小牧市本庄の八所社を訪ねて
1.はじめに
拙稿 旧 春日井郡本庄に存在する八所社について の関わりで、はじめて我が家に近い所にある八所社へ愛犬を愛車に乗せて訪れた。
味岡・明知線を味岡方面に向かって走り、本庄西交差点を右折。最初の左折路で曲がり、直ぐ右折直進すると八所神社の参道へ出る。
参道の最後の所には、字がかすれかかった看板が立ててあり、「犬を連れた参拝を禁ずる」旨の言葉があり、止む無く愛犬を参道の木に縛
り私ひとりで本殿に向かった。
八所神社の右側・左側共に民家が迫り、八所神社の小高い丘陵に続く後方の丘陵部分は、宅地化され、民家が既に建っている。
小牧市本庄に現存している八所社なる社、詳しくは、http://www.geocities.jp/engisiki/owari/bun/ow100502-01.html を参照されたいが、そ
こには、【延喜式神名帳】乎江神社 尾張国
春日部郡鎮座なる記述がある。
2.八所社を訪ねて
この神社の創建は、天正3年11月松浦讃岐守とか。
本殿前には、立派な石碑が立ててあり、御祭神名がかかれてあった。裏をみると昭和63年2月吉日。松浦 茂以下18名連名で刻印されて
いる。
祭神名は、「高皇産霊神・神皇霊神・藤原広嗣・藤原夫人・崇道天皇{早良親王(さわらしんのう)}・吉備右大臣・橘逸勢・文屋宮田丸・伊予親
王・菅三公」と刻印されていた。
* 「無実の罪を背負って死亡した事で逸勢は怨霊となったと考えられ、貞観5年(863年)に行われた御霊会において文屋宮田麻呂・早良親王・
伊予親王などとともに祀られた。現在も上御霊神社と下御霊神社で「八所御霊」の一柱として祀られている。」
( https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%98%E9%80%B8%E5%8B%A2 最終更新
2016年11月13日 (日) 14:36 より引用 )
*
とすれば、上記祭神名のうち、「藤原広嗣・藤原夫人・崇道天皇{早良親王(さわらしんのう)}・吉備右大臣・橘逸勢・文屋宮田丸・伊予親王・菅
三公」は、「八所御霊」とも解する事が出来ましょうか。天正期の創建で合祀されたとみなしたい。「高皇産霊神・神皇霊神」がもともと祭られてい
たのか、合祀されたのかは不明でありますが、延喜式神名帳 「乎江神社」 尾張国
春日部郡鎮座とどのように関わっていたのであろうか。
*
東春日井郡誌(大正12年発行)によれば、「小牧市大字本庄にある八所社は、式内乎江神社にて、氏子は、近郷田中村・文津村・小松寺村・
本庄村の4ヶ村であった。然るに正慶年中(1332年〜)兵乱の為、消失して絶社。天正3年 肥前平戸城主 松浦肥前守の舎弟 松浦讃岐守
勝政が、当地に帰農し、社殿を再興。」したという。*
階段手前には、本殿に向かって左手側の奥まった所にも小型版の本殿が見えた。これが、天正期の創建神社か、もともとあった神社の名残り
かは、地元の方にお聞きしないと分からない事柄でありました。
置き去りにした愛犬が寂しそうに鳴いていましたので急いで帰り、帰路につきました。訪問日は、平成29(2017)年9月3日(日)の午前中であり
ます。
* 尚、当社の写真等は、https://blogs.yahoo.co.jp/jk2hri2/22577528.html?__ysp=5p2%2B5rWm6K6D5bKQ5a6I
を参照されたい。
3.春日部郡 東北部一帯の支配
特に八所社辺りは、平安末期には、味岡荘となり、皇室領となった所でもあります。拙稿 春日部郡東北部の味岡荘について でも述べています。
おそらく、大山川流域での大洪水等が起こり、それ以前の開拓された所は、荒廃したと推測されます。それ以後春日部郡郡司 橘氏により再開発
されたのではなかろうか。
* 「 野田郷(春日井市)、林村(小牧市)、阿賀良村をも合わせた 範俊開発 地域の広がりとその地理的状況、国司 平忠盛と郡司との主導のも
とに一円立荘された篠木荘の経緯を勘案するならば、春日部郡東北部一帯の開発領主とは、天養元(1144)年当時の郡司 橘氏一族とみるの
が自然であろう。」( 講座 日本荘園史 5 P.359 上村喜久子氏論文 参照 )。*
そこで気になるのが、林村(小牧市)、阿賀良村両村から鎌倉円覚寺宛に出された請書。宛名は、明記されていませんが、内容から推察するに円覚
寺宛であることは、明らかであります。この請文は、円覚寺文書として残されていた。鎌倉市史 資料編(吉川弘文館発行)参照。
その内容は、「 当村は、春日部郡司 範俊開発の内たる条異議なく候、但し、彼の跡篠木・野口野田以下は、関東御領として円覚寺御管領候といえ
とも、当村においては別相伝の地として、宴源・浄円等面々累代相承し、今に相異なく候」と記述されている点。
この文面は、橘氏の再開発以前の何らかの開発の謂れを物語っているように推測出来る。
上村氏もまた、「この林・阿賀良村両村の開発主は、熱田大宮司家であろう。」(尾張の荘園・国衙領と熱田社 P.378参照。)と推測されているよう
です。私も同感であります。
*
二度目の、有名な藤原宮は、持統天皇が造った藤原京の宮殿である。持統天皇4年(690年)10月29日に太政大臣の高市皇子が宮の場所を視察
し、8年(694年)12月6日に天皇が遷った。和銅3年(711年)3月10日に元明天皇が平城宮に遷るまで用いられた。
この藤原京跡から「春部評春□」なる木簡が出土。既に7世紀後半から8世紀前半頃には、春日部郡の前身「春部評」の存在を裏付けられる。その
当時は、郡の下は、里であり、多楽里なる記名瓦が、篠岡の窯跡から出土している。この窯跡の瓦は、勝川廃寺へ納められた。春部評の評造クラス
の私寺であったのでしょう。尾張連馬身(新修名古屋市史 第1巻 では、尾張氏の傍系であり、評造と推測されている。)の子 若子痲呂・牛痲呂との
関連はないのであろうか。*
名古屋市史では、尾張連馬身は、尾張一族の傍系と知られる一文はありますが、その根拠となった事柄は、どこにも記述されていない。是非知りた
い事柄ではあります。インターネット上の「尾張氏考」なるHPでは、旧事紀より、尾張氏系図が記述されている。そこには、尾張連大隅・若子・宇志は、
兄弟関係。父は、多々見とある。
更に某HP上では、「馬身は、尾張一族の長老・大隅は、壮年。」ではないかと推論されている。であれば、多々見=馬身ともとれそうであります。
史実は、後日に期すことにして、終筆とします。