旧 春日部郡 大草村の大久佐八幡宮についての一考察

          1.はじめに
             大草は、我が家からは篠岡丘陵を東に下った所にある。私が住んでいる所は、昭和になるまでは、ほとんど
            人は、住んでいなかったようで、狸や狢等の野生動物の住む未開地であったようです。しかし、この丘陵の下
            周辺は、古くから人が住み、小河川流域でもあり、米つくりが行われていた地域でもありましたでしょう。

             当然、人が住めば、そこには神を祭る神社ができる。大草にいつ頃人が住み、社が出来たのかは、はっきり
            とは分かりかねるようですが、それでも僅かな資料・伝承・由緒書等で知ることができるという。
             そうした事柄をまとめられたのが、大草在住の波多野孝三氏であり、大久佐八幡宮伝記として、平成13年に
            発刊されました。

          2.小牧市史に記載されている大久佐八幡社について
              昭和52年刊行された小牧市史 通史 P.610には、「旧 村社。祭神は、三神で、大焦鳥察鳥命・誉田別命・
             息長足姫であるという。創建年代は不明。郷社への昇格願い(大正期頃)によると、室町時代に福厳寺の堂を
             建立するにあたって、現在の地に遷座したと伝えられる。当時は、社領30石余りを有し、神事や祭も盛んであ
             ったが、桃山時代に社領が没収されたので神事も絶えたと言う。」云々と記述されている。
              宮司さんによる謂れとか篠岡村誌の記述等が基になり、記述されたのでしょうか。

              参考までに、{八幡神(やはたのかみ、はちまんじん)は、日本で信仰される神で、清和源氏をはじめ 全国の
             武士から武運の神(武神)「弓矢八幡」として崇敬を集めた。誉田別命 (ほんだ わけのみこと)とも呼ばれ、応
             神天皇と同一とされる。神仏習合時代には八幡大菩薩とも言われていたとか。}
              また、息長足姫とは、第14代仲哀天皇の后として神功皇后と称され、応神天皇の母君にあたるとか。
              大焦鳥察鳥命{大 焦鳥(これで一字) 寮鳥カ(これで一字)}(読み方は オオサザキ)命 仁徳天皇の名とか。

              上記の河内王朝に関わる祭神の参考として、「物部氏の伝承」(畑井 弘著)の記述を載せておきます。
             
             *.以下の記述は、私が、「物部氏の伝承」(畑井 弘著)を読んで理解した事柄ではあります。
               この書は、1977年今から三十数年前に、吉川弘文館から出版されましたが、このたび新版として、再度三一
              書房から出版されたようです。私は、新版本に目を通しました。

               結論から言えば、天皇家と同様、実在する天皇を崇神・垂仁朝の三輪王朝、応神・仁徳・雄略朝の河内王朝、
              継体以降の現天皇家と、少なくとも天皇の系統は、氏族としては三代様変わりしていると歴史学上では説明され
              る事が多いように思います。物部氏もご多分に漏れず同様であるという事を氏は、述べようとされているやに読
              み取りました。{日本書記は、藤原不比等により藤原氏と天皇家が、後世まで生き残れるようにする壮大な歴史
              書でありましょう。そこには史実ではない事柄(架空の人物をも創造し、辻褄合わせがされているという)も記述
              されていることは、戦後の歴史学が論じてきている事柄でもあります。

               氏は、丹念に朝鮮語の読みと意味を織り交ぜ、こうした弥生人若しくは渡来人は、朝鮮半島からの渡来であ
              ることから、朝鮮語系統の読みと意味をも持ち合わせている種族であり、そうした事柄が、万葉集、記紀の記
              述にこめられているとして、人名、地名、神話の中の神の名を紐解いていかれたのであります。

               余談になりますが、この畑井氏の著書を読んでいて、日本に残る古史古伝の神代文字は、古代朝鮮語の系
              統ではないかという思いを巡らしていました。朝鮮語の読める方が、日本に残る神代文字を見た時、朝鮮語の
              古語を学んだ人であれば、もしかして読めるのではないかとも思いましたが、いかがなものでしょうか。古語朝
              鮮語に詳しい人を知りませんから確認してはいませんが・・・。

               以下これから私が述べることは、氏が書の中で古代の人名、地名、神話の人名、地名等々に関して朝鮮語
              での読み、意味等で解釈された事柄により得られた結果、結論付けられた事のみを概略として、まとめて記述
              いたします。詳しいことは、氏の「物部氏の伝承」本文をお読み頂き、ご自分で再確認して頂きたいと思います。
               私自身の読み取りミス等々も無きにしも有らずでありますから・・・。

                             ア、氏の考えられる弥生時代から古墳時代( 朝鮮語の音と意味、先人の著書等より作り上げられた氏の歴史認識 )
                ・ 弥生前期から中期
                   長すね族(国ツ神)は、蛇神(竜神)型の鍛冶(銅鐸)を信仰する種族であり、南方系海人的要素の濃い、
                  稲作と華南照葉樹林帯の南方焼畑農耕を複合する種族であろうと推察されている。

                ・ 弥生中期以降
                   佐々木高明氏(拙稿 日本の稲作のはじまりについての覚書にも登場される方)は、西日本には、朝鮮
                  半島から南下した北方系の焼畑農耕が入ってきたと。<その時期は、楽浪海中倭人あり、分かれて100
                  余国>の頃であり、芋(タロイモ系のさといも)と粟と豆に特徴づけられる雑穀栽培農耕。それに対して東
                  日本は、芋を伴わない雑穀農耕が特徴とか。また、弥生の水田農業は、最初は、沖積平野の河川流域
                  の低湿地帯ではじまり、後に内陸山間部の半湿地帯に広まっていったという把握をしてみえるようです。

                ・ 弥生後期
                   倭国大乱の時期に相当し、弥生前期の南方系の斧を信仰する文化と北方系の焼畑農耕に付随する剣
                  が複合された「大葉刈(銅剣)」文化が成立したという。

                 *  この銅(金属)の事を、朝鮮語の音では、軽(カル)、刈(カリ)、鹿児(カゴ)、香具(カグ)と発音し、また、曲
                  (マガリ)、井光(イヒカリ)、(イカリ)という名が付くのも銅文化と結び付くと言われているようです。( この点
                  は、氏だけでなく、大分大学 富来 隆氏は、自著「卑弥呼 朱と蛇神をめぐる古代日本人たち」(学生社 1
                  970年版)の中で、同様な事を述べてみえるのであり、こうした点は、豊前、吉備、大和等の銅器出土遺跡、
                  銅採掘遺跡の地名に付く場合が多い事を挙げてみえます。)

                   例として、畑井 弘氏は、古事記の一節を上げて説明されている。

                      生尾人、自井出來
                      其井有光 爾問 汝誰也 答曰僕者國神 
                      名謂井氷鹿 此者吉野首等祖也
                      即入其山之 亦遇生尾人 此人押分巖而出來 
                      爾問 汝者誰也 
                      答曰僕者國神 名謂石押分之子 今聞天神御子幸行故 參向耳 
                      此者吉野國巣之祖 
                      自其地蹈穿越幸宇陀故 曰宇陀之穿也

                  この一節は、神武天皇が、東征途上に、土雲族に出会った時の様子でありましょうか。
                  二組の生尾人が出てきている。此人押分巖而出來(岩窟のような採掘場から出てきたと考えるのが、正解か
                 と。)とか、、自井出來(井とは、縦穴の鉱石を取り出す所か。地下の採掘場から出てきたとも取れましょうか。)                  
                  生尾人の一組は、名謂井氷鹿{名を井氷鹿(イヒカリ)と言う。}と。古い種族の答曰僕者國神{國神(クニツカミ)と答
                 えた。}との事。もう一組は、名謂石押分之子で、やはり国神(クニツカミ)であり、朱(顔にぬる顔料カ)を採掘してい
                 たのだろうか。宇陀には、朱の露天掘りがかって、出来た地ではなかったかと。
                                         しかし、氏は、名謂石押分之子については、特には記述されていません。不思議ではあります。

                  {朝鮮語で 井氷鹿(イヒカリ)とは、固有名詞ではなく、普通名詞であって、意味は、金属の銅を意味している
                 という。「尾生る人(おはうるひと)」とは、土蜘蛛(或いは土雲とも記述)族でありましょうか。ナガスネ族が居た所
                 へ早期に渡来した朝鮮半島経由の渡来人でありましょうか。}このように畑井 弘氏は、位置付けられているよう
                 です。

                ・ 古墳時代
                   この時代を造りだしたのは、弥生時代に活躍した長すね族{長すねを朝鮮語の音で意味を取ると、ナガは、
                  蛇神を奉ずる銅鐸を意味し、スネは、銅鐸作りの村の意味であるとかで、ナガスネとは、祭祀種族(倭人)の
                  土酋を意味している普通名詞であるという。}を平定した雷神型鍛冶(剣)を信仰する高句麗系種族であり北
                  方系天神種族であるという。

                   弥生時代の前期では、銅鐸祭祀集団たる蛇神信仰種族である長すね族が、分立しており、王国建設へと
                  幾多の長すね族が、主導権争いをして対立抗争していたという。そこへ初期のニギハヤヒ、北方系の雷神型
                  の鍛冶信仰から生まれた祖霊神を持つ氏族が渡来し、その次に渡来した高麗系の「富美族」が、このニギハ
                  ヤヒ伝承を伝えたという。(古事記では、物部連、穂積連等は、古い長すね系の氏族ではないと述べられてい
                  るという。)氏の著書 P.128には、物部族は、銅鐸祭祀信仰種族であると記述されております。

                  { これらの種族は、大きな意味の「登美族」であり、細かくいえば、古い「富美族」、最初に渡来した「富美族」
                  と言えばいいのでしょうか。畿内の長すね族を平定した。その時期は、倭国大乱頃、3世紀末〜4世紀初頭で
                  あり、支配層は北方系と被支配者層の海の彼方からの種族の習合した族であろうと。(この習合は、日本列島
                  で行われたのではなく、渡来する前の朝鮮半島に居た頃であろうと推察されているのではないかと思われます。)
                   また、畿内への侵攻ルートは、瀬戸内海を西ー>東へか、日本海から中国地域を通って大和への2系統を
                  考えて見えるようであります。

                                         :* 参考までに、最近知りえた事柄ですが、後期古墳の技術伝播も、上記 ルートと同様であるやに思います。
                   丁度、古墳を築造する時期の事柄であり、符号している。詳しくは、拙稿を参照されたい。
                    ( 尾張国への 古墳築造技術伝播の傾向について   )*

                   畿内に入った各種の「富美族」{例えば、書記に出てくる土蜘蛛族(一例を挙げれば、鴨氏、ニギハヤヒ族、
                  磐余彦命等)は、王権争いから脱落した一族であったという。初期ヤマト王権を確立したのが、高句麗系の
                  崇神王朝(この一族も富美族であり、最後に渡来した種族にはかわりはありますまい。)であったと言われ
                  る。}( 物部氏の伝承 P120 参照 )
                   
                   ニニギノミコトに付いて来た者は、沸流百済の王族であり、名前に天(あま)が付かない者は、沸流百済に
                  追われた馬韓の遺民か南部辰韓系の渡来者であり、ニニギを乗せた船は、玄界灘を渡って末ろ国の現 唐
                  津に着いたと言われる。沸流百済の拠点は、大伽耶であったとも言われております。

                   書記に記述される土蜘蛛(つちぐも)、古事記では、土雲(つちぐも)とされていますが、その一族の中に、古
                  代氏族の日置(へき)氏があります。「高麗(こま)国、別名高句麗といい、そこの国の人、伊利須意み(いるす
                  のおみ)より出ず」(新撰姓氏録)とされる渡来人」であり、「和名抄」では、葛上郡の日置郷にいた氏族であろ
                  うという。この氏族は、服属した氏族でありましょう。日置氏は、銅鐸祭祀族であり、後世の和泉国の日置荘
                  は、梵鐘鋳造の地としても有名であるという。
                   この日置(へき)という音は、朝鮮語の意味では、火を駆使して土器を焼き、銅器を鋳造する人々ということ
                  になるとか。この和泉国の日置部は、後の「鴨県主の祖」とするという伝承を天神本紀内に記述されていると
                  いう。この日置氏は、崇神王朝に服属した、一つの銅鐸祭祀氏族であったということでありましょう。
                   畿内には、こうした土蜘蛛族が分立していたようであります。そうした様子は、日本書紀の神武東征神話の
                  中で、各土蜘蛛族を征服していった事が記述されており、そのルートも分かるようでありますし、古事記も、こ
                  の古い征服ルートを伝えているという。(この東征は、崇神天皇のことではないかと氏は、考えておられるの
                  でしょうか。・・筆者注)

                  << 銅鐸祭祀氏族は、古い形の氏族であり、この息長氏(琵琶湖にいた氏族)もまた、蛇神信仰氏族であり、
                  古い形の 氏族であったようです。再起するのは、応神朝以降であり、はっきり姿を現すのは、継体朝期であ
                  りましょうか。>>とも記述されている。
                  
                   また、平安期以前では、日本語には、訓読みはなく、文字は、表音であり、朝鮮語の音で解釈する事が可
                  能であると述べてみえますし、事実、解釈できると言ってみえるようであります。

                   日本書紀の編纂は、720年であります。8世紀初め頃でありますが、継体朝の天皇家が、抗争を繰り返しな
                  がら、記紀編纂時の天皇系譜が唯一であるとして、それ以前の確かに天皇として即位した氏族を自らの出自
                  とする工夫をし、それ以前の神代は、各氏族が持ちえた神話を統一して書き上げ、新たな天皇を作り上げ辻
                  褄あわせをし、蘇我氏族の本流筋の抹消に努力されたと理解されているのでしょうか。まだまだ、この当時、
                  藤原氏以外にもこうした過去を持ちえた氏族の末裔が残存し、他の氏族もこうした日本書紀での改変を承知
                  の上で、受け入れていたのではなかったか。というのが、氏の理解の偽らざる本意ではなかろうかと推測いた
                  しました。

                   「先代旧事」は、偽書という評価が付けられておりますが、部分的には事実であろうというのが、歴史学上の
                  定説になっているとか。
                   この著者は、物部氏の一族の者であるというのが有力であります。書記の著者であります藤原不比等にし
                  ても遥か古代の事までは詳しくはなかったようで、それ故、固有名詞ではなく、普通名詞として人名が出てくる
                  ようだと朝鮮語の音と意味の解釈から結論付けてみえるように推測できます。

                   弥生以降古墳時代にいたる諸豪族は、銅の採掘地を持ち、銅の採掘集団を持ち、銅の鋳造技術集団を持
                  ちえた者のみが、領袖者であり、祭主であり、医術者でもあったのでしょう。銅鏡、銅剣、古くは銅鐸の生産に
                  長けていたのでしょう。妻は、鍛冶王に仕える巫女的存在の者が入籍したともいう。

                   鉄が、日本に伝わった後も、銅の文化は、呪術的な分野において存在価値があったようでもあると氏は、述
                  べてみえると理解しました。事実、鉄の導入は、弥生中期まで遡る事ができるようであります。ただし、その導
                  入は、鉄の地金を加工する小鍛冶技術の定着であったのであり、本格的な製鉄技術等の導入ではないと捉え
                  て見えるように理解できました。

                   その例証として、日本書紀の宝剣出現章のスサノオと話をする出雲の国神(クニツカミ)である脚摩乳(アシナツチ)、
                  妻 手摩乳(テナツチ)の話をあげられ、その人名の摩乳は、朝鮮語の音読みで、マチ。これは、朝鮮語の意味で
                  は槌、とんかち、ハンマーとなり、鍛冶で使う物であると解釈されているようです。このクシナダ姫の両親は、鍛
                  冶王に他ならないとしておられました。(おそらく、鉄の加工をする小鍛冶技術王でありましょうか。・・・筆者注)

                   そして、日本で使う農具類の鉄は、砂鉄で造られた物が多いとか。本来武器に使う刀剣用の精製された鉄
                  のかたまりは、古墳時代を通して、朝鮮、中国からの輸入に頼っていたという。

                   そして、崇神、垂仁朝の初期ヤマト王権の頃、朝鮮半島から新しい鍛冶技術と良質の地鉄が流入し、この後、
                  鉄剣=神として登場するようになるという。垂仁紀には、「蓋し兵器をもて神祇を祭ること始めて、この時に興れ
                  り」とする伝承があると記述されているようであります。*

                以上長々と記述いたしましたが、要は、息長氏と息長足姫との間には、何かしらの関連が在りはしないかと推測す
               るからに外ありません。
                息長足姫は、先述したように「第14代仲哀天皇の后として神功皇后と称され、応神天皇の母君にあたるとか。」
               実在した人物なのかは分かりませんが、琵琶湖で支配力を発揮した息長氏は、古い形の銅鐸を信仰する種族で
               あったとか。その後 応神朝頃から再起しはじめ、継体朝頃には、はっきりと再起した種族とか。この息長足姫は、
               息長氏とは、何らかの関わりのあった人物とは考えられないだろうか。鉄と琵琶湖の水運でのし上がってきた古い
               種族という印象を受けるのですが・・・。


              話を元に戻します。あくまで、小牧市史に記述された大久佐八幡宮(村社)の祭神を基に推考すれば、草田天神は、
             大焦鳥察鳥命・息長足姫を祭神としていたのでありましょうか。誉田別命は、後に勧請された八幡神でありましょうか
             ら。或いは、天神ではない、地神だとすれば、あの後期古墳を築造した豪族に関わる祭神かと。現 大久佐八幡宮の
             祭神二神は、八幡神に関わる二神である可能性は高いと思われます。
          
              この神々は、崇神・垂仁・景行天皇系の三輪王朝後の大阪を本拠とした河内王朝の人物でありましょうし、倭の五
             王の初期頃の人物でありましょう。

              一般的には、日本書紀では、小碓尊(景行天皇の皇子)を、ヤマトタケルと想定しているのでありましょうが、倭の五
             王の一人であります雄略天皇(実在天皇)が、実は、ヤマトタケルという人物像のモデルではないかと言われるHPもあ
             ります。 http://www2.wbs.ne.jp/~jrjr/nihonsi-1-5-2.htm 参照 「大和朝廷の動揺」 その1 であります。

              「ヤマトタケルは、『古事記』では倭建命、『日本書紀』では日本武尊と表記されていて、どちらもヤマトタケル
            ノミコト
と読ませる。
              一方、雄略天皇は『古事記』で大泊瀬幼武、『日本書紀』では大長谷若建命となっていて、オオハツセワカタ
            ケル
と読む。
              また、熊本の江田船山古墳から出土した鉄刀や、埼玉の稲荷山古墳から出土した鉄剣には、雄略天皇のこ
             とを表す獲加多支鹵大王(ワカタケル)という銘文がある。ヤマトタケルとワカタケルという名前は確かに似てい
             る。
              でも、これだけだと「タケルという名前が共通しているだけじゃないか」と言う人もいるだろう。
              そこで、『宋書』と『常陸国風土記』に注目してみる。
              まず、『宋書』に記述されている「倭王武」という表記なんだけど、ここから「王」の字を除くと「倭武」となり、ヤマト
             タケルと読むことが出来る。
              一方の『常陸国風土記』、この書物の中ではヤマトタケルのことを「倭武天皇」と表記している。
              また名前だけでなく、『古事記』『日本書紀』に書かれているヤマトタケルの逸話が、雄略天皇の行動と似ている
             部分が多いのも注目していいだろう。
              人を簡単に殺してしまう残虐非道な部分も2人は共通している。
              これらのことから考えると、ヤマトタケルという人物を創造する時に、雄略天皇をモデルにした可能性は非常に
             高いと思う。」 以上であります。
 
              書記の著者 藤原不比等は、中国の史書にも、日本の古代史にも造詣がそこそこ深く、うまく史実等を利用し
             て、記述されたのでありましょう。    

                        3.大久佐八幡宮伝記から知られる謂れ
              ・ 古の記録類は、尾張府志(又は、張州府志とも言うカ。){元禄期の尾張三代藩主の発願で、始められたが、
               主 死後中断され、藩庫に保管されていた。8代藩主{元文4(1739)年〜宝暦11(1761)年}により再び再開
               され、松平秀雲に命じて編纂完成。}と9代藩主{宝暦11(1761)年〜寛政11(1799)年}により、漢文ではな
               い、仮名まじりの風土記の編纂が、行われ完成したその風土記は、尾張志という。

                そして、文化年間の尾張国地名考(津田正生著)、大正14年に刊行された篠岡村誌(しかし、私がみること
               が出来た村誌は、昭和二年刊行の書籍です。)。そして、昭和2年に発刊された東春日井郡史、そして、小牧
               市史 通史と。以上が、よく知られる古伝類を記録した記載書でありましょうか。

              ・ もう一つの記録は、神社の宮司家に残る由緒類でありましょうか。大正12年に提出された宮司 松本美三
               氏と氏子総代4名連署の「郷社昇格願添付書類」の記載文にその由緒等が使われていたようです。 

              では、「郷社昇格願添付書類」に記された伝承ではありましょう由緒、一文にしかずであります。出来るだけ原
                             文に近い形で提示いたします。

              「大久佐八幡社は、(中略)貞観13(871)年駿河国井山の人 井山八郎此地に移住し、即ち勧請し奉るに興り
             (この部分は、社掌 鵜飼八郎<かっての井山氏の末裔で、改姓されたとか。>系譜に依る。)、(中略)仰々<ソ
             モソモ>当社は其創建、さきに石清水八幡宮の京都洛外に勧請せらるる秋にあり。(中略)当時は、地神山(現 
             福厳寺寺地・・・筆者注)と称する丘岳に鎮座し奉りしも、足利の季世、西尾道永社地を古宮と称せるる地に遷し
                             奉る。以来百度弛廃慶長の頃現今の地に遷御し奉れり。」と。
              この内容は、尾張府志・尾張志とも大略同じようであるとか。<確かに同様でありました。・・筆者注>

              文化13年脱稿か 津田正生著「尾張国地名考」なる書物には、「かくて元来創立者たる井山家にありては、這
             般(シャハン)の記録を留めず、(中略)降りて建長年中(1249〜1255年の間)井山小八郎社職を継ぐに及びて系
             譜も亦これよりあきらかとなるに至り」云々と。この書には、さらに補足資料が添付されているようで、そこには、「
             (前略)古くは、当大草を称して草田村と云ひしも改称の時代を詳らかにせず。八幡の社は本国帳所載 正四位下
             草田地神ならんと云ひ伝ふれども未定の説に属するを以って草田地神と称せしに故なしとせず。旧地と伝えらる
             る地神山との称あり、傍らには神田の字名あり。(中略)文安の頃西尾道永三河の国西尾の城主たりしが、転じて
             大草村に来たり居城を構え織田氏(岩倉)に仕え、春日井郡の過半を領したりと云ふ。道永僧盛禅に深く帰依し、
             一寺を創建せり、今の福厳寺これなり。然るに堂宇建立にあたり草田地神の神域を穢し奉るを畏れ社殿を村内
             西北の地に(古宮)遷座し奉ると伝え聞く。」と。

                               上記の津田正生著「尾張国地名考」・「尾張国神社考 原題 尾張神名帳集説乃訂考」なる二つの書物を私も、
             実際に目を通しましたが、大正期の宮司 松本美三氏が、関わられたでありましょうか。松本氏が、提出された記
             載文面と同様な文には、遭遇できなかった。

              実際には、「尾張国地名考」では、本国帳 正四位下 草田天神とのみ記載され、考えうるに、八幡社が、それ
             に当たるのか尚推考すべし。云々とのみ。さらに、「尾張国神社考 原題 尾張神名帳集説乃訂考」においては、
             正四位下 草田地ノ神と記載され、八幡社が、是にあたるべし。社家 鵜飼氏と断定されて記載されていたのみ
             であった。

              私が目にした写本 天野著「尾張国神名帳集説 正式名 本国神名帳集説」には、草田地神として記載され
             ていた。しかし、この地神が、どこの社に当たるのかは、天野氏は、その書には、記載されていない。津田氏は
             天野氏の直筆本をみられて記載されたのであろうか。
              松本氏の記述は、或いは、尾張府志・尾張志等に書かれていた事なのかもしれません。しかし、それならば、
             尾張府志に曰くと書かれる可能性の方が高いのでは・・・。つぶさに両著を閲覧いたしましたが、松本氏が提出
             された文面には、遭遇出来なかった。

              いったい松本氏は、上記の事柄をどこから入手されたのであろうか。おそらくは、宮司の家に伝わる由緒等
             を巧みに使い、さも、津田正生氏の著書に記述されていた如きに、松本氏が、推論をされたとしか考えようが
             ありません。( このように、記述された時が新しくなれば、成る程、作為が入ってくる事も大いに有り得る事では
             なかろうかと。・・・筆者注)


              また、西尾氏についても、「文安の頃西尾道永三河の国西尾の城主たりしが、転じて大草村に来たり居城を構
             え織田氏(岩倉)に仕え、春日井郡の過半を領したりと云ふ。」という記述がありますが、この大草の西尾氏につ
             いては、美濃系の西尾氏ではなかろうかという事を言ってみえる方もあるようで、以下の文は、そうした方の記述
             であります。

              {美濃周辺の西尾氏としては、尾張の大草城(小牧市大草)の西尾式部道永が知られています。大草城は、文安
             年間(1444〜1449)の築城とされています。大草城の近辺には、春日井市に西尾地名がありますが、「さいお」と
             呼ぶようです。西尾道永は、その後美濃の萩の島城に移ったとされます。萩の島城は、東美濃の恵那市と瑞浪
             市との境に所在します。文明年間(1469〜1486年)に小笠原氏と木曽氏連合軍の美濃攻めの攻撃対象であ
             った「大井城・萩の島城」の萩の島城です。その際の城主が西尾道永であったかは、不明ですが、その可能性は
             あるのではないでしょうか。

              * 大草に居た西尾道永が、既に文明年間(1469〜1486年)には、美濃の萩の島城に移っていたのであれば、
               応仁の乱(1467年〜1477年)頃のどこかからは、居なかった事になる可能性もあり、大草城は、無人の城と
               なっていたのではないでしょうか。又、大草に近い現 小牧市林地区では、応仁の乱前頃には、大規模な山津波
               が起こったやに推測出来る伝承もあり、大草近辺でもその可能性は、十分に考えられるのではと・・・*

              道永の東濃進出は、岩倉織田家の関係と東濃の桔梗(土岐氏)の後退と密接な関係があるものと想像できます
             が、それが西濃の西尾氏といかなる関係があるかは分りません。ただ、木曽川を境とした美濃と尾張については、
             他の戦国武将の系譜をみたときに相互に移動している事は知られているところであり、犬山や楽田の人的な動き
             を考えると西美濃と犬山周辺とは割りと近いのかも知れない。
              萩の島城の西尾氏は、天文年間に岩村遠山氏の遠山景前の支配下に組み込まれたものとみられます。そして、
             その後 萩の島城の周辺は遠山佐渡守信光(延友信光)が天正年間まで支配しました。 }と。この記述は、西尾氏
             の系譜というHP上で、記述されていました。(詳しくは、http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keijiban/nisio1.htm 参照)

                              それ故 織田氏(岩倉)に仕えた西尾氏は、この地を離れ 天文17(1548)年頃 大草城は廃城となったとか。そ
             して、この西尾氏が、居住したという地域には、現在でも中世の城郭の遺構が、一部残存しているという。
              大草城の概観は、小牧市史 通史に図入りでも表示されている。

              別のHPでは、「文安年間(1444〜49)に、西尾道永が築城したとされています。西尾氏は岩倉織田氏に仕え、付
             近一帯を領有していました。しかし、”道永死後、ほどなく廃城となりました。”」と。また、この大草城は、小牧・長久
             手の戦いでは、蚊帳の外という見解がされていましたし、すぐ近くの下末城についても、「室町時代後期、落合勝正
             によって築かれた平城でした。勝正の子 安親(やすちか)は、織田氏に仕えています。小牧対陣のとき、羽柴秀吉
             に属しました。安親とその子庄九郎は、秀吉別働隊が三河に進攻しようとしたさい、道案内をつとめています。しかし、
             戦いに敗れ上末城も廃城となりました。」とか。(詳しくは、http://mori70shiro.dousetsu.com/KomakiNagakute.htm
             を参照されたい。)   大草の西尾氏については、現在でも、きっちりと確定していない事柄もあるようです。 

                              参考までに、「佐々成政関係資料集成」 浅野 清編著 平成2年刊行 新人物往来社 P.26には、「武功夜話か
            らの抜粋として」 { 治郎左衛門様江州御引き払い尾州に御帰陣。小坂、余語の両人御伴仕り尾州へ入国、尾州春
            日部郡居住の初めなり。春日部郡篠木、柏井の三郷の地は、治郎左衛門楽田に御城構えられ、春日部郡篠木、柏井
            の三郷御取り抱えなされ、御台地と定められよって、余語、小坂に御台地の代官職を仰せ付けられ、春日部郡柏井吉
            田なる処に屋敷を給わりこの地に居住候なり。}とある。これが、長享年間(1487〜88年)の事であったのでしょうか。
             とすれば、応仁の乱(1467年)の20年後という事に成りましょうか。
             既に、天文17(1548)年頃 大草城は廃城となったとか。大草城には、西尾道永は、居なくなっていた筈でありますし、
            この地域は、岩倉を拠点とした守護代織田家の支配下になっていたと思われます。
                       
              ・ そして、昭和35年の神社名改称願の前文の部分でしょうか。関ヶ原の戦いの少し前(16世紀末)頃、波多野
               九郎佐なる者分家して東野の里(現 春日井市東野町)に移住し、併せて大久佐八幡宮の分霊を奉持したとい
               うその末裔の方が、起草されたとか。どこからそうした由緒を採取されたのかは不明ですが、「古宮の八幡宮が、
               平家没後、平治の乱で落人となった源氏の一族を、一時匿まった事で、その恩義であろうか、文治年間(1185
               〜1189年)に、現在の東上の地に壮大な神社を造営して遷宮したのでは・・・・。」云々と記述されていたとか。
                こうした伝承は、基があったのでしょうが、記述された時が新しくなれば、成る程、作為が入ってくる事も大いに
               有り得る事ではなかろうかと。

                しかし、昭和35年の神社名改称願の言うように文治年間に、現在の東上の地に遷宮されたというのであれば、
              足利期には、既に、大久佐八幡宮は、福厳寺の場所には、存在していない事になり、辻褄が合わないように思える。

               平治の乱で、敗残兵の源氏が落人として、この地に来た可能性は無いとは言えない。当時、この地は、篠木荘と言
              われ、皇室領となっていた筈。平清盛の父とこの地の郡司等が、共謀して院に取り入ろうと、画策した結果 天養元(
              1144)年に立荘されたようで、その当時のこの地の開発者は、丹羽郡の郡司一族であろうと言われている。郡司一
              族は、平氏と婚籍関係にあり、互いに連携できる間柄ではあったようです。この部分の詳しい事柄は、拙稿でも記述
              いたしております。謎の多い南北朝期以前の 二宮宮司 原大夫系統についての覚書 を参照されたい。
              
               平治の乱(1159年)で、尾張国の源氏一族は、駆逐されたのでしょう。当然源氏を一族挙げて加勢した熱田社の
              宮司以下一族郎党は、その力をかなりの部分で制限されるようになった可能性は、高い。それまでは、熱田社は、一
              宮・二宮という格式とは、別格の神社でありましたが、こうした情勢下に於いて、三宮という位置が定着したという。
               熱田社の一族には、後の源頼朝の母がいる事は周知の事実ではあるようです。

               頼朝が、鎌倉に幕府を開いた年より、数年前、当地に新しい八幡宮を再建したとも取れる由緒であり、事実であれ
              ば、再建された場所は、最初の地 地神山であった方が辻褄は合う。12世紀末の頃であり、かって栄えていた豪族
              の氏神であった草田地神は、既に、その氏族の衰退で寂れ、他国から来た者の勧請で、八幡社と合祀された可能性
              は、ありえましょう。9世紀末の貞観期以降には、再度確か巨大な地震(東海・東南海・南海の三連動地震)が、仁和
              年間の887年(三代実録に記述)にあったのは、事実。何らかの被害が、当地でも出た事でありましょう。
               限りなく旧震度表の震度 6に近い 震度 5であった筈でありましょうから。(安政の大地震の震度からの推測であ
              ります。・・筆者注)
               こうした9世紀末頃の天変地異により、当地の支配者は、衰退を余儀なくされた可能性は、無きにしもあらず。仁和
              年間の前には、白鳳期(684年)にも、同様な三連動の大地震が起こっていた。奈良時代前頃の出来事ではありまし
              ょう。後期古墳を造りし豪族が、何らかの影響を受け、衰退していった可能性も推測いたせましょうか。

            4.私の大久佐八幡宮についての考え
               いつの頃であろうか、この大草の地は、草田の里とも言われ、草田地神なる社があったのでしょう。
              尾張国地名考の著者は、どこでそのような謂れを入手されたのであろうか。おそらく、江戸時代元禄期から宝永期
             にかけ活動された神道学者 天野信景の著「尾張国神名帳集説」(本国神名帳集説)でありましょう。著者も天野信
             景の著に対して訂定追考し、「尾張国神名帳集説乃訂考」を著してみえるようですから。その著では、草田地ノ神と記
             載され、これは、篠木庄大草村の八幡社であると断定されているのは、確かな事であります。
              草(クサ)田−>大草(クサ)であれば、何らかの形で、地名が、後世に伝わっていると言えましょうか。

               この大久佐八幡宮の創建は、宮司家の由緒では、貞観13(871)年頃とか。794年には、奈良から京都へ都が、
              移り、平安時代に入って1世紀弱が経とうとしていた頃でしょう。平安初期頃の事と言えましょうか。由緒にも、当社
              の創建は、石清水八幡宮が勧請せらるる秋とか。この石清水八幡宮は、貞観2(860)年に創建されている筈です
              から、貞観13年(9世紀末)頃とは、若干の年代の差はあるようですが・・・。その貞観年中頃には、草田地神を祭
              る社は、寂れていた可能性は、高い。

               最初の大久佐八幡宮の創建は、確かに地神山(現 大草山 福厳寺の寺地)と呼ばれし地域でありましょう。最
              初の大久佐神社の元となったであろう神社が創建されるその頃には、草田地神の社が在ったのか、無かったのか。
               井山家により勧請された神社は、八幡神であった可能性が、高く、古くからの社の地へ八幡神を勧請し、合祀し
              ての社であった可能性も無きにしもあらずか。

               天神・地神なる神別は、天武朝頃までさかのぼり、在地の豪族系の神は、地神としたかと。とすれば、草田地神或
              いは天神という呼称の神は、壬申の乱以前から在った可能性はある。「本国帳」(天野信景著)では、草田地神と記
              載されている事は確かな事柄であり、天神であれば、大和系の豪族の神とも捉えられましょうが、やはり、地元では
              ”地神山”と呼称したのでありましょうから、天神ではない。
               
               天武朝頃の地神であれば、この大草の地は、古くから開発された地域であり、近くには、7世紀前後の後期古墳
              も存在する地域でありますから、そうした古墳を築造した豪族の神であるのでしょう。
               この大草には、後期古墳は、存在してはいませんが、直ぐ近い北西部分の山々には、7世紀前後の後期古墳が、
              数多く存在している事は、確認されております。(大山1・2・3・4号墳、北新池古墳等々)そのお隣の野口(大草とは、
              隣接地)には、式内社でありましょうか、現 八幡社の地に、小口天神なる社があったやに天野氏の集説には記載さ
              れています。

               とすれば、大草の地に、地神としての地名が残りえてもおかしくはないかも。
               江戸時代 元禄・宝永期の神道学者の記録した著書にも、正四位下 草田地神 式外とのみ記述。小さな字にて 
              一つに作る、天神 蓋し後世の進むる所か。と記述されていました。     
               江戸の文化期の津田氏は、天野氏の記述に対し別の記述 「尾張神名帳集説乃訂考」P.84 (平成11年版 尾
              張神社考)に、正四位下 草田地ノ神 正生考 篠木ノ庄大草村八幡社是なるべし。社家 鵜飼氏 以上式外と。記
              載されるに至っている。

               天野説に従えば、地神と記載されているのでありますから、天神ではない、後期古墳築造の豪族の氏神でありま
              しょうが、この当時には、既にどこの地神であったかの伝承は、伝わっていなかったのではなかろうか。
              
               また、平治の乱(1159年)で、負けた源氏の落ち武者は、この大草の地へ落ち延びて、匿(カクマ)われ、その後、
              壇ノ浦で平氏を駆逐した後 その恩義を忘れず、遷座前の地で、寂れた八幡社を再興し、壮大な神社としたのでは
              なかろうか。
               その地を天養元(1144)年当時、再開発していたのは、丹羽郡司 良峰氏一族の橘氏ではないかとされている。
              篠木荘と言われ、鳥羽上皇の寵愛を受けていた美福門院領にされた地域かと。

               そして、足利時代末期頃、福厳寺の創建により、社地は、没収、現在地の大久佐八幡宮より西北の地(古宮)へ遷
              座された可能性が高い。弘化2(1845)年の春日部郡篠木庄山岡郷大草村絵図(小牧市史 資料編2 近世村絵図
              編) P,121〜122には、字名で、”古宮”なる言葉が、中川(大草川の古い河川名)源流域右岸側に、字名 大良(
              ダイラ)・七重(ナナシケ ここは、現在では、大草七重と呼ばれている所であるとすれば、その当時の大草は、篠岡丘陵に
              沿って大きく曲がって開けていたかと。゙)・堂之前という近くに、存在している。丘陵地に古宮が、あった可能が高く、現
              光ヶ丘のどこかであったのでしょう。「東春日井郡篠岡村 土地宝典」(小牧市図書館所蔵)には、旧 篠岡村の字名の
              記入された全図があり、その図からの推測であります。

               とすれば、足利時代に遷座されたのは、やはり、この古宮と呼ばれる地であった可能性は、高い。

               ここからは、推測でありますが、戦国時代末期 {天正12(1584)年}小牧・長久手の戦いが、起こり、秀吉と家康
              が実質戦っている。戦上手な秀吉が、はじめて遅れをとり、和解した戦ではありました。
               篠岡地域は、直接の戦場にはならない蚊帳の外状態であったのでありましょう。上末城の城主は、秀吉軍に加わっ
              たようで、秀吉別働隊が、家康軍の背後に回ろうと、この城主の案内で、長久手方面に移動し、不意を突こうとしたよ
              うです。家康軍の知る所となり、逆に急襲を受け、秀吉ではありませんでしたが、別働隊が、敗北し、唯一、秀吉の負
              け戦として残ったという。
               春日井市田楽・牛山地区も、この戦いでの最前線となり、初発は、家康軍であったようです。この戦いは、和睦し、終
              了したようですが、それ以前には、「里老の口伝として、牛山村は、古くは宇多須村(春日井市牛山町の大山川に架か
              る不発(ウタズ)橋なる名前あり、この辺りか)と称し、うち片山に大社が鎮座していた。元亀(1570〜1572)年間、この
              神社の守護人 玄殿がいたが、秀吉により放火され、社蔵の縁起書等や玄殿の家屋も焼失、彼の子孫の事も一切不
              明なってしまった。」 と、尾張国地名考には、記述されている。

               或いは、「田楽地区にあった式内社である伊多波刀神社は、古い縁起類を伝えていない。故に古代のこの神社を
              奉祀した豪族とか、創建の経緯等を知りえない。そして、神社名も、江戸期では、八幡社と名称を替え存続し、明治
              期になり、廃仏毀釈により、元の神社名に戻り、神宮寺である常念寺は、廃寺となり、その地は一面藪となり、面影
              を残していないようである。」と春日井市史 P.103に記述されております事。

               この地域には秀吉に関わる上記のような経緯がある故に、慶長年間の創建と云う謂れを残して、現在地に大久佐
              八幡宮は、創建されたのではないか。この八幡宮は、源氏にゆかりの深い神社であり、江戸幕府を開いた徳川家は、
              源氏であった筈。慶長年間は、長い。初期の頃は、確かに秀吉末期頃。関が原の戦いも、慶長年間の初め頃であり、
              古宮の現状をみて、徳川の世になってから、現在の地に創建されたと推測した方が、辻褄は合うように思えますが、
              いかがなものでしょうか。

               参考ではありますが、「賤ノ小手巻ニ、野口村白山ハ篠木三十三ケ村ノ氏神ト云、祠宮ハ大草村鵜飼甚太夫控ナリ、
              此山甚高カラスシテ極メテ険阻ニシテ尖レリ遠望スベシ、府城ハ未ノ方、犬山ハ戌亥ノ方、本宮ノ峰ハ戌ノ方、小富士
              ハ亥ノ方入鹿ハ子ノ方、大山ハ卯辰ノ間、内津ハ卯ノ方、小牧ハ申ノ方」 という記述もあり、この”賤ノ小手巻”なる書
              物は、いつ頃書かれた物か、筆者は、引用しただけで、よく知らない書物でありますが、篠木33ヶ村という限り、江戸
              期に書かれた物であろうか。府城は、名古屋城の事であろうか。ここに出てくる祠宮ハ大草村鵜飼甚太夫(井山改め
              鵜飼姓にした人物でありましょうや)。大草村とも記述されている所から比較的新しい時代の頃の記載かと。この白山
              は白山神社のことであり、平安期のどこかで創建された筈。

               「この地は、白山宮司を含め、江戸期の文化年間の記述された津田正生著「尾張神名帳集説乃訂考」なる書物にも、
              大草は、丹羽郡には入ってはおらず、大山・野口・林・池ノ内・本庄・小松寺・窪一色は、丹羽郡域であるという記載。
               後 室町末期頃(戦国期頃)に春日部郡に誤って編入されたとか。」(この部分は、果たして事実であろうか。筆者注)

               確かに、平安末期頃の丹羽郡司 良峰家の古伝には、「北は鳥倉山より南は河口河{もしかすると堺河(現 庄内
              川カ)を指しているのではないかと・・筆者推測)、東条(篠木荘カ・・筆者注)・西条合わせて23条に及ぶ”此一郡内、
              敢無他人所領”と豪語していると記載されているようです。}(網野善彦著 日本中世土地制度史の研究 P.183 参
              照)とある事から、丹羽郡内に入れられていた可能性は、無いとは言えないでしょう。それにしても、何故 大草のみ
              蚊帳の外状態であったのであろうか。大山川の北側の村々が、丹羽郡であり、大草は、大山川の南側の村であった
              からでありましょうか。

               もしかすると、平安初期頃は、愛智郡の尾張氏一族(熱田社を含めて)が、境川(現 庄内川)を越え、志段味地域
              より玉野・外ノ原・内津・大草地域まで浸透していたのかも知れない。それ故、筆者の印象で言えば、篠木三十三ヶ村
              の氏神は、春日井市内津町の内津妙見様ではなかったかと。平安時代の湯立て神事の大釜が、現在でも残っている
              ようですし、何やら、伊勢神宮の旧宮の宮司さんから贈られたというお経があったとか、そうした事柄が、大和系の国
              史に記載されているようですし、また、熱田神宮への”おまんとう”神事の謂れがあるようですから。

               そして、「尾張国大草郷(旧 篠木荘園内)に存在している大久佐神社では、流鏑馬等の神事が、盛んに行われてい
              ましたが、秀吉により、社領を召し上げられ、衰退した。」( 小牧市史 参照 )という記述があるというが、この記述の
              根拠は何であったのであろうか。

               が、古宮への遷座後に、流鏑馬等の神事が、衰退していったのが、史実に近いのではなかろうかと推測いたします
              が、どうであろうか。このように推考すれば、流鏑馬の起源は、江戸期以前だったという事になりますが・・・。

               よくよく流鏑馬の起源を調べれば、「流鏑馬を含む弓馬礼法は、896年(寛平8年)に宇多天皇が源能有に命じて制
              定され、また『中右記』の永長元年(1096年)の項などに記されているように、馬上における実戦的弓術の一つとして
              平安時代から存在した。」(ウイキペデイア 流鏑馬 参照)という。また、{『吾妻鏡』には源頼朝が西行から流鏑馬の教
              えを受け復活させたと記されている。鎌倉時代には「秀郷流」と呼ばれる技法も存在し、武士の嗜みとして、盛んに稽
              古・実演された。}とも前掲 流鏑馬の項に記述されていますから、大草の流鏑馬は、鎌倉期から行われていた可能性
              はありましょうか。鎌倉 円覚寺が、地頭になる前までは・・・。それ以後は、円覚寺が地頭でありますから、在地での
              武士層は、荘園で、実務に当たる層が、自衛的に郷士化するようになってから再開されたかも知れない。

               そして、平安初期頃に社が、井山家により勧請されたという謂れであり、以下のような事とも絡んでいるのではない
              かと。
        
               また、平安末期にも、”村”と呼称されていますが、「室町期の自然村落と理解するのではなく、この当時の”村”が
              付く地域は、山河や未開発の地域を最初に開発した場合に付く。」(日本中世土地所有制度史の研究 参照)ようで
              あり、有力在庁官人・神社等の有力者層でしか開発出来えぬ事柄でありましたでしょう。平安期の林・阿賀良村の存
              在が、その例証となりましょうか。

                参考までに、「新規の開発地でない、再開発地については、その当時”保”と呼称されていたのではないか。」(
               前述書 参照) と。
                現 小牧市野口には、国衙領(野口保とも石丸保ともいう地域が存在しております。後の史料には、野口郷・石
               丸郷とも記載されたようです。この野口保等が出現する時期は、1045年の寛徳荘園整理令、1069年の延久の
               荘園整理令以後の事ではありましょうか。・・・筆者注)が、11世紀中頃以降に存在しております。かっての国衙
               ではない、荘園化された新しい形の国衙領ではあります。知行主が存在していた筈であり、しばしば、鎌倉期に
               於いては、地頭との間で、訴訟等もあったようです。

                保ができた当時の保司が、誰であったかは、不明ですが、鎌倉末期頃の野口保(新しい国衙領)の知行主につ
               いては、拙稿 小牧市 野口にある 八幡社・神明社を訪ねて を参照されたい。京都の公卿であり、後 醍醐寺
               三宝院領となったやに。

                参考までに、「小牧市野口に建立されている八幡社は、口碑によりこの社は、式内社の小口神社であると云わ
               れていたし、山田郡の式内社 従三位 小口天神であろうと。」(東春日井郡誌 P.725 昭和52年版 参照)と
               も記載されていました。天野著に準拠しているのでしょう。

                日本中世土地所有制度史の研究という著書に記述されていた事ではありますが、”保”と呼ばれた新しい国衙
               領は、”保”の前に付く地名は、後世まで地名が残る場合が多いとも記述されていた。かっては、耕地であった所
               であり、再開発地であるようです。となれば、野口保は、現 小牧市野口として残っておりますが、石丸保、後の石
               丸郷ともいわれる様になった地域については・・・。地名として残っていない。いったい、どこであり、何故に残らな
               かったのでありましょうか。

                そして、古文書には、野口村とも石丸保とも記述されていたし、野口村内にあったのかも知れませんが、筆者は、
               大胆に、この石丸保をかっての草田地神のあった草田の里と呼ばれし所に該当するのではと推測いたしますが、                
               どうであろうか。保の存在していた頃は、11世紀中以降かと。何らかの人的断絶が、当地にあり、そうした謂れす
               ら残しようがなかったからではと、推測いたしました。
                
                不思議に思う事は、JA尾張中央 広報誌 ふれあい 2010.5月号に掲載された入谷哲夫氏の「大草に小国
               家あり」と題する小論。
                と言いますのは、「現 小牧市一之久田の小針には、小字名であろうか、地名に、政所・土器田(かわらけだ)・
               鏡田(かがみだ)・一色田(いっしきだ)というのがあるという。政所は、政治を司る所か、郡衙に関わる役所か。土
               器田は、祭器を焼く者に与えられた給免田名でしょうか。鏡田は、神に捧げる鏡を造る者に与えられた給免田、一
               色田は、刀剣を造る者に与えられた給免田名と理解すればいいのでしょうか。そうした字名が残っていた。」 と。

                小字名としては残っていないのですが、同様な所が、大草中にもあったと大草在住の落合さんという方が、入谷
               氏の話を聞かれた後で、言われたようであります。
                 (詳しくは、JAの広報誌を参照下さい。 http://www.ja-owari-chuoh.or.jp/about/pdf/fureai-201005.pdf  )

                これって、大草にもかって郷家(平安初期頃の国衙の下部組織)があったとも取れなくはない過去の伝承ではな
               かろうかと。そして、平安初期の社の勧請。繋がっていく事柄かも。

                以上の事柄から、大胆に推論すれば、平安期の前半頃までは、こうした地域は、郡の範疇に入って、国の役所                
               (郷衙カ)が、あったのでありましょうか。天武朝以前には、この大草の地は、草田の里であり、後期古墳を築造した
               豪族が支配していた地域であったのでありましょう。草田地神(産土神)を祭って。その氏族の衰退が、天武朝頃
               にはっきりしていて、寂れた草田地神の社へ、平安初期頃 八幡社が勧請されて、合祀された可能性はありましょ
               うか。その八幡社も、平安末期頃には、寂れ、平氏と組んだ丹羽郡の橘氏一族が、この地の再開発をし、皇室領と
               して、篠木荘として立荘したのでありましょう。               

                きっと、そうした時代のどこかで、天災等の出来事が起こり、壊滅的な事が起こり、断絶に近い状況が、出現して
               いたのではと思えるのですが・・・。すぐ近くの平安末期頃に歴史上に名を残している現 小牧市林地区。かっては、
               林・阿賀良村として鎌倉 円覚寺文書に登場していますが、当地には、応仁の乱(1467年)前後には、伝承ではあ
               りますが、入鹿切れに匹敵する程の山崩れ・山津波等が起こった事を示唆する言い伝えが残っているやに聞く。
               (拙文 小牧市 池之内の大泉寺と小牧市 林の祥雲寺を訪ねて  を参照されたい。)この応仁の乱以降、小牧市
               林地区には、余語姓が極端に多くなっている事柄。住民の大変身が起こったかのようでありましょう。

                近い地域のこと故、大草地域に於いても、応仁の乱前後頃には、同様な天災が、起こった可能性を否定出来ない
               のではないかと。それが為に、大草城の西尾氏は、東美濃へと移っていったとも推測出来るのでは・・・。

                こうした天災は、後期古墳を造りし以降にも、おそらく7・8世紀頃かと、古墳若しくは古代寺院を創建していた祭祀
               集団を消滅させえる出来事(仁和年間の地震三連動の前に、白鳳期の684年にも、三連動が起きている。)としてあ
               ったのでは、この辺りは、人のまばらな、寂しい地域へと変貌していた可能性を否定出来ないでいます。
                
                こうした地域の天災(山津波・水害等)については、河川流域(八田川・大山川・内津川)に於ける上流・中流・下流
               域での水害と連動しているのではと推測して、流域各地域の出来事を書き出し、大きな河川氾濫を通して類推する
               作業を地道に進める必要があるのではないかと感じています。この三つの河川の源流域は、極めて近距離にあり、
               自然現象の大豪雨等は、同時に起こりえる地域ではなかったかと。

             付記
              当神社に奉納されている三十六歌仙について
              「三十六歌仙のうち小野小町、藤原敦忠、遍昭、素性の4枚を欠いている。奉納札から、江戸麹町の池田屋吉兵衛によ
             り奉納されたものであることがわかる。
              裏面に記された歌仙絵の筆者には、琴松、華渓、梅渓、華亭、翠竹、華洞の6名がみられ、作風は琴松と華渓、梅渓、
             華亭、翠竹、華洞とに二分される。琴松が文政から慶応にかけて活躍した人物であることなどから、この絵札は幕末に制
             作されたものと考えられる。」
              詳しくは、http://www.city.komaki.aichi.jp/bunkazai/bunkazai/shiyukei/002806.html を参照されたい。

              もう少し、具体的な記述は、「大久佐八幡宮伝記 千百余年の歴史と文化を探る」の著者である波多野氏は、
            拝殿の骨組みが、鬼瓦や手造りの釘とともに、嘉永2年(1849年)の再建当時の姿のまま、堅牢そのもの
            であったと著書の中で語っている。そして、波多野氏は、著書の中で、江戸麹町の池田屋吉兵衛が「三十六
            歌仙絵札」を奉納したのは、嘉永2年(1849年)の再建祝いの歌会の時なのではないかと述べている。」
            ではなかろうか。「 」内は、http://book.geocities.jp/ysk1988tnk/ookusa/7bakumatu.html よりの引用です。

               
              尚、当地には、三十六歌仙が奉納されている神社は、内々神社・伊多波刀神社であるという。