壬申の乱時 在地の有力者 尾張馬身について

            1.はじめに
               尾張連大隅については、拙稿を参照されたい。ここでは、壬申の乱時、尾張国守 小子部さひちを大海人皇子側へと導いた
              在地の有力者の一人 尾張馬身(マミ)について私見を述べてみたい。

            2.尾張馬身について
              日本書紀には、記述が無く、続日本紀 天平宝字2(758)年4月19日条に馬身は、登場する。
              「はじめ尾張連馬身は、壬申の年の功で小錦下になったが、まだ姓を賜わらないうちにその身が早く亡くなった。これ
             によって馬身の子孫に等しく宿禰の姓を賜う。」と。とすれば、馬身は、684年以前には、死去されたのでしょう。
              
              よって馬身は、八色の姓(684年)が制定される以前に死去されていることから、宿禰姓は付与されていない。大隅には、与えられ
             馬身には、無い。片手落ちの感があり、それを「大宝2(702)年 尾治(張)連子麻呂・牛麻呂に宿禰姓を持統太上天皇の最後の行
             幸の尾張国で与えたと言う記述」(続日本紀 大宝2(702)年11月13日条 参照)と「はじめ尾張連馬身は、壬申の年(672年)の
             功で小錦下(この位階は、664年2月9日の冠位26階の制以降のものカ)になったが、まだ姓を賜わらないうちにその身が早く亡くなった。
             これによって馬身の子孫に等しく宿禰の姓を賜う。」が対応していると捉える事はできないのであろうか。

              新修名古屋市史 第1巻 P.557には、「尾治連若子麻呂と牛麻呂は、直接的には天武13(684)年12月の尾張連氏等に対す
             る宿称賜姓から漏れていたものを、救済・補充したものであり、美濃国の宮勝木実(ミヤスグリノコノミ)とともに広い意味での壬申の乱時
                             の功績を賞したものと見てよいであろう。」と記述されている。

              しかし、同上名古屋市史では、「尾張氏主流家は、天武13(684)年に宿称と改賜姓されているようで、馬身の子孫の宿称姓が与
             えられたのは、天平宝字2(758)年4月。と」(続日本紀 参照)とも記述され続日本紀内でも統一されていない可能性が高い。

              が、持統太上天皇の最後の行幸は、大宝2(702)年であり、続日本紀 11月13日条をとれば、若子麻呂・牛麻呂両名は、尾張
             馬身の嫡子?とも把握できるのではなかろうか。

               <参考> 大宝令制下以降での帯位授受から知られる尾張連氏一族の動向は、下記の通りであります。
                「和銅2(709)年   外(ゲ)従五位下 愛知(智)郡大領 尾張宿禰乎己志(オコシ)・・・・(大隅直系 海部直祖カ 私の注)
                天平2(730)年頃             春日部郡大領  尾張宿禰人足(ヒトタリ)
                                          参考までに、郷土誌かすがい 第4号内に {「春日部郡の豪族と古
                                         寺址」と題して久永春男氏の論述があり、「春部郡を本貫としたこと
                                         の確実な豪族として、尾張連一族がある。『寧楽遺文』の歴名断簡
                                                                                          であります勘籍(カンジャク){中巻 平成9年版 P.539 下段 参照}
                                         に、尾張連牛養年廿七 尾張国春部郡山村郷戸主 大初位下 尾張
                                         連孫戸口 という記載が見られる。大初位下といえば、郡の主帳級の
                                         位階である。という記述もある事を付け加えておきます。}上記。『寧楽
                                         遺文』の歴名断簡であります勘籍(正倉院文書)は、何年かは不祥。
                                          かなりの数(100名余分)が一括表記されている点、年代は新しい
                                         と推測します。通常は、何年の戸籍参照と記述されますが、そうした
                                         記述はなく、只 大初位下の尾張連孫と記載。位階としては、最下層
                                         でありましょうが、天皇家へのかなりの勲功がなければ、無位の家柄
                                         では与えられないのでは・・・・。

                     * 勘籍とは、「8世紀初めに大宝律令や養老律令が制定されたことで完成した律令体制下、戸籍をさか
                     のぼって身元を確認する行政手続き。官人の登用や僧侶になる場合に実施され、確認ができれば課役
                     負担を免除された。犯罪で刑罰を受ける際にも行われた。10世紀半ばまで制度として存続したとされて
                     いる。」とか。*
                                          
                天平6(734)年頃             海部郡(アマグン)郡領(?)  尾張連氏一族」
                                      (以上の事柄は、「古代貴族と地方豪族」 野村忠夫著 吉川弘文館 平成元年刊 P.25 参照 )

                8世紀半ば頃(聖武天皇治下)       中嶋郡大領   尾張宿禰久玖利(ククリ) ・・日本霊異記の説話より 

              *  尾張氏考 http://ek1010.sakura.ne.jp/1234-7-8.html では、熱田大宮司には、稲置(大隅直系)が就任したとも取れます。
               更に、旧事紀の尾張氏系図には、尾張馬身なる人物は、記載されていない。若子・宇志なる人物は、大隅の弟として表記。
               大隅の父は、「多々見」となっている。或いは、詳しくは、https://ootuka2014.jimdo.com/T期/4話 参照されたいが、
          上記論者の推論から言えば、馬身=「多々見」と捉えなくもない。後述しておりますが、この論をとれば、馬身以降
          尾張国内において尾張連氏一族間で、尾張国内の分割方向へ向かったのではとも・・・・。

                                                                                    
                            「 こうした事例は、時代は、下りますが、仁和元(885)年12月、春日部郡大領であった 尾張宿禰 弟広が二人の息子の庸調等を前
            納する申請をし、許可されるという事にも現れている。」(小牧市史 通史 参照)とすれば、弟広は、人足の末裔カ。

                            *   しかし、8〜9世紀においても山田・丹羽郡域には、未だ郡司名は見い出せないでいます。山田郡域は、歴史学上でも範囲は、定か
              ではないようです。この尾張馬身の本拠地を山田郡と仮定すれば、以下述べる大草・野口辺りまで山田郡域の可能性も視野に入れて
              もいいのではなかろうか。*

              更に新修名古屋市史 第1巻 P.531には、「尾張氏主流家は、天武13(684)年に宿称と改賜姓されているので、馬身は、これ
             以前に没し、かつ主流家出身でもなかったことが知られる。また賜与された冠位(小錦下)が天武側近の舎人や畿内豪族より低いと
             ころをみると馬身は尾張国内の評造の一人として参戦した人物であったのではなかろうか。」と記述されている。馬身は、壬申の乱後
             亡くなったようで、その嫡子? 若子麻呂・牛麻呂(旧事紀の尾張氏系図の若子・宇志に当たる人物カ)に引き継がれたとみなしたい。
             推測に過ぎませんが、春日部郡大領 尾張宿禰人足は、或いは尾張馬身の嫡子?のどちらかの人物と同一ではなかろうか。
              更に正倉院文書の断簡(勘籍)にある尾張連牛養年廿七 尾張国春部郡山村郷戸主 大初位下 尾張連孫戸口なる人物は、馬身の
             孫に関わる記述ではなかろうか。

            * 名古屋市史で述べて見える「馬身は、かつ主流家出身でもなかったことが知られる。」なる根拠は、何であろうか。根拠となる事柄は、
             市史内では述べられていない。未確認事項ではありますが・・・。*

           3.尾張馬身の支配地の推定
              歴史学の上では、馬身の支配地は、未定であり確定はしておりません。これから述べる事柄は、推測であり確定している事では無い
             事をお断りして大胆に推測してみたいと思います。

              春日部郡東北部にある野口・大山地区には、白鳳期{狭義では天武〜持統朝 (673〜697) から平城京遷都 (710) までの約 40年間を
             いい, 広義には大化改新 (645) から平城京遷都までの約 60年間}に建立された大山廃寺があった。一宮市史では、大山廃寺の創建
             は、8世紀頃と記述されている。創建地の春日部郡東北部は、尾張氏主流家からは随分離れた地域であり、こうした時期に古代寺院を
             建立出来えるのは、それなりの在地の有力豪族(天智朝の頃の評造の一族カ、後の郡司)でしかない。

              また、津田正生著「尾張国地名考」・「尾張国神社考 原題 尾張神名帳集説乃訂考」なる二つの書物を私も、実際に目を通しましたが、
             「尾張国地名考」では、本国帳 正四位下 草田天神(天神名は、天武朝以降皇室系の神に付与されている筈)とのみ記載され、考えうる
             に、八幡社が、それに当たるのか尚推考すべし。云々とのみ。多少混乱があったのではなかろうか。天神は、皇族系神である筈。
              さらに、「尾張国神社考 原題 尾張神名帳集説乃訂考」においては、正四位下 草田地ノ神と記載され、八幡社が、是にあたるべし。社
             家 鵜飼氏と断定されて記載されていたのみであった。草田地ノ神は、尾張国を支配した尾張草香期頃以前の在地の古くからの豪族の神
             でありましょう。式外社扱いであったようです。

              私が目にした写本 天野著「尾張国神名帳集説 正式名 本国神名帳集説」には、草田地神として記載されていた。しかし、この地神が、
             どこの社に当たるのかは、天野氏は、その書には、記載されていない。江戸期には、既に過去の存在であり、伝承等も曖昧糢糊になって
             いたのでしょう。

              上記両書に記載された「草田地神或いは草田天神(天神なる名称は、天武朝頃に確立した筈)」なる神社は、私は、春日部郡東北部の現
             大草地区にあったのではと推測いたします。大草在住の古老等からは、現 尾張小牧・大叢山福厳寺に隣接する小高い山を「地神山」と呼
             んでいたとも聞く。伝承でありますから一級資料にはなりえませんが・・・・。

              更に、JA尾張中央 広報誌 ふれあい 2010.5月号に掲載された入谷哲夫氏の「大草に小国家あり」と題する小論。
              と言いますのは、「現 小牧市一之久田の小針には、小字名であろうか、地名に、政所・土器田(かわらけだ)・鏡田(かがみだ)・一色田
             (いっしきだ)というのがあるという。政所は、政治を司る所か、郡衙に関わる役所か。土器田は、祭器を焼く者に与えられた給免田名でし
             ょうか。鏡田は、神に捧げる鏡を造る者に与えられた給免田、一色田は、刀剣を造る者に与えられた給免田名と理解すればいいのでしょ
             うか。そうした字名が残っていた。」 と。

              小字名としては残っていないのですが、同様な所が、大草中(地名)にもあったと大草在住の落合さんという方が、入谷氏の話を聞かれた
             後で、言われたようであります。(詳しくは、JAの広報誌を参照下さい。 http://www.ja-owari-chuoh.or.jp/about/pdf/fureai-201005.pdf  )

                              上記の話が、史実であれば、 小針と大草 この地域は、大山川流域・八田川流域に属する点、同属であった者カ・どちらかが移住したとも
             取れそうでありますし、大草の神を地神とみなせば、式外社、一方野口には、山田郡の式内社 小口(をくち)神社カ。むしろ野口の方が、大
             山川の源流域であり、大草は、八田川源流域ではあります。野口と大草とは、隣接している位置関係ではあります。とすれば、小針が元で
             大草は、移住とも取れそうでありましょうか。

              以上の事柄が、以前から気にはなっておりましたが、こうした事柄と尾張馬身の嫡子?が、若子麻呂・牛麻呂という大宝2(702)年の両名
             を認めれば、馬身(7世紀代の人物)は、尾張大隅とは、同時代人であり、大隅は、愛知郡の評造カ、馬身もまた尾張草香以降の末裔の可
             能性を推測致します。
              新修名古屋市史にも「馬身は尾張国内の評造の一人として参戦した人物であったのではなかろうか。」とも推測され、愛智郡外の人物
             と捉えられているようで、尾張氏主流家ではない、傍系であり、その当時の尾張国守(小子部さひち)も一目置く存在として把握されている
             かのようです。案外、尾張一国全体を尾張連馬身(実は、尾張氏考の尾張連「多々見」と同一人物とみなせば、尾張国全体を手中に収め
             ていた人物であり、尾張国内は、二分割乃至三分割して実子達が、分配していったとも推測できるのではないかと。・・私の注)が掌握し、分
             割支配の端緒についていた可能性もありましょうか。それが、8世紀初頭頃から郡司名(○○郡大領名に尾張氏一族名が出てくる。・・私
             の注)として出てきているのではないかと。

              更に、馬身より一・二世代後の事柄でしょうか「神護景雲2(768)年に尾張国山田郡人 従六位下 小治田連薬等が、尾張宿禰という
            姓(かばね)を得ており、} (小牧市史 通史 P.72 参照)とあり、小治田名からは、新規?開発地の有力者とみれば、この地は、後の山
            田郡内のどこかではなかろうか。とすれば、後の春日部郡山村郷に当たるのではなかろうかと推測したい。小治田連氏の出自は、分かり
            かねますが、尾張宿禰姓(カバネ)を与えられている点、尾張氏(小治田 姓の始祖は、物部氏であり、5世紀代の頃尾張氏に同化した一族カ)
            である可能性を推測する。(小治田=小墾田ー>小針と転化したとも取れそうです。・・・私の注)

             尾張草香と同時代には、勝川の近くに二子山古墳(尾張第2の前方後円墳)が出来ており、物部氏系ではないかと推測される同古墳は、案
            外尾張氏と同化した一族の名残りカ。その証拠に、熱田台地の尾張第1の大きさを誇る断夫山古墳(尾張草香に関わる古墳カ)に、二子山古
            墳で使われている同型の尾張式円筒埴輪が一部使用されている事。既にその当時から勝川一帯は、尾張氏一族(同化した物部氏一族カ)が
            支配していたとも取れそうです。その記念碑的存在としてこの地に造営したとも。
      
                            *  継体天皇と目子媛{尾張草香の娘・尾張凡(オオ)の妹}の長子 後の宣化天皇は、入鹿屯倉・間敷屯倉を尾張国内に置いたと。入鹿屯倉                   
              は、丹羽郡内、間敷屯倉は、二説あり、確定していませんが・・。草香以降(5世紀末以降7世紀にかけて)尾張氏一族は、尾張国内での支
              配体制を確立していったのでありましょう。草香が、国内を統一した頃、尾張国内では、尾張氏以外の一族も勢力を維持していた可能性が
              高い。丹羽郡では、青塚古墳を造りし、一族が、勝川周辺には、二子山古墳を造りし一族が、田楽周辺には、下末古墳を造りし一族が、勢
              力を維持していたのでしょう。
               二子山古墳一族は、八田川流域を、下末古墳一族は、西行堂川(大山川支流)流域を支配領域としていたと推測する。伊多波刀神社か
             らは、下末古墳は、直線距離で800m。篠岡の瓦陶兼業窯である篠岡2号窯に続く、78 号窯、66 号窯、74 号窯の4基は、直線距離で2・3
             Km以内であります。こうした位置関係は、拙稿 春日部郡に存在していた多楽里の伊多波刀神社について  内の参考地図を参照されたい。*
 
                                草香以降で、尾張馬身以降は、7世紀代には、既に庄内川以北一帯を支配領域とした一族となりえたとみることは出来ないのでありましょうか。

              * 名古屋市史の論者は、尾張馬身を尾張大隅(尾張家本家)の傍系という捉え方であるようですが、続日本記をつぶさにみれば、所々で、
              記述の食い違いはありますが、下記のような記述をされる論者に遭遇する。

               {『続日本紀』の大宝2(702)年11月に持統女帝が東国に行幸します。(続日本紀 11月13日条 参照)このとき11月13日に、尾治若子
         麻呂
                            
と牛麻呂に宿祢すくねかばねを賜っています。また天平宝字2(758)年4月19日条に、「尾張連馬身まみ、壬申の功で先朝、小錦下(
         のちの従五位下)に叙すれども、姓を賜はず早く
す。馬身が子孫に宿祢の姓を賜ふ」と記しています。

          小錦下は天智3(664)年に制定され、天武の時代にも使われています。大隅の直広肆は天武14(685)年に制定した制度です。
 
         つまり乱後(672年後)すぐに馬身が小錦下に叙され、馬身の死後、持統
10(696)年5月に大隅が直広肆(臣下の16番目カ)を
      
         賜ったのです。}と。詳しくは、https://ootuka2014.jimdo.com/T期/4話 参照。

          上記論者は、馬身が、先に天武朝から位階を受け、その後大隅が、位階を授けられていると取られています。
          この事から、上記論者は、馬身を尾張氏の長老、大隅は、壮年の実力者と読み取られたようですが、馬身と大隅の関係は、どうであ
         ったのだろう。この論者の推論を取れば、草香以降の世紀間で尾張氏一族間で何らかの覇権乃至支配分割争いがあったことになりまし
         ょうか。*


             実際、末・大草と野口地区は、条里制の遺構が認められるようであり、古くから開発されていた地域でありましょうし、この地区には、古代の製鉄
            跡地もあります。(拙稿 桃花台周辺に存在した 古代のたたら製鉄跡について の覚書 参照)大草は、草田の里ともいわれていたとか、八田川の
            源流域であり、自然災害が頻発した地域ではなかろうか。在地の豪族を尾張氏一族が取り込んだ可能性はないのだろうか。

             *  八田川下流域(二子山古墳のある所より上流域 現 春日井市朝宮公園辺り)は、尾張氏以前より物部氏系の和邇氏の勢力範囲であり現 春
              日井市上条町に移築された神社・別当寺は、朝宮で寂れていたので江戸期頃移築したという。<春日井市史参照> *

              7世紀末〜8世紀初頭ごろの尾北窯(篠岡窯)、さらに5世紀末の下原古窯においても尾張円筒埴輪の焼成から古代寺院の瓦等の焼成等
             について尾張馬身一族の支配域をここに推定すれば、上記全ての事象の説明がつくのではなかろうか。

              蛇足ではありますが、篠岡古窯の窯跡からの破片には、「五十戸(里カ)」或いは「多楽里□張戸」「鹿田里(ママ)」と記された記名瓦が出土し
             ている。この遺物をどのように理解するかは、確定していませんが、多楽里は、現在の春日井市田楽カ、鹿田里は、現 師勝町カとみれば、里
             長(在地の小有力者、かっての在地の古墳を築造した一族の末裔カ古墳氏族を取り込んだ新たな一族カ)が、在地で建立している勝川廃寺・
             大山廃寺へ瓦(知識物)として贈った証と取れなくも無いかも。この知識物(記名瓦)は、近隣の市史等では、勝川廃寺へ搬入されたと記述さ
             れている。
              庄内川右岸支流八田川をさかのぼれば、下原・大草に至る点、また、庄内川支流内津川沿いは、陸路(古代の下街道)・水路等も利用出来
             得ていたとも推測できそうでありましょう。大山川を遡れば、大山川源流域 野口・大山に至る。

              更には、瓦陶兼業窯(篠岡窯では、4つのみ)は、篠岡丘陵(現アピタ、現国道155とアピタ横を通る春日井駅に向かう道の交差している近辺)
             に存在し、しかも丘陵に続く田楽層上には、下末古墳が存在する。
              篠岡丘陵からの雨水が、西行堂川となって現 田楽・下末地区を流下し、現 牛山で大山川に合流している。その西行堂川の源流沿いには、
             古代の製鉄跡地(現 旧イスのホウトク)が窯跡に紛れて確認されていますし、その西行堂川沿いに下末古墳は、築造されている。古墳の原型
             は、削へいされているようですが、元は前方後円墳ではなかったろうか。

              * 「確かに前方後円式の古墳で、今は前方部は大部分破壊せられ、後円部も一本の大きな松のあるのと、宇江社が近年迄存して居た為(
              今も其の跡に小祠が残つて居る。・・私の注)、辛うじて破壊をまぬがれて居る。古老のいふ処によると、小祠の横に立てゝある大きな石を指
              して、この石がこの処の地中にふさつて居て、其の下にこの―小祠の壇に積んである―沢山の石があつたと語られた。思ふに石を積んで石
              棺式の石室を造り其の蓋に其の大きな石がふせてあり、其の上に盛土のしてあつたのではないかと思はれる。
               前方部の処に土器の破片が散乱して居た、拾つて見ると須恵の円筒埴輪の破片である。埴輪は普通土師で作られてあるが、近畿地方に
              限り須恵質のものがあり、東は本県の三河にまで及んでゐる。熱田の断夫山古墳や白鳥古墳の円筒も須恵である。
               陶主山(下末古墳の別名カ・・私の注)周囲に堀のあつた痕跡も見られる。尚又附近にも塚があつたといふが、今は田になつて居る、小さい
              陪塚のあとであると思ふ。」(『愛知教育 第五百六十四号(昭和九年十二月号)』所収『郷土史料をあさりて』1934年(昭和9),山村敏行・伊奈
              森太郎 「五二一、陶主山古墳と宇江社」より引用)という記述。
                                 上記文言を直接ご覧になりたい方は、愛知県立図書館所蔵 愛知教育 マイクロフィルムとして保存されていますので自ら図書館に出向い
                              てみてください。( https://websv.aichi-pref-library.jp/list/sz/micro.pdf  参照 )

                *  諸本集成 倭名類聚抄 外篇 (別名 日本地理志料)からみた春日部・山田・丹羽郡について の春日部郡内 池田郷の記述中に「乎
                江の神社、本国神名帳魚江天神作る、本荘村の宇江山に在り、本荘は、即ち荘司の宅の所」が存在する。この著者は、池田郷=平安期
                の味岡荘と把握されているかのように読み取れる。
                 『郷土史料をあさりて』にては、下末古墳上に宇江社がかって存在していたと。大胆な仮説でしかありえませんが、陶主山(下末古墳の別
                名カ)=本荘村の宇江山と同義語であるとすれば、宇江社とは、乎江の神社、本国神名帳魚江天神のことではなかろうか。*

                                 *  本国神名帳 写本(愛知県図書館所蔵)を閲覧すると「従三位 別小江(ワケヲエ)天神 1ニ(入カ大カ)江ニ作ル 神社考燈曰乎江神社若子宿
                禰」とある。若子宿禰とは、尾張馬身の子 若子麻呂の事であれば、乎江神社と若子麻呂との間には何らかの関わりがあったと伝承されて
                いた可能性を推測する。詳しくは、https://websv.aichi-pref-library.jp/wahon/pdf/1103267241-001.pdf  を参照されたい。*

              5世紀末以前頃は、小国家群が林立しており、春日井市史編者は、その範囲を2Km×2Kmと推定されている。その後、尾張一帯は、尾張氏
             により統合されていったようですが、その尾張馬身・若子麻呂・牛麻呂は、7・8世紀代の人物であるようです。併せまして尾張大隅なる人物も同
             時代の人物でありました。
             
              史実は、後日に期したい。                                            平成29(2017)年8月23日 脱稿
                                                                          平成29(2017)年8月27日 一部加筆
                                                                           平成29(2017)年9月24日 一部削除加筆
                                                                           平成29(20179年10月22日 一部訂正