旧 春日井郡本庄に存在する八所社について

             1.はじめに
                現 小牧市本庄に現存している八所社なる社、詳しくは、http://www.geocities.jp/engisiki/owari/bun/ow100502-01.html を
               参照されたいが、そこには、【延喜式神名帳】乎江神社 尾張国 春日部郡鎮座なる記述がある。

                現在の八所社は、天正3年11月松浦讃岐守創造とか。
                更に、上記htmlファイル内にも「式社乎江神社は廃絶したものと思われ、祭祀を継承した神社も明らかでない。
                      A八所社(小牧市本庄=当社)
                      B熊野社(小牧市岩崎)
                      C天神社(小牧市三ツ淵宮前)
                      D八幡社(瀬戸市水北町)
                      E神明社(春日井市大留町)
                      F大江神社(西区比良の六所神社に合祀)
                                      などに比定する説もあるが不詳である。」とも記載されている。
                実際は、そのようであり我田引水的な記述でない所が奥ゆかしい。

             2.乎江神社に関わる古い記述
               ア、本国神名帳 写本(愛知県図書館所蔵  https://websv.aichi-pref-library.jp/wahon/pdf/1103267241-001.pdf  参照)
                 「従三位 別小江(ワケヲエ)天神 1ニ(入カ或いは大カ)江ニ作ル 神社考燈曰乎江神社若子宿禰( 更に隣の行には、)按旧事
                紀物部印葉連之弟大別連カ」とある。確かに別小江神社は、現 庄内川右岸に存在している。その当時の従三位 別小江(ワ
                ケヲエ)天神に比定出来ればですが・・・・。とすれば、入江ではなく、大江(庄内川に比定出来る。・・・私の注)でありましょう。

                 若子宿禰とは、尾張馬身の子 若子麻呂の事ではなかろうか。とすれば、乎江神社と若子麻呂の間には、何らかの関わり
                があったという伝承の存在を推測いたします。また、本国神名帳には、「従三位 乎江天神 魚江天神カ」とも記述され、式内
                社として記載されています。
                 著者 天野信景。貞観延喜旧式参考国帳数本・本州神名帳一篇と伊勢神宮神主 度会延経の話を基に記述されたようです。
                 宝永4 年(1707年)自序; 出版書写年カ

              イ、 諸本集成 倭名類聚抄 外篇 (別名 日本地理志料)  昭和56年再版第2刷発行の臨川書店 参照
                 著者は、邨岡良弼(木楽斎)。明治期の御用学者カ。
                 春日部郡内 池田郷の記述中に「片山の神社、亦片山の地に在り、乎江の神社、本国神名帳魚江天神作る、本荘村の宇江
                山に在り、本荘は、即ち荘司の宅の所、非多の神社、林村卑田の地に在り、林村元亨中鎌倉円覚寺領と為る」と。
                 詳しくは、拙稿  諸本集成 倭名類聚抄 外篇 (別名 日本地理志料)からみた春日部・山田・丹羽郡について を参照され
                たい。
                 著者は、どのような資料を用いて既述されたかは不明。おそらく天野氏著書等も参考にされたのでしょうが、注目されたいのは、
                「乎江の神社、本国神名帳魚江天神作る、本荘村の宇江山に在り、本荘は、即ち荘司の宅の所」というくだり。前半部分は、確か
                に天野氏の記述にもありますが、後半の下り、「本荘村の宇江山に在り、本荘は、即ち荘司の宅の所」という個所の記述の元は、
                どこから入手されたのでありましょうか。

                                     *東春日井郡誌(大正12年発行)にも、「小牧市大字本庄にある八所社は、式内乎江神社にて、氏子は、近郷田中村・文津村・
                 小松寺村・本庄村の4ヶ村であった。然るに正慶年中(1332年〜)兵乱の為、消失して絶社。天正3年 肥前平戸城主 松浦
                                     肥前守の舎弟 松浦讃岐守勝政が、当地に帰農し、社殿を再興。」したという記述があり、地域に残る口伝等が元であろうか。*

                 「倭名類聚抄10巻本に無いところは、顕昭・仙覚・卜部兼永・源善成等の中世の諸学者の増補であろうと。(中略)20巻本は、
                元和3(1617)年 那波道圓によって翻刻せられたものが広くおこなわれ、江戸時代の学者に利用せられた。」とか。京都帝国大
                学文学部・国語学国文学研究室編 狩谷棭斎箋注倭名類聚抄 全国書房版 明治16年刊行本を原版にして刊行した書籍 P.7
                より引用)
                 どこまで上記 諸本集成 倭名類聚抄 外篇 (別名 日本地理志料)は、20巻本の箋注として有用性がありましょうか。
                 倭名類聚抄20巻本 那波道圓によって翻刻せられたものが国立国会図書館では、デジタルライブラリーとして公開されている。
                 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2544218?tocOpened=1 参照されたい。

                 確かに現 小牧市本庄は、かって春日部郡本庄村でありましたでしょう。しかし、天保12年丑8月 本庄村々絵図(小牧市史
                資料編2 近世村絵図編 P.80 参照)には、宇江山なる記載は無い。山の名は、江戸期頃ははっきりしていないかのようです。
                 が、その当時の本庄に居住されていた方達の間では、山の名をどのように言い合っていたのであろうか。

                 * 私も、実際に八所社のある社のある現地を歩き現在の状況を確認いたしました。八所社が建立されているところは、明らかに
                 その周りは谷筋で一つの山と推測出来るようです。地形的には、山の山頂近くに存在する。本殿手前の参道左手奥まった所に
                 は、やや小ぶりの社も建立されていた。八所社の宮司さん方は、参道手前の山裾にあり、松浦姓であり、社を建立された末裔の
                 方でありましょう。八所社の周囲は、新興住宅化が進み、八所社近辺のみ往時の様子のままという印象を受けた。*

                            3.現 小牧市大山に存在した大山廃寺からみた春日部郡
                 天野信景著 「本国神名帳」(写本)でも、室町末期以前の山田郡・春日部郡域の名残りが色濃く残った記述ではあります。ど
                こまで史実に忠実カは分かり兼ねますが、相当旧来の郡域を意識して記述されているとみなせば、上記 「諸本集成 倭名類聚抄 
                外篇 (別名 日本地理志料)も天平期頃確定した郡ー郷についての箋注の内容が、史実かどうかはさておき、かなり踏み込んだ
                見解を述べてみえると理解します。

                 そうした見解から浮かび上がってくる天平期以降の尾張国内の山田・春日部郡ー郷域を拙稿にてまとめています。
                 平安期の山田郡・春日部郡の境についてと式内社についての雑感 参照されたい。

                 現在では、大胆な推測ではありますが、庄内川の南側が山田郡の本体とみなせば、篠木荘は、右手、春日部郡を抱くように、左手
                域を山田郡として伸ばしていたのではないかと。篠木荘園域は、かっては山田郡域の可能性はありやなしやか。

                 仮定の話ではありますが、7・8世紀頃の大山廃寺は、実は山田郡域の天智朝以降尾張連馬身の嫡子?牛痲呂に関わる私寺創
                建とみなせば、春日部郡域では、7・8世紀の勝川廃寺が相当するのではないかと。
                 天野氏による「本国神名帳」(写本)内の記述「従三位 別小江(ワケヲエ)天神 1ニ(入カ或いは大カ)江ニ作ル 神社考燈曰乎江神社
                若子宿禰( 更に隣の行には、)按旧事紀物部印葉連之弟大別連カ」を史実とすれば、乎江神社と若子宿禰の記述を尾張連馬身の
                嫡子? 若子痲呂と解せば、春日部郡内の可能性が高い。

                 上記の仮定を用いれば、冒頭に記述した乎江神社と比定されている6案は、もっと絞れて3案(A・B・C)となりましょうか。本庄村に
                宇江山があったとすれば、宇江は乎江に通づる音韻とも取れそうであり、一歩前進するのですが・・・・・。残念な事に、江戸末期の本
                庄村絵図では、山の名は、何ら記述されていない。地元に住む松浦さんがご存知で有ればと・・・。只、直ぐお隣の林・野口一帯は、室
                町末期では、村の住民が総入れ替えし、断絶が起こったように推測出来る。本庄も神社が、天正期に神社が創建されているようで、住
                民の断絶が起こっていなければよいのですが・・・。只気になるのは、「『郷土史料をあさりて』にては、下末古墳上に宇江社がかって存
                在していたと。大胆な仮説でしかありえませんが、陶主山(下末古墳の別名カ)=本荘村の宇江山と同義語であるとすれば、宇江社とは、
                乎江の神社、本国神名帳魚江天神のことではなかろうか。」( 壬申の乱時 在地の有力者 尾張馬身について より引用)という事。
                 我田引水的な推論カ。後日に期す。                        
                                                                         平成29(2017)年9月17日 脱稿
                                                                         平成29(2017)年11月20日一部加筆