醍醐寺領安食荘についての覚書

        1.はじめに
           「醍醐寺領安食荘の初発は、延喜14(914)年 統正王(王臣家カ)が寄進主となって醍醐寺の修理料として荘園化され
          たのがはじまりであるようです。
           その後一時期 国司により停廃され国衙領に収公されたようですが、康治2(1143)年醍醐寺三宝院の申請により、鳥羽
          院の勅願 灌頂院(カンジョウイン 後の三宝院の事)への布勢料・醍醐寺三宝院の仏聖燈油料・寺修理料として古の如く興立
          された由。
           再度文治4(1188)年入道惟方卿の国務時に収公され、その後(13世紀頃カ)醍醐寺が関わるようになった。」(荘園志料
           上巻 清水正健編 P.574〜575 参照)とか。

           荘園として存続していくには、紆余曲折があったようです。統正王寄進による醍醐寺領安食荘園は、延久の荘園整理令(
          1069)年かそれ以前の整理令により収公された可能性が高い。

           延喜年間以前の安食郷の領有は、不明。

         2.延喜14(914)年当時の醍醐寺領安食荘園について
            坂本賞三著「日本王朝国家体制論」に依拠すれば、初発の醍醐寺領安食荘園は、班田収授法・戸籍による律令制国家に
           よる収取方法は崩壊しつつあり、既に在地の国司による在地の変化に対応した非合法な対応がなされていた時期であり、
           安食郷は、王臣家の手に渡っていた可能性が高い。どのような方法で入手されたかは、史料がない事ゆえ、不明であります。
            そして、荘園整理令により、一時的に国衙に収公されたのであれば、その荘園は、国図(太政官符による班田図)には、記
           載されていない荘園であったか、公験が提出できなかったという可能性が大でありましょう。

            一番該当する可能性の高い荘園整理令は、延久(1069年)の荘園整理令でありましょうか。後三条天皇による中央官吏
           による徹底した公験の提出による整理であったからでしょう。一国司が、収公出来る荘園では無い筈でありましょうから。

            そして、国衙に収公された。その後、同荘園に何らかの大災害が巳年{康治2(1143)年、或いはそれ以前に起こりたと推
           測できる。その巳年とは、直近では、保延3(1134年(康治2年より9年前)カ、天治2(1125)年(康治2年より18年前)カ、
           永久元(1113)年(康治2年より30年前)カ或いは・・・。}であり、その近辺で起こった可能性が高い。そうした事柄が、康治
           2(1143)年の検注状案から読み取れます。
 
           一旦国衙領に収公されて以降の領有であるのか。それ以前からの可能性もありうるのですが・・・。
            その状案に記載されている事柄は、下記の通りであります。          
                田 大縣宮領 4町 熱田宮領 51町5段3以下欠損 伊勢大神宮領 7段小 皇后宮領朝日庄 1町1以下欠損
                  定田 104町6段小(醍醐寺領カ)

                畠 128町6段小 内訳
                   大縣宮領 9町3段60歩 熱田宮領 49町大 伊勢大神宮領 3町8段半 皇后宮御領 欠損 左大将家領 
                  6町5段大 中将家領 2町8段小 如意寺領  2段大 季貞私領 5段3歩  吉道私領   4町5段小 
                  秋元私領 6段小 郡司領  1町7段300歩 国領 43町60歩

                荒野 434町2段60歩 内訳
                    熱田宮領 178町以下欠損 當郷庄領 250以下欠損

                原山 108町
                 以下 略

             一旦収公以降か、国衙領は、大縣社・熱田社・伊勢神宮・皇后宮・左大将等々の権門・寺社や郡司・田堵層により領有され
            た事を示している。
             荒野・原山のような未開地も、熱田社単独で囲い込まれていったようであります。11世紀代以降の事柄であったとすれば、
             坂本賞三氏の著書の後期王朝国家体制以降での事でありましょうか。

             {「永延2(988)年の尾張国郡司百姓等解を提出した当時の郡司というのは、旧来の型の郡司であったらしい。」(類聚符
            宣抄 第7 参照)しかし、「その後中世的所領の一類型としての郡的単位の郡司となっていくのは、新しい在地領主的性格
            の郡司」(坂本氏の後期王朝国家体制の成立 第3章 第2節 中世的所領の四類型 参照)であって、このような郡司の性
            格の新旧交替は、およそこの11世紀頃にみられたもののようである。}(坂本賞三著「日本王朝国家体制論」 東京大学出版
            会 1972年版 P.202 参照)と。

             この検注状案(1143年)に記述されている郡司であろう橘 朝臣は、新しい性格の郡司であったと推測できましょう。
             この郡司の系譜については、拙稿 平安中・末期以降の丹羽郡 良峯家々系図を通して を参照されたい。

             尚、尾張国解文第30条で人民から糾弾された郎従の一人 良峯松林なる人物と丹羽郡の郡司家系図に現れる10世紀末に
            尾張介として赴任?した季光(改姓 良峯)なる人物との関わりは明らかではありませんが、共に在京の人物であろうと思われ、後
            に土着し、丹羽郡域で力を付けていった可能性もありましょうか。旧来の郡司と交替した人物として。推測以外のなにものでもあり
            ませんが・・・。そして、再度 丹羽郡の郡司は、交替した可能性を推測致します。関東の上総権介 平常広と婚籍関係を築いた
            立木田大夫としての季高でありましょう。

             12世紀代までには、熱田社は、一宮・二宮とは、別格的な存在として尾張国内では君臨していたのであろう。尾張国解文で、解
            任された後の国司の中に大江匡ひさがいて、長保4(1002)年に熱田社へ願文をし、「旱魃・洪水・飢饉・疫痢・失火・盗賊等につ
            いて記している」更に寛弘元(1004)年にも熱田社へ願文をし、「洪水・大旱にあう。」と記している。
             熱田社は、安食荘内に私領を有し、未開地でもある原野・原山(春日井原カ)をも広く囲い込んでいるようであります。

             とすれば、安食荘の近くの大縣社領となっている阿賀良・林村の開発年は、阿賀良村が、林村より早い開発であろうとされていま
            すが、いつ頃まで遡る事が出来るのであろうか。
             安食荘については、更に康治2年当時の荘園の200年位後の元亨4(1324)年12月の検注帳をまとめたものが、愛知県史に
            掲載されておりました。
             それによると、既に安食荘は、東・西の荘園に分割されていたようです。その一部でありましょう。
               安食東荘 福徳名
                一、 桑代畠  1町9反330歩   年貢段別銭  336文 副綿代段別銭 6文
                一、 惣荘桑代内 副徳御方分   副綿代段別銭   6文
                一、 例名収下 8町3反120歩  年貢段別銭   416文 外ニ名別 薪 6把
                一、 散用収下 1町7反 40歩  春請料段別銭  100文 年貢銭 500文
                一、 公田    1町5反 40歩  年貢段別銭   220文 米 140文
                一、 米田    1町4反240歩  
                       内訳   5反       公文給
                             9反240歩  段別春請料銭  100文 年貢米 900合(9斗カ)

                一、百姓名給  1町5反
                    外ニ
                    釈迦堂       4反300歩
                    未長瀬地蔵堂     350歩
                    神田        1反

               安食西荘福徳名
                一、 桑代畠   8反148歩    年貢段別銭 336文 副綿 1両
                一、 惣荘桑代内 副徳御方分  年貢段別銭 336文 *外名別ニ 駄代 40文、但 定使給分*
                一、 御給  2町7反        年貢段別銭 500文
                一、 米田  1町2反        年貢段別米 900合(9斗カ) 請料段別銭 100文
                一、 御名公田 2町5反220歩  年貢段別 銭 222文 米 140合(1斗4升カ)
                      *内 雑色免 定使給 各 1段*
                一、 散在田   4反120歩    段別年貢銭 500文 請料銭 100文
                例名収下     6反300歩    段別年貢銭 416文 請料銭  50文
                      外ニ 
                     溝田   2反
                     大久保地蔵堂寄進  1反

                以上でありました。同様の史料は、春日井市史 P、119〜120にも転記されており、田畠にかかる年貢段銭は、細かく規
               定されていたようです。
 
                                注目されたいのは、*  *で囲まれた記述。
                一、 御名公田 2町5反220歩  年貢段別 銭 222文 米 140合(1斗4升カ)
                      *内 雑色免 定使給 各 1段*と
                一、 惣荘桑代内 副徳御方分  年貢段別銭 336文 *外名別ニ 駄代 40文、但 定使給分*

                後期王朝国家体制下の別名としての体制であろうか、雑色(人)免の事であろう。国衙の最下級の在地で任用された官吏名で
               はなかろうか。畠も別名となってから畠から名別に駄代(運搬料カ)40文 但し 定使給分とある。雑色人は、かっては都と在地
               を往復する官吏であったようですが、運搬もしていた可能性があり、その名残りであろうか。荘園内の公田部分の年貢を運ぶ事
               をしていたのであろう。

                律令制的な官名の残存。同様な事が、阿賀良村にも残存している。里使免 1反。(この阿賀良村の公田(定田)は、条里制の
               一つ里の耕地より狭い地域であり、郷にもならない地域であったが故に、里使という役職になったのであろうか。)
                また国衙に管轄されていたと思われる観音丸 1反60歩。両方とも7・8世紀代まで遡りえる律令制的な官名であり、安食荘に
               ついては、実質10世紀末まで遡りえるのかも、
                阿賀良村の開発は、お隣に野口保・石丸保なる地域もあり、安食荘園と同様に11世紀末頃が想定出来ようか。

                鎌倉時代初期頃には、領家得分として、篠木荘園分を地頭が請け負っていた事も知られるからです。野口保・石丸保名は、室町
               初期に、登場している。{康安2(1362)年2月28日付の文書請取状に、「篠木荘内野口・石丸両郷、光録(土岐頼康)方より寺家
               に返付さるる渡し状正文一通」}という一文が、小牧市史 P.101にはあります。また、国衙領 野口・石丸両保の雑掌 幸賢と鎌
               倉円覚寺の知事 契智との間に交わされた和与文書(鎌倉市史 史料編 2巻 113・114・115号文書がそれであり、共に、暦
               応元(1338)年であり、10月26日の尾張国宣、11月28日の尾張国知行主 柳原資明書状、12月3日の光厳上皇院宣の3通
               であります。)が知られる。