弥生時代についての 各種年代測定法から知られる絶対年代とは

          1.はじめに
             弥生時代と間単に言いますが、この命名は、東京都弥生町から発見された土器が、従来の縄文
            土器とは、大幅に違っていたことから命名され、縄文時代とは違う時代が、存在したということから
            でありましょうか。

             一般的には、「この弥生時代はおおよそ紀元前4世紀ごろと見られており、この頃に大陸文化の影
             響を受けた九州北部で、水稲農業と金属器の使用が始まった。これらは紀元前3世紀までには西
             日本一帯に広まった。

              水稲農業は中国の中部および南部で早い時期から始まっており、この水稲技術が日本に伝播し
              た経路については諸説がある。その中で最も有力と見られているものに、「長江下流域から朝鮮
              半島を経て伝来した」という説である。

               その根拠は、朝鮮半島南部と北九州に共通する遺物が見られること、この時代に使用されてい
              た石包丁が北九州と江南・朝鮮で類似していること、北方系の乾燥地で見られる貯蔵施設である
              「穴倉」が、弥生時代の初期の遺跡にあること等から、この説が有力視されているのでは・・・。

                                 しかし、当HPの管理者は、この説を取っておりません。確かにそうした伝播は、あったでありまし
              ょうが、北九州、瀬戸内地域への最初の伝播に当たっては、中国本土からの直接伝播が、主であ
              ったとします。(詳しくは 拙稿 日本に於ける 「稲作」 のはじまりについての覚書 を参照下さい。)
               時間差があって、朝鮮経由の水稲稲作文化が、渡来人と共にやって来たのではないかと。

               弥生時代も、土器の型式の変化を基準として、前期(紀元前300年代から紀元前100年)、中期
              (紀元前100年から紀元後100年)、後期(紀元後100年から300年)の3つの時期に区分される
              という。

               前期には低湿地での小規模な湿田が多く、灌漑や排水のための水路は未発達でありましょうし、海
              岸に近い遺跡では、塩害もあり、なかなか水田耕作は、軌道には乗らなかったのでは・・。また農具も
              未発達であり、鍬や鋤、杵なども発見されているようですが、木製であり、湿田でないと使用不可であっ
              たのでしょう。

               弥生前期の青森県にも稲作が存在した形跡があり、これは海流に乗って伝わったものと見られてい
              る。

               このことから、弥生時代には陸路だけでなく海路による交通も発達を続けていたと考えられている。ま
              た、占いに用いられた卜骨が、島根県の古浦遺跡から出土しており、前期から鹿の骨による卜占が行
              われていたらしいことがうかがえる。

               中期からは弥生文化が関東地方に波及し、縄文式土器の影響を強く受けた形式の弥生式土器が作
              られた。

               当時の関東および東北地方では、「再葬墓」(縄文期にみられる墓の特徴のひとつで、一度土葬して骨
              だけにしたあと、壷に入れて再び埋葬した墓)がみられたが、北九州では支石墓の(上蓋に当たる石を数
              個の石柱で支えた墓)や甕棺墓(土器の甕を棺とした墓)が、近畿地方では方形周溝墓(棺を低い方形の
              墳丘に葬り、その周囲を溝で囲った墓)が盛んにつくられている。

               近畿を中心にして、銅鐸による祭祀が始まり、また瀬戸内海沿岸に軍事・防衛的高地性集落が作られ
              たのも中期のことである。

               弥生時代は本格的な階級社会が生まれた時代でもある。

               農業作物は各集落の構成員が共同で管理していたと見られているが、農地を開拓するための灌漑工事
              には複数の集落が協力し合って作業する必要があった。そのため、この複数の集落を統率する首長が誕
              生し、やがて工事の指揮だけではなく、他の地域集団との交易や戦争、さらに余剰生産物の管理や利用
              に関しても権限を持つようになった。

               集落の集合体である地域集団の首長たちはお互いに戦争を繰り返し(交易品や農地、交通路をめぐる争
              いだったと見られる)、勝った集団が負けた集団を吸収して、各地に小国が生まれた。

               首長は死亡すると全長が何十メートルもある墳丘墓に、おびただしい副葬品と共に葬られた。墳丘墓の規
              模にも格差があり、また墳丘に葬らずにただ木棺や石棺、土器棺に遺体を入れられて地下に埋められただ
              けの墓もあった。

               これらのような埋葬方法の違いは、集団の中に身分の格差があった事を示している。地位や権力のある者
              は大規模な墳丘に副葬品を伴って葬られ、一般人は共同墓地に葬られたと考えられる。

               当時の中国の史書「漢書」地理志によると、紀元前1世紀ごろの日本(当時は倭国と呼ばれていた)は百国
              以上に分裂していて、漢が朝鮮半島に設けた楽浪郡(現在の平壌付近)に定期的に使者を送っていた、と書
              かれている。
               また「後漢書」東夷伝には、西暦57年に倭の奴国(なこく)の王の使者が後漢の都である洛陽(らくよう)に行
              き、時の皇帝である光武帝から金印を与えられた事、および107年にも別の倭国の王が160人の「生口」(こ
              こでは奴隷の意)を後漢の皇帝である安帝に献上した事が記されている。

               当時の倭国の王たちが漢に使者や献上品を送った目的は、中国の皇帝の後ろ盾を得て自らの地位を権威
              づけたり、また中国の先進文化をとりいれたりするためだったと考えられる。」
              ( 以上の事は、http://www.mm-labo.com/culture/history/japanex/yayoi/yayoigaiyou.html からの引用であ
              ります。詳しくは、上記URLにて参照下さい。 )

            2.炭素14年代にもとづく弥生時代の開始年代
               詳しくは、http://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/news/index.htm を参照下さい。それによると、北九州に於ける
              弥生時代の開始は、「北部九州の弥生早期は少なくとも前9世紀、弥生前期は前8世紀までさかのぼる可能性が
              つよくなってきた。」という。。ちなみに、縄文晩期の始まりは、「前1200年前頃」とか。また、弥生前期の期間は、「
              弥生前期は400年間にわたっている。従来、弥生前期の時間幅はこれまで約150〜200年間と見積もってきたから、
              炭素年代を較正した結果によれば、その時間幅は非常に長い。その間の人口増加、社会発展についてはきわめ
              て長期的な年代幅のなかで再考しなければならなくなる。」という結果であるようです。中国の文献に出てくる事柄
              は、すでに年代が確定しており、相当長い期間が、弥生時代であったのでしょうか。卑弥呼の時代は、小国家の時
              代であり、卑弥呼の死去、塚(古墳)が築造されているようであり、既に古墳時代へと入っていたのでしょう。ちなみ
              に、卑弥呼の死去は、「247年 魏の使者張政が邪馬台国に到着した時、卑弥呼はすでに死んでいて、直径百歩の塚を作っていた。」
              3世紀中ごろだったのでしょう。

            3.尾張地域に於けるC14測定法を用いた弥生時代の絶対年代について
               詳しくは、名古屋大学における年代測定法 http://www.amy.hi-ho.ne.jp/mizuy/how/owariC14.htm を参照
              して、頂く事にして、掻い摘んで記述します。
               「確かに(見ようによっては)従来の年代観より50〜150年遡る可能性が示されたと言えるかもしれないが、そ
              の程度は各種の誤差の範囲内ではなかろうか。とりあえず(クロスチェックを含めた)試料数の増加を期待した
              いし、各種編年上の整合性も研究課題としかいいようが無い。

               今回の成果を控えめにまとめると、下表のようになる。ここから例えば、弥生時代後期→紀元前1世紀、古墳
             時代早期→紀元1〜2世紀、古墳時代前期→紀元2〜3世紀という推定が可能かと言うと、それは難しいだろう。
弥生時代後期 八王子古宮II式〜山中I式 BC166〜AD19
古墳時代早期 廻間I〜II式 BC105〜AD316
古墳時代前期 廻間III式〜松河戸I式 BC45〜AD317

              C14年代自体は、あくまで目の粗い物差しだと思う。ただ、測定結果を積み増していく事で、特定型式の年代参
             考値を得られるかもしれないという事である。 」 という。

              *  まだまだ、絶対的な信頼下での数値ではないかのようです。
            
              参考までに、当春日井地区には、弥生前期の弥生集落の存在が、確認されております。「弥生時代前期(紀元前
             2世紀ごろ)のムラは、北東から南西に流れる幅約12メートルほどの自然流路を利用し、その両岸に2条の環濠とさ
             らに外側に延びる1条の濠を巡らすもので、南北180メートル東西110メートルほどの規模が推定されます。環濠の内
             側からは多数の生活跡が、確認され、弥生時代から始まる外来系の遠賀(おんが)川系土器や縄文時代から継続す
             る伝統様式の条痕文系土器、石鏃、石斧などの石製品の他に弥生時代前期の遺跡としては尾張地方では初めての
             木製品が出土しています。」 この遺跡は、松河戸遺跡というようです。現 春日井市松河戸町の地下から発掘され
             ました。 ( 郷土誌かすがい 第54号  参照 )

              ここから出土した物は、 春日井市柏原町1丁目97番地1(中央公民館北館1階)  民俗考古展示室で、常設展示され
             ているようです。

           4.尾張地域の弥生時代の雑感
              北九州・畿内からみれば、尾張地域の弥生時代は、1世紀遅れの進展でありましょうか。それ故、畿内方面より文化
             のみならず、人的な流入により、有形無形の影響を受け、尾張に古くから定着した在地の有力豪族は、反発したり、受
             け入れを余儀なくして、進化していったのでありましょう。そうした畿内方面より進出してきた者に、尾張氏・物部氏・凡
             氏等々がいたのでありましょうか。概して3世紀頃に来たのではないかと推測いたしております。

              尾張・美濃地域の在来の有力氏族は、小池 昭氏によれば、{「濃尾平野の歴史 1 原始・古代編」 昭和57年発行
             参照 }美濃地域には、犬山対岸の村国神社辺りを本拠としたムラクニ氏と手力雄神社辺りを本拠とした旧 大和地域
             では鏡作りの職を司っていたであろう氏族であり、後には、カガミ氏と呼称したかと・・。この両氏族により、犬山の対岸は、
             発展してきたのではと推測されていました。

              対して、犬山地域では、本宮山を本拠とする ニワ氏と尾張富士を本拠とするフジ氏が競合し、フジ氏は、ニワ氏の勢
             力下に組み込まれたのでは・・。と推測されていました。

              そして、木曽川の1・2・3の枝の東側までは、ニワ氏により開拓が進められたと。同様の事は、小牧市の在野の草分け
             的な史家であります入谷哲夫氏も言われておるようであります。( JA尾張中央 広報誌 ふれあい 2009.7 VOL88
             「 タマヒメ故郷に帰る 」  参照 )

              3の枝の西側から4の枝にかけては、ムラクニ・カカミ氏により開拓がされたのでは・・・。と。両氏は、本拠をカカミから
             一宮の真墨田に移し、ニワ氏への遅れを取り戻そうとしたという。そんな頃、中央大和王権より使命をおびたオホ氏が
             やってきた。このオホ氏は、進んだ技術を提供しながらこの地でマスミ氏として存在することになったムラクニ・カカミ両氏
             に協調ししつつ、大きな勢力となっていったという。おそらく5世紀頃の事であろうという。また、三輪氏も、やって来たので
             ありましょう。

              木曽川筋から一転 庄内川流域に目をやれば、高座山山麓と河岸段丘に到達したカスガ氏の一団があったのであり
             ましょうか。対岸の東谷山一帯を統合したカスガ氏として発展したのであろうと。そして、氏は、このカスガ氏が、庄内川
             を下り、味美・あじま地区の古墳群を造っていったという認識のようであります。

              3世紀末から4世紀にかけては、ニワ氏が、強大になっていく時代であり、尾張随一の強大国となっていったようである
             と言う。稲作による安定的な食料供給と扇状地の桑の木の栽培による養蚕の振興、絹織物の生産で強大化したという。

              青塚古墳の築造年代は、4世紀中ごろかと推定されています。犬山市の南部 標高31mの洪積台地の端に位置する
             前方後円墳であり、県下では2番目の大きさの古墳であるという。古墳の主は、大荒田の君とされているようです。

              この青塚古墳の周りには、陪塚が、大正5年の調査では、17基を数えたという。現在は、5基を残すのみという。
              (コマ塚・稲荷山・花塚。九器塚・亀塚の5基が、残存しているようです。)

              3世紀後半、畿内ヤマト王権は、東国征伐を開始。ヤマトヒメは、5人の武将を従え、大和三輪笠縫を出発し、琵琶湖
             東岸を通り、揖斐川を越えて、美濃に入り、尾張へと侵攻したが、ニワ王国の反撃にあい、ヤマトヒメ軍団は、ニワ王国
             軍に敗れ、ニワ王国の西部をかすめて、方向を伊勢方向に転じ、その時、伊勢を大和王権の勢力下に組み入れたとい
             う。しかし、伊勢の地にも、従来の在地に根を下ろした 猿田彦を祭る一族が居り、容易には伊勢の地に入れなかったと
             いう。それ故であろうか、一宮市今伊勢の酒見神社内には、ヤマトヒメ伝承があり、碑も存在しているという。

              伊勢湾に面した地域は、アマ氏族が、漁労を生業として定住しており、この地域は、尾張地域の中でも更に遅れた地域
             でありました。ヤマト王権とは、早くから協調したのでしょうか、4世紀中ごろからは、この地へヤマト王権の東国経営の任
             務を帯びた者の移住があったようで、武力を要した物部氏は、武具と鍛冶民を伴っており、尾張地域の在来の氏族よりは
             比較にならない戦闘力を持つ強さであったという。
              尾張氏の先祖であろうオトヨの時代には、ニワ王国と競合し、ニワ王国を統合するに至らなかったという。

              そのニワ王国も、タマヒメ以後は、オホ氏は、マスミ氏と入れ替わり、更にニワ王国に入り婿となし、先代のニワ氏を邇
             波氏と記述し、後代のニワ氏は、丹羽氏と記述して区別しているようであります。

              そのニワ王国のタマヒメは、尾張氏のタテイナダネとの婚姻が成立したようで、さしものニワ王国も尾張氏の軍門に下っ
             たようであります。この尾張氏は、5世紀になって勃興した新興氏族であり、オトヨの妻は、オホ氏の娘 大印岐 真敷刀
             婢(ましきとべ)でありましょうか。タテイナダネの母は、この大印岐 真敷刀婢(ましきとべ)であるという。

              そうした事柄を追認するような記述が、古事記・日本書紀にあるようです。
              { 継体天皇と尾張氏
                  目子比売については、日本書紀、古事記共に記述がありますが、記述内容が、微妙に違っております。
                   「 また尾張連等の祖、凡連の妹・目子郎女(古事記)
                   尾張連草香の娘・目子媛という、またの名は色部(日本書紀)」以上でありました。
                  
                  凡連(おおしのむらじ)の妹という関係が、古事記の伝える間柄。尾張連草香の娘という間柄をいう日本
                 書紀。どのように理解すればいいのでしょうか。

                  これらは、双方とも事実であるとすれば、尾張連草香も”凡連系”という視点でみれば、凡連は、草香の
                 息子であり、見事に辻褄はあうのではないでしょうか。

                  目子媛は、継体天皇が、まだ越前の王であった頃の正妻であったという事を言われる方もあり、確かに
                 継体天皇は、直ぐには大和には、入っていない事から何らかの障害があったのでしょう。皇后は、武烈天
                 皇の妹(皇女)で、継体は、入り婿、後の欽明天皇を儲けているようであります。越前の王であった頃から
                 尾張氏の一族は、既に伊勢湾だけでなく、日本海にも進出していたのでありましょうか。}

              尾張連氏は、天皇家、物部氏と同様、代々世襲していたかどうか。どこかで世代交代があったのではないかと。しかし、
             尾張連氏としての名称は、続いていったのでありましょう。源頼朝も、言ってみれば尾張連氏の系統でありましょうから。