平安末期〜鎌倉期にかけての自然災害・疫病等の大流行について
                                −主に畿内地域でありますが、全国的な事かとー

          1.はじめに
             現代に於いても自然の驚異による大豪雨等により、堤防の決壊は起こりえています。ましてや
            平安期鎌倉期に於いては、自然の脅威・疫病の流行に対しては、神仏に祈る以外に手は無かっ
            たと言えましょうか。

             そうした天災・疫病の流行は、死に直結する事柄であり、農業生産への大打撃となっていった
            と思われます。

             この当時の農地は、自然災害による天災は、農地の荒廃に繋がり、疫病の大流行は、働き手
            の死亡を招き、これも、間接的に農地の荒廃化として帰結していったようです。

             では、平安末期〜鎌倉期には、どのような時期にどこで自然災害やら疫病の流行が起こった
            のでありましょうか。平安期〜鎌倉期の論考の中で、記述されている事柄を取り出しまとめてみ
            ようと思いました。

          2.平安末期に起こった大きな自然災害・疫病等の流行について
             @の1 11世紀前半 尾張国
              ・ 長保4〔1002〕年             旱魃洪水・飢饉疫痢・失火盗賊 (尾張国司 大江
                                                       匡ひら 熱田社 願文)
              ・ 寛弘元(1004)年             洪水・大旱にあう          同上

              * 尾張国では、郡司・百姓の国司排斥が、元命以後も引き続いて起こっていたようで、国司 大
              江は、恙無く終えたようです。また、国人(地元の住民)も、腹立つ事もあり、種籾を干しあげて
              しまうし、田を耕さない事もあったようです。国司 大江の妻 赤染衛門の「赤染衛門集」の詞書
              にあるという。*

             @の2 11世紀前半    ( 主に畿内 )
              ・ 長和5(1016)年               疫れい痢病(悪性の伝染病)の流行  (小右記)
              ・ 寛仁4(1020)年〜治安元(1021)年  飢饉ー>疱瘡(天然痘)・疫疾が流行
                                                          (百錬抄・左経記)
              ・ 万寿2(1025)年              旱魃ー>疱瘡の流行(小右記)
              ・ 長元4(1031)年〜長元5(1032)年  旱魃  (百錬抄) 1031年2月〜6月大旱魃
                                         により、宇治川が干上がり、渡河出来たほど。
              ・ 長元8(1035)年              旱魃  (百錬抄)

              ・ 永長元(1096)年             東南海地震・東海地震が、連動して起こり、相当な被
                                         害であったと推測いたします。
                康和元(1099)年             南海地震が起こり、相当な被害であったと推測いたし
                                         ます。
                               
                                  *  11世紀前半の頃は、4〜5年間隔で飢饉やら旱魃が繰り返され、飢饉・旱魃後には、悪
                性の伝染病(疱瘡等)が流行し、多くの死者が出たようであります。
                 都では、その対策として救援米が出されたようですが、いかんともし難い状況であったか
                と。

                                  この11世紀中頃には、永承7(1052)年から末法の世になるという末法思想が、広が
                り武士の台頭や戦乱の続発から人々は、現世否定の末法思想を信ずるようになったと・・。
                 確かに、こうした思想により、鎌倉新仏教が、生み出される有力な要因として通説化して
                いるようです。しかし、仏教論から平雅行氏は、自説を「中世の光景」(朝日選書512 19
                94年版 P.216〜217)神仏の時代にて、「11・12世紀の史料をみていると、旧仏教・寺
                社勢力が、朝廷に提出した訴状の中に、末法思想が頻出しているのも事実である。」と。
      
                 おおよそ次のような内容であると言う。
                 「 時は末法の世となり、人心が荒廃し人々は仏法への信心を失ってしまった。そのため
                国司は仏法を敬おうとせず、荘園を収公(没収)したり新税を賦課したりして寺院経済を破
                綻させ、仏法はますます衰微しようとしている。今このまま事態を放置したなら、末法的様
                相は更に深刻なものとなり、やがて王法と仏法(国家と仏教)の破滅に至るだろう。それ故
                王法を再建し仏法を興隆して末法を克服するために、是非とも我々の要請を聞き届けて、
                当寺の経済基盤を安定させて頂きたい。」と。

                 氏は、非常に巧妙な議論と読み取り、「末法の克服は、寺院の経済的保護により成就され
                る。」と。言い換えれば、旧仏教寺院は、末法を克服し、仏教を興隆する為には、自分たちへ
                の荘園寄進が必要であるといっている。」というのであります。

                 こうした主張は、「その当時の受領(国司)に対抗し、自らも荘園領主化していくためのイデ
                オロギーであったのであろう。」と。前述書の著者 平雅行氏は、言われております。

                 更に氏は、「こうした主張は、しばしば認められ、院政期には旧仏教は、最盛期を迎えて
                いる。このことからすれば、末法思想は、元来律令体制から荘園体制への転換期を乗り
                切るため、旧仏教側が意的に流布したイデオロギーであったといえよう。」とも言い切っ
                てみえるのであります。

                                   確かに、旧仏教寺社方は、この訴えが聞き届けられたかのようにその後寺社の荘園は、
                増加していくのでありますが、王法(国家)側もこの末法思想に引きずられたのか、院政期
                後鳥羽上皇から一転して皇宮領・中宮領等の家産的荘園が増加し、結果 八条院領・長講
                堂領という二大皇室領へと結実していった事は歴史的事実であります。荘園公領制とも呼
                称される体制へと転化していったようです。            

                                  11世紀末には、留めの大地震三連動?が、起こり大混乱をきたしたかと。時は、摂関政
                治末〜院政開始頃でありましたでしょうか。末法思想の留めの一撃にでもなったのであり
                ましょうか。
                 その記述の元は、「最近 朝日新聞朝刊に瀬川記者名で、地震三連動の記事が掲載さ
                れ、新聞で掲載されるほどですので、記事の元となる資料があっての事と推察し、その確
                認はしておりませんが、それによると、永長元(1096)年康和元(1099)年に東南海地震・
                東海地震3年後に南海地震の三連動?が起こったと報道されていました。」 院政が開始さ
                れた頃かと。

                                   当然関東〜九州に至る太平洋に面した海岸線に存在した地域には、大津波等も襲来し、
                地震と津波のWパンチではあったのでしょう。海岸線の地域は、壊滅的な被害を蒙り、回復
                不能の状態が数年間以上続いていたのでは・・・・。太平洋沿岸域では、漁労者が居住した
                り、沿岸輸送の中継基地・乃至は津が存在していたのではないだろうか。大いに被害を蒙り、
                しばらくは混乱したかと。

                                  尾張の沖積平野部の平安期の寺院である犬山辺りの寺院(犬山市史 通史上 P.196
                参照)の約1.3mの塔の基壇に地震跡がみられることから、塔が地震で倒壊し、それ以後
                再建されていない・・云々の記述もあるようです。この寺院の廃絶は、平安時代の早い時期
                とみていると。

                 それ故、日本海側と琵琶湖経由の海上・湖上輸送が、畿内では重要度を更に増していった
                のではないかと推測致しております。

                        A 12世紀初頭
                               ・ 康和3(1101)年              京都 霖雨国土損亡耗多し   (年代記抄 日本震
                                                              災凶饉コウ)
              ・ 元仁元(1108)年              浅間山大噴火
              ・ 永久元(1113)年 西暦10月8〜9日  洪水                 (大日本古記録) 
                           ( 和暦8月20〜21日)
                               ・ 元永元(1118)年〜元永2(1119)年  元年 霖雨(リンウ 長雨)による冷害ー>疫疾
              ・ 天治2(1125)年 西暦9・10・11月    洪水 宇治橋流破・鳥羽殿人々 (中右記)
                           ( 和暦8月・9月 )       宿舎・御堂等破壊
                   〃                         大水 近江町打出浜     (近江町災害防止
                                                               対策紀要)

               *  院政期になって、長雨による冷害が起こり、作物は実らず、その為疫病が流行したようです。

                平 雅行氏は、神仏の時代に於いて、「自然に大きく依存した中世の生産力水準では、宗教と
               農業技術がなお未分離であった為、生産活動には神仏への呪術的な祈りが不可欠であった。中
               世民衆が旧仏教の祈祷を必要とした構造的要因がここにある。そういう意味では、中世国家が実
               施した五穀豊穣の祈祷は、一種の農業振興策であり、社会福利政策でもあった。」と述べてみえま
               す。

                永久年中(1113〜1117年)には、尾張国北東部(現 小牧市大山)には、延暦寺と双璧となす
               大山寺が、創建され、以後40年間繁栄した頃かと。その頃、天空には、ハレー彗星が出現し、世
               情は、騒然としていたと言う。

                                 某HP上では、控えめな記述ではありますが、比叡山座主の日々の記録を読破され、本山では、
               こうした天変地異に対する対策として「祈祷」を主に考え、天皇に言上されていたやに。それに対
               して、その当時、延暦寺と双璧をなす東の大山寺の住職は、「祈祷」ではなく、在地の建て直し、
               いわゆる池・橋・堤防強化策等の農業対策を優先すべしという実利的な事柄を述べ、本山と融和
               しづらい深刻な対立があったのではという図式を述べてみえます。

                現代的な視点からみれば、こうした大山寺側の見解は、至極当然の考え方ではありましょうが、
               その当時の方々からみれば、異端的な発想かと。相容れない見解の相違と受け取られていたの
               でありましょう。あの東大寺創建に力を貸した行基は、各地を巡り、大山寺が考えたような事柄を
               実践され、在地民衆から絶大な支持をうけていたとか・・・。
               (その結果が、同宗派内における抜き差しならぬ対立となり、大山寺焼き討ちへと進展した可能性
               は否定できないのでは・・・。・・筆者注)
                大山寺焼き討ち等をまとめました拙稿もありますので、一読されたい。
                小牧市 東部丘陵地帯に存在していた 大山廃寺についての覚書

          3.11〜12世紀の私領・公領の成立
             私領である荘園制(摂関政治〜院政期)は、下司ー領家ー本家という重層的な「職」の体系を成立
            させ、公領である国衙(院政期後の天皇側の政策)は、新しい郡・郷の別名として荘園化に歯止めを
            かけるべく組織化し、新しい徴税単位とした。その階層は、私領主ー国衙ー知行主として成立。

             こうした私領・公領の面積比は、ほぼ半々に成立したと記述されたのは、日本の社会史 第4巻 
            1986年 岩波書店 負担と贈与にかかわる ”年貢・公事・有徳銭” の論者 峰岸純夫氏  P.
            64〜66であります。

             こうした体制が成立したのは、平安末期に近い頃であり、やがて、鎌倉幕府の成立へと繋がっていく
            頃かと。

             平治の乱(1160年)後 後白河上皇に変わり平清盛は、諸国の国司任命権を握り、一族郎党をそ
            うした諸国の国守として派遣、皇室・寺院・権門勢家等も、在地荘園の体制を固めていったようであり
            ます。
             そうした例として、尾張国・若狭国には、平氏滅亡まで国守は、代々平氏一門が就任し、鳥羽上皇
            のお気に入り美福門院領として、尾張国では、篠木荘を尾張国守 平忠盛・郡司・郷司等が共謀して、
            立件し、院に取り入っていたという。尾張国々主 平氏一門は、院への寄進の仲介業務を推進した事
            により、また、尾張国の平氏は、伊勢湾岸より定着し、寄進荘園の仲介者となり、尾張国内に開発領
            主ではないにもかかわらず領家職をも手に入れて、基盤固めをしていたようであります。在地の郡司
            以下在庁者は、そうした地位を利用して各所に散在的に在庁名の名田として私領化していたようであ
            り、そうした権益を寄進、或いは、新しく出来た郷・保として国司(受領・国守)に認定して貰う方向で、
            共謀していたのでは・・・。

          4.この当時の自然災害・旱魃対策について
             現代では、こうした自然災害・旱魃等が起これば、農家に対しては、災害対策として国・県・市が、総
            合的に連携して、その再生産体制を維持すべく動き出しますが、平安末期頃に於いては、こうした上か
            らの対策は、ほとんど無かったと言っていい状況ではなかったかと。

             「それ故、災害にあった地域の在地では、在地領主自身で、その再生産への対策を行うしかなかった
            かと。当然多くの費用がかさみ、返済が出来ない状況になれば、在地の領有権を放棄し、没落の道し
            かなかったようであります。」( 詳しくは、前述の 日本の社会史 第4巻を参照下さい。 )

             当然、かっては農地であったところは、放置され、荒野に変身していったようであり、再度再開発され
            るまでは、荒野の状態で存続したのでありましょう。

             繰り返しになりますが、この尾張地域に於いても、同様な状況が創出されていたと推察できましょうか。
             平安末期頃 尾張目代として入国した藤原氏(熱田社宮司の娘を嫁に取り、その子孫は、熱田大宮司
            職に就いた。)は、雇われ国司目代として、尾張国内での権勢を盾に、荒廃した荒廃公田の最開発をし、
            未開の山河を囲い込み、私領主化していったのでありましょう。
             平安末期に起こった平治の乱で、尾張国は、平氏一族が、国司として君臨し、寄進の仲介者として尾張
            国に於いて、領家職等を手に入れていったようです。

             その国司の平氏と共謀し、丹羽郡郡司は、平氏との婚籍関係という立場を利用し、別姓を名乗り(橘某)
            熱田社大宮司系の地域を再開発したのであろうか、皇族に寄進したり、尾張一宮・二ノ宮・三宮に寄進し
            たり、新しい国衙の保司(ほうじ)等の公権を手に入れ、末代までも、その領有を存続させる行為に邁進し
            ていた可能性が高いと思われます。熱田大宮司家は、平氏ではなく、源氏に一族郎党を挙げて加勢し、平
            治の乱で平氏に源氏が破れ、尾張国内での勢力を削がれていたと思われます。

             それが、丹羽郡での大縣神社(尾張二ノ宮)宮司職となった原 大夫一族でありましょう。こうした事柄に
            ついては、既に拙稿にも記述いたしました。
             詳しくは、謎の多い南北朝期以前の 二ノ宮宮司 原大夫系統についての覚書 を参照下さい。

          5.鎌倉期での自然災害等について
             「鎌倉時代13世紀は、気候の長期変動でみると、暖かかった平安時代から急に気温が下降した時代
            であった。」(朝日選書512 中世の光景 中世人の実像 高橋昌明氏論考 P.32〜33 参照)という。
             こうした気候変動は、凶作を頻発させ、それが飢饉・疫病の流行へと直結したようです。

             極端な冷夏からはじまる寛喜(カンギ)の大飢饉(1230〜1232年)は、日本社会に「天下の人種三分
            の一失す」(立川寺年代記 参照)とまで言われる深刻な打撃を与えたようであります。かなりの誇張が
            あったとしても、人口が劇的に減少した事は否定できないという。
            (時は、承久の乱後であり、鎌倉北条氏による執権政治の頃かと・・・。)

             朝日選書512 中世の光景 中世人の実像 高橋昌明氏論考にも、「日蓮の手紙に記されていたその
            当時の人口が、男 199万4828人 女 299万4830人 合計 498万9658人とある。

             奈良末〜平安初期 540万〜590万人という鎌田元一氏推計やら1600年頃の約 1227万人とい
            う速水融氏推計の数字からみれば、鎌倉期は、最大で160万人、最小でも40万人は減少した事になり
            ましょうか。」

             高橋氏は、この中世の500万人弱という人口数が、どこまで信用できるかは別にして、この極端な男
            女比のアンバランスは、人間が生存する環境としては、極めて厳しい時代であったと評され、このアンバ
            ランスは、上記の大飢饉という環境悪化に大きな原因があるのではと考えられているようです。


                                                                                                           平成25(2013)年10月8日  一部加筆