地球上での太古に於ける大変動についての雑文
1.はじめに
現在の地球上の状況は、数万年以前に確定したとか。それより遥か億年前はどのよ
うであったのでしょうか。
ムー大陸、アトランテス大陸と呼ばれた大陸があったとか、恐竜が我が物顔で闊歩し
ていたとか聞かされています。また、インド亜大陸は、ユーラシア大陸とぶつかりそこに
世界最高峰の山脈が出来、その山頂付近から貝の化石等が出土している事から証明
されます。大陸移動説では、現アフリカ大陸とアメリカ大陸はくっ付いていたとも言われ
ています。
現代人ですら、このように太古の時代の事を経験していないのにも関わらず、聞いて覚
えるのでありますから、古代人でも、同様にして先人からの口伝、祖先からの言い伝え
等が、文字でなくとも受け継がれ、やがて固有の文字となって残っていったとも考えられる
のではないでしょうか。
私は、こうしたことが、「古史古伝」として現在に受け継がれてきているとも考えます。勿論、
恣意的な、或いは国家的なものが働いて変形されていったのではないかという事も視野に入
れて読んでいかなければなりませんが・・・。
2.恐竜の絶滅
地球の歴史は、古生代( 約5億7500万年前〜2億4700万年前)、中生代( 約2億47
00万年前〜6500万年前)、新生代( 約6500万年前〜現在)に分けられ、恐竜は、中生
代の主役であり、中世代の終焉と共に絶滅したという。絶滅の要因は、諸説あるようですが、
南北アメリカの中間辺りに落ちた大隕石による大気候変動説が有力となっているようです。
ムー大陸が消えた事等は、おそらく新生代第3紀(6500万年前〜170万年前)の出来事で
はないでしょうか。元は一つの大陸が分裂していった時期でもあったようです。この頃、哺乳類
は多様化していったと考えられるという。すでに人類の祖先である猿人が出現していたでありま
しょう。アフリカの大地にて。
3.人類の系統と拡散経路
「 アフリカ東部、南部辺りには、160万年前〜150万年前 ホモ・エレクトウスという原人が生活
しており、その原人の一部が、アフリカ大陸から出て行ったようであります。今から100万年前の
出来事であると言う。
30万前〜20万年前頃 ホモ・エレクトウスは、ホモ・サピエンスという旧人に進化したという。
今から2万年前〜1万年前頃の氷河時代末期には、新人と呼ばれる人類が出現した。」という事
を述べてみる某HP上の記述もあります。
「日本人の起源」というHP上には、過去に発掘された人類の人骨のDNAを分類されて、その流れ
を記述された方の著書が載っておりますし、その内容も記載されております。
(篠田謙一著 「日本人になった祖先たちーDNAから解明するその多元的構造」 NHKブックス、
及び ステーブン・オッペンハイマー著「人類の足跡10万年全史」 草思社 参照)
a.
篠田謙一氏による母方のみに受け継がれるmtDNA(ミトコンドリア・デオキシリボ核酸)の系
統と拡散経路
亜型A.・・・・北東アジアのマンモスハンター集団に多く、この集団は、北米へベーリング陸橋
を渡って新大陸へ(アメリカ原住民 インデアンとなった。)この一部は、日本列島へ
南下した。ナウマン象を追いかけていた野尻湖人は、今から4.8万年前〜3.3万
年前頃の出来事ではあります。
亜型M7・・・この型が出てきたのが今から4万年前頃かと。このM7型は、更に分化してa,b,c
に別れ、M7a型は、日本へ、M7b型は、アジア大陸沿岸部、M7c型は、東南アジア
に多いという。それ故、日本の縄文人は、M7a型で代表されているという。
(環境考古学では、4万年前頃から寒冷化、乾燥化へと気候の大変動が起こり始
めた頃だという。)
b,
ステーブン・オッペンハイマー氏によるmtDNAの系統と拡散経路
アフリカ集団はL型で代表され、L0、L1、L2、L3〜L6と分化したという。その内のL3型の一部
が、6万年前〜2.7万年前に150人程度の小規模集団でアフリカを出たという。
そして、インド亜大陸に長く留まっている間に、M型、N型に別れ、MからはD亜型が出て、Nから
は、R亜型へ。そしてヨーロッパ集団のU亜型がR型より分化したという。この分化には、万年単位
はかかったのでしょう。
M亜型は、その後インド亜大陸に留まっている間に、M1〜M12に再分化し、更にM7亜型は、a.b,c
へと再分化していったようであります。
以上の内容から、100万年前にアフリカを出た原人と言うところは、10万年前位なのでしょうか。僅か
150人規模の小集団一行が、現代のあの多様な人種の元になったとmtDNAを分析した方々は言って
おられるようであります。
4.気候大変動による日本の縄文人の動向と日本への弥生人の渡来
環境考古学者 安田喜憲氏の福井県三方湖の花粉ダイアグラムから推察できる地球環境データに
よれば、3万3千年前頃は、スギ・ブナのような多湿を好む樹木の花粉が激減し、変わってツガ等の乾
燥を好む樹木の花粉が増える事を突き止められ、福井県では、雪が降らなくなり、乾燥化と寒冷化が
急速に進んでいったと推測されております。
この結果、海水面が120m〜140m程現在より低下していったのであろうと考えられているようです。
その為、北海道側は、アジア大陸と陸続きになっていたようです。
更に、2万年前〜1万8千年前が、ウルム氷河期で、最も極寒な時代であったという
余談になりますが、中央アジア所謂シルクロードがあります砂漠地帯ですが、太古から砂漠ではなく、
木々が生い茂る緑豊かな大地であったという。その後の気候の大変動にて、急激に乾燥化が進み、そ
こで栄えていたというローラン王国なる国も衰退し、やがて滅亡したのでしょう。現在までに地球上では
何回の気候大変動を経験してきたことになるのでしょうか。
そして、1万2500年前頃から 急速の温暖化(モンスーンの大変動)により、氷河時代は終焉するという。
三方湖では、ブナ・スギの花粉が、1万2000年前頃より20〜30%程度回復してきたという結果がでていると
記述されております。
この安田喜憲氏は、更に 今から6000年前頃には、日本列島は、気候最適期となり、東北地域では、温暖
な気候であり、クヌギ・コナラ・クリという木の実を取ることの出来る樹木が生い茂り、あの青森県の三内丸
山遺跡での弥生時代と間違えるくらい縄文時代末期の大きな集落を形成していた事も知られています。
しかし、この縄文末期の4000年前頃から気候が寒冷化し、一時の寒冷化ではない状況が起こったようで
あり、3000年前には、東北地方全体に厳しい寒冷化が常態化してきます。当然、東北では、樹木の種類も一
変し、ブナ・ミズナラの冷温帯の樹木に変わっていったようであります。
この為、三内丸山の縄文人は、ここを放棄せねばならない状況に追い詰められていったと推察されます。いわ
ゆる日本列島内での東北地域縄文人の南下が起こったと言えましょう。
佐々木高明著「日本史誕生」(P110参照)には、かって日本列島には、東と西地域で縄文文化に違いがあり、
この南下を裏付けるように一時的な縄文時代晩期には、東西の日本の縄文文化の地域差が解消されたとい
う記述もあり、何やら東北地方の縄文人の南下が裏付けられたように思います。
かって、縄文人がいないと考えられていた地域にも、九州南部(鹿児島県辺り)とか、四国地域に多くの縄文
人の移動が推測出来るという。こうした急激な西日本での人口増加は、食料自給のバランスをややもすると破
壊し、九州地域、四国地域だけでなく、西日本地域で不安定な状況を生み出したのであろう事は、容易に想像
はつきます。
そうした状況下であった時に、大量の渡来人が有明海一帯に流入したと考えられると言う。
( 拙稿 日本に於ける稲作に関する覚書 参照 )
しかし、そうした前にも、渡来人の第1波は、あったという。
渡来人の第1波は、殷の滅亡・西周成立期の頃と推定されており、中国大陸での動乱により、朝鮮半島南端
を経由し、稲作技術と研磨石器や支石墓の文化を持つ数百人規模の渡来人が、日本(玄界灘を臨む唐津 菜
畑)に来たのではと考えられている。
その200年後 板付(博多空港南端)辺り一帯を埋め尽くす程の大規模な渡来があったと思われます。
これが、第1波 渡来人の日本への流入であったという。この第1波は、北九州、中国地域の一部しか伝播し
なかったようであります。
渡来人の第2波は、今から2600年前〜2400年前の出来事であり、中国では春秋戦国時代の頃かと。この頃は
気候変動を研究してみえる環境考古学者の安田喜憲氏によれば、3000年前は、厳しい寒冷化の時期であり、日本
列島の東北部は、温暖な地帯から、寒冷化に適するブナやミズナラの林に変貌していったという。当然クリ・ドングリ
の採れる温暖帯のクヌギ・コナラ・クリ等の樹木は、枯れていったようであります。
そうした気候大変動の影響でしょうかアジア大陸の満州北部にいた東胡民族の一部が、朝鮮半島西北部に南下し、
流入した。その結果、朝鮮半島では闘争が激化し、先住民は、故郷を棄て、更に半島を南下し、一部は、海を渡って
日本に渡来人として流入したという。この渡来は、第2波であり、その先発隊と位置づけられましょう。
更にその200〜300年後 長江(揚子江)中・下流域の江南地域にいた呉越同舟の4文字熟語で有名な呉の国、
越の国の越人は、戦国時代(紀元前400年〜紀元前200年頃)に力を付けて来た強国の楚、秦等に追われ、海を
渡って朝鮮(朝鮮半島内に倭と呼ぶ国を創ったとも。)へ、日本へ、或いはベトナム等へと避難して行ったという。こ
の長江からの渡来人は、水稲稲作を主体とする高床式倉庫、水をはった堀(環濠)集落を形成していたようで、有明
海を中心とした地域に流入したようであります。( 越人等の国を、中国を支配した部族は、当時、蔑んだ言葉として
倭と呼称していたとも。インドにいたっては、身毒国と呼ばれていたとも史書に記載されているとも知った。・・筆者注)
そして、一部ではありますが、近畿へと進出する者がいたのであろうと考えられているようです。
以上の内容は、「日本人の起源」という先述のHP上の内容を筆者が概略したものです。詳しいことは、先述のHP
を参照下さい。
この 越人 の特徴として、海に潜って漁をするようでフカ対策としてでしょうか体や顔に刺青(いれずみ)のようなも
のをしていたという記述もあります。( これは、魏志倭人伝中に記述されていた倭人にも同じような特徴を有している
事が、知られていますので、海岸沿いの末ら国、不弥国?の辺りの農耕と漁撈をベースにした集団と何やら類似して
いるように思われます。・・・筆者注)
余談になりますが、太古の昔、集団で新しい移住地を求め、移動していた時、既に定住するに適した地に、先住民
がいると、そこの土地をあきらめ、更に別の土地を求め移動していたように聞く。日本への第2波の渡来人も、同様
に、先住民が居た場合、その土地をあきらめ、別の新しい土地を求め、先住民が居ない所を選んで、定住していたの
でありましょう。そうして、九州だけでなく、近畿、中部、関東等へと渡来人は、定住していったと考えていいのではとも
考えるのであります。