応仁の乱前後の旧 尾張東北部一帯の概観
                                    −主に現 小牧市林・野口・大草等の状況を通して ー

            1.はじめに
               室町時代も応仁の乱前後の当地に於ける領有等の事柄は、史料も乏しく、よく分からないという方が
              事実でありましょうか。

               それ故、やや推測も含めながら記述していこうと思います。
               出来るだけ、出展を明示しながら、推測の部分は、推測と断りながら筆を進めてまいりたいと思って
              います。

               15世紀前後の当地に、関わる人物は、大草城主の西尾道永、尾張守護代で、岩倉を拠点とした織
              田敏広、後、清洲等を拠点とする織田敏定、そして、福厳寺に関わる和尚等々でありましょうか。 

            2.応仁の乱(1467〜1477年)以前の尾張東部について
               「応永7(1400)年4月頃より、足利一門で管領家の斯波氏が、越前・遠江・尾張国の守護を兼任。
               初期の頃は、尾張国へ守護として入部したのではなく、守護・守護代は、京に赴任し、守護代の代理(
              又代)として尾張国へ入部したようです。常竹(守護代の弟カ)が、尾張国へ入部し、守護又代として在地
              で務めていたのではないかと。」(戦国大名と国衆 6 尾張織田氏 岩田書院 2011(平成23年)年
              11月版 参照)
               これより以前は、三国守護の土岐氏が、権勢を揮い、尾張東北部一帯の国衙・公領等を侵略していた
              り、逆に、押領の取り締まり等にも力を発揮していたかと。

                                 参考までに、「観応2(1351年)〜嘉慶元(1387年)までは、土岐右馬権頭( 美濃の豪族 土岐一
             族 土岐頼康。・・筆者注)」( 佐藤進一著 「室町幕府守護制度の研究」上より抜粋 )が、尾張守護を歴
             任していた。所謂 土岐氏の美濃・尾張・伊勢3ヶ国守護時代であった筈。頼康の前の土岐家の守護は、か
             の有名な頼遠であった。

              「康永元(1342)年 頼遠は、京都東洞院通り五条辺りで 光厳上皇の行列に乱暴狼藉を働き、12月1日 
             六条河原で斬首された。が、所領は従来通り安堵された。このころ派手な衣装に身なりを整え、既成の権威、
             道徳をものともせず、平気で好き勝手なことをする連中を婆沙羅(ばさら)と言い、頼遠もその一人であったと
             いう。」 ( 多治見市史 参照 )
              荘園領主層(都の貴族等)にとっては、自らの所領を掠め取る目の上のたんこぶ。そうした者達の標的でも
             あったようで、斬首という結果になったという。
              この頼遠については、美濃守護のみであります。

              {この頼貞の7男 頼遠に関する記述として、多治見市史P.288〜290に二つの事例が記述されていまし
             た。
              其の一つは、「足利将軍御教書」であり、暦応3(1340)年3月4日 将軍家執事 上杉氏から土岐頼遠宛で
             あり、内容は、南宮神社領の地頭代が、社領の年貢を横領したので、雑掌(ざっしょうと読み、荘園の荘官)の
             玄澄が、書類を添えて室町幕府に訴え、其の為、3月4日付けで、将軍家執事 上杉氏より美濃国守護 土岐
             頼遠にその遵行を命じた御教書である。

              二つ目は、名古屋市の大須観音に所蔵されている「宝生院文書」であり、暦応4(1341)年10月25日付け
             の頼遠からの差出文書であり、内容は、宝生院に関係する寺へ、祈祷を申し付ける。また、美濃国地頭・御家
             人、一族が、宝生院に関係する寺への乱暴狼藉は致さぬ事を約定した内容であった。この文書は、美濃国内
             の宝生院に関係する寺向けに出されたのでありましょう。

              *  宝生院(別名 大須観音)は、江戸時代初期、名古屋城築城に合わせて岐阜県羽島にあった寺を移築し
               て現在に至っているとか。                      

              例えば、以下の例は、尾張国内で、その様子を如実に示しているといえましょうか。
              「現 春日井市上条の武士らしい上条太郎左衛門尉(尾張国守護カ)は、暦応3(1340)年頃、地頭の荒尾民
             部権少輔宗顕とともに円覚寺領尾張富田庄と尾張国一楊御厨(イチヤナギミクリヤ)の境相論に際し、実地検分の上、
             注進状を発しており、尾張守護カ的存在として支配権を確立していたと察せられる。」(円覚寺文書 参照)と。

              *上条苗字であれば、柏井荘に関わる立場の武士という位置づけで上条太郎左衛門尉は、働いていたのであ
              ろうか。*

              或いは、「貞治2(1363)年は、或いは正平18年とも言うようですが、猿子頼蔭が、東寺八幡宮領尾張
             大成荘を侵略したため、幕府は、尾張守護 土岐頼康をして、その乱暴を止めさせようとした。」(東寺執
             行日記 参照)

                                参考ではありますが、上記の猿子頼蔭なる人物は、土岐本家の頼康の1・2世代前の血筋を引く一族で
             はないかと。拙稿 http://www.md.ccnw.ne.jp/rekishi_tajimi/tokiitizoku.html 内 3.建武の新政から室町期
             の美濃地域の土岐氏本流の動向と東濃地域の土岐一族の動向 の土岐一族の末裔に当たる者ではないか
             と推察いたします。この東寺に関わる所領も、数世代前の土岐一族と美濃国内では何等かの経緯があった              
             と多治見市史には、記述されております。

              頼康は、幕府からの命に接し、直ちに現地支配者としての上条左衛門大夫入道と乙面左近将監入道の
             二人に対し、頼蔭の違乱を止め下地を東寺雑掌に渡すよう命じた。」(春日井市史 P.132 参照)という。

              *上記2例に出てくる上条左衛門は、上条村在住の武士でありましょう。土豪的な武士であり、在地の支配
             権を有した者でありましょうか。とすれば、居住地から言って、旧 柏井荘内であったと思われます。その後、
             この当時の人物は、歴史上から消え去っていくようであり、大胆な推測が許されるのであれば、この上条氏
             も、乙面左近将監も、もしかすると荘園の地頭であり、在地性の強い武士であったのではなかろうか。両名
             は、土岐頼康が、尾張守護を兼ねるようになると直ぐに被官化されていったのかも知れません。

              在地に定住し、その地域の苗字を名乗って存在し、その当時は、在地に根付いて、地区名を苗字にした場
             合が多々あったのではないかと。
              戦国期には、旧 篠木荘内には、地区の名称を苗字にした名主級武士が、多数存在するようになっている
             とも聞く。*

              {康安2(1362)年2月28日(或いは、正平17年とも貞治元年とも言うようであります。)付の文書請取状
             に、「篠木荘内野口・石丸両郷、光録(土岐頼康)方より寺家に返付さるる渡し状正文一通」}という一文が、
             小牧市史 P.101 に記述されており、これは、土岐頼康が、尾張守護を歴任し、直ちに兵糧米徴発等に
             名を借りた一族及びその軍勢により荘園・国衙領を押領せしが、幕府将軍の命により、押領せし所領を返却
             いたした書状でありましょうか。
              この時は、こうした侵略からも、円覚寺は、両保(野口・石丸)を旧来のように維持できたようであります。}(
             小牧市史 参照)

                               参考として、「観応3(1352)年7月には、寺社本所の沙汰として、近江・美濃・尾張三カ国の本所領半分
             の当年1作を兵糧料所として軍勢に預け置くことになったという。」(岩波講座 日本歴史 5 中世 1 参照)
             記述。
              この記述と同様な記述は、岩波講座 日本歴史 5 中世1 P.38で、「足利尊氏は、幕府創設にあたり、
             有力将士に、院宮・朝臣・寺社領のみならず、国衙領の得分の半分をさいて、恩賞の資源として戦乱の鎮定
             に至るまで”半済法”として制定した。」ようであるとも記述されています。

              上記の”半済法”の趣旨からすれば、当時の尾張国守護 土岐頼康等による兵糧米徴発等に名を借りた一
             族及びその軍勢により尾張国内の荘園・国衙領侵略が行われた事は、旧来の領有者からの捉え方であり、武
             家側からみれば、新しく成立した幕府より正当な権利として認められた行為ではあった筈。幕府にも、開設当初
             は、混乱もあったようでありましょうか。

              ウイキペデイア 半済では、次のように記述されている。
              {”半済法”とは、「現存する最初の半済令は、1352年(観応3年正しくは文和元年/正平7年)7月に室町幕府
             から発布された。当時、全国的な争乱(観応の擾乱)が続いており、軍費・兵糧調達のため、激戦地であった
             近江国(守護:六角直綱)・美濃国(守護:土岐頼康)・尾張国(守護:土岐頼康)の本所領(荘園)を対象として、
             その年の収穫に限り、守護に年貢半分の徴発を認めた。その対象となった荘園・公領を特に「兵粮料所」と呼
             んだという。

                               *  参考までに、”観応の擾乱”と言われた事柄に関わる記述でありましょうか。以下のような記述もあります。
               「文和2(1353)年 北朝方 尾張守護代土岐(詮直カ)氏家人が、南朝方の原氏・蜂屋氏と尾張で戦い、賊
              首20ばかり持参したという。この原氏は、二宮神官として武士化した者のようであるという。」(春日井市史 参
              照 詳しくは、園太暦 巻4 参照)

               その園太暦 巻4 P.265 P.294には、次のように記載されていた。「文和2(1353)年4月10日 尾州合
              戦事」( P.265 参照 )或いは、文和2(1353)年4月10日「今日於尾州有合戦、賊首廿許持上、守護代
              土岐家人等合戦、件當類原・蜂屋等云々.」( P.294 参照 )と記述されていたのが、全文でありました。
               ( 果たして 原・蜂屋と記述された原を二宮宮司 原大夫であるとどのように証明されたのであろうか。別
                段、原・蜂屋等については、具体的な説明は、園太暦 巻4には、ありませんでした。・・・筆者注 )

               上記記述以外にも、文和2(1353)年6月10日の条にも、「楠木・和田在彼勢、又石塔・吉良・率原・蜂屋等同
              發向、件輩皆自八幡出カ、其勢彼是一萬余騎也、・・・」( P.308 参照 )或いは、文和2(1353)年7月9日条
              には、「濃州軍旅頗(スコブル)無其勢カ、自南方被發向輩原・蜂屋・宇都宮・三川三郎等勢六七百騎巳下、・・・」
              (P.327 参照)という記述もありました。

               文和2年前後数年は、北朝・南朝が、京都を占拠しては、交代し、流動的であった。そうした状況での、尾張軍
              (南朝方)の出動であったかと。尾張でも戦い、京都近辺でも戦い、幕府(北朝方)対南朝方に分かれて、主導権
              争いをしていたのでしょう。確かに、原・蜂屋等は、尾張・美濃地域の者であるようです。*

               南北朝の争いは、流動的であり、どちらに転んでもおかしくない展開であったのではなかろうか。戦術的な一瞬
              の判断が、明暗を分けたのでありましょう。

              しかし、室町幕府の初期、足利尊氏は、当座の急場しのぎに出した”半済法”で、騒乱の激しい地域を押さえ
             込めたのでしょうか。1355年(文和4年/正平10年)、幕府は半済の拡大を防ぐため、戦乱の収まった国の半済
             を停止するとともに、戦乱国においても、守護が年貢半分を直接徴収するのではなく、本所(荘園領主)から守
             護へ納入させることとした。
              しかし、守護及びその傘下武士たちは、半済を既得権として、荘園・公領へ不当な介入を続けた。当時の流
             動的で争乱の続く状況の中で、幕府は、武士層だけでなく貴族・寺社層も存立基盤としており、貴族・寺社層の
             権利保全を図るため、武士による半済の抑制に努めることとなったという。

              そして、更に、1368年(応安元年/正平23年)6月、幕府は総括的な半済令(応安の半済令)を発布した。皇族・
             寺社・摂関領などを例外として、全ての荘園年貢について、本所側と守護側武士(半済給付人という)とで均分す
             ることを永続的に認めるものであった。この法令は、一年限りではない。この法令により、守護は荘園・公領の半
             分の支配権を主張することとなり、各地で荘園・公領が分割され、守護の権益が拡大していった。」という事のよう
             であります。}  ( 上記の引用は、ウイキペデイア 半済 によります。
              詳しくは、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%8A%E6%B8%88 最終更新 2013年9月6日 (金) 08:02 参照 )

              こうした一連の幕府の半済令の流れと幕府創設時の在地守護層との間には、半済に対する微妙な捉え方の
             違いが存在したのか、三国守護 土岐家の横暴であったのであろうか。
      
              下記の事例は、その端的な事例ではありましょう。
              「嘉慶2(1388)年にも、篠木・富田両荘へ、乱入し乱暴を働いている立河・糟屋・曽我・斉藤・嶋津・冨田・
             各務入道・宇津木・古見弾正・同小弾正次郎・猿子弥四郎・神戸新右衛門入道・河村兵衛次郎・奥田得丸以
             下の輩を尾張守護に嘉慶2(1388)年任命した土岐伊予守(土岐一族の 頼康の子 康行の弟カ)に足利将
             軍義満は、取り締まるように命じている。
              この両荘は、去々年(至徳3年、1386年)寺家(鎌倉 円覚寺)に返付したが、国中物騒の間隙をぬって、ま
             た、これらの武士達が立帰り、乱暴していたと言う。」(春日井市史 通史 p.127 参照  この春日井市史の
             記述の元になった史料は、鎌倉市史 史料編第2 P、320 第297号文書の室町将軍家義満御教書 嘉慶
             2年5月廿5日付の左衛門佐(花押)<史料には、斯波義将の記入あり。> 土岐伊与守殿<史料には、満貞カ
             と記入されている。>宛文書の内容であるようです。多治見市史では、満負と記述されている人物カ)

              土岐家は、再三の幕府将軍の命令を聞き流し、押領を守護領内で進めていたようで、室町幕府 将軍義満
             は、三国守護たる土岐氏に対し、同族の者に追討を指示し、土岐本家を滅ぼしたようであります。
              参考までに、土岐家の略系図等を載せておきます。
                 <  尊卑分脈による 土岐氏の略系図 >                   
                 頼清ーーー頼康ーーー康行( 美濃、尾張、伊勢の三国守護を父から継ぐ。)ーーー康政 ( 伊勢国の守                                   
             (若くして病死)            |(頼雄の子で頼康の養子となる。)                        護代にする。)                 
                             |       
                              |                         
                              ー満負 ( 康行の弟 京都に代官として派遣し、幕府との連絡役とした。)
                                ( もしかすると、満負は、頼康の実子カ。将軍 義満に康行の悪行・雑言等を言っ
                                 ていたという。確執でもあったのかも知れません。・・・筆者注)
                        頼雄
                         ( 頼康の弟 )
                      
                      <頼忠ーーー頼益>( 頼忠の二男であるが、土岐氏の惣領を継ぐ。)ーーー持益ーーー成瀬
                         ( 頼康の弟 美濃国守護 その後明徳3年 1392年に美濃国司として国衙も所務した。)

                        直氏ーーー詮直( 頼康の従弟で尾張国の守護代。多治見市史では、直詮と記述されている。)
                         ( 頼康の弟 )

               足利将軍 三代義満は、土岐氏の勢力の分散をねらったのか土岐満負の野心を利用し、満負を尾張の守護職に
                               補任した。これにて、土岐氏内部で尾張守護代 詮直と新たに守護職に任ぜられた満負との間に確執が起こること
                               になった。満負の尾張入国を防ごうと、康行、詮直軍が、黒田(木曽川町)で激戦となり、満負は敗走した。
               しかし、これは、結果的には将軍 義満に対抗したことになり、義満は、同族の西池田<頼忠、頼益>父子に康行
              追討を命じた。その後、明徳元(1390)年6月、康行は、守護を解任され、三国守護は終わりを告げたのである。
               上記の二つの事件をあわせて土岐康行の乱或いは美濃の乱{康応元年(1389年)−明徳元年(1390年)}とも言う
              ようであります。

               土岐氏は、その後義満より康行追討の功を認められ 頼忠が美濃国のみの守護に任ぜられ、その後明徳3(13
              92)年に美濃国司として国衙も所務し、頼忠の二男である頼益が、土岐氏の惣領を継いで土岐氏を昔のように再興
              したという。(詳しくは、拙稿 多治見市史から垣間見える美濃、東濃地域における土岐一族の動向についての要約
              を参照されたい。)
               土岐氏の三国守護解任から斯波氏が、尾張国の守護を歴任する間に暫定的にでしょうか、守護職を任せられた畠
              山・今川両氏がいたようであります。

              この14世紀末頃、尾張国・美濃国では、土岐一族による押領が頻発し、当地の地頭たる鎌倉円覚寺は、いち早く、
             この地と引き換えに鎌倉の方へと支配地を移していったやに思われます。

                             真っ先に円覚寺は、富田荘の地頭職と引き換えに、関東地域へと鞍替えする行動にでたと思われます。
             その最初の時期の史料が、鎌倉市史 史料編 第2 P.325 307番目史料 伊勢氏貞信奉行人某書状 日付は、
             ( 応永3年カ 1396年カ)6月19日付 差出人 沙弥 某(道貞カ 幕府政所頭人 伊勢貞信奉行人沙弥 某との脚
             上に説明あり。)であり、受取人は、謹上 岡屋安芸入道殿となっている文書があります。
              その文書の内容は、「円覚寺同寺領尾張国富田荘當知行分ト伊勢氏所領 上総国堀代・上郷・大崎三郷トノ交換ヲ望
             ム、トリアエズ1ヶ年分ヲ限ツテ之ヲ行フベキコトヲ定ム、支障ナクハ決定シタシ、幕府政所頭人 伊勢貞信奉行人沙弥 某、コノ旨ヲ
             岡屋安芸入道ニ通ズ。」でありました。
              このようにして、円覚寺は、尾張地域の地頭職を放棄する代わりに関東へとシフト変更をしていったのでしょう。

             この史料は、富田荘についての事柄であり、篠木荘についての事柄ではありませんが、おそらく鎌倉 円覚寺は、これ
            以降、順次支配地を尾張国から鎌倉近郊へと移したと思われます。

             円覚寺が、尾張国から去っていった後、この尾張東北部の実質支配は、誰が行うようになったのかは、はっきりとはし
            ていないようであります。おそらくは、関東に支配力を有している室町幕府の奉行人との間で、地頭職を有する地域との
            交換という形で、行われた者が、この地の地頭的力を発揮したのかも知れませんが、この頃には、守護が、地頭を抑え
            込んでいく傾向にあった可能性がありましょうか。

             只、応永7(1400)年4月頃より、足利一門で管領家の斯波氏が、越前・遠江・尾張国の守護を兼任。そして、守護・
            守護代は、京に赴任し、守護代の代理(又代)として常竹(守護代の弟カ)が、尾張国へ入部したようです。常竹(守護代
            の弟カ)が、守護又代として在地で務めていたかと。
 
             参考までに、郷土誌 かすがい 誌上に、次のような記述があります。
                               「 南北朝統一後の篠木庄の記録としては応永14年(1407)の長講堂領目録に、篠木庄の年貢として絹150疋糸500
             両が見えるにとどまる。」( http://www.city.kasugai.lg.jp/bunka/bunkazai/kyodoshikasugai/kyodoshi05.html 内 久永
             春男氏の 春日井市域の庄園 参照 ) と。

                            参考ではありますが、{円覚寺が、正式に地頭として鎌倉幕府より認可されたのは、永仁5(1297)年3月7日であった
            筈。
             その際の契約は、「地頭方は、10月中に年貢190貫文を京都まで、進済する事」であり、やはり地頭請けであり、銭納
            であった。領家は、1285年からは、後深草院妃 東二条院(藤原公子)領であったでありましょう。
             しかし、当地は、鎌倉初期より、この地に関わる領家方へは、年貢190貫文を京都まで、進済する事で折り合いが付
            いていたようです。が、篠木荘の地頭の中には、領家方へ、年貢を進済せず、滞納している者もあったようで、円覚寺が
            新たにこの荘園の地頭として受け入れられるには、滞納分を肩代わりして、領家方に認められたようです。

             そして、また篠木荘内には、国衙領たる野口・石丸両保が、建武年間以降存在しており、この保に対する貢納につい
            ても、「正税 糸 20両、綿 6両、及び銭20貫150文を領家方に納め、下地は、地頭方の進止とする。」という内容で
            決着したかと。
             しかし、「文和2(1353)年7月には、円覚寺から野口村分として、5貫文、石丸保分として、20貫文が、正税として三
            宝院へ納められていた。」(小牧市史 通史 P.101 参照)という銭納の記録もあるようです。

             この長講堂領目録の出展がどの史料からかは分かりませんが、領家方へ、年貢として絹150疋糸500両と記載されて
            いたとしても、それは、書類上の事であったのでしょう。地頭職であった円覚寺の頃でも、既に銭納化されていた筈。こ
            の応永14(1407)年頃の篠木荘の支配所領関係は、旧来の事柄であり、未納であった場合でも、しばしば、こうした
            記録は、古のまま記述されていたかと推察いたします。

             この当時の守護は、地頭的な活動を本意としていたでありましょうが、在地での旧来の職所有者(領家・国人)等の調
            整役を兼ねながら、在地への浸透を図っていたのでありましょうか。

                参考までに織田家系図を掲示いたします。
              織田守護代家略系図 ( 前掲書 総論 戦国期尾張織田氏の動向 P.18からの抜粋 )
             在京 守護代                        (逐電)(守護を擁し、幕府より凶徒扱い)
              ー 教広@ −−−淳広Bーーー郷広Cーー敏広Eーー寛広   ( 伊勢守家 ○数字は、守護
             | (常松) |          |ーー久広D                 代の推移順であります。・・
              |  ー教長A |                                                       筆者注 )
                                 (常竹カ)   |ー大和守某ーーー久長ーーー敏定@ーー寛定Aーー達定Cーー達勝D      
                                    (守護又代)(敏広を攻撃)|ー寛村 B       |ー 達広ーー勝秀  
            
             *  伊勢守系 岩倉城に居住していた守護代 織田郷広の頃、下記のような事が起こったようであります。
               「嘉吉元(1441)年6月6日条によれば、万里小路大納言家雑掌の申すには、尾張六師荘(別名 熊
              野荘)の領家は、代官職を直務していた所、織田氏被官人 坂井七郎右衛門入道が乱入し、年貢を催
              促するに至ったという。この頃の領家は、万里小路大納言であったようです。

               この出来事は、守護代織田伊勢守敏広の父 郷広の被官 坂井七郎右衛門入道性通(広道)が万里
              小路時房の領地六師 荘を守護代請の代官と称して横領した事。時房は郷広の推挙で性通を代官とし
              たが横領行為をやめなかったといい。被官人一人に手こずっていた織田郷広は、一族及び尾張守護よ
              り絶縁されたという。 この坂井某は、この辺りの国人であったのだろうか。その為でありましょう。
               守護代 織田郷広は、守護 斯波氏及び織田家一統から絶縁され、逐電するに至ったようであります。*

               この15世紀中頃の守護は、かっての三国守護当時の土岐氏のような行為は差し控え、畿内の王権に
              依拠している在地の領有を尊重しつつ、守護請・守護代請等々として在地において領家方からも受け入れ
              られる収奪機構として存在する必要があったのでしょう。

               守護代としての織田家は、まだ、尾張国に広く支配を浸透できえていなかったのかも知れません。それ
              故、在地土豪(国人)の力をも借りながら、尾張国に浸透していた時期かと。特に、旧 篠木荘域は、入部
              初期頃は、織田氏の支配領域外であったかも。そこまで手が回らなかったとも言えましょうか。徐々にそう
              した地域への浸透を図っていたのでしょう。

               *{守護代織田氏の初代の織田常松が丹羽郡陽明門院勅旨田代官職を年貢 30 貫文で、春部郡六師庄
               代官職を年貢百貫文で請け負うなど、尾張北部の荘園群を支配下におき、1439( 永享 11) 年に守護使が
               丹羽郡井上庄の大円寺領に派遣して、「徳銭」徴収のために百姓家の「財物に随ひ馬牛鍋釜に至るまで」
               責め取った。「徳銭」とは富裕者に対する臨時税で守護権限によるものであった。これに対して百姓土民は、
               強訴・逃散といった抗議行動をおこなった。六師庄では 1431(永享3)・1439 年に、井上庄では1439 年に
               代官更迭を要求する逃散が行われた。(『建内記』)また、二宮大県社領の庄民も 1453 ( 享徳2) 年に逃散
               している。(『経覚私要抄』)(http://www.maibun.com/DownDate/PDFdate/1460.pdf より引用)*

               春日井市史 資料編に次のような所領安堵状が存在します。
               「室町期頃(15世紀末頃)の旧 篠木荘内は、岩倉に拠点を置いた伊勢守系により支配されていたと言
              えましょうか。確かに旧 篠木荘内にあります現 春日井市神領地域( 旧 野田村 )、密蔵院( 比叡山 
              天台宗系 )には、伊勢守系の所領安堵状が、存在しております。( 春日井市史 資料編 参照 篠木下
              郷内の密蔵院所領安堵状 その当時篠木は、二乃至三郷に分かれていたと思われます。 岩倉方 織田
              氏は、所領を配下の有力者達によって分割支配させていた。篠木 下郷を伊勢守系の織田氏が管轄して
              いたのでしょう。篠木下郷以外は、別の有力な配下の者が、管轄していたやも。直接には、管轄していなか
              ったように推測されます。) 

               旧 篠木荘 その当時二乃至三の郷に分かれていたようですが、その一つであります上郷でありましょうか、
              尾張東北部一帯を実質支配していたのが、大草在住の西尾道永であったのでしょう。 道永は、岩倉の織田氏
              に仕えていた者のようです。
               この尾張東北部一帯を15世紀中ごろに実質支配していた。出自はよく分かっておりませんが、大草城を
              築城{文安年間(1444〜1449)}した西尾道永という土豪である事は、事実でありましょう。
               三河の出身とも言われているようですが、美濃国西濃出身者とも言われているようです。どうやら西尾氏
              は、在来の土豪ではないようです。いつ頃から当地に居住されるようになったかは、不明。近くの上末には、
              上末城(森末城とも言う。)があり、落合氏が、居住していたかと。落合家は、小牧・長久手の戦いで、敗れ、
              廃城したようです。上末には、今でも落合を名乗る人もみえますから、その末裔でありましょうか。
               
               * 篠岡村誌には、「落合右近将監勝正 二宮神主 重松秀村の三男 陶城を築き居り織田家に使える。
               子孫今村民となれ里。」と。

               {美濃周辺の西尾氏としては、尾張の大草城(小牧市大草)の西尾式部道永が知られています。大草城は、
              文安年間(1444〜1449)の築城とされています。大草城の近辺には、春日井市に西尾地名がありますが、「
              さいお」と呼ぶようです。西尾道永は、その後美濃の萩の島城に移ったとされます。萩の島城は、東美濃の
              恵那市と瑞浪市との境に所在します。文明年間に小笠原氏と木曽氏連合軍の美濃攻めの攻撃対象であっ
              た「大井城・萩の島城」の萩の島城です。その際の城主が西尾道永であったかは、不明ですが、その可能
              性はあるのではないでしょうか。

              * 大草に居た西尾道永が、既に文明年間(1469〜1486年)には、美濃の萩の島城に移っていたので
               あれば、応仁の乱(1467年)が起こった頃は、当地に居住されていたとは推測出来ますが、応仁の乱の
                                 どこかからは、居なくなった事になり、大草城は、無人の城となっていたのではないでしょうか。
                又、大草に近い現 小牧市林地区では、応仁の乱時或いは以降には、大規模な山津波が起こったやに
               推測出来る伝承もあり、あの林・阿賀良村の在地耕作人等は、大規模な山津波に巻き込まれてしまったの
               であろうか。壊滅的な被害にあい、再起不能になったやも。その近くの大草近辺でもその可能性は、十分に
               考えられるのではと・・・*

               道永の東濃進出は、岩倉織田家の関係と東濃の桔梗(土岐氏)の後退と密接な関係があるものと想像でき
              ますが、それが西濃の西尾氏といかなる関係があるかは分りません。ただ、木曽川を境とした美濃と尾張に
              ついては、他の戦国武将の系譜をみたときに相互に移動している事は知られているところであり、犬山や楽
              田の人的な動きを考えると西美濃と犬山周辺とは割りと近いのかも知れない。
               萩の島城の西尾氏は、天文年間に岩村遠山氏の遠山景前の支配下に組み込まれたものとみられます。そ
              して、その後 萩の島城の周辺は遠山佐渡守信光(延友信光)が天正年間まで支配しました。 }と。この記述
              は、西尾氏の系譜というHP上で、記述されていました。
               (詳しくは、http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keijiban/nisio1.htm 参照)

               しかし、別のHPでは、次のようにも記述されています。
               「信濃守護小笠原氏が東濃に侵攻してきた応仁・文明の乱の時に大井城と共に萩の島城も落城したといわれています。城下には江戸
                 時代の中山道が通っており、旧東山道を守る目的で存在した砦の可能性があります。権現山
にあり、小笠原氏の侵攻後は元亀年間に萩
                 の島城は、再建され西尾道永が守ったといわれています。別名:刈安城とも。」
               ( http://www.geocities.jp/tonosengoku/tojou/tono/toutoubu.html 参照されたい。)

               元亀年間(1570〜1572年)に権現山に再建された萩の島城(別名 刈安城)を守ったという西尾道永なる人
              物は、篠岡村誌では、「永正11(1514)年9月21日没 86歳とか。」元亀年間の西尾氏は、道永の末裔の可能
              性が高いのでは・・。大草城を築城した道永は、やはり、永正11年には、没していたのでしょうか。信濃守護 小笠
              原氏と木曾氏連合軍が、応仁・文明の乱時、美濃国に侵攻し、大井城・萩の島城(砦カ)を落としたのも事実であり
              ましょうか。
               元亀年間には、権現山には、萩の島城が再建され、存在し、道永の末裔が、守っていた可能性は、高い。
              
                              織田氏(岩倉)に仕えた西尾氏の居城は、天文17(1548)年頃 廃城となったとか。大草城の概観は、小牧市史 
              通史に図入りでも記述されています。
               そして、この西尾氏が、居住したという地域には、現在でも中世の城郭の遺構が、一部残存しているという。

               しかし、西尾氏一族は、全員美濃へと移っていったのであろうか。             
                現在、大草には、西尾と名乗られる方もみえますので、末裔の方なのかも知れません。直接お聞きした事はあ
              りませんから分かりかねますが・・。

                                 どうやら、戦国期末以降、在地の土豪で戦いに敗れ去った一族は、在地に根付き、土着し帰農したようであ
              りましょうか。春日井・小牧両市に於いても、上末しかり、大草しかり、林しかり、下市場しかり、上条しかり で
              ありましょうか。                    

              私がみました篠岡村誌は、昭和2年刊行の書籍であります。
              そのP.124〜125には、大草の福厳寺の創建等が記述されており、張州府志・尾張志からの抜粋として記述さ
             れている部分もあるようであります。それによると、「福厳寺は、大草村にあり、大叢山と号し大源派遠江国森村大
             洞院の末寺也、開山は、備中国舟木の僧 性印和尚也。性印和尚初めは霊岳和尚に随い遠江国に趣きしが、文
             安2(1445)乙丑年帰路に至り當國野口村に来たり茅庵を結びて寓居す時に、隣村大草城主西尾式部道永性印
             の道徳を信じ一寺を創建して住持とし、名づけて宝積寺という。」云々と。この寺は、野口村に宝徳2年(1450)創建
             されたとか。

                               前掲書 P.121には、「福厳寺(フクゴンジ)は、大草城主西尾道永により野口の地に宝徳2年(1450)建立された
             宝積寺 (ほうしゃくじ)の法灯を継いだお寺です。」という文言もあります。出展については、記述されていません。

                              * 参考までに、小牧市史 資料編2 近世村絵図編 P.102に、野口村の小字名一覧が載っており、小字は、20。
             その中に、法尺寺(ホウシャクジ)なる小字名があり、この小字は、弱冠 字体は違っていますが、野口に、大草の西尾道
             永により創建された”宝積寺(ホウシャクジ)”と同じ呼び方ではないかと・・。

              この推論が、当を得ているとすれば、「東春日井郡篠岡村土地宝典」(小牧市図書館所蔵  参照)で字名の範囲を
             確認致しました所、この字名は、現地図上で示せば、野口柿花・野口嶋ノ田より南側であり、鷲が池と県道なのか市
             道なのか判りかねますが、435号線の間であり、桃花台ニュータウンが造成される頃、篠岡三丁目の北側に、農業
             公園となる予定の地域を外周道路が通ることになり、造成中に、古代の穴窯が露出し、公園化は頓挫し、現状のま
             ま残されました。字名で言えば、違井那(タガイナ)かと。私の居住区のすぐ北側であります。旧 大草に属している字
             であるようです。
              その北側には、東洞という字名があり、現在は、水田となっている所でしょうか。野口に属する字名 法尺寺は、所
             謂大山川の左岸側 南側に位置しています。法尺寺という字名と柿ノ花という字名の間には、墓前という字名が横た
             わり、寺の墓地があったような字名でありましょうか。
              もっと早く篠岡村の土地宝典を参照されたい方は、国立国会図書館所蔵のデジタル化された宝典をみることも出来
             るようです。参考までにそのURLを付記しておきます。参照されたい。昭和13年発行 125コマ中の23コマ目が、該
             当しますが、大事な法尺寺の部分は、折込の状態で、開いて撮影されていないようです。部分的に、法尺寺が記載さ
             れていますが、位置関係を知らないと判らないかも。 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1184369  *

              更に続いて「遠江国周智郡の盛禅和尚、初め霊岳和尚に随い出家せしが、霊岳終わりに臨みて盛禅を呼び、吾
             付会の弟子 性印尾張にあり、汝行きて師とすべしと遺言しければ、即ち宝積寺に来り朝夕参禅す。文明2(1470)
             庚寅年12月28日性印うせし後宝積寺に住めり。其の地にサンズイ偏に秋(で一字)隘にして、衆徒を容れがたきを
             患へければ、西尾道永力を尽くし大草山の西北の地の禅刹を広く営み改めて大叢山福厳寺と名づけ、性印を開祖
             とし、盛禅を二世の住持とす。」
              福厳寺創建は、小牧市史によれば、1476年(文明8年 応仁の乱の終結 1年前)と記されていた。

              一説には、「文明2(1470)年より創建がはじめられ、文明10年に大供養をおこなったとか。宝積寺を撤し、仏像
             法器等を福厳寺に移したという。」(篠岡村誌 P.121 参照 出展については、特に記載なし。)

              大草の西尾道永は、文明8(1476)年までは、当地に居た事になりましょうか。確かに織田家は、尾張国の領有
             をめぐって、清洲を拠点とする織田敏定と岩倉を拠点とする織田敏広とで応仁の乱時争っていた事は、事実であ
             り、大草の西尾道永は、岩倉方かと推察致します。

              確か応仁の乱前後頃には、岩倉の織田敏広は、尾張守護代であり、幕府より、山田郡の代官として任じられてい
             たかと。乱後、尾張国は、両織田家で、分割されたかと。勝利した織田敏定は、守護代となり、岩倉方 織田敏広は、
             その下に甘んじていたとか。

              どのような理由で大草の西尾氏は、東濃へと移動されたのであろうか。もしかすると、この応仁の乱時或いは後に、
             大きな山津波が、近くの林村で起こったとか。そうした事象が、この大草でも起こったのであろうか。そうした織田家の
             内紛、天変地異等が重なり、西尾氏は、尾張東北部一帯の領有を放棄し、退去されたのであろうか。

              いややはり、道永の東濃進出は、岩倉織田家の関係と東濃の桔梗(土岐氏)の後退と密接な関係があるものと思
             った方が、真実に近いかも知れません。やはり、西尾氏は、美濃系の武将のような気が致します。何故、尾張国へ
             来られたのかは分かりませんが、美濃系の武将のような行動を取られたのかも・・。「応仁の乱時、清洲方 織田敏定
             と尾張一国の領有で争った岩倉方 織田敏広は、美濃守護代 斉藤妙椿の娘婿であり、共に清洲城を攻撃したよう
             ですが、清洲方に負けたようです。」(春日井市史 P.155 参照) 西尾道永は、これ以後、この美濃守護代 斉藤氏
             を頼ったという記述も春日井市史にある。美濃への信濃守護等の侵入に対処する為の萩の島城の援護出動であった
             のであろうか。

           3.応仁の乱(1467〜1477年)時から以降の尾張東北部一帯について
              参考までに、「佐々成政関係資料集成」 浅野 清編著 平成2年刊行 新人物往来社 P.26には、「武功夜話か
            らの抜粋として」 { 治郎左衛門様(清洲 織田敏定の舎弟カ・・筆者注)江州御引き払い尾州に御帰陣。小坂、余語
            の両人御伴仕り尾州へ入国、尾州春日部郡居住の初めなり。春日部郡篠木、柏井の三郷の地は、治郎左衛門楽田
            に御城構えられ、春日部郡篠木、柏井の三郷御取り抱えなされ、御台地と定められよって、余語、小坂に御台地の代
            官職を仰せ付けられ、春日部郡柏井吉田なる処に屋敷を給わりこの地に居住候なり。}とある。これが、長享年間(14
            87〜88年)の事であったのでしょうか。

             < 尾張に入国した小坂氏は柏井庄吉田、佐々氏(余語氏)は比良の地を賜り、敏定の舎弟於台弾正左衛門(常寛)の
            旗下に加わり、各々50貫文を給ひ奉行を勤める事になったという事のようです。>(前野家文書 参照)
             小坂氏の柏井庄吉田とは、現在のどこに当るのでしょうか。それは、現 春日井市下条町にある常泉院辺りであろう
            と推察されます。小牧・長久手の戦い後、この吉田の城は、廃城となり、変わって現 上条町へ居城を変更したと思わ
            れます。そして、当の小坂氏は、城を明け渡し、織田氏に返し、自らは武士を捨て、農民になられたとか。
             柏井庄吉田に居住した小坂氏の城(吉田城)は{ 柏井庄吉田の地は下条吉田の地であり「近世村絵図(春日井市編
            纂)第18図下条村絵図」に「吉田城跡」と明記されています。各村絵図面は江戸後期に作成されたものですが、吉田城
            の存在を立証するものでありましょう。}という記述が、郷土誌かすがい 第41号にありました。その論述のなかで、吉田
            城は、現 常泉院辺りではないかと記述されています。

             とすれば、応仁の乱(1467〜1477年)が、終わってから10年後という事に成りましょう。
             長享年間(1487〜88年)には、この旧 篠木荘(篠木三郷)は、清洲系の織田氏の御台地(直轄領)となったのであれ
            ば、岩倉方の西尾氏は、篠木上郷の支配権は、事実上剥奪された事になりましょう。             

             清洲系・岩倉系の争いは、これ以後も再発。尾張は、下・上郷に分割されたと信長公記にも、記載されているが、ど                 
            の程度の信頼をおいていいものやら。

              野口村にあったという東春日井郡誌 昭和52年版 P.725に記載された社は、、「社伝明らかならず、然れどもこ
             の地お猿堂・車道等の名称残りて、古くは、社殿など荘厳なりし由言い伝えり。蓋し車道は、往古の祭礼に山車を引
             ける道路にして、お猿堂とは、神苑の一隅ならん。古来より、延喜式内小口神社は、此社なる由口碑に伝たえり、小
             口神社は延喜式に、山田郡小口神社、國帳に、従三位小口天神又尾張国内神名蝶山田郡二十四座の中、従三位
             上小口天神とあり。」と記載されていました。
              上記の地誌の古来より以降の文は、元禄・宝永期に書かれた天野氏の著書「尾張神名帳集説」を参考にした文面
             かと。

              かって野口にあった荘厳な社とは、もしかするとこの野口の宝積寺{宝徳2年(1450)創建}の事であったのだろうか。
             文明期に取り壊され、すっかり大草へ引越ししたようであります。

              また、野口の地には「、江戸期 尾張藩藩主 徳川義直公の家臣 鹿取四郎兵衛忠縄が、藩主の命で猿投山に
             於いて狩りの時、猿を射殺す仕儀に相成り、自らその猿の為、菩提を弔う事を約し、その後猿投山の見える野口の
             庚申山に草庵を結び、庚申堂を建て、菩提を弔うその役を臣 甚太夫・加藤六衛等に託し野口に居住させたという。
              これが、藩公の知るところとなり、藩公は、之を憐れみ命じて寺堂を建立させたという、現在の北応山 関無院と
             いう寺であるようです。」(篠岡村誌 P.147〜148 参照 出展の記載なし。) もしかすると、東春日井郡誌にいう
             お猿堂とは、この寺の事柄ではないだろうか。荘厳な社とは、野口の地に宝徳2年(1450)に建立された宝積寺 (ほ
             うしゃくじ)の事であるように思えてしかたがない。

              そして、「文明期に創建された大草の福厳寺は、天文12(1584)年 小牧・長久手の戦いで、兵火にかかり、廃頽
             に及んだとか。一説には、日根野弘就兵を率いて堂宇を壊し、その材を二重堀の砦に運び、大伽藍も一朝に荒廃せ
             りと。」(篠岡村誌 P.122 参照 どこからの出展か記載なし。)という記述もあるようです。

              そして、現在の福厳寺は、「天正14(1586)年に、早くも本堂が造営されたとか。」(篠岡村誌 P.125 参照)そ
             れに近い事柄が、張州府志にも記述されているようです。この再建には、その当時の福厳寺和尚の尽力が、大であ
             ったやに記述されておりました。

              あろうことか、林村の詳雲寺の創建が、文正年間(1466年)とか。小牧市史・及び篠岡村誌に記載されています。
             小牧市史は、篠岡村誌に準拠しているのでしょう。この寺は、盛禅和尚が、創建したと村誌には、記述されており、
             応仁の乱(1467年)が起こる一年前の出来事であるようです。確かに盛禅和尚は、文明2(1470)年より前には、
             野口村の宝積寺で参禅されていた筈。いつ頃こちらへ来訪されたのかは、はっきりしません。
              この当時の当地の支配者は、大草城の西尾道永でありましょう。
              その後、長享年間(1487〜88年)には、この旧 篠木荘(篠木三郷)は、清洲系の織田氏の御台地(直轄領)とな
             ったとか。近江から連れ帰った余語・小坂両氏が、代官として任命されたやに理解していますが・・。

              この創建が、事実なら、江戸期には、高台にこの寺は、移動していますから、私が、詳雲寺を訪れた時、この寺の
             前の住職さんから、「かっては、三明社の近くにこの寺は、創建されていた。」ともお聞きし、「ものすごい山津波{住職
             さんは、実際は、入鹿切れ[明治元(1868)年・或いは慶応4年とも言う。]が起こりと表現されたので、私は、どぎまぎ
             してしまいました。} が起こり、林村の寺は、崩壊した。」とも聞いた。
              とすれば、この山津波は、応仁の乱時或いは以降のどこかで起こった事になりましょうか。伝承とも、口伝とも言え
             る事柄ではありますが、何がしかの事象を伝えているのではないかと推測いたしました。

              さて、大草の西尾氏は、果たして東濃地域へと転出したのか、道永氏は、当地で没されたのかは、定かではありませ
             んが、文明10(1478)年、丁度応仁の乱が終結した一年後までは、当地に居住されていたのかも。「福厳寺には、西
             尾道永の墓が存在するという。芳名は、玄麟道永居士というとか。おそらく墓碑より判読された事ではありましょう。道
             永 永正11(1514)年9月21日没 86歳とか。」( 篠岡村誌 P.143 参照 )境内にあるようですので一度、来訪
             してみようと思います。
              後日 福厳寺に行った時、そのお墓にお参りしようと寺の方にお尋ねいたしました所、寺裏のお墓は、一般者の立ち
             入りが認められておらず、やんわりとお断りされました。しかし、福厳寺住職さんが、出版された書籍の中で、辛うじて写
             真という形で拝見できました。

                               上記の事に関わる記述は、大まかには、戦国期の旧 篠木荘の在地武士の系譜等で、概略を捉えています。併せて
             参照下さい。  戦国期 尾張地域に於ける旧 篠木荘に存在した在地武士の系譜と所領

                                                                                                                              平成26(2014)年2月28日       脱稿
                                                          平成26(2014)年3月  8日一部書き加え
                                                          平成26(2014)年3月27日     加筆 
                                                                                                                               平成28(2016)年1月17日     加筆