古代 東濃地域に於ける窯跡と在地状況
1.はじめに
私の生まれは、多治見市旧 脇之島であります。幼少時には、近くに陶磁器を焼く窯が
二基あり、1基は、常夜灯(この辺りでは、灯明台とも呼ばれておりました。)のあったすぐ
の所にありました。昭和の半ば過ぎに廃業いたしましたが、石炭窯でありました。
もう1基は、平成の世近くまでありましたが、廃業し、消失いたしました。二福寺の下近く
にあり、石炭窯でありました。
これらの窯は、濃尾大震災が起こってからずっと後、この旧 脇之島に造られた陶磁器
窯でありました。
2.古代の窯跡と在地状況
東濃地域の古代の様子を知る手がかりに、大宝2(702)年の半布(はにふ)里戸籍(現
加茂郡富加町)があるようであります。
この半布(はにふ)里には、県主と秦氏(帰化人)がいたという。県主は、加茂地方にいた
県主の一族の後裔と考えられるという。多治見市にも赤坂町に県神社があり、この神社は、
もともと現 多治見市光が丘にあったという。この赤坂の県神社は、もともと高社神社から
の分神で、古い時代の可児郡の産土神とも言われているという。秦氏は、製鉄か織物を生
産した専業集団と考えられますが、彼等は、朝鮮半島からの帰化人であり、大和朝廷の手
で諸国に移住させられた一部の集団であったのでありましょう。(多治見市史 通史 上
P.181 参照 )
また、多治見では、永保寺境内の金鶏塚が、朝鮮の様相をした古墳といわれており、多治
見にも渡来人が移住してきていたのでしょう。その後裔が、池田御厨の供祭物である絹や麻
を織り、紙をすいていたのであろうと考えられているようです。お隣の尾張国では、丹羽郡に
も伊勢神宮の御薗があったようで、そこには、削栗(けつくり)神社があり、その所在地は、一
宮市千秋町勝栗、祭神は、誉田別尊(ほんだわけのみこと)。創建は、今から1000年くらい
前といわれており、栗の木を削って器物を作っていたようです。こうした特殊技能集団は、各
地に配置されたかのようです。主に秦氏に関わる集団であったのでしょうか。いわゆる帰化人
の集団ではありましょう。
多治見に於ける奈良時代から平安時代の窯跡は、生田地区を除いて、土岐川以北の丘陵
地帯であり、池田御厨 (伊勢神宮の神領であります。)のなかに分布していることであり、この
窯は、伊勢神宮と深い繋がりがある事を示しています。
また、こうした窯は、丘陵の麓にあって、谷に面し、付近には、工人の居住跡が見当たらない。
したがって、これら工人の生活の本拠は、半農半工というより農業を主体とした小河川流域に
存在していたのではと考えられるという。
窯跡は、大別すると、高社山丘陵地一帯か長瀬山丘陵地一帯に分布しているといえましょうか。
古代美濃窯に於ける陶器生産の中心地であり、工人達の集落が、窯付近の平坦地に存在し、ま
た麓のどこかには、生産された陶器の荷つくりや運搬をした人たちの集落も存在したと考えられる
という。( 多治見市史 通史 上 P.182〜183 参照 )
須恵器が東濃地域に普及しはじめるのは、6世紀中ごろと推定されております。古東山道の道
筋である関係からでしょうか。この東山道を通過した大和朝廷の関係者により持ち込まれたので
ありましょう。
こうした須恵器が東濃地域で焼かれるようになるのは、もう少し時代が下り、7世紀頃のようで、
現 各務原市一帯の美濃須衛窯であります。一説では、5世紀末から生産が始まったとも言われ
ていますが・・・。美濃古窯跡は、早くて8世紀後半、遅くとも9世紀初頭には、焼かれ始めたといわ
れております。しかし、その生産量は、この地方の需要に応ずる規模であり、こうした須恵器窯は、
平安時代の初期から中期までには、白しの生産に順次切り替わっていったようであり、11世紀初
めには、まったく白しの生産に切り替わったという。この白しが多治見に入ってくるのは、伊勢神宮
の力であり、愛知県の猿投窯から篠岡窯を経て、当地に技術が導入され、陶器生産がされるように
なったと考えられます。その後は、長瀬の領主である源頼氏の保護によると多治見市史では、記述
されておりました。篠岡窯については、古代に於ける 尾張北部地域の窯業地帯についての覚書
拙稿を参照下さい。
参考文献
・ 小牧市史
・ 多治見市史 通史編 上
・ 古代尾張氏の足跡と尾張国の式内社 加藤宏著 昭和63年
平成24(2012)年10月27日 最終脱稿