春日部郡の伊多波刀神社を訪ねて

          1.はじめに
             我が家から愛車に乗って10余分位で到着する所に存在している。
             駐車場を見つける事が出来ず、止む無く本殿近くの細い路地の片側に愛車を止めた。路地を戻り参道まで戻り途中の参道から
            境内へ進んでいった。すぐ参道脇では、スタジイを含む照葉樹の木々が迎えてくれました。

             境内を進んで行くと、碑が建っており、昭和38年に名古屋を襲った伊勢湾台風により、神社周りの全ての巨木は、全滅したという。
             氏子等は、三千数本の苗木を植樹して現在の姿になったという事柄が記述されていた。
             確か、私の家の近く、林地区の三明社の巨木も根こそぎ伊勢湾台風の被害を受け、植樹し直してこんもりとした森になっていた事
            を思い出しました。参道脇には、春日井市立鷹来小学校が建っていた。

          2.伊多波刀神社を訪ねて
             詳しい事は、拙稿 春日部郡に存在していた多楽里の伊多波刀神社について を参照されたい。
             境内を進んで行くと、番塀が目に入ってきた。伊勢神宮に関わる物なのか、尾張独自の物なのかは分かり兼ねました。
             かなり整備された神社のようで、本殿両脇には、境内社が12社程祭られていた。
              本殿向かって右側には、津島社・大日霊社・豊受社・白山社・熊野社と神具倉庫があり、左側には、秋葉社・熱田社・愛宕社・多
             度社・山王社・菅原社・大国魂社の12社が祭られていた。

              平成29(2017)年9月17日(日)台風18号がやっと九州鹿児島に上陸し、午後1時頃当地は、嵐の前の静けさで、雨も上がって
             いましたので、出かけた次第。
              その為薄暗い所は湿り気があり、大きなやぶ蚊の襲来を受けました。半そでで出かけましたので、これはたまらないとそそくさと
             参拝をして帰りました。

              この神社では、江戸時代 流鏑馬神事が行われており、出発点の常念寺は、今は往時を偲ぶ事が出来ない藪となっていると思
             い探しましたが、見つける事は出来なかった。

              もう一つの式内郷社 伊多波刀神社も合わせて訪ねようと思いましたが、ここも見つからず断念。今度は、台風の来ない時にゆ
             っくり訪れようと思いなおし岐路に着きました。

          3.春日井市史等からの抜粋を記載しておきます。
              「田楽の伊多波刀神社は、連綿と続く式内社でありますが、古い縁起類を伝えていない。( ここも、秀吉により放火され、社人等が、
             放逐されたからでありましょうか。牛山と同じように ) 故に古代のこの神社を奉祀した豪族とか、創建の経緯等を知りえない。
               乏しい所伝によれば、祭神は、高皇産霊尊(たかみむすびのみこと 高木神とも言い、本来は高木が神格化されたものを指したと
             考えられている。)、息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)、品陀別命(ほんだわけみこと)、玉依姫命(たまよりひめのみこと 日
             本書紀第七の一書に、「一に云はく」 として高皇産霊神の子の児萬幡姫の子として玉依姫命が見える。)の4柱とか。

               この田楽の伊多波刀神社には、現在までに紆余曲折があり、明治期以前では、八幡社として存続し、明治期になり、再度以前の名
              称の伊多波刀神社になったという。祭神である息長足姫命・品陀別命の二柱は、八幡社の祭神であり、元々の伊多波刀神社の祭神は、
              高皇産霊尊・玉依姫命ではなかろうか。

               参考までに、{この神社の語源は、志賀剛氏は、式内社の研究第9巻 東海道の巻で、「語源は、イタハタ(伊多畑)」であり、「イタ」は、
              「ユタチ(湯立)」の意であり、つまり、水の湧く畑がある所ではないかと。}確かに、この地域は、田楽層であり、熱田層と同様な地層であ
              りましょうか。台地上の地域であり、湧き水がなければ、生計が立てられない古代では、安全で暮らし易い所であり、古代人にとっては、
              得がたい地域であったかと。

               この神社は、味岡庄17ヶ村の総産土神として、毎年の祭礼には、17ヶ村から神馬を献上したと言われる。その後江戸時代には、八
              幡社(伊多波刀神社ではない。) と称し、そこでは、神宮寺である常念寺において流鏑馬の実演者は、甲ちゅうをつけ、社僧以下庄屋
              等に酒盃を廻す式を行い、終わって真っ先に旗竿等を多く立て、流鏑馬は、3騎乗馬のまま、参拝し、神主の祈念ののちに、的ひとつ毎
              に流鏑馬を行ったという。
 
               現在 常念寺は、廃寺となり、その地は一面藪となり、面影を残していないようであるが、江戸時代までは、神社の神宮寺として存在し
              ていたでありましょう。( 明治の廃仏毀釈により、衰微したのでしょう。その結果、八幡社は、元の伊多波刀神社へと改名したようです。
              ・・筆者注)

               この記述は、春日井市史 P.103よりの抜粋であり、神馬(別名 馬之塔カ)奉納が、後 流鏑馬に変わっていったと言う考察とよく似て
              いると言えなくはないかと。

               同じく式内社であろう片山天神は、現在の牛山であろうと。尾張地名考の著者 津田正生は、この地は内山と古くは呼び、今は、牛山
              と呼ぶのは、内山の転語であり、戦国時代以降の事であろうと。

               そして、この辺りは、山村郷であり、今の牛山、外山、青山、板場、一之久田、小針村を含むのでありましょうか。そして、この山村郷は、
              かって春日部郡内であった。

               この神社に関する古老口碑として、「牛山村は、古くは宇多須村と称し、うち片山に大社が鎮座していた。元亀(1570〜1572)年間、
              この神社の守護人 玄殿がいたが、秀吉により放火され、社蔵の縁起書等や玄殿の家屋も焼失、彼の子孫の事も一切不明なってしま
              ったとも尾張地名考には、付記されているという。

               これが、事実であれば、古代の言い伝え、社伝等は、秀吉( 古代の律令制の名残りを根こそぎ粉砕し、完璧に駆逐した完遂者であっ
              たのでしょう。)により、在地の過去のしがらみに生きる層として、根絶やしにされたのでありましょうか。
               言ってみれば、「焚書坑儒」の再現であったとも言っていいのでは。   以上です。