小牧市 東部丘陵地帯に存在していた 大山廃寺についての覚書

               1.はじめに

                 私が住んでおります桃花台からは、北東よりの小牧市野口、大山地区の山中に大山寺は創建されてい
                たという。正式名称は、「大山峰 正福寺」(おおやまみね しょうふくじ)と称していたとか。               
                  ( http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B1%B1%E5%BB%83%E5%AF%BA%E8%B7%A1  最終更新
                                             2009年11月5日 (木) 10:37 参照 )

                                      偶然、小牧市立図書館の支所であります東部市民センター図書館にて 大山廃寺遺跡概説  入谷哲夫
                著を見つけ読みまして、おぼろげではありますが、その全容らしき全体像を得る事ができました。

                 その後、小牧市により大山廃寺跡にあります稚児神社周辺の発掘調査が行われ、その全容がさらに解
                明されたようであります。
                                                                       
               2.大山寺の創建

                 この大山寺は、西の比叡山延暦寺、東は大山寺と言われていた程、その当時から知られていたとも聞き
                及んでおり、大山三千坊と称していたとか。これは、誇張でありましょうが、それなりの規模の寺であったと
                推察いたしております。

                 市の発掘調査にて、この寺の最初の創建は、白鳳時代(7世紀末)で、室町時代まで盛衰を繰り返し存続
                したことがわかったようであります。最初の大山寺は、白鳳期のどの年代頃創建されたのでありましょうか。

                                     この発掘当時、学生であった佐々木某氏より、その当時の事をメールにて、ご教示頂いた。
                 「私はこの大山廃寺の発掘調査の末端に 高校3年〜大学3年まで参加していましたので、知っている範囲をお知
             らせします。

                1. 軒丸や平瓦[文字入り 山寺 ]は、現在の社務所よりやや低い位置の傾斜面より出土。
                2. 稚児神社建物の周囲を取り囲むように堀くぼめたところ、別の時代の基礎根石構造が出土。
                3. この稚児神社への直近の現在の道路付近より鎌倉時代?の鉄製風澤が出土。
                4. 塔の礎石位置を頂点に、下に向かって通路*道路の左右に平坦面が何箇所か有り、多分最大面積の平坦
                 面を満月坊としていたのかと想定しています。
                5. このやや低い位置にある平坦面の東と記憶していますが、(後日 報告書を確認され、西であると連絡
                 がありました。)銅器への鋳造遺構とし
てフイゴと炉体そのものが地上露出していました。
                6. 奈良時代の出土物としては上記の瓦と須恵質生地に緑釉されたものと奈良須恵鎌倉時代の出土物として、
                 中国からの輸入陶器と日本各地の甕やすり鉢、そして
大量の山茶碗[厚手と薄手]
 
               この内容は、市の小牧の文化財と同じ内容であり、信頼に足るものと考えます。よくぞまあ、覚えてみえるも
             のだと感心してしまいました。私と違って、まだまだお若い方のように推測いたしております。どうぞ、これから
             先も、ご活躍を紙上より祈念いたします。
              

                                   * <     尾張国分寺、大山廃寺建立    >
                 730年代頃(8世紀過ぎ、天平年間頃カ)に、建立されたと、昭和56年初版 名古屋市博物館発行 「尾
                                    張の歴史 展示解説U 古代」に記述されておりました。

                 国分寺、国分尼寺を国に一つずつ建立する詔(741年)を聖武天皇が出されて結実する事となっていっ
                                    たようでありますが、地方の国司は、疲弊していたようで、紆余曲折がありましたが、実現されていったの
                                    でしょう。

                 尾張では、稲沢の地に、国分寺{現 稲沢市矢合付近 元慶8(886)年焼失}、国分尼寺(現 稲沢 法
                華寺辺りに、建立カ)が、建立されたようです。

                 とすると、白鳳期(7世紀末)創建の大山廃寺は、国司が関わった寺ではないと推量できましょうか。
                  奈良時代以前の建立とすれば、大胆な推察をすれば、春日部郡司として、かって尾張国造として君臨
                 していた尾張氏が関わっていたと考える事も出来ますし、丹羽郡にかって県主として君臨していた丹羽
                 氏が、大山寺のある現 小牧市字大山のすぐ近く、現 小牧市字林、と池ノ内カに山を越え、進出し、こ
                 の地を開発したのではとも推察されるのであり、この丹羽氏の一族が、建立したとも言えるのではと考え
                 ますが、どうでしょうか。大山寺の残存瓦からは、白鳳期まで遡ると推察されており、仏教興隆の詔が、
                 594年、聖徳太子が、推古天皇の摂政となった翌年に出され、再度645年にも出され、これに呼応して、
                 財力のある在地の国造、県主等が、建立したとも言えるのではないでしょうか。幸い篠岡丘陵では、6世
                 紀以降11世紀末まで、穴窯が作られ、陶器、瓦等が生産されたようであります。また、こうした古代寺院
                 建立の機運が衰微する時期に、篠岡窯も機を一にして衰微していったのも、こうした需要が無くなった事
                 と関係していたのでしょう。拙稿 古代に於ける 尾張北部地域の窯業地帯についての覚書 参照

                                       一宮市史 本文編 上、犬山市史 通史編 上 にも、尾張 古代寺院創建時の編年として、一覧表があ
                ります。
                 7世紀中   丹羽郡 長福寺廃寺
                         葉栗郡 音楽寺
                         愛知郡 元興寺。

                 7世紀後半 丹羽郡 伝法寺廃寺、川井薬師堂廃寺、御土井廃寺。
                         葉栗郡 黒岩廃寺、東流廃寺。
                         中嶋郡 東畑廃寺、三宅廃寺、薬師堂廃寺。
                         春日部郡 弥勒寺廃寺、勝川廃寺、大山廃寺、観音寺廃寺。
                         山田郡 小幡廃寺。海部郡 甚目寺、法海寺、清林寺、寺野廃寺。
                         愛知郡 極楽寺。
                         知多郡 法海寺、奥田廃寺、大高廃寺。以上でありました。           

                 もし、各地の廃寺が、白鳳期の創建であり、年代が、上記 仏教興隆の詔が出された594年、続いて645年
                の詔を請けた後の事であれば、仮に創建年が、600年〜683年の間であれば、白鳳期の684年には、東海
                地震、東南海地震、南海地震が連動して起こった年であり、この地域でも相当の被害が、出たことを考えねば
                ならないでしょう。それが、廃寺化を加速したとも考えられるのかと。尾張地域にある白鳳期の寺院は、軒並み
                廃寺となっている事実もあり、財政的な事と同時に、こうした天災(洪水等を含めた)による事も考慮すべきかと
                推察いたしました。

                 「尾張の最古とされる寺院として一宮市千秋町の長福寺廃寺があった。付近に心礎が残り、軒丸瓦の文様は
                素弁蓮華文で創建年代は7世紀半ばと推定される。7世紀半ばの尾張元興寺遺跡(名古屋市中区正木町)や東
                畑廃寺(稲沢市稲島町、この廃寺の軒丸瓦は、現 小牧市大字大草で焼かれた瓦である事は証明されていると
                か・・筆者注)と並ぶ初期寺院であり、豪族主導の寺院が築造されていた。一方で、国家仏教の導入により各地
                方に波及してきた。」という記述もありました。   (詳しくは、以下のHPにて確認されたい。
                http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BE%E5%BC%B5%E5%9B%BD 最終更新 2012年9月30日 (日) 13:07 )

                 余談ではありますが、「尾張の歴史」名古屋市博物館発行冊子では、「4世紀後半から5世紀初頭にかけ
                て、尾張平野北部には、大県神社を祭る集団が、勢力を持っていたようで、後の丹羽県君を中心とする集
                団は、当時、既に大和朝廷と政治的に繋がりを持っていたと考えられているようです。

                 更に、5世紀後半から6世紀初頭になると、尾張平野南部の勢力が強大となり、6世紀前半には、尾張地
                方全域を支配化に置いたようです。これが、後の尾張連氏であるという。

                 この頃の尾張は、当時東国進出の前進基地の役割を果たしていたようで、尾張氏は、この大和政権の武
                力を背景に勢力を伸ばしていったと考えられると言う。

                 また、尾張氏と丹羽氏の婚姻伝承は、尾張氏が、丹羽氏を勢力化に置いた過程を反映したとも考えられる
                のであり、尾張氏は、5世紀末には、継体天皇に妃を入れ、その子は、後の安閑、宣化天皇となっています。

                 継体天皇は、皇統断絶の危機に際して、畿外から迎えられた天皇であり、その即位にあたっては、尾張氏の
                果たした役割は、相当大きかったであろうと推察されます。また、この頃が、尾張氏の絶頂期であった事も大き
                く関わっていたのでありましょう。5世紀末には、国造制が始まり、尾張氏は、尾張国造となり、県主とは、格段
                に違い支配力を持って君臨していったものと思われます。
                 そして、大和朝廷は、地方支配を強化する為、国造の支配する地域に、屯倉(大和朝廷の直轄地)を設けてい
                った。尾張には、間敷屯倉(所在地不明)、入鹿屯倉(現 犬山市 入鹿池になった所付近カ)が、設けられたよう
                であります。」以上の記述から、初期(白鳳期、7世紀末)の大山寺は、在地の豪族が大和王権の方針に沿って
                建立した可能性が大きいのではと類推いたします。

                                    「 この当時の寺院は、豪族の手になるものであって氏寺(うじでら)の性質を持っており、氏族の福利繁盛を祈
                る為に造営されたと考えられている。尾張地方に仏教寺院が造営され始めるのは、白鳳時代に入っての事であ
                り、一宮市浅井町 黒岩廃寺が最も古い例である。元興寺址、勝川廃寺等のある地域は、古墳時代に多数の
                古墳が造られたその地方の中心地域に当たっていることは、畿内と同じく、その造立主がその地方の豪族であ                                 
                ったことを示すものであろう。しかし、この当時建てられた仏教寺院は、氏族の福利繁盛を祈ったものであり、仏
                教の教義そのものが理解され、信仰されていたわけではない。したがって、仏教の教理と矛盾する古墳の祭祀
                が寺院の造立と平行して行われていたし、この寺院建築の土木技術が、逆に古墳造営に転用されていったので
                ある。」( 春日井市史 通史 P.80 参照 )とも記述されています

                 補足でありますが、尾張氏は、初期の頃は、内津神社を祭っていたようであると(春日井市史 参照)記述され 
                る市史もありますが、熱田台地の尾張連氏は、新修 名古屋市史においては、伊勢湾に近い辺りが本貫地であ
                ろうとされておりました。そこから尾張地域全体を勢力化においていったという事のようです。とすれば、尾張戸(
                おわりべ)神社は、熱田神宮(尾張氏の氏神さま)の奥の院という言い伝えもあり、何かしらの因縁を感じますが、
                支配下に入った豪族でありましょうか。
                 また、篠岡66号窯跡からは焼かれた瓦片が、出土し、その瓦片には、文字が刻まれていた。「田楽里張戸」、
                「50長」等々、解読するに、里長、田楽(たらが)の里長を東谷山付近で、勢力を持っていた尾張戸(おわりべ)
                が兼ねていたとも読み取れるのではという小牧市の発掘調査報告書もあります。
                 こうした瓦は、寺院へ寄進された物であったかと。この尾張戸も尾張氏と何らかの関係があった豪族ではない
                かと推察いたすのであります。
                
                 更に、仏教思想の浸透、火葬墳墓の開始は、古墳祭祀の消滅を意味するようであり、以後古墳は、造営され
                なくなっていったようです。

                 {この初期(7世紀末)の大山寺は、早い時期に消滅したのでありましょう。その後の事は、「大山寺縁起」史料
                として残され,それによるとその後の創建者は最澄で,延暦年間(782〜806年)ということでありましょう。
                 それが、最澄の創建時代と,塔跡から出土する瓦の年代とは一致しない理由でありましょうか。最澄が大山寺と
                名付けたが間もなく立ち去り,しばらく廃寺となったという。平安末期にこの寺は、再興され,西の比叡山と並び称
                せられた寺と伝えられているようであります。}
                 ( 詳しくは、小牧市 HP http://www.aichi-c.ed.jp/contents/syakai/syakai/owari/owa036.htm  参照 )

               3.延暦寺と三井寺の確執による大山寺焼き討ち論について
                  「最澄が創建した比叡山 延暦寺では、1152年に比叡山延暦寺と三井寺との間に起きた法論がもとで、天台
                 宗は三井寺(寺門)派と延暦寺(山門)派の二つに別れたのであり、この法輪により、三井寺僧徒によって襲撃
                 され、大山寺(山門派)は焼き討ちされ、建物は跡形もなく焼き尽くされたと言う言い伝えがあるやに、和尚と2人
                 の稚児(子供の修行僧)が死亡したと言われております。以後細々と続いていたようですが、15世紀中頃には完
                 全に廃絶したとのことであります。」 とウィキペディア 大山廃寺跡 には記載されているようです。
                   ( http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B1%B1%E5%BB%83%E5%AF%BA%E8%B7%A1  参照 )

                  しかし、三井寺 HPでは、山門派と寺門派に別れたのは、円珍の死後、円珍門流と慈覚大師円仁門流の対立
                 が激化し、正暦四年(993)、円珍門下は比叡山を下り一斉に三井寺 正式名称 長等山園城寺(ながらさんおん
                 じょうじ)
に入ります。この時から延暦寺を山門、三井寺を寺門と称し天台宗は二分されたという。

                                       大山寺炎上は、三井寺僧徒の焼き討ちと言う伝説ではありますが、法輪とは、どのような論争であったのか、近
                                     衛帝の時期の出来事でもあり、いまいちはっきりしないのであり、どこから三井寺僧徒の焼き討ちという話がでて
                                     きたのか、その出所もはっきりしていないのではないかと・・・・・。

                  また別の小牧市のHPには、 大山廃寺として記述された箇所もあり、その部分を抜粋すれば、以下のようにな
                 ります。
                  「伝説では、大山寺は仁平2年(1152)に僧兵の焼き討ちで炎上し、廃絶されたとされています。発掘調査でも10
                 世紀の掘立柱建物を埋めている整地層に多量の灰を含んでいて、火災があったことは確実ですが、出土土器
                 の年代から類推すれば、延暦年間よりはやや古い時代に創建されていたと考えられるようであります。」という
                 内容の記述もあります。事実は、そのようであったということでしょう。

               4.大山廃寺についての小牧市史の記述と発掘調査結果について
                  大山寺については、小牧市史 通史にも記述があり、そこから分かる事柄も併記しておきます。
                  大山廃寺についての資料は、@土地の伝承とA江岩寺(大山廃寺近くにある寺)に伝わる的叟著 「大山寺縁
                 起」( 寛文8年 )とB年代不詳、作者不詳の「江岩寺縁起」の三つのみであるようです。

                  さて、その「大山寺縁起」によれば、「延暦年間、伝教大師この地に来らせ給ひて当山を開創し一宇の草庵を
                 結び名づけて大山寺と号し」とあり、その後何処へか立ち去られた。その後、大山寺を再興されたのが、叡山 
                 法勝寺 住職 玄海上人であり、永久年中(1113〜1117年)のことであり、この大山寺を大山正峰寺と改称さ
                 れた云々とあります。

                  また、「江岩寺縁起」では、永久年中に、玄海上人が、大山寺へ来られ、大山寺を大山峰正福寺と改称された
                 と記述されている由であります。この二つの記述は、西暦1113〜1117年頃の事でありましょう。この頃から約
                 40年間位が、大山寺の全盛時代であり、東の比叡山、西の大山寺とも言われた時代でありましょう。大山三千坊
                 とも、大山五千坊とも伝承が伝えられるようになった時代でもあったのでしょう。( 小牧市史 通史 P、82〜84 
                 参照 )

                  また、火災により全焼に近い被害にあったことも記述されておりました。「大山寺縁起」によれば、「近衛帝の御宇
                 勅願の儀につき比叡山と聊か法論を生じ、叡山法師一揆を起こし押し寄せ数坊に火を放ちける。」と記され、炎上
                 時の模様につても、「大山寺縁起」では、「大山の僧徒拒(ふせ)き戦ふと雖も上人は本堂に安座し更に指揮し給は
                 ず火裏に清冷を念じて四万の煙に等しく命を終らせ給ふ両児は何をか期す可きと直に焔に駆け入り時の塵とぞ成
                 り給う悼(いた)き有様なりまことに数ヶ所の大伽藍一宇不残仁平2(1152)年3月15日消失す。」と記されていると
                 いう。小牧市史 P85には(両児とは、当時三河の牛田某と近江から佐々木某が当寺へ修業に来ておりともに、少
                 年僧であった。なお、攻めてきた僧兵は、三井寺であったとも言う。延暦寺と三井寺の争いに巻き込まれたというも
                 のである。)とも記述されています。

                  ( 私の独断と偏見ではありますが、小牧市史の記述には、所々、事実と違う事柄が記述されている事もあるやに
                 思われます。私も既に、篠岡の亜炭廃鉱跡の記述では、事実と違う記述に遭遇しており、そうした記述が元で間違
                 った流言蜚語が蠢いてきたと言わなければならないでしょう。この小牧市史 P.85の記述も、もしかしてその部類
                 に入るやも知れません事を危惧いたします。)

                  しかし、大山寺の火災は、「大山寺縁起」によれば, 叡山僧徒による放火であり、それが、叡山と大山寺の法輪で
                                     あった事が原因でもあるようです。一体どのような法輪(仏の教え、仏法)の違いであったのでしょうか。
                  この違いを歴史小説風に記述されたブログがあり、一読する価値はあるように思いますので、敢えて記載します。
                  ( http://book.geocities.jp/ysk1988tnk/ooyama/4matome1.html であり、一読あれ。)
                  掻い摘んで記述すれば、畿内の延暦寺は、国家護持の祈祷を本願とし、尾張の大山寺は、在地の窮状(水害
                 対策を本願とする。)を救済する具体的な手立ての実施であり、祈祷ではない。とした中央と在地の対立であった
                 のではという論調でありましょうか。確かに、そうであれば、相容れない内容でありましょう。 

                  この当時の叡山は、僧兵が力を持ち、貴族に代わって、意にそぐわない事は、武力と神輿でもって事に当たっ
                 ていたようであり、強大な権力で院政を行った白河法皇ですら「賀茂川の水、双六の賽、山法師。これぞ朕が心
                 にままならぬもの」と言っているのであり、山は当時、一般的には比叡山のことであり、山法師とは延暦寺の僧兵
                 のことでありましょう。かような状況であり、この後も、延暦寺は、更に財力、経済力、武力を巨大化させ、織田信
                 長により、この力は、壊滅させられるのが歴史的な事実でありましょうし、更に一向宗徒とも、戦国大名は、対峙し、
                 どちらかが倒れるまで争い続けたと言えましょう。

                  話は、大山寺炎上後のことではありますが、「大山寺縁起」によれば、近衛天皇{在位永治元年12月7日(1142年
                 1月5日) - 久寿2年7月23日(1155年8月22日)}の病気が大山寺の上人と少年僧のたたりであるという占いが出た
                 ので、都から勅使が送られ稚児神社が建てられるまでのあらましが記述されているという。更に、過去の大山寺の
                 事を、別当が、「其内の弥勒菩薩は焼け玉わず太鼓堂、釣鐘堂已残り居り」と申し述べている言葉があるという。そ
                 れ故大山寺は、全焼したのではなく、部分的に残り、その後も継続して存続していたとも推察できるのであります。

                  また、「建武2(1335)年の円覚寺文書には、篠木庄大山寺が、白山円福寺(春日井市高蔵寺ニュータウン付近)
                 と図って、篠木庄の地頭である円覚寺の支配地であろう田の<刈田狼藉>」(小牧市史 参照)を働いた一件の文
                 書もあり、比叡山同様の僧兵もどきの事件をも大山寺は、起こしていたのでしょうか。

                  しかし、この篠木庄大山寺と、大山廃寺とは、同一のお寺であったのか、私は、円覚寺文書を直接みていません
                 し、今は、確認すべき方法も持ちえておりませんので、小牧市史 P85の内容を記述するに留めておきます。が、春
                 日井市史 P126では、建武3(1336)年と記述されていますので、どちらかが読み取りミスか、記述ミスをしている
                 のでしょう。

                  以上が、縁起に書かれたことの抜粋であり、円覚寺文書の記録から分かる事柄でありますが、小牧市の発掘調
                 査も行われていまして、その調査により下記の事柄が、分かってきております。                  

                  また、大山廃寺調査より 平安時代には、「山寺」と呼称されていたことは、出土土器の墨書により分かるようで
                 ありますが、規模までは、明確には出来ないようでありました。

                  その調査では、女坂の途中にある平坦地より、奈良時代から中世に至る間の各時代に使用されたと思われ
                 る土器が数多く出土しており、中には皿の底に「満月坊」と墨書された物や茶碗の高台裏に「満」とか「万」と墨
                 書された物も発見されており、「満月坊」なる僧坊のあったことが、中世の頃には推定できるようであるとか。また、
                 満月坊からは、美濃系の山茶碗、山皿、すり鉢、卸皿等の厨房土器が多数出土しているという。

                  この美濃系の山茶碗については、次のような記述に注目されたい。「鎌倉から室町時代中頃にかけては、2
                 50基余りの白し系窯(山茶碗窯、別名 行基焼きとか茶碗底にもみ殻跡がみられるので もみがら焼きとも言
                 われている)がみられる。土岐川以北の高社山とその東麓、長瀬山地一帯に窯跡は分布していた。」(多治見
                 市史 通史 上 P 345参照)ようであり、「 さらにもう一つの問題は、原料(陶土)の確保の問題である。古
                 代、中世の初期の陶土の採掘技術では、露出粘土層をたて堀でしか採掘できなかったようで、その粘土層の
                 大部分を掘り尽くすと最下部の粘土層でないところで採掘を止め、埋め戻しをし、山に燃料があっても陶器つ
                 くりの窯を放棄しなければならないくらいの大問題であった。」( 美濃窯の焼き物 多治見市教育委員会編集 
                                        1993 P 96 参照 ) という。

                  その為、土岐川以北での陶器製造を放棄しなければならなくなってしまったようである。採掘技術が進歩すれ
                 ば、露出粘土層のさらに一つ下の層に粘土層があり、それを利用できたはず。その為には、採掘技術の革新
                 を待たねばならない時代背景がそこにあったのであろうと考える。

                  やむを得ず、山々の木々の資源が豊富な、同時に露出粘土層が十分ある土岐川以南へ移動を余儀なくされ
                 てしまったと考えられる。その結果、脇郷(現 多治見市平和町)での最初の窯は、鎌倉末(14世紀頃)に旧 平
                 和中学校の運動場あたりに昭和窯がつくられたようであるという。(美濃の古陶 昭和51年、美濃古陶研究会 
                 光琳社 )その後、15世紀にはいり、脇郷では、旧字 かまヶ根に3基の窯が作られたようである。(前掲 美濃
                 の古陶 参照) この操業も16世紀初頭には終了してしまうのである。(多治見市史)とあるように鎌倉期から室
                 町中期までの間のどこかまでは、大山寺は、存続していた可能性はあるともこの多治見市史の記述からも類推
                 して言えましょう。この美濃系の山茶碗を手に入れ、使用していた事実から推察できるのであります。

                  何故、満月坊で、美濃系の山茶碗等が、使用されるに至ったかは、拙稿 古代の尾張北部地域の窯業地帯
                 についての覚書 でも述べておりますが、大山寺に近い篠岡窯は、平安末期(11世紀末)には、原料や燃料の
                 不足により、篠岡窯の使命は、終焉したようであります。それに替わって、11世紀中ごろに美濃の多治見地域
                 では、土岐川川北において、伊勢神宮領の池田御厨へ、猿投古窯工人が、招かれ白し窯にて、灰釉陶器の製
                 作が行われていったようであり、その後、川南にて、白し系窯(山茶碗窯)での作陶がなされていった事は、先述
                 の通りであります。

                  その後何故、幻の寺 大山廃寺跡として後世に遺跡として名を残すに至ってしまったのでしょうか。
                  そうした事柄に答える拙稿が、尾張国 東北部一帯の歴史的推移に関する一試論   ー 尾張国 大山寺の
                 変遷と尾張国に関わる政治情勢の推移を主にして −   であります。

                 参考文献
                  ・  小牧市史
                  ・  春日井市史
                  ・  尾張の歴史 展示解説T、U 名古屋市博物館発刊
                  ・  大山廃寺遺跡概説      入谷哲夫著
                  ・  小牧の文化財 第二集  復刻版 平成3年 小牧市教育委員会
                  ・  小牧の文化財 第二十集 小牧の歴史 平成17年 小牧市教育委員会
                  ・  小牧の文化財 第七集 昭和54年 小牧市教育委員会
                  ・  美濃窯の焼き物      多治見市教育委員会編集 1993
                  ・  美濃の古陶    昭和51年、美濃古陶研究会 光琳社
                  ・  多治見市史
                  ・  一宮市史 本文編 上
                  ・  犬山市史 通史編 上  
                  ・  新修 名古屋市史 第1巻                                 
                                                        平成24(2012)年 4月21日   再改訂
                                                        平成24(2012)年 10月2日    加筆
                                                        平成24(2012)年12月16日   修正・加筆
                                                        平成24(2012)年12月27日    修正・加筆
                                                        平成25(2013)年5月1日      一部加筆
                                                        平成26(2014)年2月8日      一部訂正