春日部郡に存在していた多楽里の伊多波刀神社について

       1.はじめに
          春日井市史 P.103には、「田楽の伊多波刀神社は、この辺りでは最も社格の高い由緒ある神社として、味岡庄17ヶ村の総産土神として、
         毎年の祭礼には、この17ヶ村から神馬を献上していたという。江戸時代には、神社名が、八幡社となり、神宮寺が常念寺であり、流鏑馬の神
         事が江戸時代末まで続いたという。明治になり、廃仏毀釈にて、神宮寺は、廃寺となり、現在は、藪地となっていて、往時を偲ぶことさえ出来な
         い状況である。」という。八幡社は、明治になって再度 伊多波刀神社と名を改めたという。

          現 春日井市田楽町は、古代から存在した地名であったのでしょう。
          {瓦陶兼業窯である篠岡66号窯(8世紀前半の操業カ 場所的には、現アピタから春日井駅方向へ向かう道路と国道155号線バイパスが交
         差する春日井駅に向かって右手側カ 現篠岡農協の反対側辺りカ)跡からは、記名瓦が見つかっている。「五十長」・「多楽里張戸連」・「尾張」・
         「多楽里尾」・「鹿田里(ママ)」・「雀刀足(ママ)」等々であった。}(小牧市史 参照)
          在地の小有力者(評造より下級の里長クラス カ)が競って古代寺院に小規模ながら寄進をした証でありましょうか。尾張の国分寺創建は、8
         世紀中以降であり、こうした記名瓦は、やはり、在地の古代寺院(私寺)向けであった可能性が高い。

          評造という職制は、天智朝頃の国守ー評造ー里長でありましょう。

          多楽里は、現 春日井市田楽地区でありましょうし、鹿田里は、現 師勝町カ。篠岡66 号窯は、年代的には、8世紀初頭頃の操業カのようであり、
         この辺りには古墳が存在する。下末古墳として今も民家に囲まれて残っています。拙稿  小牧市下末地区に存在する下末古墳を訪ねて を参照
         されたい。
          原型は、前方後円墳であったと思われます。
          記名瓦の里長クラスの地域は、平安末期には、味岡荘として立荘されていく事を考えれば、郡域であったとも取れそうでありますから。

       2.田楽の地層
          田楽の伊多波刀神社は、現在二つ存在している。鷹来小学校からみて、近いところにあるのが、流鏑馬で有名だった所。もう一つは、更に南に
         いった現 町屋という所に近い式内郷社の伊多波刀神社。規模の上では、流鏑馬の行われていた伊多波刀神社の方が大きい。さて、古代の伊多
         波刀神社の本家本元はどちらでありましょうか。

          どちらも田楽層(熱田層と同時代の層)と呼ばれる台地の上に建立されている。この台地の10m下には、小牧層と呼ばれる台地があり、河川は
         おおむねこの小牧層を流下していたと考えられる。
          さて、縄文・弥生期の遺跡を残す牛山・間内・桜井は、大山川・支流池田川沿いであり、田楽からは、直線距離で2Km程度西よりの地域であり、
         近くには、伊勢湾が迫ってきていた。いわゆる「縄文海進」と言われる氷河期が終わった温暖期に氷河が解け、海の水位が上昇し、内陸まで海水
         が攻めてきていたのでしょう。一宮市史 上では、「現在の海抜5mライン」が縄文海進の海岸線であったとか。地球上にあった氷河が解け、全て
         海に流れ込んだと想定すると現在の海抜10mラインという見解を述べられる方もいるとか。

       3.伊多波刀神社の語源
          諸説あり、一説は、「社伝に景行天皇42年の創祀という。延喜の制で国幣の小社とされ、国内神名帳である『尾張国神名帳』に「従三位 板鳩天神
         とある。古来付近に設定された味岡庄17箇村の総産土神として崇敬され、板に鳩を描いて奉納する習いがあったために社名としたともいう。」
         ( https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E5%A4%9A%E6%B3%A2%E5%88%80%E7%A5%9E%E7%A4%BE 最終更新 2017年2月2日 (木) 09:52より抜粋
          この上記記述は、天野氏の写本に準拠しているのでしょうか。私が閲覧した写本は、愛知県図書館ライブラリーのPDFファイルであり、閲覧が可能
          であるようです。https://websv.aichi-pref-library.jp/wahon/pdf/1103267241-001.pdf  参照されたい。)

           *  参考までに、全て社伝でありますが、伊多波刀神社は、景行天皇42年の創祀とか。小牧市野口・大山近くの山頂にある白山神社は、景行天皇
            42年と言い伝えられているとか。内々神社の創建は、社伝では、景行天皇41年とか。
             {内々(うつつ)という地名は、関東遠征の副将軍格の尾張連の祖 建稲種命が、海で溺れ死んだ事を遠征帰りの陸路を行く大和王権の将軍が、
            この地で聞き、「うつつ哉、うつつ哉」と嘆き悲しんだ由来からきているといういわれがある所から付いたと言われているようです。六国史には、その
            ような事柄は、一切記述されておりませんので、所謂在地での伝承でありましょうか。明治以降に、俄かにこうした謂れが語られ始めたのではなか
            ろうかと推測いたします。
             明治維新と何らかの関わりがあったからでしょうか。それまでは、ほとんどこうした謂れは、語られていなかったやに・・・。

             それが、景行天皇41年の頃の事として、真しやかに語り継がれるようになった発端は、<元禄15(1702)年 吉見幸和編著の「妙見宮由緒書」
            ではなかろうか。妙見宮由緒書には、「この内津の妙見様は、景行天皇41年、尾張連祖 建稲種命を奉祀したのに始まる。」}と記載されています
            から。そして、吉見氏の記述の元は、おそらく寛平2(890)年に尾張守 村椙(ムラスキ)が書いた「熱田記」(天野書 本国神名帳集説 内々天神の
            項 参照)であったと推測致します。

                              参考までに、尾張守 村椙とは、「藤原村椙であり、在任期間は、874〜878の4年間。」カ( http://www.geocities.jp/keizujp2010/owari.html よ
             り抜粋 )しかし、在任期間と記述年が一致していない事は、気がかりではあります。

              とあるHPには、「貞觀十六年(874)の春、熱田大b宮別當尾張連葢jが當宮に緣起書がないことを嘆き、古文書を探り、遺老の語を問うて述作した
             ものに、尾張國守藤原村椙が筆を加え、『尾張國熱田太b宮緣起』が編纂された。」とか。*

          また、一説には、{この神社の語源は、志賀剛氏は、式内社の研究第9巻 東海道の巻で、「語源は、イタハタ(  伊多畑)」であり、「イタ」は、「ユタチ
        (湯立)」の意であり、つまり、水の湧く畑がある所ではないかと。}

                     語源的なまとめは、春日井郷土史研究会々員 高橋 敏明氏の論述 「郷土幻考6 鷹来、高皇産霊命と伊多波刀神社」平成22(2010)年6月
         版(自費出版カ 春日井市立図書館所蔵)に譲ります。参照されたい。

       4.伊多波刀神社の初発の祭神?から推論される高橋氏の論述
          高橋氏は、初発の伊多波刀神社の祭神を「高皇産霊命(タカミムビノミコト)」とみなされているようです。氏は、尾張国内の祭神を「高皇産霊命(タカミムヒ
         ゙ノミコト)」としている神社数を11社と把握され、内春日部郡内に5社、山田郡内に3社、丹羽郡内に1社、愛智郡内2社と。
          「高皇産霊命は、春日部郡、特に田楽周辺地域と関わり深い神であったといえよう。」(同氏 P.59 参照)と記述される。氏の論述の基礎をな
         しているのは、城ケ谷論文であり、最近のこの論文の評価は、中央との繋がりが強く打ち出されているのではという論調が多い。(拙稿でもその
         辺りを春日部郡東北部 現 大山地区にあった古代寺院 大山廃寺の軒丸瓦の文様について で述べています。参照下さい。)
          記名瓦を出土した篠岡66号窯跡で「張戸連」なる瓦の存在を指摘されていますが、小牧市発掘調査報告書(篠岡66号窯跡)では、「張戸」まで
         しか記載されていません。どこから「連」記載の瓦の報告があったのでありましょうか。確かに小牧市史通史には、そのような記述はありますが・・・。

          更に氏の論述では、伊多波刀神社の創建は、「田楽自体は少なくとも弥生時代から続く村落で、既に神社があったと考えられることから。既存の
         神に合祀したのではないか。」(同氏 P.55 参照)と述べられ、多楽里□張戸なる氏族が、(合祀して・・私の加筆)創建した。と。張戸某と下末古
         墳との関わりを具体的には述べてみえませんが、暗に下末古墳系氏族を乗っ取り合祀したかのように私には、読み取れました。

                      *  「国司の継続的な関与というものを想定することに、積極的に意義は唱えない。しかしそれはあくまでも、須恵器工人の育成や、須恵器の効率
           的生産を第一義に企図したものであり、瓦生産については、国司が一括管理したような状況はないものと考えられる。むしろ瓦生産については、
           窯場や労働力の提供程度に過ぎなかったのではないか。」( http://ir.nul.nagoya-u.ac.jp/jspui/bitstream/2237/12946/1/p.39-54.pdf  より引用)
           という見解が、現在の古代瓦に対する研究水準でありましょう。
            壬申の乱(672年)当時、高橋氏の言われる多楽里の「張戸連」氏は、尾張氏と同格の勢力であったのか、尾張氏の下の勢力であったのかは、
           はっきりとはしていない事柄でありましょう。壬申の乱後では、「張戸連」氏は、多楽里の里長的存在であるかのように把握できるのですが・・* 

                     とすれば、合祀したのは、「張戸連」氏としても、壬申の乱後は、尾張氏の下の存在ではなかろうかと推測致します。あくまで仮説の域をでない推論
         ではありますが・・・。      
          
       4.里老からの古伝
          「田楽にある現 伊多波刀神社は、古代の式内社でありますが、創建の経緯等を知りえない。そして、神社名も、江戸期では、八幡社と名称を替え
         ていたようです。この社の再建については、室町最末期、村人が、板材・釘等持ち寄って再建したという経緯がある。」とも知りえました。

              5.まとめ
                   数奇な運命をたどった古代の伊多波刀神社は、時代に翻弄されて現代に至っているようです。
         この神社へは、私は、壱度も訪れたことがありません。二つの伊多波刀神社が存在しているようですから、愛車に乗ってじっくり尋ねてみようと思って
        います。

                  <参考 高橋敏明著 「郷土幻考6 鷹来、高皇産霊命と伊多波刀神社」 P.49からの抜粋地図 >
         篠岡2号窯(瓦陶兼用篠岡窯としては、この地域では、最古の窯)は、東名高速道路南側の現 桃山地区に存在。
        篠岡66号窯は、現 国道155号線とアピタ横を通り、東名高速道路下を通る春日井駅に通ずる道路が交差してい
        る西側、篠岡74号窯は、その交差している東側に位置している。どちらも既に民家の下に埋もれてしまったといえ
        ましょう。篠岡78号窯は、現 アピタと小牧市立桃稜中学校の中間辺りで、民家が密集している辺りかと。
         下図を参照されたい。