春日井市 高蔵寺町に存在する 五社大明神 について
                                              − 主に伝承類による考察を通して −
         1.はじめに
            この五社大明神について知ったのは、”郷土誌かすがい”紙上の春日井・小牧市における朝日さす黄金伝説
           についての記述からでありました。
            この黄金は、ゴールドではない鉄に関わる事柄であるかのようでした。
           春日井・小牧・多治見地区の朝日射す夕日輝く黄金伝説の残る地・産鉄に関わる地名・字名の残る地について 
            参照されたい。

            そして、下記HP上にある、この五社大明神についての記述を知り、この五社とは、5つの神、「素盞緒尊(ス
           サノオノミコト)、大碓尊(オウスノミコト)、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)、菊理比売命(キクリヒメミコト)、天
           目一箇命(アマノマヒトツノミコト)のことであるとは、神社の謂れとして記述されていた。」( 出展は、下記の
           URLであります。管理者の方には、リンク等の許可を得てあります。五社大明神社の様子も下記のURLにて
           参照できます。 http://okuromieai.blog24.fc2.com/blog-entry-1009.html   参照 ) 事であります。

            また、愛知県春日井市の五社大明神社 春日井市高蔵寺町字高蔵林1939 熱田神宮の高倉明神を祀っ
       ていたので高倉地とも呼ばれ、熱田高蔵宮の奥宮とも言われていたとか。「
創建年や場所は定かではなく、
          分かっている最古の棟札は、1493年に再建されて、1528年に現在の地に移り、1655年にも再建されている。」とい
          うように、境内の説明板には、記載されているとか。。この神社は、高蔵寺(旧 高倉寺カ)の北側やや西寄りの緩
          斜面に位置しています。

                          私も愛車を走らせ、平成25(2013)年12月10日(火)の午後 高蔵寺町の高蔵寺(五社大明神社の神宮寺
           カ 寺伝では、創建は、永平3(933)年とか。かっては、高倉寺と呼ばれていたかも)と五社大明神社へ参拝
           を兼ねて行ってきました。
                          後日、新修 春日井市近世村絵図集 昭和63年版をみると、P.48に、高蔵寺には、12の坊があり、再建は、
           永正7(1510)年とか。その後も兵乱にあい古記録を失くし、消失をまぬがれた実相坊が、現在の寺になってい
           るとか。
            確かに、年不詳ではありますが、高蔵寺村絵図には、高蔵寺の外に、12の坊が記載されている。しかし、実相
           坊の記載は無い絵図ではありました。

                          その高蔵寺の境内を散策し、境内右側に、墓地があるようでしたので、そちらへ向かって歩いていくと、猫かと
           思いましたが、よくよく見ると痩せた子狸であるようでした。人間に慣れているのかさっと逃げるでもなく、こちらを
           みていました。ポケットには、コーヒー店に出るサービス菓子小袋がありましたので、その菓子を投げてやると、直
           ぐには食べず、やや時間をおいてから、ゆっくり食べていました。まだ、このような所には、野生の子狸が生息して
           いるようです。携帯で写真を撮りましたが、あまりに小さく写っている為、猫ともみえてしまいますが、目の周りが黒
           く、どうみても猫ではなく、狸であったかと。

                           この寺の西斜め上には、五社大明神社が存在し、上記HPの記述通り、神社西側に駐車場もあり、そこに愛車
           を止め、きれいな整備された手すりのある階段を登っていきました。かなりの長さであります。帰りにこの階段の東
           側に鄙びた石積みの参道があり、ここが、本来の神社への古の参道であったのでしょう。そこを下って降りました。
            落ち葉が落ちきり、何ともいえない雰囲気の参道でありました。江戸時代の村絵図には、五社明神と記載されて
           いました。
                         
            五社大明神の祭神の一柱、大碓尊(オウスノミコト)とは、{日本書紀に、「大碓命が東征を欲せられなかった為
           に、美濃国(岐阜県)へ封ぜられ、三野国造の祖神の娘2人を妃とせられ、2皇子(押黒兄彦、押黒弟彦)を生む」
           云云とあるようで、猿投神社社蔵の縁起書{光仁天皇宝亀10年(779)に大伴家持、阿部東人による調査書}に
           も、「景行天皇52年(実在が疑われる天皇ではありますが、実在したとすれば、生誕年は、288年カ、又、垂仁天
           皇崩御を住吉大社神代記に準拠すれば、在位53年かと。垂仁天皇即位年は、崇神天皇崩御年とすれば、271
           年カ。とすれば、324年に垂仁天皇が崩御。その年を景行天皇即位年と仮定すれば、景行天皇52年は、376年
           となりましょうか。・・筆者注)に猿投山中にて蛇毒の為に薨ず、御年42歳、即ち山上に斂葬し奉る」云々とある。
            現在、西宮後方に御墓所がある。この地は古くより御墓所として伝えられていたが、明治8年教部省の実地調
           査の結果、現在地を御墓所と確定し、以後守部、墓丁が置かれ現在に至っている。という事のようあります。}(
           以上の記述は、ウイキペデイアからの抜粋であります。)


           * しかし、実際のところは、大碓尊(オウスノミコト)に、父である垂仁天皇が、あまりに見目麗しい娘である故、妃
           にしようとする前に、その姿を見に行かせた所、大碓尊が、一目で気に入り、奪ってしまったというのが本当の所
           のようで、大碓尊は、父の気性から父の怒りを恐れ、逃げていたというのが実情のようでありましょうか*

           また、尾張の古代伝承をまとめた方もあるようで、以下の記述の一節を抜粋させて頂きます。
           「タケイナダネからミヤス姫、次のシリツナネの時代、尾張氏勢力は、大高、鳴海、熱田から拡大し、東谷山から
          庄内川を挟んだ、今の高蔵寺町一帯、内津、犬山へと広がっていた。東谷山を中心とする古墳群にはそれを物語
          るものが多い。
           前記の尾張戸神社はその現れであろうし、高蔵寺町には五社明神があり、かつて熱田神宮の奥の院ともいわれ
          た高倉明神(アマノカゴヤマ)やヤマトタケルを祀っている。その近く玉野町の五社神社もヤマトタケル、ミヤス姫、タ
          ケイナダネを祭祀し、東谷山麓の白鳥塚古墳はタケルの白鳥伝説を残し、すぐ近くの勝手神社もタケルを祀る。尾
          張戸神社の中社はヲトヨの墓という伝承があり、松川橋を渡った守山区の川嶋神社の祭神もヲトヨノミコトである。大
          留町の神明社の摂社、中務卿宗良親王社の神官はヲトヨの末裔とも。またイナダネの妻は、丹羽の大県主である大
          荒田(大県神社)の娘の玉姫(大県姫の宮と田県神社)であった。またシリツナネの子、つまりタケイナダネの孫、ハリ
          ナネ(針名根)は犬山城のすぐ近く針綱神社の祭神である。

           これらの伝承から尾張氏の当時の版図に想像の翼を広げることは容易である。 」(郷土誌かすがい 第52号 伝承
          による尾張古代考 2 ヤマトタケルとミヤスヒメ 井口泰子氏 参照)と言われている。
            
           しかし、上記の記述は、伝承であり、里老の口述等と、おそらくは、尾張連清稲(キヨシネ)の撰述した貞観16(874)年
          熱田縁記に書かれた事柄が基になっているのではなかろうか。 残念な事に、私は、まだ貞観16(874)年に書かれた
          という熱田縁記を実際に、目を通してはおりません。きっと熱田社内に存在しているのでありましょうが・・・。

           もう少し詳しく調べられないかと資料を探しますと、高蔵寺町には、高蔵寺という寺があり、「尾張府誌」なる書物の
          中に「俗云是熱田高蔵宮之奥院也」という記述もあり、里老等の言い伝えとして記録されたのでありましょうか。 

                       同様な事柄は、「尾張国地名考」(文化13年脱稿カ 津田正生著)にも、記述されており、「往昔此処に熱田の高倉明
         神を祀るといふ此故に高倉地とよぶ其神祠を守る神宮寺を後世に高倉寺(天台宗)といふ」とある。後の高蔵寺の事で
         ありましょう。

          古代の尾張国造である尾張連氏に絡む貞観16年の尾張連清稲撰述の熱田縁記でも、江戸期の内津・西尾・明知・神
         屋村の謂れを、ヤマトタケル伝説で、説明しているし、寛平(9世紀末)の熱田縁記でも、確かに四村の謂れを、ヤマトタ
         ケル伝説で村の名前の由来を記しているようで、津田正生は、自著「尾張神名帳集説ノ訂考」において、寛平縁記は、尾
         張守 村椙の作文にして、学者の縁記で、今は取らずと。この四村の謂れは、{「張州府志」にも記載されているようで、江
         戸期の内津・西尾・明知・神屋村の謂れを、ヤマトタケル伝説で、説明しているという。}( 春日井市史 P.102 参照 )
         更に、元禄15(1702)年の吉見幸和著 「妙見宮由緒書」に附載されている「内津社本記」も、建稲種命の系図を記して
         いるようです。
          文化13年頃の津田正生は、『尾張地名考』なる書物のP.211〜212で、「こうした記述は、悉く従い難し風土記の格
         に文体が相似たりすべて風土記のたぐひは地名においては信(うけ)られぬ事多し口実といへども星霜を歴るうちに沿
         革あるべし」と断言されていました。

                      私見ではありますが、貞観16年・寛平(9世紀末)の熱田縁記書には、確かに内津の村名の謂れとして、篠城(シノギ)に
         入られて、座して食していると命は、タテイナダネ命の腹心の言葉で、イナダネの命が、亡くなられたという一報に接し、「うっつ
         かな、うっつかな。」と言われた言葉で、座して食していた辺りを、それ故内津(うつつ)と命名されるようになったと。不思
         議に思うのは、この貞観16年・寛平(9世紀末)の世に、既にこの内津近辺は、篠城(シノギ)という総称で呼ばれていたの
         でありましょうか。都の木簡にも、そのような呼称での記載があったのでありましょうか。
          何やら上記の津田老の言葉が、頭をよぎるのでありますが・・・。

                      しかも、上記の4つの村の謂れの事柄は、日本書紀等の大和勢力の記述書では、まったく触れられていない事から、
         一地方豪族の謂れを格付けする為の所作とも考えられる事ではありましょうか。明治維新と共に、こうした事柄は、当地
         内で、実しやかに流布して今日まで伝わっている可能性が大であると・・・・。このように推測いたします。

          確かに、西尾(サイオ)町には、馬蹄石(バテイセキ)なるものが存在しています。岩に、馬の蹄(ヒヅメ)の跡らしき物が残っ
         ていたかと。江戸後期頃には、勤皇思想が強くなり、そうした者の誰かが、ヤマトタケル伝説の存在を知り、密かに岩
         に馬の蹄跡を彫りたるか、自然にそのように川の流れが彫たるかのどちらかのように推測いたしますが・・・。

          この貞観・寛平の熱田縁記等は、神刀(草薙剣)の謂れの正当性を説明する為の一世一代の論述ではなかっただろ
         うか。記述されたのが、天武天皇以降であり、天武天皇から取り上げられた神刀(草薙剣)が、尾張へ返却され、それで、
         朱鷺元(686)年に熱田社を創建し、神刀を祀った筈。かくして、天皇家の三種の神器の一つ ”草薙剣”というお墨付き
         を熱田社は、与えられたとも言えましょう。

          参考までに草薙の剣については、{江戸時代の中ごろ、岡田正利によってあらわされた「玉せん集裏書」という書物に、
         松岡正直よりの聞書として次のように伝えている。
          「八十年ほど以前、熱田大宮司や社家のものがひそかに御神体を窺ったところ、剣は長さ二尺七〜八寸(約八十数cm
         )、刃先は菖蒲の葉のかたちをしており、なかほどはムクリと厚みがある。その本の方は六寸(約18cm)ばかりが節立っ
         ていて、魚の背骨のようなかたちしていた。そして色は、白っぽかったという。」
          この記述が正しければ、北九州の弥生中期から後期にかけての三雲遺跡から出土した有木丙(ゆうへい)細型銅剣と
         良く似た物ということになる。だが、三雲遺跡の銅剣は、一尺七寸(約51、5cm)であり、草薙の剣は、それより一尺ほど
         長い。相当大きな剣ということになり、最初から宝器としてつくられ、まつられてきたのであろうか。}( 歴史シリーズ23 
         愛知県の歴史 塚本学、新井喜久夫著 山川出版社 昭和45年発行  P.27〜28 参照 )とも伝わる。

          更に、「 昭和天皇の侍従長であった入江相政の著書によると、太平洋戦争当時に空襲を避けるために木曾山中に疎
         開させようとするも、櫃が大きすぎて運ぶのに難儀したため、入江が長剣用と短剣用の2種類の箱を用意し、昭和天皇の
         勅封を携えて熱田神宮に赴き唐櫃を開けたところ、明治時代の侍従長山岡鉄舟の侍従封があり、それを解いたところで
         明治天皇の勅封があったという。実物は検分していないが、短剣用の櫃に納めたという。」と記述されているとか。
          これは、ウイキペデイア 天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ、あまのむらくものつるぎ)に記載されておりました。別名 
         草薙の剣とも言うようであります。( http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%8F%A2%E9%9B%B2%E5%89%A3 参照 )
         
          確かに、古代尾張連氏は、熱田を本拠として、あじま・味美地区に勢力を持ち得た物部氏を婚籍関係を含めて隷属さ
         せた可能性が高い、丹羽郡に力を持ち得た大荒田一族を婚籍関係にて従え、強大な力を発揮していたのでしょう。尾張
         氏が、実際に進出した地域は、庄内川左岸 現 守山区までであったのかも知れません。或いは、庄内川を一部越えて
         進出したかも知れませんが・・・。

        2.春日井市玉野町の五社神社について
           春日井市玉野町字宮之越に所在する五社神社は、境内にある記念碑によれば、永享元年(1429)二月吉日に創
          建されたという。祭神は建稲種命・素盞嗚命・天照大御神・日本武尊・宮簀姫命の5つの神を祭る神社であるという
          説明板があり、地元の有志の方々が、張州府志曰「五社祠、玉野村に在り、明神、神明、天神、八幡、多度を祀り、
          永享元(1429)年村民之を建てる。」に基づいて建立されたのでありましょう。

           確かに、この地域は、鎌倉時代には、篠木荘であり、鎌倉円覚寺が地頭職を持ち、君臨していた地域かと。この荘
          園の始まりは、天養元(1144)年であり、後白河法皇に寵愛された美福門院領となった筈。そして、最近の研究では、
          この地域の開発者は、天養元(1144)年当時 丹羽郡司 良峰家に繋がる橘氏であろうという事。平清盛の父 平忠
          盛と郡司との主導のもとに一円立荘された篠木荘であるという経緯である事は、史実でありましょう。

           そして、建武の新政後も、かなり流動的ではありましたが、引き続いて地頭職を得ていた鎌倉円覚寺の管轄していた
          篠木荘内の玉野郷へ、「熱田神宮宮司以下、幡屋大夫以下神人(神宮に仕える非農耕民)が、玉野郷へ押し入り、乱
          暴狼藉をしていた。その後、古来の例に倣って、建武4(1337)年には、この玉野郷は、半分熱田神宮が、代官として
          入部する事が認められたとか。」( 春日井市史 P.128 参照 ) 14世紀頃の出来事ではありましょう。

           この玉野郷への熱田神宮の介入は、往古の伝統地という意識が働いた可能性は、高い。鎌倉円覚寺にしても、後ろ
          盾であった鎌倉幕府が滅び、地頭職の行使も、ままならない状況下ではあった筈。その間隙を突かれたとも言える出来
          事ではありましょうから。

           これ以後、熱田神宮の祭神が、当地に祭られていったとしても、不思議な事でも何でもないでありましょう。それが、建
          稲種命・素盞嗚命・天照大御神・日本武尊・宮簀姫命の5つの神であったのかも知れません。であれば、この玉野町の五
          社神社は、それ程古い時代の創建ではなさそうです。

           しかし、不思議な事に、江戸時代 文化13年頃に書かれた『尾張国地名考』(津田正生著)の春日部郡のなかに、外
          原(とのはら)村(支村には、細野・木付・榛之木あり。)という項目は、ありますが、玉野村は無く、もしかすると、支村の
          榛之木(ハンノキ)村が、現 玉野町に相当するのであろうかとも推測いたしましたが、実際は、山田郡に属していたようで、
          室町末期頃 かっての山田郡は、春日部・愛知両郡に分割され、玉野町は、春日部郡に属するようになった経緯がある
          ようでありました。

                         しかし、まだ納得できない事は、津田氏の認識では、江戸時代の頃は、山田郡の範囲は、境川(その当時は、庄内川
          でしょうカ。)以南という認識であるかのようです。とすれば、諸本集成 倭名類聚抄 外篇 (別名 日本地理志料)昭和
          56年再版第2刷発行の臨川書店版 邨岡良弼{木楽(これで一字)斎と号される方}著 この著者は、弘化2年2月10日
          (1845年3月17日)〜大正6年(1917 年)1月4日没、明治時代の法制官僚、法制史学者、歴史学者とか。
            日本地理志料では、かって篠木荘と呼ばれていた地域は、山田郡舟木郷という認識であるかのようです。残念な事に
           倭名類聚抄には、春部郡を構成する郷として、池田・柏井・安食・山村・高苑・餘戸の6郷が記されているのみ。

            「このうち『奈良朝遺文』にその名が見られるのは山村郷(正倉院丹裏古文書)だけであるが、安食郷も年代は降るが
           康治2年(1143)の安食荘立券文にその名があり、まず信頼できる。
            しかし他の4郷は奈良時代までさかのぼりうるものかどうか詳かでなく(たとえば餘戸郷は倭名類聚抄の刊本には記載
           されているが、高山寺所蔵の古写本には記載されていない。『筆者注として餘戸郷は、山田郡の郷名ではないか。』 )、
           また記載もれの郷がありはしないか、という疑いもある。
            たとえば藤原宮出土木簡の「春部評春□」の春が里名の頭字だとすると、倭名類聚抄の記載する6郷中にはそのよう
           な郷名は見られないが、『日本地理志料』が論及しているこの郡の倭名類聚抄不載の郷の中に「春部郷」があって符号
           する。}(以上の既述は、郷土誌かすがい 第3号 参照)

            それでも、春日部郡の範囲の認識は、江戸時代の津田氏の認識と日本地理志料での春日部郡の範囲とでは、やはり
           弱冠違いが存在しているのも事実。この辺りが、見解の相違の分かれ道でありましょうか。

           話を元に戻します。
           15世紀はじめ頃の創建という境内の記念碑からの推測であり、伝承の域を出ない謂れかと思いますが、この地域に
          入部した熱田社に関わる者達によって神社を15世紀頃に創建したとも考えられ、或いは、室町期に自然村落として形
          成される頃この地域近辺の神々を村落住民が、勧請してきたものでありましょうか。今となっては、不明としか言いよう
          がありません。

           この拙文をしたためた後で、春日井市近世村絵図集をながめる機会があった。P.43に、天保12(1841)年の玉野
          村絵図がありますが、五社神社は無く、五社神社が創建されたであろう同じような場所には、「天王」と記された神社が
          あるのみ。また、神社の東と西側には、宮畑があり、更に北側には、やや離れて氏神様が祭られていたようであります。

           とすれば、やはり、玉野町の五社神社は、高蔵寺町の五社大明神社の名称とは違い、永享元年頃の五つの祠の祭神
          を合祀したかとも考えられましょうか。明治期頃に付いた五社という名称のような気がいたしますが、どうでしょうか。

        3.尾張東部地域での白山信仰の広がりについて
           白山神は、菊理比売命(キクリヒメミコト)を祭神にしている。
           この地域の白山信仰については、郷土誌かすがい紙上の村中治彦氏の論述が、詳しい。拙稿もそうした氏の論考
          の概略をまとめています。白山信仰と7・8世紀須恵器古窯跡地域との関連と大山寺との関わりについての覚書 参
          照下さい。

           更に、論点を概略すれば、当地域における一番早い白山信仰についての事柄は、「白山町にある白山神社であり、
           円福寺(天台宗)が、別当寺(神宮寺とも言う)であり、養老2年(718)に創建されたと伝えられている。」ようです。円
           福寺の創建より早いようです。ここは、八百比丘尼生誕の地とも言われ、何やら福井との繋がりが想起されますが・・。
           関連として、空印寺 (福井県小浜市にある寺院。) 同じく八百比丘尼の伝説が残るともいう。

           この福井というのが、曲者です。「福井と言えば、継体天皇の育った所、天皇の母方の地であり、琵琶湖に勢力を持
          っていた息長氏を父方にしていたという。」(物部氏の伝承 畑井 弘著 参照)もう少し詳しく記述すれば、「銅鐸祭祀
          氏族は、古い形の氏族であり、この息長氏(琵琶湖にいた氏族)もまた、蛇神信仰氏族であり、古い形の氏族であった
          ようです。再起するのは、応神朝以降であり、はっきり姿を現すのは、継体朝期でありましょうか。」とも記述されていま
          した。再起した息長氏(琵琶湖にいた氏族)は、この当時鉄を産する地域を確保し、製鉄と琵琶湖の水運力で力を得て
          きたようであります。
           製鉄に関わる氏族ではあったのでしょう。

                        もう少し付け加えれば、壬申の乱以降に設置されていく国府(美濃国府)近くに、野上なる地域があるという。この地域
          は、尾張連氏と同族の伊福部氏(伊福氏とも言う。)の本拠に近いとか。また、『大日本地名辞書』第五巻に、「伊吹神社
          ありて、野上の民も之を氏神とす。とあり、伊福部氏(伊福氏とも言う。)の氏神社が、伊富岐神社(伊吹神社カ)であると
          か。

           更に、後期古墳時代(横穴式古墳築造期)には、既に福井から北陸経由美濃・尾張への(陸路カ 水路を含む経路カ)
          技術伝播ルートが、存在していたのではないかと示唆される考古学者もいるとかお聞きします。

           また、列島の古代史4 人と物の移動 岩波書店 2005年版には、次のような論考があった。「河海の交通ー日本
          海交通を中心としてー」 松原弘宣著。 その中の 1 列島の水上交通 <地方の水上交通>に、美濃尾張三河川
          (揖斐・長良・木曾川)と伊勢湾交通なる項目があった。
           「揖斐・長良・木曾川と伊勢湾交通は、東山道上の青墓(岐阜県大垣市赤坂町)−笠縫・中川(大垣市北部)−結ぶ
          (墨俣町)−墨俣渡ーたまの井・黒田(愛知県旧 木曽川町)−一の宮(一宮市)−下津(オリツ 稲沢市)−東海道上の
          萱津(海部郡甚目寺町)という美濃・尾張間陸路と揖斐・長良・木曾による三河川によって形成されている。」と。更に「
          そこでの交易が水上交通を利用して行われた事は、『日本霊異記』中巻第4話 美濃国 方県(カタカタ)郡 現在の岐阜
          県本巣郡本巣町の辺りか に小川市(イチ)が在った事、そして、尾張国愛智郡片輪の里 現在の名古屋市中区古渡町
          付近の女が、小川市へ出向く話を例証にして記述されていた。詳しい事は、同氏の「日本古代水上交通史の研究」吉川
          弘文館 参照。

           古代の水上交通については、次のような記述もあります。「伊勢の国 桑名郡榎撫駅(東海道の駅)と津島は、水路移
          動。そして、三宅川を遡上し、稲沢国府に至る通路は、古代の尾張国の幹線路であった。」と一宮市史 第5節 沖積平
          野の小地形と環境に記述されている。東海道(中路)からの支線であり、小路であったと思われます。
           陸路であれば、駅には、馬が置かれた筈。水路となれば、馬ではなく、船が置かれていたのでしょうか。そうした記述は
          ありませんからこの船は、推量であります。古代では、この部分の水運を尾張氏が、握っていたのでしょう。
           伊勢湾内と伊勢湾に流れ込んでいる大河への水運が、握られていったと推察できましょうか。

           律令制度下では、駅路の規定はあるようですが、水路については、別段規定はないようです。水路の運用は、在地に任
          せられていた可能性が高いと思われます。「日本書紀には、5世紀以前に、既に尾張連氏は、尾張国に居たのであり、5
          36年に、尾張国にある屯倉の穀(もみ)を尾張連によって現 博多港へ運ぶように蘇我稲目を通して命じさせたという事が
          記述されている。」事が例証になりましょうか。


           その次にくる白山信仰は、越前の泰澄法師(682〜767)によって開かれたようで、泰澄は帰化人の血を引いている
           といわれ、すぐれた呪験力により、「鎮護国家の法師」(飛鳥〜奈良時代)に任ぜられた高僧として伝えられているとい
           う。
           泰澄の足跡は各地にみられるが、この近くでは名古屋市荒子町の観音寺の開創者といわれているとか。
           「 寺伝によれば、天平元年(729年)、泰澄の草創と言い、天平13年(741年)、泰澄の弟子の僧・自性が堂宇を整えた
           と言う。」 あくまで伝承であります。

           白山信仰の寺名が、概ね、”観音寺”であるとすれば、平安末期頃二宮領となった現 小牧市池之内町にある大泉寺
          境内にある観音堂(観音寺とも言う。)及び字名である観音寺田なる名称が、江戸時代の池之内村絵図にあり、私は、こ
          の辺りが、平安末頃の旧 阿賀良村ではなかったかと推測いたしています。もしかすると、この観音堂が、大山寺の近く
          にある白山神社の神宮寺カ(別当寺)ではなかったかとも思っています。とすれば、相当早くからこの小牧市東部地域にも
          白山信仰が広まっていたとも推測できましょうか。神社の謂れでは、創建は、定かではありませんが、おそらくは、平安時
          代のどこか辺りではありましょうか。

           そして、「 外之原町にも白山神社は、存在し、別当寺は、延命院(真言宗)。延長元年(923)の創建と伝えられている。
          或いは永正5年(1508)とも記述されている。」という。「この江戸時代の外之原村は、この地域の親村であり、木付(キヅキ
                       )・細野・榛之木(ハンノキ)村という三つの支村を擁していたという。」(尾張国地名考 津田正生著 参照) 中世の創建で
                      あれば、平安末期、木曾義仲の家臣が、落ち武者として当地に来て、住みついた由。こうした信州の者は、白山神を信
          仰していた可能性は、高い。

           そして、高蔵寺町の五社大明神社、祭神のなかに白山神の菊理比売命(キクリヒメミコト)が祀られている。創建年や場
                       所は定かではなく、分かっている最古の棟札は、1493年に再建されたという。神宮寺が、高倉寺(現 高蔵寺)とすれば、
           この寺の創建は、寺伝によれば、創建は、永平3(933)年とか。五社大明神社の創建が先か、神宮寺が先であったの
          かはよく分かりませんが、神宮寺の創建年を、永平3(933)年とすれば、尾張国地名考の著者 津田正吉は、その著書
          の中で、「往昔此処に熱田の高倉明神を祀るといふ此故に高倉地とよぶ其神祠を守る神宮寺を後世に高倉寺(天台宗)
          といふ」と記述をされている。古老等の口伝から記述された事でありましょうか。伝承に過ぎないとは思いますが、高倉寺
          (後の高蔵寺カ)は、高倉明神の神宮寺として存在していた由と取れる。五社大明神とは、記述されていない事等に鑑み、
          江戸期(文化年間頃)でも、神社は、高倉明神であったのであろうか。とすれば、五社大明神社は、かなり新しい創建とも
          推測できそうでありましょうか。最古の再建棟札が、15世紀末頃とすれば、創建は、この再建の約100年前頃とも考えら
          れ、14世紀中・末頃を想定できるのでは・・・。この時代といえば、丁度建武の新政以降に当たりましょうか。何やら玉野
          町の五社神社の創建と重なるようですが・・・。

           ここの白山神は、白山町の白山神社からの流布か或いは、外之原村経由であろうか。若しくは高蔵寺町での猿投神社
           系列の須恵器工人の流れを汲んでいるやも。下記の古窯址稼動からみれば、10世紀頃は、須恵器工人は、高蔵寺から
          別の稼動場所へ移動をしており、その後鎌倉期に戻り活動していたようです。五社明神の創建は、推測では、建武の新政
          以降かと思われますので、須恵器工人は、鎌倉期のいつ頃まで活動していたのでありましょうか。おそらくは、鎌倉初期ま
          ででありましょう。

           春日井市史 P.75には、この尾張東部地域での古窯址について、「下原地域は、5世紀末の古墳時代に属する窯と
          平安時代のもの。高蔵寺地区は、奈良時代と鎌倉時代。篠岡・桃山地区は、古墳時代末から鎌倉時代初めまで。」と
          記述され、おそらく、燃料となる木が、枯渇した為、操業を停止し、時期をおいて戻って操業していたのであろうか。原料
          の陶土が枯渇した場合は、戻る事もままならない筈でありましょうから。こうした猿投系の須恵器工人は、一定期間は留
          まり、この近辺の陶土の存在する地域で、操業し、燃料が枯渇すれば、順次移動して操業を繰り返していたようにも思え
          ます。
           最終的には、12世紀以降は、この辺りの窯工人は、ほとんど移動をし、知多半島・渥美半島・或いは美濃国池田御厨
          へ活動の場を移していったのではなかろうか。

           また、一方では、「既に古墳時代末期頃には、内津峠を通る道があり、伊勢湾沿岸から美濃を経て信州へ抜ける交通の
          要所に近かっただけに、この現 春日井市西尾(サイオ)町の集団は、交通交易機能を握り比較的早く成長出来えたのであ
          ろうか、尾張地区では、現在知りうる最初の横穴式石室を持った”欠ノ下古墳(6世紀中頃カ)”を造りえたようであります。」
          ( 春日井市史 P.65〜67参照 )という認識もあるようであります。

           白山信仰は、陸路経由で伝播したのか、海路・水路(例えば、伊勢湾経由の湾に注ぎ込んでいる河川に沿って流布して
          いったのではないかと。)経由であったのか・・・。
           名古屋市荒子町しかり、春日井市白山町しかり、小牧市野口町しかり、春日井市外之原町しかり、高蔵寺町しかり、春
          日井市へは、伊勢湾・庄内川経由の支流木付川乃至内津川経由が考えられ、小牧市では、伊勢湾・庄内川経由の支流
          大山川経由も考えられ、また、白山神については、須恵器工人とも何らかの繋がりがあるようにも思えてならない。

           春日井市の最古の須恵器窯(下原古窯址 5世紀末頃カ)の存在する近くの低い丘陵地に、松原神社の奥の院として、
          白山社の祠が存在する事を松原神社の古くから続いている宮司さんが、述べてみえるというからです。この松原神社に
          しても、伊勢湾・庄内川経由支流八田川の上流域に存在している事を付け加えておきます。

           以上が、白山信仰についての古い伝承でありましょうか。早い段階では、尾張東部には、8世紀始め頃には、既に流
          布していたのでしょう。奈良時代頃の出来事でありましょうか。円福寺の創建は723年(養老7年)と伝えられ、相当古い
          ようです。高蔵寺町の五社大明神の創建は、定かではない点、相当古い事柄かも知れませんが、私が、散策して五社
          大明神社の更に奥、道が続いており、かなり太い道ですから後世の道であり、奥の院への参道ではないようですが、そ
          の道の処から一段高くなって、階段があり、更に奥には、祭壇のような台があり、小さな巌が、立っていた。もしかする
          と、ここが、高倉明神と言われた古宮のあった場所ではなかろうか。尾張連氏に繋がる事柄かも知れません。
         
                        高蔵寺町誌(昭和7年版)P.122に、名古屋権現坊文書に曰くとして、「注 本村(高蔵寺村カ)高蔵社の裏亦大磐石
          (ダイバンジャク)存せり。」と。大磐石とは、磐座(イワクラ)の事で在るゆえ、先に私が見た巌に該当するのではと推測いたし
          ました。

           春日井市近世村絵図の年代不詳の高蔵寺村絵図 P.47を見る限り、確かに絵図上では、高蔵宮と記され、祠らしき
          家も書かれていた。その場所は、私が、散策中にみた、小さな巌のある祭壇近くであった事を付け加えておきます。
           そして、同書 P.48には、高蔵社の再建は、承応4(1655)年と記載されておりました。とすれば、江戸時代の初め頃
          に、祠が建てられていたという事になりましょうか。また、その後 祠は消失し、巌が剥き出しになってしまったと推測できえ
          ましょうか。まるで、小牧市の野口の白山という山にある白山社のすぐ横に、大きな巌が、地面から突き出しており、その
          前には、同様な石が、二つ狛犬の代わりであるかのように立っていたのと同様な措置であり、似ておりました。白山という
          山の巌には、八万神と彫り込まれていましたから、左程古い物ではなさそうには、思えます。

           民間伝承の部類でしょうが、この高蔵寺町には、庄内川に架かる橋に鹿乗橋(カノリバシ)があり、この橋の由来は、かっ
          て、高座山に降りられた神が、白鹿に乗って庄内川を越え、現 守山区志段味地区の尾張戸古墳近くに行かれたという
          伝承に因んだ名前とか聞く。

           その高座山に降りられた神が、高倉明神であったのであろうか。あくまで伝承でありますから、史実ではない事は確かな
          事ではありますが、裏を返せば、史実に基づいた何らかの事柄を述べているとも取れないことは無いともいえましょう。
           或いは、尾張戸古墳を造り得た豪族の、古来からの聖地とも言える所であったやも。後、尾張連氏の傘下に入った為、
          古来の豪族の聖地に、尾張連氏に関わる高倉下(タカクラゲ)又の名を天香山命が進出。この子孫が尾張氏とされ、天火明
          命は、天香山命の父にあたるとか。天火明命は、尾張氏の祖神とされるようです。

           しかし、五社大明神社となると、玉野町の五社神社との関わりで、熱田神宮の宮司以下幡屋大夫以下神人(神宮に仕
          える非農耕民)が、篠木荘内 玉野郷へ押し入り、乱暴狼藉をしていたという建武の新政(14世紀)以降の事柄との繋が
          りの方が、高いようにも思えてならない。この建武以降の熱田社との関わりが、以後も続いていたのでは・・・。それ故、
          棟札としての最古の年は、1493年に再建として残っていたのでしょうか。この年より以前にこの神社は、創建されていた
          に違いない。とすれば、辻褄はあうのですが・・・。

           現在の五社大明神社は、拝殿の奥に、二つの社が前後にあり、千木が、地面に対して水平に切られていた。伊勢神
          宮の千木は、地面に対して垂直に切られている場合もある。こうした違いは、祭神が、男神か女神の違いを表している
          とも聞く。皇室がらみの建物という印象を持つ。かって、入鹿屯倉が、継体天皇以降に設置され、そこに建立された天
          道宮なる神社は、入鹿池に沈む事となって、現 犬山市前野町に江戸時代に移築されている。社殿の造りが、よく似
          ている。拙稿 天道宮神明社を尋ねて  を参照されたい。入鹿村には、村の氏神様が、虫鹿神社として、式内社として
          記載されていますが、この天道宮は、式内社としては、記載されてはいない。かっての入鹿屯倉には、二つの神社が、
          存在していた事になりましょうか。一つは、村の氏神としての虫鹿神社。そして、式内社として記載されていないが、皇室
          と深い関わりを推測せしめる天道宮の社。高蔵寺の五社大明神社は、本殿の造りからは、皇室との深い関わりを推測
          せしめている。

           そして、春日井市 高蔵寺町に存在する 五社大明神の祭神の一柱に白山神の菊理比売命(キクリヒメミコト)が、祀
          られようと、それ程驚く事柄ではないかと。春日井市玉野町の五社神社の祭神に白山神の菊理比売命(キクリヒメミコト)
          が、祀られていなくても、驚く事柄でもない。両神社とも、はっきりした事柄が分かるのは、15世紀代である事でしょうから。
           室町期頃でありましょうか。それ以前については、伝承の事柄に属する事柄ではありましょう。

        4.天目一箇命(アマノマヒトツノミコト)について
           五社大明神社の祭神の一柱に、天目一箇命が名を連ねている。この祭神は、所謂 製鉄神と考えられている。ダイダラ
          ボッチとも呼ばれるようであります。何故この神が、五社大明神社に登場するのであろうか。この神社以外には、当地域に
          おいて天目一箇命を祭神とする神社は、見当たらないようであります。

                        一つには、高蔵寺5号墳(春日井市玉野町塚本に所在)からは、鉄鐸(テッタク)と砥石が出土。廻間7号墳からは、鞴(フイゴ)
          羽口が出土。既に、後期古墳である横穴式古墳から鉄に関わる遺物が出土していることは、確かであります。この古墳は、
          五社大明神の近くであり、早くから天目一箇命は、この高蔵寺・玉野地区に伝わっていた可能性は、高いのかもしれません。
           詳しくは、古墳時代の鉄鐸について 早野浩二氏の論文を参照されたい。そのURLは、下記の通りです。
                    (  http://www.maibun.com/DownDate/PDFdate/kiyo09/0903haya.pdf  )

           早野氏の鉄鐸は、もしかすると高師小僧(褐鉄鉱)ではないかと。40万年前頃の池・沼の植物の根元に集められた水酸
          鉄(高師小僧)であれば、かって東海湖と言われた地域には、広範にこうした水酸鉄の存在があり、こうした褐鉄鉱を用いた
          たたら製鉄も可能性があるやに推測致します。必ずしも花崗岩の中にある鉄の層でなくてもいいのかも・・・。

           或いは、五社大明神社の創建が、14世紀頃と推定出来れば、この天目一箇命は、現 白山町の室町期の鍛冶村の
          存在と重なり、製鉄神の現 高蔵寺町への移動も有り得るのかなとは、推測出来るのですが・・・。或いは、相当古い時期
          に流入した製鉄神なのかも・・・。

           強いて考えれば、天目一箇神は、紀伊半島にも存在し、暴風神とも合体し、台風の進路とも重なるとか。伊勢湾から進
          出し、尾張地域にも流布したとも考えられるのでは・・・。それにしても、尾張地域において天目一箇神を祭神とする神社
          は、他に存在しているのであろうか。あまり聞かない事柄ではあります。

           参考までに、鉄に関わる神として
             ・ 金山彦―イザナミの子―南宮大社(岐阜)−黄金山神社(宮城・金崋山)   ・・・ 当地では、松原神社カ

             ・ 金屋子(かなやこ)神(かみ)(天目一箇(あめのまひとつの)神(かみ)と同一)―金屋子神社(島根) 五社大明神カ

             ・ 一つ目小僧―片目伝説―一(いち)目連(もくれん)―天目一箇(あめのまひとつの)神(かみ)―天津(あまつ)麻(ま)
                       羅(ら)―多度大社(三重県桑名)―天目一神社(兵庫県西脇)・・・ これも 五社大明神カ

             ・ 小人―小さ子―小人部―一寸法師―少彦名神(体が小さく大国主とともに国造りに関わる・温泉・酒)―大国主系、
                           淡島系神社―出雲大社―気多神社―大神神社―伊福部氏 ・・・ 稲沢の小子部連さひち カ

             ・ 虚空蔵菩薩―妙見神―北辰信仰―虚空蔵山(佐賀、水銀・波佐見鉱山)虚空蔵尊(高知、金)虚空蔵尊(三重、金
               剛証寺、銅、クロム、コバルト、鉄、ニッケル)能勢妙見(大阪、金、銀、銅)磐裂(いわさく)神社(栃木・足尾銅山)七
               面天女―吉祥天―妙見神(山梨・敬慎院・甲州金)清澄寺(虚空蔵菩薩・妙見尊・金剛薩埵―ダイヤモンドのように
               堅く不変の金属・角閃石・斜長石・黒雲母・丹生など)    ・・・・ 金生山のこくぞうさん カ

           各地には、いろいろな製鉄神が存在しているようです。

           只、天目一箇神は、砂鉄を用いた製鉄での神のようで、島根辺りの金屋子神と同一であり、その後、こうした島根系の
          鋳物技術が、紀伊半島へ技術者と共に移動し、暴風神とも合体した天目一箇神へと変身した可能性は、ありえましょうか。
           果たして、五社大明神の天目一箇神なる祭神は、本来の神なのか、変身を果たした神であったのであろうか。

           参考までに、尾張地域への後期古墳築造技術の伝播には、二通りの道があったとか。一つは、九州から伊勢・三河そし
          て、尾張ルートともう一つは、九州から山陰そして、北陸経由の美濃から尾張へというルートであったとか。この高蔵寺・廻
          間地区の後期古墳築造は、どちらのルートの流入で造られたのであろうか。

           廻間地区の1号墳は、竪穴式古墳(前期古墳築造様式)に、横穴式の新しい技術を取り入れた折衷型のようで、比較的
          早く横穴式古墳技術を取り入れている古墳のようであるという。庄内川右岸 春日井市大留の古墳技術とは、若干違いが
          あり、大留は、明らかに伊勢から三河そして尾張への太平洋岸の海側からの流入のようで、庄内川右岸の高蔵寺・廻間地
          区は、その後、折衷型ではない大留と類似する後期古墳になっているという。やはり、伊勢ー>三河ー>尾張ルートでの流
          入でありましょう。

                                                              平成26年1月23日   加筆訂正
                                                                                                                                      平成26年6月27日   加筆訂正