鎌倉末期頃の春日部郡林・阿賀良村についての再考

         1.はじめに
            私が居住する地域の近くに存在した村であります。それ故、興味を持って調べております。既にこの村について
           論述されている春日井市史 通史もあり、新しいところでは、上村喜久子氏の論述「尾張の荘園・国衙領と熱田社」
           岩田書院 平成24(2012)年版に明快に述べられている。上村氏は、網野善彦氏の愛弟子でありましょう。

            この鎌倉末期頃に村と呼称される地域は、「室町期の自然村落と理解するのではなく、この当時の”村”が付く地
           域は、山河や未開発の地域を最初に開発した場合に付く。」(日本中世土地所有制度史の研究 参照)ようであり、
           有力在庁官人・神社等の有力者層でしか開発出来えぬ事柄でありましたでしょうと。

            また、「新規の開発地でない、再開発地については、その当時”保”と呼称されていたのではないか。」(前述書 参
           照)と。

            前回私が、記述した事柄について再度記述し直そうと思い至りました。

         2.鎌倉末期頃の春日部郡林・阿賀良村について
            鎌倉時代末期、元享2(1322)年6月27日付 春日部郡林・阿賀良村(現 小牧市大字池ノ内か、その近くの地域
           でしょう。・・・筆者注)の名主等 浄円ら6名が、花押を据えた1通の請文を、鎌倉 円覚寺宛に出したようです。宛名
           は、明記されていませんが、内容から推察するに円覚寺宛であることは、明らかであります。この請文は、円覚寺文
           書として残されていた。

                        その内容は、「 当村は、春日部郡司 範俊開発の内たる条異議なく候、但し、彼の跡篠木・野口野田以下は、関東
           御領として円覚寺御管領候といえとも、当村においては別相伝の地として、宴源・浄円等面々累代相承し、今に相異な
           く候」と記述されている。

                        林・阿賀良村名主等連署状は、蒙古襲来からほぼ40年位経た後の頃の元享2(1322)年6月27日付 春日部郡
                      林・阿賀良村名主等連署状及び尾張国林・阿賀良両村名寄帳であり、鎌倉市史 資料編(吉川弘文館発行)に記載
                      されております。
            その連署状に署名している6名を列記すれば、沙弥浄円・源 助良・沙弥心蓮・僧 宴源・橘 盛保・僧 盛尊であり
                      ます。

            明らかに、二人は、僧であり、二人は、沙弥と名乗る人物であり、この沙弥は、網野善彦著「日本中世の百姓と
           職能民」 P、214に、「浮浪する沙弥や尼」という言い方で出てくる沙弥と同じでありましょうか。この記述の基は、
           『日本霊異記』であるようです。また、「浮浪する沙弥や尼」というように、尼僧と対になっているようであり、沙弥は、
           男僧と思って間違いはなさそうでありましょう。

            沙弥(しゃみ)なる言葉の解説としては、「本来は,20歳未満で出家し,度牒(どちよう)をうけ,十戒を受け,僧に
                      従って雑用をつとめながら修行し,具足戒をうけて正式の僧侶になる以前の人をさす。」とか。広義の意味合いから
                      すれば、修行中の僧であり、正式な僧ではないようですが・・・。

                          『日本霊異記』には、度々、自度僧(公の許可を受けないで勝手に自ら僧と名乗る私度僧とも言われていたとか。)
           として、沙弥 某と名乗り登場しております。

            とすれば、上記の6名中4名は、明らかに寺関係者でありましょう。寺に関わる署名者は、沙弥浄円・沙弥心蓮・僧
           宴源・僧 盛尊の4名となりましょう。この中の沙弥浄円は、良峯家系図(丹羽郡郡司家)に出てくる僧 浄円と同一
           人物ではないかと推測できるのでは・・・。系図からも、時代の辻褄はあうようです。

            関わった寺としては、長源寺・観音堂(観音寺とも言う。)・二宮神宮寺(入谷氏によれば、現 犬山市の真長寺と             
           小西寺であるという。)の4つの寺でしょうか。上記の4名は、寺に関わる方々であるとすれば、どの方が、どのお
           寺関係者かは、不明ではありますが・・・。しかしであります、江戸時代初期頃に書かれた犬山の地誌「正事記」には、
           大縣社(二宮)の神宮寺は、昔6坊とか。寛永期には、神宮寺の5坊は、廃寺化していたようです。

                       * 参考までに、犬山市史 通史 上 P.196には、『楽田村史』の記述として、「大縣社の神宮寺跡と称する所から
            瓦塔・筒瓦の出土あり、(中略) 平安時代末頃の物とみゆ、正事記に昔六坊、今は真長寺一坊有りと記せば既に
            寛永時代廃寺となれるか、これ等は大縣神社、東方の山腹にあり」と。入谷氏は、何により、大縣社の神宮寺を二寺
            とされたのであろうか。
                          正事記なる書物を、私は閲覧しておりませんが、大縣社の神宮寺は、昔6坊ありと記述されていたとすれば、将に
            署名された鎌倉時代末期、元享2(1322)年6月27日付 春日部郡林・阿賀良村(現 小牧市大字池ノ内か、その近
            くの地域でしょう。・・・筆者注)の名主等 浄円ら6名が、花押を据えた1通の請文を、鎌倉 円覚寺宛に出した。その
            請文の6名が、大縣社神宮寺に関わる者に相当する可能性が高いのではないかと推測致しますが、どうであろうか。*

            この源 助良・橘 盛保の二人は、どのような存在と理解すればいいのであろうか。所で、一宮市史 補遺2 良峰家
           系図からは、「康治2(1143)年の安食荘の検注状に記載された橘 朝臣なる人物は、11世紀末〜12世紀初頭の丹
           羽郡の橘 恒遠カ、その一族の末裔の可能性が高い。
            康治2(1143)年の橘 朝臣なる人物は、1143年より前の巳年に、自らの郡司領を二宮へ寄進しているようであり
           ます。
            これ以後 良峯家とは、姓が違う立木田高重の父である高義が、丹羽郡司となり、高春は、二宮宮司になっている。

            とすれば、康治2(1143)年当時の橘 朝臣は、丹羽郡司 高義の子 橘 高重の可能性が高いように思われる。が、
           系図上では、高重は、鎌倉時代 承久年間前後頃の人物のように記述されており、疑問符が付く。尚、成海大夫系の橘 
           盛房は、この一代で絶えているかのようです。
            この橘 朝臣は、丹羽郡の橘 恒遠カその一族の末裔の可能性が高く、仮に康治2(1143)年の安食荘の検注状に散
           見される巳年(この年に、庄内川が流下している安食荘では、大洪水が起こり、田が川成りになったり、田が荒地になって
           いる。)なる年。
            その年に該当するのは、直近では、保延3(1137)年 或いは、天治2(1125)年か永久元(1113)年 もう少
           し古い年では、康和3(1101)年であろうか。きしくも巳年に寄進が行われたようであります。
            もし、康和3(1101)年であれば、橘恒遠{寛治2(1088)年〜長治元(1104)年 郡務 18年}に一致します。
            検注状に記載された橘 朝臣なる人物は、春日部郡司カであろうし、この当時大縣社は、丹羽郡を含めこの辺りの在地の
           祈祷所でもあったのでしょう。」(拙稿 平安中・末期以降の丹羽郡 良峯家々系図を通して を参照されたい。)
              
            *もしかすると成海大夫系の橘 盛房は、この一代で絶えているかのようです。が、あくまで鎌倉末期から南北朝初期頃
           に大縣社領の領有の正当性を述べんが為に作製された家系図でありますから、かかわりの無い家系は、省略されている
           可能性もありましょうか。元享2(1322)年の橘 盛保は、その末裔の可能性はないだろうかと類推いたしますが、どうで
           あろうか。*  大胆な推測でしかありえませんが・・・・・。

                        そして、残る源 助良でありますが、源姓は、良峯家とは、関わりがなかったのでは・・。とすれば、源氏は、平安末期
           頃熱田社とは、関わりが深く。頼朝幼少期頃は、美濃国片方郡を本拠地にしていた清和源氏系の源氏系統の者とその
           当時熱田社は、関わっていた。その源重遠一族の末裔ではなかろうか。
            この一族は、頼朝と同じ源氏ではありますが、上皇側に寄り添う傾向が強く、頼朝からは、信頼されていなかったようで
           あります。承久の乱では、鎌倉幕府方には、立たず上皇側であったようです。その当時の熱田社一族 千秋氏も上皇側
           に加担したとして地頭職を改易されたのでしょう。

            源助良は、その美濃系の源氏の一族ではなかろうか。鎌倉末期に名を残した人物の可能性が高い。
            新修名古屋市史 第2巻 P。79には、「美濃国方県郡周辺から南下した源重遠の子孫は、尾張東北部の丘陵地帯、
           山田郡あたりに本拠をおき、更に鎌倉初期に至って三河国足助方面まで勢力をは植していった。」と。

                       * 多治見市史 通史には、清和源氏系統についての記述があり、源氏本流は、源頼光系であり、頼光系は、その後、本
            流と傍系に分岐し、更に、源頼光の弟系(源頼朝・義家系)でも分化したようです。本来の源氏本流は、室町期三国守護
            となっていく土岐家であり、鎌倉幕府を開いたのは、頼光の弟系であり、傍系であった。

             上記、美濃国方県郡を本拠とした源氏は、源頼光の一世代前に分岐した源氏であり、満仲(頼光の父)の弟 満政
            系の者達であるようです。しかし、蜂屋・原は、もしかすると源氏本流の源頼光の孫 頼綱の三男 国直系の子孫の
            可能性は有りやなしやカ。*

            話を戻します。
            この春日部郡司 範俊なる人物は、拙稿 春日部郡 郡司 範俊なる人物についての覚書 からすれば、熱田大宮司
           藤原氏の一族 千秋憲朝の子であるとすれば、父は、建久8(1197)年海東郡地頭職を得た人物となりましょうか。

            この林・阿賀良村両村は、遅くとも平安末期頃(具体的には、康治〜天養年間頃)、既に神領として位置づけられていた
           のではないかと推測します。いわゆる熱田社領として・・・。
            上村氏もまた、「この林・阿賀良村両村の開発主は、熱田大宮司家であろう。」(尾張の荘園・国衙領と熱田社 P.378
           参照。)と推測されているようです。私も同感であります。

            ところで、律令制に伴う郡郷は、春日部郡・山田郡の堺は、どのようであったのか。歴史学上では、未解決の部分もあり、
           確定はしておりませんが、鎌倉末期頃の林・阿賀良村の東隣に野口があり、鎌倉末期以降に「野口保」なる名称で登場し
           てきておりますその野口でありましょう。網野氏の言われる「新規の開発地でない、再開発地については、その当時”保”と
           呼称されていたのではないか。」なる「保」であります。

           * 参考までに,この野口保の国衙領主で、判明している事は、『柳原資明{やなぎわら すけあきら、永仁5年(1297年)〜
            文和2年/正平8年7月27日(1353年8月26日)の人}で、鎌倉時代後期から室町時代前期にかけての公卿で、専ら持明
            院統の天皇・上皇に仕え、鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇の建武の新政によって昇進人事を無効とされると、これに激し
            く反発した。
             足利尊氏によって光明天皇が擁立され光厳上皇の院政が開始されると、改めて権中納言に任じられて、以後北朝の
            有能な実務官僚として活躍した。』(以上は、ウイキペデイア 柳原資明からの抜粋であります。最終更新 2011年4月5日
            (火) 12:01 )という。
             そして、この国衙領は、鎌倉期以降も存続し続けていた事は、鎌倉 円覚寺文書等で確認できます。

                          さて、柳原資明の系譜については、拙稿 建武の新政時 野口・石丸保の国衙領主 柳原資明の系譜 を参照された
            い。

             この野口・石丸両郷は、下地は、円覚寺が差配していたようですが、国衙領主の存在があり、職分として、なにがしか
            の上納を円覚寺は、論争の末 和議に至っております。
             拙稿 尾張国 富田荘・篠木荘地頭請 円覚寺の年貢米移送と篠木荘内国衙領との和与について を参照されたい。

             当初の国衙領主が、誰であったのかは不明でありますが、その後、柳原資明から彼の実弟賢俊が座主をつとめる醍醐
            寺三宝院(国衙領主)に請け継がれたようであります。
              「文和2(1353)年7月には、円覚寺から野口村分として、5貫文、石丸保分として、20貫文が、正税として三宝院
             へ納められていた。」(小牧市史 通史 P.101 参照)ようであります。
                            単純に考えて、野口も石丸も土地の質が同じであれば、その広さは、石丸は、野口の4倍位であった可能性がありま
             しょうか。この推測でいけば、大草は、野口よりは、広さがかなり広いかと。むしろ、4倍に相当するのは、近い所では、
             池之内辺りの方が、妥当性がありそうでしょうか。しかし、この池之内は、平安期、篠木庄ではなく、味岡庄に属していた
             のではなかろうか。とすれば、やはり、石丸保は、大草の可能性が大でありましょう。*

            野口・大山の山々には、かの大山寺(12世紀初頭〜40年間が最盛期)・白山社が存在していた。この白山社は、張州雑
           志或いは尾張府志では、「白山社の前身は、従三位 小口天神」とか。天野氏の「本国神名帳集説」には、この”小口天神”は、
           篠城ノ庄 野口村八幡ノ社か。と記載され、山田郡域と想定されていた。

            とすれば、野口辺りが、山田郡の堺であり、その隣の林・池之内辺りが、春日部郡域の堺であったのであろうか。林・阿賀
           良村は、春日部郡域の端であり、山田郡と接していたのかも知れない。

           ア、阿賀良村について
             鎌倉市史 資料編 2(吉川弘文館)のなかに、元享年間の春日部郡 林・阿賀良村の名主等の請書・名寄帳が存在す
            る事は、周知の事柄でありましょう。

             その名寄帳の阿賀良村分には、この白山社に関わる事が記述されている。その一部を抜粋したのが、下記であります。                      
             元享2(1322)年と言えば、12年後には、建武の新政で、鎌倉幕府が倒される頃でありましょうか。鎌倉末期の頃の阿
            賀良村では、土地への既得権益が、移動しているようで、この地の在地構造の一端を垣間見る事ができます。
     
                 ・ 除地分   不作田・・・・・・・・・・・・4反半20歩
                          池之内押領田・・・・・・1反90歩  ( 池之内が、押領した分なのでしょうか。或いは、その逆か)
                          例損田・・・・・・・・・・・・8反70歩
                          三明神供御田・・・・・・5反
                          白山供御田・・・・・・・・3反 (平安末・鎌倉初期には、白山社は存在していた事になりましょう。)
                          観音寺田・・・・・・・・・・1反 ( この田は、もしかすると現 大泉寺の近くで江戸時代の絵図に
                                            観音堂なる名で出てくる田ではないかと・・。観音堂仏供田とも記                                
                          長源寺修理田・・・・・・2反   述されている田でありましょう。)
                          長源寺田・・・・・・・・・・1反
                          里使免・・・・・・・・・・・・1反 

              大胆な推測が許されるのであれば、江戸時代天保12年丑6月の池之内村絵図(小牧市史 資料編2 近世村絵図編
             P.108・109 参照)内に、蓮池・出池(うで池と古老等は言われている)からの用水路(実は、大山川に流れ込んでい
             る 新蔵川)沿い 観音堂 なる地名入りの地が田域の端に白地で記入されている。
              また、現 大泉寺は、天保の絵図では、陣配池より蓮池に近い場所のように記載されているようですが、現在は、陣配池
             に近い所に存在している。現在も天保期も観音堂は、絵図の位置に建立しており、この観音堂が、元享2(1322)年の観
             音堂であれば、阿賀良村は、現 大泉寺域から東寄り林村に接していた地域であるかも知れない。阿賀良村は、いつしか
             池之内村に吸収されたと推測します。
              元享2年頃には、大泉寺は、存在せず、観音堂(寺カ)のみであり、初発の大泉寺創建は、天正7(1579)年と記されてい
             る。(前掲書 P.110 参照)八幡宮の創建は、いつ頃かは不明。

              春日井市史 通史・上村氏の「二宮大県社考ー尾張における一・二宮制ー」(尾張の荘園・国衙領と熱田社 岩田書院
             2112年版 参照)においても、この阿賀良村は、林より先行して開発された地域であるという認識がされている。

                 ・ 阿賀良村田代坪々 (初発カ)         元享2年頃までの移動分              元享2年当時
                   ・元松   4反60歩小ー>内 2反60歩 平七二郎へ                   ・元松 2反小 ・平七二郎 2反60歩
                   ・弥藤太  1反30歩   ー>□□郎へ ( 同じ人か 藤太  2反90歩 ー>西住へ)  ・□□郎1反30歩
                   ・新三郎  9反300歩  ー>内 2反 七郎へ 7反300歩 辰太郎へ           ・七郎2反   ・辰太郎 7反300歩
                   ・重永   5反     ー>内 三明神供御田 2反 白山供御田 3反 共に小三郎へ ・小三郎 6反(130歩カ)
                   ・友松則重1反半と300歩ー>内 1反半 藤二郎へ                     ・友松則重300歩 ・藤二郎 1反半
                   ・惣三郎  3反60歩 ー>内 1反半 稲吉へ 2反分は、長源寺修理田 惣三郎分   ・惣三郎2反   ・稲吉 1反半
                   ・重弘   1反     −> 1反 観音堂仏供田 小三郎へ
                   ・延近   1反60歩                                        ・延近   1反60歩
                   ・安遠   1反300歩                                       ・安遠   1反300歩
                   ・清太   半十歩                                          ・清太   半十歩
                    ・小三郎  130歩                                     
                                      ・千カ    4反90歩 内 1反 長源寺田                              ・千カ    4反90歩 内 1反
                   ・観音丸  1反60歩                                         ・観音丸  1反60歩      
                   ・地主免  5反60歩 {内訳 与一左近(林村の余一左近カ) 3反 平二郎(林村の平次郎カ) 2反    〃
                                 西枕 新田 60歩}
                   ・里使免  1反60歩  ( 何となく国衙の郡の下の里であろうか。里司カ(下級役人)への給付免田であろ 〃
                                 うか。)
                    ・池内押領  1反90歩(内訳 大、小、60歩の三ヶ所)                                〃
                   ・三明神供御田 3反                                                  〃

                   *  阿賀良村では、初発は、13人でしょうか。重永・重弘・千カ・惣三郎の4人は、かっての田堵層と推測でき、免田を
                    付与され、村の農業経営・村落秩序の中核となる安定的勢力たらしめる配慮であろうか。

                                         気になるのは、観音丸という「童名」。網野氏の「中世の非人と遊女」なる著書の第1部 中世の「非人」
                   第3章 中世の「非人」をめぐる二三の問題 の中で、「犬神人と非人が重なり合う集団であるとも確認され
                   た。」(中世京都における寺院と民衆 日本史研究 235号 1982年 参照)ようで、更にP.88では、「犬
                   神人・非人が王朝国家の職能民に対する支配制度としての神人・供御人制度の下に組織され、京都・奈良・
                   鎌倉の寺院はじめ諸国の一宮・国分寺等に属するとともに、京都では検非違使(諸国では、恐らく国衙)の
                   統轄を受けていた事は、紛れも無い事実として確認しておく必要がある。」と述べられていた。

                    そして、P.89〜91において、「非人」或いは「清目丸」と呼ばれる「放免(処刑執行人)」は、「使庁下部」
                   とも言われ、鎌倉期には、左右の囚守の地位を与えられ、検非違使に統轄されていたと思われ、注目すべ
                   きは、こうした「放免」、「囚守」達が、その執行の地位にある場合には、何某丸と言うように、全て「童名」
                   とも言うべき「丸」を付した名を正式に名のっている事であり、長元8(1035)年5月2日 秦吉子解(九条
                   家本延喜式巻39裏文書 参照)にも、記述されているようで、平安後期までこうした非人の一部には、「
                   童名」である「丸」が付されていた事が確認できるという。

                   「観音丸」を上記のように理解すれば、国衙に統轄された放免であった可能性が高い。

                              以上の観音丸・里使免等よりかなり早い時期に開発された地域であろうと推測されたのでしょう。かっては、熱田社
              領(荘園)の未開地であった可能性が高く、開発されて一旦国衙領に編入後、神領とされた可能性を推測する。

               この地域の開発は、時期がはっきりとはしませんが、当地域の寺院・神社が成り立つよう熱田大宮司家が関わっ
              たこの国衙領域の村(11世紀後半頃カ)を丸ごと神社領として私領化した可能性が高いのではないかと・・・。

             * <参考>
                    974   975〜   985〜988 989    993・1001・1009 1008    1012    1016                                        
              国司   藤原連貞藤原永頼 藤原元命藤原文信   大江匡ひら  藤原中清 藤原知光 橘経国       
              1040〜1043
              橘 俊綱(藤原頼通の次男)

              上記 国司の橘 俊綱は、{『宇治拾遺物語』には、昔尾張国の俊綱(すんごう)と言う僧侶であった時、熱田神宮の大
             宮司に侮辱を受けたが、のちに関白の息子として生まれ変わり尾張守となって、今度は熱田神宮の大宮司にかつての
             雪辱をしたとの説話がある。}人物でありましょう。この説話では、この当時、熱田大宮司は、国司をも凌ぐ勢いがあった
             かのような記述であります。
               新修名古屋市史 第2巻 P.714〜718に、「安食荘の事柄で、天喜元(1053)年以後 一旦安食荘は、公領と
              された時期があり、11世紀後半から始まる公領時代に、在庁官人や在地領主らが、未開地の開墾を請負い中央の有
              力者や国衙と関わりのある有力神社に寄進した事によって散所所領が成立したとみてよいであろう。」とも記述されて
              いることから、熱田社の領有は、左程古い時代からではなく、11世紀末以降に集中したのではなかろうか。*

                              その例証としては、春日部郡域の荘園 安食荘の検注状{康治2(1143)年}をあげる事ができましょう。その記 
              述内には、下記 付記にも記述しましたが、「この荘園は、巳年か、前に大規模な災害が起こった事を示唆しており、
              康治2(1143)年以前の事柄であり、該当しそうな年は、直近では、保延3(1137)年 或いは、天治2(1125)年
              か永久元(1113)年 もう少し古い年では、康和3(1101)年であろうか。きしくも巳年に寄進が行われたようであり
              ます。」
               また、寺への修理田は、その当時、1町歩単位での寄進であったようです。推測ではありますが、この大災害は、台
              風による大風・大雨によるものか。或いは、永長元(1096)年に起こった東南海・東海地震・南海?地震という地震三
              連動?に関わった事柄であるかも知れない。
                          
                             とすれば、尾張国が、平氏の知行国となった頃 保元(1156年)・平治の乱(1159年)以前の出来事ではありまし
              ょう。

               そして、林地域の有力な三名は、尾張氏が郡司の頃開発を請け負い、地域の田堵層であった可能性が高いのでは・・。
              田堵層は、氏神として三明社及び長源寺・白山社と観音寺(堂カ)を崇めていたとすれば、その当時尾張国内で国司より
              力があった尾張氏一族の郡司により地域神名での神領化乃至寺領化が図られた可能性がありはしまいか。
               「11世紀以降、司祭者と結託した国司(目代が代行)の裁量による国領の寄進」(尾張三宮熱田社領の形成と構造
              P.316 参照)化が考えられるという。保元の乱(1156年)・平治の乱(1159年)以前の事柄ではなかっただろうか。
               
               肥前国 一宮修理料田の初発は、12世紀初頭。仏事料田は、12世紀以前から行われている事は、上村氏の前掲書
              P.322 肥前一宮河上社領 免田の寄進年代別田数 表6から知られる事であります。

               その一人、余一左近名 − 4町歩の広さであり、内 長源寺修理田 1町、二宮神宮寺仏供田 1反小の除地を付与
              されたようです。平安末期の田堵層とすれば、郡司と田堵は、尾張国では、長く共同戦線を張った間柄ではあった筈。
               この名(みょう)の関係者は、寺院に関わる除田を有し、阿賀良村の開発地主でもあったようです。仏事料田は、12世
              紀以前には宛がわれていた可能性があるようです。長源寺が、その当時どの宗派に属していたかは不明ですが、12世
              紀初頭(1113〜1117年)には、延暦寺と対等の大山寺が、あり、延暦寺派に属した大山寺の末寺とも推測できましょ
              うか。「大山寺は、鳥羽法皇の寵愛を受けていた美福門院の子 近衛天皇在位時、延暦寺の襲撃を受け、仁平2(1152
              )年3月15日消失す。」(大山寺縁起 参照)と。
               その後、近衛天皇の勅命で、消失した大山寺の一角に「稚児神社」が、創建されている。

               延暦寺と大山寺は、同じ宗派で、東の延暦寺、西の大山寺と称されたようで、近衛天皇の問いに対し、両寺は、抜き差
              し出来ない法論が起こり、延暦寺の襲撃となったと。田堵層は、大山寺の門徒であった可能性もありましょうか。とすれば、
              永久元年の風水害により長源寺が何らかの被害にあい、その修理を名目に、田堵層を通し、当時の春日部郡司の仲立
              ちで、林村の公田が、寺社免田化された事は、想像に難くないでありましょう。その当時の郡司は、尾張氏から橘氏へと
              様変わりしていた可能性が高いと推測する。

               もう一人の次郎太郎名 − 2町7反60歩の広さであり、内 三明神修理田 1町の除地を付与されている。この免田
              化も、上記長源寺と同様の寄進であろうか。
               この名(みょう)の者は、神社に関わる除田を有している。12世紀初頭頃の事柄でありましょう。
               神社の維持は、国司の専権事項。神戸制が崩壊後(具体的には、10世紀以後)、神社の維持は、地方では、国司に任
              せられていったようですから。

               不思議な事は、二宮領であるにも関わらず、地域の長源寺・三明神の免田は広く、二宮の免田は、その10分の1程度。
              この両村の免田に対する微妙な違いは、何を言いえているのであろうか。

               更に、林村の平次郎名   − 7反歩の広さであり、内 長源寺坊地 1反、三明神供御田 2反、二宮神宮寺仏供
              田 1反の除地を付与されている存在、しかも、阿賀良村の地主免に関係して、地主免  5反60歩 {内訳 与一左近(
              林村の余一左近カ) 3反 平二郎(林村の平次郎カ) 2反 西枕 新田 60歩}の記述。
               同一人物であれば、余一左近・平次郎・次郎太郎は、独立した灌漑水系を有する者であり、また緊密な在地有力者であ
              ろうと推測いたします。

               三明社・白山社は、一宮・二宮・熱田社と違い、国衙の関わりは薄いとはいえ、尾張氏一族の郡司は、熱田社の宮司
              一族でもあり、司祭者としての一面もあり、国司の裁可は、得られやすい立場ではあった筈。

               そして、林村の長源寺が、三明社の神宮寺と仮定すれば、何やら小型版の熱田社の神領形成に似ていると言えましょう。
               林村の有力者は、別々の独立した有力者で有ると共に、三人で、協力し合う三位一体の在地有力者となりましょうか。最
              初に開発されたのが、阿賀良村(地主免の二人カ)と推測でき、その後、林村が、開発されていったのでは・・・。
               もしかすると、この阿賀良村の一部の地主免は、私領化後、新たに開発した所であったともとれそうではありますが・・。

               尾張国が、平氏知行国となって以降、丹羽郡司として権勢を振るえるようになった良峯氏が、広範囲に私領を広げた
              事は、各種の史料で確認できます。

                              丹羽郡郡司として、初発は、丹羽郡域に於いて勢力を拡大していた。藤原摂関政治の最高潮時、藤原氏の創建した寺
              へ、丹羽郡域の地所を寄進し、繋がりを持とうとしていた事が初発かと(11世紀末頃カ)。その後、天皇や院との繋がりを
              強めていた事は、自身の私領をそれぞれ寄進し、在地での権益を確保していたようですから。

               良峯氏系図は、『続群書類従』にも存在しますが、犬山市史 史料編三 考古・古代・中世 P、735〜755にも同じ系
              図が記載されております。参照されたい。

                また、一宮市史 資料編にも、良峯氏家系図が記載されています。網野善彦氏によれば、氏の記述された「中世土地
               所有制度史の研究」には、この良峯氏は、次のように豪語していたと言う記載もされてみえました。
                部分的に場所が特定出来えない箇所もありますが、「北は鳥倉山、南は河口河(庄内川カ)に至る東条(篠木荘・安食
               荘の部分カ)、西条の地には、我が一族以外の所領なし。」とまでのたまわっているとか。天養(1144年)年間以前の
               領有を自ら述べているのでありましょうか。いささか誇張気味ではありますが・・・。11世紀末〜12世紀中頃の出来事
               ではありましょう。

                天養年間以前から、既に尾張国は、庄内川以北においては、丹羽郡司家が、権勢を振るうようになっていたのであり
               ましょうか。それ以前では、明らかに熱田社に関わる尾張氏が、庄内川以北に於いても権勢を振るっていた事は、事実
               でありましょうから。以後庄内川以南の地では、尾張氏一族が、源氏と組み、権勢を振るえていたのであろう。
                保元・平治の乱以降が、尾張氏等の衰退期でありましょう。

                               * 実際康治2〔1143〕年の安食荘検注状には、熱田社の私領として田・畠地と未開発地が多く記載されていた。大縣社
               の私領とは、比較出来ない程の広さでありました。12世紀以前の領有であり、或いは11世紀の頃でありましょうか。(下記
               付記参照)*

                林の古老は、三明社は、二宮の別宮と把握されていたとか。本来二宮なれば、二宮の神が分祀されるのではなかろう
               か。お隣の多治見市 当時美濃国にも、大縣神社を氏神とする者が移住し、分祀している事は、多治見市史に記述され
               ている。そうした点では、三明社には、大縣社に関わる合祀はみられない。両村への二宮領の住人の移動はなかったの
               でありましょう。
               
                故に、林・阿賀良村については、尾張氏の頃の開発請け負い後、再度良峯氏の代に領有を巡って何らかの和議が成り
               立ち、二宮領化したのではないかと推測するのですが・・・。鎌倉末期頃地頭 円覚寺に対した時と同じように。それが、
               下記の阿賀良村の貢納分となった可能性はないのであろうか。
                仮説の域を出ない論述ではありますが、免田名・里使免・観音丸名等々からの推測であります。
                二段階寄進を推測するのであります。それが、元亨2(1322)年の請書に「当村は、春日部郡司 範俊開発内」なる文
               言の真意ではなかっただろうか。

                下記 付記にも記述いたしておりますが、康治2(1143)年以前の巳年(いつであるかは確定出来ませんが、おそらく、
               直近の年は、保延3(1134)年(康治2年より9年前)カ、天治2(1125)年(康治2年より18年前)カ、永久元(1113)年
               (康治2年より30年前)カの頃に庄内川・矢田川が合流している地域(安食荘内)では、河川変更を起こす大災害が発生し、
               1〜2ヶ里全域が荒廃し、また耕地であった箇所が、川成りになったと推測出来る記述が散見される。
                既に、12世紀中頃には、二宮領なる記述もあり、中には、巳年に、確定したという記述も散見された。12世紀初頭の頃
               の事でありましょうか。

                在地の如意寺(安食荘内の在地の寺)領の存在も知られ、その前身は、国領(国衙領)であり、田堵と推測出来る利国な
               る人物の名前も検注状に記載されている。とすれば、この寄進は、巳年より以前であった可能性が高い。或いは11世紀の
               事柄であるかもしれない。

           イ、阿賀良村 定田(公田)貢納分
                    二宮神宮寺へ   二宮神用米  米 3石7斗1升1合( 1反当り 1斗6升弱の賦課率でありましょう。) 田粗カ
                                二宮進物   生栗 1斗                                    雑公事カ
                                  〃      炭   16瓶 (春 8瓶 秋 8瓶)                     雑公事カ                                                                            
                    領家へ        領家進物   米 7斗7升5合  ( この領家とは、鎌倉末期では、藤原伊通の末裔でありま
                                                     しょう九条家。康治3年=天養元(1144)年以前は、鳥羽
                                                     上皇領であり、天養元年から藤原伊通が領有。・・筆者注)          
                 ・ <地主免分       円覚寺年貢として  650文を出していた。>

                   両村名寄帳の最終の部分には、不作分・池内押領分・例損分を除いて残り田 14町4反80歩と記載ていました。
                   更に、除地分として 寺々免 2町5反小 坊地 2反 神田 2町分とも記載されてもいます。この除地分は、林・阿賀
                  良両村を合算した数値でありましょう。
                   林村には、存在しないが、阿賀良村には、二宮へ 生栗・炭が納められており、領家分の進物もあり、より開発が古い
                  時期の地域であるかのような貢納分でありましょうか。また大縣社領として阿賀良村は、領有され、林村は、二宮領と
                  して領有されたのであろうか。それ故領家分は、発生しなかったのか。康治年間の安食荘園の検注状にも、大縣領と二
                  宮領は、区別されて記述されている点、同一神社でありながら検注者には、区別すべき事柄が何かしら存在していたと
                  取れそうであります。

                   この鎌倉末期の林・阿賀良村名寄帳には、田に関する記述はありますが、畠地については、記載されていないようで
                  あり、畠地が無かったのか、あったのであるが、記載されていないと理解した方がいいのであろうか。不明であります。
                   当地を平成の世に散策すると、家々の周りには、畠地或いは栗の木・桃の木等々の土地があり、家々も、江戸時代の
                  頃の絵地図の辺りと同じ様な所に散在しているようであります。
            
                   もしかすると、鎌倉末期頃の尾張国林・阿賀良村では、畠地からは、課役は、収取されていなかったのではないかとも
                  推測できそうであります。事実、鎌倉幕府法では、麦作には、課役がかからない事は、拙稿にも記述しております。
                   大山寺・円福寺の地頭 円覚寺に対する苅田狼藉事件の一考察 を参照されたい。

                   阿賀良村には、領家への進物が存在し、林村には、存在していない事も、開発年が違うのでしょう。江戸期の村絵図
                  をみれば、旧 阿賀良村は、江戸期以前に池之内村に取り込まれた可能性が高いように思える。江戸期の絵図では、
                  林村は、北側で、西方向に伸び、池之内村に接しているからであります。 

                                      阿賀良村と林村の開発年が違う事は、多くの諸氏が述べてみえます。領家への進物が、阿賀良村には、あり、隣村の
                  林村に存在していない事は、大縣社領化が、阿賀良村が早く行われ、林村は、二宮領として位置付けられた以後であっ
                  たからとも理解できましょう。二宮化以前は、丹羽郡内では、大縣社は、丹羽郡司からは、独立した存在であったのでは
                  なかろうか。まさに、春日部郡司(尾張氏一族カ)の意向で、神戸制が崩壊し、経済的に苦慮していた頃、律令制下の伝
                  統を維持した進物という形で、神領化された名残りを残す形での寄進がされたとも推測出来るのではなかろうか。

                   それ故に、阿賀良村には、領家への進物があり、この当時は、鳥羽院に相当し、康治3年或いは天養元年の鳥羽院庁
                  下文が初見でありますが、大縣社領は、その後、九条家の祖 藤原伊通に、鳥羽院の寺院建立地と交換という形で、伊
                  通に大縣社領が宛がわれた事。領家職相当分であったのでありましょう。               
                  
                   <史料も無い事ゆえ、大胆過ぎるのかも知れませんが、長源寺は、もしかすると、応仁の乱前でありましょう山津波?
                  (応仁以前に1回。長源寺は、崩壊。しばらく間があいてからその地に祥雲寺が建立カ・・筆者注)(それ以後、祥雲寺は、
                  低地から高台に移転している事・・前祥雲寺住職談)大災害を経験した当時の三明社の西より低地に存在した祥雲寺の
                  所に存在したお寺ではないかとさえ思える。
                   また、名寄帳には、低地にあったとされる長源寺には、税が課せられており、かっては田地であったとみえます。鎌倉
                  末期頃の長源寺も再建された寺とも推測できましょう。<旧来の租税の固定化が続行されて存続していたかのようであ
                  ります。円覚寺は、その再建された長源寺地には、税を課していない事。・・筆者注> 

            ウ、林村 定田分から貢納される物
                   二宮神宮寺へ  二宮二季彼岸米    米 8石1斗2合( 名寄帳に記載された内訳分 全て彼岸米であった。)                           
                             二宮彼岸供僧(布施)  布 6端     ( 村で作り出した物か、購入物か。有力者が負担カ)
 
                   長源寺へ     長源寺修正餅料    米 5斗     (かっての田粗分に相当した物で、有力者負担カ。
                                                      それとも餅料と御祭料は、共同で負担したのであろう
                   三明神へ     二季御祭料       米 8斗4升    カ)
                                                                          
                   円覚寺へ     年貢            銭 9貫350文 ( 地頭職による職制の年貢分 )

                   *  林村には、阿賀良村のように白山社・観音堂に関わる除地は存在していないようです。

                  <その内訳>
                                      二宮彼岸米            円覚寺納入分    定田分      持ち田分
                   ・ 余一左近名  米 2石9斗2升1合               3貫727文     2町8反大       4町
                   ・ 次郎太郎名     2石4斗5升1合(1反当り1、32斗)   2貫361文     1町8反60歩     3町弱
                   ・ 平次郎名         5斗5升9合 (1反当り1、86斗)         390文         3反        7反
                   ・ 次郎三郎名       3斗9升                    607文         4反大       7反小
                   ・ 弥次郎名         2斗2升3合                  302文                  2反小              5反
                   ・ 稲吉名          6斗3升   (1反当り1、05斗)     780文        6反        6反        
                   ・ 池上名          2斗1升9合 (1反当り0、73斗)     390文        3反        3反
                                      ・ 余一名          2斗  8合 (1反当り1、04斗)      260文                2反        3反小
                   ・ 源太郎名         2斗8升                     347文        2反大       2反大
                                      ・ 又三郎名         なし                       なし                     なし                 1反小
                   ・ 又四郎名         1斗1升2合                  172文                 1反小      1反小
                   ・ 石熊名             2升6合(1反当り0、52斗)        65文                  半        半
                   ・ 長源寺坊地          8升3合                  なし          1反       1反
                          計 米   8石1斗   2合         計 銭 9貫401文 

                                林・阿賀良村からの二宮への米の名目は、神用米・彼岸米と名称に違いはあるようですが、1反当たりの賦課率は、一律
               ではないようで、村単位の平均賦課率では、それ程の差はないようですが、一人ひとりの賦課率は、2〜3倍の開きがある
               ようです。

                林では、長源寺坊地にも、二宮彼岸米がかかっている。修理田・寺地は、除地扱いであるのに。とすれば、鎌倉末期頃の
               長源寺は、かっては定田であった所を潰し、寺地にし、再建したのかも知れない。 不思議な扱いでありましょう。
                大縣社の二宮化は、上皇に大縣社領が寄進され、その後二宮という位置付けが天養元年以前の巳年{確定は出来ま
               せんが、おそらく、直近の年は、保延3(1134)年(康治2年より9年前)カ、天治2(1125)年(康治2年より18年前)カ、永
               久元(1113)年(康治2年より30年前)カ。最も遅ければ、康和3(1101)年(康治2年より42年前)カ}にはされていたの
               でありましょう。12世紀初頭或いは、11世紀末頃でありましょうか。

                永長元(1096)年には、東海・東南海・南海地震?が起こった年でもあります。東海地域では、各地で壊滅的な打撃を受けた
               事と推測します。当然、建物の倒壊等もあったと思われます。
                とすれば、大縣社の修復と称してこぞって寄進がされたのかも知れない。そのように考えれば、寄進された巳年とは、康和3
               (1101)年頃が最も妥当性があろうか。林村の二宮領化もその頃であったかも知れない。林村の開発領主は、熱田社に関わ
               る者とも申し述べている事から、その当時の尾張国では、国司より熱田大宮司に力があり、別格的な存在であったのであろう。
                摂関政治が終焉し、院政が開始され始めた頃に大縣社は、尾張国二宮として存在するようになったのであろう。

                                                                                                                                 平成27(2015)年5月7日 脱稿
                                                              平成27(2015)年6月9日 加筆
                                                              平成27(2015)年11月19日一部訂正
                                                              平成27(2015)年12月19日一部訂正・加筆
                                                                                                                                        平成29(2017)年7月27日     〃
                 付記
               康治2(1143)年 尾張国安食荘立券文(平安遺文 巻6 P.2106〜参照) 正式名称 「康治2年7月16日 尾張国 御
              庄四至内田畠検注状案」には、初頭に、醍醐寺領安食荘の田・畠の所有概況が提示されている。
                田 大縣宮領 4町 熱田宮領 51町5段3以下欠損 伊勢大神宮領 7段小 皇后宮領朝日庄 1町1以下欠損
                  定田 104町6段小(醍醐寺領カ)

                畠 128町6段小 内訳
                   大縣宮領 9町3段60歩 熱田宮領 49町大 伊勢大神宮領 3町8段半 皇后宮御領 欠損 左大将家領 6町5段大
                   中将家領 2町8段小   如意寺領  2段大 季貞私領    5段3歩  吉道私領   4町5段小 秋元私領 6段小
                   郡司領  1町7段300歩 国領   43町60歩

                荒野 434町2段60歩 内訳
                    熱田宮領 178町以下欠損 當郷庄領 250以下欠損

                原山 108町
                 以下 略
        
                醍醐寺三宝院が管轄している安食荘の総田面積中に占める割合は、67%。畠・荒野に占める割合は、皆無。但し桑の木1本
               に対して代糸 2朱カの貢納が三宝院へ義務付けられている荘園でありましょうか。

               更に細かい里内の所有状況をみると、寄進の状況を読み取る事が出来る。以下その記載例を掲示します。
               安食荘の条里復元図は、拙稿 尾張地域に於ける 初期律令制下の租庸調のその後の変遷について  内にあります。参照された
              い。

               ・ 18条 水分里 2坪町 畠 5段 熱田宮領 末貞進
                           3坪町 畠 2段 熱田宮領 末貞進
                          12坪町 畠 1段 熱田宮領 末貞進

               ・ 18条 迫田里 1坪町 畠 8段半 内 二宮領 1段小 郡司領 7段60歩
                          3坪町 畠 5段 内 二宮領 3段 郡司領 2段
                          9坪町 畠 6段半 内 二宮領 2段大 郡司領 4段
                         12坪町 畠 3段 巳二宮領
                         13坪町 畠 60歩 巳二宮領
                         15坪町 畠 8段 内 二宮領 5段 郡司領 3反
                         22坪町 畠 2段 内 二宮領 1段 郡司領 1段小

               ・ 18条 賀智里 18坪町 田巳 二宮修(カ)理田

               ・ 18条 石河里(カ) 6坪町 田巳 二宮修(カ)理田
                            31坪町 畠9段60歩内 国領 貞元 1反半 如意寺 国領 利国 2反大 
                                           熱田宮領 4反
                            32坪町 畠 大縣宮領 秋元進

               ・ 18条 馬屋里  8坪町 畠8段 熱田宮領 □永進
                          10坪町 畠巳 熱田宮領 恒貞進

               ・ 19条 美〃里 13坪町 畠巳 二宮領 郡司進
                          24坪町 畠6段 二宮領 郡司進
                          25坪町 畠3段 二宮領 郡司進
                          26坪町 畠6段大 熱田宮領 峯安進 6段 国領貞元 大 地子
                          36坪町 畠3反 二宮領 郡司進

               ・ 19条 鳩田里 17坪町 畠巳 熱田宮御領 光永進
                          23坪町 田巳 二宮修(カ)理田
                          26坪町 田巳 二宮修(カ)理田
                          30坪町 畠巳 二宮領 4反大 郡司私領 小
                          31坪町 畠巳 熱田宮領 7反 光永上

               ・ 19条 続榛里 6坪町 畠巳 熱田宮領 大 秋元進
                         20坪町 畠5段 大縣宮領 依方進

               ・ 20条 楊里 13坪町 畠1段大 二宮領 郡司進
                         24坪町 畠6段  二宮領 郡司進
                         27坪町 畠1段  二宮領 郡司進
                 
                 「進」・「上」を寄進を表しているであろうと捉えれば、寄進主は、当該荘園の存在する郡の郡司或いは田堵層で
                ありましょう。

                 また、大縣宮領とも二宮領とも記載される神領は、同一の神領でありましょうが、記載名をわざわざ違えて記述
                している点、記載者の何らかの意図を読み取る。 

                 そして、この荘園は、巳年に大規模な洪水が起こった事を示唆しており、康治2(1143)年以前の事柄であり、
                該当しそうな年は、直近では、保延3(1137)年 或いは、天治2(1125)年か永久元(1113)年 もう少し古い
                年では、康和3(1101)年であろうか。きしくも巳年に寄進が行われたようであります。 

                 参考までに、「永久年中(1113〜1117年)には、尾張国北東部(現 小牧市大山)には、延暦寺と双璧となす
                大山寺が、創建され、以後40年間繁栄した頃かと。
             
                 *  延暦寺と双璧となす大山寺が、創建されたのが、永久年中(1113〜1117年)であれば、大山寺の支援者(
                  勧請者)は、或いは尾張国東北部一帯の再開発者 橘氏一族ではなかったろうか。野口保なる再開発地の開
                  発者も同様に橘氏一族であった可能性もありましょうか。*

                 その頃、天空には、ハレー彗星(1145年4月18日カ)が出現し、世情は、騒然としていたと言う。

                                  某HP上では、控えめな記述ではありますが、比叡山座主の日々の記録を読破され、本山では、こうした天変地異
                に対する対策として「祈祷」を主に考え、天皇に言上されていたやに。それに対して、その当時、延暦寺と双璧をなす
                東の大山寺の住職は、「祈祷」ではなく、在地の建て直し、いわゆる池・橋・堤防強化策等の農業対策を優先すべしと
                いう実利的な事柄を述べ、本山と融和しづらい深刻な対立があったのではという図式を述べてみえます。

                 現代的な視点からみれば、こうした大山寺側の見解は、至極当然の考え方ではありましょうが、その当時の方々か
                らみれば、異端的な発想かと。相容れない見解の相違と受け取られていたのでありましょう。
                 あの東大寺創建に力を貸した行基は、各地を巡り、大山寺が考えたような事柄を実践され、在地民衆から絶大な支
                持をうけていたとか・・・。
                 (その結果が、同宗派内における抜き差しならぬ対立となり、大山寺焼き討ちへと進展した可能性は否定できないの
                では・・・。筆者注)
                 大山寺焼き討ち等をまとめました拙稿もありますので、一読されたい。
                 小牧市 東部丘陵地帯に存在していた 大山廃寺についての覚書

                 二宮修(カ)理田なる記載があり、併せて4町分。巳年にされたかのか、巳年に田となったのか不明でありますが、洪
                水にあったのが、巳年であったとも取れそうです。
                 公田たる田地は、国衙の支配を逃れるには、神社へ寄進する方が、手っ取り早く、確実であったのでありましょう。
                 さて、検注状に記載された巳年とは、いつでありましょうか。1143年より前である事は確かでありますが・・・。大縣
                社の二宮化は、康治2(1143)年より前であるかのようです。おそらく1143年以前の巳年ではなかろうか。

                 「最後に、如意寺(在地の寺でしょうか。)の畠 2反大の存在。国領であり、利国なる田堵カと思われる記載があり、国
                領のまま、利国が継続して利用する権利を有する畠であり、その畠内には、桑の木が8本分あり、代糸2分宛て醍醐寺
                三宝院に納めていたのでありましょう。畠地においては、地子を取っている記載もあった。畠地には、それ以外は、課役
                は一切なかったようであります。付け加えて置くと、畠地は、課税の面で田程国衙支配を受けず、雑用交易に関わる徴
                税という人頭税的な課役のみであったのでしょう。私領化は、早期から行われていたと思われます。寺に寄進すれば、
                国衙の課役免除の特典もあり、権利者にしてみれば、寺への進物等で済み、耕地は、自ら利用できる点で、田堵にとっ
                ては、有利な事柄が多かったからでありましょう。」 (こうした記述は、坂本賞三著「日本王朝国家体制論」 東京大学
                出版会 1972年版 に依拠しております。・・筆者注)

                 この如意寺の畠地は、検注状の冒頭に、如意寺領として記述されており、その前身は、国領であり、利国なる田堵カの
                強い権利を有する畠地であったかのようです。とすれば、在地の寺への寄進主は、この利国なる田堵百姓ではなかろう
                か。寄進は、11世紀以前であったでありましょうか。                                                             
                                  
                                                          平成27(2015)年6月4日   記載
                                                          平成27(2015)年11月29日 一部訂正・加筆