旧 春日部郡 大草村の大久佐八幡宮についての一考察
1.はじめに
大草は、我が家からは篠岡丘陵を東に下った所にある。私が住んでいる所は、昭和になるまでは、ほとんど
人は、住んでいなかったようで、狸や狢等の野生動物の住む未開地であったようです。しかし、この丘陵の下
周辺は、古くから人が住み、小河川流域でもあり、米つくりが行われていた地域でもありましたでしょう。
当然、人が住めば、そこには神を祭る神社ができる。大草にいつ頃人が住み、社が出来たのかは、はっきり
とは分かりかねるようですが、それでも僅かな資料・伝承・由緒書等で知ることができるという。
そうした事柄をまとめられたのが、大草在住の波多野孝三氏であり、大久佐八幡宮伝記として、平成13年に
発刊されました。
2.小牧市史に記載されている大久佐八幡社について
昭和52年刊行された小牧市史 通史 P.610には、「旧 村社。祭神は、三神で、大焦鳥察鳥命・誉田別命・
息長足姫であるという。創建年代は不明。郷社への昇格願い(大正期頃)によると、室町時代に福厳寺の堂を
建立するにあたって、現在の地に遷座したと伝えられる。当時は、社領30石余りを有し、神事や祭も盛んであ
ったが、桃山時代に社領が没収されたので神事も絶えたと言う。」云々と記述されている。
宮司さんによる謂れとか篠岡村誌の記述等が基になり、記述されたのでしょうか。
参考までに、{八幡神(やはたのかみ、はちまんじん)は、日本で信仰される神で、清和源氏をはじめ
全国の
武士から武運の神(武神)「弓矢八幡」として崇敬を集めた。誉田別命 (ほんだ
わけのみこと)とも呼ばれ、応
神天皇と同一とされる。神仏習合時代には八幡大菩薩とも言われていたとか。}
また、息長足姫とは、第14代仲哀天皇の后として神功皇后と称され、応神天皇の母君にあたるとか。
大焦鳥察鳥命{大 焦鳥(これで一字) 寮鳥カ(これで一字)}(読み方は オオサザキ)命 仁徳天皇の名とか。
上記の河内王朝に関わる祭神の参考として、「物部氏の伝承」(畑井 弘著)の記述を載せておきます。
*.以下の記述は、私が、「物部氏の伝承」(畑井 弘著)を読んで理解した事柄ではあります。
この書は、1977年今から三十数年前に、吉川弘文館から出版されましたが、このたび新版として、再度三一
書房から出版されたようです。私は、新版本に目を通しました。
結論から言えば、天皇家と同様、実在する天皇を崇神・垂仁朝の三輪王朝、応神・仁徳・雄略朝の河内王朝、
継体以降の現天皇家と、少なくとも天皇の系統は、氏族としては三代様変わりしていると歴史学上では説明され
る事が多いように思います。物部氏もご多分に漏れず同様であるという事を氏は、述べようとされているやに読
み取りました。{日本書記は、藤原不比等により藤原氏と天皇家が、後世まで生き残れるようにする壮大な歴史
書でありましょう。そこには史実ではない事柄(架空の人物をも創造し、辻褄合わせがされているという)も記述
されていることは、戦後の歴史学が論じてきている事柄でもあります。
氏は、丹念に朝鮮語の読みと意味を織り交ぜ、こうした弥生人若しくは渡来人は、朝鮮半島からの渡来であ
ることから、朝鮮語系統の読みと意味をも持ち合わせている種族であり、そうした事柄が、万葉集、記紀の記
述にこめられているとして、人名、地名、神話の中の神の名を紐解いていかれたのであります。
余談になりますが、この畑井氏の著書を読んでいて、日本に残る古史古伝の神代文字は、古代朝鮮語の系
統ではないかという思いを巡らしていました。朝鮮語の読める方が、日本に残る神代文字を見た時、朝鮮語の
古語を学んだ人であれば、もしかして読めるのではないかとも思いましたが、いかがなものでしょうか。古語朝
鮮語に詳しい人を知りませんから確認してはいませんが・・・。
以下これから私が述べることは、氏が書の中で古代の人名、地名、神話の人名、地名等々に関して朝鮮語
での読み、意味等で解釈された事柄により得られた結果、結論付けられた事のみを概略として、まとめて記述
いたします。詳しいことは、氏の「物部氏の伝承」本文をお読み頂き、ご自分で再確認して頂きたいと思います。
私自身の読み取りミス等々も無きにしも有らずでありますから・・・。
ア、氏の考えられる弥生時代から古墳時代( 朝鮮語の音と意味、先人の著書等より作り上げられた氏の歴史認識 )
・ 弥生前期から中期
長すね族(国ツ神)は、蛇神(竜神)型の鍛冶(銅鐸)を信仰する種族であり、南方系海人的要素の濃い、
稲作と華南照葉樹林帯の南方焼畑農耕を複合する種族であろうと推察されている。
・ 弥生中期以降
佐々木高明氏(拙稿 日本の稲作のはじまりについての覚書にも登場される方)は、西日本には、朝鮮
半島から南下した北方系の焼畑農耕が入ってきたと。<その時期は、楽浪海中倭人あり、分かれて100
余国>の頃であり、芋(タロイモ系のさといも)と粟と豆に特徴づけられる雑穀栽培農耕。それに対して東
日本は、芋を伴わない雑穀農耕が特徴とか。また、弥生の水田農業は、最初は、沖積平野の河川流域
の低湿地帯ではじまり、後に内陸山間部の半湿地帯に広まっていったという把握をしてみえるようです。
・ 弥生後期
倭国大乱の時期に相当し、弥生前期の南方系の斧を信仰する文化と北方系の焼畑農耕に付随する剣
が複合された「大葉刈(銅剣)」文化が成立したという。
*
この銅(金属)の事を、朝鮮語の音では、軽(カル)、刈(カリ)、鹿児(カゴ)、香具(カグ)と発音し、また、曲
(マガリ)、井光(イヒカリ)、(イカリ)という名が付くのも銅文化と結び付くと言われているようです。( この点
は、氏だけでなく、大分大学 富来 隆氏は、自著「卑弥呼 朱と蛇神をめぐる古代日本人たち」(学生社 1
970年版)の中で、同様な事を述べてみえるのであり、こうした点は、豊前、吉備、大和等の銅器出土遺跡、
銅採掘遺跡の地名に付く場合が多い事を挙げてみえます。)
例として、畑井 弘氏は、古事記の一節を上げて説明されている。
生尾人、自井出來
其井有光 爾問 汝誰也 答曰僕者國神
名謂井氷鹿 此者吉野首等祖也
即入其山之 亦遇生尾人 此人押分巖而出來
爾問 汝者誰也
答曰僕者國神 名謂石押分之子 今聞天神御子幸行故 參向耳
此者吉野國巣之祖
自其地蹈穿越幸宇陀故 曰宇陀之穿也
この一節は、神武天皇が、東征途上に、土雲族に出会った時の様子でありましょうか。
二組の生尾人が出てきている。此人押分巖而出來(岩窟のような採掘場から出てきたと考えるのが、正解か
と。)とか、、自井出來(井とは、縦穴の鉱石を取り出す所か。地下の採掘場から出てきたとも取れましょうか。)
生尾人の一組は、名謂井氷鹿{名を井氷鹿(イヒカリ)と言う。}と。古い種族の答曰僕者國神{國神(クニツカミ)と答
えた。}との事。もう一組は、名謂石押分之子で、やはり国神(クニツカミ)であり、朱(顔にぬる顔料カ)を採掘してい
たのだろうか。宇陀には、朱の露天掘りがかって、出来た地ではなかったかと。
しかし、氏は、名謂石押分之子については、特には記述されていません。不思議ではあります。
{朝鮮語で 井氷鹿(イヒカリ)とは、固有名詞ではなく、普通名詞であって、意味は、金属の銅を意味している
という。「尾生る人(おはうるひと)」とは、土蜘蛛(或いは土雲とも記述)族でありましょうか。ナガスネ族が居た所
へ早期に渡来した朝鮮半島経由の渡来人でありましょうか。}このように畑井 弘氏は、位置付けられているよう
です。
・ 古墳時代
この時代を造りだしたのは、弥生時代に活躍した長すね族{長すねを朝鮮語の音で意味を取ると、ナガは、
蛇神を奉ずる銅鐸を意味し、スネは、銅鐸作りの村の意味であるとかで、ナガスネとは、祭祀種族(倭人)の
土酋を意味している普通名詞であるという。}を平定した雷神型鍛冶(剣)を信仰する高句麗系種族であり北
方系天神種族であるという。
弥生時代の前期では、銅鐸祭祀集団たる蛇神信仰種族である長すね族が、分立しており、王国建設へと
幾多の長すね族が、主導権争いをして対立抗争していたという。そこへ初期のニギハヤヒ、北方系の雷神型
の鍛冶信仰から生まれた祖霊神を持つ氏族が渡来し、その次に渡来した高麗系の「富美族」が、このニギハ
ヤヒ伝承を伝えたという。(古事記では、物部連、穂積連等は、古い長すね系の氏族ではないと述べられてい
るという。)氏の著書 P.128には、物部族は、銅鐸祭祀信仰種族であると記述されております。
{ これらの種族は、大きな意味の「登美族」であり、細かくいえば、古い「富美族」、最初に渡来した「富美族」
と言えばいいのでしょうか。畿内の長すね族を平定した。その時期は、倭国大乱頃、3世紀末〜4世紀初頭で
あり、支配層は北方系と被支配者層の海の彼方からの種族の習合した族であろうと。(この習合は、日本列島
で行われたのではなく、渡来する前の朝鮮半島に居た頃であろうと推察されているのではないかと思われます。)
また、畿内への侵攻ルートは、瀬戸内海を西ー>東へか、日本海から中国地域を通って大和への2系統を
考えて見えるようであります。
:*
参考までに、最近知りえた事柄ですが、後期古墳の技術伝播も、上記 ルートと同様であるやに思います。
丁度、古墳を築造する時期の事柄であり、符号している。詳しくは、拙稿を参照されたい。
( 尾張国への 古墳築造技術伝播の傾向について
)*
畿内に入った各種の「富美族」{例えば、書記に出てくる土蜘蛛族(一例を挙げれば、鴨氏、ニギハヤヒ族、
磐余彦命等)は、王権争いから脱落した一族であったという。初期ヤマト王権を確立したのが、高句麗系の
崇神王朝(この一族も富美族であり、最後に渡来した種族にはかわりはありますまい。)であったと言われ
る。}( 物部氏の伝承 P120 参照 )
ニニギノミコトに付いて来た者は、沸流百済の王族であり、名前に天(あま)が付かない者は、沸流百済に
追われた馬韓の遺民か南部辰韓系の渡来者であり、ニニギを乗せた船は、玄界灘を渡って末ろ国の現 唐
津に着いたと言われる。沸流百済の拠点は、大伽耶であったとも言われております。
書記に記述される土蜘蛛(つちぐも)、古事記では、土雲(つちぐも)とされていますが、その一族の中に、古
代氏族の日置(へき)氏があります。「高麗(こま)国、別名高句麗といい、そこの国の人、伊利須意み(いるす
のおみ)より出ず」(新撰姓氏録)とされる渡来人」であり、「和名抄」では、葛上郡の日置郷にいた氏族であろ
うという。この氏族は、服属した氏族でありましょう。日置氏は、銅鐸祭祀族であり、後世の和泉国の日置荘
は、梵鐘鋳造の地としても有名であるという。
この日置(へき)という音は、朝鮮語の意味では、火を駆使して土器を焼き、銅器を鋳造する人々ということ
になるとか。この和泉国の日置部は、後の「鴨県主の祖」とするという伝承を天神本紀内に記述されていると
いう。この日置氏は、崇神王朝に服属した、一つの銅鐸祭祀氏族であったということでありましょう。
畿内には、こうした土蜘蛛族が分立していたようであります。そうした様子は、日本書紀の神武東征神話の
中で、各土蜘蛛族を征服していった事が記述されており、そのルートも分かるようでありますし、古事記も、こ
の古い征服ルートを伝えているという。(この東征は、崇神天皇のことではないかと氏は、考えておられるの
でしょうか。・・筆者注)
<< 銅鐸祭祀氏族は、古い形の氏族であり、この息長氏(琵琶湖にいた氏族)もまた、蛇神信仰氏族であり、
古い形の 氏族であったようです。再起するのは、応神朝以降であり、はっきり姿を現すのは、継体朝期であ
りましょうか。>>とも記述されている。
また、平安期以前では、日本語には、訓読みはなく、文字は、表音であり、朝鮮語の音で解釈する事が可
能であると述べてみえますし、事実、解釈できると言ってみえるようであります。
日本書紀の編纂は、720年であります。8世紀初め頃でありますが、継体朝の天皇家が、抗争を繰り返しな
がら、記紀編纂時の天皇系譜が唯一であるとして、それ以前の確かに天皇として即位した氏族を自らの出自
とする工夫をし、それ以前の神代は、各氏族が持ちえた神話を統一して書き上げ、新たな天皇を作り上げ辻
褄あわせをし、蘇我氏族の本流筋の抹消に努力されたと理解されているのでしょうか。まだまだ、この当時、
藤原氏以外にもこうした過去を持ちえた氏族の末裔が残存し、他の氏族もこうした日本書紀での改変を承知
の上で、受け入れていたのではなかったか。というのが、氏の理解の偽らざる本意ではなかろうかと推測いた
しました。
「先代旧事」は、偽書という評価が付けられておりますが、部分的には事実であろうというのが、歴史学上の
定説になっているとか。
この著者は、物部氏の一族の者であるというのが有力であります。書記の著者であります藤原不比等にし
ても遥か古代の事までは詳しくはなかったようで、それ故、固有名詞ではなく、普通名詞として人名が出てくる
ようだと朝鮮語の音と意味の解釈から結論付けてみえるように推測できます。
弥生以降古墳時代にいたる諸豪族は、銅の採掘地を持ち、銅の採掘集団を持ち、銅の鋳造技術集団を持
ちえた者のみが、領袖者であり、祭主であり、医術者でもあったのでしょう。銅鏡、銅剣、古くは銅鐸の生産に
長けていたのでしょう。妻は、鍛冶王に仕える巫女的存在の者が入籍したともいう。
鉄が、日本に伝わった後も、銅の文化は、呪術的な分野において存在価値があったようでもあると氏は、述
べてみえると理解しました。事実、鉄の導入は、弥生中期まで遡る事ができるようであります。ただし、その導
入は、鉄の地金を加工する小鍛冶技術の定着であったのであり、本格的な製鉄技術等の導入ではないと捉え
て見えるように理解できました。
その例証として、日本書紀の宝剣出現章のスサノオと話をする出雲の国神(クニツカミ)である脚摩乳(アシナツチ)、
妻 手摩乳(テナツチ)の話をあげられ、その人名の摩乳は、朝鮮語の音読みで、マチ。これは、朝鮮語の意味で
は槌、とんかち、ハンマーとなり、鍛冶で使う物であると解釈されているようです。このクシナダ姫の両親は、鍛
冶王に他ならないとしておられました。(おそらく、鉄の加工をする小鍛冶技術王でありましょうか。・・・筆者注)
そして、日本で使う農具類の鉄は、砂鉄で造られた物が多いとか。本来武器に使う刀剣用の精製された鉄
のかたまりは、古墳時代を通して、朝鮮、中国からの輸入に頼っていたという。
そして、崇神、垂仁朝の初期ヤマト王権の頃、朝鮮半島から新しい鍛冶技術と良質の地鉄が流入し、この後、
鉄剣=神として登場するようになるという。垂仁紀には、「蓋し兵器をもて神祇を祭ること始めて、この時に興れ
り」とする伝承があると記述されているようであります。*
以上長々と記述いたしましたが、要は、息長氏と息長足姫との間には、何かしらの関連が在りはしないかと推測す
るからに外ありません。
息長足姫は、先述したように「第14代仲哀天皇の后として神功皇后と称され、応神天皇の母君にあたるとか。」
実在した人物なのかは分かりませんが、琵琶湖で支配力を発揮した息長氏は、古い形の銅鐸を信仰する種族で
あったとか。その後 応神朝頃から再起しはじめ、継体朝頃には、はっきりと再起した種族とか。この息長足姫は、
息長氏とは、何らかの関わりのあった人物とは考えられないだろうか。鉄と琵琶湖の水運でのし上がってきた古い
種族という印象を受けるのですが・・・。
話を元に戻します。あくまで、小牧市史に記述された大久佐八幡宮(村社)の祭神を基に推考すれば、草田天神は、
大焦鳥察鳥命・息長足姫を祭神としていたのでありましょうか。誉田別命は、後に勧請された八幡神でありましょうか
ら。或いは、天神ではない、地神だとすれば、あの後期古墳を築造した豪族に関わる祭神かと。現 大久佐八幡宮の
祭神二神は、八幡神に関わる二神である可能性は高いと思われます。
この神々は、崇神・垂仁・景行天皇系の三輪王朝後の大阪を本拠とした河内王朝の人物でありましょうし、倭の五
王の初期頃の人物でありましょう。
一般的には、日本書紀では、小碓尊(景行天皇の皇子)を、ヤマトタケルと想定しているのでありましょうが、倭の五
王の一人であります雄略天皇(実在天皇)が、実は、ヤマトタケルという人物像のモデルではないかと言われるHPもあ
ります。 http://www2.wbs.ne.jp/~jrjr/nihonsi-1-5-2.htm 参照 「大和朝廷の動揺」 その1 であります。
「ヤマトタケルは、『古事記』では倭建命、『日本書紀』では日本武尊と表記されていて、どちらもヤマトタケル
ノミコトと読ませる。
一方、雄略天皇は『古事記』で大泊瀬幼武、『日本書紀』では大長谷若建命となっていて、オオハツセワカタ
ケルと読む。
また、熊本の江田船山古墳から出土した鉄刀や、埼玉の稲荷山古墳から出土した鉄剣には、雄略天皇のこ
とを表す獲加多支鹵大王(ワカタケル)という銘文がある。ヤマトタケルとワカタケルという名前は確かに似てい
る。
でも、これだけだと「タケルという名前が共通しているだけじゃないか」と言う人もいるだろう。
そこで、『宋書』と『常陸国風土記』に注目してみる。
まず、『宋書』に記述されている「倭王武」という表記なんだけど、ここから「王」の字を除くと「倭武」となり、ヤマト
タケルと読むことが出来る。
一方の『常陸国風土記』、この書物の中ではヤマトタケルのことを「倭武天皇」と表記している。
また名前だけでなく、『古事記』『日本書紀』に書かれているヤマトタケルの逸話が、雄略天皇の行動と似ている
部分が多いのも注目していいだろう。
人を簡単に殺してしまう残虐非道な部分も2人は共通している。
これらのことから考えると、ヤマトタケルという人物を創造する時に、雄略天皇をモデルにした可能性は非常に
高いと思う。」 以上であります。
書記の著者 藤原不比等は、中国の史書にも、日本の古代史にも造詣がそこそこ深く、うまく史実等を利用し
て、記述されたのでありましょう。
3.大久佐八幡宮伝記から知られる謂れ
・ 古の記録類は、尾張府志(又は、張州府志とも言うカ。){元禄期の尾張三代藩主の発願で、始められたが、
主 死後中断され、藩庫に保管されていた。8代藩主{元文4(1739)年〜宝暦11(1761)年}により再び再開
され、松平秀雲に命じて編纂完成。}と9代藩主{宝暦11(1761)年〜寛政11(1799)年}により、漢文ではな
い、仮名まじりの風土記の編纂が、行われ完成したその風土記は、尾張志という。
そして、文化年間の尾張国地名考(津田正生著)、大正14年に刊行された篠岡村誌(しかし、私がみること
が出来た村誌は、昭和二年刊行の書籍です。)。そして、昭和2年に発刊された東春日井郡史、そして、小牧
市史 通史と。以上が、よく知られる古伝類を記録した記載書でありましょうか。
・ もう一つの記録は、神社の宮司家に残る由緒類でありましょうか。大正12年に提出された宮司 松本美三
氏と氏子総代4名連署の「郷社昇格願添付書類」の記載文にその由緒等が使われていたようです。
では、「郷社昇格願添付書類」に記された伝承ではありましょう由緒、一文にしかずであります。出来るだけ原
文に近い形で提示いたします。
「大久佐八幡社は、(中略)貞観13(871)年駿河国井山の人 井山八郎此地に移住し、即ち勧請し奉るに興り
(この部分は、社掌 鵜飼八郎<かっての井山氏の末裔で、改姓されたとか。>系譜に依る。)、(中略)仰々<ソ
モソモ>当社は其創建、さきに石清水八幡宮の京都洛外に勧請せらるる秋にあり。(中略)当時は、地神山(現
福厳寺寺地・・・筆者注)と称する丘岳に鎮座し奉りしも、足利の季世、西尾道永社地を古宮と称せるる地に遷し
奉る。以来百度弛廃慶長の頃現今の地に遷御し奉れり。」と。
この内容は、尾張府志・尾張志とも大略同じようであるとか。<確かに同様でありました。・・筆者注>
文化13年脱稿か 津田正生著「尾張国地名考」なる書物には、「かくて元来創立者たる井山家にありては、這
般(シャハン)の記録を留めず、(中略)降りて建長年中(1249〜1255年の間)井山小八郎社職を継ぐに及びて系
譜も亦これよりあきらかとなるに至り」云々と。この書には、さらに補足資料が添付されているようで、そこには、「
(前略)古くは、当大草を称して草田村と云ひしも改称の時代を詳らかにせず。八幡の社は本国帳所載 正四位下
草田地神ならんと云ひ伝ふれども未定の説に属するを以って草田地神と称せしに故なしとせず。旧地と伝えらる
る地神山との称あり、傍らには神田の字名あり。(中略)文安の頃西尾道永三河の国西尾の城主たりしが、転じて
大草村に来たり居城を構え織田氏(岩倉)に仕え、春日井郡の過半を領したりと云ふ。道永僧盛禅に深く帰依し、
一寺を創建せり、今の福厳寺これなり。然るに堂宇建立にあたり草田地神の神域を穢し奉るを畏れ社殿を村内
西北の地に(古宮)遷座し奉ると伝え聞く。」と。
上記の津田正生著「尾張国地名考」・「尾張国神社考 原題 尾張神名帳集説乃訂考」なる二つの書物を私も、
実際に目を通しましたが、大正期の宮司 松本美三氏が、関わられたでありましょうか。松本氏が、提出された記
載文面と同様な文には、遭遇できなかった。
実際には、「尾張国地名考」では、本国帳 正四位下 草田天神とのみ記載され、考えうるに、八幡社が、それ
に当たるのか尚推考すべし。云々とのみ。さらに、「尾張国神社考 原題 尾張神名帳集説乃訂考」においては、
正四位下 草田地ノ神と記載され、八幡社が、是にあたるべし。社家 鵜飼氏と断定されて記載されていたのみ
であった。
私が目にした写本 天野著「尾張国神名帳集説 正式名 本国神名帳集説」には、草田地神として記載され
ていた。しかし、この地神が、どこの社に当たるのかは、天野氏は、その書には、記載されていない。津田氏は
天野氏の直筆本をみられて記載されたのであろうか。
松本氏の記述は、或いは、尾張府志・尾張志等に書かれていた事なのかもしれません。しかし、それならば、
尾張府志に曰くと書かれる可能性の方が高いのでは・・・。つぶさに両著を閲覧いたしましたが、松本氏が提出
された文面には、遭遇出来なかった。
いったい松本氏は、上記の事柄をどこから入手されたのであろうか。おそらくは、宮司の家に伝わる由緒等
を巧みに使い、さも、津田正生氏の著書に記述されていた如きに、松本氏が、推論をされたとしか考えようが
ありません。( このように、記述された時が新しくなれば、成る程、作為が入ってくる事も大いに有り得る事では
なかろうかと。・・・筆者注)
また、西尾氏についても、「文安の頃西尾道永三河の国西尾の城主たりしが、転じて大草村に来たり居城を構
え織田氏(岩倉)に仕え、春日井郡の過半を領したりと云ふ。」という記述がありますが、この大草の西尾氏につ
いては、美濃系の西尾氏ではなかろうかという事を言ってみえる方もあるようで、以下の文は、そうした方の記述
であります。
{美濃周辺の西尾氏としては、尾張の大草城(小牧市大草)の西尾式部道永が知られています。大草城は、文安
年間(1444〜1449)の築城とされています。大草城の近辺には、春日井市に西尾地名がありますが、「さいお」と
呼ぶようです。西尾道永は、その後美濃の萩の島城に移ったとされます。萩の島城は、東美濃の恵那市と瑞浪
市との境に所在します。文明年間(1469〜1486年)に小笠原氏と木曽氏連合軍の美濃攻めの攻撃対象であ
った「大井城・萩の島城」の萩の島城です。その際の城主が西尾道永であったかは、不明ですが、その可能性は
あるのではないでしょうか。
* 大草に居た西尾道永が、既に文明年間(1469〜1486年)には、美濃の萩の島城に移っていたのであれば、
応仁の乱(1467年〜1477年)頃のどこかからは、居なかった事になる可能性もあり、大草城は、無人の城と
なっていたのではないでしょうか。又、大草に近い現 小牧市林地区では、応仁の乱前頃には、大規模な山津波
が起こったやに推測出来る伝承もあり、大草近辺でもその可能性は、十分に考えられるのではと・・・*