本流の動向と土岐光行について
               頼光の孫 国房ーーー光国ーーー光信ーーー光基      ( 尊卑分脈より抜粋)
                    (美濃七郎)

                「 国房の子 光国は、父の私領である厚見郡鶉郷を継ぎ、天治元(1124)年に東隣にあった東大寺領茜部(あかなべ)荘の田畑
               26町歩(一説には18町歩ともいう。)を押領したと境論争となり、美濃国衙の検注(面積の検査)を受けるがお構いなしにそのままに
               して、私領である鶉郷を隣接する故二条家領平田荘に寄進してしまうのである。

                 承暦(しょうりゃく)3(1079)年6月、源国房と源重宗(この二人は、経基の長男 満仲、次男 満政の末裔である。)はこの地方の
                武士団の棟梁として着々と地盤を固めていたのであり、互いに対立するようになり、濃州青木ヶ原で合戦を始めた。更に同年8月一
                族の源義家( 満仲の次男 頼信の孫 )がこの争いに介入し、両者は遁走した。その後、国房は、降伏し阿波の国に配流されるが、
                永保年中(1081〜83年)に許され、鶉郷に帰りこの地で勢力を維持していた。嘉保3(1096)年に国房は、東大寺領茜部(あかな
                べ)荘の荘司として補任されている。が、東大寺にしてみれば国衙の役人が入部するのを拒むのには益あれども、国房は、反面荘民
                に乱暴はする、茜部荘の田地をさいて、私領の鶉郷に編入するなど傍若無人な振る舞いのため、康和5(1103)年 荘司の地位を罷
                免されている。  

                 境論争をした東大寺領茜部(あかなべ)荘は、父 国房が、荘官として補任されていたところでもあり、いわく因縁の間柄といえよう。 

                 さて、鶉郷を寄進した故二条家とは、白河上皇の乳母であり、上皇の近臣 藤原(六条)顕季(あきすえ)と考えられ光国は、こうして国
                衙の干渉を逃れると共に、院との結びつきを強めていったのであろう。」(岐阜県史 通史編 中世参照 ) 

                 光国の子 光信は、鳥羽上皇に仕え、鳥羽院四天王の一人であった。大治(だいじ)4(1129)年には、南都興福寺の僧兵の騒乱を
                鎮圧するために出向いた。光信は、出羽判官と称し、土岐と号したとある。このころ光信は、中央の役人であり、京都に居住していたの
                であるが、東濃地域の土岐と源氏の間になんらかのつながりができていたのであろう。

                 光信の子 光基も蔵人、左兵衛尉であったが、仁平元(1151)年に任を解かれている。その後は、中央政界ではあまり振るわず、か
                えって在地での経営に専念できたのであろう。
                 
                    
                                    * 光国ーーー光信ーーーー光基ーーー光ひら−ーー光行        ( 尊卑分脈より )

                   光ひらは、光基の弟光長の子であり、光基の養子として土岐宗家を相続した。土岐左衛門尉とも、郡戸(ごうと)判官代と称し、土
                  岐郡の地、現 瑞浪市土岐町一日市場(ひといちば)の神戸(ごうと)城を本拠とした。( 尊卑分脈に、はじめて美濃国土岐郡に定住
                  と記述されている。)

                   光ひらの時代は、保元の乱(1156年)、平治の乱(1159年)の平氏全盛の時代であり、源平の争乱にいたるまさに激動の時代で
                  あったと言えよう。光ひらの行動は、慎重であり、なかなか動こうとはしなかったが、大勢の推移により、光ひらも源頼朝の鎌倉方に参
                  加する決意をしたようである。

                   その後、光ひらは、美濃国の守護とも、あるいは地頭ともに任ぜられたという諸説あり、はっきりしたことは詳らかではない。

                  ” 光ひらの子 光行が、その後家督を継ぎ、土岐氏の惣領となった。光行は、後鳥羽上皇の院中を警備する西面(さいめん)の武士と
                  して活躍。土岐判官とも浅野判官とも称していた。”
                   承久2(1220)年11月17日に山賊追捕の功により、時の鎌倉幕府執権 北条義時は、方県郡内の貞清郷と重次郷(石谷郷)の地
                  頭職に光行を補任したという。( 土岐文書 )

                   承久の乱が起こり、承久3(1221)年6月3日 幕府軍と後鳥羽上皇軍が木曽川を挟んで対峙。その日のうちに決着がつき、上皇軍
                  は敗走し、鎌倉方総大将 北条泰時は、鎌倉出陣後僅か20日あまりの速攻で上皇軍を制圧したとある。 ( 吾妻鏡 参照 )

                                          この承久の乱で、上皇方に組したのは、土岐一族では、土岐判官代であったという。承久兵乱記では、「ときの次郎ほうぐわん代み
                  つゆき」とあるが、尊卑分脈では、光行は、次郎とは考えにくいようで、弟の光時が浅野二郎といい、また、六条院判官代を号している
                  ので、この土岐判官代は、土岐氏惣領の光行ではなく、光時であろうと考えられるのである。
                   承久の乱以後、光行は、浅野(土岐市)に居を移している。これは、光時の謹慎のあと、かれの監督のためであったであろうか。

                   岐阜県史 通史編 中世に 「 皇室領荘園 饗庭荘 」があり、その項目に下記のような記述がある。
                   後鳥羽院の西面の武士でありながら、光行は、鎌倉方に味方し、勲功をあげ、美濃国に所領を増やした。では、吾妻鏡に記述され
                  ている土岐判官代とは、誰であろうか。光行の嫡子 太郎国ひらかその子 又太郎国行が、いずれも判官代であったことに注目する
                  必要があろうと。この時代 父子が互いに分かれて相争ったということも考えられるが、これは一つの憶測にとどめておくと。

                   上記の<参考>は、多治見市史 通史 上 からの抜粋であります。


               これ以後 良峯家とは、姓が違う立木田家として登場する季高。その孫である高義は、丹羽郡司となり、高春は、二宮宮司になっ
              ている。

               とすれば、康治2(1143)年当時の橘 朝臣は、丹羽郡司 高義の子 橘 高重の可能性が高いようにも思われる。が、系図上
              では、高重は、鎌倉時代 承久年間前後頃の人物のように記述されており、疑問符が付く。尚、「成海大夫系の橘 盛房は、この
              一代で絶えている。」(この名前は、鎌倉末期頃の二宮領 春日部郡林・阿賀良村の名主等の名前の一人として登場した人物名と
              同名で、歴史上に現れている。)かのようです。

               この橘 朝臣は、丹羽郡の橘 恒遠カその一族の可能性が高く、仮に康治2(1143)年の安食荘の検注状に散見される巳年(こ
              の年に、庄内川が流下している安食荘では、大洪水が起こり、田が川成りになったり、田が荒地になっている。その年に該当する
              のは、直近では、保延3(1137)年 或いは、天治2(1125)年か永久元(1113)年 もう少し古い年では、康和3(1101)年であ
              ろうか。きしくも巳年に寄進が行われたようであります。寄進は、それ以前・後にもあった事は推測されますが、巳年が、もし、康和
              3(1101)年であれば、橘恒遠{寛治2(1088)年〜長治元(1104)年 郡務 18年}に一致しますが、一番可能性がある大洪水は、永
              久元(1113)年ではなかろうか。とすれば、橘恒遠{寛治2(1088)年〜長治元(1104)年 郡務 18年}の従兄弟の恒通が該当しそ
              うでありましょう。

               検注状に記載された橘 朝臣なる人物は、春日部郡司カであろうし、この当時大縣社は、在地の祈祷所(二宮)でもあったのでし
              ょう。やはり、橘 家も官人系の系譜を有しているやに推測される。
              
               そして、第2期の良峯家として、季光の弟として系図上に出てくるのが惟光。官位等記載なく、無位無官であったようです。
               この惟光こそよく分からない人物であり、良峰松材(尾張国守 元命朝臣の下で在庁で「不善の輩」と呼称されていた人物)と尾張介
              として在任していた季光とを結びつけ、更に橘氏をも飲み込んだように創作された人物ではないかと推測いたします。

               惟光の長男 恒季(散位従五位下)ーーーーーーー恒季の長男 季高(四度使 10 従五位下 立木田大夫と号すーー*
                                                     保安4(1123)年〜保延3(1137)年 郡務15年)
                                    −−−−−−−恒季の次男 長季(成海大夫 成海庄本主)−○ー長季の孫 盛房(改姓
                                                                                     橘)

               惟光の次男 兼季(四度使 4 天仁2(1109)年〜保安4(1123)年 郡務 15年)

               *--季高の長男 高成ーーーーーーー高成の長男 高春(二宮大宮司 高成が上総守の時、季高が、丹羽郡郡司在任)
               (二宮大宮司 原大夫と号す。        高成の次男  高義(四度使4 立木田大夫 保延3(1137)年〜承安元(1171)年 郡務ー**
                妻 上総権介平常廣の妹          高成の娘 (平 忠盛の妻)
                上総守)                            

                                                              **--高光-----高重(四度使 13 後堀川院の時 橘 高重と称す)ーー宗高−ー秀高
                                                               1171〜1216                                    四度使 14  同 16
                             郡務44年       

                ここまでが、良峯家の第2期。季高流と言えばいいのであろうか。立木田家へと代替わりした一族であるかも知れない。

                *家系図を見る限り、父子相伝ではないし、一応、兄弟間、従兄弟間での同一国内での郡務相伝であったように推測できる。
-
                  「篠木荘を立件した年は、天養元(1144)年であり、平 忠盛と郡司(高義カ)等が共謀し、美福門院領として寄進したので
                ありましょうか。」(犬山市史 通史 上 参照)

                 その端緒は、おそらく橘 恒遠(季光三兄弟の一番下の弟)が、郡務(1088〜1104年)をしていた頃前後より地域で私領化
                を押し進めていたのではなかろうか。系図からは、一応、丹羽郡下で、郡務を務めていると推測しえるのでありますが・・・。
                 ほぼ10世紀末〜12世紀末にかけて、系図上では良峯家として丹羽郡内での郡務を継続していたように記述されている。

                 * 系図は、南北朝期に原大夫家の領有が、正当な物であることを言わんが為に作製されたと聞く。正確な系図であるかは、
                 犬山市史でも、疑問視されているかと。しかし、何らかの史実を反映している事は、間違いがないと思います。*

                 季高流は、尾張守 平 忠盛の妻として、二宮大宮司 高成の娘を嫁がせ、高成は、上総権介 平 常廣の妹を妻
                にして、平氏との繋がりを強めている。こうした平氏との繋がりを利用して、鳥羽法皇の寵愛を一身に受けている美福
                門院領が、尾張国内に散在している事で、当時、領有のし難い事があり、高成の子 高義は、自らが領有カしている地
                域を尾張守(平 忠盛)と共謀して荘園として寄進し、門院の一円知行地として立荘し、鳥羽法皇との関わりを持とう
                としたのでしょう。とすれば、春日部郡一帯の再開発(12世紀初頭頃の大洪水で荒廃したかっての国衙領水田一帯)
                の再開発領主とは、上村氏の言われるように橘氏一族でありましょう。
                 しかし、それ以前の春日部郡域の未開地の開発領主は、やはり尾張氏一族であったと推測いたします。

                    家系図上での推論ですので、事実とは違う事柄もありましょうが、概ねの事柄は、述べているのでありましょう。
                 併せまして、繰り返しになりますが、{新編一宮市史 資料編 補遺2 「良峯氏系図」に於いて、11.12世紀には、
               丹羽郡司 良峯氏は、「北は鳥倉山より南は河口河<もしかすると堺河(現 庄内川カ)を指しているのではないかと・
               ・筆者推測>、東条(篠木荘カ・・筆者注)・西条合わせて23条に及ぶ”此一郡内、敢無他人所領”と豪語していると記
               載されているようです。}(網野善彦著 日本中世土地制度史の研究 P.183 参照)こうした良峰家(二宮宮司 原氏)
               の領有を正当化しうる公験(クゲン 証明する書類)は、消失したと記されている。

                ここに記述された東条の地とは、篠木荘の地域かと推測致しましたが、「荘園志料 上巻 清水正健編」 P、575
               に、醍醐寺雑事記曰として、「字安食荘事、在管春部郡東條、四至、(小文字にて)東限薦生里西畔 南限山田郡堺
               河 西限子稲里東畔 北限作縄横路」と記述されており、東條の地は、安食荘の地域も含んでいるのではとも知りえ
               るのであります。

                そして、この南限山田郡堺河とは、{荘の南界を「山田郡堺河」に相当する河流(現 庄内川)が蛇行し、}と郷土誌
               かすがい 第23号内 ”平安末期の安食庄” その当時南山大学経済学部教授の須磨氏の論考中に記述されてい
               た。
                堺河とは、現 庄内川であったかのようです。古名は、御厨(ミクリヤ)河であったかと。
               この当時、この川の右岸側を良峯氏一族が、左岸側を尾張連氏一族が、支配し、力を発揮していたと豪語しているよ
               うでありますが、実際は、康治2(1143)年の安食荘内には、大縣社領より、熱田社領の私領の方がはるかに群を抜
               いて広い。やはり、熱田社に関わる尾張氏一族が、春日部郡司としてかっては権勢を保持していた事を物語っていると
               思われます。

                また、庄内川を境として、春日部郡と山田郡に分かれ、山田郡は、庄内川の左岸側に細長く延び、現 師勝町を回
               りこむようにして、小牧市下末・上末辺りまで郡域であったのか。或いは、庄内川以北のかっての比叡山延暦寺に匹敵
               する大山寺と呼ばれた現 小牧市の清掃工場(ごみ焼却場)の北側の山々を含んでいた可能性もあるのでは・・・。
                卑近な例えで申し訳ないのですが、庄内川以南を体に例えれば、下末・上末は、左腕、篠木荘は、右腕のように、春
               日部郡を囲んでいたのかも知れない。
                拙稿 諸本集成 倭名類聚抄 外篇 (別名 日本地理志料)からみた春日部・山田・丹羽郡について を参照された
               い。歴史学の上では、山田郡域は、確定されてはいませんが・・・。

                その山頂にあります白山社の起源は、往古の八百万の神であり、その神は、6世紀末頃の後期古墳を多く造営した
               豪族が祭っていたのではなかろうか。そして、その後、小口天神が建立された。この神社を山田郡内式内社とみれば、
               この山々は、山田郡域となりましょう。その後、山田郡は、消滅し、春日部郡に一部は、編入されたかと。

                しかし、白山社 宮司さんは、その謂れのなかで、「丹羽郡の小口天神(式内社)は、白山社の前身であった。」と述
               べてみえました。また、その宮司さんは、「 元丹羽郡に属せしが、大永2(1522)年足利時代 春日部郡となり、云々
               」とも記述してみえます。( 拙稿  大山廃寺近くの白山山頂 尾張白山社を訪ねて  及び下記の拙稿も参照され
               たい。 白山信仰と7・8世紀須恵器古窯跡地域との関連と大山寺との関わりについての覚書  )

                さて、宮司さんの謂れをとれば、この山々は、元々は、丹羽郡域となりましょうか。この説をとれば、現 丹羽郡にあ
               る小口天神(式内社)は、大永2(1522)年足利時代に、現在の丹羽郡へ引っ越された神社という事になりましょうか。
                さて、小口天神は、山田郡の式内社であったのか、丹羽郡の式内社であったのであろうか。確かに山田郡は、戦国
               時代末頃に、春日部郡と愛智郡へ編入され、消滅した事は、史実であります。丹羽郡が、春日部郡に編入された事
               は、ありえたのでありましょうか。無いと言うのが、史実ではないかと思いますが・・・・。
                宮司さんの言われている事は、伝承の部類ではありましょうから、史実であるとは言えませんが、その当時の何ら
               かの事柄を伝えているのでありましょう。
                
            付記
             上村喜久子著 「尾張の荘園・国衙領と熱田社」 岩田書院 2012年版 内の「大縣社考」の論考も添えておきます。

             詳しくは、同書を参照されたい。
             <それによれば、「丹羽郡内の平安末期以降の政治情勢は、大縣社の宮司に収まった良峯家が、郡司職を確立するまでには、
            紆余曲折があった。」と推測できるようですと。

             上村氏は、その過程を3期に分けて記述されていた。一宮市史の良峯家系図を参照されながら、各種の論考を踏まえ、1期
            玄理{8世紀末〜9世紀初頭頃の人物 安世(大納言左大将晴宮大夫 正三位)の長子 宗貞(嘉祥3年 850年に出家 律師
            僧都)の次男で、四度使 椋橋(ムクハシ)と改姓。丹羽郡に居住。}以後4代までが、椋橋姓で四度使やら他領域の介(国司の次
            官カ)を務めた時期。この頃から郡務のかたわら丹羽郡内で私領化を進めていたのでしょう。10世紀中頃位までの事柄でありま
            しょうか。

             2期 季光{椋橋家の4代目の長子で、10世紀末頃の人物。摂関家の藤原氏へ寄進し始めたようで、本家 法成寺の小弓荘
            の寄進者。郡務と他地域の介を務める。}改姓 良峯。私領を上東門院勅旨田としても寄進。
             
             3期 為通{椋橋家の4代目 三男} 改姓 橘。その後、為通の孫 恒遠{寛治2(1088)年〜長治元(1104)年丹羽郡で郡
            務。四度使 8回。}以降の末裔が、康治2(1143)年の安食荘の検注帳に記載された散位 橘朝臣に繋がるのであろうか。

             椋橋家の4代目の次男は、惟光。その長男は、恒季(散位従五位下)で、恒季の長男が、季高{従五位下 四度使 10回。立
            木田大夫と号し、保安4(1123)年〜保延3(1137)年間 丹羽郡で郡務。}であった。この季高の前の丹羽郡司は、惟光の次男
            兼季{天仁2(1109)年〜保安4(1123)年の間 郡務}であった事は、系図から知る事が出来る。郡勤とは、郡司としての勤め
            でありましょう。

             また、この季高の嫡子が、二宮宮司であり、孫が、丹羽郡郡司{高義 保延3(1137)年〜承安元(1171)年まで務めている。}
            であった。

             9〜12世紀初頭までは、丹羽郡郡司は、父子相伝ではなかったようで、兄弟・従兄弟間での相伝傾向にあったようです。系図か
            ら読み取ればですが・・・・。

             この系図から上村氏は、丹羽郡域には、後の原大夫系(季高を祖とする)以外に、他の諸勢力が拮抗し、郡司職を争っていたと読
            み取られたのでしょう。以上が、上村氏の記述の要約であります。>


            この良峯家系図は、鎌倉末期〜南北朝初期頃に書かれた事から、こうした諸勢力をも同一系統に組み入れ記述された可能性が、高
           いと取られているのでしょう。原 大夫家の二宮領領有の正当性を述べんが為に。
             
             既に12世紀中頃には、安食荘辺りまで 郡司 橘氏の威光が行き渡っていた可能性を推測する事は、史実から可能。それが、あ
            の「北は・・(中略) 南は、境川まで、我が所領以外無し。」という言葉となっているのでありましょう。
             事実、康治2(1143)年7月16日 安食荘検注状の署名者として四度使 散位 橘朝臣として検注に立ち会った郡司としてなのか
            公文検注使としてかは判りかねますが、四度使 散位として橘 朝臣名で2番目に署名している。1番目の署名者は、公文預僧であっ
            た。
             その署名者に続いて、春日部郡でしょうか、在庁官人名の署名が続きます。尾張氏名もあり、尾張氏は、熱田社権宮司・在庁官人と
            して在地に根づいていた事は史実のようです。

                          * 参考までに、「散位」とは、地方では、郡司・刀禰(トネ 地方の神主カ)など在地の有力者が位階を得て、使用する事が多いという。*

             丹羽郡司の家系図でも、郡務は、郡司として務める事とすれば、四度使は、中央への報告者としての勤めでありましょうか。四度使
            は、当地の郡司等が任命された可能性が高い。とすれば、この橘 朝臣は、春日部郡司と解する事が出来ましょうか。
             新修名古屋市史 通史には、「橘 朝臣を春日部郡司」として記述されていた。

             12世紀中頃には、既に春日部郡司は、尾張氏から系図上では、良峯系統?の橘氏に移っていた事になりましょう。では、春日部郡林・
            阿賀良村の長源寺・観音堂(別名 観音寺)の寺社地免田化は、誰が行ったのであろうか。寺社地の免田化は、他国の寺社領では、
            12世紀以前からとも知られているようで、神社免田化は、12世紀からであり、林・阿賀良村の二宮領化は、12世紀頃でありましょう。
             この林・阿賀良村の寺社地・神社地の免田化は、共に橘氏一族による事柄であろうか。

             それとも、その前に寺社地の免田化がされた可能性は・・。阿賀良村の観音堂の観音堂供御田の存在。これは、二宮化とは、直接関
            わっていない免田ではなかろうか。私は、二宮化の前に、尾張目代と郡司尾張氏一族との間に、阿賀良村の免田化が行われた可能
            性を指摘したい。
            
             では、「大縣領を二宮として鳥羽院へ寄進した主体は、誰であったのか。やはり、丹羽郡の郡司 高成の子 高義であったのでありま
            しょう。その当時 尾張守として赴任していた鳥羽上皇の信頼を得ていた平 忠盛を介して行われたのではなかろうか。」(犬山市史 通
            史 上 P.214 参照)。と記述されていますが、もっと時期的には早く大縣社は、二宮として位置付けられた可能性を指摘したい。

             春日部郡阿賀良村の本当の開発主は、熱田大宮司家に関わる者であった可能性を推測する。春日部郡司と目代藤原氏の共謀で、当
            地は、免田化されたのではないか。(田堵層の望みを叶え、存立していたと推測するのですが・・・。私の推測)開発後、国衙領に編入され、
            地域が狭い為、国衙の徴税人{雑色人(都と地方を行きかう国衙の下級役人)}に、里使免田が与えられていたのでしょうか。その当時は、
            春日部郡阿賀良村では、国衙の徴税人を里使と呼称されていた可能性が高い。安食荘には、雑色免なる記述が存在している事もその例
            証となりましょうか。

             源平の戦い。尾張地域では、保元・平治の乱(1156・1159年)前後、平氏の威光と丹羽郡司 良峯家(この時点では、立木田家)の共
            謀で、鳥羽院・後鳥羽院等の院政時、この辺りを荘園化した事は史実でありましょうが・・・。
                

                                                             平成27(2015)年7月7日    脱稿
                                                             平成27(2015)年11月19日 一部訂正・加筆
                                                             平成27(2015)年11月28日     〃
                                                             平成28(2016)年9月22〜29日 一部加筆・訂正
                                                             平成28(2016)年10月6日   最終脱稿