縄文時代の祭場であろうか「磐座(いわくら)」と呼ばれし巨石文化と東日流外三郡誌に書かれた歴史
1.はじめに
どうやら古事記、六国史以外にも、民間には、古代の事柄に関する記述があるようであり、最近は、そちら関係
の書籍に興味が移行しつつあります。
それと同時に、古の事柄を類推するには、式内社関係の神社の社伝とか、祭神を知り、そこに祀られている神
々の類型の分析をすることにより、この地域に根ざした氏族も推測できるのではという考えに至っております。
私の先祖の地にも、関ヶ原の戦い以前に、雨乞いの神さまである神社を勧請しているように人々と神社は、何か
しらの因縁があるやに感じるからであります。古代であれば在るほど、特定の氏族には、特定の神さまのような神
社が、そうした地に付随する可能性が高い筈でありましょう。そうした考え方に基づく分析により、既に発表されて
いる説があります。
2.既に竹内文書やら飛騨地域の神社の分析から導きだされた一考察の概略
「自然の山を改造して巨石(こうした石には、ペトログリフと呼ばれる難解な記号が書かれている場合もあると
いう。・・筆者注)を配置したもので、太陽崇拝の儀式に使われたものと考えられる。東日本にも多く、その近くに
縄文遺跡があることが多い。縄文人の祭祀ではないかと考えられる。飛騨高天原における「日抱の御魂鎮め」も
太陽信仰であるという。
< 愛知県の東谷山の山頂にも、本来この山の組成でない岩石である花崗岩の巨石があるようで、こうした巨
石文化も、気候変動やら生活環境の激変により巨石技術集団も減少したのか、消滅していったようであります。・
・・筆者注 >
饒速日尊(ニギハヤヒのミコト)が、活躍したころは弥生時代中期末に当たるが、この頃、東日本各地には弥生
遺跡は少なく、縄文人が数多く存在していた。饒速日尊が東海・関東地方を統一(本国神名帳集説には、尾張に
は、古くから物部氏人が多く、従って春日井、愛知両郡には、物部祠が多く祀られていたという指摘もあります。・
・筆者注)したが、統一した地方は海岸地帯であり、縄文遺跡はやや山寄りのことが多く、大阪湾岸沿いから入植
した物部一族(饒速日尊カ・・筆者注)は弥生遺跡を海岸寄りに作り、縄文人との上手な住み分けができたのであろ
う。弥生人と縄文人が争った形跡はほとんどなく、平和裏に混合していったものであろう。
縄文人としてみれば、入植者によって近くに弥生集落が造られた時、その弥生人の持つ先端技術を学びに周辺
の縄文集落から人々が集まってきたのであろう。物部一族にしても、入植地で農耕に都合がよい土地を見つけて
そこに農耕地を作るが、その土地は縄文人にとっては重要な土地ではなかった。そのために摩擦は起きなかった
と考えられる。
ところが、内陸地帯はそうはいかないであろう。縄文人は山の山頂の巨石を利用した太陽信仰を行っており、そ
の土地に弥生人が入ろうとすると、摩擦が起こる原因になったと思われる。そのために、信濃地方はかなり統一
に苦労することになったのであろう。この飛騨国も山岳地帯であり、農耕地帯は少なくなる。まして、縄文人が数多
くいたのではその統一は簡単にはいかなくなる。
飛騨高天原は伝承では日本最古の王朝と考えられている。飛騨には縄文人の作った国のようなものがあったと
判断できる。この縄文人たちは乗鞍岳をシンボルとして丹生川沿いに栄えていたが、気候変動により、その周辺
が住みにくくなり、位山周辺に移動してきたのであろう。二千年ほどに渡って、その状態が言い伝えられていたと
考えられる。縄文人たちの言い伝えが誇張され、竹内古文献・秀真伝(古史・古伝)にあるような物語となったと考
える。
現在でも飛騨地方は縄文人の血が多く継承されている地域である。現在まで縄文人が主流で生活しており、弥
生系の人々があまり入っていないと考えられる。これも、縄文系の国が既にできていたあかしであろう。他の東日
本地域は縄文人通し緩やかにつながっており、物々交換していたのであろう。国ができるというものではなく、王と
呼ばれる人もいなかったと考えられる。しかし、伝承から判断して飛騨国だけは王と呼ばれる人々(上方様)が存
在しており、祭祀を主として神通川流域で生活していたものであろう。」 という記述がありました。
( 詳しくは、 http://www.geocities.jp/mb1527/N3-09-4higasinihon.html を参照下さい。現在引用について
は、問い合わせ中です。)
上記引用文には、饒速日尊(ニギハヤヒのミコト)は、暗黙のうちに、物部氏とされているように読み取れました。
書記では、確かに饒速日尊(ニギハヤヒのミコト)は、物部氏の遠祖という記述ではあります。
また、別のHPでは、{饒速日命は北方系の「天降る始祖」と南方系の「船に乗って海の彼方から寄り来
る神」と言う、日本の古代信仰を特徴づける「海」の海神族と「天」の天孫族の習合神としている。}とい
う記述もあります。( 詳しくは http://kamnavi.jp/mn/monohst.htm 参照下さい。投稿者は、不明 )
饒速日尊(ニギハヤヒのミコト)は、縄文系ではなく、弥生系であり、東進傾向がありますが、縄文系も、東進傾向
だったのでしょうか。西進傾向もあったのでしょうか・・・。どちらかは不明でありますが、縄文遺跡の発掘が、平成4
年青森県であったことが、報じられています。
青森県青森市大字三内字丸山にある日本最大級の縄文集落跡である三内丸山遺跡は、今から約5500年前〜
4000年前の縄文時代の集落跡で、長期間にわたって定住生活が営まれていた事が判明している。弥生時代の
集落にも負けない程の集落構造を持っていたようであります。
最近、佐治芳彦著 「 謎の東日流外三郡誌(なぞのつがるそとさんぐんし) 」なる書物の存在を知りました。やは
りこの記述も青森県の事柄であるようです。この東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)は、寛政年間より文化文政
期にかけて三春藩初代藩主 秋田孝季(秋田家は、日本書紀に出てくるナガスネヒコの子孫と言われているようです
・・筆者注)とその婚戚和田長三郎(和田家)の二人が、自分の家や同地方に伝わる古文書や系図、古老の語る伝承、
諸国を行脚して収集した古文書や語り書を全360巻にまとめ、両家で秘密裏に保管していたようであるという。今まで
門外不出という枠がはめられていたようで、やっと、昭和の後半になって、「市浦村史資料」三巻(青森県北津軽郡市
浦村村史編纂委員会)として、公表されるに至ったという。
こうした文書は、歴史学上は、由緒書き系統の文書でありましょうか。それ故、ここに書かれた内容は、事実と認定さ
れにくいようであり、何らかの史実を類推することができるかな程度の把握になりやすいのでしょう。
でも、こうした文書により、古代史の謎が、合理的に説明がつく場合があり、軽んじてはならないのではと思えるので
あります。
3.謎の東日流外三郡誌(なぞのつがるそとさんぐんし)が語る古代の歴史
今から約5500年前〜4000年前の縄文時代の集落跡で、長期間にわたって定住生活が営まれていた事が判明して
います。青森県青森市の三内丸山遺跡がそれですが、縄文時代とはいえ、栗などの栽培により、現代と変わらない品
質の栗の生産をしていたようで、食料も豊富であり、定住も可能であったと考えられるようであります。この遺跡の住人
は、東日流外三郡誌で言えば、大陸で殷が没落し、周が起こり、殷の高貴な人も含めた集団が、難を逃れる為に中国
より海流に乗ってこの地にやって来た者達ではなかろうか。東日流外三郡誌では、津保化族(つぼけぞく)と記述されて
いる種族でしょうか。
大和朝廷には、関東以北の地は、蝦夷地と呼ばれ、征夷大将軍なる称号での征討軍が何度も出されていました。が、
坂上田村麻呂以外、それ程の成果を挙げてはいないようでした。
日本書紀では、畿内にいたナガスネヒコは、婚戚関係にあった饒速日尊(ニギハヤヒのミコトと読み、物部氏一族)
に殺された事になっていますが、東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)には、早くから移動して来た縄文人( 阿蘇
部族、いわゆる マタギに近い部族でありましょうか。アイヌ語系の民とも考えられている。)と、それ以後に漂着した
支那か韓国民の部族{津保化族(つぼけぞく)と言う。}で農業(栗の栽培等か・・筆者注)や漁業の技術を持った集団
がやって来て、先住の阿蘇部族(あそべぞく)を駆逐したという。
この津保化族と言われている者達は、大陸で殷が没落し、周が起こり、殷の高貴な人も含めた集団が、難を逃れる
為に中国より海流に乗ってこの地にやって来た者達であろうと考えられているようです。
その為、秦の始皇帝は、殷の後裔の事を調べる為、徐福を遣わしたと秦の史書に記述されているとか。あながち古書・
古伝の徐福文献もありかなとも推察いたします。( 拙稿 古事記・六国史以外の古史・古伝について 参照 )
更に、津保化族をも飲み込んでしまった一団が、やって来て荒吐族(あらばきぞく)となったやに記述されていた。
縄文末期頃になると、火山の噴火、天候の異変等が起こり、それまでの裕福な生活が一変し、飢餓状態に至り、
日本中が、縄文人等の各種族での群雄割拠状態となり、弥生期に入る頃に、縄文人の安日彦(あびひこ)・長すね彦
兄弟による緩やかな各部族共同体の結合(統一)が行われたのではと言うことのようである。
そして、「その頃、日向族は、中国大陸より南下し、南西諸島で一休みし、そこから日本海流に乗って、日向(現 宮
崎海岸)に着いた一行と対馬海流に乗って、朝鮮経由で北九州に着いた一行があったと考える方が合理的かと記
述されておりました。」( この記述は、謎の東日流外三郡誌を記述された佐治安彦氏の推論であります。・・筆者注 )
この日向族が、いわゆる弥生人であり、北九州にいち早く、高度の稲作技術と籾を持ち込んだ一族であったのでしょ
う。日向に着いた一行の中には、「ひみこ」と呼ばれる女人がいたとも記述されておりました。
東日流外三郡誌では、統一を果たした長すね彦は、饒速日尊(物部一族)に自分の妹を嫁がせていたという。が、こ
の日向一族(記紀では、神武天皇)は、九州より侵攻し、ナガスネヒコは、重傷を負い、東北へ、安日彦(あびひこ)は、
越の国(現 福井)へ落ち延びたと記述されているという。そして、ナガスネヒコの子孫は、後の秋田氏(三春藩初代藩
主)へと続いていったとも推量されているように思えました。
また、7世紀頃、蘇我氏と聖徳太子対物部氏・中臣氏・武内氏が対立。仏教系の蘇我氏等が勝ち、物部氏一族は、
同家に残されていた神代記録の写し(ダイジェスト版)と共に奥州へ、中臣氏は、物部家にあった写しを持って信州へ、
武内氏は、同様の写しを持って北陸へと逃れたようでありますとも記述され、それが、後の「物部文書」、「九鬼文書」、
「竹内文書」となって後世に残ったのではなかろうかと推測されます。
特に、関東以北の地は、大和朝廷と言えども、支配できない地であり、独立国として存在していたのではないかと考
えられ、初期の頃の荒吐族は、この長すね彦、安日彦兄弟を受け入れ、長すね彦による最先端の農業技術(大陸の
技術)の導入により、津軽地域に適する稲作が行われるようになったとも記述されていました。
また、力を付けた荒吐族は、畿内への侵攻(長すね彦の元々の地の奪回)をも行っていたとも記述されています。
以上が、東日流外三郡誌の述べようとしている古代の概略であります。古事記、六国史との整合性はどのようになっ
ているのかは、未検討であり、私の今後の課題ではありましょう。さらに、この東日流外三郡誌の原本は、存在していな
いようで、偽書というレッテルも貼られています関係で、なかなか認知は、難しいのではというのが現状でしょうか。
4.むすびにかえて
こうした古史・古伝類の内容は、歴史的に事実かと問われれば、検証もされていませんので今のところは、一仮説で
しかありえませんという他はないのでしょう。
もし、この古史・古伝類を歴史推理小説(昔話)と捉えれば、超一級の出来栄えといえるのかも知れませんが・・・。
今後、こうした古史・古伝関係の書物が、歴史的に検証され、事実認識がされたならば、今までの古代の日本史は、
大きく書き改められなければならなくなるのではとも推察いたしますが・・・。
何せ、古代の事柄は、資料も少なく、何らかの思惑も働き、何を持って真実であると断定できるのかというジレンマ
があります。中国、朝鮮、日本の古代に関する文献への各国の研究者の思惑が、底辺にあり、その辺りの研究への
障害らしき壁が存在するやに感じられてしかたがありません。が、信頼できうる史書は、やはり中国関係の物でありま
しょうか。
文化的に遅れた大和朝廷(日本)が、何故に朝鮮半島への進出、支配ができ得るのか。言ってみれば他国への侵略
でありますから、後進国が、先進国へ侵攻する事になりましょう。そのような不自然な事は、大いなる武器と多数の兵隊
があれば、可能でしょうが、そのような事は考えられません。同等の文化レベルであれば、可能かと。とすれば、大和朝
廷(日本)のトップ層は、朝鮮からの流民と考えれば、納得できる事ではあります。