内津妙見宮と奥の院

     1.はじめに
        多治見から内津峠を越えると内津妙見様の前を通って旧国道19号線(江戸時代は、下街道)は、走っていた。妙見宮の西側を旧国道から別れる道がある。
       現在は、その道の上に新国道19号線(バイパス)が走っている。

        * 現 内津妙見様は、神社と密接な関係にある妙見寺であり、「室町時代初期に天台宗密蔵院開山慈妙上人によって開創されました。」( 当地では、内
        津妙見様と言い、妙見寺とは言わないようですが・・。http://www.city.kasugai.lg.jp/shimin/bunka/bunkazai/midokoro/1004365.html 参照 )とか。

        妙見宮の西側の細い道を北に進んで行くと、妙見宮の庭園が現れ、遥か先に巨大な岩がそそり立つ。(天狗岩と言うそうな)更に先に進むと、道の右側に
       常夜灯がみえてくる。妙見宮の奥の院と言われるところである。

        この奥の院は、現在では、巌屋神社と銘々されているとか。旧 妙見神社とも言われていたようですが・・。道より少し奥まった所から参道があり、渓谷を
       石橋を渡り、山道を登って行く参道でありました。果たしてこの奥の院は、いつ頃からあったのであろうか。

        参道を少し行くと、狛犬があり、その後ろには、文化10(1813)年10月と刻印された常夜灯が二基建っていた。これ以後山裾の岩を削った幅の狭い急な
       階段等を上っていく道となり、大きな巌が現れ、巌は、中がくり貫かれて、そこへは、鉄筋でできた階段が設置されておりました。中には真新しい祠が、鎮座
       されていて、ここからは、土足禁止と書かれてあり、板張りになっておりました。

                  * 詳しくは、拙稿 内々神社(うつつ神社)の奥の院(旧 妙見神社 現 巌屋神社)を訪ねて  を参照されたい。*

        奥の院の常夜灯創建年は、文化10(1813)年。現 妙見宮再建年は、<現本殿・幣殿(1810年)と拝殿(1813年)の棟札アリ>から、当由緒書(本当の狙い
       は、藩への社殿再建申請)の申請(1810年代)を藩が、認め再建されたのでありましょう。拝殿再建と同時期に、奥の院では、常夜灯が建立されたのであり
       ましょう。

        ところで、現 妙見宮は、秀吉が朝鮮征伐での船の帆柱の杉材の謝礼金で創建したという謂れがあり、この社殿の創建前には、既に現 庭園辺りに古い
       妙見宮社殿が建っていたという説もある。「現本殿・幣殿(1810年)と拝殿(1813年)の棟札は、大工・木挽・葺師とも同じですが、1806年の屋根葺替えの棟札
       は、大工も葺師も違っており、旧社殿のものと考えられます。現社殿は1803年着工といわれますし、1810年頃書かれた社殿建替えの寄付金募集の許可申
       請書『妙見宮由緒書』には、秀吉の金で再建したのが今の社殿であると書いていますので、新旧の社殿が同時に存在したと考えられます。」(詳しくは、下記
       http://www.city.kasugai.lg.jp/shimin/bunka/bunkazai/kyodoshikasugai/1004412/1014885.html 内 高橋敏明氏記述の「妙見菩薩の庭〜内津の庭園4
       つの謎〜」 参照 )

        * 高橋氏の説が妥当であれば、旧社殿は、室町時代初期に天台宗密蔵院開山慈妙上人によって開創されました社殿である可能性があろうか。密蔵院は、
        平安末期 現 小牧市野口の山中にあった大山寺(天台宗 比叡山と双壁をなす寺)が、比叡山とののっぴきならない論争の末焼き打ちに合いましたが、
        その後も存続していた鎌倉最末期頃創建されたお寺さんであり、その後大山寺に代わって篠木33ヶ村を席巻したのでありましょう。

         現 春日井市熊野町にある医王山薬師寺密蔵院は天台宗延暦寺派の中本山で、嘉暦3年(1328)慈 妙上人(じみょうしょうにん)によって開山されました。*

        「伊勢度会神主より奉納された?大般若経が、神宮寺であったであろう内津見性寺に伝存している。」ようで、これらは神仏習合思想の結果として、雨乞い
       とか呪術的祈祷の為、僧を招きこれを転読させたようであると。とすれば、これは、鎌倉時代の頃の事でありましょうか。       
        (密蔵院伝存の「内津山妙見宮由緒」書にも、「五百五拾年程以前、勢州度會之神主、佛教書書寫いたし、…奥書ニ正元二年…書寫」とあり、正元2(1260)
       年は、鎌倉時代初期頃かと。)

        * しかし、「見性寺は、曹洞宗の寺院で天文年間(1532〜55)の創建といわれています。寺院には、伝来不詳の大般若経六百巻が冊子本となっており、至徳3年
        (1386)に一宮市地蔵院で写書されたものが多いなか、平安末期の文治3年(1187)といった古いものもある」ようで、創建年とは、相入れません。
         大般若経六百巻は、どのような経緯で当寺に残ったのであろうか。 (  https://www.shinkin.co.jp/tono/toshin/pdf/machi/ututu_town.pdf からの抜粋 )

         <日本に於ける「大般若会」の歴史を遡ってみると、703年に藤原京にあった四大寺に天皇が命じて行わせたようで、その後は寺院のみならず朝廷の宮中にも
        僧侶が出張して行われました。737年になると、奈良市にある大安寺で毎年行われるようになり、中世に至って全国に広まっています。>とか。
         ( https://www.sotozen-net.or.jp/newstopics/daihannya.html からの抜粋 )

         曹洞宗のみならず、天台宗でも行われているようで、見性寺でも行われていた可能性はありましょうか。書写年は、平安期・室町期であり、主は、中世であり、
         全国的に広まっていった風潮の成せるわざでありましょうし、創建年とは、相入れない事から、いつの時にか購入、或いは、納入等
された事を推測する。*

        それにしても、現地には、どこにも内津神社(式内社 内内神社)という名称は無く、妙見様とか、妙見宮としか出てきません。
        江戸時代 藩をあげて藩内の式内社の祭神を調査した『神祇宝典』の編纂がおこなわれた。しかし、祭神不明のため1646年の『神祇宝典』に内々神社は不
       掲載であるようです。

        確かに「内々神社」は、『延喜式神名帳』や『尾張国内神名帳』に「内内神社」として登載されていますが、中世に妙見信仰が盛んとなるなか、天正年間には
       兵乱で古記録類を焼失し、社名も祭神も分からなくなり、もっぱら「妙見宮」となってしまったとか。中世以降は、当地での内内神社の事柄は、完全に消去され
       た可能性が、高い。

        室町初期、美濃の土岐氏一族が、山田郡の瀬戸・春日部郡の大草・野口等へ侵攻し、押領していた事は、史実であり、この地域を侵攻した筈。
        承久の乱(1221年)時、騒乱のため現 味岡駅近くの小松寺(平清盛の長子再建)は、焼かれてしまったとも聞く。また、地域の伝承として本庄の神社も、建武の
       中興頃騒乱に合い滅失したという。
        古きものは、駆逐されたり、忘れ去られたりしていたのでしょう。だから、室町初期には、神社ではなく、妙見宮として建立される事に何ら支障もなかったのかも
       知れません。

     2.妙見宮の湯立神楽 
        この妙見様は、室町期以降は、この地域一帯 篠木33ヶ村より村毎に毎年湯立神楽を当社に奉納してきたという。実際に使われた湯立釜が6個伝わって
        いるという。篠木33ヶ村とは、<張州府志によれば> 、 野口、大山、大草、下原、関田、城内、名栗、下市場、神領、下大富、足振、久木、神明、出川、
        松本、外原、玉野、高蔵寺、白山、庄名、上野、和泉、一色、神尾、明知、西尾、迫間、内津、桜佐、牛毛、野田村であったかと。
        
        * 湯立神楽の奉納は、1660年頃以前までは、大規模なものであったのでしょう。が、その後は、内津村を含む地元で細々と湯立神楽は、続けられていたので
        しょう。いつ頃から行われるようになったかは、一切伝承すらない。推測にすぎませんが、最初に創建された妙見宮(室町初期)〜秀吉により新たに創建された
        妙見宮(天正期頃)のどこかから始まったのではないかと。

        湯立神楽については、密蔵院に伝存する「内津山妙見宮由緒」書に記述がある。この由緒書が書かれたのは、1810年頃で、由緒書の形式を取っていますが、
       <内容は、藩への妙見宮社殿再建の勧化(寄付募集)許可や宿証文を受けるための「申請」が本書の目的であった。>( 高橋敏明著 「妙見宮」再考 からの
       抜粋 詳しくは、http://www.city.kasugai.lg.jp/shimin/bunka/bunkazai/kyodoshikasugai/1004412/kyoudoshi70.html を参照されたい。)とか。

        妙見宮の湯立神楽は、「百五拾年前迄ハ、…篠木庄三拾三村より、村毎ニ毎年當社江、湯立神楽奉納仕候事ニ而、其節相用候村々銘有之湯立釜六ツ残居」
       とあり、近郷の村々から湯立神楽の奉納が1660年頃まで行われていたことが由緒書から分かります。ただし、1671年の「内津村概況書上写」では、湯立を行って
       いると記してありますが、近郷の村からの奉納はなくなり、しかし、地元ではその後も行われていたとか。初発は、いつ頃からかは、不明。1810年代には、釜は、
       6ヶであったということで、当初は、もっと多くあったのかも知れません。

        ところで、江戸時代の内津村は、天正年間頃までは、妙見宮のみあり、現 馬てい石のある辺りに妙見宮の一の鳥居があった所という言い伝えがあるとか。
        『尾張徇行記』では、内津には「宮社寺閣」しかなかったが、天正年間(1573−1591)に「御戸開キアリテ参詣ノ者群聚セシニヨリ、近村ノ人酒菓ノ類ヲ持来リ、茶
       店ヲ構ヘシ者数多アリ、其以来人屋築キ今ノ如ク内津一村トナレリ」と述べています。秀吉により社殿が再建されたことにより、賑わい出し、民家や店が、社殿近
       くに建ち並び、一村になったかのようです。が、その後は、寄付を常態としなければならないほどの困窮状況が当村には、あったと考えられます。

                  * 寛政期の内津村の一時的な商業状況は、拙稿 http://kikmaxozm.web.fc2.com/seikatu.html  を参照されたい。*

        いつ頃から内津峠越えの下街道が出来上がったのであろうか。江戸期に記述された「内津草」著者 横井也有も確かに隣の多治見の永保寺に参拝された筈
       ですが、どこを通って行かれたのか残念ながらその記述は無い。

        現 春日井市西尾町には、内津川右岸よりの山裾辺りにこの地域では、最古の横穴式古墳(欠の下古墳 滅失)が存在していた。弥生時代末期頃の松河戸・
       勝川遺跡へ、下呂近くで取れる下呂石が、来ていた。既にこの頃でも、何らかの流通通路があった事が推測できる。とすれば、こうした古墳が存在していた地域
       を経由していたのではないかと推測する。その当時の通る道は、谷筋の道ではなく、尾根筋の道であったのかも知れない。現在残っている古い下街道をみると、
       尾根筋ルートを通っているようですから。川筋、谷筋等は、極力控えた通行の仕方ではなかったろうか。

    3.馬の塔(おまんと)とは
       <馬の塔(おまんと)とは、「馬の頭」「御馬の塔」とも書き、江戸時代から五穀豊穣・雨乞いなどのお礼として、標具(だし)と呼ばれる札・御幣などの造り物を立て、美
      しい馬具で飾られた馬を1日だけ寺社に奉納するもので、尾張・西三河・東美濃地方の代表的な祭礼習俗の1つである。>とか。
        史実として最古の記録は、室町時代の1493年に行われた猿投山(豊田市宮口)の献馬の記録でしょうか。

       篠木33ヶ村も馬の塔(おまんと)を行っていた。もとは5月18日に馬の塔が行われていましたが、明治以降10月18日になりました。現在は、行われていません。
       篠木庄33箇村(現春日井市)からなる篠木合宿はもともと熱田神宮に献馬していましたが、永禄年中(1560頃)以降龍泉寺へ変更したという。初発は、不明。
        詳しくは、拙稿 馬之塔(おまんと、或いはおまんとう)と小牧市野口・大山地区の関わりについて  を参照されたい。

    4.内内神社について
       熱田神宮などに伝わる『尾張国熱田太神宮縁起』(巻末に「寛平二年」(890)と記載。以下「熱田縁起」といいます。)で、我々のよく知る内津の日本武尊伝説が
      載っています。内津のシーンでは、古代尾張の英雄・建稲種命の死と古代国家の英雄・日本武尊の悲嘆がドラマチックに叙述され、内々神社は尾張氏の祖・建
      稲種命を最初に祀った鎮魂の神社となりますと。

       同様の記述は、本国神名帳 著者 天野信景 にもあり、この著書は、宝永4 年(1707年)自序; 出版書写年カ。
       「尾張守 村椙 寛平2年熱田記云々」という書き出しで、上記と同様な記述がしてある。(https://websv.aichi-pref-library.jp/wahon/pdf/1103267241-001.pdf 
      35/59  参照)

                                                                          平成30(2018)年12月30日  最終脱稿

             付記
       「熱田神宮に関する最古にして根本を成す縁起として知られた『尾張国熱田太神宮縁起』がある。本書は874年(貞観16年)に熱田社別当であった尾張清稲によ
      り記述され、さらに890年(寛平2年)10月に国司であった藤原村椙が筆削を加えたものといわれるが、尾張清稲・藤原村椙という両名の人物像が不確かなこと、当
      時代の記述としてはいくつか矛盾をはらんでいることなどから、その成立は平安時代ではなく鎌倉時代初頭の成立とする説も根強い。」とか。       
       ( https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%B1%E7%94%B0%E7%A5%9E%E5%AE%AE 最終更新 2019年2月18日 (月) 10:45  からの抜粋 )