桃花台周辺に存在した 古代のたたら製鉄跡について の覚書
1.はじめに
小牧市・春日井市の境、小牧ジャンクション近くの下末・高根地区である名神高速の脇の現 椅子の
ホウトク小牧工場近辺(現在は、アイリスオーヤマKKと業務提携され、完全子会社化されているとか。)
と東名高速の脇 春日井市西山地区にある大池の南西域の2ヶ所で、たたら製鉄が行われていた事は
事実であり、現在では、解明されてきているようです。
古くから、この西山の付近からは、スラグ(残滓、鉄滓)が、地表面に散在している事が知られていたし、
地下には、多くの残滓が埋まってもいたという。そうした事柄を 下原町在住の 梶田元司氏は、郷土誌か
すがい 第4号(昭和54年発行)紙上において、春日井市西山町字金屋浦の同地から、鉄を生成する際
に生ずる不純物である鉄滓・焼けた土壁(炉壁)等が散布している事を報告として出されたようです。
この西山遺跡研究の草分け的な方であります梶田元司氏の郷土誌かすがい紙上 「春日井市西山製
鉄址」の詳しい事柄は下記 を参照下さい。
http://www.city.kasugai.lg.jp/bunka/bunkazai/kyodoshikasugai/kyodoshi04.html
それ故、西山地区の鉄滓を拾い集めた同氏は、その当時は、一体何による残滓であるのかは、はっ
きりとは解明されていない研究状況であった事から、近くで採取された砂鉄と炉壁片を新日本製鉄 名
古屋製鉄所に持ち込み、成分分析を依頼されたという。( 「西山古代製鉄址2 鉱滓(のろ)と砂鉄の分
析所見」 郷土誌かすがい 8号 昭和55年発行内の記述であります。詳しくは、
http://www.city.kasugai.lg.jp/bunka/bunkazai/kyodoshikasugai/kyodoshika08.html
参照 )
その分析結果を総合すると、
@ 鉄滓は、俗に天然に産するオニイタ天然鉱でなく、人工物、溶鉱滓である事。
A 鉄滓は、金属鉄が少ない、酸化鉄であり、鉱滓である事。
B 炉壁片は、軽石類と組成が似ているが、カルシュウムが少ない。タタラの炉壁片である事を示唆。
C 鉄滓には、砂鉄と比べ、チタンの含有量が激減している事。 分析を依頼された同氏は、チタンは、
滓として取り除かれなかったからと理解されたのではないかと。
( 原料が、砂鉄であれば、残滓は、チタンの含有量が、小さくは無い筈。Dとの整合性という点で
は、岩鉄が原料ではないかと思われる。・・・・私の感想であります。)
D 鉄滓の亜鉛・マンガン・銅等の含有成分が、 砂鉄の含有成分に、酷似している事
以上@〜Dを勘案され、氏は、鉄滓は、やはり製鉄滓であろう事が、成分分析ではっきりしたとされ、
原料は、砂鉄であろうとされたようであります。
そして、西山古代製鉄址2で製鉄用原料は、この近くに存在する砂鉄であろうという結論を昭和55年
当時発表されたようです。
しかし、愛知県史 資料編(飛鳥〜平安 平成22年版) P.210〜211 西山製鉄遺跡(県遺跡番号
040015)の記述では、「西山遺跡の炉付近からは、鉄鉱石が出土している。原料は、搬入品を使用し
て生産が、行われていた可能性もある。」とされ、当然、発掘主体の春日井市教育委員会の報告書( 発
掘は、平成16年頃でありましょう。)も同様な見解を県史より先に記述されていました。
(むしろ、こうした事実を勘案しても当西山タタラ製鉄跡地での原料は、岩鉄ではなかろうかと・・・。)
また、残留鉄鉱石は、現在どこに保管されているのか知りませんでしたが、保管場所は、春日井市中央
公民館内 春日井市教育委員会文化財課の事務所があります倉庫である事を知りました。
春日井市の報告書では、「採集された鉄鉱石は、主に高い位置にある排滓坑からであり、鉱石の大き
さは、1cm前後・2cm前後・3〜4cm・5×7cm大の石片に大別でき、数量的には、1〜2cm前後の石
片が多く、他方向からの打撃により分割されているが、比較的均一に整形されていた。」という岩鉄である
と記述されています。
幸いこの春日井市の報告書を書かれた村松一秀氏が、現在も文化財課に在籍されており、平成25(2
013)年11月28日(木)の午前中にお会いする事ができ、発掘遺物等を観させていただきながらお話を聞
く事が出来ました。その際、発掘された鉄鉱石の現物を直に拝見させて頂け、砕かれた鉄鉱石は、火に炙
られてから砕かれた可能性を指摘され、成程、当時は、砕く前に砕きやすいように火に炙るというひと手間
を加えて作業能率を高める工夫をしていたのかと、改めて当時の工人の知恵に驚きました。
確かに、採取された鉄鉱石は、赤茶けた小さな塊であり、本来の色なのか、火で炙られた色がついたの
か、空気に触れて酸化した色であるのかは、私には、見当が付きませんでしたが・・・。
この春日井市の中央公民館内には、市の子供たち等校外学習に供されているのでしょう、以前よりは
明るい色調の展示室に改善され、奥まった所には、市域内の二子山古墳からの埴輪(馬・人・・下原古
窯で焼かれた品)等も展示され、その一角の陳列ケース内には、西山製鉄址跡から出土した、鉄鉱石の
破片 数点、鉄滓(テッサイ)等が展示され、みる事が出来るようになっておりました。
また、上記県の報告書の記述では、「鉄鉱石は成分分析が行われている。」とも明記されていました。
分析結果表も、村松氏に実際に見させていただきましたが、その分析表からは、金生山の鉄鉱石では
ないと確信できるデータではありました。
発掘から、かなりの年数がたっておりますので、採取された鉄鉱石と西山地域の残滓の成分分析を最
新の分析法で行えば、新たな結論も出せるのではないかとは密かに考えました。・・・筆者注)
こうした西山製鉄跡地での製鉄原料の違いは、梶田氏の方が、早い初発の結論であり、春日井市の
発掘調査の相当前であった事も起因していたのでしょう。
また、「精錬炉は、構造的には、長方形箱型炉によく似ており、近江(滋賀県瀬田丘陵にある木瓜原遺
跡にみられる窯業生産・鉄生産・梵鐘鋳造をしている。)の様相を想起させる。」{前掲書 愛知県史 資
料編 西山製鉄遺跡(県遺跡番号 040015) 参照}とも記述されておりました。
県の報告書を書かれた城ヶ谷氏は、西山遺跡は、近江の木瓜原遺跡に近似している認識のようであ
りますが、春日井市の西山遺跡報告書をまとめられた村松氏は、城ヶ谷氏とは、近江のやや違った遺
跡を想定されているやに推測致しました。早く、村松氏の後編の西山遺跡の報告書の発表が待たれま
す。
この西山製鉄跡地の本格的な発掘調査は、春日井市教育委員会が中心となって平成16年3月頃行
われたようで、この遺跡の所在地確認は、昭和53年頃には、既に行われていたという。こうした事柄へ
のきっかけを創られたのが、先の梶田元司氏による調査・研究ではあったようです。
近江の木瓜原(ボケハラ)遺跡については、http://www.infokkkna.com/ironroad/dock/iron/jstlbb13.pdf
を参照されたい。
参考までに、現代の製鉄原料は、鉄鉱石・コークス(石炭の蒸し焼き)・石灰が、必要不可欠であるとい
う。また、現代では、超高温での製鉄であるようですが、初期タタラ製鉄では、温度は、それ程高くなくても
よく、凡そ 800度程度で、十分であったという。とすれば、コークスの代わりにこの当時は、炭がつかわ
れていたのでしょうか。穴窯で、陶器を焼く事が、この近辺ではかなり大規模にされていたようです。こうした
穴窯では、陶器を焼いた後、炭用にも転用されていたという事もあったのでは・・・。「そのように推測するの
は、当該製鉄跡から、須恵器の破片に、製鉄溶片が付着しているという事実からであります。」(梶田氏の
西山遺跡の記述によります。)或いは、こうした須恵器窯の操業後にたたら窯が築かれたやも知れません。
2.春日井市西山地区に於けるタタラ製鉄跡 ( 西山遺跡 )
須恵器窯のこの地域の最初は、下原窯(5世紀末頃)であります。西山遺跡は、その下原窯に近く、東名・
名神・中央道の三高速道路が接続する小牧ジャンクションのある春日井よりの大池のある南西域に製鉄跡
はあったようです。
この遺跡のすぐ近くには段丘があり、上層は、田楽層ではないかと思いますが、その段丘上の南端に自衛
隊基地が現在あります。遺跡は、段丘下付近に存在していたのでしょう。
7・8世紀頃の当遺跡の散策をした拙文もあります。併せて参照して頂ければ幸いです。
7・8世紀頃の尾張地域のタタラ製鉄跡地(西山遺跡・狩山戸遺跡)の探索と松原神社・高根遺跡を訪れて
愛知県史 資料編には、西山製鉄遺跡について記述されていますが、この遺跡からは、「獣脚鋳型が3点
出土した。」と書かれ、この鋳型は、鍋や羽釜の一部であろうと。そして、「この鋳型から製鉄炉のみではなく、
鋳造関連の施設の存在をも想起.。」してみえるようです。同様な記述は、既に春日井市教育委員会の報告書
に記載されていました。
「どうやら上記の鋳造施設との関連で言えば、松原神社に残されている江戸時代中ごろに記述されたと言う
縁起書の若き刀工の記述は、こうした関連施設と関わりがあった可能性も想起出来ましょうか。その若き刀工
が活躍していた時には、白狐社を主とした神社が、現 松原神社辺りに創建されていたのではないでしょうか。」
(あくまで、筆者の推測以外のなにものでもありませんが・・・。)
ジャンクションが出来る前は、その辺りに四つ池があり、四つ池から小牧ジャンクションより中央高速に沿って、
その当時、「りンの山」と呼ばれる所があり、砂鉄が、豊富に取れたという。(このリンの山は、高根地区の丘陵
地であり、高速道路建設工事により、土が削られ、砂鉄層も無くなったという。(詳しくは、西山製鉄遺跡の研究
小史 高橋敏明 参照。 インターネット上にも同氏のpdfファイルが存在しています。下記のURLであります。
参照下さい。 http://www2.ocn.ne.jp/~k-tatara/PDF-Files/1-4-Nishiyanaseitetsuisekikenkyusyousi.pdf
)
更に、上記 西山製鉄遺跡の研究小史 高橋敏明氏によれば、同氏は、両製鉄跡地のほぼ中間地点辺りに
居住されていたようで、氏の家の近くの県道掘削工事の際にやや茶色を帯びた岩鉄の塊を採取されたという事
が、氏の小史の中に記述されていました
。
*脱稿後でありますが、朝鮮半島での古代の製鉄跡地についての論考{列島の古代史 2 暮らしと生業 岩波
書店 2005年版 の中の論考に ”鉱物の採集と精錬工房”なる一文がある。花田勝広氏の論述でありました。
その同書 P、223には、「慶尚北道<参考までに、慶尚とはかつての中心都市であった慶州(新羅の古都)、尚
州(古代の沙伐国であり、249年に新羅が、沙伐国を併合。)を組み合わせた合成地名であるとか。・・筆者注>の
ファン城洞(ソンドン)遺跡は、鉄鉱石による精錬炉であり、分析結果から使用された鉄鉱石は、達川鉱山の物(参考
までに、蔚山の達川鉱山で採れる『土鉄』。これは赤鉄鉱・褐鉄鉱の混合物・・・つまり赤土やリモナイト<リモナイト
とは、鉄の酸化鉱物の通称あるいは天然の錆とでも言う物でしょうか。・・筆者注>)と考えられる。」と記述されてお
ります。}に接し、岩鉄系の朝鮮半島の一部では、製鉄跡地で、『土鉄』なる物を用いて鉄が生産された事を知りまし
た。
上記 西山製鉄の研究小史には、<先の梶田氏は、西山製鉄遺跡の東方約100
メートルの地点(通称地名「カナグ
チ(金口)」)でソブ分が相当多い赤土を採集されている。>という記述があったにも拘らず、私はつい見逃しており
ました。このソブ分が相当多い赤土こそ、朝鮮半島で『土鉄』と呼ばれた物と同系ではなかっただろうか。梶田氏は、
既にそこも見通しておられたのでしょうか。卓見であると言えましょう。*
3.小牧市下末・高根地区に於けるタタラ製鉄跡 (狩山戸遺跡・もしかすると高根遺跡もそうであるかも
)
小牧市教育委員会発行 愛知県小牧市上末・下末 「桃花台沿線開発事業地区内埋蔵文化財発掘査報告書
1987 第7章 狩山戸遺跡調査 (詳しくは、P.62〜66 参照)によれば、「遺跡の規模は、”全長9.4m南北方向
に丘陵斜面に斜行して築かれていた。”円形土コウは、直径2.4m 深さ0.5mほぼ円形で、防湿構造になっており、
溝が繋がっている。長さ 3m 幅 0.9m 深さ 0.3mのようで、断面は、浅いU字形をしており、下側に長楕円形
土コウ(土と広で一字)が出来ていた。長さ 4.2m 幅2.4m 深さは、水を貯えた場合は、10cmとなる。
この遺跡は、製鉄炉跡であり、円形に炉が築かれ、炉から排出した高温の溶解した残滓を溝を通して、長楕円形
に排出したと考えられる。」と記述されていた。この小牧市教育委員会の発掘調査は、昭和60年であったという。
この小牧市の製鉄遺跡の発見時は、現在のような研究状況ではなく、非常に製鉄址の報告も少なく、昭和53年当
時の西山遺跡もやっとその存在範囲が確認され、製鉄用材は、近くの砂鉄が想定されていたという研究状況ではな
かったかと。
( この炉の記述からは、奥出雲の羽森第3製鉄遺跡の炉の5倍位の炉であったかと推測されます。・・・筆者注)
この近くのもう一つの製鉄跡地(西山製鉄址)の製鉄炉とは、形状が、弱冠違っているようで、炉の形状からは、
時期的にやや狩山戸遺跡の製鉄跡地の方が、古い操業ではなかったかと推測できそうにも思えますが・・・。
参考までに、たたら製鉄発祥の地 奥出雲 雲南市には、古墳時代後期のたたら製鉄跡地が、確認されており、
遺跡名は、「羽森第3製鉄遺跡」であるとか。そこの遺跡の記事を抜粋しました。
「羽森第3遺跡は、三刀屋川の左岸にある、標高336mの山の斜面に所在します。そこで確認された製鉄の跡
は実にシンプルなものでした。山の斜面をカットして幅約4m、奥行き約3mの平坦面を製鉄の作業場として造成し、
そこに砂鉄置き場と木炭置き場、製鉄炉が設けられていたのです。製鉄炉は、形も大きさも近世以降のたたらと全
く違うものでした。製鉄炉は、菅谷たたらのような大きな長方形ではなく、隅丸の方形か長円形で、大きさは、長径
が50p、短径が45pしかありませんでした。このことから、古墳時代の製鉄炉は、横よりも縦に長い竪型炉だっ
たことがわかりました。」と。
更に、「このような製鉄炉でつくられた鉄の量は、これまでの研究によれば、1回の操業でできる鉄の塊は、子ど
もの手のひらに載るぐらいと言われています。」とか。
また、「古墳時代の有力者にとって、鉄あるいは鉄製品を持つことは自らの力を示すバロメーターでもありました。
掛合町の山中でつくられた鉄が広範囲に交易されたとは考えにくく、おそらく羽森第3遺跡の製鉄作業場では、製
鉄技術を持ち得たこの地域の首長によって鉄の生産が繰り返されたと思われます。古墳時代、出雲各地の有力
者は、鉄の保有や製鉄技術の導入に大きな関心を抱いていたのかもしれません。やがて、奈良時代になると、製
鉄炉は竪型炉から箱形炉に改良されることになります。」以上であります。( 詳しくは、下記URLにて 参照された
い。 http://www.co-unnan.jp/index.php?mode=history&category=5&subcategory=18 で確認下さい。)
平成10年3月 「愛知県における古代製鉄と鉄器の年代」(名古屋大学年代測定資料研究センター 『名古屋
大学加速器質量分析計業報告書(T])』を記述された横井時秀氏は、既に発表済みの狩山戸遺跡の残滓の成
分分析・また梶田氏の成分分析等を勘案されて、残留酸化チタンの含有量が低値の為、原料は、砂鉄ではなく、
岩鉄であろうと推論され、更に、狩山戸遺跡の残滓片のC14年代測定により、残滓は、AD635〜786年(7世紀中
〜8世紀末)頃の物であろうと記述されました。
そして、平成16年になって、西山製鉄跡地の発掘があり、その製鉄跡地から鉄鉱石の砕かれた破片が、見つかり
横井氏の推論が、正しかった事が、発掘結果により証明されたようです。
とすれば、この尾張でのタタラ製鉄の実働時期は、大化の改新の少し前から奈良時代末にかけての頃であったの
でしょうか。C14の年代測定は、やや実際より古く年代が出るのではという感触を私は、持ちえています。とすれば、
この狩山戸遺跡の操業は、C14の年代測定より弱冠新しい時代であるかも。奈良時代前頃から奈良時代を想定し
てもいいのかも知れません。そうすれば、製鉄炉の形状は、堅型炉ではなく、長方形箱型炉へと推移した可能性を
想定できるかと。
春日井市の製鉄跡執筆者の村松氏は、「西山跡地での製鉄炉は、長方形箱型炉で斜面上の等高線に対して、
平行な横置き型であったとされ、小牧の狩山戸遺跡の製鉄炉は、やはり長方形箱型炉であり、斜面の等高線に
対してやや斜行した縦置き型ではなかろうか。」という認識であるようでした。勿論長方形箱型炉は、どちらも水平
に設置されていた筈であると言われました。
近江の瀬田丘陵で行われていた製鉄は、鉄鉱石を用いた製鉄であり、7世紀後半からスタートした官営の製鉄所
の感が強い。
白村江{朝鮮半島 天智2(665)年}の戦いで、負け、朝鮮半島の鉄が容易に入ってこなくなり、律令国家は、自
前の鉄を急いで作らざるをえない状況に陥っていた筈。畿内近国の尾張でも鉄材の入荷は、困難となったのであ
りましょう。
尾張国 東北部の狩山戸遺跡でのたたら製鉄跡の稼動期を、近江の7世紀後半のスタートとほぼ同時期と推
測できるのであれば、継体天皇と尾張連氏との婚籍関係から在地の有力勢力としての「尾張連氏が、北九州より
製鉄工人の一族を招聘しての尾張入国と考える事も出来ましょうか。」(この推測の基になっているのは、<畿内
政権が「、統一して工人を各地に配したのではなく、北九州を窓口にして、各地の首長層が、独自に渡来工人を招
聘した。」( 「倭人と鉄の考古学」 村上恭通著 P.127 参照)という記述からであります。・・筆者注>
この狩山戸遺跡は、近江の官営製鉄工房の製鉄炉とは、小牧市教育委員会の発掘報告書の製鉄炉とでは、弱
冠形状も違うようにも思えます。
とすれば、操業時期は、近江よりやや早いのかも知れないと想定できるかも。(あくまで、小牧市の報告通りで
あった場合ではありますが・・・。)
もう一つの製鉄地である西山製鉄跡の近くには、松原神社(製鉄に関わる南宮社が、摂社として含まれていると
いう。)が存在している。この南宮社の本山は、関が原近くの垂井に存在する南宮神社であり、この南宮神社は、
壬申の乱時、大海人皇子(後の天武天皇)の祭地の近くであり、祭地内にある金生山の赤鉄鉱を採掘し、近江朝
の製鉄より進んだ技術?を用いて、乱に対処したのではないかとも言われているようです。そして、この鉄鉱石で
造られた(新しい技術によりこの製鉄地で造られたカ)刀が奉納され、御神体とされているとか。
こうした南宮社関係でみれば、尾張国での若き刀工の事柄は、近江の製鉄よりかなり遅い稼動かなとも思われる
のであります。( 金生山での製鉄については、中世の風景を読む 3 網野善彦・石井進編 新人物往来社
1995年版「南宮大社と鉄」 宇都宮精秀氏の論述に依拠しております。)
大胆な推測が許されるならば、小牧市の発掘調査の炉跡の形状報告を認めれば、狩山戸遺跡の操業があっ
て、その後、西山遺跡の操業がされた可能性を考えるのでありますが・・・。
しかし、愛知県史 資料編(飛鳥〜平安) P.202〜203では、狩山戸(かりやまと)遺跡 (県遺跡番号08
0151)の事も記述されております。それによると、「西山遺跡と本遺跡は、いずれも篠岡丘陵南端部に位置し、
距離も約1.6Kmと近接して所在している。」とか、「本遺跡から50mほど西にある調査区からも鉄滓が出土し
ており、他にも製鉄炉があった可能性がある。」とも示唆されていた。
そして、「この製鉄炉は、両側に排滓坑を持つ細長い長方形箱型炉であり、近江からの伝播が想定される。」
と。
やはり、稼動時期は、「7世紀後半〜8世紀前半であろうか。」と記述がされていた。C14の年代測定値より
やや新しい稼動時期の想定でありました。
それもその筈、小牧市の調査報告書は、昭和60年。愛知県の県史資料編での報告書は、平成22年かと。その
間には、相当の時間差があり、研究も進んでいたかと。また、両執筆者が、小牧の狩山戸遺跡の発掘に実際関わ
っていたかどうかは疑問であり、どちらかは、報告書でしかこの遺跡の実情を知りえなかったのでありましょう。
幸い、小牧市役所 文化財振興課には、執筆者の方がみえ、平成25年11月14日(木) この狩山戸遺跡の遺物
等が保管されている建物の見学をさせて頂き、執筆者の方から、県史 担当者の方との関係やらご存知の事柄
のご教示を受け、参考になりました。
愛知県史 尾張国の二ヶ所の製鉄跡地についての執筆者は、城ヶ谷和弘氏でありました。
「小牧市に存在した狩山戸遺跡での炉跡の形状(高度差の存在を含む)・焼土・川原石の存在等々から、小牧市の
発掘担当者は、高い位置にある円形土こう(土偏に広で一字)それに続く溝さらに低位置に存在する長楕円形土こう
を一連の施設ととらえ、最高地の円形土こうに炉跡を想定し、溝それに続く長楕円形土こうは、鉄滓を排出する装置
と推測されたという。当然、発掘時には、溝それに続く長楕円形土こうに、残滓(鉄滓)が延べ板状に存在していた事
も決め手にされたようです。一番高い位置にあった円形土こうには、炉壁片らしき粘土塊(焼土塊)が、不規則に散乱
した状態で存在していたようで、焼土塊の破片は、スサ入り粘土であったとも報告書には、記載されている。厚さは10
cm前後であったし、一部は内側へ湾曲していたとか。こうした発掘状況から、丸型炉跡であろうと推察されたようです。
そして、小牧の狩山戸遺跡の発見は、偶然の事のようで、周りの穴窯の発掘調査をしていて突然異質の発見から、
発掘をしていくと、穴窯の間に横たわっていたという経緯であり、発掘された残滓の塊を見させて頂きましたが、縦・
横共に10cm強位の塊が、ズタ袋に十数袋分はありましたとも言われた。発掘当初は、延べ板状でありましたが、そ
の内に、自然と割れていったという。その一つを手に取り眺めますと、例えで申し訳ないのですが、火山の噴火で、粘
り気のある溶岩が、冷えて固まったように、幾重にも筋が付いて伸びていって固まった状態であったかのようでした。」
( 小牧市の報告書執筆者の方からお聞きした事を基に私が、まとめた文であります。)
幸い、市役所のこうした遺物保管・整理担当(文化財振興課)に、狩山戸遺跡の小牧市の執筆者の方がおられ、業
務を推進されてみえるようで、残滓類の一部を見学させて頂けましたが、炉片(焼土塊)類は、未整理状況なのでしょう
か、見学できませんでした。私が見学させて頂いた時には、三人位の女の方が、出土物の石等をきれいに洗い、天日
干しをされてみえました。(詳しい整理の情報は、お聞きしませんでしたので、常時されているのかどうかは私には、分
かりません。)
出来れば、炉片類を整理されましたら、炉底に穴が開いている炉片の存在が在ったのか無かったのか等の報告を
聞きたいものであります。
私の嫁さんに遺物の事を話しますと、それって、今後の人類の為になるような事なのと手厳しい。高齢者の介護に
役立つ研究とか、何にでも変化できる細胞の研究なら人類の為になるのにとか・・・。花より団子論調。そんな遺物整
理等にどうして税金を使うのという始末。取り付く暇がありません。これが、世間一般の論調なのでしょうか・・・。
こうなりゃ無報酬で、リタイヤーした高齢者で、興味のある方に依頼するのも、今後の一つの方策なのかも。少し脱
線してしまいました。
話を元に戻しまして、愛知県史の執筆者の城ヶ谷氏は、小牧市の狩山戸遺跡の製鉄炉を、小牧市の発掘報告書
等と、春日井市・近江の製鉄跡地の報告書等から、溝に設置された川原石が、円形と長楕円形土こうの間にあり、
溝の真ん中には、二等分するかのように石が無かった状況で、両サイドの川原石は、熱を受けヒビが入った物が多
かったという事からでしょうか。
*
脱稿後でありますが、「長方形箱形炉は、古墳時代後期の岡山県大蔵池遺跡や緑山遺跡のように構造的な炉
床を持たず、溝の中に炉底を築くタイプがベースとか。律令前後頃には、両端に排滓用の土こうを持ち、掘り方の
平面が鉄亜鈴形の炉が成立すると。こうした鉄亜鈴形の製鉄炉は、7世紀後半に北部北九州を中心に現れる。ま
た、もう一方の土こうが開放されるタイプは、関西から東北にかけて出現する。」(「倭人と鉄の考古学」 村上恭通
著 P.173〜176 参照)という事柄を知りえました。
とすれば、尾張の製鉄炉跡は、どちらのタイプと想定すれば、よいのでありましょうか*
こうした川原石部分に、炉跡を想定し、その炉跡を長方形箱型炉と想定され、県史 資料編4 飛鳥〜平安 考古
4 平成22年版には、「この製鉄炉は、両側に排滓坑を持つ細長い長方形箱型炉であり、近江からの伝播が想定さ
れる。」と記述された可能性が高いと推測いたしましたが、もっと深い考察の上で、記述されたやも知れず、僭越すぎ
た推測ではとも、そうであれば、ご容赦頂きたく思う次第であります。
また、城ヶ谷氏の論述の基にあるのは、「狩山戸遺跡は、篠岡古窯址群の範疇に入っており、篠岡の窯は、官衙
用の硯(新羅系)も作製していたし、この当時造られていた豪族用の氏寺の瓦も焼いていたようで、何らかの官営窯
を想定されているのでしょうか。小牧の製鉄跡地も、官営ではないかと暗に想定されているのかも知れません。」
そうであれば、何となく小牧の狩山戸遺跡は、近江系統の官営製鉄の流れという想定になるのではないかと・・・。
(こうした指摘は、村松氏との会話から成程と思いました。その後の篠岡古窯址研究では、官営窯という見地より、
こうした当地の工人が、需要にあった供給をしているのではないかと、硯にしろ焼いていた窯は、少なく、その生産
された数も少ないという点からの見地に立った論述のようであります。)
城ヶ谷氏が想定された官衙用穴窯と思われているのは、私が知っている限りでは、大草辺りの窯と野口辺りの窯
跡及び下末・池ノ内かと。全ての穴窯で、硯が作製されていた訳ではありません。作製窯は、限られています。確か
に、狩山戸遺跡は、旧の地域名は、大草に入るかとは思いますが・・。こうした事柄に関しましては、拙稿の論述をも
参照下さい。詳しくは、 古代に於ける 尾張北部地域の窯業地帯についての覚書
参照
この県の報告書を読み、この記述をしたためたその後に、春日井市教育委員会の出された東海学セミナー (1)
−古代の鉄生産を考えるーという報告書(平成17年版 発表は平成16年かと。)を私は、熟読いたしました。愛知県
史の執筆者の城ヶ谷氏が、どうして狩山戸遺跡の製鉄跡を”両側に排滓坑を持つ細長い長方形箱型炉”と推定され
たのか、分かるような気がいたしました。
発掘された遺構が、両遺跡共、よく似ており、西山遺跡の方は、炉底は残っていないようでしたが、炉下部は、ほぼ
完全な状態で発掘され、炉を推測出来えたからでありましょう。小牧の狩山戸遺跡でも、炉下部は、川原石が整然と
残っていましたから。
それ故、城ヶ谷氏は、狩山戸遺跡の炉もそうであろうと推測されたやに。では、狩山戸遺跡では、何故に溝を含め
低位の長楕円土こうへ残滓が流れた状態で固まっていたのであろうかという課題が出てくるのであります。というの
も、残滓は、製鉄炉外へ、炉の粘土壁を壊すようにして、炉外へ排出される物でありましょうから。『狩山戸遺跡では、
高い位置にある円形土こうを除き、円形土こうに続く溝から低い位置にある長楕円土こうへ厚みのある残滓が延べ
板状に流れ、固まった状態で掘り出されていたという。』(小牧市の発掘担当者が、発掘現場の様子を思い出しなが
ら私に話して下さいました。) この炉跡は、斜面の等高線に平行して設置されてはおらず、やや斜行した状況で設置
されている事。西山遺跡の炉跡は、斜面の等高線に平行に設置された遺構であったようです。もし、川原石の存在す
る上に炉跡を想定するとすれば、炉跡上にも何故、残滓が、流れ下る状態で固まって発見されたのか。理解に苦しむ
のであります。
一つの推測は、この当時の炉は、上に屋根のない構造であり、野ざらし状態での操業と考えれば、こうした製鉄
には、陶器の製造と一緒で、三日三晩寝ずに火を焚き、その間に雨でも降ろうものなら失敗に帰す、或いは人知
の及ばない所で失敗する可能性のあった操業であったのではなかろうかと、この狩山戸遺跡の操業は、もしかす
ると失敗作の炉であったのではなかろうか、そのまま放置され、埋め戻されたと考えれば、辻褄は合いましょうか。
大胆過ぎる仮説かとは思いますが・・・。既に、遺跡は滅失していますから、再度現地の検討をする事はでき
無い状況かと。
対して西山遺跡の炉跡は、1回限りではない操業であったかのような推測が出来えるとも記述されております。
この西山遺跡は、開発がされず、そのまま残して、埋め戻されていると村松氏よりお聞きしました。
また、拙稿 小牧市 大山地区 山麓の地質と鉄を含む鉱石の見分け方と古代たたら製鉄雑感 は、近江に
於けるたたら製鉄についてを記述しました。参照していただければ、幸いです。
この狩山戸遺跡とは、目と鼻の先にあります高根遺跡は、現在何の為の用途の遺跡かはっきりいたしてお
りませんが、次のように記述される方もありました。
「尾北窯でも古窯が密集する篠岡地区、小牧市高根に用途不明の不思議な遺跡がある。陶器生
産に関係した作業場の跡ではないかと推測されているが、全く遺物が出土していないため、古
窯跡との具体的な関連は定かではない。 用途不明で放置されたままだが、何故か1956年に県
の史跡に指定され、“今後の研究課題”となって既に半世紀以上が経つ。 風化を防ぐ為に表
面はセメントで固められているが、縦2.5m×横0.7m×深さ25cmの溝が4連、深さは同じで、そ
れより少し小さい溝が8連、それぞれアゼで仕切られて並ぶ、一見何の変哲もない窪地である。
細かく分割されてはいますが、原理としては慶州の水濾方法と変わらない。推測が正しけれ
ばこの時期、尾北窯において陶器生産に渡来人が関わっていた有力な証拠となり得る。
篠岡地区の地層は猿投の黒笹とよく似ており、狭い範囲でいろいろな種類の粘土を採取する
ことができる。溝が区切られているのは、白瓷、青瓷(緑釉)、須恵器と、用途に応じた粘土
を種類別に精製するためではないかと想像するのだが・・・。
ちなみに大きな溝の容量は一区画400?になり、奇しくも筆者の使用する水濾桶と同じ容量であ
る。大きな方4槽を使って450kg、小さな方で約700kg、一度に合計約1150kgの粘土を精製
することができる。1150kgの粘土は、セメント袋に換算すると38袋分、やはり白瓷一窯分の製
品に使用する粘土の十分な量である・・・。慶州の1.215kgといい、出来過ぎているではない
か。」
と。( 引用は、http://www2.odn.ne.jp/sanage/clay.html からであります。
このファイル内に、高根遺跡の全景写真もありますので、参照下さい。)
何とも不思議な遺跡であり、たたら製鉄跡に近い故、私は、何かしら”たたら”との繋がりを想定し
てしまいます。
ところで、タタラ製鉄の炉は、何で造っていたのであろうか。ある程度の高温にも耐え、頑丈でなけれ
ばならず、材料もこの近くで調達出来たとすると、粘土しか思いつかない。それに、この地域では、各種
の粘土が、調達出来えたようであり、渡来人は、こうした粘土の特性を利用し、炉を築いたとも推量出来
るのではないかと・・・。確かに、出雲に於けるたたら製鉄用語例には、製鉄炉の記述もあり、次のよう
に記述されていました。「釜土(粘土)築炉用の粘土は苦心して選んだ。花崗岩の風化したもので珪酸
(SiO2
)が適量で適度な耐火性と鉱滓を造る性質をもつことが必要で、また、不純物も少ないことが
条件であった。」と。とすれば、あの高根遺跡は、そうした粘土を選別する所とも推量する事もできえる
のでは。この時代の窯跡は、穴窯であり、天井・側壁は、粘土で固めたのではないか。かって、学生時代
愛知県刈谷市井ヶ谷地区の穴窯の発掘調査に参加した時、穴窯の側壁が、綺麗なタイル状の溶片になって
いた事を記憶しています。穴窯も、製鉄炉も同時代の同時代人の作為でありましょうから、似ていたので
はないかと。
確かに、両製鉄遺跡からは、炉片の焼土塊(粘土塊)が出土しており、スサ入り粘土塊であった事も知ら
れるのでありますから。
愛知県史の西山製鉄遺跡の記述にも、「炉底は、残っていないが、炉下部には、扁平な石(川原石)を
敷き、その上にスサを含まない粘土を貼り、更にその上にスサ入り粘土ブロックを積み上げ炉を構築して
いたと推定される。」とある。また、西山での春日井市教育委員会の発掘報告書に記述されている事柄で
はありますが、「炉壁片の中に、細かな石等が入り込んでいると言う。」記述があります。
しかし、出雲のたたら製鉄炉に使用された粘土は、不純物も少ないという記述であり、西山遺跡での炉
の粘土は、それに反しているようです。
ここでいう市教委の報告とは、既に記述しております東海学セミナー(1)−古代の鉄生産を考えるー
(平成17年発表版)内の4つの論述の一つ{覚え書き}C 西山製鉄跡について −製鉄遺跡発掘調査事
例報告ー春日井市教育委員会文化財課 村松一秀氏の論述の事であります。
(スサとは、稲わらを指すのではないかと。そのように推測しますのは、前述の梶田元司氏の西山製鉄址
の記述内に「西山町に、金屋浦という字(あざ)がある。元はかなり広い地域を含んでいたが、明治初年に
分割されて、この字の北部は字西山と改称された。その西山の1576番地の畑から鉄を精錬した時に出るのろ
が沢山出土する。また、”稲藁が混入されて堅く焼け締まった窯壁の破片も多量に見出される。”ここに製
鉄施設、すなわちタタラ窯があったと推定される。この畑にはまた須恵器の破片も散布しているが、その須
恵器片に溶鉄が融着しているものもある。おそらくこのタタラ窯の年代はかなり古代までさかのぼると考え
てよいのではなかろうか。」という記述からであります。
西山製鉄跡地から発掘されたスサ入り粘土塊(焼土塊)も実際に見させて頂き、確かにすじ状になった
部分を含む焼土塊でありました。稲わらを短く切断して、粘土に練り込んだのでありましょう。
私には、炉片の塊のすじになった所が、稲わらの跡ですと言われなければ、分からない事柄ではありま
した。発掘とは、こうした細かな事柄にも気を配り、遺物に対処していかなければならない事のようです。
物言わぬ遺物から、その当時の様子を垣間見る。細やかな神経と科学的知見を総合しないと解けない世界
ではあるようです。餅は餅屋でしか出来ない世界である事が、こうした発掘屋家業でありましょうや。
こうしたスサ入りは、昔、家の壁土用に稲わらを”押し切り”で切断して、壁土に混ぜてこね、竹を細
く割って、組んだ所に左官屋さんが、こてで塗っていたその原理でありましょうか。ひび割れても剥がれ
ない強さがあったのでしょう・・・。
この尾張国の二つの製鉄跡地では、タタラ製鉄の原料は、おそらく岩鉄であろうし、コークスの代わりに丘陵地の
木を炭にして使用した可能性が高い。炭にしたという事であれば、炭焼き工人(須恵器窯工人カ)も製鉄に加わって
いたと推察できうるのではないかと。
そして、この丘陵地には、磨き砂(御嶽山の噴火により堆積)が、簡単に採掘できたようです。石灰の代わりとな
ったのでしょうか。戦後、篠岡丘陵では、大規模な磨き砂の採掘がおこなわれていたようですから。
やや脱線しますが、穴窯操業について、やや時代が下って知多半島での操業を分析された方の論述では、こう
した操業は、大所帯の操業ではなく、少人数(4人程度カ)で、全ての事柄をこなしていたような記述であり、須恵器
一窯の操業期間は、3・4ヶ月程度を想定されており、農閑期の操業かと記述されていた。とすれば、製鉄操業も、
大所帯であったのであろうか。
この尾張で操業をした製鉄工人等は、経験的に石灰(磨き砂)を使うと、滓分が取り除かれるようだと言う事を知
っていたのでしょうか。
同様な事を、平成17年春日井市教育委員会発行 東海学セミナー (1) その当時 三重大学名誉教授 八賀
晋氏は、「安八磨郡と鉄生産」という題での講演で、次のように言われていたようです。「近代製鉄では石灰石を混
ぜます。しかし、これは、昔から経験的に”石灰を混ぜると不純物が余計に落ちるぞ。”と言う事を知っていたので
はないかという気がしますと。鉄滓(テッサイ)を分析しますと、奈良時代以降は、珪酸カルシュウムが非常に多くなる
傾向があります。60%という数値も見られます。美濃国府辺りの鉄滓からでも、この珪酸カルシュウムが多く抽出
されるという。
こうした事から、氏は、製鉄の際に石灰を混ぜればいいという事を、或いは経験的に知っていたのではないかと
思いますと。述べてみえます。
改めて、西山製鉄跡地から採集された鉄滓 5種類の分析結果。梶田氏が既に発表されていますので、書き出
してみます。珪酸カルシュウムとは、CaO3とSiO2が結合した化合物とか。(肥料用語で、ケイカルと言うとか。)
鉄滓種類 CaO3 SiO2 珪酸カルシュウムとしての比率 (%) 1 1 1.64 26.84 28.48
2 1.66 34.18 35.84
3 3.91 31.43 35.34
4 2.02 36.02 38.04
5 2.51 38.31 40.82
改めて西山製鉄跡地での鉄滓に含まれる珪酸カルシュウムの割合は、金生山近くの鉄滓と、比率すれば、か
なり低い値を示しているとも言えましょうか。5種類の鉄滓は、この西山製鉄での操業の違いを表しているのでしょ
うか。弱冠比率が、高まっているようにも思えます。原料鉄鉱石の種類の違い、或いは、炉壁の粘土に含まれる
珪酸の違いにも左右されるているのかも。この西山製鉄遺跡も、近くの狩山戸遺跡と同様な時期の操業であれば、
奈良時代前から奈良時代にかけての操業であったのでは。金生山系の工人の一派の流入であれば、石灰の使用
は、経験的に知っていた筈でありましょうから、もっと比率は、高くなるのでは・・・・。
やはり、春日井の地での製鉄は、別系統の工人の可能性が、高いのかも知れません。
よくぞ、尾張へきた渡来人(新羅系)は、こうした場所を探し当てる能力を身に着けているものと驚き、その嗅
覚の鋭さに畏れ入ると同時に、時の為政者は、重用し、保護したのでしょう。それが、誰であったのかは不明で
はありますが・・・。
所で、こうした尾張の製鉄用に使用された岩鉄は、どこで採掘され、運ばれてきたのであろうか。岩鉄であれば、
この地域では、通称 鬼板(赤鉄鉱)と呼ばれる鉄鉱石でありましょうか。この春日井近辺でその存在が知られて
いるのは、あの高蔵寺ニュータウン内の高森山(たぬき堀りで採掘されたとか)から高蔵寺高校辺りであったかと。
小牧市であれば、あの大山寺のあった山々でありましょうか。この山々には、まだ知られていない採掘跡があ
るともいう。( 最近そうした事柄の一部と思われるどのような鉱物の採掘跡かは分かりませんが、犬山にわ里
ネット会員の方から数枚の採掘跡写真データを送って頂いております。・・・筆者注)
また、前述の高橋氏の居住地区の地下よりやや茶色を帯びた岩鉄の塊が、道路工事中に出てきている事等
近くからの採掘も可能であった事も推測できましょうし、西山製鉄炉跡地に近い場所よりソブ分の多い赤土も考
慮に入れなければならないでしょう。
東海学セミナー (1) −古代の鉄生産を考えるー の論述では、岩鉄を使用する製鉄では、岩鉄は、7里離
れていても持ち込めるとか。しかし、火の原料は、3里程以内でないと運び込めないとも言われている。
勿論近くにいい粘土(珪酸を多く含む粘土)があるという条件を満たした場所が、製鉄窯の立地条件ではありま
しょうが・・・。
また、この2ヶ所の古代製鉄跡の近くには、「朝日射す夕日輝くその下に 黄金(鉄に因むカ)」がからむ伝説が
あるという。( 詳しくは、郷土誌かすがい 46号 小木曽正明 「春日井の黄金伝説」 参照 )
その黄金とは、鉄の事ではないかと推察されていました。
その黄金伝説地の一つには、現 大草(旧 大久佐神社が建立されていた地域)も含まれていました。この地域
は、平安期頃でしょうか、官衙の存在も想定しうる給免田らしき名も残る地域であったようであり、もしかすると、小
小規模な鉄に関わる工房カもあり、鍛冶をする者達がいたのかも知れません。この当時の製鉄も、岩鉄を用いた
製鉄であったかも知れない・・・・。或いは、7・8世紀は、鉄の鋳造をする者にとって、朝鮮半島経由の原料鉄の入
荷が覚束ない状況下であり、それが、尾張の古代製鉄の起こりとも考えられ、平安期頃には、原料鉄の供給は、
行われるようになっていたとも。
とすれば、大草には、鋳物師の存在があり、黄金伝説地になりえる素地があったとも推測できえるのではなかろ
うか。
参考ではありますが、既に延喜式には、陸上輸送・海上輸送についての運賃の記載があるようです。
その記述は、以下のような記述で示されていると言う。
{「延喜式」主税上〈シュゼイノジョウ〉の「諸国運漕穀物功賃」には、一駄で運ぶ鉄は30挺〈チョウ〉(約60kg)で、運賃が、
尾張からだと21束〈ソク〉、常陸が100束、陸奥が210束と記されています。1束は米3キログラム位ですから、これでは
陸奥からは買えないでしょう。(あくまで畿内在住の者が購入した場合でありましょう。延喜年間頃には、鉄は、関東
陸奥地域でも造られていたと推測できましょうか。・・・筆者注)
海路ならば、博多から難波まで米50石運ぶ場合、船使用料250束、人件費140束、途中の飲食費30束を加えて420
束で、陸路に比して1桁安くなっています。}という記述もあるようです。(歴史研究報告 「近江の古代製鉄について」
http://ohmikairou.org/col15.html 参照 )
4.この当時の製鉄炉
遺跡からは、完全な形での炉は、出土しておりませんが、西山・狩山戸遺跡からは、炉跡破片と思われるスサ入り
焼土塊(粘土塊)の存在が、確認されている。須恵器窯の技術に似ていたのかも知れません。それほど大掛かりな
物でもなかったかと。炭と岩鉄と磨き砂を使い、初期たたら製鉄(塊錬法での製鉄生産技術とか・・筆者注)では、80
0度まで上げ、溶かし、残滓は、取り出し、炉に残った金偏に母と書いて”けら”と呼ばれる鉄が炉の中に固まって残
ったのであろうか。その塊のけらには、純粋な玉鋼や、鋳物用の鉄等々がそれぞれに分かれて固まり、砕いて利用
されたのでありましょう。そうした事を生業としていたのが、金屋と後に呼ばれし、金工(鋳物師)達であろうか。
( たたら製鉄用語例 http://www2.memenet.or.jp/kinugawa/hp/hp633.htm 参照 )
5.作られた鉄の行方
推測以外の何物でもありませんが、当地の7世紀中或いは末頃以降の製鉄であります。尾張地域は、猿投山に
ある猿投神社、金工の神様でもあるようです。この春日井の西山遺跡近くにも、松原神社(南宮社を含む
参考まで
に、美濃国であれば、「式内社」として「不破郡」にあった「仲山金山彦神社」が今、『南宮大社』と称されるとか。)とい
う金工の神様の神社があるようです。陶器も製鉄も根は同じとも言えましょうか。こうした技術は、猿投から尾張は始
まり、伝播したとも、直接近江から伝播したとも考えられる。
当然、この地方の古代たたら製鉄は、出雲地域のような砂鉄を用いた(百済系カ)製鉄跡ではないと推察するので
すが・・。
参考までに、『壬申の乱(672年)のとき、大海人軍は新羅の技術者の指導で金生山〈キンショウサン〉《美濃赤阪》の鉱
石製鉄で刀を造り、近江軍の剣を圧倒したといわれています。当時の近江軍の剣は継体天皇の頃とあまり違ってい
なかった。』( 近江の古代製鉄 http://ohmikairou.org/col15.html 参照 )とも。
更に、「古代の鉄生産についてー美濃・金生山の鉄をめぐってー 』八賀 晋氏の論述も参考になりました。
この地域へのささやかな自給生産量であったので、ありましょうか。こと鉄財に関する供給は、畿内にも近く、一大
生産地からの鉄材の流入に頼れる土地柄であったでありましょうが、この7世紀後半は、朝鮮半島からの鉄の供給
は、停止状態であり、自前で生産しないとその供給は覚束ない所まで追い詰められていたかと。
6.7・8世紀頃の政治状況と在地状況
6世紀中頃以降には、仏教も取り入れられ、各地の豪族が、古墳に代わる物として、氏寺を造りし頃であったので
は、そうした氏寺造営(勝川・大山廃寺)の釘・鎹等に利用する為か、稲作の農具の先に取り付ける鉄材の為であっ
たのでしょうか。おそらく主は、武器ではありましょうが・・・・。
その鉄の分配を通して、その当時の尾張地域で勢力を持ちえていた尾張連氏一族は、在地に君臨できる一助にし
ていたのかも知れません。
そうした事柄に関しては、前述の郷土誌かすがい 第4号内に 「春日部郡の豪族と古寺址」と題して久永春男氏
の論述があり、「春部郡を本貫としたことの確実な豪族として、尾張連一族がある。『寧楽遺文』の歴名断簡に、尾
張連牛養年廿七 尾張国春部郡山村郷戸主 大初位下尾張連孫戸口
という記載が見られる。大初位下といえば、
郡の主帳級の位階である。
(参考までに、現 春日井市牛山辺りでは、遺跡の発掘がされ、この辺りは、春日部郡山村郷と言われていたよう
で、平成の御世になって、平安時代の官衙乃至寺院遺構ではないかと思われる発掘報告がされ、上記の記述と符
号してくるのではないかと。
また、文化13年頃記述された尾張国地名考なる書物があります。津田正生著ですが、江戸時代の末期頃に、里
人の口述・書物等を調べ、地名を丹念に洗い、自らの初見をしたため冊子にされたようです。氏は、この山村郷に
ついては、「地名考 P.190に、津田正生が、考える事柄ではあるが、牛山・外山・青山・板場・一之久田・小針村等
は、皆都て、山村の郷の曲輪なるべし。」とも記述されているようであります。)
次に時代は少し降るが、『日本三代実録』の仁和元年(885年)12月29日の條に、「尾張国春部郡大領正六位上尾
張宿祢弟廣」についての記載がある。「自為郡領、三十餘年于げん」と弟廣は述べているが、宿祢を姓(かばね)とす
るその家柄から推すと、その祖先は奈良朝からすでに郡司階層であった蓋然性は高い。
また『延喜式』は春部郡の官社12座の中に物部神社を載せている。物部連一族が10世紀初頭まで郡内である程
度の勢力を保っていたとみなしてよかろう。」とも記述されております。
繰り返しになりますが、「話を松原神社に戻しますが。広い境内であり、周りは雑木林であり、拝殿、本殿と続いて
おりました。案内板を読みますと、この神社は、元明天皇の御世 和銅4(711)年に創建されたとか。尾張式内社
の高牟神社に比定されるという。」とも記述がされておりました。
しかし、一般的には、この高牟神社は、名古屋市にある神社が、想定されており、物部氏の武器庫が、神社にな
ったとか言われているようです。一説では、この物部氏は、武具を造る冶金工人を引き連れていた可能性も否定で
きないかもしれません。
この物部氏がかかわる地域には、県下でも3番目の大きさの味美 二子山古墳(前方後円墳 後期古墳 5世
紀後半頃)が存在しており、八田川の下流域でもあります。この西山遺跡(7世紀〜8世紀頃カ)も、八田川の上流
域に存在し、何やら時代差はありますが、因縁めいているかと。
併せまして、この八田川上流域には、下原古窯(須恵器窯 6世紀頃カ)が存在し、この窯で、上記二子山古墳
の埴輪が焼かれ、使用されている事は事実であり、この埴輪の運搬には、八田川が使われたのであろうとも推
測されているようです。もし、この古墳造営者の一族が、下原古窯の工人を保護し、築造させたとすれば、やや
時期は、遅れますが、製鉄工人を派生させうる素地を有していた古窯工人集団(もしかして、新羅系工人カ)では
なかったかとも・・・。とすれば、この尾張での古代製鉄は、猿投神社からの伝播の派生とも類推できましょうか。
また、平安期に再興された大山廃寺跡からは、現 ちご神社が創建されている東側跡地に、製鉄跡ではないかと
推察される工房跡があったとか。時期的には、平安期(11世紀頃カ)でしょうか。この跡地からは、鉄滓の存在を指
摘した小牧市教育委員会の発掘調査報告書(大山廃寺発掘調査報告書 1979 小牧市教育委員会 P.15〜16
参照)もあり、残滓と銅滓が、ちご神社前辺りから出土したとも記述されています。
報告書では、知りえる工房跡は、銅器製造(梵鐘)用の炉とフイゴ。そして鉄滓のあった事を控えめに指摘してみえ
るかと。こうした残滓・銅滓等は、小牧市役所 文化財振興課が管轄し、保管されているのでしょう。
推測が許されるならば、近畿以西(主は中国地方)のたたら製鉄は、砂鉄を用いた百済系の製鉄であり、北陸・滋
賀・美濃・尾張地域のたたら製鉄は、鉄鉱石を砕いた岩鉄を用いる新羅系の製鉄であったのではなかろうか。
繰り返しますが、「鉱石製錬の鉄は砂鉄製錬のものに比し鍛接温度幅が狭く、(砂鉄では、1100度〜1300度である
のに、赤鉄鉱では、1150度〜1180度しかない。温度計のない時代、この測定は至難の技だった。)とも記述されてい
ます。温度計の無い時代であり、こうした温度管理は、工人自らの目を通して、経験的に把握していたのでしょう。多
くの工人は、目を痛め、見えなくなっていった可能性が高い。そうした工人の特性が、天目一箇神となったのでは・・。
ダイダラボッチとも言われるようであります。故に天目一箇神は、製鉄神でもあるのでしょう。
造刀に不利ですが、壬申の乱のとき、大海人軍は新羅の技術者の指導で金生山〈キンショウサン〉《美濃赤阪》の鉱石製
鉄で刀を造り、近江軍の剣を圧倒したといわれています。岐阜県垂井〈タルイ〉町の南宮〈ナングウ〉神社には、そのときの
製法で造った藤原兼正(竜子〈エンリュウシ〉)氏作の刀が御神体として納められています。(同町の表佐〈オサ〉《垂井町表佐》
には、その当時から渡来人が多く住み、その為通訳が多数宿泊していたという言い伝えがあります。地名の起源か?)
当時の近江軍の剣は継体天皇の頃とあまり違っていなかったといわれています。」
(近江の古代製鉄 http://ohmikairou.org/col15.html 参照 )
やはり、尾張国のたたら製鉄は、この近江の製鉄(新羅系)の流れを汲んでいると推測してもよいのであろうか。当
地へ新羅系の渡来人の一族が来て、製鉄をしたのであれば、壬申の乱前後頃、移住してきた可能性も推測できそう
でありましょうか・・・。筆者としては、この尾張での7・8世紀頃の製鉄跡地の伝播には、現在に於いては、二系統の方
向を推測しておりますが・・・・。事実は、どちらに軍配があがりましょうか。
壬申の乱の勝利には、尾張国の国司・郡司等の協力支援も大きく、天皇個人の意思として、強く協力者には、見返
りがあった筈でありましょう。
その当時、尾張国国司 小子部さひち なる人物は、天智天皇の近江朝から任命された人物であり、近江朝の意を
受けて行動していた可能性が高い。また、「このさひちなる人物は、製鉄に関わる氏族でもあった。」かと。(東海学セミ
ナー (5) −各地の歴史遺産ー 内の ”壬申の乱を考える” 椎屋 紀芳氏の論述 参照)によります。とすれば、こ
の尾張の地の製鉄工人は、この尾張国司の意を受けた工人であった可能性も否定は出来ないのではなかろうか。何
故、壬申の乱の勝利の貢献が大であった人物が、自ら命を絶たなければならなかったのか。その経緯については、既
に多くの史家が、推論を試みてみえますが、拙稿もそうした論点を書きとめております。
「律令制に伴う 国府 成立時の悲劇 − 尾張国府の成立を通して −」とか、尾張連氏についての論考にかかわ
る「尾張連氏と熱田さん(現 熱田神宮)の歴史的変遷についての考察
」も参照して頂ければ幸いです。
7.雑感
こうした”たたら”に絡む一族の末裔等は、その後どのようになっていったのでありましょうか。或いは、平安期の大
山寺創建以前のこの山には、鉄滓等の存在が知られるようで、そうして生き延びていたとも推測できましょうか。更に
羽黒の金屋へ、そして、室町期の春日井市白山地区の鍛冶村の存在(この一族は、織豊政権から徳川期へと推移し
た可能性を指摘されている方もありますから。)へと推移していったのでありましょうか。興味は尽きませんが、追いか
ける資料の無さが・・・・・。
只、心残りな事は、両製鉄跡地で使われていたであろう岩鉄(鉄鉱石)の採掘地の事。まさか金生山から運ばれて
きた・・・、とは考えられませんが、当地のどこか、現 小牧と現 犬山の境にある大山廃寺に連なる山々には、無数
の採掘穴が存在していますから・・・。まか不思議な事ではありますが、当製鉄跡地の直ぐ近くには、多量の砂鉄層
が、存在していたにも関わらず、そうした砂鉄を利用しないで、岩鉄での製鉄。繰り返しますが、「鉱石製錬の鉄は、
砂鉄製錬のものに比し鍛接温度幅が狭く、(砂鉄では1100度〜1300度であるのに、赤鉄鉱では1150度〜1180度しか
ない。温度計のない時代、この測定は至難の技だった。) 」筈。
技術とは、一足飛びには進展しないようですし、頑ななまでに継承されていくものでありましょうか。
付け加えておきますが、美濃地域の関の孫六で有名な現 関市の刀・包丁・かみそり類の工人は、ほとんどが、
金生山での鋳造師達の末裔であるという事のようであります。
参考文献
拙文の中に、全て記載済みの為、省略いたしました。
小牧市
高根遺跡 全景 ( http://www2.odn.ne.jp/sanage/clay.html
より借用しました。 )
私の家から、車で、5分位の所にありました。アピタの交差点を、春日井駅方向に下る大きな道路を
走り、小牧市巡回バスの高根バス停・名鉄バス高根バス停のある近くの交差点を全面ガラス張りの温
室のある園芸植物生産所のある方へ曲がり、最初の辻を右折した小道筋にこじんまりと存在していま
した。やはり相当年数が経っているようで、コンクリート部分は、亀裂等ができ、雑草も生えておりました。
平成25(2013)年6月22日 脱稿
平成25(2013)年8月7日 一部加筆
平成25(2013)年10月30日一部加筆
平成25(2013)年11月5日 部分改訂
平成25(2013)年11月14日
一部加筆
平成25(2013)年11月21日
一部加筆
平成25(2013)年11月28日 加筆
平成26(2014)年7月28日一部加筆修正
付記
「古代日本の鉄と社会」 東京工業大学製鉄史研究会 平凡社 1982年版より
・ 播磨国風土記・日本霊異記・扶桑略記等に出てくる鉄穴は、砂鉄採集というより鉄鉱石採集であり、我国の初期
鉄資源採集方式は、露天の竪穴採掘ではなく、横穴を持つ鉱山採掘であろうと記述されている。
また、初期の製鉄を全て鉄鉱石と主張するつもりはないが、文献的には、むしろ鉄鉱石と思われる物が古いので
あって、これは、自然科学の側の、チタンを含まぬ鉄鉱石やチタンをわずかにしか含まない砂鉄を原料とした方が
技術的には容易いという見解である。(同書 P.180 参照)
(それ故であろうか、西山・狩山戸両遺跡での製鉄原料は、鉄鉱石であるという事。両遺跡近くには砂鉄の層があり、
それも多量であったにもかかわらず、鉄鉱石での製鉄に終始している。技術的に容易であった事によるのでしょう。)
平成27(2015)年10月8日 添付