味噌の起源と日本での味噌の変遷とその歴史についての覚書
1.はじめに
味噌は、あまりに日本的な調味料でありましょう。海外には行ったことがありませんが、長期滞在
される方は、味噌汁が、無性に飲みたくなるとは、よく聞くことではあります。味噌とは日本独自の
ものであるともいえましょう。
この味噌汁は、遥か室町時代に、すり鉢が出来てから作られるようになった物であるようです。日
本家屋の畳とか、違い棚とか、ありとあらゆる日本的な様式は、この室町期に完成したとも言えるの
でしょう。原点は、遥か昔かもしれませんが、日本的なと言われる物のルーツは、室町期にあると言
っても過言ではないでしょう。
2.味噌のルーツ
2説あるようです。
一つは、日本古来からあるという説
「 縄文時代から製塩は行われ、醤などの塩蔵食品が作られていたと見られる。弥生時代の遺跡か
らは穀物を塩蔵していた形跡が見つかっている」 とも記述されておりますが、はっきりとした出展は
明示されてはいませんでした。
もう一つは、お隣 中国より伝来したという説
「 醤は中国から伝来したともされており、現代の中国には大豆を原料としたペースト状の発酵調味
料(豆板醤、甜麺醤など)が存在する。周辺のベトナムや朝鮮半島にも、独自の進化をとげた醤が
存在している。 」ということからのようです。 ( 拙稿 醤油の話 参照 )
3.味噌への転化
{ 醤から味噌が生まれたと思わしき最初は、奈良時代である。当時の文献に「未醤」(みさう・みしょう:
まだ豆の粒が残っている醤の意味)と呼ばれた食品の記録がある。また「末醤」とも書かれ、「大宝令」
大宝元(701)年}の「大膳職」条では「末醤」と記される。他に味醤、美蘇の字もすでに見える。
藤原京(700年前後)の遺跡からは、馬寮(官馬の飼養などを担当する役所)から食品担当官司に醤
と末醤を請求したものとして、表は「謹啓今忽有用処故醤」、裏には「及末醤欲給恐々謹請
馬寮」と書
かれた木簡が発掘されている。この「豆の粒が残っている醤」がその後の日本に定着した。調味料とい
うよりは豆やその他の穀物を塩漬保存した保存食であり、つまんで食べられた。この未醤、あるいは末
醤が、やがて味醤、味曽、味噌と変化したものであることは、「倭名類聚抄」(934年頃)や「塵袋」(1264
〜1287年頃)という辞書に書かれている。 }という。
( これらは、全て ウィキペデイア フリー百科事典、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%B3%E5%99%8C
味噌の歴史 最終更新
2012年7月18日 (水) 04:42 からの引用によるものです。)
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参考までに倭名類聚抄とは、
「 平安時代中期に作られた辞書である。承平年間(931年 -
938年)、勤子内親王の求めに応じて
源順(みなもとのしたごう)が編纂した。
中国の分類辞典『爾雅』の影響を受けている。名詞をまず漢語で類聚し、意味により分類して項目
立て、万葉仮名で日本語に対応する名詞の読み(和名・倭名)をつけた上で、漢籍(字書・韻書・博物
書)を出典として多数引用しながら説明を加える体裁を取る。今日の国語辞典の他、漢和辞典や百科
事典の要素を多分に含んでいるのが特徴。
当時から漢語の和訓を知るために重宝され、江戸時代の国学発生以降、平安時代以前の語彙・語
音を知る資料として、また社会・風俗・制度などを知る史料として国文学・日本語学・日本史の世界で
重要視されている書物である。」という。
味噌についての記載は、十巻本
が、原本とされ、24部128門より成っているようで、11部 飲食部=
食物に記述されていると思われます。
( http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E5%90%8D%E9%A1%9E%E8%81%9A%E6%8A%84 最終更新
2012年7月18日 (水) 17:39
のウィキペデイアより 引用 )
4.室町期以降現代までの味噌
{ 中世の日本では、「手前みそ」という表現が生まれた。室町時代になると、各地で味噌が発達した。戦国
時代には兵糧(陣中食)として重宝され、兵士の貴重な栄養源になっていた。その名残は、朴葉味噌などに
残っている。各地の戦国武将にも味噌作りは大事な経済政策の1つとして見られるようになったという。
現在のように調味料として認識されるようになったのは、江戸時代になってからであり、味噌は各地の風土・
気候を反映していて、熟成方法などが異なり全国に多様な味噌をもたらした。
当初はすりこぎで粒を潰して用いられたが、やがて最初からペースト状の味噌が作られるようになった。つま
り語源となった「未醤」、豆の粒が残っている醤から、本来の醤に逆戻りした事になる。
味噌は、かつては各家庭で作られるのが当たり前であったが、近年は、味噌を家庭で仕立てることは珍しくな
った。今日では北海道音威子府村から沖縄県与那国町まで、日本の全ての地域に製造業者が存在するが、言
い換えればそれほど高度な技術や多額な資本投下無しに製造できる証であり、特定地域に集中している醤油製
造とは、違いがあると言えよう。
昔は、醤油の事を「溜まり醤油」と言っていた。味噌を作っている途中に汁が、出てきて、それを樽の底から木の
蛇口より出し、溜めていたから「たまり」と称していたのでしょう。だから、味噌を作る家では、自然と「たまり」も出来、
わざわざ醤油を買う必要もなかったのではないでしょうか。江戸とか、昔の大都会に住んでいた町人は、家で味噌
を作っていなかったのではないか。人口の多い近くで、醤油を作るれば、売れるし、運搬も楽、条件がそろったの
でしょう。
明治時代の一般的な味噌の醸造期間は1-3年程度であった。明治時代末期に日本陸軍糧秣廠に勤めていた
河村五郎(日出味噌創業者)が、麹の働きを温度管理で調節する味噌速醸法を考案。醸造時間は数ヶ月に短
縮することが可能となった。当時、東京で主流となっていた仙台味噌の醸造法とともに全国に普及した。
第二次世界大戦中には、配給味噌の基準製法となったことも後押しとなっている。また、温度に着目した醸造
法が各地で試された結果、大戦中の1944年(昭和19年)に中田栄造(マルマン創業者
長野県飯田市にある味
噌製造会社。
)が醸造中の温度管理の適正化を進めた中田式速醸法を開発。醸造時間は20日とすることも可
能となった。中田の信州味噌の醸造法とともに戦後、全国に普及した。} という。
( これらは、全て ウィキペデイア フリー百科事典、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%B3%E5%99%8C
味噌の歴史 最終更新
2012年7月18日 (水) 04:42
からの引用によるものです。)
5.まとめ
これで、醤油、味噌、ソース、ケチャップという定番の調味料のルーツを探ってきました。どれにも、お隣 中国
4000年の歴史を感じました。中国 恐るべしということでしょうか。