物部氏についての覚書
1.はじめに
物部氏に関しては、諸説あり、よく分からない氏族ではあります。以下に記す物部氏説は、そうしたものの一部で
はあります。
なお、日本書紀では、物部氏は饒速日尊(ニギハヤヒのミコト)が始祖という説であり、物部氏の始祖が饒速日尊
であれば、本国神名帳集説に、尾張、三河、静岡等に、物部祠が多いと言われる所以でもありましょう。また、記紀
編纂の時点で、古代氏族には、始祖の降臨神話を持つことは許されなくなったようでありますが、ただ一つの氏族で
ある他ならぬ物部氏のみ許されたと言う。何やら特別待遇にせねばならない事が、この物部氏には、あったかと。
どのような出自を持っていた氏族でありましょうか。、『日本書紀』の神武紀には、ニギハヤヒがイワレヒコ(神武天
皇)より先に大和に鎮座していることが明記されている。そのため、神武天皇の前に出雲系の王権が大和地方に存
在したことを示すとする説や、大和地方に存在した何らかの勢力と物部氏が結びついたとする説等もあるようです。
「饒速日尊(ニギハヤヒのミコト)を物部氏とすれば、イワレヒコ(神武天皇)は、応神天皇と考えられ、この両氏は、
分家・本家関係であり、ニギハヤヒとオウジンは分家と本家の違いはあれ、どちらも沸流百済の王族であるという説」
( この説の著者は、山川登氏で http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Namiki/1627/pre/index.htm
を書かれ
たのでしょう。) もあるようです。
{沸流百済とは、これまでの史書において「百済」と表記されている温祚百済の裏に隠れてしまった国で、温祚百済と
は兄弟国であり、高句麗とも血縁国になる関係にあり、扶余系騎馬民族の末裔である。その沸流百済は、海上王国
として倭国(朝鮮半島内に有った国)はもちろんのこと、揚子江河口や遼西にも分国を経営する東夷強国となったが、
396年に高句麗・広開土王によって討滅され、王と王族は日本列島に亡命し、天皇家を構成したということである。
(これが、いわゆる騎馬民族征服説でありましょう。)
また、 『神皇正統記』には「日本は桓武御代に三韓と同種であるという彼書を焼却放棄」したと記録されている。}
( 詳しくは http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=189187 を参照して下さい。 ) とも記述されてお
りました。これが、事実であれば、日本でも焚書が行われていたことになりましょう。既に日本書紀編纂に於いても
焚書とは言いませんが、それに類した事が行われたのではないでしょうか。
そして、これまでは、私は、物部氏は、古くからの氏族で、推古天皇の御世、蘇我氏と物部氏による仏教騒動で、物
部氏は滅ばされたと理解していましたし、天皇家と同様に、古代より連綿と続いている氏族と考えていました。
2.「物部氏の伝承」(畑井 弘著)を読んで
この書は、1977年今から三十数年前に、吉川弘文館から出版されましたが、このたび新版として、再度三一書房
から出版されたようです。私は、新版本に目を通しました。
結論から言えば、天皇家と同様、実在する天皇を崇神・垂仁朝の三輪王朝、応神・仁徳・雄略朝の河内王朝、継体
以降の現天皇家と、少なくとも天皇の系統は、氏族としては三代様変わりしていると歴史学上では説明される事が多い
ように思います。物部氏もご多分に漏れず同様であるという事を氏は、述べようとされているやに読み取りました。{日
本書記は、藤原不比等により藤原氏と天皇家が、後世まで生き残れるようにする壮大な歴史書でありましょう。そこに
は史実ではない事柄(架空の人物をも創造し、辻褄合わせがされているという)も記述されていることは、戦後の歴史
学が論じてきている事柄でもあります。
氏は、丹念に朝鮮語の読みと意味を織り交ぜ、こうした弥生人若しくは渡来人は、朝鮮半島からの渡来であることか
ら、朝鮮語系統の読みと意味をも持ち合わせている種族であり、そうした事柄が、万葉集、記紀の記述にこめられてい
るとして、人名、地名、神話の中の神の名を紐解いていかれたのであります。
余談になりますが、この畑井氏の著書を読んでいて、日本に残る古史古伝の神代文字は、古代朝鮮語の系統ではな
いかという思いを巡らしていました。朝鮮語の読める方が、日本に残る神代文字を見た時、朝鮮語の古語を学んだ人で
あれば、もしかして読めるのではないかとも思いましたが、いかがなものでしょうか。古語朝鮮語に詳しい人を知りません
から確認してはいませんが・・・。
以下これから私が述べることは、氏が書の中で古代の人名、地名、神話の人名、地名等々に関して朝鮮語での読み、
意味等で解釈された事柄により得られた結果、結論付けられた事のみを概略として、まとめて記述いたします。詳しいこ
とは、氏の「物部氏の伝承」本文をお読み頂き、ご自分で再確認して頂きたいと思います。私自身の読み取りミス等々も
無きにしも有らずでありますから・・・。
ア、氏の考えられる弥生時代から古墳時代( 朝鮮語の音と意味、先人の著書等より作り上げられた氏の歴史認識 )
・ 弥生前期から中期
長すね族(国ツ神)は、蛇神(竜神)型の鍛冶(銅鐸)を信仰する種族であり、南方系海人的要素の濃い、稲作と華
南照葉樹林帯の南方焼畑農耕を複合する種族であろうと推察されている。
・ 弥生中期以降
佐々木高明氏(拙稿 日本の稲作のはじまりについての覚書にも登場される方)は、西日本には、朝鮮半島から
南下した北方系の焼畑農耕が入ってきたと。<その時期は、楽浪海中倭人あり、分かれて100余国>の頃であり、
芋(タロイモ系のさといも)と粟と豆に特徴づけられる雑穀栽培農耕。それに対して東日本は、芋を伴わない雑穀農
耕が特徴とか。また、弥生の水田農業は、最初は、沖積平野の河川流域の低湿地帯ではじまり、後に内陸山間部
の半湿地帯に広まっていったという把握をしてみえるようです。
・ 弥生後期
倭国大乱の時期に相当し、弥生前期の南方系の斧を信仰する文化と北方系の焼畑農耕に付随する剣が複合
された「大葉刈(銅剣)」文化が成立したという。
*
この銅(金属)の事を、朝鮮語の音では、軽(カル)、刈(カリ)、鹿児(カゴ)、香具(カグ)と発音し、また、曲(マガリ)、
井光(イヒカリ)、(イカリ)という名が付くのも銅文化と結び付くと言われているようです。( この点は、氏だけでなく、
大分大学 富久 隆氏は、自著「卑弥呼 朱と蛇神をめぐる古代日本人たち」の中で、同様な事を述べてみえるの
であり、こうした点は、豊前、吉備、大和等の銅器出土遺跡、銅採掘遺跡の地名に付く場合が多い事を挙げてみえ
ます。)
・ 古墳時代
この時代を造りだしたのは、弥生時代に活躍した長すね族{長すねを朝鮮語の音で意味を取ると、ナガは、蛇神
を奉ずる銅鐸を意味し、スネは、銅鐸作りの村の意味であるとかで、ナガスネとは、祭祀種族(倭人)の土酋を意味
している普通名詞であるという。}を平定した雷神型鍛冶(剣)を信仰する高句麗系種族であり北方系天神種族であ
るという。
弥生時代の前期では、銅鐸祭祀集団たる蛇神信仰種族である長すね族が、分立しており、王国建設へと幾多の
長すね族が、主導権争いをして対立抗争していたという。そこへ初期のニギハヤヒ、北方系の雷神型の鍛冶信仰
から生まれた祖霊神を持つ氏族が渡来し、その次に渡来した高麗系の「富美族」が、このニギハヤヒ伝承を伝えた
という。(古事記では、物部連、穂積連等は、古い長すね系の氏族ではないと述べられているという。)氏の著書 P.
128には、物部族は、銅鐸祭祀信仰種族であると記述されております。
{ これらの種族は、大きな意味の「登美族」であり、細かくいえば、古い「富美族」、後からの「富美族」と言えばいい
のでしょうか。畿内の長すね族を平定した。その時期は、倭国大乱頃、3世紀末〜4世紀初頭であり、支配層は北
方系と被支配者層の海の彼方からの種族の習合した族であろうと。(この習合は、日本列島で行われたのではなく、
渡来する前の朝鮮半島に居た頃であろうと推察されているのではないかと思われます。)また、畿内への侵攻ル
ートは、瀬戸内海を西ー>東へか、日本海から中国地域を通って大和への2系統を考えて見えるようであります。
畿内に入った各種の「富美族」{例えば、書記に出てくる土蜘蛛族(一例を挙げれば、鴨氏、ニギハヤヒ族、磐余
彦命等)は、王権争いから脱落した一族であったという。初期ヤマト王権を確立したのが、高句麗系の崇神王朝(こ
の一族も富美族である事にはかわりはありますまい。)であったと言われる。}( 物部氏の伝承 P120 参照 )
ニニギノミコトに付いて来た者は、沸流百済の王族であり、名前に天(あま)が付かない者は、沸流百済に追われ
た馬韓の遺民か南部辰韓系の渡来者であり、ニニギを乗せた船は、玄界灘を渡って末ろ国の現 唐津に着いたと
言われる。沸流百済の拠点は、大伽耶であったとも言われております。(これが、騎馬民族征服王朝の原型であり
ましょうか。畿内の崇神王朝を倒した応神王朝を類推させる事柄でしょうか。・・筆者注)
書記に記述される土蜘蛛(つちぐも)、古事記では、土雲(つちぐも)とされていますが、その一族の中に、古代氏族
の日置(へき)氏があります。「高麗(こま)国、別名高句麗といい、そこの国の人、伊利須意み(いるすのおみ)より
出ず」(新撰姓氏録)とされる渡来人」であり、「和名抄」では、葛上郡の日置郷にいた氏族であろうという。この氏族
は、服属した氏族でありましょう。日置氏は、銅鐸際祀族であり、後世の和泉国の日置荘は、梵鐘鋳造の地としても
有名であるという。この日置(へき)という音は、朝鮮語の意味では、火を駆使して土器を焼き、銅器を鋳造する人々
ということになるとか。この和泉国の日置部は、後の「鴨県主の祖」とするという伝承を天神本紀内に記述されている
という。この日置氏は、崇神王朝に服属した、一つの銅鐸祭祀氏族であったということでありましょう。
畿内には、こうした土蜘蛛族が分立していたようであります。そうした様子は、日本書紀の神武東征神話の中で、各
土蜘蛛族を征服していった事が記述されており、そのルートも分かるようでありますし、古事記も、この古い征服ルー
トを伝えているという。(この東征は、崇神天皇のことではないかと氏は、考えておられるのでしょうか。・・筆者注)
銅鐸際祀氏族は、古い形の氏族であり、この息長氏(琵琶湖にいた氏族)もまた、蛇神信仰氏族であり、古い形の
氏族であったようです。再起するのは、応神朝以降であり、はっきり姿を現すのは、継体朝期でありましょうか。
また、平安期以前では、日本語には、訓読みはなく、文字は、表音であり、朝鮮語の音で解釈する事が可能である
と述べてみえますし、事実、解釈できると言ってみえるようであります。
日本書紀の編纂は、720年であります。8世紀初め頃でありますが、継体朝の天皇家が、抗争を繰り返しながら、
記紀編纂時の天皇系譜が唯一であるとして、それ以前の確かに天皇として即位した氏族を自らの出自とする工夫
をし、それ以前の神代は、各氏族が持ちえた神話を統一して書き上げ、新たな天皇を作り上げ辻褄あわせをし、蘇
我氏族の本流筋の抹消に努力されたと理解されているのでしょうか。まだまだ、この当時、藤原氏以外にもこうした
過去を持ちえた氏族の末裔が残存し、他の氏族もこうした日本書紀での改変を承知の上で、受け入れていたので
はなかったか。というのが、氏の理解の偽らざる本意ではなかろうかと推測いたしました。
「先代旧事」は、偽書という評価が付けられておりますが、部分的には事実であろうというのが、歴史学上の定説に
なっているとか。この著者は、物部氏の一族の者であるというのが有力であります。書記の著者であります藤原不比
等にしても遥か古代の事までは詳しくはなかったようで、それ故、固有名詞ではなく、普通名詞として人名が出てくる
ようだと朝鮮語の音と意味の解釈から結論付けてみえるように推測できます。
弥生以降古墳時代にいたる諸豪族は、銅の採掘地を持ち、銅の採掘集団を持ち、銅の鋳造技術集団を持ちえた
者のみが、領袖者であり、祭主であり、医術者でもあったのでしょう。銅鏡、銅剣、古くは銅鐸の生産に長けていたの
でしょう。妻は、鍛冶王に仕える巫女的存在の者が入籍したともいう。鉄が、日本に伝わった後も、銅の文化は、呪
術的な分野において存在価値があったようでもあると氏は、述べてみえると理解しました。事実、鉄の導入は、弥生
中期まで遡る事ができるようであります。ただし、その導入は、鉄の地金を加工する小鍛冶技術の定着であったので
あり、本格的な製鉄技術等の導入ではないと捉えて見えるように理解できました。
その例証として、日本書紀の宝剣出現章のスサノオと話をする出雲の国神(くにつかみ)である脚摩乳(アシナツチ)、
妻 手摩乳(テナツチ)の話をあげられ、その人名の摩乳は、朝鮮語の音読みで、マチ。これは、朝鮮語の意味では槌、
とんかち、ハンマーとなり、鍛冶で使う物であると解釈されているようです。このクシナダ姫の両親は、鍛冶王に他な
らないとしておられました。(おそらく、鉄の加工をする小鍛冶技術王でありましょうか。・・・筆者注)
そして、日本で使う農具類の鉄は、砂鉄で造られた物が多いとか。本来武器に使う刀剣用の精製された鉄のかた
まりは、古墳時代を通して、朝鮮、中国からの輸入に頼っていたという。
そして、崇神、垂仁朝の初期ヤマト王権の頃、朝鮮半島から新しい鍛冶技術と良質の地鉄が流入し、この後、鉄
剣=神として登場するようになるという。垂仁紀には、「蓋し兵器をもて神祇を祭ること始めて、この時に興れり」とす
る伝承があると記述されているようであります。
以上が、氏の著書より読み取れました時代認識であります。さて、本題の物部氏についてに移りたいと思います。
イ、氏の物部観について
結論から言えば、物部は、どこにでもいた。としか言いようがないのでしょう。古代からどの氏族にも部の民とし
ての「物」の「部」があったのであり、その都度の天皇には、その時の軍事的部の民が従ったということなのでしょ
う。
物部の初見は、応神王朝を支えた大伴大連家ではないかと。5世紀頃に葛城忌寸(イミキ)等が活躍して発展
させた「物部の八十伴の男」集団(この集団は、敦賀湾、大阪湾を掌中におさめた山民で航海術に長けた渡来氏
族集団であるようです。単一の種族ではなく、いくつかの種族の集合体でありましょう。)であったようです。(参考ま
でに、大伴家には、「神武東征に出てくるあのヤタガラス」の伝承があるとか。・・・畑井氏の著書に記述されていま
す。)
付記ではありますが、応神紀には、この王権の武器庫、武器生産地は、十市郡であり、鳥見山山麓にある忍
坂と耳成山山麓の十市を治めていた忍坂の族長である十市県主(トチホノアガタヌシ)であるようです。この忍坂の地
は、垂仁朝の頃、大刀 1千口「裸伴(アカハダカトモ)」は、石上神宮の兵器庫へ納められる前は、忍坂邑に蔵せら
れていたという異伝もあるくらいです。
物部として次に出てくるのが、継体朝。5世紀中頃以降の物部連であるという。軍事的伴造であり、戦闘集団、
兵器生産集団、軍神祭祀集団{物部の八十氏(どのような集団であるのかは、次のHPを参照されると具体化
できましょう。 http://mononobe.digiweb.jp/mononohuyasoudi/clan-dictionary.html )を率いる物部の総領で
あったという。}このように、物部連は、単一集団ではなく、物部氏とは、別者という認識であるように推測できま
す。(参考までに、物部氏には、「平国の剣」の伝承があると、やはり氏の著書に書かれておりました。)
「 古代のウジは、血縁関係ないし血縁意識によって結ばれた多くの家よりなる同族集団で、有力家族の長が氏
上(うじのかみ、うじがみ)となり、族長的な地位に立っていた。その直系・傍系の血縁者や非血縁者の家族を氏
人(うじびと)といい、これに隷属し統率されていたという。カバネには臣(おみ)・連(むらじ)・伴造・国造などがあ
る。
ウジの組織は、5世紀末以降、確認できる。広範に整備されるのは6世紀のことであり、臣(おみ)と連(むらじ)
は、基本的な違いが存在していた。それは、臣と称する豪族は、蘇我氏・吉備氏など、一般に地名をウジの名と
し、それぞれの地域を基盤とする首長であったのに対して、連と称した豪族は、大伴氏・物部氏など、トモとして
の職掌を名にもつ伴造のウジとしたのである。つまり、臣は王権に対して相対的な独自性を有するが、連は大
王への臣従をその本質としたというのである。という記述もあります。」
( 詳しくは http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%A8%E6%B0%91%E5%88%B6 ウィキペデイア辞典を参照されたい。)
継体天皇は、応神朝の大伴家を継いだ大伴金村の推挙を受け、即位したようであります。継体の父は、近江の
息長(おきなが)で、この地の豪族だった息長氏の出身だと言われている。
息長氏なんて聞きなれない豪族名ですが、現在の滋賀県坂田郡近江町や米原町あたりを本拠地とした氏族で
あり、琵琶湖の湖上交通を掌握した大豪族と言われています。畑井氏によれば、この氏族は、古い形の蛇族種族
であり、この氏族が、再起したのは応神朝以降であろうとされていました。既に継体朝の頃は、復活して、大きな力
を有していたのでしょう。この継体の母は、越前の生まれであり、父亡き後、母に連れられ越前で育ったという。
余談ですが、近江の北部は古代日本を代表する鉄の山地だったようです。既述物部氏の伝承 P.180には、
近江国滋賀郡、比叡山の麓にある穴太(あなほ)の地(考古学上、逢坂山製鉄遺跡群)は、鉄鉱石を産出した地帯
であったといい、この地を息長氏が抑えていたと考えられ、継体天皇は、近江の鉄と息長氏の交通基盤を武器と
して勢力を拡大していったのではないでしょうか。
継体には皇后以外の配偶者が8人いて、8人のうち息長氏の息長真手王や坂田大跨王の娘をはじめとして、
近江出身者が5人もいる。
つまり、継体は母方の越前だけではなく、父方の近江にも勢力基盤があったようであります。さらに、尾張連氏
とも繋がり、新しい越前王朝を築いたのでありましょう。
そして、先述の物部連とは別者の物部アラ鹿火(アラカイと読み、この氏族は、信濃国諏訪の豪族のようでありま
すし、この物部族は、本来は、銅鐸祭祀種族であると畑井氏は、捉えてみえるようであります。古事記には、物部荒
甲という名前で記述されており、実在の人物でありましょう。)として登場してきます。
日本書紀でも、この物部氏が登場します。九州筑紫で527年反乱を起こした筑紫の君 磐井を1年余をかけて、
鎮めたという軍事的氏族として。
継体天皇には、尾張連に連なる安閑、宣化と、畿内の武列天皇の直系の皇后(継体天皇の畿内唯一の皇后)に
繋がる欽明天皇がおり、継体死後対立するようになったという。(林屋辰三郎氏の説による。) 安閑、宣化系統は
衰退し、欽明系が台頭したようであります。河内王朝の復活と同時に越前王朝の継続ではあります。
この欽明天皇に付いたのが、物部尾輿でありますが、どうも物部アラ鹿火系統ではないと畑井氏は、考えておら
れるようで、尾輿とは、朝鮮語の意味で、窯、炉という意味の普通名詞のようで、固有名詞ではないと。架空の人物
であろうという。それ故、朝鮮語の音読みで解釈すると、兵器生産に携わる「物」の「部」を率いる鍛冶王という意味
になるようであると言われる。ここに、藤原比不等の謀略が込められているように感じられるという。
また、その子である物部守屋も架空の人物と捉えられるという。氏は、この新物部氏として、日本書紀に登場した
のは、畿内にいた地方豪族 弓削氏ではないかと比定し、推測されています。
そして、この物部守屋(実は、弓削氏)の姪を蘇我馬子は后として迎え、蘇我氏が、物部氏を名乗る場面があっ
たとも言われており、言い換えれば、守屋を仏教騒動に乗じて、攻め滅ぼし、新物部氏の財力等を継承したので
ありましょうか。(因みに弓削の道鏡は、この出自であったのでありましょうか。・・筆者注)
蘇我氏に滅ぼされた守屋に率いられていた輩は、それ以後名を変えたりして、各地に散らばったようであり、そ
の内の輩からは、大和国吉野郡を本貫とする物部朴井(エノキ)連鮪(シビ)という名前で、大化元年、斉明4年に
登場し、この朴井系から天武朝の頃、大海人皇子に近侍する舎人 物部連雄君(実在)がでて、守屋の家(弓削氏)
を再興したという。
話をかえますが、天武朝の頃、本来布留氏(新羅系の渡来人)の氏神であった石上神社を国家権力により石上
神宮へと変更したという。もともと、ここ布留の地は、信仰の聖地であり、金属加工技術の地であり、布留薬のよう
な漢方薬の製造地であったように、鍛冶屋が呪術者でもあり、医師でもあったようであります。こうして布留氏は、
農業のみだけでなく、呪術、医薬、金属加工品を購入したい人々により自然発生的にこの地に出来た「市(いち)」
を通して、財を蓄積した氏族であったと捉えられているようです。
元は、布留氏の氏神であったようですが、仁徳天皇の時、布留宿禰が、地底に石を組んで、横刀を納め、祭った
という。その後、仁徳天皇56年に、勅命により、この神社に、「天羽々斬(アマノハハキリ)=蛇之アラ正(オロチノアラマサ)」
を合祀したというようであります。天武3年に石上神宮として創設されたという。同時期に、伊勢の国にも伊勢神宮
が創設されたという。
その時、この石上神宮の兵器庫には、歴代の天皇により、各氏族の祭祀権の元となる神宝が納められていた。古
くより歴代の天皇により、各氏族の神宝は、検校され、その後諸家より取り上げ、その神宝である刀剣類が納められ
たという。天武天皇は、こうした神宝類を返す政策を取ったという。その頃は、各氏族もその地位が安泰ではなくなる
兆候があり、そうした事への対処と、天皇専制体制を取ろうとした事によるようであり、八色姓制もその延長線上の政
策であったという。(しかし、続日本紀では、この神宝類は、返還されてはいなかったような記述になっているようであ
ります。・・筆者注)
その専制体制の一環として、再興された新物部氏を新たな氏族 石上朝臣として創設し、天武4年 兵政官長官
に物部連雄君の孫を石上朝臣とし、任命したという。この任官は、令制の式部省に当たる官人の考査をする所で
あったという。
当然、天武死後は、石上朝臣は、旧来の物部姓に戻り、石上神宮も、布留氏の氏神である石上神社に戻ったと
いう。(推測ではありますが、こうした事柄は、天武天皇の考えだけだったかも知れません。実際は、取り上げた神
宝類も返却されていないようであり、実施されなかったのではないでしょうか。・・筆者注)
このように物部氏の系統は、万世一系の系統ではないというのが、畑井氏の言わんとするところであるようです。
残る問題は、中部地方一帯の海岸地帯から山岳地帯に多く残る物部祠の存在であります。
中部地方に残る物部祠は、おそらく、古い「富美族」の渡来人が、海岸伝いに移動をして行き、河川流域で、弥
生人として、水田稲作農耕と、焼畑農耕を広めていった結果でありましょう。各地に古い「富美族」の渡来人として
存在していったのであり、どの種族にも物部の民はいたとすれば、ニギハヤヒ系にもいたのであり、その民として
物部名がついたのであり、当然銅鐸文化を持った種族であった筈でもありましたでしょう。諏訪から出た物部氏も
山民兵団の領袖であり、騎馬と射術に長けた兵団であったという。こうした種族も、河川流域から更に山地の半湿
地状態の所へ進出していった古い渡来「富美族」であったのでありましょうか。
天皇家の一族よりも古代には、物部と名乗るウジが、日本各地にいかに多い事か。各地からの「木簡」等により、
知る事が出来る。( 参照 http://mononobe.digiweb.jp/map/east.html 六国史から抜き出されたという。 )
3.まとめ
この拙文をまとめた所で、少し物部氏についての認識が深まったように思いました。が、またしても藤原不比等の思惑
が、日本書紀には、働いているという印象を持ちました。弓削氏の天皇家への対応をみて、弓削氏を新物部氏として登
場させ、辻褄合わせをしたのかも知れないということでしょうか。
平成24(2012)年7月29日 最終脱稿